昼、久しぶりにぴらみちゃんに会う。新しい楽器を見せてもらいあれこれ思いつきをしゃべる。あとから渡邊さんとも合流し、あれこれとお話。サッケードについてヒントをいただいた。
昨日の反省を踏まえ、MCを短めに。「三輪車」では絶妙なコドモちゃんの声が聞こえる。なんとか時間内に終わり、サイン会も済ませて、なぎ食堂で打ち上げ。打ち上げができる時間に終わるというのはいいなあ。
東京へ。15:30ごろからリハ。もっぱら新曲の練習にあてる。なにしろ10曲くらい新曲があるので、結局、どんな曲かをおおよそさらったところでリハ終わり。
本番では、MCが暴走してしまい、第一部だけで90分(うち30分はMCだった)。さらに新曲を次々に演奏する第二部。結局終演は22:30。聴く側の耐久力が試される内容となった。メンバーもようやく新曲の構造が見えた、という感じだが、すでに「鳥頭」などは形が出来上がりつつある。
さすがにメンバーも疲労困憊、さくっと解散。
近々正式にお知らせできると思うけれど、祝祭主ハットリくんの依頼で、来月からオペラと絵はがきの関係についてweb連載をすることになった。
その資料ということで、ハットリくんからどーんとDVDが送られてくる。その数20数枚。オペラだからそれぞれが2,3時間は軽くある。これを全部見る時間を捻出するのはなまなかなことではない。ドラクエを全プレイするくらいはかかるだろう。
実をいうと、私はオペラというのがさほど得意ではなく、どちらかというと、敬遠気味だったのである。モーツァルトもプッチーニも、数えるほどしか見ていない。カルメンもこうもりも、通して見たことはない。
まあしかし、引き受けた以上は、これを機会に勉強させていただくことにするのである。せっせとオペラを、初心者として見ることにしよう。せっかくそれなりの時間をかけて見るのだから、(絵はがきの話は連載にとっておくとして)、気のついたことをあれこれこの日記にメモっておこう。
というわけで、まずは「フィガロの結婚」から。これはさすがに見たことはあるが、しかし、改めて見ると、ほとんど初めて見たような気がするから不思議だ。
まず、最初にフィガロが数を数える冒頭の小二重唱を聞いて、あれ、これまるでユニクロのCMだなあ、などと思う。著名人がユニクロのパーカスタイルを、数字を歌いながら紹介するあれですね。それぞれがただ数字をメロディに乗せて歌う、それも1つずつ繰り上がるのではなく、とびとびの数字を歌うことで、上昇のめまい感を出す、あの感じは、すでにしてフィガロの結婚の冒頭でなされているのだな、と。「5,10,20,30,36,43」。情感と無関係な数字から始めるという大胆な導入。
もっとも、この数字の羅列はすぐに「帽子を見てよ」という情感によって否定されるのだけれど。
モーツァルトは二重唱を多用することで、おしゃべりの重複の持つ混乱を導入した。
バルトロの「復讐だ!ああ、復讐!」で、対話から内言へと移る手管に注意。
バルトロが「あのふざけた男に年増女を押しつけるのは愉快なことだ」とマルチェッリーナから遠ざかりながら歌うことで、観客は、ああ内言が始まったな、と了解する。それは、バルトロが、マルチェッリーナのいる場所で、マルチェッリーナに聞かれてはいけないことを歌うからだ。本人のいる場所で、本人に聞かれていないかのように歌うその態度を見て、観客は、「ああ、この歌は対話ではなく、内言の表現なのだな」と納得する。そして歌に伴う所作をすべて、マルチェッリーナへのジェスチャーとしてではなく、内言の身体化として受け取る。バルトロのおおげさな身振りは、マルチェッリーナには不可視な、バルトロの心の中の身振りであり、観客だけが「演劇」という特権的な回路によって、そのバルトロの身振りにアクセスする権利を持っている。そして観客は、日常生活では包み隠されている本当の心にアクセスした、という感覚を得る。
演劇的な台詞や所作には、「目の前にコミュニケーションの相手がいるのに、台詞や所作がその相手に対してデザインされていない」という事態によってもたらされるものがある。バルトロの「あのふざけた男に年増女を・・・」という台詞の声も所作も、明らかにマルチェッリーナに届いているはずなのに、まるで彼女がいないかのような内容を持つ。そしてマルチェッリーナもまた、まるで目の前のバルトロの台詞や所作が見えていないかのように、忙しくスザンナとフィガロの痕跡を探し回っている。
登場人物どうしがまるで相手がいないかのように振る舞うことで、「このジェスチャーは、目の前の相手ではない誰かに捧げられているのだ」ということが明示され、観客との通路が開く。
こういう演出を見ると、つくづく日常の所作と演劇の所作は違うなあと思ってしまう。日常の所作を、その場にいる他の人と切り離して感じるのは、とても難しい。
日常のジェスチャーは、内言を内言どおりに表すというよりも、他の人と関わる所作の端々で内的な何かを「漏らす」のである。そして、ジェスチャーを「内側から漏れた何か」と仮定することによって、受け手は、話し手の「内側」を推測する。日常のジェスチャーは、単に行為者によっていちいち記号として成立するのではなく、受け手のmind readingに負うところが多い。
(余談だが、言語進化論にはしばしばこのmind readingの問題が抜け落ちていることが多い。最近、コルバリスの「言葉は身振りから進化した」を読んだが、やはり身振りの進化に話が集中していて、身振りからmind readingする側の問題が希薄だった)
日常の内的状態がいちいち所作と一対一対応して記号として顕在化する状況というのは、日常からかけ離れた滑稽な事態なのである。あたかも心が数字として顕在化するように。
オペラの作り手は、そうした滑稽さを、娯楽として成立させている。
一日中入試業務。合間に査読をいくつか。
ライブ用に買った譜面台が、いまやすっかり部屋の必需品と化している。足の踏み場がほとんどない状況で、そこににょっきり譜面台を立てておくと、いかにも特権的な高さに書類が掲げられ、よく使う書類を載せるのにちょうどいいのである。もはや譜面が載ることが滅多になくなってしまったが。
週末のライブのご案内。そしてABCのうた。
かえる目のライブ情報は、こちら。 この放送をダウンロードする
このところ、円高に乗じて、amazon.comから洋書を買いまくっている。とくに、研究書の類は、いまのうちに自分で勉強したいものを買っておくことに。
この機会に概説書もいろいろ買ってるのだが、これがなかなか勉強になる。論文中心に勉強していると、どうしても自分の関心領域に興味が集中して、広い分野への目配りが届かなくなる。会話分析の論文を読むのは、基本的に時間がかかるしね。
というわけで、ここ数年の認知発達科学の勘所を押さえた、Goswamiの「Cognitive Develpment」は、頭をぐりぐり動かされるようなおもしろさ(じつはこの本、無藤隆先生のおすすめ)。この分野の実験設定のスマートさ、その背景にあるコンセプトのクリアさ、そしてそれを見通しよく語るGoswamiの力量には感心するばかり。Imitationの話も充実していて、模倣論を頭の中で整理するのに役立つ。
もう一冊、Cognition, Brain, and Consciousness: Introduction to Cognitive Neuroscience (Hardcover) by Bernard J. Baars (Editor), Nicole M. Gage (Editor) も。こちらはより、入門書という感じなのだが、空間スケールと時間スケールから見た脳など、語り口にひらめきがある。講義のネタもあちこちに。amazon.comでは、いくつかの校正ミスゆえに星2つをつけているレヴュワーもいるが、まあ読めば分かるミスだし、問題ではないと思う。
脳科学の分野は、日本語でもたくさん本が出てるのだが、広い分野をきちんと先行研究にあたりながらまとめた本は意外に少ない。英語も平易。これが35ドル程度で買えるのだから、大学院生で脳科学に興味のある人は、いまのうちに買ってざっと勉強するといいんじゃないでしょうか。
会議が3つ。週末のかえる目ライブの準備も少しずつ。いろいろ歌を作ってメンバーに送りつける。すでに3rdアルバム分+アルファのストックができた。
校正や査読や。インフルエンザはすっかり治ったのだが仕事のほうはかなり破綻している。破綻していているが、少しでもやらないとさらに災厄が大きくなるのである。
こちらも、思いがけず地元の方がたくさんいらして満席。彦根市全景絵はがきを一枚お見せして、「城からは城は見えない。景観は歩きながら距離を楽しむもの。特定のイベント場所を作るだけでなく、歩くためのルートを考えるべき」という話をする。
渋谷さんの枡形の交差点話がおもしろい。3/1も楽しみ。
村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチのこと(続き)。壊れやすさを保つために。
氏の受賞スピーチ(試訳付き)は、こちら。 この放送をダウンロードする
村上氏の受賞に関するニュースがあちこちに掲載されている。限られた紙面で彼のスピーチをまとめようとする記者が、どのようにそのスピーチのエッセンスを抜き取るか、興味深いところだ。
まず、おもしろいのは、「旗色を鮮明にする」ことに腐心している記事が多いことだ。
たとえば、Guardian誌は「Murakami defies protests to accept Jerusalem prize (「ムラカミ氏は抗議を拒み、エルサレム賞を受け入れた」)というタイトルのもとに、なぜエルサレムに来ることにしたかという件と、人は卵であるという件を主に引用している。
朝日の記事では、「村上春樹さん、エルサレム賞記念講演でガザ攻撃を批判」というGuardianと正反対のタイトルを掲げ、
また「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」と述べた。イスラエルが進めるパレスチナとの分離壁の建設を意識した発言とみられる。
と、独自の踏み込んだ解釈を加えている。
これらの記事からは、記者ができごとを要約する際に、オリジナルに何を付け加えてしまうかが、よくわかる。
記者が付け加えるのは「旗色」である。卵と壁、という、旗色不鮮明な、さまざまなものに当てはまりうる比喩に対して、記者たちは、それぞれ引用を限り、注釈を加えて、村上氏のオリジナルでは明言されていなかった旗色を鮮明にする。
しかもこの旗色は、一意には決まらない。革新系のGuardianが、彼のスピーチから「抗議を拒」んだことを抽出し、やはり(どちらかといえば)革新系の朝日新聞が「ガザ攻撃を批判」という問題を抽出していることからもそれはわかる。そもそも、村上氏のスピーチに、どちらか一方の旗を振るような記述がないので、旗色を明らかにしようとすると、論者の考えに応じて旗色が180度変わってしまうのである。
そして、もっと大きな問題は、このように旗色を鮮明にすることこそが、もっとも村上春樹氏のスピーチから遠ざかる行為である、ということだ。
「壁とはエルサレムの壁である」「圧しているのはイスラエルで、圧せられているのはパレスチナである」このような考えこそが、じつは高く冷たい壁に添うことであり、壁の正しさに荷担することになってしまう。そんな風に、楽々と正邪を分け隔てることを疑わない力こそ、壁の力であり、卵を圧する力になってしまう。村上氏の議論はこうした「壊れやすさ」を抱えているのだが、Guardianの記者も朝日の記者もそのことに無頓着に見える。
もうひとつおもしろいのは、ほとんどの記事が、見事なほどに、春樹氏が父親について語った部分を無視している点だ。この父親に関する部分が今回のスピーチの焦点であることは、彼のこれまでの文章を少しなりとも読んだ読者なら気づくことである。それをほとんどの記事がオミットしているのは、おそらくこの部分が「旗色を鮮明にする」ために邪魔になるからであろう。
敵味方の隔てなく祈りを捧げるということが、どういうことなのか。なぜ、祈りはどちらか一方ではなく、双方に対して行われるのか。なぜ「パレスチナが卵である」という捉え方を村上氏は留保して「わたしたちはみな卵なのだ」というのか。なぜ、祈りを捧げる者の背中には死の影がまとわりつくのか。
村上氏の議論が抱えている「壊れやすさ」を捉えるには、簡略化された記事でなく、全文を読む必要がある。何かを簡略化しようとするとき、わたしたちは何かを鮮明にしようと努める。ところが、この、鮮明にしようとする行為そのものによって、「壊れやすさ」は失われてしまう。
じつのところ、こうやって各新聞の論調を比較し、論をクリアにしようとするわたしの行為もまた、どこかで何らかの旗色を鮮明にしつつあるのではないか、という疑念は去らない。「壊れやすくあること」は意外に難しい。この危ういバランスを、村上氏はエルサレムという、その地じたいが危ういバランスに立っている場所で、よく保ち続けたものだと思う。
問いには、答えを急がせる問いと、閉じることなく、繰り返し問うことへとつながる問いとがある。おそらく、村上氏の「壊れやすさ」が発しているのは、後者のような問いなのだろう。だから、この文章も問いを閉じないでおこう。
わたしたちは、いかにすれば、「壊れやすさ」を抱えたまま、卵を抱えるように、つつましく慎重に語ることができるだろうか。
吉田さん、藤本さんと。まずは綿業会館で一時間ほどトーク。そのあと向かいのスタジオにてコレクションの観覧。思いがけず大勢の人でびっくりした。今回は戦後のスイス絵はがきをたくさん出したのだが、ろうそくの光だとじつにデリケートでいい感じ。
彦根に戻る最終急行をタッチの差で逃し、結局京都へ。せっかくなので吉田屋に寄ったら、なんと、お客さんに和ろうそく屋さんの息子さんがおられた。せっかくなので再び透かし絵はがきをみなさんにお見せする。
両立し得ない2つのこと。卵を立てる。
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卒論発表会。今年からポスター発表にしたのだが、口頭発表よりもずっと学生のデータに対する態度や分析の過程がよくわかって、これはよい試みだと思った。
英語で為されたものだが、これはとてもいいスピーチだった。
テレビのニュースではあちこち割愛されてニュアンスが伝わっていないが、通して読むとじつに周到な内容で、エルサレムという当地で行われたことの緊張も伝わってくる。全訳を試みる。→こちら。
おそらく、村上氏の言う「自分の内側のどこに真実がいるのかを明らかにする資質 qualification」は、以下のような行動を取ってしまうところにあるのだろうと思う。自分を始末に負えない場所に立たせてみること。そのことによって、自分が卵であることを顕わにすること。
- けれども、つまるところ、よくよく考えてから、わたしはここに来ることに決めました。ひとつには、あまりにも多くの人々がわたしに来るなと言ったから、です。たぶん、他の多くの小説家もそうでしょうけれど、わたしには、言われたことと全く逆のことをしてしまう傾向があるのです。アドバイスをされると、とりわけ警告めいた口調で「そこへ行くな」「それはやるな」と言われると、わたしはついそこへ行ってしまうし、それをやってしまう。これはわたしの小説家としての性癖といってもいいかと思います。小説家というのは特別な種族で、彼らは自分自身の目で見たもの、自分自身の手で触れたものでなければ信じることができない生き物なのです。
-
(村上春樹氏のエルサレム賞受賞スピーチより)
今回、村上氏が珍しくお父さんのことを語り、その身体の回りに感じという the presence of death について語っているのを読んで、以前、ねじまき鳥クロニクルを読んだときの奇妙な感覚、正体不明の暴力のもたらす、溶けることのない違和感について、少し腑に落ちた気がした。
生存者 survivor は卵 death を纏う。卵は鎮まらない。卵は、生者こそ脆い卵なのだ、ということを繰り返し突きつける。
だからこそ、卵は、繰り返し鎮められなければならない。わたしたちもまた脆い卵であるということを、思い知るために。
まだ七割運転というところ。
2009.2.1「音遊びの会」での録音(藤本優+細馬宏通)。
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さらに。
ほぼ平熱に。貯まっていた仕事を片付け始める。
ようやく寝汗が出始め、37度台に。しかし、まだ全身がだるい。校正やら学校の仕事やら。
あいかわらず38度台。こわい考えがいろいろ浮かび、これはこれで興味深い。校正が貯まっているのでいくつかこなす。
ようやく38度台に。蒲団の中で考え事をしていると、なぜかあらぬ前提やいないはずの人物が思い浮かび、そのまま妄想という自覚もないまま夢へとスリップする、というのが何度か続く。「こわい考えになってしまう」のロングバージョンという感じである。なるほど、若い人がこういう状態になったら、うっかり飛び降りたりするのかもしれないな、などと思う。
朝、近所の病院へ。鼻の奥に綿棒を突っ込んで、ハナジルを採取してもらう。これがインフルエンザ検査キット。結果は、A型に真っ赤な線が出ていた。とにかく診察中もふらふらで、帰って倒れるように寝る。あいかわらず39度台。
朝、ふらふらになりながら「こころのテクノロジー」講義。いつもよりハイパーにやってしまった。帰宅して、さてもう一仕事、というときに、どうにも体が動かない。よろよろと蒲団へ。熱が39.5度。これはもしかしてもしかするのか。気を失ったように寝る。
観客は15人。ちょうどこたつを囲むのによい人数。あかりを真ん中に置き、透かし絵葉書をちょっとずつ取り出して見ていただく。近くのシブヤ絵画教室のシブヤ先生も来て下さった。
終了後、青山夫妻と夕食。おいしく食べて自転車をかっとばして帰宅。さて仕事、というところで、急に体ががくりとなる。よろよろと蒲団へ。
京都造形大のギャラリー楽で、福さんと、開催中の「鬼海弘雄 人生劇場」についてギャラリートーク。観客のみなさんの声を聴きつつ、その場の写真について語るのだが、ぼく一人では思いつかないアイディアがいろいろフロアから飛び出してとてもおもしろかった。とくに、鬼海さんの正方形フォーマットについては、きちんと考えたことがなかったのだが、改めて、彼の写真の寸詰まり感(しばしば被写体の頭が切れていること)や、柱の斜め性などとからめて語ることができて、これは勉強になった。
福さんの実習生のみなさんもたくさん来られていた。あとで飲み会。
音遊びの会での藤本さんとのデュオに至るまで。
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卒論口頭試問。宿さんがあたふたという感じで部屋にやってきていきなり携帯を差し出すので何かと思ったら、着うたでジャニーズのhappy birthdayを鳴らす。それとともに、四回生全員から、プレゼントをいただく。中を見るとTシャツで、表にはオニガエルが、裏にはなぜかトランスクリプトが書いてある。トランスクリプトをよく読むと、ゼミ生全員による多人数会話で、ちゃんと重複のあとには修復が起こり、非同意表現のくる隣接ペアには沈黙がさしはさまれている。会話おこしの経験を積んだ人間が読むと、会話の間合いが判る仕組みで、じつに手が込んでいる。いつの間にトランスクリプトを使ってこんなフィクションが書けるところまで成長したのかと驚く。
面接、ゼミ、博士論文審査。
昼間、城さんからケーキをもらう。わあ。
学生と卒論打ち上げがてら焼肉を食べに行く。
もう腹一杯、というところで、ケーキが出てきた。よく観ると、「ひろみちお兄さんへ」と書いてある。それで、自分へのバースデイ・ケーキなのだということに気づいた。こんなことをしてもらうのは初めてなのでびっくりした。一日に2度もケーキをもらったが、何度もらっても、面映ゆくもうれしいものである。みなで分けて、完食。
カラオケに。ジャニヲタの宿さんの引き出しの多さに感心したり、村口さんがディズニーマニアであることを知ったり、いろいろ発見の多いカラオケであった。
P. Simon「I do it for your love」。歌詞はこちら。
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49歳になった。漱石は享年49。ゆるゆると仕事。
講義、サーバメンテ、次々と校正。
「時の流れに」。crazyはいかに自称されるか。
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家からbig appleまではざっと二時間半。ちょっとした旅。
昼過ぎについて、搬入が終わり、おにぎりをぱくつきつつ、ちょっとずつ音出し。
佑佳ちゃんと友里ちゃんとが木琴と鉄琴を叩いているので、そのそばでちょいちょい叩く。初めてなので、だいたいどれくらいのタッチで、どれくらいのボリュームで、を探る感じ。
翼くんがピアノと太鼓のそばにいるので、こちらでもちょっとやってみる。これまた翼くんがうーうー言いながら叩くのをしばらく見てる感じ。翼くんはかなりマイペースなので、音を出すことへの注意は持続してもらいつつ、こちらへの注意をときどき呼び覚ます方法が必要そう。
藤本さんはときどき鼻歌を歌いながら、着々とトロンボーンを組み立てている。
本番は、まず全員で軽く合奏。佑佳ちゃんのノリノリの指揮。どうやら、ストーリーがあるらしく、途中で腕をぐるんぐるん回しながら揺れている。スプリングドラムでごうごうと応じる。
藤本さんとデュオを二つ。これはすばらしかった。
自分でやっておいてなんだが、やってる本人にとってこれだけ思いがけない結果が出たのは初めて。そのことをことばにすると、すごく長くなりそうなので、いずれ、ラジオ 沼にて。
友里ちゃんとデュオ。友里ちゃんが床に置いた鉄琴を叩こうとして、思わず床を叩いたところからいい展開になった。
翼くんとデュオ。翼くんが叩いている太鼓の音を、翼くんの動作を見ながらミュートすることにした。翼くんの振り下ろす手とこちらがミュートする手の動作とを見ながら、そこに少しずつバリエーションを盛り込むように。やっている間は、あまり全体を構成しようという感じがなかったのだが、あとで何人かの人から誉めていただいたので、たぶん何かが、うまくいったのだろう。
藤本さん、廣田さん、翼くんと。藤本さんのトロンボーンは廣田さんとだといつもよりバリエーションが増す。わたしは、最初は翼くんとピアノの椅子に座って一緒に弾いていた(というよりは肘をついてぽろーんと音を出していた)のだが、途中で翼くんは身体をよじりだして椅子からずり下がり、おとうさんと歌いながら客席へ。もっともこの歌が、トロンボーンの激しさに呼応して凄まじかった。
藤本さんのトロンボーンがピアノの弦に強く共鳴している。ピリっとした共鳴音のあとにワーンと残響が鳴る。これがとても美しい。ピアノを弾くのは止めて、鍵盤を開放すること、ペダルを踏むことの組み合わせやタイミングをいろいろ試す。
佑佳ちゃん、友里ちゃん、牧子さんのセッションにちょっと混ぜてもらう。佑佳ちゃんの踊りがめくるめくので、ここではシンバルを持って、ボリュームをやや大きめに。
ゲストで来たとたん、贅沢なセッションをいろいろ体験させてもらった。デュオはいいなあ。自分でも知らなかった引き出しが開いていく。
帰りにみんなでお茶。お茶もいいなあ。
京都へ移動。何年かぶりのメトロ、フロアは満員。すでに秋田さんの演奏の途中。それから、千住くん、大友さん、千住・大友・梅田セッション。
打ち上げに混ざって京都泊まり。長い一日だった。