午前中は「からかい」についてのデータ満載のセッション。田中剛太さん、権賢貞さんのデータがおもしろく、ついついその場でジェスチャー分析をしてしまう。
午後は概念分析と会話分析との再考についてのセッション。会話分析の、一種の常識批判的側面。既存の概念がどのように構成されているのか、ということを念頭に置きながら分析を進める態度について。
会のあと、品川の鳥料理屋で晩飯。最終の新幹線で米原→彦根へ。
午前中のセッションに高齢者会話を扱った発表が二件あった。社会言語科学会では珍しい。最近、高齢者の会話についていろいろ考えつつあるところだったので興味深く拝聴する。
今年は非音声言語の発表で一つのセッションが構成された。いよいよ身体行動が言語の学会で一つの領域を占めつつある。坊農さんは手話、城さんは同期現象の発表。私は「ジェスチャーの時間構造と隣接ペア構造」というお題でみなさまのご機嫌を伺う。あとで、ポリー・ザトラウスキーさんが質問しに来られてあれこれお話。
終わって大学近くで軽く打ち上げ。池袋で転校生を見終わったモモちゃん、juneさんと飯。ニッポニアにちょっと寄る。夜半を過ぎて森進一の「おふくろさん」鑑賞。うわあ。
来年度から理事を引き受けることになった。正直なところ、役員というのは私のもっとも苦手とするものである。こうした仕事は少ないほどよいと思っている。できるだけ仕事を減らすことに尽力したい。
懇親会から理事会へ。明日もあるので早々においとまする。宿に戻って明日の発表pptを作る。
阿佐ヶ谷で吉田稔美さんとアニメーション鑑賞。エストニアのアニメーション、異様な視点の連鎖。あまりに連鎖が速いので「軽い」感じがするが、性愛やシモネタとのシームレスなつながりも含めて、どうかしている。鑑賞後、どうかしているねー、と吉田さんとお茶を飲みながら、幻燈話へとスライド。
池袋にて。初演のときに見て以来、二回目。とはいえ、最初のシーンを見逃していたので考えること多し。その内容についてはいずれ「沼」で。
前回は二階席だったので、1F客席を過ぎる会話が全体的に遠く聞こえたのだが、今回は一階席で、すぐそばを通っていく会話が急にポップアップして、ずいぶんと感じが違った。
静岡から来ていた小二太さんに思わぬオミヤゲをいただく。帰りにビターラジオ君といっしょになる。渋谷で帰国直後の宇波君、モモちゃんと飯。
院ゼミで城さんに「模倣と同調と同期って、どこが違うんですか?」と聞かれて答えたことを書き留めておく。
ある行動とある行動が似ている、というときに、形の問題と同時性の問題を考える必要がある。
模倣では、形の問題が問われる一方、同時性の問題はほとんど関わらない。ある日ある時刻のAさんの行動を、別の時刻にBさんが真似てもそれは「模倣」である。
同調でも、形の問題が問われる一方、同時性の問題はあまり問われない。ただし、繰り返しと時間構造(周期性)が重要である。同調の前にはたいてい、同調していない状態があり、複数の個体がある行動を繰り返した結果、同調が達成される。たとえば、呼吸のタイミングがあってくるとか、ホタルの明滅が揃ってくる、とは、こうした同調である。
複数の異なる時刻に起こったことに対して「同調」という場合もある。たとえば、会話をするうちにターンとターンの間隔が一定になってくると「同調」と呼ぶ。この場合、ある時刻に複数のできごとが起こるのではなく、複数の異なる時刻に起こったできごとが同じ時間の長さを持っているので「同調」というのである。
同期では、形と同時性の両方が問われる。何かを言おうとして、つい同じ言葉を同じタイミングで言ってしまう場合(ユニゾン)や、同じジェスチャーを同じタイミングでやってしまう場合(Simultaneous Gestural Matching)がこれにあたる。
同調では、あらかじめ調子を合わせるための行動の繰り返しが個体間で起こっているので、何を同調させるかがはっきりしている。しかし同期は同調と違って、繰り返し構造がない(もしくは少ない)ので、そもそも何を同期させるべきかを、一発で推測しなくてはならない。
模倣は学習過程で起こりやすく、同調は繰り返し行動の中で次第に達成されるのに対し、同期は、それまでの行動連鎖から次にくる行動の形状とタイミングの両方を予測して一気に行う。
水谷彰良『イタリアオペラ史』(音楽之友社)、プッチーニ伝を読み、そろそろ取りかかるかと、しばらく見ていなかったオペラDVDを次々と見る。机の横にはクリエイティヴ・コア様からいただいた「スタンダード・オペラ20」がどーんと積んである。こやつを何とか全部見たいと思っている。
これがCDなら次々と20枚かけながら文章を書くところだが、DVDというのは、ながら観賞というものができない。しかも一本の上演時間が長いので、一日にそうそうたくさんは見ることができない。
とはいえ、門外漢のわたしがオペラ脳を作るには、多少手荒な観賞もやむを得ない。本日は自主合宿と覚悟して「フィガロの結婚」、「ラ・ボエーム」、「椿姫」を見た。この際、と思って「フィデリオ」の途中まで見たが、夜明けが近くなってきたので終了。
モーツァルトはなぜか考えることがたくさんある。「フィガロの結婚」はもう何度か見ているのだが、たくさんノートをとった。「魔笛」もむかしいろいろ思いついてノートを書いたことがある。
これなら19世紀以降のイタリアオペラもさぞかし楽しいだろうと思って見始めたのだが・・・ラ・ボエームは、「青春群像・・・」、椿姫は「イタリアの父親って・・・」といった貧しい感想しか浮かばない。うーん。
情動と声量が相関しすぎるオペラと相性がよろしくないのかもしれない。わかったわかった、もうそんなに声を張り上げなくていいよ、と思ってしまうのだ。いや、オペラにそんなことを言ってしまっては、身も蓋もないのだが。
こんな私に与えられたお題は「絵はがきとオペラ」である。人様にお見せする文章が書けるのであろうか。
さらに困ったことに、わたしの手元にあるのは、ほとんど、ヴェルディ以降のイタリアオペラの絵はがきなのである。いやはや。
あいかわらずあまりしゃべれない。原稿書きに勤しむ。音楽論を書き直したものをまとめて須川さんに送る。まだ書き下ろしがあれこれ残っている。
午前中は、Johnの持ってきた「epistemic」に関するデータコレクションをもとに作業。「requesting information」に関係する二十数個のデータを分類するのだが、一時間では、十数個が精一杯。それでも昨日よりは慣れて、だいぶスピードが上がった。いつもこれくらいのスピードで会話分析の論文が読めるといいのだが。
午後の最初は、林さんの持ってきた「ナニ」の事例を用いたデータ・セッション。単なる「what」ではなくて、「なに、最近はどうしてるの?」というふうに、話題の転換点に使われるような「ナニ」が入っているところがおもしろい。
いろいろと妄想が広がる。
「ナニ」には、どこか、相手の知識領域と話し手の知識領域との動的な構造が関わっているような気がする。話し手の知識領域が推測によって拡大されていくときに、それが明らかに相手の知識領域に入っていくときがある。このようなとき、自分にとっては推測で相手にとっては確度の高い知識について述べることがある。たとえば、「ええと、ここのボタンはナニ、ここを押せばいいんだっけ?」という風に。
このとき、副作用として、ある種の親密さが生じる。それはおそらく「ナニ」ということばが、単なる推測のマーカーであるだけでなく、相手の知識領域への知的アプローチを示すマーカーであり、それはつまり、相手の柔らかいところへ触れようとすることだからだ。以上は私見。
夕方からはJohnのepistemic landscapeに関する発表。彼の発表を聴くのはUCLA以来だから三年ぶりだ。
Yes/No質問に対して、相手の発言を繰り返して話す場合と、Yes/Noで応える場合とでどのような違いがあるか、という話。「Epistemic Landscape」の論文は「現代社会学理論研究」に川島理恵さんの訳で載っているけれど、午前中のデータセッションと呼応する内容でおもしろい。
そして、Paulの「Going too far」に関する発表。「Going too far」というのは、相手の愚痴に乗って「そうそう、あのひとってほんとひどいよね:」などと同意すると、相手がなぜか「まあね」と退いてしまう、という、あの奇妙な状況を扱ったもの。愚痴に同意するとはどういうことか、というのはじつは微妙なバランス感覚を要する問題なのだ。
相手はただの不運 misfortuneを言っているのに、それに同意しようとして、つい特定の誰かの責任を言いつのり、いわば誰かへの不満 complaintとして受け取ってしまう。すると、愚痴を言っていた当の本人は退いてしまう。この、Misfortune転じてComplaintとなる微妙な変化が「Going too far」であり、Paulは一行一行を検討しながらその過程を明らかにしていくのだが、手管がじつにあざやか。
分析を聴いているうちに、隣接ペアの新しいアスペクトを見たような気がしておもしろかった。愚痴が隣接ペア第一部分だとすると、第二部分の話者は、「ちょうどいい」肯定のしかたをあれこれ模索することになる。それが足りなければ、相手は第三部分でさらに愚痴を繰り返すだろうし、行きすぎていれば(Going too farならば)、相手はWell...とためらいを見せる。「そこまで言ってないけど・・・」といったところだろうか。隣接ペアの第三部分には「評価 assessment, evaluation」がくるとしばし言われるが、愚痴の発し手は、いわば、相手のあいづちに対して、それが「行きすぎ」なのかどうかを評価しているのだ、と言えるかもしれない。
あとで、やはり愚痴の研究をしている戸江くんと、英語のcomplaintには不満も愚痴も入っちゃうねえ、という話をする。日本語だと、不満は第三者に言うことも直接不満の相手に言うこともできるが、愚痴は、どちらかというと不満をもたらす相手ではない誰かに漏らすものだ。そして、Paulの扱っているのは、不満というよりは、日本語でいう愚痴なのではないか、うんぬん。
それにしても濃い二日間だった。
あいかわらず喉の調子はよくない。帰ってから、渋谷さんからいただいたベタ焼き写真をスキャンして寝る。
関西学院大学梅田キャンパスで、John Heritage & Paul Drewのセミナー。二人とも会話分析界では名だたる研究者で、会話分析の手順を味わえるまたとないチャンス。
一日目の午前は、Paulによるデータセッション。Paulの読みは、英語の機微に分け入って楽しい。単にフレーズ単独のニュアンスを説明するのではなく、フレーズが中断することや、フレーズのストレスが変わることで起こる機微、あるフレーズをあるシークエンスの中で使うことの機微を説明してくれるところがいい。
たとえば、会話の話題を変えようとして、
But what abou:t u:m: (: は長音)
というフレーズで、what about で止まることがいかにstrikingか、それに続けて
what about you now. How're you.
と言うことがいかに唐突か。
それに対する答えの中には
.hh Oh fi: neh-we:ll: nah: - yes I am: fairly fi:ne,
と、小さな笑いや口ごもり、言い直しが埋め込まれている。そして決然と「yes」が続き、そのあとには「faily」といささか弱められた表現が来る。それはなぜか。などなど。
what about youもHow are youも、ごくありふれたことばに過ぎない。しかし、それを使うタイミングと中断、使う環境によって、その印象は激変する。そういうことを分け入るように検討していくと、次第に英語会話の中にひそんでいるひりひりするような感覚のひとつひとつが体感されてくる。
午後はPaulの用意した「request」に関するコレクションを分類する課題。これはとても勉強になった。
まず3人ずつの班に分かれて、十数例のコレクションの中から、本当にそれが「request」なのかどうかを検討する。いくつかをexcludeしたら、今度は残ったものを分類する。次に、その分類の背後にどのような分析の次元が潜んでいるかを考える。
英語のトランスクリプトを読むのは時間がかかり、与えられた1時間はみるみる過ぎる。
各班で結果を持ち寄り意見交換をし、PaulとJohnからコメント。これでざっと二時間。
最後は串田さんの持ってきたデータによるセッション。二人が初めてみる日本語のデータをどう読むのか興味津々だったが、Johnが頭をかく動作に注目してあれこれコメントしているのがおもしろかった。
頭に手をやる動作(髪いじりを含む)はあらためておもしろいなと思う。頭に手をやることで、ジェスチャーのpreperationが省略できる。そこからstrokeをすれば、すばやいジェスチャーになるし、ただホームポジションに戻れば、ただの頭掻きや髪いじりに見える。頭に自己接触することは、ジェスチャーの準備そのものではないが、結果として準備に使われる可能性が高い。このへんは今後考えることがいろいろありそうだ。
いろいろ考えが思いついたが、なにしろ喉の調子が悪い。ひどい声で少し思いつきを話す程度。
あとで夕飯を食べながら、英国のred nose dayの話やら、Paulの家族の話やらを話す。
宿に戻って薬を飲んで寝る。
卒業式と授与式。夜は謝恩会。
最近、卒論生が実験室に集まってなにやらやっているらしいのは知っていたが、なんと「卒業写真」のビデオクリップと飛び出すカードを作ってくれていた。そうとも知らず、私ははなむけに「卒業写真」を歌ったのだが、彼らの歌の方がずっとよかった。カードの方は、わざわざ写真をコラージュして折りたたみ式にしてあり、構図もすばらしく、連中にこんな才能があったのかと最後にして気づかされた。心づくしの会だった。
今週頭から風邪気味だったのだが、ついに声が出なくなってしまった。蒲団に入ったら汗がだくだく出てくる。
だんだん記事が増えてきたので、「会話分析・ジェスチャー分析者のためのELAN即席入門」のページにメニューをつけ、主な項目をまとめました。これで、ムービーや音声の取り込みから、コーディング、トランスクリプトの出力まで、一通りのことはできるんじゃないかと思います。
ジュンク堂で須川さんと音楽本の打ち合わせ。このうえまたいろいろアイディアが出るが、冷静に考えてみると書き下ろし多数。
オンライン連載の文章を考える。印刷メディアとしての絵はがきとオペラの関係を考える上で、音楽出版の歴史は不可欠なのだが、通常の音楽史の本にはごく断片的な記述しか出てこない。何かよい本は・・・と思って立ち読みしていたら、ジュンクの棚に大崎滋生『音楽史の形成とメディア』(平凡社)というのがあるのに気づいた。手にとって読み始めると、これはまさに読みたかった内容で、楽譜出版の歴史が、当時のカタログ資料をもとに詳細に記されている。さっそく購入。
楽譜のみから音楽が語られていくことの持つ問題が、テキストのみから歴史が語れていくことの持つ問題と重ねられる。示唆に富んだ考察。
日比谷でテオ・ヤンセン展。ちょうど東京にいたのであわてて出かけた。
ヤンセンの作る「アニマリス」は、そのほとんどがプラスチックでできている。オランダでは路上によく捨てられている、くすんだ色のチューブ。風雨にさらされたプラスチック・チューブは、思いがけずかさかさした感触で、写真で見たのとはまるで違う。離れてみると、枯れた葦や藁に近い。
「アニマリス」のひとつを歩かせることもできる。実際に押してみると、ぎしぎしとたくさんの関節が鳴り、台車を押すのとはずいぶん感触が違う。大きいのに思いがけず軽い。軽いのに思いがけず抵抗がある。この意外さは、実際に触ってみないとわからない。
壁に展示してあった工具板は、素材と道具が渾然となったもので、あたかも鉛筆を作るボードに鉛筆が、レゴを作るボードがレゴでできているようだった。作る対象と道具が入り交じる。ジェスチャーを見ながら体を動かして考えるのに似ている。
会場はテント内の特設。その思いがけない多足運動は、本当は浜辺で見てみたい。ヤンセンが生まれ育ち、いまでもよく散歩するというスヘフェニンゲン(シュヘーフェニンゲン)の浜には行ったことがある。その浜を描いたメスタグのパノラマは、いままで見た中でいちばん好きなパノラマだ。
オランダの曇天は深い。その曇天の下、大きな生物が浜辺を行くのを見晴るかす位置を、想像してみる。
展覧会のカタログに以下のような一節。立岩真也氏の「希望について」という文章を思い出した。カタログには良い和訳が載っていたけど、ちょっと自分でも訳してみた。
必要なのは「できる being able」の秘めたる力。それは脱出の芸術であり、「できない」という閉塞した状況を打ち破る術である。たとえば眼鏡なしでは何も見えないのに、その眼鏡が見つからないとしよう。あるいは、家に入りたいのに鍵は家の中、でもいい。一種の閉塞状況だ。こんな限られた事態から脱け出す術こそ「できる」なのだ。根拠のない楽観が突破口となる。そうとも、眼鏡がなくても眼鏡を見つけることはできる。鍵がなくても家に入ることはできる。「できる」をものにすべし。そうすれば、全ての扉は、開かれるだろう。私自身、じつはかつて絶望したときがあった。過去の作品、アニマリス・ヴァルガリスには、あろうことか二本もアルミニウムのチューブを入れてしまっている。絶望ゆえに、材料を限るべしという自分の理論に対して、汚点を残してしまった。若気のいたりである。
私はすべてをプラスティックのチューブで作りたいと思っている。ご存じのように、自然はほとんどがタンパク質でできている。同じように私の作る生命体を、たった一つの材料で作りたいのだ。タンパク質は皮膚にも、目にも、肺にもなる。タンパク質にはたくさんの使い道がある。チューブも同じだ。一つ一つは柔軟なのに、三角構造にすると驚くほど頑丈になる。中にピストンを仕込むことも、空気をため込むこともできる。なんでもござれだ。わたしは「できる」の王国をあちこち旅して、はじめて、いかにその用途が幅広いかを知った。材料のもつ限界ゆえに、脱出のルートをいくつも探すはめになったが、その道は論理的なものでも当たり前のものでもなかった。事実、アニマリスたちを組み立てるためにとった方法は、エンジニアがとるであろう方法とは正反対だった。
(テオ・ヤンセン展カタログより試訳)
秋葉原で漫才科研の発表会と今後の打ち合わせ。
「漫才科研」といっても、漫才のような科研というわけではない。世のお笑いブームを単に印象批評するのではなく、漫才師と観客の発語と身体動作から緻密に分析し、そこから人にとって笑いとは何かを明らかにしていこうという気宇壮大なプロジェクトなのである。
発表を聞きながら、YouTube上のさまざまな漫才師の所作を見てこれまで岡本さんや榎本さんのとられたデータと比べていたのだが、コンビによる差がかなり大きい。たとえば、同じ昭和世代の漫才師でも、いとしこいしとてんやわんやではずいぶんと体の使い方が違っており、ともすると、彼らの姿勢は、やすきよやオール阪神巨人よりも、チュートリアルの姿勢に近いように感じられる。
となると、うかつに漫才を「世代」によって切り取るわけにもいかない。各世代にとっての漫才の普遍的な笑いの質を考えるよりも、それぞれのコンビでのテクニックや成功/失敗に注目しながら、局所的な現象を丁寧に拾っていくほうが、示唆が多く得られそうな気がした。
となると、いかに各現象の特徴と文脈を鋭く拾い上げるかがポイントとなるだろう。いずれにせよ、身体動作研究としては新たな課題が山積みで、楽しみである。
夕方、Lilmagの特典「惑星」songbookを渡すついでに、モモちゃんにirregular rhythm asylumに案内してもらう。店内はzineだらけ。あれこれ手にとって見ながら、自分ならどうやって作るかな、などと考える。
印刷しただけで綴じてないしおりをモモちゃんに渡したところ「ここで製本しちゃいません?」。というわけで、店の床に座り込んでいきなり製本作業開始。狭い店内で他のお客さんもそれぞれ談笑したり編みものをしたり料理したり、とさまざまなアクティヴィティが並行して行われている。ちょっと目立たないところにあるけど、おもしろい店だった。
というわけで、irregular rhythm asylumの床にてしこしこ折って作ったかえる目「惑星」特典しおりは、Lilmagの通販についてきます。みんな買ってね。
昼に阪田真己子さんから、発話の重複を手軽にコーディングできる方法がないか、という課題をもらったので、宿に帰ってELANをあちこちいじる。と、「前注釈終了時点から新規注釈層作成」という判じ物のようなメニューがある。なにかあると思って英語メニューをチェックしたらこれが「Create annotation from overlaps」、つまり重複部分のコーディングメニューだった。ビンゴ。
というわけで、簡単な解説を書いておいた。ついでに、テキストへの書き出し方も追加。だんだんELAN布教家になりつつあるなあ。
よく晴れた。
シブヤ写真館の渋谷博さんにお願いして、名刺用の写真を撮影していただく。
ロケーションは渋谷さんにおまかせで、なんとなく「街中で撮りたい」ということだけお伝えしてある。自転車で渋谷さんが、あの家は昔はこうで、あっちの家のご主人はこうで・・・という話をされるのを聞きながら街を行く。
撮影じたいはあっけなく、「ちょっとその寺の塀のあたりをこっちに歩いてきて下さい」と言われて、はいはいとすたすた歩くと、ぱちぱちぱちっと連写してから「ま、こんなもんでしょう」と次の場所へ移動していく。どんな写真になっているのか想像もつかない。
夕方、城さんとゼミ。情報パッケージ仮説と成長点理論の違いから、いま扱っているデータを考え直してみた。一つのデータだけでもいろいろと切り口がある。
Dusty Springfield(J. Butler, New Birth)「Mr. Dream Merchant」を日本語で歌ってみる。
この放送をダウンロードする
ELANの即席マニュアルに加えて、ボタン・ショートカット一覧を。机の横に貼っておくと便利。
grafの小坂逸雄さんが来られる。4月から始まる研究会についてあれこれ話す。プロダクト・デザインをやろうとしている方々の前で研究の話をする、ということになりそう。プロダクト・デザインについてはほとんど無知なので、その分、かえってオープンに話せるかなという予感。
奈良美智さんのブログ。こうした「事件」についてご本人がこれだけ丁寧に書いているケースは、とても珍しい。新聞報道の視点はひとつひとつ本人の視点から検討し直されて、数多くのズレが明らかにされている。ひとつひとつのズレはとてもささいなのだが、そのズレの集積によって事件が作り上げられていくのだということが、よくわかる。
ここで、昨年のChim←Pomの件を思い出さずにはいられない。あれも新聞報道によって広がった「事件」ではあった。しかし、奈良さんの件とは明白な違いがある。彼らはあのとき謝ったけれども、それは、飛行機のスモークをただの落書きだと認めた、ということではないだろう(と私は推測する)。
奈良さんの件は、それが落書きであったからこそ、報道メディアという二次情報の問題としてすんなり理解できる。ブログからは奈良さんの誠実な人柄が伝わってくる。ことはアートの問題ではない。たまたま逮捕された人がアーティストだったに過ぎない。
けれども、Chim←Pomの件は、そうではない。あの飛行機のスモークは落書きではなかったはずだ。だとしたら何だったのか、という問いが、未だ宙に浮いており、その点で、まだあの話には何か考えるための可能性が残っているように思う。
以前紹介した、会話分析、談話分析やジェスチャー研究のアノテーション(注釈)をつけるソフト、ELANについて、即席のマニュアルを作った。付属のマニュアルではどこに何が書いてあるかわからん、とにかくはよ分析したいんじゃワレ、という方はどうぞ。
→会話分析・ジェスチャー分析研究者のためのELAN即席入門
久しぶりに絵はがきの交換会へ。大津歴博の展示の影響だろうか、木版絵はがきがたくさん出ていた。しかし、私は歴博の資料室で、手つかずのまま残っているアルバム・コレクションに圧倒された経験があるので、古物商の手を経てバラバラにされた木版絵はがきを見ると、どこか無残な感じがする。
コレクションは、誰かが手を入れて抜き取り始めた段階で、もうその価値を減じ始めている。ちょうど散らばってしまったドラゴンボールのように、ひとつの絵はがきだけでは元の輝きは得られないのだ。そして、元のコレクションを一部の絵はがきから推測するのはとても難しい。絵はがきにもドラゴンレーダーがあればいいのだけれど。
てなことをぶつぶつ考えながらも、それなりに買って帰る。
帰りにRupnowさんという人に話しかけられる。道すがら話を伺っていると、60年代に日本に来てからコレクションを始めたそうで、絵はがきは15年前からだという。アメリカでは庭園付きの家に住んでおられて、絵はがきコレクターで有名なローダー氏とも知り合いだそうだ。相当なコレクターだとお見受けしたが、気さくな人だった。
午前中、大津歴史博物館の企画展「道楽絵はがき」の展示をゆっくり見る。
いやあ、改めてすばらしいなあ。私は最初期の頃に関わったきりで、あとはほとんど木津勝さんと藤野滋さんの徹底した調査と展示力によってここまで来たのだが、とにかく、コレクションの全貌がほとんど見えないところからスタートした企画が、かくも面白く世界化されるのかと驚いてしまう。
これほど目に楽しくおもしろい展示なのだから、さぞかしたくさんの人が詰めかけているのだろうと思いきや、「いや、それがそれほどでも・・・」と木津さん。あらかじめどういうものか価値がはっきりしている展示は人が集まるのだが、こうした、展示によって初めて価値が見えてくるようなものの場合、なかなか人が来ないのだという。
あらかじめわかってるもんを見て何がおもしろい? このような、新しい価値の出現をこそ見るべきではないのか! とフンガイする。
1000点にのぼる絵はがきのほとんどが木版版画というすさまじい質と量。これ、ナンバリングしてないだけで、じつは全部限定版なんだよなあ。その大量の絵はがきの作家やパトロンの背景から、当時の趣味家コネクションを浮かび上がらせるという、独自の世界観を持つ企画。とにかく、見応えがありすぎる。
他の博物館での巡回もありませんので、この機会にぜひ見ておくことをお奨めします。
午後、紀念スタンプと戦争について講演。客席にはご年配の方が多い。若輩者の私が古い話を語るのも恐縮だったのだが、できることをやるしかない。何人か、うんうんとうなずかれている方がおられて、こういうときは、そういう方々の目線が頼みの綱である。
明治の話だけでもけっこうあって、大正から昭和のところは大分駆け足になってしまった。
終了後、東京から来ていた生田さん、藤野さん、木津さんと茶飲み話。
湖東への帰りの道中、藤野さんとコレクター話に華が咲く。藤野さんとの知己を得て以来、帰りにご一緒させていただく時間がじつに楽しいのだが、話の内容はあまりに微に入り細にわたるので、とてもここには書ききれない。
東京人書評原稿。一ノ瀬俊也さんの『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書)を取り上げる。掲載は5月号(4月初旬発売)。
年度末とて予算執行やら書類やらさまざまな雑務。
一日中入試業務。
ひさしぶりに出版の企画書を一つ書く。さてどうなるか。
午後、城さんとゼミ。ジェスチャーの同期現象について、ELANでプレゼンをしてもらう。各モダリティの前後関係がはっきりしているので、じつに議論がしやすい。
M. Rowe と Susan Goldin-Meadowが、ジェスチャー発達に経済格差がある、という論文をサイエンスに出している。子供の自発的ジェスチャーとボキャブラリ、親の自発的ジェスチャーとボキャブラリを見てみると、所得と子供のジェスチャーとに強い相関があり、これがのちのボキャブラリに影響を及ぼすのではないか、という話。また、所得と親のジェスチャー、ボキャブラリにも相関がある。相関分析なので、直接因果関係があるかどうかはわからないが、彼らは、幼少時に子供と親との双方で自発的ジェスチャーが多く交わされる事が重要ではないか、と述べている。
なるほど、と思うと同時に、どうも、ボキャブラリとジェスチャーが量的に多いことをよしとするのに、ひっかかりを感じる。Goldin-Meadowがすでにさまざまな論文で、ある種の問題(たとえばピアジェの量の概念など)を解くときにジェスチャーの有効性を立証しているのは、知ってはいる。が、そうした知性をもって、全体的な知性とするところが、どうも気になる。もう少しジェスチャーの質的な問題を議論できないものか。
"Differences in Early Gesture Explain SES Disparities in Child Vocabulary Size" Science February 13 2009, Vol.323
会議。いまでもすでに会議は(私にとって)過剰なのだが、来年はどうやらさらに増えそうである。ユウウツなことだ。
神経科学系の概説書を読みあさる。Cognitive Neuroscienceなど。しばらくこの分野の勉強をしていなかったので、知らないことが多い。
たとえば、鼻の二つの穴がそれぞれ異なる機能を持っているらしいという話。鼻の穴の奥にある嗅細胞は、空気の流れの速さによって、異なる匂いを知覚する。私たちの二つの鼻の穴は、少しサイズが異なっており、左右で空気の流れが異なっている。そのおかげで、異なるタイプの匂いに敏感になるのだ、うんぬん。花粉症にかかっている場合にこの話が成り立つかどうかはわからないけれども。
Kinks「Waterloo Sunset」。
デヴィッド・ボウイ「ヒーローズ」
「チューボーですよ!」
そして「You really got me」
を、日本語で歌ってみる。
この放送をダウンロードする
今日は片桐恭弘さんの発表。二人で物語カードを並べる課題を用いて、そこでの発語のやりとりをゲーム理論にのせていこうという野心的な試み。ビデオを見ると、同期現象があちこちで出ていて、あとで城さんと「あれすごかったねー」。発語コミュニケーションの発表を聞いても、つい身体運動のほうに目がいってしまう。
議論は尽きず例によって4時間を過ぎても終わらない。
「門」で打ち上げ。そこで聞いた、山梨研の高嶋由布子さんがやっているという感覚のモダリティによる語の差の話がおもしろい。たとえば、「音がする」「匂いがする」とは言うが、「光がする」とは言わない。なぜ、「音」や「匂い」を主語に「する」と言えるのに、「光」ではダメなのか。そういえば、「聞きとる」「嗅ぎとる」とは言うが「見とる」とは言わない(「看取る」だと別の意味になってしまう)。
この話を聞いて、例によって妄言を飛ばしたのだが、この差は、もしかすると、人間の注意方向の変化と関係があるのではないか。
「音がする」というとき、そこでは、音の発信源が主体として含意されている。「音がする」というとき、そのあとにはたいてい、目をあちこちに向けて、どこから音がするのか確かめようという行動が続くだろう。つまり、それは単に「音を知覚した」ということを言い当てようとしているのではない。その、知覚された音を改めて視覚によって捉え直そうとする、注意方向の変化が予告されているのではないか。
同じことは「匂いがする」にも言える。「匂いがする」のあとにはたいてい「なんだろうねえ?」とか「あ、あれかな?」というような、視認へと向かうことばが続くように思う。
とすれば、「音/匂いがする」ということばは、じつは、未だ視認されざる主体に対して、音や匂いを主体を当てはめようとすることばではなかろうか。いっぽう、いったん視認されてしまうと、そこから改めて光の発信源に注意を動かすことはあまりない。おそらくこれは視覚によって判断するということを、人が最上位に置いているからなのだろう。だから、「光がする」と言う必要はない。視覚を最上位とし、視認することを認識の最終段階とする人間にとっては、その物体の発する(反射する)光と、その物体そのものを、区別する必要がないからだ。
こう考えていくと、視覚的語彙と聴覚的語彙の差というのは、なかなかにダイナミックな知覚の問題である。そこには嗅覚から視覚、あるいは聴覚から視覚へとパスされる注意の方向という問題が入っているのではないか。うーん、おもしろいな。
視覚、聴覚、嗅覚には、ほかにも差がある。人間の感覚にはエッジの検出力(記号へのしやすさの度合い、というべきだろうか)に差がある。匂いがもっともエッジがわかりにくく(記号として表しにくく)、聴覚がその次で、視覚はもっともエッジが検出しやすい(境界の区別がつきやすく、ものとものとを容易に切り分けることができる。つまり記号化しやすい)。エッジの検出力の弱いモダリティで感じ取られたものは徴候的になる。匂いはもっとも徴候的で、聴覚がそれに次ぎ、視覚はむしろ、これらの徴候をあとから記号として捕捉する傾向がある。視認することは、おそらく記号化の最たる現象なのだ。
そこで、いったん聴覚や嗅覚で感じられた、エッジの弱い何かを、改めて視覚で捉えて、エッジのきいた「対象」として認識する、ということが起こるのだろう。
などと言っていると、隣で高田くんが、ブッシュマンの語彙はなぜか聴覚優位だ、という話をする。もし仮に聴覚がモダリティのトップに来る文化があるとすれば、「お前には見えるのかもしれんが、現に聞こえないではないか」などという会話がありうるわけである。ブッシュマンの感覚モダリティが言語にどう表れるのか、興味深いところだ。
あるモダリティのエッジ検出力が弱いことは、感覚として劣っているのかというと、そういうわけではない。視覚は、視認できる範囲でしか注意を働かすことができない。しかし、嗅覚や聴覚は、視覚の届かない(目に見えない)範囲にまで感覚を広げることができる。見えないものが聞こえる、ということはあるが、聞こえないものが見える、というのはあまり思いつかない。このあたりにも、聴覚や嗅覚が徴候的に感じられる原因があるように思われる。
大津へ。道楽絵はがき展の関連企画で大正イマジェリィ学会。歴博の木津勝さん、橋爪節也さん、山田俊幸さんの三人によるシンポジウム。橋爪さんが「芋たこなんきん」のタイトルバックで使われた円筒型のおもちゃ(心斎橋を描いたもの)の映像を見せておられて、おお、と思う。心斎橋には「スタンプパーラー」なるものもあったそうで、いかなるシステムだったのか興味津々。山田さんの講演は「趣味」という言葉の変遷から大正期を語るというもので、あれこれイマジネーションを刺激された。
懇親会では、精華大の島本先生や佐藤さんとも久しぶりに。橋爪節也さんとは初めてお話したが、弟さんの紳也さん同様とてもきさくな方で、なぜか黛敏郎や現代音楽話に。
amazon.comから届く本を次々と読む。ごくごくと乾いた喉を潤すがごとし。
昨年から関わっていた企画、大津歴史博物館の「道楽絵はがき」展のカタログが届く。いやあ、これはすばらしい。まあ、この絵を見て下さいよ。この人を食った寅年の絵はがき! こういう絵はがきが満載なんすから。
依頼者は関西屈指のコレクター田中緑紅、絵は下町風俗を数々の漫画に描きとめた宮尾しげをです。
この絵はがきをはじめ、今回のメインとなるのは、コレクター同士が交換会で競い合うように作った木版絵はがきの数々。こうした豪華な組み合わせの絵はがきが、大正末期から昭和初期にかけて山ほど交換され、アルバム化されていたわけです。いったいなぜ? その答えは、展覧会に来ていただいてからのお楽しみ・・・。
絵はがきをテーマにした展示は数々あれど、このような切り口から企画された展示はこれまでなかったのではないでしょうか。学芸員の木津勝さんの粘り強い企画力(武井武雄の「榛の会」をぶつけるナイスなアイディア!)、そして近江が誇る玩具・紙ものの目利き藤野滋さんのおそるべき調査力によって、他のどんな博物館もなしえなかった充実の展示がここに登場しました。
木版絵はがきがいかに複雑なプロセスを経るか、なぜそれが交換会で交換されるのかを実証すべく、竹中木版の竹中健司さんによって、当時の木版絵はがきを再現するという凝りよう(これまた木津さんのアイディアです)。
米谷コレクションのバラエティ豊かな絵はがきの数々は、予備知識がなくてもすごく楽しめるはず。そして、少しでも絵はがきに興味がある人なら、その制作過程の奥深さに「え、そんなことまでして作ってるの?」の連続です。
私は、明治期からの絵はがき史の中に現れるスタンプ流行について論考を書きました。3/14にはこのテーマで講演もありますので、ご興味のある方は(申込〆切は過ぎてるけど)博物館に問い合わせてみてください。
ともかく見て楽しく知って楽しい。これだけの絵はがき交換アルバムが一堂に会する機会は滅多にありません。
けして損はさせませんので、ぜひぜひお越しを。
道楽絵はがき−コレクターたちの粋すぎた世界−
3/6(金)- 4/19(日)
大津歴史博物館
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/0901.html
校正ラッシュも一段落。校務の貯まった分をがしがしこなす。amazon.comから届いた英語文献をせっせと読む。
今月中旬には各店にお目見えする予定の『惑星』ですが、オンラインストア Lilmag で先行発売が開始されました。
特典として、わたくしめが、しこしこ手作業で作った歌のしおりが付いてます。歌詞にギターコード、さらには謎めいたイラストもあり。ご自宅で、ストリートで、バス旅行でさっそく弾き語れる手軽さです。
『惑星』にも入っている「三輪車」、そしてあまりに絶妙な、コドモちゃんの声。子供の声がするライブはいいなと思います。そしてそして、例によって長いMCを少しおすそわけ。
この放送をダウンロードする
久しぶりに院生ゼミ。たっぷり4時間ほどになる。ELANで入力、分析、プレゼンする方法をざっとやってみたのだが、改めてなかなかよいソフトである。
録画しておいたNHK「白州次郎」のドラマを。
うーん。
スクリプトに、全体を貫く時間がないなあ。
エピソードが多すぎるのだ。ひとつひとつの場面は、太い感情として練り上げられる前に終わってしまう。カメラワークは凝っているし、セットもロケーションも俳優陣も豪華だが、それらは、場面から場面へと感情を動かしていく力にはならず、それぞれの場面を表す記号としてのみ、機能している。物語がぶつぶつ切れて、本編なき総集編を見ているような感じだ。
たとえば、関西弁で歌われる「イエスはん」の賛美歌、という、じつに印象的な場面がある。が、そこから深まるはずのキリスト教徒としての白州家と次郎の関係や、クリスチャン・コミュニティの中での白州家の位置、という問題は扱われず、その場で終わってしまう。だから、おもしろい歌だなあ、という感慨から先に進まない。
あるいは、14歳から能をたたき込まれた正子の舞い姿も、その能の修養が正子の生き方にどのようにつながるか、という話にはならず、ただ物語の装飾に終わる(せめて、何の舞なのか、その舞と物語がどうつながるのか、ということが観る者に伝わるようにしたほうがよい)。
とにかく忙しくエピソードが消化されていくのである。
それぞれのエピソードをつなぐべく大友良英さんが音楽にあれこれ工夫を尽くしているのはよく分かる。ローレン・ニュートンの歌がフィーチャーされるところなどは、音楽劇を思わせる展開だった。すでに音楽がwebサイトで配信されており、サントラが出るとの話もあるので、楽しみだ。
ただ、同じNHKドラマスペシャルの「鬼太郎の見た玉砕」「最後の戦犯」で感じられた、感情の練り物のような緻密なスクリプトに比べて、いまのところ物語はいたって平板に見える。第二回は3/7、第三回は半年後に放映されるらしい。今後どんな展開になるのか、注目しよう。
東京から彦根へ。夏川記念館で柴田先生主催のフォーラム。絵はがきの話をして、渋谷さんの銀座街の写真にあいづちを打っているとあっという間にお時間に。終了後、渋谷さん、久保田さん、そして滋賀大の金子先生と喫茶フレーバーでお茶。紙もの好きが集まる楽しい茶飲み話。
京都まで久保田さんとご一緒し、彦根史の奥深いところをいろいろ伺う。
shin-biで鈴木博文/長谷川健一。ハセケンの歌とギターは、前よりも振れ幅が小さく、その分、密度が濃くなって、より耳を傾けたくなる歌になっていた。さてはユリイカ、がいいなあ。
鈴木博文のセットには、くじらさんが入り、最近の曲のみならず「月夜のドライブ」や「大寒町」も。ああ、大寒町はこんな風に思いつかれたのだなあ、という感慨もあり。
たくさん移動してちょっと疲れ気味。夜半過ぎに家に戻りさっさと蒲団へ。