けいたい版 | 月別 | 見出し1999.1-6 |見出し1998.8-12



20000331
 ああ、いろいろやらなあかんことがあるのに、気がついたらランディ・ニューマンのSail Awayを関西弁で全訳してしまった

 まあでも、訳していろいろわかったのでおもしろかった。関西弁のやらしさとか(Sail Awayを関西弁で訳すと、ほとんど豊田商事みたい)、前から訳すテクニックとか、奥田民生やキリンジの歌詞の方が歌詞カード訳よりストレートにランディ・ニューマンに近い、ってこととか。

 訳したあと、日本盤を買ってきて答えあわせをしたら、ぼくの訳も何ヶ所か時制を取り違えてるのに気づいた。まだまだ修行が足らないなあ。
 でも、歌詞カード訳はかなりひどいぞ。「みんながアメリカ人になろうとするだろう」(セイル・アウェイ)とか「おまえは鏡に何をしたことがあっただろうか?」(息子への手紙)とか、「かわいいの、あんたは自分の名まえがわかるかい?」(昨夜の夢)とか、「その人たちはおれたちがすきだ、じゃないのかい?」(サイモン・スミスと踊る熊)とか、「人はこの荒野を追われる なぜならば 人はわたしがそこにいると思っているからだ」(神の歌)などなど、他にもあちこち、かなり間違ってるし、すごい直訳も多い。
 もっとも、「ぼくが生きる理由はきみにある」なんて直訳には、なんともいえない愛敬があって、それはそれで味なんだけど。

 昨日の話の続き。ランディ・ニューマンのSail Awayでは、いかにも夢見るようなストリングスが叔父のエミール・ニューマンの指揮で奏でられている。アルフレッド・ニューマンを始めとする映画音楽一家が作ってきたハリウッドサウンドに乗せて語る、移民残酷物語。
 だから、サボテン・ブラザーズやトイ・ストーリーなどできらめくストリングスが流れるとき、そこには、人を踏み台にせずにはいられない(踏み台にされてきた、ではない)移民の性(さが)が、いっしょに流れてる。

 考えてみると、アメリカンドラマは延々と、打算ゆえに離れられない「おかしな二人」を産み出してきた。その意味では、サボテンやトイ・ストーリーで見せるランディ・ニューマンの皮肉や冷笑は、じつはアメリカの伝統芸でもある。
 トイ・ストーリーの主題歌「君はともだち」という歌には、ウッディの目線がときおり見せる打算やズルさが織り込まれてる。弱い移民がうまいこと相手をとりこもうと、泣きを入れたり貸しを作るときに、キラーンと光るまなざし、そんな打算をけろっと忘れたかのようにおいしいときに助けに現れるるずるさ、それも含めて「ぼくがいるじゃないか(You've got a friend in me)」なのだ。かわいいやんウッディ。だますあなたもだまされるわたしも、泣けるやん。

 You've got a friend in me の「in me」のニュアンスが気になって辞書を引いたらこんな例文が出てきた。

have found a friend in Jesus.
イエスという友を見いだした.

 ビンゴ。me=Jesus。というわけで「君は友達」は裏「God's song」ということに決定しました。
20000330
 トイ・ストーリーで歌われるランディ・ニューマンの
「君の友達」を聞くと、「Sail Away」って歌を思い出す。
ランディ・ニューマンが70年代に歌ったこんな歌。




アメリカやったら食うに困らんで
ジャングルかけずりまわらんでええし
足もすりむかへんし
いちんちアーメンソーメン歌うて酒のんでたらええねん
アメリカ人になってみ、ほんまええで

ライオンもトラもおれへん、ごっついヘビ?おれへんおれへん
メロンもケーキもむちゃあまい、ソバ粉のケーキ、アメリカのソバや
みなもうええっちゅうくらいしあわせなんや
はよのりや、そこの黒いのん、いっしょにいこ

船出や船出や
荒波こえてチャールストンにいくねん
船出や船出や
荒波こえてチャールストンにいくねん

アメリカてな、みんな自由やねん
家と家族だけ心配しとったらええねん
サルが木にぶらさがっとるみたいに楽ちんやねん
みんなアメリカ人になんねんで

船出や船出や
荒波こえてチャールストンにいくねん
船出や船出や
荒波こえてチャールストンにいくねん

("Sail Away" by Randy Newman 1972 Reprise Records 試訳:EV)

20000329
夕方、カリフォルニア湾のボート転覆事故のニュースを知る。生態の安部さんの名前。

今日から研究室でこじんまりとしぐさ研究会。第一回は軽く(?)DuncanがMIT Encyclopedia of the Cognitive Sciencesに書いてるLanguage and Communicationの項を読む。

マクニールらのジェスチャー研究の仮想敵は、
 ■従来の形式言語学
 ■モジュール説(モジュール情報処理説)
 ■デカルト主義・還元主義
 ■不連続性
 ■メッセージという単位
であり、これらを克服する手段として
 ■しぐさ分析・会話分析
 ■発話としぐさを通底する理論の構築
 ■連続性
 ■全体説
 ■会話という単位
を考える。
おそらくそこで目指されているのは、連続か不連続かというそれこそデカルト的な二分法ではなく、連続性を分断する不連続性、不連続性を越境してしまう連続性であり、いっそ分断越境である。

できごとAを書くとき、そのできごとAは終わっている。そこにあるのは「書く」=できごとB、だけだ。「書かれたもの」=できごとBの痕跡、からできごとAは語られる。問題はコミュニケーション研究において、このとんでもない飛躍が当たり前に感じられすぎる点にある。

ビバシティでトイストーリー2。移民の物悲しさを奏でさせたらランディ・ニューマンの右に出るものなし。12 Songs、サボテン・ブラザーズ、トイストーリー、ほら、みんなよそ者の話だ。

夜、CX「記憶の海へ」で野村万斎の話。さてもさてもうまい酒じゃ、というときは、さてもさてもに力が入る。役者だと「うまーい」を強調するだろうけれども。という狂言の話。ここにも朔太郎的思考
20000328
PowerBook DTVを参考に新しいPowerBook G3で動画取り込みを試す。HackTV + QuickTime Player Pro + DVJ 1.0 であっけなく取り込みと出力ができて拍子抜け。2分長ほどコマ送りしてみたが、コマ落ちは見つからなかった。あのヨセミテでの苦労はなんだったのか。まあとりあえずめでたい。
ただし、QT Player Proにはついてるだろうと思った再生速度調整がないのは大不満。QuickTimeには昔からコントロールキーを押すことでスロー、早送り、逆再生などが出来るようになっていて、これ、えらい便利だったのに、なんで付けないかなあ。ちなみに、ムービーのウィンドウタイプを変更すれば、じつはQuickTime 4.1でも再生速度調整は可能。現にDVJはコントロールキーで再生速度が調整できる。書き出すときに使うと便利。
20000327
「はすみフィルター」というのが先月からできている。現代思想辞書を参考にされたとのことなので紹介しちゃいます。使ってみた感想は、うーん、蓮実氏の文章にしては読点が多すぎるのではないでしょうか。「。」>「が、」とか「のだ。」>「のだとしても、」変換などかますと、よりそれらしいとも言えなくもないが、いくら文体が思想を表わすとはいえ、論理構成の捻転度と文構造の粘着度が結びつくとは限らないところに、良き凡庸と悪しき凡庸の差が現れると言えば、これもまた悪しき凡庸にまみれた言説に過ぎず、そもそも良き凡庸を目指した途端良き凡庸から見放されるわれわれにとって、不意打ちする記号に対して真摯に打たれる以外の身振りが果たして可能なのか、10時台のニュースにテレビ朝日が勝とうがNHKが負けようが、ニュースを伝えるという題目から遠く離れてそこに屹立する顔の衝撃すら持ち合わせぬモニターというメディアから、われわれが世界の真実を垣間見たような気にさせられている平日の10時に、凡庸の良悪の破綻する瞬間を待ち望むとしたら、それはその欲望に見合った残酷極まりない凡庸な力としてしか立ち現れようがないのだが(以下略)
20000326
彦根の夜は1度ですよ。これでも関西?って感じの寒さ。

パソコンの電池が3時間は持つので喫茶店に長居するようになってきた。さすがに珈琲一杯で粘ってると嫌がられそうなので適時おかわり。

打ち込みに適した喫茶店の条件は、適度な音量のBGM(打鍵音が響かなくていい)それもインスト中心(歌詞のある曲は特に翻訳するときには頭に入ってきてジャマになる)、カウンタから見えにくい場所にテーブルがある(長居で恐縮するほど殊勝な心は持ち合わせていないが、あんまり目立つところで居座ってると店員の方がヤだろう)、などなど。あと、マンガはないほうがいい。あると必ず読んじゃうから。というわけで、結局適当に広くて適当に人の出入りがある、ごく普通の喫茶店かファーストフードに落ちつくことになる。

大学で打ち込めばよさそうなもんだが、この時期、大学は暖房を止めやがるんですよ。休日もいちいち前もって申し込まないと暖房はいんないし。集中暖房システムだから入れるのも止めるのも全学一斉なんだな。非エコロジカル。

20000325
春は眠いよ。朝寝長風呂。
ぱんさんから廃線情報。廃線で近道、廃線で焚火。

喫茶店で棚瀬さんと会って話。棚瀬さんは最近近くの村の家を買ったそうで、その話がおもしろかった。
農村の民家は、台所からすぐ野良に行けるように土間と地続きになっている。その土間は表と裏を貫通していて、裏庭に通りぬけられるようになっている。台所の上が吹き抜けになっているのは湯気がこもらないようにするためだ。柱の間をすべて壁で埋めるなんてのは洋風の考えで、部屋の大きさをフレキシブルに使うため、基本的には壁でなくふすまで仕切る。冬は寒い。蔵には火鉢が10個ほどあったという。しかし手あぶりでは背中が寒い。関東のとある村では、背中に子供をくるんでしょってるのがステイタスだったらしい。つまり前面は手あぶりで、背中は子供でぬくぬくというわけだ(きだみのるの著書にそういう話があるらしい)。
ふすまがもたらす境。水窪の西浦のお家もそうだったが、たとえふすまが開け放されていても、こちらの間とあちらの間には境があって、そこからは入れないことがある。しかし開いているのだから目には入る。目に入るけどそれは別の世界なのだ。
ふすまが閉まる。目には入らなくなる。でも耳には聞こえる。隣でやってる「日本人の質問」の音が聞こえる。耳に入るけどそれは別の世界なのだ。
してみると、ふすまというのはまさに、日本の結界のあり方そのものだな。

山村の隔絶した世界の話。近江文化、なんて言うけど、じつは近江は琵琶湖と米作地帯だけではなく、鈴鹿山脈近くの木地師文化があり、湖北・湖西の山村がある。そして山村のひとつひとつが、かなり固有の文化を持っている。

「エレベーターに挟まれて死亡」(報知)ホームエレベーターと床との間に老人がはさまれた。一階にはエレベーターの扉(というか、壁の扉なのだろう)があるが、停止しているときは開くため誤って老人が入ったのだろう、とのこと。

NHKで、「みんなのコンサート」過去のラジオやテレビで流れた曲の特集。「山口さんちのツトム君」を歌う今別府宏彦という子のルックスの頼りなさがすごかった。あと、やはり「ひるのいこい」や東京オリンピックマーチなど、古関裕而の喚起力は圧倒的。独眼流政宗のテーマ(池辺晋一郎)で生オンドマルトノ。

レンタル屋でレンタル落ちCD。レンタル数を稼ぐため大量に仕入れられ、やがて投げ売られるCDたち。時代の力による過酷な引き算は、その値段を100円とはじき出す。その引き算が並んでいる。引き算を買う。PUFFY、昔の森高、佐野元春などなど、新旧取り混ぜてがばっとひとつかみしても1000円しないのだが、全部聞く気あんのか?

20000324
卒業式に謝恩会。で最後はカラオケ。
次々に曲を思いつくが、ことごとくなし。
ブチ切れて「ポケモンマスターへの道」を歌う。
ええ声や〜(おかけんたの声で)。
こんな幕切れですんまへん。みんな元気でね。
20000323
原稿原稿。
のフタの光るアップルマーク。こちらは目の前の画面と向かっているんだけど、フタが向こう側にいる人に「アップル使用中」って押しつけがましさを放っている。なんかヤ。シールでも貼るか、やはりかえるさんステッカーか。

毎夜一巻ずつ見ている昔のポケモンビデオは
なんだかんだで17巻。白い明日が待ってるぜ。
20000322
夜、テレビでたまたまものまね番組を見てると、やはり「恋のダンスサイト」あり。カイヤはじめ微妙に売れ筋のあいまいな女性芸能人がそれぞれ「いやーん」とか喉たたきとか最後の後藤真希のひとことにいたるまで、役割担当を嬉々としてやってる。なんかモーニング娘願望というか、こういう役ふってよ私にも、みたいな空気が漂ってて独特のわびしさでした。そういう願望感を二十代三十代の芸能人にひきおこさせるモーニング娘って、やっぱりおニャン子より圧倒的に「下品」だなあ。

ってわけで、ミュージック・マガジンの能地祐子・安田謙一放談「これがヒットだ!」は、自分も含めて音楽が好きで音楽聞くってことがストレートに通らない今日この頃ってなんなんだろう、という根本的疑問を投げかける数々の目うろこ。

NHK「おしん」の総集編再放送。おしんって1900年生まれ(たぶん)なのだな。生誕100周年。大正11年9月1日日本橋に新規開店、とナレーションが入ったとたんに「つまり一周年記念のお祝いしているところに大震災っていう設定なのね」と予感される辛酸。こういう、めでたさと一緒に辛苦がもれなくインストールされるところが、橋田寿賀子ドラマの「ヤな感じ」なのだな。

榎本くんから翻訳本のテキストファイル。これで作業が楽になる。ショートカット一発で辞書が呼び出せるのは単語力に不安のあるぼくにはありがたい。ノートパソコン用の原稿ホルダーってのがないかあれこれ探したけど思うものが見つからず、結局参照原稿がテキストファイル化しているのがいまのところは一番。
20000321
靴を新しくしたのであちこち行くのに歩く。しかし表通りのベルロードはじつにチェーン店展示場状態でお寒い感じ。

ひさしぶりにハイパーテクスト・ボックスのCGIを改訂。バグがどうにも取れなくて一年以上ほうってあったんだけど、気がつくとなんてことないミスだった。

新聞の取材。会話分析の世界は新聞記事にあまりそぐわないことがよく分かる。新聞記事はあれかこれかをてっとりばやくお見せする世界だし、いっぽう会話分析はあれかこれかにてっとり早くたどりつく理解の仕方からの撤退だ。



20000320
 「マグノリア」のスタッフロールが流れる中、エイミー・マンが、「Save me from the rank of the freaks who suspect they could never love anyone.」と歌う*。それは歌詞カードでは次のような訳になっている。

さあ、私を救って/変わり者の集団から救って/彼らは永遠に誰も愛せないと/自分自身を疑ってる

 「変わり者の集団」?
 個々の訳語はおくとしても、じっさいの歌の時間は、訳とは異なる形で流れている。エイミー・マンの歌い方は次のように、一句を一句をつぶやきで切断していく。

 Save me 私を救って
 From the rank この群れから
  Of the freaks このフリークスたちから
 Who suspect 気づきはじめてるのよ
 They could never love anyone. 誰も愛せなかったんじゃないかって

 まず、私(me)を取り囲むように不定形の群れ(the rank)がつぶやかれる。次に群れには「フリークス」という形が与えられる。ここではまだ、フリークスは、私を囲む外側に過ぎない。
 が、その「フリークス」が「気づきはじめてる(suspect)」。フリークスとはじつは私であったかのように、「気づきはじめてる」という動詞が現在形でつぶやかれる。つぶやいているのは誰か。それは「They」だ。再び私と群れとの距離がとられる。しかし、その直後に気づかれた内容へと声は踏み込む。「誰も愛せなかったんじゃないか」。私でない誰が、このような声で気づいたことをはっきりと口にできるだろうか。私は群れに再び重なろうとする。
 この一句一句の、距離を変えながら自分が自分を追いつめていく声は、映画「マグノリア」の前進力と重なるようにスタッフロールの流れとともに進んでいく。
 フリークス、ということばにはいくつかの意味がある。が、エイミー・マンが「フリークス」とつぶやくとき、「畸形」という意味がもたらす排除と選別の力から自由であるわけはない。問題はその力がどのように行使されているかだ。
 歌詞カードには書かれていないが、じつはこのコーラスの部分は、最後に以下のように歌い換えられながら繰り返される。エイミー・マンはここで、「フリークス」ということばをめぐって、さらなる微妙な排除と選別の力を働かせつつある。そこでは、フリークスは主語であると同時に目的語として扱われ始める。

 Except the freaks フリークス以外は
 They suspect みんな気づきはじめてる
 They could never love anyone 誰も愛せなかったんじゃないかって
 Except the freaks  フリークス以外には誰も
 who could never love anyone. 誰も愛せなかった者以外には誰も

 この歌のくだりをどう聞くか?「フリークス」を単なる差別用語と考えるなら、これらの歌詞は高みからフリークスを哀れむ能天気なことばでしかない。しかしこの歌は高みから歌われているのではないし、「フリークス」ということばが近づこうとしているのは、私以外の誰かではない。フリークスとは「○○キチガイ」であり「麻薬常用者」であり、いわばハマっている人を表わすことばだ。そして「マグノリア」という映画は、このくそったれな世の中にハマっている人々の映画だ。だから、まず、フリークスということばは、あなたや私のこととして、あなたも私もハマっているこの群れ(the rank)、フリークスの群れ(of the freaks)を指すことばとして聞かなくてはならない。(映画「フリークス」の「You are one of us !」(君もぼくたちの仲間だよ!)ということばを思い出すこと)。
 ここで歌われているのは、誰もがハマらなければ生きていけない「Freaks or Die?」なこのくそったれな世の中に対する、「Die or Freaks?」という物語だ。それは、「誰も愛せなかったんじゃないか」と気づき、フリークスであることに気づく物語であり、誰も愛することのできないこの世界、フリークスであり続けることを強いるこの世界、止めることのできないこの世界をいかに諦めうるかという物語、差別の反転(「Wise up」)の物語だ。

 エイミ−・マンは、歌いながら意味を反転させ、統語を反転させる。それは歌の別の部分にも表れている。「1 You struck me dumb / 2 Like radium / 3 Like Peter Pann or Superman / 4 You will come」という部分がそうだ。
 このフレーズのどこにピリオドを打つべきか。文法上は、1と2、2と3、3と4のどの間でもピリオドを打ってよい。意味上はどうか。「Like」という繰り返しに注目するなら、2と3はひとつながりに読める。そして2、3の「Like...」は1を修飾するようにも4を修飾するようにも読める。
 ところがメロディを聞くと、歌は2と3の間で区切られている。「like」ということばの繰り返しは、メロディによって分断されている。歌は、まずメロディを切断しながら「Like」を繰り返し、メロディを跨いでことばの意味を以前へと付加しておきながら、じつはそれが後のことばになだれこんでいることを明らかにする。そのような修飾関係の反転が、歌のレベルでは起こっている。(ちなみに、この反転は、歌詞カードの訳では「あなたの前じゃ無口になる/放射能のように/ピーターパンのように/それともスーパーマンのように/あなたは私を救いにやってくる」と、無視されてしまっている。)

 それにしても私は救われるのか。そもそもかつては「Freak Out!」することこそ、突破口だったのではなかったか。恋の一撃、相手をあがめたてまつることば、そして「Save me」。手を変え品を変え「救って」という願いが繰り返される。繰り返されるほど、逆に救われなさが浮き彫りになる。「ピーターパン」「スーパーマン」ということばのバックで、オルゴールのようなアルペジオが救いを夢見るように奏でられている。しかしそのあと間奏のメロディがなぞり出すのはレオン・ラッセルの「スーパースター」だ。それは、私が恋するスーパーなあなたの歌であり、スーパーであるがゆえに私を救えないあなたの歌だったはずだ。
 もはやスーパーな者では救われない。世界はスーパーな者によって作られているのではない。世界は私の群れによって宙づりにされている。誰も主人公ではない。誰も救われることはない。少なくとも気づくまでは。ビデオクリップの中のエイミー・マンは皮のジャンパーを身にまとい、岡崎京子の「リバーズ・エッジ」の登場人物のように、瞳を大きく開いてこちらを見つめている。Frogs or Freaks?

(上に挙げたさまざまな理由から歌詞カードには納得がいかないので、歌詞の全訳を以下で試みておく。)



あなたはまるで/ぴったりフィット/
困ってる女の子にも/流れるその血をおさえるのにも/
でも、私を救うことはできる?/救いにきてよ/
この群れから/このフリークスたちから/
みんな気づきはじめてるのよ/誰も愛せなかったんじゃないかって

だってはっきり言えることがあるのよ/わかるでしょ、つまり/
永遠におさらばなの/ハンガーストライキには/
でも救ってくれない?/救いにきてよ/
この群れから/このフリークスたちから/
みんな気づきはじめてるのよ/誰も愛せなかったんじゃないかって

びっくりして口もきけなかった/あなたはまるで放射線/
まるでピーターパン/スーパーマンみたいに/
あなたはやってくるわ/
私を救いに/
救いにきてよ/お願いだから救いにきて/
この群れから/このフリークスたちから/
みんな気づきはじめてるのよ/誰も愛せなかったんじゃないかって/
フリークス以外は/気づきはじめてる/
誰も愛せなかったんじゃないかって/
フリークスじゃなきゃ/気づきはじめてる/
誰も愛せなかったんじゃないかって

救いにきてよ/救いに来ない?/
お願いだから救いにきて/
この群れから/このフリークスたちから/
みんな気づきはじめてるのよ/誰も愛せなかったんじゃないかって/
フリークス以外は/気づきはじめてる/
誰も愛せなかったんじゃないかって/
フリークス以外には誰も/誰も愛せなかった者以外には誰も

(*"Save me" written by Aimee Mann 1999 in "Magnolia" WPCR-10641)
20000319
倉谷さん、ルースさんとお茶にうどん。
倉谷さんの「横になっているときに眼をつぶると部屋の方角を逆転させて感じることができる」という話。ルースさんも「あるある」といってたし、ぼくにも経験がある。じゃ、なぜ横たわっているときにこういう感覚が得られやすいんだろう?
そのとき思いついたのは、体軸の前後と上下の問題だった。立っているときは、体軸の前後は環境の前後と対応している。ところが体を横たえると、体軸の上下と環境の前後を対応させる必要がある。横たわったときの対応は立っているときの対応よりもゆるいのではないか。その他、視覚の遮断、横たわるときの方向(あおむけ/うつぶせ)なども考え合わせる必要があるだろう。

寺町に、やたら三葉虫のあるクリスタルショップができていた。

 朔太郎と立体写真について。
 安易に固まってしまう概念、それを産み出してしまう時間の形式を批判した朔太郎が、立体写真に凝っていたのは、いっけん皮肉に感じられる。立体写真こそ、時空間を瞬間に固定する技術であり、時間の固化、風景の固化、ではないか。
 しかし、じっさいに立体写真を長い時間覗いた者なら、それが「立体写真=3D」「立体写真=瞬間」といった一般のイメージとはまったく異なる体験だということに気づくだろう。立体写真に写しこまれたのは事物の表側、カメラの視点から見える限りのことに過ぎない。事物の裏、たとえばビルの陰、カーブの向こう、川のゆくえ、そこに何があるのかを推測するのは見る者の自由にまかされている。さらには、その今にも動き出しそうな瞬間が、どこへ動き出そうとするかを推測するのも、また、観る者の自由にまかされている。
 自由?じっさいには自由ではない。ビルの陰にはアスファルトが続き、それは見知った町に続いているだろう。ゆるやかなカーブの向こうにはその曲率に見合った曲線が描かれているだろう。川幅は広くなるだろう。わたしたちは、頭の中で事物の裏側に回り込み、あらゆる可能性の中から、そこにありそうな空間、ありそうな時間を絞りこむ。
 わたしたちの認知がいくつかの拘束条件によって特定の方向へ道づけられているのは確かだ。しかし、わたしたちはそこに、拘束条件以上の、概念のたがによってある場所にたどりついてしまっているのではないか。
 物陰は町へ続く。物陰が町へ続いているのなら、物陰に蒼ざめてふるえているものはなにか。
 立体写真に取り憑かれた者は、何度も同じ写真を覗きなおす。陰を疑い、陰に蒼ざめる。写真に固定された時間を溶かし、時間をたどりなおす。形式をたどることで形式を遁れ、見知らぬ形にcanalizeされようとする、拘束条件の限界と可能性を味わいつくそうとする。
20000318
久しぶりに暖かい日差し。
彦根骨董市に行くが、店が少なく収穫なし。
図書館で萩原朔太郎全集。

萩原朔太郎の「物そのもの」という感覚。
朔太郎は「It is a monkey」という文を挙げながら以下のように書く。



 この命題に於て It は「それ」を意味しない。この it は或る漠然たる感じ − 「物そのもの」の体感 − の中を泳いでいる状態の表出である。試みに次の場合を想像せよ。いま吾人は瞑想にふけりながら森林の中を歩いている。ふと何者か樹木に黒く動いているものがある。一瞬間、吾人はそれの何者であるかを判別し得ない。ただ或る物の形が印象された。次の瞬間はじめて吾人はそれの去るであることを判断し得た。かくの如きものは一般の知覚的認識における順序である。(中略)
 こうした判断の順序は、外国語の文法に於て最もよく示されている。すなわち始めには或る漠然たる物如の感じ It があり、次にこの感じに対して向けられたる理智の反省が語られる。この判断の状態は、対象を「それか」「あれか」と模索する直感の状態であって、一種の空隙のあるいらいらした気分のものである。しかして最後に判断が決定され概念が成立するのである。即ち次の如し。
 
It物如(漠然たる感じ)
is判断(智恵の働らく状態)
a
monkey.概念(解決)

この例は外界の事物を対象とした場合であるが、内界の場合の判断も同様である。たとえば前例の恋を始めて知った少女が、もしかつて恋についてなにかの智識を伝聞して居たとすれば、自己の異常なる敬虔について次のように考えるであろう。「そもそもこの不思議な思いは何というものであろう。かつてこんな思いについて何か聞いたことはなかったろうか?」と。そしてこの判断の結果は次の命題に現われる。

 It is love. (恋だ!)

(中略)
 It rains のIt はもちろん「それが」の意味でなく、雨天の時にだれも感ずる一種の微妙な触感を象徴している。之れを直訳すれば「感じが降る」であるから、この場合の日本語はまづ「降るな!」であろう。詳しく言えば「どうも降るな!」の意味である。

(中略)

・・・概念は理智の活発なる作動の時間 − その時間は is で示されている − が終った後に残る残留物であり、言わば「智恵の死体」である。人は○○なる智識の組織に於て、この死体のうず高き貝塚を見る故に、誤ってその形成物を理智そのものと混同するのである。(中略)認識する作業は、精神の溌剌たる活動であり、生命の躍動せる、ある流動的な、光芒のある、ひとつのきびきびとした状態である。

(「認識の形式」萩原朔太郎全集第十五巻「未発表原稿」所収)

 上述した所のことは、すべて認識の形式に関する批判である。判断は認識の説明であって認識の事実そのものでない。詳しくいえば、すでに知られていることを、概念によって或る命題の形式に言い現わしたものである。たとえば「物体は重さを有す」という判断によって − その判断が言い現わされた後で − 吾人はその事実を知ったのでない。その事実を知ったのは、この判断が文章に言い現わされるまえ、思想が直感として脳裏に把握された瞬間である。つまり判断は、直感的思惟を概念の形式で説明したものにすぎない。
(中略)
反省は直感を整理し、直感に形式をあたえるものである。そしてこの「形式」の差別は、それ自ら芸術と思弁的智識との差別であり、同時にまた認識における真と偽との差別である。そもそも形式なき直感、即ち「反省されない事実」「説明されない事実」の真偽の如きは、他から之れを推察する由もなく、またもとより真偽を問うべき限りでない。ゆえに認識の真偽はそれ自ら反省の善悪である。反省にして完全なればその説明は必ず真であり、反省にして不完全なればその認識もまた偽である。

(「認識の発展」同上)



 カント批判?ベルグソン的?そんな(それこそ悪しき概念化のような)ことはとりあえずどうでもよい。It is a monkey.という文章に、朔太郎は、概念の凝っていく時間を見いだした。そして、その時間の中で固まろうとするあいまいな「物」に惹かれつつ、固まってしまった「概念」を批判し、そのような固まりを生んでしまう時間を「概念の形式」として批判した。そのことを覚えておこう。
 詩は、概念の形式との格闘、概念が凝っていく時間との格闘となるだろう。

 ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、
 こひびとの窓からしのびこむ、
 床は晶玉、
 ゆびとゆびとのあひだから、
 まっさをの血がながれている、
 かなしい女の屍体のうへで、
 つめたいきりぎりすが鳴いている。

 句点で書き継がれていく朔太郎の「殺人事件」のことばは、概念が凝ろうとする場所から逃れようとする私の探偵の運動、窓からしのびこむ、しのびこむ先に床があらわれ、晶玉からゆびがあらわれ、ゆびとゆびのあいだからまっさおな血があらわれる手品、私は「私の」探偵、と書くことで、私と探偵を分かち、探偵をつかませておいて私を逃す。それにしても私はあらゆる形式から遁れられるだろうか。いままさにこのことばが読まれようとしている「窓」の形式から遁れられるだろうか。「殺人事件」の曲者はいっさんにすべってゆく。そのゆく先に田村隆一の「腐敗性物質」を置いてみよう。

 魂は形式
 魂は形式ならば
 蒼ざめてふるえているものはなにか
 地にかがみ耳をおおい
 眼をとじてふるえているものはなにか
 われら「時」のなかにいて
 時間から遁れられない物質
 われら変質者のごとく
 都市のあらゆる窓から侵入して
 しかも窓の外にたたずむもの
 われら独裁者のごとく
 感覚の王国を支配するゴキブリのひげ

(田村隆一「腐敗性物質」より)
20000317
日記で使っている検索エンジン(wwwsrch.cg)は、1ファイルにつき一回だけヒットするように作られているので、改造して複数回ヒットさせるようにした。
20000316
「聞きわけのない子だ。なぜ地球をあなたにあげますと言えないのだ」(メフィラス星人)というわけで、二十数年ぶりにウルトラマンをビデオで見る。さまざまな引用でいまや超有名な「空からのおくりもの」「怪獣墓場」のヘンな様式美(魚眼・背景の地図・スティル連続)など。人物に物語を進めさせておいて実は見せたいのは背景、っていうねじれは、いつから始まったんだろうな。それはともかく、ぼくの性のめざめは(アンヌ隊員ではなく)桜井浩子にあったということを再認識する。

近くの本屋が改装して在庫数が充実した。まあ欲を言えばキリがないが、彦根でこの規模の本屋が夜中まで開いてるのは貴重だ。これで立ち読み場所ができた。さっそく田村隆一「腐敗性物質」、正高信男「老いはこうしてつくられる」、矢野誠一「三遊亭圓朝の明治」。

テレコンワールドに新風の予感「エア・コアー」!お調子者の女性二人の掛け合いはまさに鼻歌まじり。彼女たちのオーバーアクションとともに視聴者をあちこちへひっぱるカメラワークも、いかにもインフォマーシャルの王道って感じ。「上にはケーキ、下にはローストチキン」と決めゼリフもばっちり。

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