- 20000208
- 朝、羽尻さん宅から見える池袋、新宿のあちこち。通りに面して壁のない家の間に虫かごとじょうろ。池袋のあの塔は給水塔なのか?もしかして石川修武作なんてことはないか。はるか向こうに新宿副都心。
午前から高田馬場で本漁り。黙阿弥全集など繰らずとも、筑摩の黙阿弥集に「風船乗噂高閣」は収録されてたんだった。「大正文士颯爽」小島政二郎、佐佐木茂索の話。中に、芥川龍之介がよんだ十二階の句を発見。「時雨るるや層々暗き十二階」。煉瓦の肌理を塗りつぶすような雨粒の細かさ。 芥川家で小島と菊池がその俳句をめぐって議論したらしい。層々暗きがイヤだな、と小島は評した。小島はくさす時にきまって、説明じゃありませんか、という。そこに菊池がつっかかって、「突き詰めて考へれば、説明と描写の区別なんか非常に分らないと思ふんですがね」と言う。このエピソードを引いたあと、小山文雄はこう続ける。
(前略)「眼中の人」の一説だが、ここには、芥川の優しさとは対比的な菊池の強さと、小島の向う気だけに止まってしまうひ弱さが浮かび上ってくる。小島はそこをよく「描写」しているというわけだ。 (「大正文士颯爽」講談社/小山文雄)
小島はそこをよく「描写」しているというわけだ、というのが利いている。これはこのまま花袋の「蒲団」の評に使える。花袋自身とおぼしき主人公の、情けないように見えて打算的なずるさが「蒲団」では浮かび上がってくる。そして花袋はそこをよく「描写」している。 説明と描写という花袋の不器用さをめぐる問題は、文章技巧の問題に変態し、小島を捉える。おそらく、小島には花袋のような描写「面」に対する切実な欲求がなかった。説明に対する反発としての描写でしかなかった。だから菊池寛に圧倒される。 それにしても大正生まれの小山文雄の、豊かでまっすぐな眼。第二章なんか「どうするか、好漢小島!」って終わるんだよ。これが全然ケレン味を感じさせない。いいなあ。
翔泳社へ。翻訳の件。Jonathan ColeのAbout Faceっていう本は、ぱらぱらと見たところオリバー・サックス風、表情とそのトラブルをめぐるドキュメンタリーのようだ。ダーウィンの表情研究や心の理論についてもあれこれ書かれている。ぼくは二冊も引き受けられないけど、誰か訳せばいいのにな。 新幹線は通路までいっぱい。その狭い通路でポケモンをやってる人がいた。席に帰ればかばんの中にポケモンがあったので、よっぽど声をかけようかと思ったけど、どうにも向かい合って通信をするスペースがなさそうなのであきらめる。「不思議なおくりもの」を試す日はいつ来るのか。 名古屋を過ぎてふと外をみたらすごい雪。
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