The Beach : June b 2001


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20010630

 がーっと昼まで寝てちゅらさん見て読書。

 「靖国」坪内祐三(新潮社)。尊王攘夷の志士たちをまつる招魂場としてスタートし、西南の役を経て「国」に殉じた者をまつる場として変質した場所。じつはだだっ広いハイカラ空間だった場所。競馬が行われていた場所。明治から昭和にかけて靖国の機能が時代とともに変遷していく話。これまで花袋の「東京の三十年」に現れる西南の役戦没者を記念する場所としての靖国、そして木下直之「美術という見世物」の遊就館の記述といった断片的なイメージを靖国神社には持っていたんだけど、この本ですっきりつながった。
 黙阿弥の本を丁寧に読み直す態度にもシンパシー。そう、黙阿弥の書くセリフは、当時の風俗をほんのわずかなことばで切れ味するどく表わしている。逆に観客は、そうしたセリフ回しを口ずさみながら、菊五郎や菊之助の所作をなぞり、風俗を風俗化したに違いない。

 「永井荷風ひとり歩き」(朝日文庫)荷風のプライヴェートをたどる本なのだが、文献によるだけでなく荷風の日和下駄のあとをじっさいに歩きながら東京の起伏を足裏に感じているところが楽しい。写真でなくイラストというところも想像をかきたてられる感じ。今度この本持って新宿からあちこち歩いてみよう。




20010629

 「ちゅらさん」で、おばあの「それじゃあ、行ってこようねえ」というセリフ。
 初恋の人の墓が見つかったというのを聞いたおばあは、行きつけの酒場に「一人で行ってくるさあ」と孫たちに告げた後、「行ってこようねえ」と言って部屋を出る。ぼくは沖縄ことばに明るくないが、この「行ってこようねえ」が「いっしょに行きましょう」ではなく、「行ってくるからね」くらいの意味であろうことは、前後の流れからわかる。
 しかし、ぼくは「行ってこようねえ」ということばに、かすかに誘いを感じている。それは一緒に行くことへの誘いではない。一緒に来なくていいよ、という拒絶でもない。わたしは行き、あなたはとどまりましょう、という誘い、話し手が行き、聞き手がとどまることへの誘いに聞こえる。

 夕方、名古屋へ。久屋大通駅の地下街は空気がこもって蒸し暑い。地上に上がるとテレビ塔が見える。高岳駅方面に向かうが、東西に走る通りは西日でくまなく照らされてむせかえるようで、背中に日を受けながら汗が吹き出す。ようやく塀の向こうから木蔭が張り出しているところがあって、ほのかに涼しい。しばらく行くとそれは富士神社の境内だと分かる。名古屋城に使ったという石が置いてある。そこから行けども行けどもギャラリーはなく、電話をかけて確認すると、神社の手前の歩道橋のところを北に上がって高速の高架近くまで行くのだという。西日を正面に見ながら、神社の前で少しほっとして、それから日陰のある南北の通りに曲がってギャラリーセラーへ。

 中ザワヒデキ展。現行の普通切手のあらゆる額面の組み合わせで50円を実現する試み。

 一枚一枚のハガキを見ながら、いくつかの数を足して暗算しているうちに、子供のときほどあせっていない自分に気づく。

 小学校のときは、毎日がタイムトライアルだったから、暗算といえば、とにかくいちばん効率のいい組み合わせを見つけるのにあくせくしていた。たとえば、19+4+7+13+21、なんて言われると、鷹の目が獲物を狙うように19と21、7と13という特権的な組み合わせを当然のように選ぶ。それがゆるぎないパーツとなって40、20、4、そして64へと組み上がる。こういう手続きはオートマティックだった。
 でも、年を経るにつれ、頭が緩んで、ベストの組み合わせを瞬時に選ぶ能力も気力も遠ざかった。次にどれとどれを足すかをうろうろと迷ったあげく、結局はじめから順番に足してしまったりするのだが、それをさほど苦痛とも感じなくなってきた。
 19と4なのだから、まずは足してみる。23。となりの7が目に入る。あ、キリ番になるな、と思う。23と7で30。少しうれしい。人心地つける。31とか34だとかいう数字を頭でキープしながら次に進むのはめんどうだが、30というキリ番であれば、多少荷が軽い。荷が軽くなった分、少し運が上がったような気持ちになる。できればこの運を大切にしたい。
 しかし、そのせっかくの運に13を足してだいなしにしてしまう。43か。これといったおもしろみのない数字だ。何かで割れそうな気がするのだが、何で割れるわけでもない。つまり素数だ。素数ではあるが、2とか3のように、最初に出会う素数というドラマもなければ、11や13のようにあからさまに素数というわけでもなく、もしかしたら、その11とか13とかで割れるかもしれない、そんな中途半端な気配の残っている数だ。その半端な43に21を足す。なんだ、繰り上がりもしない。これといったドラマがない足し算だ。前半はともかく後半はこれといった盛り上がりにかける試合内容だった。数字たるもの、たとえチームが低調であっても観客をハッとさせるようなセンスを感じさせるプレーを心がけて欲しいものだ。しかし、64という数字は嫌いではない。64はハッパ64であり、つまり88のゾロ目であり、8は2の三乗だから64は2の六乗である。デジタルである。ロクヨンの先にはイチニッパーやニゴロが待っている。19+4+7+13+21という組み合わせを観るかぎり、そこにデジタルにふさわしい規律があるとはとうてい感じられないが、それを足すと64になるとは、何か、根拠のない褒美をもらったようで頼りない。しかし、いわくのなさそうな数字からいわくありげな数字が出たということはこれまた、悪い運ではないと言えるかもしれない。
 とまあ、暗算するにもこれくらいのことはゆるゆると考えてしまう。

 ところで、中ザワヒデキ氏の普通切手シリーズは、50円切手1枚が貼ってあるものもあれば、7枚もの切手を使って50円を実現しているものもあるのだが、どれも総額が50円だ(当り前だ)。つまり、どう足しても、最後にキリ番がやってくる。たとえば、1円、2円、5円、9円、15円、18円と足していくと、最後にかちりと番号が合って、キリ番の50円になる。ハガキを一枚一枚暗算をしていくと、一枚一枚大団円が待っている理屈だ。しかし理屈で納得しないのがオトナであって、一枚一枚足し算をしてみる。足し算が遅いのがオトナであって、1+2+5+9ぐらいのところで「え?17?もしかして計算まちがい?」といった紆余曲折があって、しかしやっぱり50になる。これだけハガキがあるのでもしかしたらどこか間違ってるのではないかと思うが、いろいろあって、50だ。
 全部つじつまがあっている。なのにまだ妙な感じが残っている。

 妙な感じがしたまま大須に行き、電気屋を素見してから和食屋に入ってうなぎとビール。

 新栄に移動、Canolfanでワラビモチナイト。大皿に盛られたわらびもちをもうええっちゅうくらい食う。黒糖味、ミルク味、抹茶味などどれもおいしかったが、最後に注文したわらびもちドリンクは、ストローで吸ってもいっこうに上がって来ず、直に口に含むとねっとりフエキ糊の舌ざわりがして、かなり強烈なしろものだった。演奏とかライブとかいう枠ではおさめきれないほどPhilipe氏のわらびもちへの称えぶりが伝わってきて、それが境目のないユルさとなって会場をおおっていたように思う。

 助手席でiBookの音声ファイル鳴らしながら帰宅。




20010628

 「YASUJI東京」杉浦日向子(ちくま文庫)。杉浦日向子のマンガはいろいろ読んでいたつもりだったが、うかつにも江戸物ばかりに目が行って見逃していた。構図のよく似た小林清親と弟子の井上安治の違いに分け入り、清親の劇性が安治にすっぽり抜け落ちていることを模写によって明らかにした後、「安治は目玉と手だけだ。思い入れがない。『意味』の介入を拒んでいるかのようだ。」鋭い。そしてこのマンガのスクリーントーンの使い方がまたいい。安治のあっけなさをなぞるがごとく、まるで薄い影絵のように貼りこまれている。

 この作品の眺望の記述にはハッとさせられたので書き留めておく。


広重描く「名所江戸百景」には、わくわくするような異郷の香りがする。
 時には上空はるかからあるいは地面に這って、ガリバー旅行記(おとぎばなし)のように町を見せる。
 清親や安治が描く東京を見るとはじめて、自分が毎日踏んでいる地面を思い出す。
 清親らの視点は、いつも人間の目の高さだった。


 武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ

 この原野の上に今現在展開されている<東京>とうい現象は人々の想念のカタマリだ。人々もまたこの地の<意>によって吹き寄せられた<動く土>で、家並みやビル群は生い茂る<葦>だ。
 原野が私たちに夢を見つづけさせる。
 踏みしめるアスファルトの下の<原野>を想う時嬉しくて嬉しくて身ぶるいがする。そしてこれは生まれてからずっと感じたかったことのような気がする。


 じつは田山花袋もまた、かつて東京を眺望しながら、そこに武蔵野原野を見ようとした。


 私はある時、秋の晴れた日に、浅草の十二階に登つて見た。それは唯、山を見ようと思つて上つて見たのではあつたが、それ以上に、私は昔の武蔵野といふことをはつきりと頭に入れることが出来た。私はこの東京の百万甍(#ぐわ)が一帯のデルタであつた時のことを想像した。成程(#なるほど)、海と丘陵との相交錯(#あいかうさく)してゐる具合がよくわかつた。


 杉浦日向子が花袋と決定的に違うのは、彼女が塔からの鳥瞰によって原野を見ているのではなく、踏みしめるアスファルトの下に原野を感じていることだ。
 ものごとは失われたときの方にこそ思い出されるということはある。もしかしたら、「アスファルト」という皮膜を通すことによって、現代のわたしたちは、土埃の道をじかに踏みしめていた大正の花袋よりも、かえって、原野を足下に感じやすくなっているのかもしれない。にしても、それは誰にでも感じうることではなく、杉浦日向子のような触感によってようやく明らかになるような感覚だ。




20010627

 夏が来たとしかいいようのない温度。本当はいろいろやるべきことがあるのだが、夜になると、もうどうでもええけんね状態になり、iTuneの使い心地を試しがてら避暑用のCD作って、サマージャム2001なんて直球のタイトルつけたりする。さっそくかけてみる。MP3の音はなんだか中低音が浅いようで、そこが避暑向きな気もする。
 iBookは、左手の下あたりが暴走しないかと思うほど熱くなる。つけていると部屋が暑くなる。避暑向きではない。Crousoとか入れて発熱低減に力を入れているいまどきの他社のモバイル環境からすると信じられない設計である。ああ、やめやめ。昼も夜もヤッコでも食って、でーんと構えてればいいのよ夏は。

 いずこも受験人数が減少傾向にある今日このごろ、わが専攻では今年から高校まわりを増やすらしい。で、ぼくも二校回るハメになった。ちゅうか、昨日うっかり会議をすっぽかしたらそういうことになっていた。1時間以上かかる高校まで出向いていって進路指導の先生と面談するのである。めんどうだ。きっと先方もめんどうだろう。生きているのもめんどうだ。ああめんどうだ。




20010626

 明治十年前後の日本全国の写真をおさめた「大日本全國名所一覧」が復刻された。この写真帖を紹介している新聞記事「バルボラーニの写真帖と京都の明治」(山田奨治、京都新聞、2001,6,26)から。


 写真帖の京都といまの京都を比べると、風景の微妙な違いに気が付く。それは明治初期よりもいまのほうが、京都の風景がよいということである。社寺には植林が進み、荒れていた庭園がよく手入れされている。
 そうすると、われわれが漠然と「京都らしい」と感じる古風に整ったいまの風景は、あるときに創られたものということになる。京都が文化財の宝庫として認知され、大切にされはじめるのは、二十世紀に入ってからである。皮肉にもそれは国家主義の台頭と軌を一にする。「京都らしさ」という固定観念も、どうやらすこし疑ってみる必要がありそうだ。




 サックス(Harvey Sacks)の1968年の講義録にある、電話の「かけ手(caller)」「受け手(answerer)」「呼び出される人(called)」という概念を手がかりに、「社長秘書」を仮想事例として勝手に考えを進めてみる。

 秘書は通常「受け手」であって、「呼び出される人」は社長である。未知の女性から電話がかかってくるとする。
「社長室でございます」「社長はおられますでしょうか」「失礼ですがどちらさまですか」「なかむら、といえばわかります」「あいにく社長ただいま面談中なのですが」「そうですか、できれば早くご連絡したいのですが」「少々お待ちください」。
 このとき、社長秘書は、目の前で取り引き先と仕事の話をしている社長に、このなかむらと名乗る女性を社長に取り次いでよいかどうかを判断しなければならない。いったん、取り次ぐと決めたなら、社長がかけ手を特定するための手がかりを伝える必要がある。秘書は社長に言う。「中村様からお電話が入っております」「あとでこちらからかけなおすと言ってくれないか」「かしこまりました」。
 このとき社長のポケットには、昨日とある場所で懇意になった未来の愛人中村の電話番号が入っていた・・・

 この架空例から、はやくも社長秘書という「受け手」がこなさなければならないいくつかの問題が明らかになる。社長秘書は、いわば防波堤となって、多忙な社長にとって必要度の低い電話に対して取り次ぎを断る必要がある。そのためには、「かけ手」の発話から「かけ手」とその用件に関する手がかりを得て、「呼び出される人」に取り次いでよいかどうかを判断する必要がある。さらに、「呼び出される人」がかけ手を特定するためには「かけ手」に関するどの手がかりをどのように伝えればよいか、を判断する必要がある。
 これらの判断は微妙なものである。たとえば、秘書の取り次ぎ方として次のようなものが考えられるが、そこに乗っている情報はそれぞれ異なる。
 
 (a)「中村様からお電話が入っております」
 (b)「中村様という方からお電話が入っております」
 (c)「中村様という女性の方からお電話が入っております」
 
 (b)では、「という方」という表現が加わることで、中村様なる人物が、秘書にとって未知の人物であるということがほのめかされている。(c)ではさらにその未知の人間の性別情報まで入っている。(b)(c)の場合、取り引き先の人間は、これに続く社長の行動を「秘書が未知の人間(女性)」に対して取られた行動として読み取ることになる。たとえば次の例はどうか。
 
 (c’)「中村様という女性の方からお電話が入っております」「あとでこちらからかけなおすと言ってくれないか」
 
 社長と面談中の取引先はこれを聞いて、社長が秘書に知られることをはばかれるような関係の女性とつきあいを持っており、しかもあとで電話をするのだ、と邪推するだろう。
 したがって、秘書は、人前で相手の人物情報を社長に伝えるというだけでなく、社長が相手の人物を特定するための最小限の情報を伝える必要がある。
 それにしても、何が最小限のなのか。秘書は、社長がこの「中村様」なる人物についていかなる知識を持っているかを周到に把握していなくてはならないのか。クラーク&マーシャルの言う「共有知識」のパラドックスに、この社長秘書もまたからめとられるのか?いや、そんなことはない。秘書は、社長がわかろうがわかるまいが「中村様からお電話が入っております」と言っておけばよい。もし社長が「中村?誰かな・・・」と答えたら、そのとき初めて「女性の声で、お急ぎのようですが」と付け足せばよい。この場合、たとえ目の前の取引先の邪推を生み、社長が小さな恥をかいたとしても、墓穴を掘ったのは社長で、秘書の判断に責任はない。

 社長秘書の場合を雛形に、「受け手」の仕事内容を順を追って考えると次のようになる。
 
(1)「受け手」はまず名乗る。
(2)「かけ手」は自分が誰であるかについての手がかりを発話によってもたらす。
(2’)「かけ手」は「呼び出される人」が誰かを告げる。
(3)「受け手」は「かけ手」の発話から「かけ手」に関する手がかりを得て、「呼び出される人」に取り次いでよいかどうかを判断する。
(4)「受け手」は「呼び出される人」に、「かけ手」を特定するための手がかりを伝える。
(5)「呼び出される人」は、「受け手」から得た手がかりをもとに、電話口に出るかどうかを判断する。
(6)「呼び出される人」が、電話口に出るかどうかについて判断を保留した場合、「受け手」は別の手がかりを伝えるか、さらなる手がかりを得るために再び「かけ手」と話す。

 これらのことは、一朝一夕に習得できることではない。たとえば、電話を覚えたての子供は、そもそも「受け手」と「呼び出される人」の区別がつかない。「もしもしー」「もしもし?」「はいはいー」「あの、小林さんですか」「はいはいー」「あのね、おとうさんいる?」「おとうさん?いるよ」「おとうさんよんでくれるかな」「おとうさん?」「うん、おとうさん」「おかあさんは?」「おかあさんはいい」「・・・」「・・・」「もしもし」「もしもしー?」このような子供が電話に出た場合、かけ手が「呼び出される」べき人を呼び出すのは絶望的だ。
 多少経験を経た子供でも、「呼び出される」親にとって迷惑な勧誘電話を親に簡単に取り次いでしまうことがある。つまり(3)(4)は簡単にすっとばされてしまう。

 (4)にはもう一つ重要なポイントがある。たとえば、子供は、(4)の段階で「おとーさーん」などと大声でお父さんを呼んでしまう。どたどたとあわただしい足音がする。そのすべてが、「かけ手」に聞こえてしまう。しかし、やがて子供は、オトナが(4)において、電話の通話口をふさいだり、保留ボタンを押すという行動を行なうことがあるのに気づく。「受け手」が「かけ手」を特定するための手がかりを伝え、「呼び出される人」が電話に出るかどうかを判断するとき、そのプロセスはどうやら「かけ手」に聞こえてはまずいらしい。
 
 そしてもちろん、以上のテクニックは裏返しに使うこともできる。秘書は、仕事場にプライベートを持ち込む社長への諌言をするかわりに、わざと「中村様という女性の方から」と伝えることができる。そのことで、秘書は、それが自分の知らない女性からの電話であることを社長に伝えるだけでなく、自分とかけ手の関係性を相手に伝えることになる。つまり、「この人って秘書であるアタシも知らない女性で用件も分かんないんですけど、そういう相手からの電話をこの仕事場でアタシに取り次がせるわけ?」という言外のプレッシャーを社長に与えることができる。

 また、ホームドラマの母親は、娘にかかってきたボーイフレンドからの電話を取り次ぐとき、通話口をふさぐどころか電話の向こうにも聞こえがよしに「ちょっとー、ヒロシくんからでんわー」と呼び、娘のプライベートな家族環境の一端をボーイフレンドに洩らす。ボーイフレンドは、そのように娘の小さな秘密を露呈しようとする母親のいたずらっぽい声に、母娘抱き合わせの女性の媚態を感じ、とまどいを覚える。
 
 まとめると、受け手は、単なる伝言役ではなく、かけ手のコミュニケーションチャンネルを開閉する権限を持ち、取り次ぎのスタイルによってかけ手と呼び出される人とのコミュニケーションに介入する役割も持ちうる存在である。

 「受け手」をめぐるこうした機微は、「受け手」と「呼び出される人」という二通りの相手が存在しうるという電話のアーキテクチャに依っている。サックスの「クラス」ということばを借りるなら、コミュニケーションは、ことばの内容とは異なる「クラス」によって生成されている。

 携帯電話がもたらしたのは、「受け手」と「呼び出される人」の区別の消滅である。持ち主のいない携帯電話の呼び出し音にどこか強迫的な響きが感じ取れるのは、その音が「受け手」ではなく「呼び出される人」を求めて止まないからだ。
 




20010625

 今日の実習は例年通り「学内のバッドデザイン調査」だが、例年よりだいぶスリムな内容に改変した。今年は実習に「その日の課題はその日のうちにすませる」というポリシーを立てている。学期中に自分も学生もへばらずに済ませるための方便。

 学生は二十人なので4人編成、5班に分ける。調査は班単位で行なうが、課題は4人それぞれに違う内容にする。たとえば、一人はバッドデザインの図解、一人はデザインが置かれている環境について、一人はそのデザインをじっさいに使っている人の行動観察、一人は他の同目的の器具との比較、といった具合。もちろん、これらは完全に切り分けることはできないので、お互いに内容が重複しても構わない、と言い渡しておく。
 最初にパワーポイントで課題内容をプレゼン。次にノーマンのCD-ROMを見せながら「Action」「Feedback」「Affordance」というコンセプトを説明して、レポート作成の手がかりにする。これでおよそ60分。学内の担当エリアを班ごとに決めて調査。これに60分。最後にレポート作成に60分。これでニコマで実習完了。時間中にできない班は来週までに課題提出。

 久しぶりにノーマンのCD-ROMを使ってみて、その内容のよさにあらためて驚く。
 これを買った1994年当時は、普通のCRTディスプレイで見ていたので目が疲れた。マシンの処理速度が遅く、ムービーはあちこちでひっかかった。まだノートパソコンのほとんどは白黒画面でカラーのCD-ROMを観る環境じゃなかった。
 なんといっても、このCD-ROMには「誰のためのデザイン?」をはじめノーマンの著作が三冊分、論文まで入ってる(ただし全部英語)。事務机に置いたパソコンにへばりついて読むような分量じゃない。いまようやく、喫茶店で手軽に開き、読みたいところをあちこち飛ばし読みすることができる時代が来たといっていいだろう。




20010624

 京都新聞で、「小泉内閣メールマガジン」が好意的に取り上げられている。宣伝広報の巧妙さを誉めているのかと思ったら、「すっかりファンになってしまった」と手放しの誉め方をしている。ネット上でもいくつかポジティブな評価をみかけた。
 ぼくも一応資料として目を通してはいる。分量のほどのよさからすると、メールマガジンの性質をよく知る人の手によるものだろう。少なくともそういう人にメールマガジン制作の仕事が行くようになった程度には、政治の風通しはよくなったと言えるかもしれない。

 が、その中身はどうか。これが「すっかりファンになる」ほどの内容か? 現首相の「感動のスポーツ」という、新聞の読書欄でよく見かける紋切り型の文章が、そんなにいいか?

 このメールマガジンは、歯医者に置いてある歯科医の広報誌を思い出させる。名医の苦労話や自慢話と人生訓がほどよく織り交ぜられ、読むほどに歯医者の宣伝臭が消毒液のようにつんと臭う、あれに似ている。 
 むろん大臣にだって喜怒哀楽があるだろうし、彼や彼女の感情や使命感や体験がくだらないというつもりはない。問題はそれが「感動」だの「運命」だの「歴史的」だのといった安いことばとともに並べられ、内閣広報に結びついていることだ。

 ぼくは政治で語られる「感動」とか「運命」などということばを信用しない。

 「感動」や「運命」ということばは、まるで個人を励ますように聞こえる。耳に心地よい。
 しかし、「感動」や「運命」は政治の勢いにはかかわるが、政治の方向とは無縁だ。「感動」や「運命」で始まる愚行や戦争はいくらでもある。
 感動や運命は、お気に入りの歴史を事後的に遡って、過去に対して感じられるものだ。あるいはお気に入りの未来を遡って、現在に対して感じられるものだ。その、お気に入りの歴史や未来のあり方のほうに、政治は埋めこまれている。
 だから、政治において問題は「感動」や「運命」ではなく、政治家がどのようなお気に入りの歴史や未来を持っているかだ。 

 メールマガジンで、赤れんが棟の歴史を語り、ハンセン病訴訟に控訴せずとした自らの決裁文書を「法制史に残る歴史的文書としていずれここに保存され、小泉内閣の劇的な決断を後世に語り継ぐことになるでありましょう。」と語る法務大臣のセンスには、危ういものを感じる。大臣が自分の仕事に誇りを持つのはいい。問題は、大臣の誇りを支えているその「歴史」観や「後世」観に、たとえば在外被爆者訴訟が入っているのかということだ。

 このメールマガジンは、いわば、現行の政治の「プロジェクトX」化である。現行の政治が喧伝する「感動」や「運命」に「すっかりファンになってしまう」感性を「プロジェクトX症候群」とでも呼んでおこうか。プロジェクトに感動したいのなら、プロジェクトが終わってからにすればよい。




20010623

 彦根から京都へ。
 曇りの中からさらに曇ろうとする鉄塔。ありがたく頂戴することば。おもいがけない飛躍くそくらえ。アルファルトにこびりついたガムを引き剥がすヘラのようなことば。竹薮に投棄される不法ゴミ。雨で湿ったズボンのすそから入ってくる冷たいことば。ことばによって熱を奪われ乾燥していくことば。駅前に近いものから番号を振り分けられ、第一第二と命名されたことば。頭をひざにおしつけて、移動することに必死に耐えることばにかかる赤い布。サイクルをリサイクルすることば。信じることならいくらでもあるし、子供が通りぬけるほどのすきまならいくらでもある。日本、と、情報、と、学園、とがむすびついた固有名詞。眠ってしまうことばなら、いくらでもあるし、眠すぎることになんら思い入れはない。眠たくなることに意識をあずけて人事不肖になることに対する不安などない。いま、いまだって、キーボーに指の動きを預けながら、もう私は63だから、と、年よりぶって花の置く、メガネののって居るあたりがつうんとして、追慕原子力。おppppppppppppppppppppp

 どうやら、電車の中でキーボードを押しながら寝ていたらしい。

 同志社で写真研究会。
 メモ。佐藤守弘氏の「桑原甲子雄と考現学」。
 浅草六区写真の文字の氾濫。文字は、あたかも乳母車の中の赤ん坊が母親から忘れられ、赤ん坊でなくなりかけているのと似て、文字の示す売り物から忘れられ、文字でなくなりかけている。たぶん、写真が撮影された当時は、まだ、売り物は文字に十分濃い空気をまとわせていたはずだ。そして、失われてからしばらくも、その売り物の記憶はノスタルジーを喚起したはずだ(それは池波正太郎の文章からもわかる)。いまのぼくには、異様な文字の氾濫に見える。
 松実輝彦氏の「昭和初期エロ・グロ・ナンセンス時代の写真」。犯罪現場写真を見せる語り口が楽しい。
 引用されていた板垣鷹穂/堀野正雄「芸術的現代の諸相」(1931)から。「自動車は、媚を売るロボットである。スマートな曲線を描く輪郭と、なめらかで美しい決めと、あたりの柔かい弾力性と−そこに彼女の感覚的な魅力がある。物ほしさうな男が道傍に立つてゐると、スイスイと滑べつて来るロボットが、艶のある肉体をくねらせてたちどまる。(略)現代では、マヌカン人形さへ金属製である。自動車のボディーにモダン・エロティシズムを認めるのは自然である。」おっと「クラッシュ」感覚だ。で、はたと気づいたんだけど、あの東郷青児の描く女性がどうにもマネキンぽいのは、この時代のマネキン感覚?
 金悠美「廃墟と無意識から、意識と再生へ」宮本隆司の写真から大道芸人Junの空家再生Performanceへとひっくり返す展開がおもしろかった。建物は建ったときから廃墟化を始めている、という磯崎新の考えをひきながら、廃墟写真とはじつは、廃墟の廃墟を写真に撮っているのでは、という鋭い指摘。そして、神戸の震災とは、廃墟化の時間を奪われた「瓦礫」化だったのではないか、とも。

 後で飲み会。前川氏とステレオ談義。




20010622

 会議、実験。

 永井良和「尾行者たちの街角」。出たのは昨年だったが読むのを失念していた。
 出歯亀事件を事例としながら、明治末期から大正期にかけて、警察の捜査検証の「科学化」が起こった。この過程で、探偵という古風な操作技術は逆に通俗化し、私立探偵と探偵小説を生む。指紋法、興信所の歴史、民生委員の前身「方面委員」と「方面カード」など新知見もいろいろ。なるほどこうした歴史の中に「考現学」を置いてみると、考現学の探偵性が浮かび上がってくる。
 情報は公開されるが調査は「窃かに」行われる(p222)。あたかもネット社会のRAMとROMを思わせるこの非対称性。




20010621

 生協食堂にビールの欲しい季節。5コマめ終わってヘトヘトになり、帰ってからTVチャンピオン、どっちの料理ショー、つるまげどん、よゐこ、と、テレビを見続ける。TVチャンピオンみたらアイス食いたくなって途中でコンビニに行く。

 ピック&デリバリーサービスでiBookが帰ってくる。予告通り一週間だった。
 以前のPowerBookでは、蓋部分のリンゴマークが、ユーザーから見て正しい方向になっていた。が、このiBookでは、ユーザーから見て上下逆になっている。蓋を開けると、向こうから見ている人にとって上下が正しい方向に見える。つまり、この蓋のリンゴマークは、ユーザーインターフェースというよりは、蓋の向こう側にいる観客にとってのインターフェースを意識したデザインなのである。「いまわたしはアップルをつかってますよ−」と、リンゴマークが他人に向かって白く転倒するのである。いまさらそれしきのことで肩身が狭くなる自分でもないが、最近、黒い紙に切り絵細工でもして、このイヤミなカバーを被ってやろうかと思っている。




20010620

 自転車がパンク。夕方、腹が減ってしょうがないので、ゼミ生と飯。いったん帰ってしばらく原稿打ってから、また夜中過ぎにカラオケに。昔のユーミンばっかり歌う。 




20010619

 「全集日本吹込み事始」(東芝EMI)11枚組。11枚めの梅坊主から聞き始めるのだが、もうひたすら素晴らしい。初めてマイクに向かう人間がええいと身を投げだすように繰り出す諸芸の思い切りのよさ伸びのよさ、あほだら経で倍速になる声。続く圓左衛門のねじの切れた声のたどりつく先はどこ?とにかくたまらん。このまま11枚聞くと死にそう。ちなみに、梅坊主は開設当初の十二階劇場でも人気芸人だった。

 夜、「プロジェクトX」広辞苑誕生秘話。戦後、スタッフは新語に出会うたび「必死で書きとめた」というナレーション。つい「必死で」書きとめる姿を想像し、笑ってしまう。ロマンスシート、必死に書き留めるぜーっ、ニューフェイス、必死必死、と言ってると相方が「そういえば、必死のパッチ、ってどういう意味?」。

 忌憚のない意見を言える人、
山形浩生氏のbk1評「無節操」で「人はなぜコンピューターを人間として扱うか」が取り上げられて、ヨロコビの舞いを舞う。読んで買って!




20010618

 「浅草十二階計画」に浅草国技館の変遷(1)(2)を追加。

 まっとうに仕事。冷房が入ったので、教材提示を使っても学生があまりダレないのがはっきりわかる。
 歯医者。歯に当てる機械で青い光を発しピッピッと鳴るやつが何のためのものなのか知りたかったが、「はいおだいじに」とスムーズに言われてつい聞きそびれた。次回は「ひとついいですか?」と切り出してみるか。




20010617

 夕方、相方と車で神戸へ。マンガ喫茶のようでクラブのようなZINKで福本伸行「カイジ」。ぼくのマンガ体験は数年前でフリーズしてるので、まるで浦島太郎。星を「殺(と)る」という表現。限定ジャンケンというルール。トイレ、船室のフロア、黒服、階段という「CODE」。アーキテクチャ妄想の力。

 ビッグアップルでHACO+佐近田信康。声を探り、声に分け入るような演奏。声を出すことは声を聞くことで深まっていく。

 帰りにタロチャンラーメン食って帰宅。




20010616

 名古屋へ。栄町公園横のインド料理屋でカレー食って、テレビ塔へ。750円。土曜日ではあるが人出はまばら。三階の30M展望台までは、エレベーターガールの話すエレベーター。
 「本日はご来場くださいまして、ありがとうございます。展望台、展望バルコニーへは、三階でのお乗り換えでございます。三階には、タワーレストラン、売店、ゲームコーナーがございます。どうぞご利用くださいませ。三階、乗り換えでございます。展望台へは正面のエレベーターをご利用くださいませ。」売店には名古屋名産、玩具、キーホルダー、UFOキャッチャーなど。周囲には高層ビルが並んでいるので、この展望台からは南北の公園をのぞくと大した眺望は臨めない。さらに90M展望台までは「無線エレベーター」(三菱製)で上る。所要時間約1分あまり。エレベーターガールはいるが、話をするのは自動音声で、これも「無線制御」らしい。「今日はようこそお越しくださいました。名古屋テレビ塔は、昭和二九年に・・・」この90M展望台は建物の中だが、その上にさらに吹きさらしで金網に囲まれた100M展望台がある。
 やはり金網で囲まれた階段を降りてみる。かなり急で、しかも金網ごしに下の公園に吸い込まれるようでなかなか恐い。100Mよりも20−40Mの方が恐い、というのがぼくの持論なのだが、ここでも樹冠との距離が数十Mになったときがいちばんこわいと感じた。

 大須へ移動。本屋や雑貨屋を冷やかしながらぶらぶらする。雑貨屋のメンコやビー玉の持ったかごが並んでいる中に、かごに丸まったぬいぐるみのようなものがおいてあるので何かと思ったら、本物の猫で、かごの輪郭に体を預けて寝ているのだった。
 フィギュア屋にオリエンタル・マース・カレーの人形が置いてある。グリコ提供ではなくオリエンタル提供時代の「がっちり買いまショウ」を覚えている人間にとっては懐かしい。いとしこいしが司会をしていた番組だったので、てっきり大阪の会社だと思っていたのだが、名古屋の会社だったんだな。そういえば栄通りにオリエンタルの看板と寿がきやの看板がでかでかとかかっていた。
 店の人に聞くと、なんでも鑑定団によく出ている北原照久氏が権利を買って新たに作って売り出しているとのこと。フィギュアもいいけどハヤシもあるでよ、というわけで、レトルトのカレーとハヤシのパックを買う。

 大須は歩いていて疲れない。歩行者優先にアーケードが並んでいるのと、適度の人混みで、スムーズに歩けること、縦横に並んだ通りが少しずつ雰囲気を変えているところが原因か。これらのアーケード街に対して、北の電気街は非アーケード。
 電気街という狩猟、アーケードというリラックス。秋葉原と違うのは、このリラックスがあるところ。
 間口の狭さに誘われてモカ喫茶店というのに入る。しばらくすると、店のテレビで、西川きよしが大須演芸場時代の思い出をたどるという番組がちょうど始まって、お客の一人が「ちょっとボリュームあげて」という。そのうちにテレビの中の西川きよしは喫茶店に入ってきて、ちょうど今のぼくの隣の席に座った。一週間前にロケがあったらしい。デジャヴでも見てるような妙な感じ。西川きよしはこの店の常連だったという。
 店内全員がテレビを見ていたら、近くの店員らしいエプロン姿の男が入ってきて隣に座り、コーヒーを注文して週刊ジャンプを読み始める。そこに一週間前きよしが座っていたことを、彼は知らない。きよしは太平サブロー演じるやすしと漫才をやっているところ。
 ほどなく番組が終わり、ボリュームが下げられる。テレビに出たことがことさらに大騒ぎにならないところも、いい喫茶店だ。
 大須演芸場は、その喫茶店を出てアーケードが切れたところにある。演芸前に天井なし。今日は時間がないのでまた次回。

 近くの古本屋で腕が抜けるほど買って、今池へ。「徳蔵」でカール・ストーン、前林明次。二人ともパワーブックにMAX,MSPを主体にした演奏だったが、マシンスペックのプレゼンではなくて、聞かせたい音を重ねていく。オトナの演奏。IAMASの人たちの覗き穴を増殖させていくような映像もおもしろかった。また音楽を作りたくなった。
 近くの飲み屋で遅い夕食を食べて帰る。

 買ってきた子供向けの伝記本、偕成社「石川啄木」。啄木を子供向けに語るときにどんな資料をピックアップするかが興味深い。やはり子供時代から学生時代の話が多く、歌作も思い出に関する内容がほとんど。





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