月別 | よりぬき


19981031
鍵盤の上で唯一正当なのは、八度の音程だ。八度は正しい。その他の鍵盤は、五度に合わせて調律するんだ。そうすれば、ドからは調和のとれたソができるし、ドからソ、ソからレ、レからラ、ミからシ、ファのシャープ、ソのシャープ、レのシャープ、ラのシャープ、ミのシャープ、そしてシのシャープという具合にね・・・・・・。が、そこでシのシャープはドにならない。音階が閉じないんだ。音階は永遠に続く。閉じることがない。十二音階は作れないんだ。ずっと、ずれ続けてしまうからね。螺旋状に宇宙まで飛び出してしまい、もう戻ってはこない。決して元の音には戻ってこられないんだ。(「アントニオ・カルロス・ジョビン」/エレーナ・ジョビン/国安真奈訳/青土社)

平均律とか純正律とかいうことばでアントニオ・カルロス・ジョビンは語らない。これはむしろ、彼の作る曲の話のよう、まるで「ディザフィナード(調子っぱずれ)」のようだ。たゆたうように岸を離れていくハーモニー。そしていつかハーモニーは帰り着く。ディザフィナードはEbではじまりEbで終わる。でも、ほんとうに元の場所に戻った気がしない。別のEb、別の岸辺にたどりついたような気がする。

調律用のドライバーを買ってね。まだ子どもで、十四くらいの時だったかな。しょっちゅう、ピアノを調律したり狂わせたりしていた。あとで、ドビュッシーも同じことをしていたと、本で読んだよ。つまり、ちゃんとピアノを調律してしまうと、音階が閉じないんだ。

▼というのを読んで、今日行った京都のギャラリーに置いてあった、携帯用のワインの栓抜きを思い出した。螺旋の部分に金属のピンがはまっている。それをはずして、螺旋の頭に空いた穴に通してやると栓抜きになる。ピンを回して螺旋をねじ込む。あれはポケットに忍ばせていたい重さだった。

▼十代のときにいわゆる1001のようなポピュラー名曲集を買って、いちばんひっかかったのが、モンクの「ラウンド・ミッドナイト」とジョビンの曲だった。そのときは、どちらの曲も聞いたことがなかったので、こんなコード進行の曲はすごくゴツゴツした前衛的な曲に違いないと思った。じっさいに聞いてみると、モンクのはやっぱりとてもごつごつしていた。ところがジョビンの方は、なんのとっかかりもなくどんどん流れた。すごくショックだった。ジョアン・ジルベルトやアストラッド・ジルベルトは音痴なんじゃないかと思った。ポルトガル語の音には、きっと一つの音程から逃れていくフォルマント変化が含まれているに違いない。

▼「アントニオ・カルロス・ジョビン」。ガンにかかった身体に降霊術をほどこす話。遺伝子を語るときに、4代前まで遡られるエピソード。繰り返し語られる森とイパネマの浜。ほんの少し体の向きを変えるだけで変わる水の色。水をかき続ける手。なめらかな波を泳ぎ抜くような時間が流れている曲。

▼「ボクのおんがくせいゼロときみがせんこくくだすなら べんごしようボクのうた このボサノバはとってもナチュラル しんじようとはなぜしない  おんちにもこころのあることを」(「デザフィナード」谷川越二訳)できたのは1958年。いま聞くとボサノバからの世界の音楽(ジャズを含む)への異議申し立てのような歌詞。

▼日本版にもなっている「The composer of desafinado plays(イパネマの娘)」や「Wave(波)」あたりは、あまりにスムーズで聞き流せ過ぎる。ぼくがジョビンにやられたのは、これらのアルバムの間に録音された「The wonderful world of A. C. Jobim」と「A certain Mr. Jobim」だ。それは、この二つのアルバムに彼のボーカルがいっぱい入ってるからだ。「She' s A Carioca」。She'sと英語で始まりながら、ポルトガル語の母音でCariocaと歌われるときののびやかさ。ゆっくりとクロールをかく手で伸びきろうとする声。

▼ルネ・ラリックの楕円形の塩入れ。リンが混ぜられて、ガラスに濁った乳白色の模様が浮かぶ。ガラスにオランダの風車がエナメルで描かれている。光に透かすと、エナメルの模様は手前にあって、濁りが奥行きを付ける。ガラスの厚みに応じて濁りが渦を巻く。

19981030
▼「エスノメソドロジーの本で出てきた話があって、そういう権力構造に興味があるんですけど・・・」

「どういう話?」

「ええと、男の人が、ほんとうは浮気してないんですけど奥さんに浮気してるんちゃうかって疑われて、で結局浮気したって言っちゃうんですよ。で、その後、だんだん自分がほんまは浮気してたんかしてなかったんかどっちが本当かわからんようになるって話で。で、そういう、客観性の問題とか」

▼「ふーん、その客観性ってことばの使い方はなんだかよくわかんないなあ。そういう現象に興味があるってことは、君の実際の体験になんか思い当たることあるの?」

「うーん、あ、ひとつ思いつきました。ぼくがテーブルの上の紙を探しててぜんぜんみつからへんで、で、もうそれはテーブルの上にないものと思ってて、そこへあとから来た友達がテーブルの上にあるのを見つけたっていう。もし友達が来てへんだら、テーブルの上にはないっていうのがぼくにとっての現実やったはずやけど、でも友達が指摘したからテーブルの上にあるってのが現実で、でも、ぼくはなんぼ探しても見つからへんかったし、どっちがほんまなんやろうっていう」

▼「うーん、それは浮気男の話とちょっと違うんちゃう?浮気男の場合はさ、単に現実はひとつじゃないって話とは違うと思うな。▼その男は自分の身に覚えがない嘘をついたんだけど、その時点では多分、単なる嘘で、別に現実感揺らぐほどのことはなかったと思うのよ。ところが、その後、奥さんと生活していく中で、奥さんが男を浮気男として扱うし、自分もそういう男として答えるし、ってやりとりを繰り返すわけだよね。あるいはお互い浮気の件にはあまり触れなかったとしても、ふとしたことばの端々や沈黙に、男は奥さんが浮気のことを忘れてはいないことを感じたりしちゃうわけだ。そうやって奥さんと自分との関係の底に「浮気」の存在が感じられてきちゃう。食事とか会話とかセックスとかが毎日毎日浮気とつながり折り重なって、浮気が事実であろうがなかろうが、浮気をめぐって奥さんと自分がいろんな行為でつながっちゃう。すると、たとえ浮気じたいが嘘でも、そのつながってる他のできごとは動かせない事実でしょ。浮気の体験じたいは思いだそうとしても思い出しようがない。やってないんだから。だけど、いっぽうで、奥さんとの関係によってその空虚な浮気を取り囲むように確固たる浮気空間が構成されてるので、補集合みたいに浮気にリアリティが感じられるわけよ。それくらい、日常の人間関係には現実を構成する力があるんだから、ナメたらあかん、ってのが話のポイントじゃない?
▼ところで、テーブルの上の紙の話ってのは、もしかしたら見つからなかったかもしれない紙ってのを想定するから現実感揺らぐ気がするけど、じつは『あ、自分が気づいてなかった現実があったんだ』で納得できちゃう話でしょ。
▼ただ、こういう場合はちょっと浮気男に似てくるかもね。たとえば、その友達が、じつはその紙を君に黙って借りてたんだけど、それを言わずに紙をテーブルに戻して、いかにも自分が見つけたように「あった」なんて言う。で、君がとっても彼に感謝して、ことあるごとに「こいつは捜し物の名人でね」なんて人に自慢したとする。でね、現実感がだんだん揺らいできたりするんだ。君じゃなくて彼の方がね。▼つまり、君のために紙を見つけてあげた捜し物の名人の自分、ってのが、だんだん彼の中で重くなってくる。で、君が彼を誉め、人に捜し物の名人として紹介すればするほど、捜し物の名人を巡る関係が動かしがたく構成されて、彼は捜し物の名人を生きなくてはならなくなってくる。
▼あるいは、ここに友達の代わりに義母がいてだね、借りていた紙をそっと返してから「ここにあるじゃありませんか。ヨシコさんはうっかり者ですね」などというとする。そして君の代わりにはヨシコさんね。そのヨシコさんが「さっき見たときは確かになかったのに、細工しやがったなこのクソババア」と考えるなら、話は橋田寿賀子ワールド。でも、ヨシコさんが気弱だったりすると「あ、もしかしてわたしはこんな目の前の紙にも気づかないダメな嫁なのかしら」なんて思っちゃうわけだ。で、ことあるごとに、うっかり者うっかり者なんて言われてるうちに、ヨシコさんはどんどん身に覚えのない過ちにおびえるようになる。これが、浮気男的世界。山岸涼子ワールドだね。山岸涼子ワールドの現実感の揺らぎが恐いのは、単に現実が何通りもあるからじゃなくて、無いはずのできごとを取り囲むように濃い人間関係で構成されたできごとががっちりとあって、現実だろうが現実でなかろうが逃れられなくなっちゃうからなのよ。」

▼「じゃ、こういうのはどうですか。前にみんなで話してたときに、ぼくがある人についてちょっと話したんですけれども、A君がその人と知り合いで、それはこうこうこういう話やって言って、話を切っちゃったんですよ。ぼくはじつはその人について別のことを議論しようと思って切り出したんですけど、考えてたのとなんか違う話にされちゃったというか、ぼくはちょっと誤解されちゃったというか。」

▼「うーん、気持ちはわからないではないけど、話題が別な方向に行って無念と君が思っているのなら、それは浮気男とは別の話じゃないかな。君は自分の思ってたのと違うその方向を、あたかも自分の思ってた方向だと信じてるわけ?じゃないよね。▼そこには別の面白いテーマはありそうだけどね。つまり、なんで無念な感じがするかっていう点が面白い。君はたぶん、自分の提供した話題のゆくえが、自分のイメージを左右するものだって思ってるでしょ。だからその話題の結論が自分の思ってたものと違うと、まるで他人から自分が誤解されてるみたいに感じるわけだ。でも、君がその話題を提供したからって、君の思惑どおりに話題を進める必要はその場の人にはない。それに、その話題の結末が直接君の評価に関わるとは限らないでしょ。もしかしたら、その話題を君が提供したことを、誰も気にとめてないかもしれないよ。▼それでも、自分の出した話題があさっての方向へ行って終わっちゃったとき、なんだか居心地が悪いって経験は誰にでもあるよね。たぶん、こういう居心地の悪さには発言の帰属感とか著作権といった問題が関わってるのかもしれない。それはそれでおもしろいテーマだと思うけど、浮気男の話とはずれてるね。▼生きることができたかもしれないのに生き損なった現実、ってのはさ、また何度でも生き直せばいいんだよ。生きるつもりがなかったのに気がついたらのっぴきならなくなってしまった現実ってのが浮気男の問題なんだ。」
19981029
▼夕方、天気がいいので銀座街まで自転車を飛ばす。千代神社の裏の公園でかくれんぼをしている子供。木に手をついて数を数えている鬼をひさしぶりに見たよ。古道具屋にぶらりと入って、女主人と昭和6年に建ったスミス記念堂の話。和洋折衷の教会はいまは道路拡張で取り払われてから移転先が決まらない。ここでも、車の論理で町が飛ばされる話だ。▼おそらくたくさんの予算が使われたであろうあの人工的な夢京橋キャッスルロードをぼくは好きになれない。それは、メインストリートが小路に誘うようなファサードを持っていないからだ。たとえばすぐそばのアーケードへの入口が、なぜいつまでも中途半端でガサツなのか。銀座街へと曲がるあたりで、なぜあんなに通りがよそよそしくなるのか。指の動きを鈍らせるためのQWERT配列で特打ちをするように、敵の侵入を防ぐべく複雑にした城回りの道を車がうねうねと飛ばしていく。彦根市が街づくりと称してなんらかの活性化をめざすなら、この街が、歩くということの楽しみを取り戻すことが必要だろう。角を曲がること、アーケードをくぐることに、隠蔽と露出を設けること。街の奥行き。▼サニーデイ・サービス。ホールでライブを見るのって何年かぶりかもしれない。たっぷり2時間半。泣けるぜ24時のブルース。そこで歌われる街、振り下ろされるストローク、すみたい街のありか、暗い海、車輪の音をなぞるスネアドラムの前進、夏、を聞いて1時間ののち、すっかり厭世的な気分になって、もうこうやって走る街もいつもはやりすごしている押しつけがましいファーストフードの惹き文句もこの季節も大嫌いだと思いながら、それから先はヘヘイヘイ。
19981028
▼通りかかったペットショップに入ったら「生体の返品交換はお断りします。」と筆ペンの字。もうもうたるペット臭。▼銀座商店街の角の空きビルを学生の情報発信基地にする計画がある。テナントに捨てられた空きビルが引きずっているだらしない空気。そこに少しずつイベントのくさびを打ち込んでいく力。プロジェクトは動き出したところで、二階はもとヘアサロンでパーマ液の古いボトルが床にずらずらと並んでいた。交差点に面した窓。ゆるやかに渦を巻いている空気。帰りに車の中で「あそこ、出るんですよ」と誰かが言う。
19981027
▼ギャラリー白い点から「石川九楊展 −追悼田村隆一−」の案内。ぼくぼくとぼくを連ねてちっとも嫌みじゃなかった田村隆一。
19981026
▼教育TVを付けたら、クレーの線画のような、うずまきや枝でできた図形がでてきた。それについて「時間を計算して」とか「本線と支線」とか言っている。これはどこかの街の路線の設計図なのか、それとも何かの思考過程のモデルなのか、はたまた「月曜スペシャル、古代の遺跡はいかにして作られたか?!」なのか、などなど、めくるめく妄想が渦巻いたが、じつはドミノ倒しの設計図だった。
19981025
Alter Egoにさらに文章を追加。現在12個。

▼人間を心身に分別する代わりに、人間を燃えるゴミとプラスチックと缶とビンとその他陶器類など、に分別するのはどうか。皇帝の位に属するものとそうでないものに分別するのは。Phewは海と山に分けた。ゴミ袋のかわりにバケツを用意した。詩人だ。

▼「翻訳の方法」(川本/井上/東京大学出版会)。明治に漢文みたいな英文訓読があった(p200)なんて知らなかったよ。なにがなんでも見掛け上の単位にひとつの機能が対応するべきである、という信念。▼関係詞節の前が長いときはコンマのあるなしに関わらずおおむね前から訳したほうがよい、という経験則は、翻訳家の意見でもあることを確認。学生の人が翻訳に苦しんでるのをみると、修飾句がやたら長い文の場合が多い。修飾句をうしろから訳してる間に前の句が頭から飛んじゃってるのだ。おそらく前の句を短期記憶にほうりこんでから修飾句を考えるうちに、短期記憶時間の限界がやってきて前の句が抜けちゃうのだ(あまり本気にしないように)。

▼第二章で「かくれた次元」がとりあげられてるので(p33)、ぼくも試訳。

▼原文:In addition, animals don't rationalize their behavior and thus obscure issues. In their natural state, they respond in an amazingly consistent manner so that it is possible to observe repeated and virtually identical performances. By restricting our observations to the way animals handle space, it is possible to learn an amazing amount that is translatable to human terms.

▼「翻訳の方法」訳:次に,動物は自分の行動に理屈をつけたりしないので,問題の所在が暖昧になることもない.自然の状態にあるとき,動物は驚くほど一貫した反応を示す.そのため,実質的に同じ行動の繰りかえしが観察できるのである.動物が空間に対処する方法に観察の対象を限定することで,われわれは人問にもあてはまる驚くほど多くのことを学ぶことができる.

▼EV訳:さらに、動物は自分の行動を説明しようとしたり、その結果問題をあいまいにしたりはしない。自然な状態では、動物は意外なほど一貫したふるまいをするので、ほとんど同じ行動がくりかえし観察できるのだ。動物が空間に対していかにふるまうかに観察を絞れば、そこから驚くほど多くのことを学び、それを人間のことばに置きかえることができるだろう。

▼お手本を見ないで訳したんだけど、けっこう似てる。でも細かいとこで違うなあ。たとえば、「くりかえし」を観察に修飾させるようなガサツさ(?)はお手本にはない。最後の文も、ぼくのは前から訳し過ぎ?▼で、お手本の解説では、"human terms"を"in term of"にひっかけて、「人間に関すること」と訳してるんだけど、translateということばのニュアンスを伝えるには、「人間のことば」もありだと思う。▼「人間のことば」という訳語を考えるとき、ティンバーゲンの「動物のことば」っていう本のタイトルが浮かんだりする。ローレンツの「ソロモンの指輪」っていう本もあった。むかしの動物行動学には、動物の行動を、動物の「ことば」として捉えるセンスがあった。もちろん動物の行動が人間のことば体系と同じように分節されてるとは限らない。でも、動物の行動になにがしかの機能を見出し、それをヒトのことばに置き直し(もしくは勘違いし)、それを、動物の「ことば」なんて言っちゃったりする茶目っ気てえもんが、かつての動物行動学にはあったわけだ。あえて、「ことば」と呼ぶことで、それが人間のコミュニケーションツールである「ことば」とはどんなに違うコミュニケーションのあり方かがかえって強調される、そういう感じ方。▼ちなみに「かくれた次元」は日高さんの訳で、手元にあるんだけど、うむ、けっこう訳は硬い。でも、amazinglyを「おもしろいほど」と訳してるあたりに、動物行動学者のまなざしが表れている。そうなんだよなあ、おもしろいほどおんなじなんだ。トンボの羽に番号をつけて離すと、次の日もおんなじところにやってきたりする。そういうときに「おもしろいほど」って思うんだよなあ。
19981024
▼ひさびさにAlter Egoの文章を入れ替え。新しい文章が7つ+旧作1つ。

▼借りっぱなしで見ていなかった「lain」を6話まで見る。ストーリーはまだ最後まで見てないから置くとして、アニメのディティールはエヴァとはまた違う新しさ。特に音。アラン・タムのような電線ドローンや、声にかけるエフェクタの細かさなど。クマの着ぐるみパジャマを着て父親の部屋に行くこと、画面を見て父親が笑うタイミング、そうした細部からわからせてしまう力。細部の力に翻弄されかねない(もしかしたら月並みな)ストーリーの行方も含めて、この先がたいへん気になる。▼それよりなにより、このBOAの歌うオープニングにやられちゃったよ。あー、サンデイズ以来だよ。そういえば、「恋する惑星」のフェイ・ウォンがサンデイズをよくカバーしてたなあ。▼例によって夜中前にCD屋を物色するが見つからず。彦根ではまだやってないからかな、「lain」▼Phew & 山本精一の「幸福のすみか」Phewの歌声は、いつもぞっとするような違和感で始まる。この世にたくさんの歌はいらない、「バケツの歌」さえあれば。赤と青のバケツ。からだを分別して捨てる方法。聞きながら腕組みしてたら、腕組みに猫が乗った。手の甲を肉球ががさごそして、眠りによい位置を探している。腕組みを右腕と左腕に解く方法を考える。
19981023
昨年出た「『私』は脳のどこにいるのか」(澤口俊之/筑摩書房)を読む。▼ワーキング・メモリが意識や自我のありかである、というときに彼が何度か引き合いに出すのが、遅延反応だ。たとえばサルのオリの前に左右二つの選択肢を置く。選択肢の片方が正解で、そちらを選ぶとエサが出てくる。さて、正解をまず見せてからオリに蓋をする。すると、その間、サルの脳内のワーキング・メモリがぱちぱちと反応する。で、蓋を開けると、サルは正しい選択肢を選んでエサにありつける。で、このワーキング・メモリを薬で一時的にはたらかなくすると、サルは正しい選択肢を選ぶことができない。▼ここまでの話だと、ワーキング・メモリは、いわば、記憶の保持の場所でしかない。しかし、意識、という現象は、一定期間一定の状態でなにかが持続し続ける現象ではない。

▼しかし、次のように言うことはできるかもしれない。ワーキング・メモリのさまざまな部位が反応し抑えられる、そのうつりゆきは、まるで意識のようだ、と。▼こうしたワーキング・メモリのうつりゆき、つまりどこがいつ反応し抑えられるかは、ワーキング・メモリ内で決まっているのだろうか。澤口氏はおそらくそうだと考えているようだ。
「ワーキング・メモリは一連の統合過程をふくんでいる。つまり、行動や決断に必要なさまざまな情報−感覚情報のほかに、行動のルールなどの長期記憶(参照記憶)もふくむ−をオンラインにのせつつ統合して、適切な答え(行動・決断)を導く一連の過程が『ワーキング・メモリ過程』である。」

▼では、「オンラインにのせつつ」というが、そのオンラインにのせるか否かはどのような過程で決まるのか。その過程はワーキング・メモリ内で閉じているのか。▼この本では、もっぱら視覚による空間認知に関するワーキング・メモリが取り上げられており、そのため46野がクローズアップされている。では視覚以外の感覚に関わる作業や、運動の制御に関わるワーキング・メモリはどこにあるのか、それらを考えるためには脳内の別の場所を考えなければならないのか、異なる感覚間の相互作用はどうなのか、長期記憶から何かが引き出される過程はどうなっているのか、などなど、とあれこれ問題を思いつく。その意味で、刺激的な内容になっている。▼「オンライン」ということばの使い方が微妙でおもしろい。「オンライン」は意識上で「オフライン」はサブリミナル、という含意があるのだろう。ネットワーク(とくにチャットやオンラインゲーム)につないでいるときに体験する、妙にネットワークハイな状態を連想させる。

▼いっぽうで、この本で扱われている「意識」のありようには違和感も感じる。▼意識、というとき、意識にのぼること、がしばしば問題になっている。つまり、意識される現象が考えられ、それがワーキング・メモリ内にあるかどうかが問われている。しかし、そのようなあり方だけが意識だろうか。

▼意識、とは、何かを忘れることではないか。▼つまり、意識するとき、ぼくは何かを「オンライン」化すると同時に、何かを「オフライン」に押し込めているのではないか。▼つまり、単にあるできごとがワーキング・メモリ上で扱われている状態だけが意識なのではなく、Aというできごとが扱われている最中にBというできごとに「参照候補」というタグをつけられ、内容が忘れられその参照候補性だけがワーキング・メモリ上でループしている状態が意識、なのではないか。▼意識があるできごとをとりあげながら、あるできごとを排除し、それでいて排除されたできごとがまったく捨てられるのではなく、名前のない不快なかたまりのようにぶらさがること。▼つまりぼくは、「記号」のことを考えているのだ。
19981022
▼タコ焼き屋で順番を待ってたら、前にいたおっちゃんが「寒いな、車で来たらよかった」と話しかけてくる。▼「見知らぬ乗客」を買う。といっても、さっきのおっちゃんが交換殺人を持ちかけてきたわけではない。イギリス版とアメリカ版でオチが違うとは知らなかったな。▼冒頭をなぜ足だけのシークエンスにしたかということについて、ヒッチコックは「映画術」の中で「論理」ということばを使う。線路をたどるシーンも含めて、そう撮るのが「論理的」なのだ。地面をつたい地面を這う線の論理。▼足が重力に逆らおうとするときに触れあう靴。二人は線の論理を破ることで話し始める。線の論理を追いながら、観客は線が破綻することを期待する。それがサスペンス。▼小さい頃、誰もがやるように、電車の最前列で線路を見つめていた。切り替えポイントのレールの隙間を見て、あ、次は右に曲がるな、と思う。もうすぐ曲がる、もうすぐ曲がる、いま曲がる。まだ曲がらない。脱線か?と思ったとき、少し遅れて、車輪がポイントを捉える音がする。列車がカーブを切り始める。▼その、ガタンと曲がるときの恐いこと。こちらの思いこみに遅れるできごとの怖さ。もしかしたら、この線路は、この列車のゆくえと全く関係ないのではないか。だとしたら、この列車はどこへ行ってしまうのか。論理を思いこませ、論理を裏切る。「見知らぬ乗客」は、そういう風に恐い。▼コタツをつける。猫を入れる。猫が足に触れる。コタツ猫の論理。▼
19981021
▼とんでもない夕焼け空がまっかっか。東から西まで全部夕焼け雲だよ。こういうときは琵琶湖畔にいてよかったと思う。部屋の灯りを消してしばし夕焼けに染まる。▼夜中過ぎに帰ったら猫がティッシュの箱を表返して中身を全部畳の上にばらまいていた。引っぱり出さないようにわざわざ裏返しておいたのに。やれやれ、どっと疲れるなあ。▼一枚また一枚と指が柔らかい紙に触り、引き出し、鼻をかみ、それが降り積もり、やがて突っ込んだ指がボール紙をさぐりあて、ああ一箱使っちゃったよと感慨にふけるに足る時の歩みってえもんが、ティッシュの空箱ひとつにも宿ってるんでい。そんな積分時間を盛大に蹂躙してくれちゃって▼それとも、ティッシュ一箱に足る積分時間を使って遊んでくれにゃいからだにゃー、という異議申し立てにゃのか、この狼藉は▼猫はにゃーにゃー鳴いて膝に乗るだけだ。その重みを感じながら、バウムクーヘンを全部スプーンでつぶして食う奴の無法さ、というのを考えてみる。あーなんか腹立つぞ。▼そうやって聞くガーシュインはとても甘い。自作自演版の「パリのアメリカ人」のうそっぱちなロマンス。▼サールの「中国人の部屋」に対するホフスタッターの反論は、「人はいかに他者(デモン)に心を見出すか」という問題を生態心理学的に解こうとする態度だ、と考えてみる。デモンの住まい、デモンの速さ、デモンの振る舞い。あんまり腹立たない。
19981020
▼ポゴレリチの「展覧会の絵」。オクターブを押さえながら鍵盤をすばやく離して残響をひびかせるスタッカート(こういう奏法にはたぶん専門用語があるんだろうな)。ハンマーのようなハンマークラヴィア。▼「高雅で感傷的なワルツ」の皮膚のように波打つピアノ。海のように、ではなく、皮膚のように、と思ったのは、波打つスタッカート波打つテヌート波打つスラーがどれも、強い張力で引っ張られているように感じるから。流体に波という面が現れるのでなく、面が波打って流体に近づこうとしている。▼猫が、こちらがいなくなるたびににゃーにゃーと切なげに鳴くことを覚えた。そのくせ噛みがきつくなってきた。手が生傷だらけだ。▼袋菓子を食べていると、寄ってきて袋に顔を突っ込もうとする。それは食べ物が欲しいためなのか、ぱりぱりという袋の音に引かれているだけなのか。▼そもそも猫は、人の「食べる」という行為を「食べる」こととして認識しているだろうか。指が袋に近づく。袋に指が隠れる。指が、ある物体とともに袋から現れる。そのある物体と指は、人の特定の場所に近づく。その特定の場所に指がふれ、物体がなくなる。特定の場所がもぐもぐと動いている。そこからときおり、パリとかカシとか音がする。しばらくすると、また指が袋に近づく。▼正確には、指とか袋とかいうことばすら猫は知らない。そもそも指、というものを、人という身体に属するものとして認識しているのだろうか、こいつは。▼ときどき近づいてきて頭にさわるもの。たまにミルクの匂いのする冷たいものがくっついていることもある。そのときはぺろぺろなめてやる。甘い味がする。▼猫にとって人の指とは、たかだかそんなものではないのか。
19981019
▼日本語研究には「あいづち」を扱ったものがいくつかあるが、「あいづち」の定義は意外と難しい。▼あいづち:人の話を聞きながら、同意・同感のしるしにうなずく。人の話に調子を合わせる。もと、刀を作る時など、相手となって槌(つち)を入れること。むこうづち。(岩波国語辞典)▼と、辞書にあるように、「あいづち」には、同意・同感のような意味上のはたらきと、調子のようなタイミング上のはたらきがある。さらに「うなずく」こともあいづちのようだし、発語じたいもあいづちのようだ。▼とりあえずは「あいづち」を発語に限って、形態と文脈とタイミングという異なる手がかりからみていこう。▼形態。どんな形態でもあいづちになりうるわけではない。それは「うん」「ああ」「ふむ」など、適度な短さを持つ。「そんでな」「いやまったくあんたのいうとおり」「おれが昔」「ほんま大将かないまへんな」こういうのはあいづちとはいわない。▼文脈。ひとつの形態が文脈によってあいづちであったりなかったりする。たとえば「うん」ということばは「あなたは神を信じますか?」「うん」のようにイエス・ノーを意味することもあるし、「そんでな」「うん」「もうめちゃめちゃ神信じててな」「うん」のように、あいづちと言ってよさそうなものもあるし、「おれって神信じてるやん」「うん」「そんでな」のようにあいづちのようでもイエス・ノーのようでもあるものもある。▼タイミング。あいづち、は相手の発話の途中に入れるものではあるが、この「途中」の判定がまたむずかしい。
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1.
a1「おれ、神信じてるやん」
b「うん」
a2「・・・そやからいろいろ考えるところあってな」
2.
a1「おれ、神信じてるやん」
b「うん」
a2「そやからいろいろ考えるところあってな」

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2に比べると1はややイエス・ノーじみている。▼タイミングを決めているのは、あいづちを打つ側だけではない。じつは1と2の差は「うん」といっているbにあるというよりも、話者aがa1とa2のあいだにどれほどの間をおいたかによっている。▼となると、あいづち、という現象は、単にあいづちを打つ側によってなされているのではなく、会話をしている者どうしの協同作業である可能性がある。つまり、あいづちを打たれる側が、自分の以後の発話を淀みなく続けることによって、あいづちをあいづちとして承認しているのかもしれない。▼もうひとつ、協同作業によるあいづち例。話者によっては語尾を伸ばすことで、あいづちの場所を提供し、あいづちを誘っているように見えることもある。「それでえ」「うん」「神を信じてたらあ」「うん」「たいへんなことが起こってえ」「うん」もちろん、あいづちを打たずに黙って聞くこともできる。▼あいづちを厳密に定義するよりも、グレーゾーンの「うん」を含めて次のように属性別に考えてみるのはどうか。うなずきを伴うか否か。視線の変更を伴うか否か。単発か否か。そこでは「うん」という側と言われる側にどのような傾向が見られるか。あいづちという原因による発話の促進、といった因果関係に囚われるのではなく、あいづちという現象をめぐる協同作業にどのような質的な違いがもたらされるか、ということに注意しつつ。
19981018
▼都立図書館に行ったら休みでやんの。▼そういえば、地下鉄のメトロカードがらみでよくポスターをみかける太田記念美術館に行ったことがなかったと思い、原宿へ。月岡芳年の月百景の展示だった。なんだか月づいてるなあ。薄青い墨で掃いた月の光。本歌どりをしていると現れる月夜の怪物。月夜の出歯亀。▼風俗三十二景の猫のような塊。▼イランの歌姫、アラブのブリジッド・バルドー、グーグーシューのビデオを買う。▼彦根へ。グーグーシューのは、ダビングがよく効いた画面。もはやどこの国の音楽かわからないバチアタリぶりと、同一人物とは思えない顔の変貌ぶりがたまらん。▼猫シャンプー。膝の上に乗せてドライヤーをあてるとおとなしくするようになった。
19981017
▼夜行バスで池袋へ。朝の5時に着いたので、朝一の喫茶店で本を読んでから世田谷美術館のタレル展へ。開館の一時間前に来たのにすでにガスワークスは定員を突破していた。先頭の人は夜中の一時から並んでいたらしい。日本シリーズやないちゅうねん。朝の6時にはすでに定員に達したという。「最後は赤とか青になってピカチュウみたいになるらしい」との噂。つまりピカチュウ人気なのか?「みなさん朝早いようですが、体調の悪い人は注意してください、これまで何人か倒れてますから」と館員の人が言いどよめきが起こる。いま、他の人と同じように、床に座り込んでこれを打っているところ。

▼暗い回廊を歩く。非常口サインが赤色になっている。ここが特殊なくらがりだと告げている。ゆっくりと目を慣らしながら進む。▼回廊を曲がって、部屋に出る。正面に赤い長方形がある。布がありえない遅さではためいているかのように、赤が揺れている。一歩ずつ確かめる。揺れの理由が自分の動きによるものなのか、作品によるものなのかわからない。わからぬまま、作品の前まで来る。目の前でなお、それは布のように淡く揺れて見える。そばの人が覗き込む。彼の頭が布を貫通してしまう。それは布ではなく、窓で、窓の向こうには奥行きのある面からの散乱光が充満していたのだ、とわかる。▼作品に近づく時間があり、近づきながら各地点で流れる微細な時間があることに気づく。▼遠ざかりながら、それが光の空間であることを頭の中で維持し続ける。もはや、それは布の戯れではなく、雲のような、淡い空間の密度の揺れに見える。空間に見えるか面に見えるか。その確率は、この広く取られたアプローチの中で微妙にクロスフェードしているらしい。が、どちらの最小値もゼロではない。▼後ろに下がってベンチ状の張り出しに坐る。赤はなお揺れている。空間と面の間を光が揺れている。館員の人の話だと、この赤の光源は外の自然光らしい。▼両側の壁にかすかに当てられたスポットライトも気になる。それは赤色の白熱ランプに補色である緑の色板を当てたものだ。白壁に緑と赤がにじんでいる。それが残像となり、部屋の暗がりや正面の赤を見るときにちらつく。これはにじみの種のようなものか。▼この大きさ。面を見つめるうちに面でなくなり、エッジから逆に内側にたどって面を確認したくなるこの感じ。どこかであったことがある。ロスコだ。

▼11:50からライト・サロン。正直言ってピンと来なかった。交絡要因が多すぎる実験という感じ。もし頭頂付近で色を感じるのが目的なら、アイマスクをした方がいいし、同じ台で継時的に色を変えた方がよい。他の台の色が目にちらついて邪魔でしょうがない。それに、足で光量を調節する台と手で調節する台では感覚が違うし、台を交代している間に感覚が逃げてしまう。頭頂付近で色を感じるからといって、頭頂にその効果が現れるとは限らない。頭からじわりと湯気が立つような気がしたが、それは床屋でかみそりを当てられるときの感じと同じだったと思う。

▼13:20からブラインド・サイト。暗順応の後に脳が得手勝手にぼんやりとした模様を感じるのを見る。無響室の視覚版といった感じ。情緒的には、赤の他人と二人一緒に入る、という点がおもしろい。そばに誰かがいるのに、そのいるはずの場所が、どんどん模様によってかき消えていく。感覚の手がかりの与え方としては、目の前の空間がどれくらいの広さなのか知らせぬまま坐らせる、という点がおもしろい。目の前を手で探ると柵があることはわかったが、その向こうはわからない。ホールから人の声が聞こえる。その反響ぐあいから、その目の前の空間の広さをああにもこうにも(文字通り)思い描く。それが曖昧な光のパターンとしてまとまったり崩れたりする。はじめは気がつかなかったが、一カ所、目の位置を動かしても変化しないぼんやりとしたエリアがある。入口から洩れている光?

▼次の「テレフォン・ブース」まで大分間があるので、図書室へ。▼カタログは売り切れてたので、図書室にあるのを読む。下條信輔氏の文章は科学のことばと美術表現の違いを明快に(それこそアパチャーのように)切り分けている。▼BTの佐々木正人氏とカタログの下條氏の論を比較すると、やはり下條氏の方に分がある。ギブソンは包囲光を考えたとはいえ、彼が注目するのは、あくまで、その中で身体を動かし、空間が明らかになる過程だ。▼ギブソンが航空シミュレーションから出発したようにタレルは航空体験から出発した。航空をめぐっていることで両者は共通しているが、ギブソンがシミュレーションを通じて記号化された光パターンの中での運動に注目したのに対し、タレルは雲や空の面や表面の出現と消失、あるいは空気感(彼のことばで言えば空間色)に注目した。▼面・表面・空間の変化を体感するには、飛んだり移動する必要はない。タレルの作品の前では、じっと坐っているだけでも感覚は変化していく。それは、あちこちの作品の前で観客が座りこみ、チルアウトルームと化していたことからもわかる。静止してなお揺れる赤を説明するには、身体を動かしながら結論が収束していくアフォーダンス理論より、脳内計算の過程で複数の答えが生じうる逆光学が近しい。▼ブラインド・サイトのぼんやりとした光は、わざわざ暗いスポットで照らしていたのだとカタログからわかる。それがいわば網膜模様のタネとなっていたわけだ。

▼ことばは科学にあり、非ことばは美術にある。では、美術批評、ということばはどこにありうるだろうか。▼ある作品に対するまなざしを徹底的にことばにしていこうという欲望は、ときとして科学者の方が強い。数年前のステレオグラムブームのときに、それは明らかになった。旧来の美術批評のほとんどは奥行きの中を動くまなざしについて語ることができず、二次元的な図と絵のことばで奥行きを語っていた。それはたとえば「3D美術館」といった、二次元の権威を確保しようとするかのような苦しい奥行きを生んだりもした。いっぽう、知覚心理学は、少なくとも驚きとともに動く眼球のありさまを語ることばを持っていた。▼だから美術批評がダメ、というわけではない。たとえば宮川淳は、空間色でも表面色でも面色のようでもあり、そのいずれでもない鏡を「不透明に凍った空虚」と書いた。それは心理学のことばではないが、自らまなざしを動かした末に明らかになった、ある視覚のありようを示すことばだ。

▼ところへ、カフェテリアの前の広場に降る雨が激しくなる。壁石が濡れたところだけが、墨絵で描いた松林のように、濃い灰色に塗り分けられている。その表面を面として見ようと試みる。さらに空間として見ようと試みる。空は前線の雲でなめされて、低い雲が行くのでそこが空間だととかろうじて分かる。激しい雨も空を見上げると雨粒とはわからない。建物の壁に目をやるとはじめて、雨足が見える。頭から湯気が立つような気がする。これはさっきの余韻ではなく、たぶん寝不足なんだろう。

▼テレフォン・ブース。シンクロエナジャイザーの大型版という感じ。寝不足のせいか途中から目が痛くて涙が出てきた。気持ちいい場面もあったが、それはすでに知ってる気持ちよさだった。なんだか熱過ぎるサウナに入ったという感じ。
19981016
▼「二百十日」の声。圭さんと碌さんにとっての隣りの部屋から洩れてくる会話。それはそのまま、読者にとっての圭さんと碌さんの会話でもある。それは阿蘇の薄の中と崖下の声のやりとりに通じる。圭さんは豆腐屋のせがれだと分かるがそれも洩れ来る声から次第に分かるので、始めからこうこうこういう奴だと分かるのではない。碌さんはしきりと圭さんの来し方を聞きたがるが、その碌さん自身からして、なぜ饂飩がきらいでなぜ圭さんについてきたのか、まるで素性が知れない。小説は場面を変えながら、まるで喫茶店で隣の席の会話を洩れ聞くように、声と場所以外の手がかりを欠いている。

▼人はいかにして自分のコップを決定するか。合宿のビデオを見る。わずか1分間に行われる「自分のコップを決定する作業」がまさしく顕微鏡でのぞくように見える。コップを確認する、という作業では、数の確認と、コップと人との対応という異なる問題が並行に処理されていく。

▼一葉の「十三夜」で「実家は上野の新坂下、駿河台への路なれば茂れる森の木のした暗侘しけれど、今宵は月もさやかなり、広小路へ出れば昼も同様」とあって、ああ、これはこの前の満月の夜のことだよ、と思い出す。琵琶湖のそばの街灯ひとつない、広々とした田んぼ一面に月が当たると、ひと畝ひと畝が遠くまで、まるで水を打って作った映画の夜のように明るく照らし出される。見渡す空は月光で濁って、プラネタリウムのような半円球になる。そういう淡い光のドームの中で、月夜のでんしんばしらはドッテテドッテテ行進したのだ。当たり前のことだけど、京都に暮らしているときはわからなかった。「格子は閉めずとも宜い私しが閉める、ともかくも奥が好い、ずつとお月様のさす方へ、さ、蒲団へ乗れ、蒲団へ」

月別 | よりぬき





Beach diary