けいたい版 | 月別 | 見出し1999.1-6 |見出し1998.8-12



20000415
ショーンが来てゆうこさんと5月のパフォーマンスのリハーサル。携帯を使うパフォーマンスで、携帯話をあれこれ
。そのあと部屋で翻訳と原稿。夜、ショーンの友達のリッチーが来て、焼き鳥屋でヨタ話。清水の千手観音を見てきたリッチーは、いわゆるツーリスト向けの説明にフンガイしていた。何が何の名前かが問題じゃなくて、それがヒンズーや仏教の何と対応してどう変容してるのかが問題なのに、と。部屋に戻ってタケミツだの五月みどりだのをかけてなごむ。じつは今もっとも興奮してるレイモンド・スコットはかけず。なんかもったいなくてさ(ケチ)。最後はトルネードーズを流しながら、音声なしのイーオン・フラックスを見てしめる。
20000414
 新聞の取材でロボットの話をあれこれ。つまるところ、ロボットは、人間に近づこうとしながら必ず非人間のしるしを負わされる存在である、とかなんとか。コピーロボットの黒い鼻、フランケンの頭のネジ、アトムの足からこぼれる部品、天狗の手からこぼれる泥人形の泥。ロボットの話でぐっと来るのは故障のシーンだ。おっと、最後のはロボットじゃなかった。しかし、ますます新聞記事にしにくくなったのではないか。まあぼくのところに取材に来たのが運のつきだ。
20000413
検索エンジンでたどりついたディカプリオ・ファンのみなさま。ここがあなたの浜、「ザ・ビーチ」です。オリコ・カード、オーケー?

朝から晩までよく働いた。と、思う夕暮れ。

昨日のしぐさゼミは成田君によるマクニールの「シカゴをめぐる指差しとモラル」の話。
マクニールは、しぐさとことばの発生を捉えるにあたって「成長点(growth point)」という術語を考える。それはしぐさとことばが表われようとする点であり、精神内機能と精神間機能が表われようとする点であり、しかし、そのいずれでもない、ある単位である。そこにはおそらく植物の成長点のイメージが重ねられている。枝の分岐、葉の分化、花の分化。成長点とは分岐と分化の可能性を内包したコミュニケーションのある瞬間のこと。この論文で言えば、それは新たな指差しが生じる瞬間であり、モラルの発生する瞬間である。
成長点を見いだすには、全体性に注意するよりも、むしろ全体性の破れに注意すること。参加者内でしぐさの一貫性が破れる点(たとえば同じしぐさが違う機能を担うように見える点)、あるいは新たなしぐさのレパートリーや位置が見られる点。参加者間でしぐさの一貫性が破れる点(たとえば同じしぐさが違う機能を担うように見える点)、あるいは新たなしぐさのレパートリーや位置が見られる点。前者は観察者からは精神内機能の破れに見え、後者は精神間の破れに見える。

成長した・分岐した・分化したというできごとから、成長点は事後的に見いだされる。
20000412
講義開始。朝から晩までよく働いた。
ニルソンの「The Point」。ナレーション付き、とんがり小僧のお話。Me and My Arrowにノックアウト。労働のあとのニルソンはしみますなー。
スポーツ新聞に「淫行リス」記事。リスやらクマやらの着ぐるみを着て女性をナンパしてたらしい。まさに「かわいい顔してババンバン」を地でいく世界。詳細なナンパマニュアルもつけていたとか。淫行に及んだとき、やはり着ぐるみは着たままだったのか。Aphex Twinのビデオクリップに出てくるみたいなコワイ顔の着ぐるみでも成功するのか。など、想像の翼はためく話。
20000411
オリエンテーションその他。みるみるうちに夜。
レイモンド・スコット「マンハッタン・リサーチ」は今世紀最大の事件。ムーグがレイスコの部屋にいったら床一面リレースイッチだらけだったってさ。それがいっせいにかちゃかちゃしてこんな音楽になるんでしょうか。ああめまい。音のワッツタワー。そしてこの世の音楽はそのタワーに生えた枝葉に過ぎない。たぶん。マシンは働き、レイモンド・スコットは考える。その考えた結果がこれですか。働くマシン、かわいすぎ。などなど。
20000410
新学期の時間割を作ってみて、まるで学部生の履修届けのような埋まり具合に鬱度増す。
日本ボランティア学会が6月に大学で開かれるのでその打ち合わせ。
うまいアサリ、そしてひさしぶりに本当においしいマンゴを食べる。このひとさじのマンゴに勝てる料理ってあんのか。
20000409
例によって夜中近くに立ち読み。「エッフェル塔試論」(松浦寿輝/ちくま学芸文庫)など。彦根にしては大きい本屋なのだが、ここにある本のどれだけが売れるんだろう。長谷川宏のヘーゲルものを誰が買うのか、横光利一の旅愁を上巻だけ買った人は下巻を買うんだろうか、などと余計なお世話が頭に渦巻く。
20000408
朝、喫茶店が混んでいるのでカウンタでパソコンを広げる。G3はカウンタではさすがにでかくて恐縮。あとから隣りに座った二人がパソコンをめぐって談義。「パソコン言うてもな、感情のある人間には勝たれへん」「まあきれいな活字とか出しよるけどな、手書きのほうがええねん」などなど。そうですねえと相槌を打ったものの、早々に退散する。
何年かぶりにもらったメールが何件か。この季節はそういう季節なのかな。
20000407
メアリーへ

 君はもう、こっちの世界に関するマニュアルをさんざ作ってきただろうから、ぼくがいまさら手紙でこっちの世界のことをあれこれ書かなくてもわかってるよって言うかもしれない。まあ、君が白黒の世界からこっちの世界に来たときにあっと驚くって方に賭けてるぼくとしては、君がそう思ってる方が好都合だったりはする。でも、なんていうかな、どうせ君は驚くに決まってるんだから、どんな風に驚くかってことを知らせたい気になったんだ。まあ予言者ぶりたいっていうことでもあるし、ただのおせっかいでもあるし、ぼくが今体験してることのすごさを誰かにことばで伝えたいってことでもある。この体験がことばでは伝えきれないってこともわかってるつもりだけど、でもこうやって手紙を書き始めちゃったんだから、行くところまで行こう。なあに、君の神経科学の論文ほど長く書くつもりはない。後で書くけど、大事なことは、短い長さでたくさんのことがわかるってことなんだ。

 そうだな、いわゆる神経発火のパターン云々は、もう君には十分わかってるだろうから省くとして、君がたぶんあの連中に最初にみせられるだろうトマトの話をしようか。トマトは見たことあるよね。でもこっちのトマトは君の見たことのないトマトだ。トマトってのは「赤」っていう色を持ってる。「色」ってのはわかるかい?いやいや、円錐細胞の発火パターンの話をしてるんじゃない。そんなことは君は百も承知のはずだ。
 
 君の世界で「色」に似たものっていうと明暗の違いかな。たとえば、君はいまあちこち日陰になっている場所を見て、明暗を手がかりにさまざまな異なる場所をひとつにカテゴライズすることができると思う。いや、カテゴライズなんて面倒なことを言わなくても、たとえば目の前の樹が投げる暗がりを見て、自分が暗がりにいるときの感じを思い出して、なんだか気味悪いと思ったり、でもちょっと入っていきたいなんて思ったりしちゃうだろ? つまり、ある暗がりを見たときに、君が今まで経験した別の暗さを思い浮かべると思うんだ。君は、ある暗がりを見た瞬間から、君のさまざまな暗さの経験をどんどん思い出して、そのうちのいくつかに次々と飛びついていく。あるいは明るさにジャンプしていく。やがて暗がりとは関係のない考えにまで広がっていく。あらゆることが一度にやってくる。君は興奮して論文を書きはじめる。ぼくはいまその過程をこうやってすごく端折ってあれこれ綴っているけど、それでも、これを読むのにはけっこう時間がかかってるはずだ。で、じっさいの君はここで書いてるようなことを、たぶんものすごく短時間のうちにもっと微に入り細に渡ってやってしまうと思う。

 ここでもう、ぼくがことばでいくら説明しても果たせないことがひとつはっきりした。つまり、ぼくのことばで君が理解するスピードと、君が実際に経験して次々に何かを思い浮かべていくスピードは、圧倒的に違うんだ。ことばによる経験と実際の経験が圧倒的に違うのはそこなんだ。だから、君は神経発火のパターンを頭にたたきこんでるかもしれないけれど、いざその神経発火が起こったらすごいよ。君の頭にたたきこんだことばが追いつかなくなるほどすばやく、君の頭の中で次々と神経発火が起こって君はきっと「わあ!」って声を出しちゃうだろうと思うんだ。
 
 さて、トマトだね。トマトの赤ってのは、君の見ている明暗の世界に、全く別のことを付け加える。たとえば、君がトマトを見るだろ。すると、その面や周辺に、君はいままで体験したことのないたくさんのカテゴリーの明暗を発見すると思う。もちろん、君はそのカテゴリーの名前をもう知っている。このカテゴリーこそ君の発見した新事実だし、君はそれに赤だの緑だの青だのそこから派生するもっとたくさんのカテゴリーを細分化して、名前をつけた。頭のいい君のことだから、トマトを見たとき、どのカテゴリーがどんな風に目の前にあるかってことも、綿々と書き綴ってるはずだし、そのことから予測される自分の視線移動の可能性についてもあれこれ書いているはずだ。そして、はじき出されたデータから、頭の中で何度も起こるであろう事態をシミュレートしてみたはずだ。

 でもね、何時間もかけてあるできごとからあるできごとに注意を移すことと、たった何秒かのうちに注意を移すことの間には、圧倒的な差があるんだ。そして、頭の中で構成しながら注意を移動させていくことと、目の前の環境に手がかりを預けながらそれに導かれて次々と注意を移動させていくことの間には、やっぱり圧倒的な差があるんだ。君はたぶん、いままで頭の中で何時間もかけて精神を集中させてシミュレートしてきたことが、何の用意もなくあっという間にできるんでびっくりすると思う。それにね、注意の移し方は一通りじゃないんだ(これもマニュアルに書いてあるんだろうけど)。実物の君はトマトをめぐって、さまざまなやり方で注意を移すことができる。君がほんの何秒かトマトの前にいたら、いままで何日もかけてマニュアルを読んだよりもたくさんのことがあっという間にわかる。

 単に時間が短くなるだけなんじゃない?って君は言うかもしれない。でも、君はもう、わずかな時間の間にたくさんのことが起こるときの気持ちよさを知っているだろ? 暗がりのことを思い出してごらんよ。ことばより先に注意が向いてしまう、注意が向いた後でことばが追いかけてくる、追いかけてくることばを忘れるようにまた注意が動く。この、ことばが追いつかない感じがすごいんだ。
 
 ヘンな話だ、ことばが追いつかない気持ちよさをこうやってことばで説明するなんて。もちろん、ぼくは説明できてるとは思わない。ただ、君がじっさいにことばが追いつかなくなったときに、ああ、これってあのことかって、ぼくの手紙を思い出してもらうために、こうやって書いてるってわけなんだ。
 
 さて、トマトには、君の見たことのないカテゴリーの明暗がある。そして、トマトと同じカテゴリーの明暗を持ってるものが世の中にはたくさんある。たとえば、君の血がそうだね。今の君の血は暗がりに似た明るさを持ってる。だから君は血を見て暗がりを思い出す。でも、こっちに来たら、君は暗がりと血を区別するかもしれない。トマトと暗がりを区別するかもしれない。そしてトマトを見て血を思い出すかもしれない。他にもあれこれ思い出すかもしれない。いや、わざわざ思い出さなくても、目の前にトマトに似た新しい明るさのものがたくさんあって、どんどんそこに目移りしていくかもしれない。トマトとまるで違う明るさのものに目を奪われるかもしれない。バラが、まるでトマトみたいな明るさで輝いて、そのくせトマトとはぜんぜん違う光沢で咲いているのにびっくりするかもしれない。そのバラの色素をコップの水に溶かして陽に透かした時の赤は、バラの赤と違って見えるはずだ。もっともっと色んな可能性があるはずだけど(色んな、って言うことばがあるんだ、こっちの世界では。ことばが経験に追いつかないときに使うことばだ)ぼくは君みたいにあらゆる可能性を書いたりはしない。ぼくは、限られた「目」に賭ける。どんな「目」を選ぶか、決めるのは君の役目だ。そしてぼくは赤か黒かの勝負はしたくない。賭けるなら大きく勝ちたいんだ。そうそう、こっちには「赤」と「黒」を使った博打がある。いつか君にも教えてあげるよ。

 もうわかったと思うけど、ぼくのほんとうの賭けの対象は、君がこっちの世界に驚くかどうかってことじゃない。君がこっちの世界に連れてこられて、最初に目隠しをはずされて、トマトに驚きながら、ぼくを思い出すこと。それがこの手紙の賭けてることだ。ことばはいつだって経験に遅れてやってくるけど、君の経験にいちばん先にたどりつく君のことばが、ぼくのことばに似てるといいなと思ってる。
 
                 愛をこめて X
20000406
タモリ倶楽部でヘルス嬢のポーズ指導する細野晴臣の内股。カセットでかかるデモテープのあまりのまがまがしさに笑ってしまった。ホソノ健在。その時代とのズレっぷりも。

しぐさ研究会、今日はMIT Encyclopediaから「クオリア」の章。スタンフォードの哲学百科に比べると、コンパクト過ぎて難儀する。結局「説明上のギャップ」だの「機能主義」だのあちこち読まなきゃわからない。
 その「説明上のギャップ Explanatory Gap」に載ってたメアリーの話をオリジナルから一部引用して訳しておこう。

メアリーは聡明な科学者で、理由はさておき、白黒の部屋から白黒TVを使って世界を調査するように言われた。彼女は視覚神経生理学の権威で、そこにあるすべての物理的情報から、私たちが熟したトマトや空を見たときどうなるか、「赤」「青」といったことばを使ったときどうなるか、などなどを把握したとしよう。たとえば、どのような波長の組み合わせが空から来て網膜を刺激し、それがどのように神経中枢を介して、声帯の収縮と肺からの空気の送出をもたらし、その結果として「空が青い」という文の発声をもたらすか、といったことを発見するわけだ。(原理的にこうした物理的情報を白黒TVから得ることができるってことはほとんど自明だろう、でなきゃオープンカレッジはカラーテレビを使わなきゃならなくなるからね)

メアリーが白黒の部屋を出るかカラーTVを手に入れたとしよう。何が起こるか? 彼女は何か学ぶだろうか? 彼女が世界や、世界に対する私たちの視覚体験について何かを学ぶのは明らかだろう。でも、だとしたら、彼女のこれまでの知識が不完全だったってことにならざるを得ない。でも彼女は物理的情報はすべて持っていたんだ。ゆえに、物理的情報以上に得るべきものがある。よって物理主義は誤りである。

Jackson, F. 1982 Epiphenomenal qualia. Philosophical Quarterly 32: 127-136.
20000405
どんなことばにも宛て先はある。その宛て先がいまこれを読んでいるあなただとは限らないが、このタイミングでこんなことばが目の前に現れるのは、きっとわたしがあなたのことを書いているからだ、そんな風に思われてもわたしはいっこうに構わない。この日記は昨日笑ったわたしの日記であり、一昨日殺されたわたしの日記であり、一昨々日死に切れなかったわたしの日記であり、あなたの知らないわたしが、あなたがこの世だかあの世だかで誰かに宛てて書いたことばを覚えていて、こんなことを書いている日記だ。どんなことばにも宛て先はある。あなたは宛て先を作るのではなく、宛て先を引き受けるのだ。
20000404
夜、しばらく煮炊きをしているうちに、猫の気配がしないことに気づく。名前を呼んでみるがまるで答えがない。カーテンを開けてみる。さっき空気を入れ換えようとしたときに窓に少しすき間があいていたのに気づいた。外に出てみる。ベランダの向こうは雑草のくらがりで光る眼は見当たらない。名前を呼んであちこちをうろうろする。もしかするとまだ部屋のすみにいるかもしれない。だとしたら窓を閉めなければほんとうに出ていってしまう。でも外に出たのだとすればあけっぱなしにしておかなければ帰ってこれなくなる。ベランダに出ては窓を閉め、ベランダから帰っては窓を開ける。それにしてもなぜいないことに自分は気づいたのか。こちらが何か食事の気配をさせたり、餌場のそばに行ったりすると、猫がむこうのほうで顔をあげたり立ち上がったりする、そういうささいなことにいちいち構ってやるつもりはまるでないのに、やはり見るともなく見ていた、見るともなく見させられていたのだと気づく。理屈をつけても猫は見つからない。こうやって人がうろうろしている部屋はあわただしくて疎まれるかもしれない。いっそこたつにでも入って、開け放った窓から戻ってくるのをのんびり待った方がいいような気がする。と思いながらやはりまたベランダに出る。隣家とのベランダの仕切りの下の暗がりが動いて、そこには猫の頭が入っていた。にゃあとも鳴かなかった。体を開いて窓のすき間に招いてやると、仕切りをするりと抜けて当たり前のように部屋に戻って行った。戻ってきた実感がまるでない。まるでないが猫はもう部屋にいる。抱き上げて喉をなでてみる。しばらくして、ぐう、といつもと違う声が出た。それで窓を閉めに行った。
20000403
 本棚を整理してたら昔のミニコミが出てきた。そこに書いたドナルド・フェイゲンの「カマキリヤド」の話。厭世的だった自分がヤになるが、いまもほとんどこの感想に付け加えることはないので余計ヤになる。

 クローズアップ現代の有珠山噴火特集。「野田氏らの新党名は「保守党」党首は扇千景」というニュース速報にクラクラする。「保守党」てアンタ。

 明治四十三年の有珠山噴火の記事が手元にあったので写しておく。

 有珠嶽大鳴動 ○北海道膽振国有珠嶽の鳴動は其後益々甚だしく時々火柱天に冲し、一天朦朧たり。二十四日午前六時より午後六時迄に十八回の大震、二百二十回の小震あり。△住民悉く避難 壮瞥村の七十六戸六百五十人は字パンケへ、ニシコベ村百五戸五百二十人は向ふ洞爺へ、虻田村二百六十八戸千四百十人は辨邊へ、有珠村二百四十二戸千三百五十五人、長流村二百三十三戸千四百〇五人、およびダテ村の一部はアザオ黄金藥ユマソウに何れも避難せり、其の後風向の変りたる為、虻田方面は更にアレフオコンボシに立退きたり(以下略)。
(明治四十三年七月二六日・東京朝日新聞)
20000402
 おとついの話の続きを朔太郎的に考えてみる。
 「You've got a friend in me」にあって、「I am your friend」という表現にはないもの、それはクエストだ。「You」のクエストが生じ、その目標が「got a friend」であることが明らかになり、その終着点に「me」が君臨する。「You've got a friend in me」という短い一文は「You」が「me」に至る、クエストなのだ。
 だから、「ぼくがついてるぜ」と訳せば、意味は合っているけれども、クエストは生じない。「ぼく」という結論が先に出ているからだ。むしろ語順から言えば「君にはいるだろ、ぼくが」。

 やはり友達を歌った有名な歌に、キャロル・キングの「You' ve got a friend」がある。その歌の中で、キャロル・キングは切々と「You」の悩みを歌い上げ、「I」の行為を歌い上げ、「Yes, I will」と約束したあとで、「You've got a friend」としめくくる。だから、キャロル・キングの「You've got a friend(君の友達)」というフレーズは、「I(私)」のぬくもりで包まれている。
 いっぽう、ランディ・ニューマンは歌の冒頭から「You've got a friend」と(そこまではキャロル・キングの一フレーズのように)始めておいて、落ちをつけるようにさらりと「in me」を付け加える。「in me」には、クエストの終わりの虚脱感、たどりついたらただの煙、のような手応えのなさが漂う。そして、煙が晴れたあとに小さな石ころが落ちているのを見つけるように、「me」をそこに見いだす。You've found a friend in Jesus.
 そこには狡猾で非情なカミサマのかわりに、狡猾で卑小な私がいる。

人間いうたかて、なんでもあれへん、わしにはどうでもええやっちゃ
ちんけなサボテンの花の方がまだマシや
しょうもないユッカの木の方がまだマシや
ほんな砂漠を何追い回しとんねん
わしがそこにおりてくる思とんのかいな
かわいいやっちゃな、人間は

「God's song」 by Randy Newman (1972)
20000401
二度寝で気だるい目覚め。

ホソノ・ボックス、彦根にも一個売ってた。もちろん即ゲット。最初のモンクのレイジーな弾きっぷりにいきなりノックアウト。4枚めの弾き語りに中華街ライブ、涙出るなあ。「北京ダックというごちそうの歌でした」<このMC最高。
すっきりした白黒のブックレットは昔ジョーズ・ガレージで知り合った小田君。いい仕事だね!

月別 | 見出し1999.1-6 |見出し1998.8-12 | 日記