- 20000318
- 久しぶりに暖かい日差し。
彦根骨董市に行くが、店が少なく収穫なし。 図書館で萩原朔太郎全集。
萩原朔太郎の「物そのもの」という感覚。 朔太郎は「It is a monkey」という文を挙げながら以下のように書く。
この命題に於て It は「それ」を意味しない。この it は或る漠然たる感じ − 「物そのもの」の体感 − の中を泳いでいる状態の表出である。試みに次の場合を想像せよ。いま吾人は瞑想にふけりながら森林の中を歩いている。ふと何者か樹木に黒く動いているものがある。一瞬間、吾人はそれの何者であるかを判別し得ない。ただ或る物の形が印象された。次の瞬間はじめて吾人はそれの去るであることを判断し得た。かくの如きものは一般の知覚的認識における順序である。(中略) こうした判断の順序は、外国語の文法に於て最もよく示されている。すなわち始めには或る漠然たる物如の感じ It があり、次にこの感じに対して向けられたる理智の反省が語られる。この判断の状態は、対象を「それか」「あれか」と模索する直感の状態であって、一種の空隙のあるいらいらした気分のものである。しかして最後に判断が決定され概念が成立するのである。即ち次の如し。
It | 物如(漠然たる感じ) | is | 判断(智恵の働らく状態) | a | | monkey. | 概念(解決) |
この例は外界の事物を対象とした場合であるが、内界の場合の判断も同様である。たとえば前例の恋を始めて知った少女が、もしかつて恋についてなにかの智識を伝聞して居たとすれば、自己の異常なる敬虔について次のように考えるであろう。「そもそもこの不思議な思いは何というものであろう。かつてこんな思いについて何か聞いたことはなかったろうか?」と。そしてこの判断の結果は次の命題に現われる。
It is love. (恋だ!)
(中略) It rains のIt はもちろん「それが」の意味でなく、雨天の時にだれも感ずる一種の微妙な触感を象徴している。之れを直訳すれば「感じが降る」であるから、この場合の日本語はまづ「降るな!」であろう。詳しく言えば「どうも降るな!」の意味である。
(中略)
・・・概念は理智の活発なる作動の時間 − その時間は is で示されている − が終った後に残る残留物であり、言わば「智恵の死体」である。人は○○なる智識の組織に於て、この死体のうず高き貝塚を見る故に、誤ってその形成物を理智そのものと混同するのである。(中略)認識する作業は、精神の溌剌たる活動であり、生命の躍動せる、ある流動的な、光芒のある、ひとつのきびきびとした状態である。
(「認識の形式」萩原朔太郎全集第十五巻「未発表原稿」所収)
上述した所のことは、すべて認識の形式に関する批判である。判断は認識の説明であって認識の事実そのものでない。詳しくいえば、すでに知られていることを、概念によって或る命題の形式に言い現わしたものである。たとえば「物体は重さを有す」という判断によって − その判断が言い現わされた後で − 吾人はその事実を知ったのでない。その事実を知ったのは、この判断が文章に言い現わされるまえ、思想が直感として脳裏に把握された瞬間である。つまり判断は、直感的思惟を概念の形式で説明したものにすぎない。 (中略) 反省は直感を整理し、直感に形式をあたえるものである。そしてこの「形式」の差別は、それ自ら芸術と思弁的智識との差別であり、同時にまた認識における真と偽との差別である。そもそも形式なき直感、即ち「反省されない事実」「説明されない事実」の真偽の如きは、他から之れを推察する由もなく、またもとより真偽を問うべき限りでない。ゆえに認識の真偽はそれ自ら反省の善悪である。反省にして完全なればその説明は必ず真であり、反省にして不完全なればその認識もまた偽である。
(「認識の発展」同上)
カント批判?ベルグソン的?そんな(それこそ悪しき概念化のような)ことはとりあえずどうでもよい。It is a monkey.という文章に、朔太郎は、概念の凝っていく時間を見いだした。そして、その時間の中で固まろうとするあいまいな「物」に惹かれつつ、固まってしまった「概念」を批判し、そのような固まりを生んでしまう時間を「概念の形式」として批判した。そのことを覚えておこう。 詩は、概念の形式との格闘、概念が凝っていく時間との格闘となるだろう。
ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、 こひびとの窓からしのびこむ、 床は晶玉、 ゆびとゆびとのあひだから、 まっさをの血がながれている、 かなしい女の屍体のうへで、 つめたいきりぎりすが鳴いている。
句点で書き継がれていく朔太郎の「殺人事件」のことばは、概念が凝ろうとする場所から逃れようとする私の探偵の運動、窓からしのびこむ、しのびこむ先に床があらわれ、晶玉からゆびがあらわれ、ゆびとゆびのあいだからまっさおな血があらわれる手品、私は「私の」探偵、と書くことで、私と探偵を分かち、探偵をつかませておいて私を逃す。それにしても私はあらゆる形式から遁れられるだろうか。いままさにこのことばが読まれようとしている「窓」の形式から遁れられるだろうか。「殺人事件」の曲者はいっさんにすべってゆく。そのゆく先に田村隆一の「腐敗性物質」を置いてみよう。
魂は形式 魂は形式ならば 蒼ざめてふるえているものはなにか 地にかがみ耳をおおい 眼をとじてふるえているものはなにか われら「時」のなかにいて 時間から遁れられない物質 われら変質者のごとく 都市のあらゆる窓から侵入して しかも窓の外にたたずむもの われら独裁者のごとく 感覚の王国を支配するゴキブリのひげ
(田村隆一「腐敗性物質」より)
|