twitter: kaerusan
つぶやく「ラジオ 沼」: radio_numa
■話したり歌ったり
5/29(土)かえる目@試聴室その2(横浜黄金町)
6/4(金)core of bells, HOSE, かえるさん@神戸ビッグアップル
6/6(日)「音の城、音の海」上映会+演奏会@KAVC(神戸)
6/12(土)オールナイト梅田哲也
6/24(木)さよっぺ祭り@ZANPANO(京都)
ライブ情報は、かえる目ホームへ。
2010.3.22「音遊びの会」にて。
「永遠野球」中継中の細馬+中尾。
撮影:松尾宇人さん
昨日に引き続きレコーディング。宇波くんとぼくとでベーシック・トラックを録音。中尾さん入りのやつもいくつか。昼はもうやんでカレー。午後からは主に木下くんが昨日とったトラックにフレーズをかぶせてゆく。ぼくは並行して譜面を書いて、また木下くんに弾いてもらって・・・とやるうちに、とりあえず13曲の録音がほぼ終了。いつもながら早い進行。最後に全員でくだらないアイディアを実行に移す。近くの韓国料理店で打ち上げ。
新潮社の長井さんと打ち合わせ。そのあと、データを見ながら社会言語科学会の発表要旨を書く。
夕方、ヒバリスタジオにて、かえる目レコーディング一日目。リズム隊でベーシックトラックを作っていくのだが、ここで、ぼくのシャッフルからハーモニクスが大量発生していることが発覚。そういえば昨日のライブで「あの高い音はどこから出てるんですか」と訊ねられたが、あれは、ぼくがシャッフルするときにナチュラルに出てしまっているのである。レコーディングではいささか耳障りなので、シャッフルは主に宇波君に弾いてもらうことに。
今日は数曲リズムと歌を吹き込んだところでタイムアップ。焼肉屋で軽く食う。
横浜へ。黄金町にある「試聴室その2」でライブ。店の真ん中には京急線を支える柱が貫き、ときどき電車の通過音がする。京都のZANPANOもそうだが、電車の音がする店というのは、旅情というか、旅の途中感を誘う。
新幹線の中で譜面を書いた「たぬき」を練習。頭の中で鳴っていたときはもやもやしていたが、実際バンドで鳴らすとこれはまた珍妙な曲である。あとは、明日からのレコーディングに備えて、3rdアルバムに所収予定の曲を次々と。なかなかスピード感のある演奏だったのではないかと思う。
別府で会った三沢広紀くんとも再会。その場で打ち上げ。
書類、会議会議、書類、データ分析。夜、mmm@ザンパノ。前日から風邪をひいているというmmm、だからといって声を無理矢理出すでもなく、客席との距離を測るような声の出し方で、次第にその小さい声に聞き入る時間が染みいってくる。自分の声をきいているというだけでなく、はねかえってくる声に耳を澄ませている感じ。歌の張り、歌のふくらみが少しずつ変化する、その歌い方から、耳を澄ませてる感じが伝わってくる。
帰りに疏水のそばを通ると、早い蛍が舞っていた。
はっと目覚めたら9:00を回っていた。すでに一コマ目の開始時間。やってしまった。申し訳ない。
午後からゼミ。グループホームのデータを見せる。三回生の反応は新鮮。
たんぽぽの家の播磨さん、井尻さん、岡部さんが来られる。新しいワークショップの計画。
会議。
御子柴さんとしばしデータ分析。写真を指し示す人。
院生ゼミ。「エスノメソドロジーを学ぶ人のために」を読み合わせ。
会議打ち合わせ。
会議会議。
朝から雨。実習は屋内で。花の名前を調べてもらう。
すっかり遅れて京都へ。コミュニケーションの自然誌は「数学的思考と身体」というおもしろいテーマ。木村さんのは聞き逃してしまい、亀井くんの発表から。数学者の会話で身振りに注目するというのはとてもおもしろいテーマだ。数学的思考がじつは情動と深く結びついているという話は、サイエンスなどで発表されているけれど、身体との関係はおそらくこれから判っていくことだろう。今日は談話の中から身体的な語彙を拾っていくという話で、動詞やオノマトペの使い方に、空間性がうかがえておもしろかった。最後の森田真生さんは集合論から圏論への移行を解説しつつ数学的空間を考えるという話。なにより森田さんの身振りがとても空間的で、対象のトポロジカルな性質を解説するときに手と頭部を連動させながら視点を変えていく手つきがとてもあざやかで、身体表現が豊かな人だなと思った。前々から、重力空間と思考は深く関係していると思っていたので「数学者が無重力空間や宇宙で思考するという事例はあるのですか?」と質問したら、「ぼくは三鷹天命反転住宅に住んでいました」という答えが返ってきて驚いた。
「ポストパンク・ジェネレーション」、なぜかちっちゃいハードカバーを想像してたのだけれど、本屋で手に取ってみると意外に大きな判型(B5)で、ソフトカバーだった。カバーを厚くするより中身を厚くするこの手応え、いい感じ。そして単なるカタログではなく「読める」。ある文化がいかにローカリティに拘束されながら独自の進化を遂げるかを考える書として。たとえば、ペル・ウブにとってのクリーブランドから「インダストリアル」を考える。
ぼくは、ジョイ・ディヴィジョンやスクリッティ・ポリッティかけて部屋でぴょんぴょん飛んでたクチなのだが、彼らのバックグラウンドについては何も知らなかったんだな。
雨がよく降る日。久しぶりにアパートの部屋を片付ける。
PCを打つときにちょっと腕の位置が高くて、腰が痛くなってくる。ならば椅子を高くして、何か踏み台があれば・・・と部屋を見渡すと、なぜか枕木があった。その昔、叡電にしかれていた枕木を、何の役に立つのかもわからず引き取って、コンロの横に転がしておいていたのである。もちろん通常の枕木の長さではなく、数十センチの長さに切ったものだが、けっこう重たい。それを足元に敷くと、あつらえたようにぴったりの高さだった。これからは足枕にしよう。
夜、どしゃぶり。
わからん屋でふちがみとふなと。じつはワンマンを見るのは久しぶり。ふちふなを見ると、いつも背筋がしゃんとする。歌に向かう態度が正直で、すがすがしい。終演後、ゆっくり話せたのもよかった。
シートミュージックの時代にはそもそも複製の方法がなかった。で、その頃は、譜面を弾き唄うことがいまよりずっと、まるであの演奏会にいるみたい、な感覚がつよかったかも?記譜にあらわれない現象を記録するメディアが現れたことで、演奏家の存在が前景化した。サキソフォンはこの絶好のタイミングで現れ、記譜を逃れる楽器として席巻した。
ちょっと暴論を。(現在の意味の)ポピュラー音楽は録音メディアが「あの声を真似たい」という欲望をインストールしたときから始まったのではないか。むろん、それ以前にも、誰かの声を真似たいという現象はあった。が、それがマスに引き起こされた。なぜ1920年代、フライシャーのbouncing ballで映画館の観客がいっせいに歌うことができたか。そこには歌詞と、歌詞のタイミングを示すボールだけがあって、オタマジャクシはなかったのに。それは、そこに、声の複製が埋め込まれていたからだ。
あの寺に帰りたい
|CM7 B7 Em Em/D CM7 D7 G Dm7/G
|C D/C Bm7 Em Am7 Dm7/G
|CM7 Bm7 Am/D G Dm7/G
|CM7 Bm7 Am7/D G|Am7/D G
ちなみに縦棒はおおまかな区切り、スラッシュは分数コードです。Dm on G = Dm/G 分数コードはユーミンメソッドの要。「叱って」と「遠くで」のブレンド。
6/27(日)コードシンコーミュージック(安田謙一、かえるさん)@shin-biがどうやらustreamに流れる模様。遠くで叱って。
川島さんの発表は救急医療の現場データ。「満床」と「処置のみ」と「処置中」の間にある、文書ではわからない現場の苦悩とかけひきを知る。「満床なんです」という病院側、「満床なんですが」と食い下がる現場側。どちらも手いっぱいの中で、ないはずの隙間を見出そうとしている。息詰まるトランスクリプト。
アパートの部屋の窓を開けっ放していたらカメムシが入ってきた。電球の傘にあたっては、ちんちんと音をさせる。
本を作ることは、formlessなものをdefiniteにする、つまりdefinitionだと言い換えてみる。定義とは、輪郭を作ること。http://craigmod.com/journal/ipad_and_books/
天文台もなかが、送られてくる。ドームにかかる、愛らしい文字の包み紙。 嗚呼、これからは、しっぽまで、は、ドームまで、になります。
実家に。大人が話しているあいだ、甥はyoutubeでウルトラマンFE3を見ている。ウルトラマンのテレビをみたことがある?と聞くと、ない、という。それで、妹と甥はウルトラマンのDVDを借りてくる。甥と並んでウルトラマンを見る。
夜半、大友さんのJAMJAMラジオ。JOJO広重さんがゲスト。意外にもしっとりした内容。森田童子のうた。「ぼくひとりではやっていけそうもないよ」とそこで言われるとは思わなかった、油断した。
「サキソフォン物語」を読んでから、じつはほとんどきいたことがなかったコールマン・ホーキンスやビックス・バイダーベックに耳傾けるようになった。ジャズというよりは、楽器による声の実践者として。
コールマン・ホーキンスは、サックスではなく、歌手であるカルーソーをお手本にしていたという。あの人みたいに吹きたいサックス。あのサックスみたいに吹きたいサックス。の歴史。
蟲文庫さんに「天文台もなか」なる和菓子の存在を教わる。あまりにその姿が愛らしいので、うたをつくってしまった。http://12kai.com/kaerumoku/tenmondai2.mp3
旧グッゲンハイム邸で覚えたモヒートを作る。庭(じつは共有地)で繁茂するミントを、わしっとつかんでラムに放り込む。レモンを入れて炭酸じゅわー。シロップ入れてもいい。さ、夏だ夏だ。
今日こそはと、酒遊館へ。今日はまちがいなかった。開演前、尾木商店でお茶を飲んで出ようとしたら、昨日ちらしを置きにきた方に出会ってびっくり。
会場は大入り満員。メンバーもぐいぐい日本酒を飲みながら、ドライブのかかった演奏。郁子さんはきゃしゃなのにピアノの音はとてもくっきりしている。
外で売ってたクラムボンの冊子にアメヤさんが出てた。ひとつぐっとくることばがあって、それは、「悪」と戦う、のことを思い出させた。
午前中、学生たちと湖畔の道なき道をゆく。5月のワイルドネス。一年で最良の天気、といいたくなる日。
夕方、クラムボンを見に近江八幡へ。初雪食堂で腹ごしらえをして酒遊館に行ってみると、暗くて、誰もいない。どうしたのかと思っていると、女性が一人、ちらしを持って入ってきた。「何を見に来られたんですか」「クラムボンが今日あるんです」「え、それは明日じゃ・・・」そばのちらしを手にとってみると、確かに明日の日付だった。へなへなへなへな。
外に出ると6時の鐘。魂抜け状態。
気を取り直して、駅まで戻り、しばし仕事をしてからMYCALでアリス・イン・ワンダーランドを見る。
アリスは「サイズ」の物語だ。サイズは単なる大きさの概念ではない。視点と距離によって構成される概念だ。だから、3D(ステレオ)でサイズを物語るには、2Dにはない視点と距離の文法を作らなければならない。
たとえば、小さくなったアリスが透明なテーブルの上にある鍵を見上げる。カメラはアリスの視点に立つ。さて、距離をどうとる?アリスは小さくなったから目の幅も小さい。じゃ、小さい視差をとるか?それとも、人間の目からみた、巨大化した世界を見せるか? それはどのようなシークエンスによって実現されるべきか?
3D演出家は(そんな職業があるのかわからないけど)、主体のサイズが変わることによって主体の感覚はどう変容するかを考えねばならない。そして、それを、奥行き世界を変化させることによってどう観客に伝えるか、という難問を解かねばならない。それはチャレンジするに値する難問だけれど、「アリス」がその問題に立ち向かっているようには、残念ながら見えなかった。
6/27(日)、shin-biにて安田謙一さんと音楽話を。その名も「コードシンコーミュージック」。安田謙一「辛(つら)そうで辛(つら)くない少し辛(つら)いロック漫筆」(またしても!)、細馬宏通(かえるさん)「ポップス模写」。
夕方、トランスポップギャラリーに久しぶりに寄る。小田島等「ANONYMOUS POP」。すばらしきアイディアと実践の数々。いいなと思ったあれもこれも小田島さんだった。やられたなあ。今度お会いしたらもっとちゃんとしたことしゃべろう。人の白目はいかに描かれうるか、とか。
南彦根駅に降りると、月に星。誰のしわざ?
朝、スタバのカウンタで注文をし終わったら、ぼくのうしろからぬっと手が出る。振り返ると、後ろのおじさんが「すたーばっくてら」と核心にみちた声。黄色いランプのしたでも、「すたーばっくてら」。
天気がいい。彦根から長良川をこえて。遠く北アルプスが見える。長久手・文化の家で「乱歩・白昼夢」。乱歩、十二階、うつし絵と、好きなものばかりでできた演目。好きすぎて、なんだかうわずった感じで時間がたってしまった。やはり、うつし絵の風呂をもっての移動演出はすばらしかった。宇野亜喜良氏の絵が場内のあちこちに映し出されるのにぐっときてしまう。
京都へ。湯浅学、いしいしんじ両氏のSP鑑賞会に。ビートルズ観が変わる音源の数々。ぼくは最後の1時間半ほど(すでにサージェント・ペパーズ...まできていた)しかいなかったのだが、他の人たちは1時くらいからずっと聴いてたのだ。すごいな。終演後、楽しく飲む。安田さんとshin-bi で何かをやることに。
山路製めん所からうどんが届く。うまい。ゆで汁ととろろ昆布と醤油、ときどき梅干し。
「「悪」と戦う」を読み終えて、いまは出先のロッテリアで、本はここにはない。ないけれど、ランちゃんやキイちゃんやミアちゃんのことを考えてます。携えることのできる物語。ここは考えるための公園。 @takagengen
posted at 18:59:04
夕方、shin-biへ。大友良英、近藤達郎、阿部芙蓉美「その街のこども」ライブ。
終演後、阿部芙蓉美さんに、声帯がふるえるかふるえないかのエリアがすごく豊か、という感想を申し上げたら、歌の話に。阿部さんは卓にあったちらしを手にとって口の間近にかざし「こうやって壁の前で、はねかえってくる声をきくのが好きだったんです」。わあ。壁になりたい。
いつか阿部さんの、マイクなしの歌をきいてみたいな。昨日のshin-biくらいの広さならいけるんじゃないかしら。きっとすばらしいはず。
3回生のゼミ配属が決まって最初のゼミ。シンプルな例を見ながら、会話分析とジェスチャー分析のイントロダクション。まずは、ほんの一秒の間に起こっているできごとの濃密さに驚いてもらうところから。午後は4回生のゼミ。ELANの使い方を覚えてもらう。書類。ミーティングなど。
今日の @takagengen さんの話は、ほとんど音楽のことのようだった。なにが起こっているかわからない場所で、その「世界」がどんな法則で動いているのかを真剣に探ろうとすること。そこでは、発し手もまたきき手にすぎない、と読み替えてみる。演奏者は、譜面や取り決めとは別の、「世界」の法則を探っている。そう考えると音楽をかなでるためのAが聞こえそうな気がしてくる
マイケル・シーゲル『サクソフォン物語』。思わぬタイミングでよい本が。19世紀から20世紀のヴォードヴィルの歴史に引かれる補助線として。サクソフォンの輝かしくも禍々しい歴史。
うつほうつぶすうつわもの うつろうつろひうつりゆく / 空俯す器物 洞映ろひ移りゆく
夜、「『悪』と戦う」を買ってきて読む。
院生ゼミ。3人会話のデータセッション。会議。
このところ、高橋源一郎さん@takagengenのツイートが夜中から始まるので、それを、ラジオをきくように読んでいる。
昨日は夜半過ぎの琵琶湖線最終列車の中だった。読んでいるとダーガーの話が出てきたので少なからず驚いた。
昨年、ぼくはある美術館で、ダーガーのことと、作品を見届けることについて話したことがある。けれど、ぼくは、見届ける側の視点をとった。高橋さんのツイートは、書くことの孤独に立つものだった。書く者が見届ける人のことを念じる、ということと、じっさいに見届ける人が現れる、ということとはイコールではない。けれど、見届け人が現れようと現れまいと、作家は書いてしまう。ぼくはアールブリュットの作家たちをとりあげて、その外皮のことを書いたけれど、高橋さんは外皮の中の柔らかさ、ザムザのことを書いた。この視点の違いは、大きい。外皮の中に潜り込むための何かが、必要なのだ。
ダーガーを見届けることについて書いたのは、以下の文章。これはこれで一つの立場から為された論なので、リンクしておこう。クリックで全文が読めます。
「身体は繰り返す 美の術と身体の術」
http://12kai.com/darger_art.html
殻の内側の柔らかさ、というと、昨年の村上春樹氏のイスラエルでの講演のことも思い出す。あそこで行われている「卵」の感覚は、おそらく、ザムザの内側と通底している。あ、海辺のカフカ、だ。
夕方、敦賀のpinion pinionへ。タラ・ジェーン・オニールと二階堂和美ライブ。敦賀は南彦根から一時間。時間的には京都に行くのと変わらない。雨がふりしきる中、屋内でのライブ。ほとんど客と膝詰め、くらいの位置でニカさんが歌う。ぎゅうっと倍音がふくらんで、不思議な響きが、か細い体から放たれる。ニカさんが、そのまま声になっている間近さ。ブルースの予感。ブルースがおりてきたらニカさんに送ろう。
タラはアコギでの演奏。確かで美しいストローク。「もっと大きな音でやってもいいんだけど」と言いながら、あえて小さい音を楽しむ風情。最後はタンバリンが場内に回されてちょっと大きめの演奏。アンコールに後ろ髪ひかれたが、最終電車に間に合わせるべくお暇する。
会議会議。
夕方、中崎町コモンカフェへ。今日は合奏の会による、仮想ラジオ番組(といったらいいのか)。ラジオ番組を想定して、みやけをくんがエクセルシートにびっしり書いてきたコーナーの数々を実現するべく、リハする。
驚いたことに、みやけをくんは、この日のためにテーマ曲まで書いてきているのである。そのメロディとアレンジはキダ・タローを聴き続けてきた関西人ならではの、あの感じ。メンバーは、
山路知恵子:ドラムス(法事アンサンブル,yumbo)
矢田伊織:ドラムス(法事アンサンブル)
みやけをしんいち:ソプラノサックスとか(法事アンサンブル,melagukan)
カメイナホコ:キーボードー(ウリチパン郡)
中尾勘二:管楽器や打楽器など(四コマ音楽,かえる目)
細馬宏通:案内役や歌など(四コマ音楽,かえる目)
西川文章:ギター(法事アンサンブル,かきつばた)
本日の私の役回りは、「あまり声をはらずに」とのリクエストにお答えして、淡々と狂ったナレーションをするというもの。中尾さんが隣で淡々と狂っていくので、相互作用的にゆくえのわからない番組となる。
番組中、生CMのコーナーがある。何のCMにしようかと思い、本番中に、お金のCMはどうかなと思いつく。「今日は、この四角い紙切れのご紹介です。さ、中尾さん、どうですか」。隣の中尾さんに千円札を渡す。「うーん、これは四角いですねー」といった調子で5分くらいCMをやったのだが、経済人類学的妄想が捻転して、とちゅうでほんとに頭がおかしくなりそうだった。お金はおそろしいよ・・・
新開地へ。早めに入って他の人の話を楽屋でききながら「そこはもしかして」とか「それそれ」とか合いの手を入れる。とくに岩崎和夫さんのアニソンの話は、一時間が適確な構成でまとめられて、楽屋で「番組をやっておられる方はちがう!」と賞賛の声が。森本アリくんが安売り棚から拾ってくるCDの話や、佐藤武紀さんの小室サウンドの中に分け入り過ぎる話(「ずっと声が鳴ってるので、声が不在の間奏というものが存在しない」は目ウロコ)もおもしろかった。
じつはみんながCDを持って来てるのにぼくはまるで持って来てなかった。というわけで、ギター(昨日のライブ用にもってきてたやつ)で弾き語りながら楽曲についてあれこれ語るという手法に。
佐々木さんのお話を途中まで聞いたところでタイムアップ。彦根に戻る。
旧グッゲンハイム邸へ。
かえる属は軽く音調整、テニスコーツのお二人、江崎さん、信記さんと音合わせ。この時点でまだペットのフレーズは確定していなかった。
ほどなく本番となる。今日は出番がトリなので、やるまでに数時間ある。いつもは演奏前は飲まないんだけど、こう長いと飲まざるを得ない。屋台でモヒートなるミントがどっさり入ったカクテルを飲むと、もうすっかり夏が来た。一杯一杯復一杯。ゆるやかに酩酊してはいるがもちろん音楽をきいているのである。出るバンドすべてがすばらしく、目覚ましい。軽音楽バンドの庭らしさ、水谷トリオの禍々しい昼、アリ+藤本優の譜面音楽をさらに図形化するみやけをイラスト(次回はこのイラストを譜面にして吹いたらええんちゃうか?)、bikemondeはフルバンドで日常の屈曲がいやます。ギターと二胡が手術台でジャキーンと出会うNRQの伊達男ぶり。モヒートはますます進む。合間に江崎さん、信記さんと口三味線で打ち合わせ。
テニスコーツの庭での演奏は、先日見たビデオの印象と比べてもいっそうすばらしかった。旧グッゲンハイム邸は山陽電車とJRの線路が間近い。マイクを使わないさやさんの声は電車の音にかき消える。ほとんど聞こえないと言っていい。けれども、それは、きこえている感じがする。二人は演じながらポジションを変えていく。さやさんが庭の端へと歩いて行くと、声は確実に遠ざかり、それに耳を澄まそうとすると、風のそよがす庭木の音の解像度が、ぐっと上がる。
屋内ではさりとて謎めいた会話、「ちょうちょ」までもが拍手にはさまれた一つのピース、ゑでぃさんの歌が部屋のうしろまでぐっと沈殿するのをきく。梅田くんの戸外活動の気配を察しつつ二階で中尾さんと軽く打ち合わせたのち、数曲ほど かえる属。テニスコーツとの「女刑事夢捜査」はリハとまるで違った。そして、信記さん、江崎さんが加わり、気がついたらさやさんが色違いの傘を二本手にしていて、マジックが訪れた。というか、あ、ここからマジックが始まるのだなと了解した。雨の歌をうたう。
ここ神戸の邸宅に、(自分はさておき)どれをきいてもすばらしいバンドがゆるやかに集まっている。iTunesでもamazonでも検索できない組み合わせで。
終演後、神戸宿泊組で二階で打ち上げ。杉本拓さんや牧野琢磨さんというすばらしきギタリストを前に、知ってる曲(日本昔ばなしとかハトヤとか黄桜とかいなかっぺ大将とか)をかたっぱしからコード弾きという、例によって困ったモードに。ゆうこさんがブルースを弾き始めて杉本さんがソロをとる珍しい場面も。
寒くなったのでTシャツを重ね着。それを見た牧野さんが「あ!湯浅湾のTシャツだ」「そうです、いいでしょ」「・・・おれ、湯浅湾のギタリストっすよ」「あ、そうだった」(そうだったじゃない)。
朝、等伯をやってる国立博物館に行こうとしたが、タクシーの運転手さんが「この雨で二時間待ちでっせ」と、呪詛のような声で言う。そうですか、じゃあ別のところへ行きましょう、というと「もう等伯終わる思たらせいせいするわ」。あの混んだ東山七条のあたりを何度もワンメーターで往復してうんざりなのだという。
彼の薦めにしたがって、智積寺へ。中は思ったよりずっと広かった。等伯の十六羅漢図を見る。つつじが満開の庭がすばらしい。
でも、博物館の等伯も見たかったな。
夕方、shin-biへ。リハを終えて下のカフェでbikke、田中亜矢さんとお茶。本番十分前に来た料理をがーっとかきこんで急いで3Fに。トップバッターはわたくし。本日は古いカバー多めなり。bikkeの凛とした歌。亜矢さんの澄んだ歌。
吉田屋に移動して愉しく飲む。
今日、bikkeが歌ったダニエル・ジョンストンのカバー(ふちがみさん訳)。歌い続けることの孤独さ、そして歌うことで支払われる、なけなしの勇気のこと。年を重ね、歌うたびに/歌わなくとも続く、ある感触。ぼくは遅まきながらようやくその感じに触れ始めたところだけれど、幸いすばらしき先達が間近にいる。
会議にゼミ。
夜中、テニスコーツのさやさんからメール。いっしょに「雨にぬれても」やるのはどうか、ということに。英語の歌詞は覚え切れそうにないから、日本語にしてみる。あ、なかなかいい感じ。
このところ、夜中、高橋源一郎さん(@takagengen) のtweetを読んでいる。ラジオの前に坐っているような気持ちで。
昨年、緑の手をもつお隣さんからのお裾分けを植えてから一年。ツタもミントもよく育った。タイムが絨毯化したので、お隣さんにお裾分け。余ったのは、バターとぐにゃぐにゃ混ぜてタイム入りバターに。
並木の足元が黄色い。コメツブツメクサの季節。
ギターの練習。左手の動きが固くてうまくコードが押さえられない。で、ふと思いついて、左手の肘をぐらぐら動かしながら弾く。すると、速く楽なポジションにたどり着くことに気づいた。肘はいつでも動く、という感覚が、自分にフィードバックされる。見た目が不穏なのが難点。
東京人6月号(いま売ってるやつ)の書評に「ピアノを弾く身体をきく」。ローゼン「ピアノ・ノート」、吉田秀和「永遠の故郷」「之を楽しむ者に如かず」の三冊を。これまでの書評は http://12kai.com/tokyojin_index.htmlを。
ふと「アテンションプリーズ」の主題歌を思い出す。紀比呂子と范文雀が共演していたドラマ。あの曲の「わたしはとぶ」のところのコード進行、飛ぶとは思えないものがもしかして飛ぶのか?という緊張があるなあ。フーディーニがストレートジャケットの中で腕を抜く経路を探り当てる手つきに近い。
アテンションプリーズとフーディーニについて。
この放送をダウンロードする <
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園田さんのご案内で、ゆうこさんと瀬田にある一軒家を見に行く。彦根にもう15年いるし、なんとなく転居するのもいいかな、と思ってのこと。実際に見て見ると、住む住まない以前に、そこにかつて暮らしていた人の生活が生々しく偲ばれて、もうお腹いっぱいという感じだった。
ぼくはちょっと京都へ読書に。夜に合流して、大津のとある食堂で夕食。パーフェクト。
No Applause--Just Throw Money: The Book That Made Vaudeville Famousと、The Secret Life of Houdiniを読み進めている。ヴォードヴィル史に輝く人々(といっても、Vaudeville, Old and New: An Encyclopedia of Variety Performers in Americaに載ってるような人、ということだけど)が次々に現れておもしろい。
近江鉄道で太郎坊宮へ。ぎょっとするような岩の割れ目から本堂へと抜ける。ウタキに似た結界。
本堂と反対側にはハイキングコースがある。見上げると、ずいぶんと急な山に見えるが、ぐるりと勾配の低い道が通っていて、手頃な道。山道の脇のそこここに小さなつつじが咲いている。よく晴れて、あちこちの開けた岩場から広々と湖東の山々と田園を見渡すことができた。
近江鉄道で近江八幡に移動。自転車を借りて八幡堀まで。茶楽の上でお茶を飲みながら文献を読む。
近江八幡駅近くのとあるステーキ屋に入る。一人だけ来て数千円の近江牛を食べてさっと帰る人がけっこういるので驚く。小心者のわたしは安いセットを頼んだが、前菜からデザートまでパーフェクトな味だった。近江八幡の肉文化恐るべし。行楽の一日。
夜、MYCALで、「第九地区」を見る(そういえば今日は映画の日だった)。「ニューヨークでもワシントンでもなく、ヨハネスブルクに宇宙船が来るなんて」という人を食ったコメントから始まる宇宙人映画。
最初はドキュメンタリータッチのカメラ編集で、主人公を写すカメラも組織の記録映像として撮られていて、あれあれと思わされる。が、主人公が組織から分かたれていくあたりからこの手法が手詰まりになっていく(主人公が組織から離れるので、当然、組織のカメラでは追えない部分が出てくるのである)。この辺から、「この映像を撮っているのは誰か」という問題が失われて、物語の勢い重視、エビ重視の展開になる。この勢い重視を、文法の歪みと見るか、映画のおもしろみと見るかで意見の分かれるところあろう。主人公はいかにも利己的でヤなところが各所で突出しており、ほかの登場人物にもロクなやつがいない。唯一、エビエビした宇宙人のこどもだけがまっとうで、その子が出てくるとほっとする。思わぬ感情を喚起させられる映画だった。