- 19990614
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▼さて今週も講義実習週間、へとへとこなすぜ。学生によると、「先生講義やってるとき倒れるんちゃうかて感じするときあるし」はあ、そんなにへとへとしてますか。しかし、そういうきみたちもへとへとしてるぜ。お互いこの暑さにやられてるのだ。夏もホットコーヒーと決めてるのだが、さすがに冷房なし+マシン熱でむんむんの部屋でホットはきついので麦茶ポット購入。
▼外面、ということばはふつう、「外面的な考え」「外面はつるっとしているが中はぶよぶよ」「外面からの攻撃に耐える」などという言い方で使う。視点を面から離れたところに置いて、まなざしが面に当たる視覚的表現や、面を外からなでる触覚的表現が多い。 ▼しかし、明治には次のような表現が多いことに気づく。
■ 寝台を這い下りて、北窓の日蔽を捲き上げて外面を見卸すと、外面は一面に茫としている。(漱石「永日小品」) ■ この寒き日をこの煖き室に、この焦るる身をこの意中の人に並べて、この誠をもてこの恋しさを語らば如何に、と思到れる時、宮は殆ど裂けぬべく胸を苦く覚えて、今の待つ身は待たざる人を待つ身なる、その口惜しさを悶えては、在るにも在られぬ椅子を離れて、歩み寄りたる窓の外面を何心無く打見遣れば、いつしか雪の降出でて、薄白く庭に敷けるなり。(尾崎紅葉「金色夜叉」) ■ その内に紳士の一行がドロドロと此方を指して来る容子を見て、お政は茫然としていたお勢の袖を匆わしく曳揺かして疾歩に外面へ立出で、路傍に鵠在で待合わせていると、暫らくして昇も紳士の後に随って出て参り、木戸口の所でまた更に小腰を屈めて皆それぞれに分袂の挨拶、叮嚀に慇懃に喋々しく陳べ立てて、さて別れて独り此方へ両三歩来て、フト何か憶出したような面相をしてキョロキョロと四辺を環視わした。(二葉亭四迷「浮雲」)
▼面を透過し、通過する感覚がこれらの文章には立ち現れている。 ▼ひとつには、この時代の「硝子」がそのような感覚を助長しただろう。明治事物起源(石井研堂)8巻p166によると、硝子障子はやはり明治初期以来のものだったらしい。「新式に硝子戸の店を造った唐物屋の前には、自転車が一箇、半ば軒の雨滴に濡れながら置かれてある。」(花袋「田舎教師」)とあるところから、明治30年代、硝子戸が田舎ではまだ「新式」だったことがわかる。 ▼もうひとつ、これは推測だけど、明治29年に日本に紹介されたレントゲン氏のX線のイメージが、こうした面の透過のイメージ群にあずかってないだろうか。
▼・・・というような話をした後、面に関する語彙をWWW検索して、現代の面のイメージについて考察しなさい、というのが三回生向けの「コミュニケーション論」の課題。
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