- 19990720
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▼朝から中ザワ氏の飲尿話を聞き、さわやかに一日をスタートする。
▼新宿で「ホーホケキョとなりの山田くん」。
▼ことアニメーションということに関しては、この映画はとても過激で、もののけ姫の何倍もおもしろく見た。冒頭、花札の「月に雁」の図柄から地球を描きおばあちゃんを描いて、宇宙はおばあちゃんのシンプルな描線に凝る。あるいはミヤコ蝶々の祝辞で夫婦生活を描いていく下りでの、岡本忠成「旅は道づれ・世は情」を思わせるめまぐるしい変化。横スクロールによって現実の空間を時間的に飛び越える、絵巻物のような時間→空間読み替え作業。すき間の多い絵に対し抑えの効いた着色。などなど▼それだけのテクニックが投入されて何が起こっているか。▼高畑版「となりの山田くん」には、いしいひさいち原作「ののちゃん」のような、(最近はかなり丸くなったとはいえ)新聞の隅に描かれるだけで、紙面をがたがたにさせるようなにぎやかな擬音や、吹き出しからはみ出すセリフの表現はない。すべての笑いのやりとりは遠い憧憬のように描かれていく。淡い色づかいで描かれる登場人物。背景の色づかいは端正に省略され、画面の縁は白く抜かれて光過多になっている。生活のしわが鈴木その子のしわの如く美白化される。かっこう、という音でオチがあらわされ、それは、全体のリズムを崩すことなく、おもちゃの交響曲のメロディとなり、次のストーリーへと持ち越される。 いしいひさいちの笑いを借りながら、どの笑いの場面も、遠く隔たった場所であわあわと日常に紛れていく。▼これは田山花袋が日露戦争後の明治にあらわした「田舎教師」や「時は過ぎゆく」と同じ、運命に対する卑小だが唯一の人生を慈しむ感覚ではないか。「て・き・とー」といってから「てきとうにね」と微笑む先生の声は、まじめさを破壊するよりも、まじめさをあやしいたわるように響く。▼これは家族という制度を巡る戦後の話だ。戦において家族は中流を勝ち得たが、その中流さは望んだものとは違っていた。にもかかわらず正義の味方月光仮面が活躍するような血沸き肉躍る戦はもはや不在だ。その不在感が、日常という地味な接近戦を、平面として遠のかせていく。ラスト近く、空を飛び笑いあう家族は、かなわぬ望みと戦の不在という浮力によって浮いているとしか見えない。▼平面描写。平面による日常の祝福。その世界は、いしいひさいちの地底人的世界とは全く逆に、明るく閉塞して見える。そのような明るく淡い時代閉塞の現状を表現することが高畑氏の狙いなのだとしたら、それはそれですごいことだと思う。
▼一カ所、味噌汁とご飯論議の後、父子がセメントを混ぜているのを見る箇所に、時間で論理を踏みしだく気持ちよさを感じたことをメモっておこう。
▼残念ながら「となりの山田くん」は全くの不入りだった。公開後わずか4日めの休日だというのに、昼のジョイシネマには三十人もいなかったのではないか。隣りの劇場では「スターウォーズ・エピソード1」に朝から行列が出ている。平面描写よりも立体サーガ。
▼高田馬場で「まっぴら君」を格安入手。エレベーターねた探索のため。重たいな、しかし。永井龍男「石版東京図絵」。ここにも田山花袋の系譜が感じられる。で、その定本田山花袋全集(臨川書店版)は全巻揃いで20万ですと。当分図書館通いだな。
▼Winds Cafeで柳下美恵氏の演奏とともに「眠るパリ」。こちらが夢見る代わりに相手に夢見させる夢。塔の上の乱痴気と塔の下のわびしさ。演奏はシーンを待ちかまえシーンを行きすぎる。短編はメアリー・ピックフォード+グリフィス。音楽の汽車は走り続ける。ピックフォードはそれを知らない。▼終演後、柳下毅一郎氏と話。はじめてメールをいただいたのは6,7年前だったと思うが、お会いするのは初めて。
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