- 20010322
- 東京へ。国会図書館。
内田百間の「花袋忌」に、百間の投稿作が文章世界で優等をとり、花袋に誉められた思い出が書いてある。となれば、原文を読みたくなるのが人情、というわけで、文章世界を1号からざっと読んでいく(他にも目的はあったんだが)。で、ありましたね。「文章世界」第一巻八号(明治39.10.15)。内田流石「乞食」。書き出しはこうだ。
「右や左の御旦那様や奥様」 女乞食が好い声で歌つて来る。秋の夕日を背に受けて爪を切つて居た僕は、何故か其声が非常に趣致のある様に思はれて、早く次ぎを歌へば好いと待つて居る。
すでにして百間のスタイルが出来上がっている。特に「待つて居る」と現在形で終わっているところに、語り手に夢の現在形がふいに訪れる百間節。 ここから乞食は「僕」の家の前にやってきて、「僕」は飯をやる。椀から椀に移した飯がボールのようになる。その乞食が帰った後。
後で、蓆を取り込まうと出て見たら、その上に五分程の白い虫がウネクネして居る。汚い。尻からでも出たのか知らと思つて居る内に、隣の鶏が来て嚥んで仕舞つた。
これに対して、花袋が評を加えている。的確な評だ。
おもしろい写生文である。普通の観察ならば、乞食は可哀想だとか、又は其歌が形式的でいやだとかいふのだけにて、これが却つて興味あるやうに見たところが既に他に異つて居る。従つて観察が純客観で、見るべき処を細かによく見て居る。飯を器に宣(あ)けてやる処も面白いし、其前の岸の上に嘔を下しうして飯やら饂飩やらを食ふ処も妙だ。ことに最後の「隣の鶏が来て嚥くて了つた」が実に面白い。かふいふ写生文はどしどし投稿して貰ひ度い。
花袋はこの「乞食」がよほど気に入ったらしく、後の「写生といふこと」(文章世界第二巻一〇号)で、乞食の写生を例に挙げて、「人間には平面と立体の二面がある。自然は横にも広がつて居るが、縦にも広がつて居る。自然にしろ、人間にしろ、平面の観察は余り難かしいものではない、少し眼が明いたものは誰でも出来る、けれど立体の観察はいろいろ豊富な複雑な材料からつかんで来なければならぬから非常にむづかしい。これが為めには作者(観察者)は眼ばかりでなく、心の修養をも積まなければならない、心が出来て居なければこの立体の正しい観察をすることが出来ない。」云々と論じている。
「文章世界」には、「新語集」という項があって、ここに当時の新語についての解説が載っている。文章作成のよすがに、ということだろう。軍事ものや科学ものが多いのだが、試みに抜いてみると
自然界 天然に出来たる世界の意味。即ち人間の力にて造出し能はざるもの、普通動物植物好物の世界を云ふ。 自然淘汰 自然の作用に俟(よ)りて動植物の形態の変化すること。 人為淘汰 人類の手段に俟(よ)りて、動植物体に変化を及ぼすこと、即ち一重の花を八重に咲かせ、鮒を金魚に変化せしめるが如きこと。 遺伝 とは子が其親に肖(に)るの傾(かたむき)あるを云ふものにして、親子共に同一の境遇に至らしむれば、形状性質は、全く相違せざるべしと云ふにあり。
遺伝の説明には遺伝子は入っておらず、獲得形質のことなのか遺伝なのか判然としない。
道端にあった「料亭の味」というのぼりを「科学の味」と間違える。最近、こういう誤読をしてしまうことが多い。どうも意識にスキマができているらしい。
NHKでインパクのミーティング。プログラマの久松さんは若いのに話ができる。それにしても、7時から11時まで、毎度ながらミーティングがすごく長い。ぼくにとっていいアイディアが二、三個出るので結果オーライなんだけど、こういうもんなのかしらん。 カプセルにでも泊まろうかと思っていたが、表参道に宿を取ってもらった。これなら国会図書館まで半蔵門線で一本だ。ありがたい。
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