どう考えてもいくつかの仕事は積み残さざるをえないことがわかった。あきらめて出発前の残務処理。あきらめたとたん、仕事がはかどるから不思議 だ。対面実験をすべてムービーにしてパソコンにぶち込む。もっとも、これを向こうに行って見る気になるかどうかはわからないが。その他、あれこれ文献を見 るうちに徹夜。
さらに。読売のCD-ROMを検索しまくって、のぞきからくりの歌(からくり節)の元ネタとなった事件を洗い出してみる。検索語の選び方に難儀したが意外にたくさん見つかった。「首なし」はだめだが「バラバラ」だと見つかる、など。
大学にくるとどうしても用事がたくさん発生する。大学に来ないほうが仕事がはかどるのだが、そうもいかない。
さらに。
夜中、気晴らしに「北北西に進路をとれ」をDVDで。すっかり筋を忘れていた。エレベーターのシーンは覚えていたのだが。
長い間着手してなかった「継子いじめとのぞきからくり」の論文。最初は古式ゆかしく、話型の分類をして終わり、にしようと思ったが、結局どんどんふくらんでなかなか終わらない。
あいかわらず暑い。
彷書月刊9月号に「十二階入りの紙箱 浅草十二階と名所絵葉書」。
あ、そうだ、これを紹介するのを忘れてた。山下里加さんとのメール交換日記「猫道を通って日記を届けに」を、充実のオンラインマガジンlogにて公開中です。
一昨日、稲場夫人に資料のお礼の電話をかけたとき、「そういえばNHKのニュースで磐梯山の写真が見つかったって言ってたんですけれど、もしかしたらバルトンじゃないのかしら」というお話を伺ったのを思い出した。
電話のあとですぐに見たasahi.comの記事にはそうした報道はなかったのだが、もしや日が経った今ならと思ってネット検索をかけてみると、河北新報に該当記事があった。どうやら明治21年の噴火の写真に相違なく、しかも東大研究チームの資料とともに出てきたとい
う。となればバルトンの撮影である可能性が高い。
さっそく国立科学博物館に電話をして、研究員の方にお話を伺うと、幻灯写真の隅に「バル」というカタカナが刻まれているものが24種類中11枚あるということだった。少なくともこの11枚については、バルトンの撮影である可能性が高い。
これはえらいことだと思って、磐梯山噴火当時の資料をあれこれ繰るうちに、磐梯山の噴火を写した幻灯写真は、日本の写真史、幻灯史の中でも、極め
て興味深い現象であることがわかってきた。そこには、バルトンのみならず、後に宮沢賢治や石原完爾に影響を与えたことで知られる田中智学の名前も挙
がってくる。この経緯をまとめておこう。→田中智学と磐梯山噴火幻灯写真
ようやく夏らしい天気になってきた。そろそろ執筆を、と思いながら大学にいる限り襲ってくるさまざまな用事。
夜中、行きがかりでビッグバンド部の部室を襲い、そこでエレピを弾きながら二時間ぐらいがなり続けた。冷房のない夏の部室は蒸し暑く、居合わせた学生たちは「先生、ヘンやで」といいながらつきあってくれた。
なるべく避けるようにしていた非常勤先の採点だが、明日が〆切なのでがーっとやってしまう。160人分、コーヒー飲んだりフリスクぼりぼり噛んだりしてだましだまし10時間。郵便局の窓口がしまるぎりぎりに滑り込ませてセーフ。
最大の問題は、自分にこの種の持続力がまったくないことだ。10枚くらい答案を読むと、もううんざりする。自分が講義で言ったことが、まるでサンプリングのように脈絡なく表われ、妄言中枢を刺激するのでうるさくてしょうがない。
たとえば、「手続き記憶の例をあげなさい」という問題に対して「横山やすしが電話をかける」という答えをしている学生がいる。一瞬、自分の頭がおかしくなったのかと思ったが確かにそう書いてある。
そういえば、「手続き記憶」に関する講義中に横山やすしの話をしたことがある。
むかし、横山やすしが、NHKの「満点パパ」という番組に親子でゲスト出演した(やすきよで出ていたように思うがよく覚えていない)。息子の一八
はまだ小学生で、番組の後半で「大きくなったらお父さんのように漫才師になりたい」と発言した。ほな何かやってみせい、ということになり、やすしは一八に、その場で公衆電話をかけるところをやるように言った。
一八はまず、受話器をとるしぐさをして「もしもし」という。やすしすかさず「あほ、ダイヤルも回さんと電話がかけられるかい」。今度は受話器をとってダイ
ヤルを回すしぐさをすると「公衆電話やろ、金入れなかかるかい」。そこで、10円を入れて受話器をとってダイヤルを回そうとすると「あほか、先金入れた
ら、金が落ちてくるやないかい」。
というやりとりがすでにして漫才になっていて、わたしは、やすしの凄さに唖然としていたのだった。
手続き記憶=言語化できないが身体が覚えている記憶、と教科書や事典には書いてある。
しかし、わたしたちの身体は、何の手がかりもなしに手続き記憶を覚えているのではない。
木村一八がうまく電話をかけられなかったのは、単に彼が小学生で記憶があいまいだったからではなく、そこに「電話」とい
う手がかりが欠けていたからだろう。
目の前に公衆電話があれば、電話がもたらす手がかりに従って、わたしたちは電話をかけることができる。が、目の前に電話がないと、「手続き記憶」なるも
のは簡単に揺らいでしまう。じつは手続き記憶というのは、環境に埋め込まれた手がかりとの相互作用によって身体から記憶が引き出されていく過程を言うのであって、何もかもが身体
に閉じこめられているのではない。
自転車に乗ることを言語化するのは難しいが、自転車を前にしたとたんにわたしたちはひとつひとつの動作を言語化することなく自転車にまたがりこぎだすこ
とができる。自転車に乗ることは一種の手続き記憶である。しかしそれを「身体が自転車に乗ることを覚えているからだ」と言っただけでは足りない。確かなサ
ドルの感触、ハンドルの握りとブレーキの位置がもたらす掌の開き、どこかに届こうとする足とそれを受け止めるペダル。そうした手がかりが自転車に埋め込ま
れているからこそ、わたしたちはあっというまに自転車に乗れてしまうのであって、自転車のない場所で、そうした所作をせよといきなりいわれても途方に暮れ
てしまうのがオチだろう。
このように、素人の身体は、手続き記憶を再生しようとしても、環境が欠けたとたんに迷いだしてしまう。だからこそプロの漫才師になるためには身
体を訓練させなければならない。環境を欠いた状況にあっても、自分の身体の動きから逆に環境をあぶり出し、観客の前に環境をありありと見せなければならな
い。
やすしは、環境なき手続き記憶の迷路でうろうろする息子にツッコミを入れながら、漫才師が獲得すべき身体のありようを示したのである。
やすしの身体は、環境を欠いた舞台の上でも、その場面をありありと表わすことがあった。ボートに乗ったり車のシートに腰掛けて運転する所作の、絶妙に横柄な手さばきと足さばきは今でも忘れられない。
しかし、やすしは、単に、手続き記憶の再生に適した身体を持ち合わせていたのではない。むしろ彼は、舞台でも現実生活でも、 さまざまな失敗を犯してしまう身体を持ち合わせており、その
いっぽうで、自分や他人のささいな失敗をすかさず言語化して拾い上げた。殴打も舌禍も才能の裏返しであった。
失敗する身体というボケ。それを事後的に拾
い上げる言語というツッコミ。この二つをあわせ持つやすしの才能があればこそ、やすきよは、ボケとツッコミを自在に交代させる稀有な漫才コンビとなった。
やすしは、手続き記憶が停滞するわずかな瞬間を見逃さず、言語を活性化させ、その停滞を明らかにする。「相方」がいるときにその活動はもっとも輝い
た。わたしが目撃した「満点パパ」の一シーンは、たまたま息子という存在がやすしの「相方」となりえた幸福な瞬間であった。
トレードマークのメガネは、いわばやすしの身体であり、落としたメガネを「メガネメガネ」と探すあの仕草は、言語によって自らの身体を探し当てようとす
る彼の漫才のそのものだった。思わぬところにメガネを探し当てる言語のスルドサと、拾い上げる先からずり落ちてしまう身体のカナシサに、わたしは見ほれて
いたのである・・・
などという妄言を講義中にべらべらとしゃべったのだった。
別に、こういう話をしようと思って講義に臨んだわけではない。身体と記憶の話をしているときに、「そういえば」と、頭の中のエピソードの一つが活性化し
て「やすしが親子番組に出た話」をしゃべり出す。しゃべり出すまでは、エピソードの細部は見えていない。しゃべるうちに自分でも、ああそういう話だったと
思い出す。思い出してみると、それがこれまで話していた「手続き記憶」の話とややずれていることに気づく。気づいてしまった以上、もはや「このように手続
き記憶は身体に埋め込まれているのです」というようなオチではまずい。まずいので、「手続き記憶というのは身体と環境との相互作用である」と軌道修正す
る。しかし、それではやすしの凄さをとりこぼしてしまう。というわけで、身体と言語の関係を付け足して解説する。
かくして、いらぬエピソードを自己フォローしながら妄言をのべていくうちに、教科書的な概念は多少なりとも深まりを見せ、自分でもしゃべりながら思わぬ発見をする(こともある)。
講義中の妄言モードは、自分でも先が見えないだけに、我ながら楽しみではある。が、聞いている学生のほうは、思わぬ方向に話のハンドルを切られるので、めまいがするかもしれない。
テストは持ち込み可で、学生たちはノートをみながら答案を書いている。「やすしが電話をかける」と答案に書いた学生は、おそらく講義中に、「この
先生は何を言い出すのか」と思いながら、「やすし」「電話」などと断片的なメモをとったものの、さっぱりわからなかったのかもしれない。あるいは誰か他人
のノートをコピーしたものの、やすしと電話と手続き記憶にどのような関係があるのかと、途方にくれたのかもしれない。
いや、もしかすると、こんな講義をわたしはしたことがなく、ただ「手続き記憶とはやすしが電話をかけるようなものなのです」などと口走っただけなのではなかろうか。この学生はそれをただ忠実に書いているだけではないだろうか。
そんなことを考えていると、赤ペン持つ手はすっかり止まっている。
漱石の日記の自筆が見たくなり、それなら東北大学に行くしかないかと思って試しに東北大のサイトで調べてみる。が、直接現地に行った場合でも、ど
うやらマイクロフィルムによる閲覧になるらしい。まあ国民的作家の生原稿だからおいそれとは見せていただけないのはしかたがない。
ちょっとがっかりして、さらに調べると、スキャンデータのPDFがあることに気づいた。→東北大学学術情報ポータル
ダウンロードしてみると、おお、手帳の表紙まで入っている。中身は、ちょっとディザがかかっているが、筆圧の変化もわかる精細さ。あちこちに自筆のアウラを感じとることができる。すばらしい。
生原稿拝見はもう少しこちらのステータスがあがってからということにして、とりあえずこのPDFでかなり楽しめそうだ。手元の漱石全集とつきあわせれ
ば、先日来練習している草書体を読む訓練にもなる。どうせなら漱石の自筆が読めるというのを目標にするほうが勉強になるというものだ。
雨。絵葉書趣味に一枚の絵葉書から(15)明治43年東京大洪水を追加。最初は洪水絵葉書の話にとどめるつもりだったが、漱石の話がどんどんふくらんでしまい、さらにその2として
8月の洪水、修善寺の大患を追加。
絵葉書趣味に一枚の絵葉書から(14)「顔を洗わず絵葉書買いに」を追加。(12)を一部改訂。「虞美人草 --対比の博覧会--」(旧「虞美人草と博覧会」)改訂追加。
再び大阪へ。中央図書館で昨日検索でヒットした文献を検索。「覗き眼鏡の口上歌」他。ここは朝日、毎日、郵便報知、時事新報など各種新聞の縮刷版が揃って
いるのでコピーなどの空き時間に読むのだが、どの新聞も明治後期から大正にかけてがざっくり抜けているのが惜しい(途中で予算が削減されたのだろうか)。
東京朝日の明治43年8月の記事を追いながら、漱石が「思ひ出す事」で、我が身への不安に重ねるように書いている大洪水の様を読む。
grafで白山陶器展。青と白のシリアルプレートを買う。
フェスティバルゲートへ。ここはこの1,2年でアート系の事務所やイベントスペースへと変貌しつつあり、四階のCocoroにはかなよちゃんやミホちゃんがいるし、remoには雨森さんがいる。しばし道草。
それから上のBridgeででかい音のライブ。どのセットもボリュームが大きいので頭が直接鳴らされてる感じ。わたしが買ったまま放ってあったギターは
Yukoさんによりめでたく再生した。音叉のでかい音。小島さんのティピティピ言う立体音響。伊東さんのOptronは初めて見たが、蛍光灯なのにすごい
反応が速くて驚いた。インバーター制御してるんだそうだ。しかし、ふつうインバーターをこういう風に使おうとは思いつかないだろう。ドラムとのやりとりは
初期の山下洋輔トリオを思わせるいさぎよいもので、蛍光灯は明滅するたびにふくらみを増すかのようだった。