月別 | 見出し1999.1-6 |見出し1998.8-12




19990720
▼朝から中ザワ氏の飲尿話を聞き、さわやかに一日をスタートする。

▼新宿で「ホーホケキョとなりの山田くん」。

▼ことアニメーションということに関しては、この映画はとても過激で、もののけ姫の何倍もおもしろく見た。冒頭、花札の「月に雁」の図柄から地球を描きおばあちゃんを描いて、宇宙はおばあちゃんのシンプルな描線に凝る。あるいはミヤコ蝶々の祝辞で夫婦生活を描いていく下りでの、岡本忠成「旅は道づれ・世は情」を思わせるめまぐるしい変化。横スクロールによって現実の空間を時間的に飛び越える、絵巻物のような時間→空間読み替え作業。すき間の多い絵に対し抑えの効いた着色。などなど▼それだけのテクニックが投入されて何が起こっているか。▼高畑版「となりの山田くん」には、いしいひさいち原作「ののちゃん」のような、(最近はかなり丸くなったとはいえ)新聞の隅に描かれるだけで、紙面をがたがたにさせるようなにぎやかな擬音や、吹き出しからはみ出すセリフの表現はない。すべての笑いのやりとりは遠い憧憬のように描かれていく。淡い色づかいで描かれる登場人物。背景の色づかいは端正に省略され、画面の縁は白く抜かれて光過多になっている。生活のしわが鈴木その子のしわの如く美白化される。かっこう、という音でオチがあらわされ、それは、全体のリズムを崩すことなく、おもちゃの交響曲のメロディとなり、次のストーリーへと持ち越される。
いしいひさいちの笑いを借りながら、どの笑いの場面も、遠く隔たった場所であわあわと日常に紛れていく。▼これは田山花袋が日露戦争後の明治にあらわした「田舎教師」や「時は過ぎゆく」と同じ、運命に対する卑小だが唯一の人生を慈しむ感覚ではないか。「て・き・とー」といってから「てきとうにね」と微笑む先生の声は、まじめさを破壊するよりも、まじめさをあやしいたわるように響く。▼これは家族という制度を巡る戦後の話だ。戦において家族は中流を勝ち得たが、その中流さは望んだものとは違っていた。にもかかわらず正義の味方月光仮面が活躍するような血沸き肉躍る戦はもはや不在だ。その不在感が、日常という地味な接近戦を、平面として遠のかせていく。ラスト近く、空を飛び笑いあう家族は、かなわぬ望みと戦の不在という浮力によって浮いているとしか見えない。▼平面描写。平面による日常の祝福。その世界は、いしいひさいちの地底人的世界とは全く逆に、明るく閉塞して見える。そのような明るく淡い時代閉塞の現状を表現することが高畑氏の狙いなのだとしたら、それはそれですごいことだと思う。

▼一カ所、味噌汁とご飯論議の後、父子がセメントを混ぜているのを見る箇所に、時間で論理を踏みしだく気持ちよさを感じたことをメモっておこう。

▼残念ながら「となりの山田くん」は全くの不入りだった。公開後わずか4日めの休日だというのに、昼のジョイシネマには三十人もいなかったのではないか。隣りの劇場では「スターウォーズ・エピソード1」に朝から行列が出ている。平面描写よりも立体サーガ。

▼高田馬場で「まっぴら君」を格安入手。エレベーターねた探索のため。重たいな、しかし。永井龍男「石版東京図絵」。ここにも田山花袋の系譜が感じられる。で、その定本田山花袋全集(臨川書店版)は全巻揃いで20万ですと。当分図書館通いだな。

▼Winds Cafeで柳下美恵氏の演奏とともに「眠るパリ」。こちらが夢見る代わりに相手に夢見させる夢。塔の上の乱痴気と塔の下のわびしさ。演奏はシーンを待ちかまえシーンを行きすぎる。短編はメアリー・ピックフォード+グリフィス。音楽の汽車は走り続ける。ピックフォードはそれを知らない。▼終演後、柳下毅一郎氏と話。はじめてメールをいただいたのは6,7年前だったと思うが、お会いするのは初めて。

19990719
▼朝一で東京、都立図書館で日露戦争實記ほか田山花袋文献。尾島明子「田山花袋というカオス」(沖積舎)。いま書いている考えの基本は国文学者のものとさほどずれていないことを確認。ならばなおさら、何がずれているのかを明らかにする必要がある。
▼広尾から表参道から歩こうとしてなぜか青山墓地まで行ってしまう。ピンポイントギャラリーで中ザワヒデキ展。この文脈で見るとかつてのランダムドットステレオグラムが、非ステレオ的に見えてくる。なのれー氏も合流して飲む。コンビニにファービー。英語版を買ってしまう。最後は公園で花火をし、初対面の三田村さん宅に押し掛けまた飲み、わー、このファービーうるせー、二匹だとなおうるせー、カスタマイズできるのかこれは、仮眠、とまるで学生の遊び。

19990718
PMP in 彦根第二回。▼JAI氏のダイアトニックアコーディオン。はっしーのギターはヤスリでこすられる。わたくしはひげ剃りで喉こすり。濱川氏の事務椅子のきしみ。川端氏のテープ音楽。▼平尾氏のピックアップが4つあるペールギュント。羽尻氏はQTのスタートレックを流すつもりがアクシデントで再生できなくなり、ゆうこさんとぼくとで人力ステレオ。飛び入りのストリート野郎平野氏は「浪漫飛行」とBEGINの歌をウォークマンに会わせて唄う。ヘッドホンからさかさか洩れる音。吉田氏 from IAMASのサンプル音の重ね加減。国近さんたちのトラジションは一曲完全燃焼。香取さんのユニット、スモカは塗り絵。健身球の音マッサージがたまらん。Zoan氏はテープに合わせて発声するスタイル、今回のは子音の響きの重なり加減が気持ちよかった。車の中では彦根<>ロンドン音楽 by Yuko NEXUS6 & Zoan。▼JAIさん宿泊、たれぱんだをいじめて遊ぶ。

19990717
申請書やら明日の準備やら。

19990716
▼二十世紀最後の天気を読む。かえるさんレイクサイド第四十話「やってくる天気」。

▼ホース支持!鍵盤ハモニカはホースだよ。▼と、突然支持する野村誠「路上日記」(ペヨトル工房)。もううらやましいったらありゃしないこの日記。野村くんの前でウンチクを垂れて帰るおじさんも、信念を押しつける外人さんも、野村くんのふるまいに引き寄せられ、嫉妬しているのだということがよくわかる。だってぼくも読んでて、あーまた鍵盤ハモニカ吹きてーって思ったもん。かつて鍵盤ハモニカにストラップつけて、腕をぶらんぶらんさせてたぼくを思い出したもん。身体から離れてるのに身体のように扱える、象の鼻みたいな遠隔身体であるところのホース付き鍵盤ハモニカがとっても好きだったんだよ、ぼくも。ほら、ぼくも、なんて言いたくなるほどぼくは野村くんがうらやましい。気持ちよくジェラシー。鍵盤ハモニカ買ってこよ。ホース付きのやつ。

▼定延さんの発表。彼はいま「体感」に夢中らしい。体感は状態をできごと化する。体感と時間は共有しにくい。体感ひと筆書き理論。とびとびの記憶を一筆書きに再編集すると、体感が表れる。などなど、イマジネーションをくすぐるアイディア続出。

▼そんなわたしはいま田山花袋に夢中。自然という人工物、臨場感という人工物を確立した人として花袋は再評価されるべきだ。

▼ひさしぶりにジョーズ・ガレージで、あがた森魚「永遠の遠国」。仁丹塔の歌。廃墟になってから始まる遊び場。

19990715
▼非常勤で来ている橋爪さんを訪ねてしばし立ち話。ぬっとでたものの話。東京・横浜・大阪と次々に建った観覧車は同一の会社がらみだとか。ジョイポリスのようなゲーム産業と遊園地産業は似ているようで業界がはっきり分かれている。など。
▼彦根市立図書館へ。花袋全集。新しい司書の人に「田山花袋」と書庫資料請求カードに書いて出すと、「これなんて読むんですか」と言われる。舟橋聖一文庫を使うのはぼくぐらいらしい。
▼彦根のまちづくり関連の本をいくつか読む。昭和30年代後半に彦根銀座は道路拡張され、通りの北と南がコンクリート化された。これは防災都市モデルとして注目を集めたらしい。しかし糸ヘン景気が去り、オイルショックが来ると、工場労働者という消費者がいなくなり、銀座からは客足が遠のく。▼80年代後半、バブリーな時代には「世界古城博覧会」が行われ、彦根に山下洋輔や林英哲や佐藤允彦を呼んでライブをやったりした。こともあったらしい。89年に彦根青年会議所が編纂した「まちづくりゲームOld&New」という雑誌は、城下町のまちづくりに関するシンポジウムの記録で、黒川紀章や上野千鶴子といった人たちがあれこれと提言をしている。ちょうど夢京橋キャッスルロードが出来た頃だ。▼が、こうした催しはまさにバブルの産物として終わる。住みたい町でも観光の町でも流通の町でもない、そんな町が残る。▼車を通す場所と車を通さない場所のメリハリをつけることが、町にとっては重要だ。すべての町を車優先にすると、すべて通り過ぎる町になってしまう。

19990714
▼かえるビートニク・ゴーズ・トゥ・銭湯。かえるさんレイクサイド第三十九話「銭湯ビート」。
表紙に写真を貼る。自負じゃなくてJPG。まだカメラ慣れしてないので、フレームが決まらない。というか、ある物を見たときにフレームで切り取れない。こんなんでいいのかわからないがシャッターを切っている。あとでトリミングしてしまう。そのうちトリミングせずにそのまま載っけることができるようにしたいもんだ。
▼7/18(日)はACTにてパーソナル・ミュージック・パーティー in 彦根。飛び入り歓迎。音を持ち込みに来て下さい。音楽というより音。司会はわたくしEVです。

▼舟橋聖一文庫で花袋の描写論。


眼の芸術、眼から頭脳に入って行った芸術。私は繰返して言う。眼から頭脳に入って行った芸術である。心の芸術ではない。感情の芸術ではない。(田山花袋「卓上語」)


自分の理想の破戒せらるる事が度重なれば重なるだけ、それらの現象に対して静かに耐え忍び得るようになる、それだけまた離れて観察せらるるようになるのだ。(「花袋文話」)

▼静かな忍耐の産物としての描写。静かに耐え忍ぶような花袋の紀行文。彼の忍耐はマントラのように長い。

19990713
▼「図解古建築入門」は、文章自体が建築のようだ。事物と現象が組物にされ、構築されていく。白川静の文章を思わせる。


屋根は雨を防ぐのが重要な役目である。垂木(たるぎ)の傾き具合(これを勾配という)があまりゆるいと雨水が逆流して雨漏りがする。かといってあまり急な勾配にすると軒の先端が低くなって具合が悪い。そこで、軒先の垂木だけは勾配をゆるくし、その上に、これとは別に急な勾配の垂木をのせるように工夫するようになった。雨を受けるのはこの急勾配の垂木がつくる屋根である。上にのせる垂木を野垂木(のだるき)、軒先にあって下から見える垂木〔地垂木や飛櫨(ひえん)垂木)を化粧垂木という。野とは、見えないのできれいに仕上げないものをいい、化粧とはきれいに仕上げをするものをいう。
(図解古建築入門/太田博太郎監修 西和夫著 彰国社)

▼軒先をたくさん出した状態を「軒が深い」と呼ぶ。長い、ではなく、深い。屋根は斜めに降り、そこには垂直方向の感覚が表れる。深い、というとき、深度を測る視点はどこにあり、その深さはどこに向かって降ろされているか。


19990712

▼わたしがあくびをする。わたしはこの自然なあくびを、効果的に、適切なタイミングで、あくびをするということ以外の一点の意図も交えずに、行わなければならないとする。たとえば、「この人は退屈しているのではないか」と思われたり「そろそろねようか」と言われたら、このあくびは失敗である。わたしの目的が成功することはどうやって保証されるか。

▼スペルベル&ウィルソンが「関連性理論」で「情報意図」=「聞き手の認知環境を直接改変しようとする意図」=「聞き手に対し想定集合{I}を顕在的もしくはより顕在的にすること」とする。彼らによれば(情報)意図とは相手に対する認知環境改変の試みであり、しかも「認知環境改変の実際の認知効果は一部しか予測できない」とする。つまり、ぼくたちはしばしば、行為によって実現されたたったひとつのできごとを取り上げて、行為者の「意図」と読んでしまっているけれども、意図とは行為者から相手に投げられる可能性の集まりで、実現されるのはその可能性の中のひとつに過ぎない、というわけだ。

▼意図、ということばは、しばしば責任の所在の問題とセットで扱われる。故意と過失を峻別する必要があるとき、意図が問題になる。▼彼らの理論によって、責任の所在の問題で扱えるか。

▼故意か過失かで刑罰には軽重をつける現象を「認知環境改変の効果の広さ/狭さ」によって説明するのはどうか。つまり、致死確度の高い行為はより故意に近い、よってより刑罰を重くする。▼しかし、認知環境改変の効果が狭いにも関わらず、行為者がそんなことをする「つもり」がない、という現象はある。コインロッカーに赤ん坊を一時的に預けることは、赤ん坊の死亡確率を増大させるが、預けた両親に、赤ん坊を死亡させる「つもり」がない可能性はある。このような両親を「うかつ」であると表現する。▼しかし、「うかつ」とはどうやって観測されるのか。ある人を「うかつ」と呼ぶためには、行為者の予測する認知環境改変の効果と、観測者の予測する認知環境改変の効果の差が、観測されねばならない。▼「うかつ」は必ずしも観測されない。にもかかわらず「うかつ」という概念によって、ヒトはヒトを許す。「うかつ」とは、認知環境改変の効果に対する判断の差を認めることによって、相手を許すことだ。あるいは、相手を許すことによって、認知環境改変の効果に対する判断の差を認めることだ。前者を寛容といい後者を思い上がりという。いや、逆か。あ、裏表か。▼思い上がられるという懲罰。

▼逆に、意図が論外のものとされることがある。「そんなつもりじゃない」「つもりじゃなくてもあたしは迷惑してんの」

▼ある動物が推論体系を持つかどうかを実験するためには、観察者の思惑通りの行動が繰り返されることを観察するだけでは不足である。その動物の認知環境を観察者はなんらかの予備実験から把握する必要がある。さらに、観察者はそれをもとになんらかの行為をその動物にしかける。観察者の意図外のことをその動物が行い、そのことで、観察者が自分の持っている認知環境改変の効果の広さに気づく。といった事態が起こる必要がある。▼実験設定を同じにしておくことで、この現象は、その動物の新たな認知環境の発見とは区別される。

▼予想されなかったデータは棄ててよいかを考えること。

19990711
▼ディジェリドゥの二人と学内をあちこち。あちこちで鳴らすことでその場の特性が分かる。ディジェリドゥ・ダウジング。鉱脈や水脈ならぬ、音脈を見つける試み。プレPMP。

▼稲田さんは6時間かけて彦根に来たのに会えなくて戻ったという。すごい無為かげん。

▼無為かげん:特異な無為のありさま。無為に表れる過剰のありさま。【用法】「これどないしょ?」「無為かげんでええんちゃう?」。「この風呂の無為かげんたまらんな」。「無為かげんにしなはれ」。

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