The Beach : June a 2001


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20010615

 ATRでSLUD(人工知能学会対話音声研究会)。個体間距離が発話とジェスチャーに与える影響について発表。野口さんのあいづち適切場所(BRP)の話はぐっと狙いがはっきりして、単にある特定の時間軸上の一点ではなく、いわば、あいづち適切「範囲」の話としておもしろかった。しかし、音声系の人の仕事は精度が細かい。
 終わって田中君としばし話、高の原の飲み屋で石崎さんんたちとしばし飲んで帰る。




20010614

明日の発表の準備。




20010613

 夕方、両親が来て彦根で飯。
 この日記は何年も前から「親バレ」していて、うちの両親はほぼ毎日読んでいる。ときどき「あんた歯が痛いっていうけど大丈夫なの?」とか言う電話がかかってきたりするし、油断してると「なかなかに顔見せぬ子のホームページそれとなく親に日々を知らすか」などと歌に詠まれてしまう。IT革命おそるべし。
 で、母が「あんた『失われた時を求めて』読んでるらしいけど、あれ、あたしが70年かけて読んでるんだから」というので、自分の母親は息子の知らぬところでなんとプルーストを70年も愛読してたのかと震撼したが、よく話を聞いてみると、70年間何度も挑戦したがいつも一巻で挫折してしまう、という話だった。

 ジョー・マット「The Poor Bastard」。親バレどころかあらゆる人にバレることを恐れない(というか考えにいれないことにする)大馬鹿日記。トリシュとの自業自得の別れ話は涙なしには読めない。最初のヴューマスターの話をはじめ、いたるところに「あるある!」(詳細は省く)。男ってやつは。




20010612

 朝からゼミ会議会議会議。
 昼休みに、サービスセンターに電話。「買うて一週間もたたんうちになんでモニタがあかんようになんねん、3日後のプレゼンどないしてくれんねん、おーっ?」などと、心中はクレーマー状態、が、いざ相手が出ると、妙に丁寧になってしまう。我ながら小心者なり。
 ああ、しかし、京都のクイックガレージで直せた頃は、電車で直行したらイカしたプロフェッショナルがあざやかな手つきで即日対応してくれて、それだけで心が洗われたもんだったよ。今回はピックアップ後1週間ほどかかるとのこと。

 くよくよしても始まらん。この一年三ヶ月、頑強さを保っているPowerBookに戻る。PBに関しては、5200 -> 2400 -> G3と遍歴してきたが、5200は初期不良、2400は熱暴走を繰り返し、このG3がいまのところいちばん安定している。最近HDのうなりが激しくなってきたのが不安だが。

 夜、高嶺くん、フィリップたちが長浜に遊びに来てるというので、相方と車で出かける。午後7時を過ぎて人気のない黒壁から大通寺をぶらぶらしてから、長浜タワー下の飯屋に入る。
 フランス出身の三人に「ブルーチーズみたいな魚なんだけど食う?」と切り出してふなずしを注文。高嶺くんは「大好きです」と言ってたのに、出てきたのを一口食っていきなり顔をしかめて「ぼくの食べたふなずしって、これと全然ちゃいますわ」。もしかして鱒ずしかなんかと間違えてたのか? で、そのふなずしはあっさり味で、米のところがまたえらいうまかった。みそ汁にしたらまた格別。




20010611

 「浅草十二階計画」にUnderwood & Underwood 社の浅草立体写真を追加。裏面の解説文を全訳して載せておく。

 夕方、iBookのスリープ後に、突如画面が乱れる。そしてリスタートすると、恐怖の縦線が。がーっ。




20010610

 昼、近くのバラ園でおむすび。

 人の気配のない大学でiBookにあれこれインストール、ようやくまっとうに使えるマシンになった。一応OS Xも使いたいので、ATOK14 for OS Xも買っておく。
 新しいマシンを使うとき、指がまだキーボードを信用していなくて、打鍵スピードが少し落ちる。誤変換を無視して、とにかくたくさん打ち込んで、指と頭を馴らしていく。次第に、画面をほとんどみないで宙を見ながら、考えを打ち込めるところまでいけば、ひとまず日本語入力環境としては満足。このトップスピードに上げるまでがひと苦労。

 しかし、あの新しいiBookのCM(飛行機の機内で両隣のやつにデスクトップムービー作ってるとこ自慢するやつ)、なんとかならんかなー。あれ、ハタ迷惑でしょう。CMラストに機内で振り向く乗客全員は、あの後青年をボコボコにするのであろうか。ちゅうかボコボコにされてもしょうがないな。

 コンフェデ見てがー、とかぎょー、とか言う。 




20010609

 「浅草十二階計画」に風俗画報(明治二四年)の十二階図大正三年の浅草公園池之畔の図を追加。


 夕方、夕日が夕焼けることもなく、丸く傾いているので、自転車で琵琶湖畔へ。

 夜、NHKでジェームズ・タレルの「未来の教室」。実体験でしかわかりそうにないタレル作品をなんとかカメラに収めようとしている制作者の努力はわかった。が、やはりどこか矢追純一のUFO番組に似た感じが漂ってしまうのは、視聴者に見えないものをTVの中の人間が見てる感じがしてしまうからだろう。生徒が誉めれば誉めるほど、どこかテレコン・ワールド風味が。

失われたメモ。

◆「やさしいおどろき」をたたえた目。「知っている誰かに向けるような、はっきりした意味をもった、意図をこめた視線を投げるわけには行かず、ただとりとめもない思考が、青い光の波になって、自分のまえからたえず逃げだすのをそのままにしておくよりほかはなかった彼女は、せめてその波が、途中で出会ってひっきりなしにぶつかる周囲の地位の低い人たちを窮屈がらせたり、見くだしていると見えないようにねがっていた。(p296)

◆「ある道のまがりかどで、ふとマルタンヴィルの二つの鐘塔を認めて、突然私は、ほかのどんな快感にも似ていなかったあの特殊の快感をおぼえた、−その二つの鐘塔は、夕日を浴びていて、馬車の運動と道の曲折とにつれて位置を変えるように見えた、ついで私はヴィユーヴィックの鐘塔を認めたが、このほうはまえの二つの鐘塔とは一つの丘と一つの谷とをへだてて、遠方のもっと高い平原に位置しているのに、二つの鐘塔のすぐ近くにあるように見えるのであった。」この箇所以降、この「お化け鐘塔」が起こす遠近の狂い。特に突然塔の真下に出 るくだり。
 「それらの鐘塔はずっと遠くにあるように見え、私たちはほとんどそれらに近づいていないように見えたので、やがてすぐに馬車がマルタンヴィルの教会まえにとまったとき、私はびっくりした。はじめ地平に鐘塔を認めて私がおぼえた快感の理由は私にはわからなかったし、またその理由を発見しようとつとめる義務もずいぶん骨が折れることのように思われた、私は鐘塔が太陽を浴びて動いてゆく線を頭のなかにたいせつにしまっておきたかった、そしていまはそれを考えずにいたかった。このとき、もし私が頭のなかにそれらの線をしまっておいたならば、おそらく二つの鐘塔は、これまで私がほかのものから区別してきた多くの気や屋根や匂や音のところに行って永久に合体したことであろう、それらの木や屋根や匂や音も、おなじようにえたいのしれない快感を私にあたえたのであった、そしてその快感を私はまだ一度も深めてはいないのである。(中略)やむなく私は自分自身に矛先を向け、私の鐘塔を思いだそうとした。するとまもなく、鐘塔の線と、夕日を浴びた表面が、まるで一種の外皮のようにやぶれ、それらのなかにかくされていたものが、すこしばかり私に姿を見せた」
 この塔に関する執拗なたどり直し、後に続く「短文」「野原の低い線の上空に描かれた三つの花のようでしかなかった。」(p301-306)

◆はじめて聞くように聞くこと。「その種の印象は、しばらくのあいだは、いわば無実体である。なるほどそんな瞬間にわれわれが耳にする音は、その高低と長短とにしたがって、いちはやくわれわれの眼前でさまざまな次元の面を被い、アラベスクを描き、われわれに幅や薄さや安定性や気まぐれの感覚をあたえようとするものである。しかしそれらの音は、そうした感覚がわれわれのなかで十分な形をととのえないうちにうすれ、つづく音や、同時の音さえもがすでに予備おこしている感覚によってかき消されてしまう。そして記憶が、波のなかに堅固な土台をすえてゆく労働者のように、帰依yすいこれらの楽節の複写をつくって、われわれがその楽節とそれにつづく楽節とを比較し区別できるようにしないとすれば、そうした印象は・・・」(p350)




20010608

 付属池田小学校事件。嫌な事件だ。朦朧と考えを走らせたときに、庖丁を持って小学校に向かっている。それに体を乗せてしまう奴が出てきてしまったことが。

 夜、相方と近くのフランス料理屋へ。向こうの席の男が席に着くなり携帯を鳴らし、それから食後のコーヒーが来るまでずっと電話で話している。ようやくコーヒーをすすりながら向かいの女性に盛んに話しかけるが、女性は自分の携帯のメールか何かをチェックして無視している。当然の復讐ではある。っていうか、何しにフランス料理屋に来たのだ、こいつら。

 iBookが届く。ちょうど5/22以降の工場出荷を狙ったので、Mac OS Xがプレインストールされている。あれこれ試してみる。ヒラギノフォントで打ち込むエディタはそれなりに気持ちいい。Perlが入ってたりして、おお、やっぱりUNIXライクやんけ、とか思う。が、とにかく、Finderやネットワークまわりのアクションが遅い。特に、クラシック環境はかなりきびしい。
 というわけで、9.1に戻す。システムスイッチャーがあるのはとりあえず便利だとは言えるな。

 読書。体を律するのではなく体に委ねることを信じるための。「失われた」メモ。

◆「姿の見えない小鳥が、この一日を短く感じさせてやろうと思いついて、声を長くひきながら、あたりの静寂をさぐっていたが、返ってくるものは、どこからも一様の反撃、静寂と不動とを何倍かにする反撥ばかりなので、その小鳥は、早く過ぎさせようと苦心した時刻を、永久に静止させてしまったかのようであった。」(p230)環境に音を投げることで作られる時間地図、ガーヴァーの「いったい何が聞こえているんだろう」で聞き逃されていること。
 
◆「もともとゲルマント婦人のことを考えるとき、彼女をタペストリーやステーンド・グラスの色彩といっしょにして、生きているほかの人間とは異なる世紀のなかに、異なる材料でできているもののように思いえがいていたことに、自分でけっして注意しなかったからなのであった。」抽象的な映像が作られるときに、荷担するメディアの質感。




20010607

 5限めの講義を終えてラーメン屋でちゃんぽん食いつつコンフェデのラスト見てJRで大阪へ。
シネ・リーブル梅田で鈴木清順「花と怒濤」。透かし絵(Hold To Light)のような十二階のイルミネーション。すべての窓に灯がともっている、ありえない夢。屋上の「十二カイ」の文字。ひょうたん池噴水前の占い師のシーン。村田組親分に井沢の殺しをすすめられるシーンの土間のシネスコ的余白、そこから這うように奥によろめく小林旭。村田親分との戦い、井戸の水音。中庭の向こうに障子、中ほどだけガラス、世界が砕けてあちこちで勝手に進行しているような楼内。萬竜の背中をおがむシーンの画面構成。

 帰りの電車で、本を読みながら、ふと両側の窓外を走る灯が遠近を狂わせて、通路の向こうが遠くなったような気が。「花と怒濤」の十二階のせいか。
 京都で人が入れ代わり、4人席の残りに三人が坐り「いまから帰ったら1時か。」「WowWowで毎晩二時までは起きている」「血がさらさらになる食事」「新幹線は30年たっても『新』なんておかしい」といった話。そのとき読んでいたページにこんなくだり。「自然も現実も、それがもつ魅力と意味のすべてを失い、私の人生にとってまったく便宜的な外枠にすぎなくなった、あたかも旅客が腰かけてひまつぶしに読んでいる小説の筋にとって、彼が乗っている客車がそうであるように。」(p266) 
 たまねぎをたっぷり入れたサラダによってさらさら流れる血の話に乗って、読書は色彩を帯びていく。たとえば川に沈めたガラスびんのこんなくだり。

◆私は土地の子供たちが小さな魚をとるためにヴィヴォーヌ川のなかに静めるガラスびんを見るのがたのしかったが、そうしたガラスびんは、なかに川水を満たし、そとはそとで川水にすっぽりとつつまれて、まるでかたまった水のように透明な、ふくれたそとまわりをもった「容器」であると同時に、流れている液状のクリスタルのもっと大きな容器のなかに投げ込まれた「内容」でもあって、それが水さしとして食卓に出されていたときよりも一段とおいしそうな、一段と心のいらだつ清涼感を呼びおこした、というのも、そのように川に沈んだガラスびんは、手でとらえることができない、かたさのない水と、口にふくんで味わえない、流動性のないガラスとのあいだに、たえず同一の律動の反復をくりかえして消えてゆくものとしてしかその清涼感をそそらなかったからであった。(p282)




20010606

 「浅草十二階計画」にいろはにこんぺいとうを追加。


「失われた」メモ。
◆名前を得ること。真の名前。「一瞬まえまでは、彼女は不確定な映像にすぎなかったのに、たったいま、そのよな名によって、一つの人格があたえられたのだ、いわば護符のようにさずけられた名であり、この護符はおそらくはいつか私に彼女を再会させてくれるだろう。そんなふうに、その名が通りすぎた、ジャスミンや、においアラセイトウの上で発せられ、みどりのホースの撒水口からとびだす水滴のように、鈴讀、つめたく、」(p238)
◆夢の反転。「すると、急に私にはこんな気がするのであった、−家の人たちは、そんな魅惑が私の心をそそっているのを感じないはずはない、彼らは私とおなじ観点に立ち、そしてまるで私が彼らにうちかち、彼らを堕落させてしまったかのように、みじめな気持ちになるのであった。(p243)
◆射精とパノラマ「私は自分自身のなかに、ある未知の道、死の道とも思われた一つの道をかきわけていた。そしてそのあげくは、私のところまで枝をたわめている野生の黒すぐりの葉に、あたかもかたつむりが通った跡のように見える、自然に出たものの跡が、一筋つくのであった。
(中略)それでも私の注意は、この不毛の土壌、この枯渇した大地がかくしているかもしれない女たちを吸いあげようとして、望もなく土地にしがみつくのであった、そしてルーサンヴィルの森の木々を私がたたくのは、もはや歓喜からではなくて、腹立たしさからであり、その木立からは、それがパノラマの画布に描かれた木々であったかのように、もはやどんな生きた人間も出てはこず、そのようにして私は、あんなに自分が欲した女を腕にだきしめないうちに家に変えることをあきらめかねる気持ちで、しかも同時に、途上にその女があらわれる偶然の可能性がますますすくないことを自分自身に認めながら、コンブレーへの道をふたたびとらなくてはならなかった。」(p265)
あるときは奥行きを表し、あるときはただの平面を表わす。謎を平面にし、平面に謎を見る。パノラマの両義性。




20010605

 ゼミとか会議とかいろいろ。
 夕焼けがものすごいので琵琶湖畔でなごむ。




20010604

 「浅草十二階計画」に掲示板設置。

さらに「失われた・・・」メモ
◆話すことは運動能力をもたせること、という考え「しかしひとりのときでも、彼女は何かしゃべらないで長くじっとしていることはけっしてなかった(中略)つまりどんな些細な感覚にも一種の運動能力をもたせていたのであって・・・」(p85)ほとんど最近の正高信男氏の発声観「発話行動はジェスチャーの一部」と重なるところあり。
◆ステンドグラスについて「そとが薄ぐもりなら、教会のなかは晴れにきまっていた」(p99)
◆塔は最初に見える町である(p105)
◆「あの塔がピアノを弾くとしたら、たしかにそっけない弾き方はしないだろうね」(p107)
◆「その空はまた、鐘塔におさえられて軽くくぼんでから、ふたたび鐘塔のまわりにふくれあがっていた」塔への遠望、奥行きの逆転(p109)。
◆「そのころ私は演劇を愛していた、プラトニックな愛だった、なぜなら両親がまだ劇場に行くことをゆるしてくれなかったから、それで私は人が実際にそこへ行って味わうたのしみをずいぶん不正確に想像したもので、観客は一人一人が、実体鏡(ステレオスコープ)をのぞきこむように、自分だけのものでしかない一つの舞台をながめるのだ、その舞台は残りの観客がながめている他の多くの舞台とおなじものではあるが、各人は自分だけの舞台をながめているのだ、ざっとそのように思いこんでいた。」(p122)ステレオスコープを覗く孤独。皇帝パノラマ館的。
◆塔とパノラマ「日曜日にはこのパノラマの美をながめようとずいぶん遠方からでもやってくる団体の人たちがあとを絶ちません」(p178) 「とりわけ、ふだんは一方がかくれて他方しか見られないといったものが、同時に一望のもとに見わたせるのです」「サン=チレールの鐘塔からは、まるでちがいます、運河は網の目を全部あらわし、そのなかにこの地方がとらえられています。ただ水だけははっきり見わけられません、いわば大きな割目がいくつもじつにうまく町を区切っているので、町はまるで大きなブリオーシュにすでに庖丁が入れられたがまだ各片がくっついているといったふうに見えます。」(p179)




20010603

 この前から「失われた時を求めて」をちびちびと読んでいる。専門書でもない十巻もの本に付き合うのに気おくれがして(たとえ専門書でも十巻ものなら閉口するが)、なんとなく遠ざけていたのだが、この前読んでた松浦寿輝の本に、この小説のオチに触れているところがあって、やばいやばい、オチ読んじゃったら、一生読む気がしないかも、と思って本を閉じて以来、なんとなく気になっていた。
 じつは何年か前、どういうきっかけか忘れたが、読んでもいいかも、と思って一巻だけは買っておいた。文庫本のくせにやけに重たいので結局開かずに本棚にさしたままだったのだが、この前、本棚の前で(自室なのに)立ち読みしてたら、そのまま30分くらい立ったまま読んでしまい、なんとなく読んでみようかという気になった
 といっても、福田和也のように「ひと月百冊読んで三百枚書く」矜持を持ち合わせているわけではないので、トランキライザーがわりに少しずつ。すぐに考えがアサッテに飛ぶので、なかなか進まない。
 ちょっとメモ。

◆語尾上げ言葉に近いセンスを持つ「失われた時をもとめて」のスワンの次の言葉。「新聞に載せるべきものは、さあ、なんでしょうか、たとえばあの・・・パスカルの「パンセ」!(彼はこの言葉をわざと皮肉な調子で切りはなし、衒学的な口調にならないようにした)。(ちくま文庫第一巻P43)
◆写真と絵画と版画。写真が台頭し始めた時代における、アウラ信仰の俗世間的な形。単なる写真<名画の写真<名画の版画 というセンス(P67)。
◆音読について。「彼女の感受性の音域に全部入ってしまうような文章」(P70)。

夜、NHKアーカイブス「24時間都市」。夜の開発のための音楽。そうかあいねくらいねなはとむじーくってそういうことだったのか。そんなに耳を、かまなーいーでー。




20010602

 「浅草十二階計画」に参考テキスト・解説を追加改訂。
三友館キネオラマ広告(明治四一年)
徳川夢声「自伝夢聲漫筆 大正篇」(昭和二一年)より




20010601

 「浅草十二階計画」に参考テキスト・解説を追加改訂。
岡本綺堂「一日道中記」(明治二四年)より
金子光晴「十二階下の女たち」(昭和二九年)より
喜多川周之「凌雲閣」(昭和六二年)より


 谷崎潤一郎=渡辺千萬子 往復書簡(中央公論新社)。降伏の旗を掲げながら征服しようとするやり口。渡辺千萬子の、ほどよい無視を剛胆だと思う。手紙という唯一の平面。パソコンのエディタがどう模そうとも追いつけない、谷崎のかな釘文字。





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