The Beach : August a 2002


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20020815

 この前、ふとジェイソン・モネのことを思い出したので、なんとなく検索をかけてみたら、驚いたことに彼のホームページがあった。WWWはたぶん他の人が手伝ってるんだろうけれど、ジェイソンがぱこぱこメールを打っているところなんてちょっと想像ができない。バリにはもう6年ほど行っていないが、彼の地のインターネット事情はどうなっているんだろう。

 夜、レンタルで「ゴーストワールド」。ふつう、小説やコミックの映画化を見ると、「原作とちがーう!」という不満が起こりがちなものだが、この映画に関してはそういうことはなかった。同じツウィゴフ作品「クラム」のごとく最後はNorman's land?へ。見たあとは、いつにもまして「こんな世の中うそっぱち Ghost World だわ!」な気分に。




20020814

 大澤真幸『文明の内なる衝突』NHKブックス。
 キリスト教とイスラム教の教義(第三者の審級のあり方)の対比を縦軸に、「二つの価値体系」を不断に求めてしまう資本主義の本質を横軸にしながら、9・11テロとその後のアメリカと世界の対応が論じられている。キリスト教=資本主義という世界エンジンのあり方に、「イスラーム以上にイスラーム的な」くさびを打ち込む大胆な内容。論の中にちりばめられたさまざまな引用による転倒もいちいち立ち止まらされ、線をひきまくる本だった。

 この本のポイントはたくさんあるが、コンパクトにアレンジしてしまうと、こうだ。
 イスラムにはムハンマドがいるが、キリストには「○○伝」しかない。イスラムは神をあがめるが、キリスト教は神を更新し続ける。キリスト教は資本主義的に生のあり方を更新し続け、罪を更新し続け、多文化を敬して遠ざける。罪には他人がいない。恥には他人がいる。罪から恥へ。交換から贈与へ。
 
 「陰謀史観」=「陰謀に支えられない世界」に対する恐怖の産物、間違った者が正しいことを言うことに耐えられない「反エクソシスト的な嫌悪」、資本主義=「経験可能領域」を空間的・時間的に不断に変動させるシステム、など使えそうな概念もあちこち。
 キーとなる「恥」の概念の部分だけ引用しておこう。


 恥ずかしさは、自分の内密な核の部分が、その徹底した内密性にもかかわらず疎遠さを帯び、「(私には引き受けられない形式で)他者によって与えられている」という刻印を残すときに生ずるのである。嫌悪は逆である。私の外に存在している対象が、その外在性にもかかわらず、私との親密な繋がりを帯びてあらわれ、「私がまさにそのようなものとしてそれを存在せしめている」という刻印を誇示しているようなとき、私はそれをどうしても嫌悪してしまうのだ。



 夜、DVDでキューブリック「ロリータ」。好きなのはハンバートが割るくるみの行方。




20020813

 60年代歌謡を浴びて育ったぼくには、ずっと腑に落ちないことがあった。それは、なぜあの頃、「日本」歌謡にあんなにもハワイアンの影があったのかということだ。

 まず記憶に残っている最初のハワイアンらしきものは田代美代子とマヒナスターズの「愛して愛して愛しちゃったのよ」で、これは両親が子供のぼくと遊ぶように歌っていたのを覚えている。TVやラジオでもよく流れていた。
 歌詞も音楽も、子供心にとても「ヘン」な曲だった。いいオトナがなぜかコドモのまねをしてお菓子をねだるみたいな声で歌ってる(いまはそれが田代美代子の「お色気」だと知っているが)。曲を甘く飾るピヨンピヨン言う音(いまはそれが「スチールギター」だと知っているが)。そして男の人がすごく高い声*で歌ってる!(いまはそれが「ファルセット」だと知っているが)。

 *余談だが、以降、マヒナの歌によって、「ヘンな感じ=ハワイアン」と「高い声」はぼくの中で完全とリンクされてしまい、キングトーンズの「グッドナイト・ベイビー」やザ・ブルーベル・シンガーズの「昭和ブルース」のファルセットにすら、似たリバーブを感じたものだった。

 もちろん、時を同じくして、マヒナ以外にも日野てる子やエセル中田、あるいはバッキー白片や大橋節夫といったハワイアンな人々の音楽も耳に入っていたはずだが、固有名詞と結びつけては覚えていない。

 マヒナの「ヘンな感じ」と「ハワイ」とがぼくの中でしっかり結びついたのは、「アップダウンクイズ」だったと思う。なにしろ、「10問正解して、さあ、夢のハワイに行きましょう」(小池清)なのだ。地上に置かれた6つの四角いゴンドラはハワイ目指してクイズに挑戦。一問正解すると一段階、ラッキークイズに答えると「ゴンドラは一気に二段階あがります」なのだ。ただし「一問でも不正解ですと初めからやりなおしていただきます」なのだ(あの、ゴンドラが動く瞬間に「がくっ」と解答者ごと揺れるのがたまらんかった)。
 毎回さしはさまれるシルエットクイズの影(それでもわからなければ、ゲストの「横顔」を拝見いたしましょう)はハワイへのあこがれと重なり、頭を天井にうちつけんばかりに上り詰めるゴンドラにおしっこはいまにもちびれそうだった。
 そして、10問正解した瞬間に天井から落ちる紙吹雪とともに流れるふわふわした曲!(いまはそれが「珊瑚礁の彼方」だと知っている) これだ。あの「ピヨンピヨン」いうヘンな音ってハワイだったんだ。
 さらにはそこにタラップが付けられ、いままで狭苦しい箱だと思っていたゴンドラがなんと開くではないか。きつい勾配のついたタラップの階段を、スカートの中が見えそうで見えないスチュワーデスのお姉さんがかけあがってきてレイをかけると、10問正解者はウサギ小屋から一気にハワイへ!
 そして彼や彼女がハワイ(というか小池さんの横)に楽々と腰をおろすいっぽうで、割れて用無しになったくす玉の下、天井まで届いてからっぽになったゴンドラのはるか下界では、どうみてももうハワイは絶望な解答者たちが、わずかな残り時間の中で、なおも二重丸の描かれた回答パネルを立て続けるのだ。非情(のライセンス)!
 空想の中で、小池さんに「はい次!」とせかされながら、ついにあの天井まで届くゴンドラに何度我が身を置いたことだろう。

 しかもこれが毎週日曜日の休みごとなのだ。この日曜が10問正解だったら。この日曜がハワイだったら。でもここは家で、明日は月曜で学校なのだ。
 よく、「サザエさん」に日曜の憂愁を感じたという話を聞くが、学校嫌いのぼくにとっての憂愁はアップダウンクイズだった。ハワイに行きたいのに学校なんて。日曜のハレの終わりを告げるけだるい、泣きたいようなせつなさ(そしてそのあとしばらくすると「泣いてたまるか」が始まるのだった。)
 もし当時、大橋節夫の「夢でハワイへ」を知っていたなら、「ボクのことや!」と叫んだところだ。『夢夢夢よ、今は夢、お金もない、ヒマもない』

 以後、ワイルドワンズや寺内タケシやベンチャーズにさりげに組み込まれたハワイにうきうきさせられたり、なんとなくサビシクなったのはもちろんだが、ぼくのハワイアン幻想を決定的にバージョンアップしてしまったのは、黛ジュンの「天使の誘惑」だった。
 イントロの粒だちのいいギターにスチールギターがキューワーンと重なるところでノックアウト、そしてそのスチールは曲のそこかしこに見え隠れしながら、天上のストリングスにはディ霊まで! そのくせドラムはすっとこどっこいの16ビート。パラダイスのありかはハワイしかないと確信させるきらめきぶりだった。
 「唇に人差し指で」するくちづけの意味なんて小学校の当時は「知らずにいたの」どころか考えもしなかったが、一人前に勃起するようになってから反芻すると、まさに歌ににわかに「色」気がつくのが感じられ、歌の輝きは倍になった。
 後年、その黛ジュンがあのようなヌードになるとは想像もしなかったが、そのこととは無関係に、今でも、この曲の最初の数小節を聴くだけで、理由もわからぬまま胸をしめつけられるような感じがする。。

 と、ここまでスチールギターの話に終始してきたが、もうひとつのハワイアン、ウクレレもまたしかり、あーあやんなちゃったな60年代から、いまはバラエティの人Youがフェアチャイルドで「ウクレレ」なんてアルバムを出していた前後にぼくの周囲で起こったウクレレ・リバイバル、あるいは最近の高木ブーのNHK講座から現在のモー娘。に至る流れを見るにつけても、じゃあ、ぼくが生まれついた頃からすでにして、かくも日本歌謡史にスチールでウクレレなハワイが生々しく組み込まれているのはどういうことなのだろう、と折りに触れて疑問に思っていたところだった。
 「南国の夜」のようにハワイアンな音楽にハワイアンな歌詞、ならまだ納得がいく。ところがマヒナの歌などは、「愛しちゃったのよ」から「東京の人」そして名曲「泣きぼくろ」にいたるまで、そのほとんどが全くハワイと無関係なのだ。ぼくの好きな大橋節夫の「北国の里」にいたっては方角が180度逆で、さながら沖縄のさっぽろラーメン店である。

 このハワイならぬハワイはいったいなんなのか?

 ところへ、おとつい書いたレヴューでつい筆がすべり、内橋さんのギターを「船乗りの好色と太平洋ひとりぼっちの孤独」と、ヤマカンで評してしまった後ろめたさもあり、本屋で北中正和「ギターは日本の歌をどう変えたか」(平凡社新書)に手が伸びた。読み始めると、これがじつに積年の疑問にかなり答えてくれていることに気づいた。

 まず、驚いたのは、ハワイへのウクレレの移入が意外に遅かったこと、しかしその後スチールギターができるまでがすごく早かったことだ。

 ギターがメキシコ経由でハワイに移入したのは19世紀前半、そしてウクレレが移入したのは1878年だという。1889年(?)にはスティール弦とスライドバーが開発された。そして、ハワイのギター奏者はこの独特の奏法で、ハワイアンのみならずさまざまなアメリカのポピュラー音楽を演奏した。
 つまり、1920年代のはじめまで、アメリカのギター音楽のパイオニアはハワイだったといってよいのだ。

 日本のポピュラー音楽に最初にギターを持ち込んでレコードを吹き込んだのもハワイアンのミュージシャン、アーネスト・カアイだった。彼とともにハワイアンを初めとするアメリカのさまざまなポピュラー音楽が輸入された(彼の演奏をはじめ、戦前の主なハワイアンは「アロハ・オエ:ハワイアン・イン・ジャパン[戦前編]」で聴くことができる)。

 また、ビクターとコロンビアがレコード制作を開始した翌年の昭和4年には、すでにハワイアンバンドは3組もあった。そのひとつ、デイヴィッド・ポキパラのバンドは松旭斉天勝のバックもつとめたというから、レコード吹き込みから見世物のBGMまで、ハワイアンは非常に幅広い機能を持っていたことになる。

 そして何より、昭和4年には、灰田晴彦(勝彦の兄)がスチールギター入りのバンドを作っている。
 「灰田勝彦・晴彦とモアナ・グリー・クラブ」には昭和11年以降の曲がたくさん入っていて、いまもぼくは「お玉杓子は蛙の子」ハワイアンバージョンというごきげんな曲を聴いているのだけれど、原曲をレラ抜きにしていったん沖縄経由にしてからハワイアン化するという、移民の歴史をたどるような諧謔の軽みには舌を巻いてしまう。

 バッキー白片の芸歴の長さにも驚いた。ぼくはいくつかのベスト盤やエセル中田とともに吹き込まれた録音で彼の演奏を知っているのだが、彼は昭和13年に日本で最初にエレクトリックギター(リッケンバッカー)の音を吹き込んだ人でもあった。

 そして戦後に灰田晴彦の演奏を聴き、バッキー白片のもとでギターを弾いていたのが、後のマヒナスターズの和田弘だった。おお。

 つまり、ぼくが子供の頃聴いていた日本歌謡の「ヘンな感じ」は、この脈々たるハワイアンの歴史に裏打ちされたものだったというわけだ。大きく納得。


 「ギターは日本の歌をどう変えたか」は、世界のギター史をおさえつつ、エレクトリック以前のギターが音量を得るためにいかにバラエティを持っていたか、そしてその過程で生まれたスティールやバンジョーを擁するハワイアンとカントリーが、日本のポピュラーにおいていかにぶっとい流れを注入しているかをコンパクトに示していて楽しい。シアーズ・ローバックのあったシカゴが19世紀末から20世紀にかけてのギター流通に大きな意味を持っていたことや(ステレオヴュワーの流通やジミー・コリガンの物語に接続したい話だ)、以前から異様だと思っていたスパイダーズの「フリフリ」のリズムがじつは三拍のチャッチャッチャッという手拍子から始まったことなど、ナルホドな話も盛りだくさん。スザンナがなぜ「バンジョを持ってでかけたところです」なのかも得心がいった。

 しかも、(もういくつか書いたけれど)現在では、この本に書かれている多くの音源がCD化されている。ハワイアンを聴きながら読めば、暑気払いにはうってつけ。


 ここまで書いておきながら、まだハワイには行ったことがない。あまりに幻想が強すぎて、行くとパラダイスが消えてしまいそうで怖いのだ。ハワイの今はどうなの?みんとりさん




20020812

 統計学基礎の採点をがーっとやる。




20020811

 CDのレヴューを4本。Ensemble Cathode、幻の爪痕、夏の逸話、High Tones for Winter Fashion.

 大友さんの曲にしても大渓さんの曲にしても、曲をほめるとかプレイヤーをほめるとか言う概念がそもそも破綻したところから始まっている。たとえシートミュージックであって、卓越したプレイヤーが卓越した音を出していたとしても。レヴューは少なくともそうした事態に自覚的であるべきである。




20020810

 昨日に引き続き。
 曇天の琵琶湖に出る。湖に足を浸して、苔むした丸石の上に乗ってぼんやりする。バリでジェイソン・モネが「この水はとてもスムーズだ」といっていたのを思い出した。




20020809

 来客、午後からほとんど合宿状態。ビールをもうええっちゅうくらい飲み、ベティ・ブープを見たり本をあれこれ見て過ごす。




20020808

 いつも昼飯を食う店に小沢信男氏の句集。小沢氏とは面識はないが「浅草十二階」の書評をいただいた。評は気にくわなかったが句は気に入った。うろおぼえながら二句書きとめておく。

 衣更えこのポリぶくろ白洋舎
 浅草伝法院にて
 花を食べ花を吐き出す真鯉かな

 新幹線で京都へ。トランスポップにちょっとだけよって「FRANK -Manhog Edition」を買ってから動物学教室へ。動物行動学会の映像アーカイブ「MOMO」プロジェクトの話。といっても、ほとんどは藪田くんや中田さんがやっていて、ぼくはそれはすごいとかすばらしいとか言う役。
 トムさん、西さんもまじえてタイ料理屋へ。西さんはカタツムリの交尾の解説役として「探偵ナイトスクープ」に出演したという。「関西」人としてうらやましい限り。「関西」をもっともゆるやかに定義するならば、それは「探偵ナイトスクープ」を金曜の23時台に放映する区域のことである。そうすると九州くらいまで入ってしまうのだが。




20020807

 朝、伝法院の庭へ。すぐそばの仲見世は賑わっているがここはぼく一人。
 心字池のそばに立つと、そばにいたカメが陸にあがってきて、じきに何匹も折り重なり始める。餌付けされているらしい。あいにくパンも菓子も持っていない。すぐ足下で先頭のやつが餌を乞うように首をぐいと伸ばす。池に目を移すと、なんと連合艦隊のように池の真ん中から波頭ならぬ亀頭また亀頭が、おのおの小さな逆V字型の波を作ってこちらに迫ってくるではないか。
 池の向こうには高い木々が生い茂って、その高さを少しだけ越すように浅草ヴューホテルの頭が見える。カメは折り重なり続けている。

 夏だなあ。

 岸を離れて歩き出すと、うしろでぼちゃんぼちゃんと音がする。カメはあきらめたらしい。
 心字の真ん中からは五重塔が見える。明治・大正期は五重塔は観音堂の右手にあった。おそらくここから少しずれた位置に見えたはずだ。
 池をトンボが飛び回っている。まわりをぐるりと岸沿いに回遊しているのはコシアキトンボ。つ、つ、と岩に止まりながらなわばり争いをしているのはムギワラトンボ。真ん中でせわしなく舞っているのは熱帯産のウスバキトンボだろう。トンボ国際社会。トンボに遅れて池をゆっくり回る。

 スタバで論文、と思ったら、そばで研究者らしい女性たちが大声で仕事のグチを言い合っている。えらい男の先生なんてさあ、家事も生活も知らないのに栄養とか食生活とか論じれるのかしら、云々。どうも耳がそばだってしまうので、そそくさと宿に戻る。


 午後、本郷へ。早めに着いたので三四郎池をゆっくりと歩く。考えてみるとここも心字池だった。

 山上会館でウィリアム・メイス氏の講演。噛んでふくめるような超遅い英語で遮蔽の話。学生向けということなんだろうか。さすがに何度か眠る。リトルネモ状態。

 眠りにはさまれた話。

 遮蔽 occlusion は持続 persistence の問題である。そして持続は知覚 perception というよりも認知 cognition の問題である。なぜなら、持続とは、記憶 memory(過去)、知覚 perception(現在)、予測 expectation(未来)をつらぬく問題だからである。
 なんだか眠りのことのようだ。

 ギブソンたちが作ったというアニメーションは、ランダムドットのエリアが動くだけというすこぶる簡単なものだったが、これをストップモーションで撮影するのに6時間かかったとか。あるいは、フィルムを逆回転させて非可逆か可逆かを見ながら遮蔽を考えたとか。可逆だから遮蔽というわけでもないし、非可逆だから遮蔽と無関係というわけでもないから、この方法で遮蔽がクリアに分かるとは思えない。
 意外にトゥーンな人だったんだなと思う。つまり、何かがアニメートすること自体に驚いて、それに憑かれて考えた人だったのではあるまいか。

 懇親会で初対面の荒川修作氏と話。いきなり「なにをやっていますか」「その前はなにをやっていましたか」「あなたの野望はなんですか」などと切り込むようにおっしゃる。ここは養老天命反転地か。尺取虫とジェスチャーの話をすると、「それはすばらしい、自分が自分からこんなんなって苦しみながらもがきながら出ようとするのがね・・・」と、そのまま、話そのものが変態してしまう。変態や変形の話は、身体の戦いの話になる。指を曲げ伸ばししながらむくむくと別の生き物になろうとする「手」のことを考える。

 二次会はパスして浅草でミルキィさんと夕食。ウニのゼリー寄せの微妙さにノックアウトされ、デザートのゼリーにまたナミダ。冷たすぎず温すぎず、そこからじわじわと味ならぬ味が溶け出してくる。舌の上で生きものが羽を生やすようだ。




20020806

 10時頃目覚めるがまだ眠い。ベッドの中でだらだらと本を読み、早い昼飯を食いに行く。今日はうな重。

 スタバで論文。

 浅草で「風速四〇米」。涼を求めて来た?お年寄りで館内はいっぱい。画面いっぱいに残雪の山。山はいいなあ。涼しくってさ。映画館だよ日活スコープは。

 裕次郎全盛時代。北原三枝は必ず階段を飛ばして歩き、裕次郎は飛び降りる。背筋を伸ばし、足をぴんと突っ張らせて立つ。そういうのが「スマートさ」や「若さ」の表現になった時代。
 裕次郎が北大の寮歌をテラスで歌うとき、北原三枝が手首をだらりとさげたまま、ひじから上だけで調子をとるしぐさに見とれてしまう。
 もはや寮歌にはこぶしを振りまわすような力はなく、かといって小唄端唄のような粋さはなく、ましてアメリカの洒脱さもなく、しかしその無粋さに軽い戦勝国への抵抗が重なって、若い二人がテラスで恋の力をもてあますのにふさわしい。いかにも「戦後」な、力の退廃ぶり。

 渡辺美佐子はパリ帰りのシャンソン歌手。金子信雄とオトナチームを組んで実直な宇野重吉と裕次郎親子を陥れようとしている。
 オトナは無粋な若者を籠絡するのが大好きなので、渡辺美佐子は「ホック止めてくれない?」などと背中から洒脱世界に誘うのである。裕次郎はホックは止めるが洒脱はお断りなのである。洒脱はお断りだが色気は好きなのである。若者だってズルいのである。
 そんな裕次郎が渡辺美佐子に代わってクラブで歌う山男の歌の奇妙なビート。サックスが刻むアフタービートのいなたさ! 佐藤勝全開! 力の退廃にまじって泥臭い抵抗がどっこい生きてる七人の侍スピリッツ。
 最後は台風の上に破裂寸前の配水管から水がどばどば流れる建設現場で、全員びしょびしょの乱闘。肌にはりつくシャツが男のラインをくっきり浮き立たせる。クロサワの日活的解釈。

 これらビートのずんどこさ加減、物語のびしょびしょ加減は、60年代を経て、はっぴいえんどの「颱風」へと結実するのである。そういうことにしとこう。

 山小屋で最初に北原三枝に声をかけるあらくれものが野呂圭介。このぎょろ目の悪役顔が、やがてどっきりカメラの種あかしのインパクトへとつながるとはなあ。
 

 おとつい読んだ「金田一京助物語」のことをあれこれ考える。
 金田一京助が初めて行った樺太で苦労する話は昔、小学校で習ったことがある。人々から怪しまれながら一日二日と経ち、四日目、ふと始めたスケッチに寄ってきた子供たちとやりとりをする。目を描くと「シシ」と周りの子供が叫んでいるような気がする。鼻を描くと「エトゥ・プイ」と声が出る。これはもしかすると、顔の一部の名前を次々と言っているのではないか。
 次に「何?」にあたる単語を知るために、京助は次の紙をめくってわざとぐちゃぐちゃの線を描く。子供たちから「ヘマタ?」という声が挙がる。もしかしたら「ヘマタ」が「何?」なのかもしれない。京助が石をさして「ヘマタ」といってみると、子供たちは「スマ」という。草をむしりとって「ヘマタ?」といってみると「ムン!ムン!」という。
 こうして京助はこの日、一気にこの地のアイヌ語を増やしていく。

 小学校でこの話を習ったときは「何?」ということばを覚えてからの話の盛り上がりに心躍った記憶がある。なんとなく京助の「何?」に唱和する子供の遊びに自分を重ねていたんじゃないかと思う。

 でも、今読むと、「何?」の話は、なんだかうますぎるなと思う。こちらが世界を分節するやり方と相手が世界を分節するやり方とが、あらかじめ一致している世界の話だ。

 それよりも、そのきっかけとなる京助と子供とのやりとりの方がおもしろい。スケッチは京助が勝手に始めたものだし、そのスケッチの過程を名指すのは子供が勝手に始めたものだ。
 その二つの時間が隣り合っていること自体を次の行為に反映させてやる。
 たとえば、目を描きかけて声がかかったら、目の輪郭を完結させてからちょっとだけ間をおく。時間的においてもよいし空間的においてもよい。それから次の輪郭に移る。もし声がさっきと変わったら、そこでまた輪郭を完結させてやる。声がかからなければ別の間を考えてみる。こうした時空間の間(ま)によって、世界の分節が生み出される瞬間がおもしろいのであって、それがあらかじめ「目」「鼻」に対応するだけなら、そこには記号の対応の発見があるだけだ。


 大正期の博覧会ではしばしば人種の展示が行われた。殖産博覧会や大正博覧会では、アイヌの人々をはじめ、各人種の人々に博覧会場に住んでもらい、その生活ぶりを見物するという企画があった。
 博覧会場で人様に生活を見せる、という点だけとればこれは見世物の極北といえる。
 しかし、「金田一京助物語」では、もう少し話は複雑になっていて、実はユーカラの記載やアイヌ研究のネットワーク作りがこうした博覧会を通じて行われていたことが伺いしれる。




20020805

 ゆっくり起きて、いつもの店で昼食。さんまの刺身というのが珍しいので頼む。活きのいいさんまを酢洗いしてしょうがとしょう油で食べる。絶妙に暑気払いのお膳で気分が晴れる。
 ここのお膳は、小鉢から漬け物のすみずみまでひとくちひとくち分け入っていくようで、昼飯を食うというより、一日の節目にていねいに時間を使ったような気になる。
 調理場は二階にあるので、ご主人もおかみさんも上にいることが多い。ぼくは早めに行くのでたいてい最初の一人で、入って誰もいなければこんにちわと上に声をかける。
 近所のOLらしき常連が何人かいる。どの人も一人で来て、「おさしみね」などとインタホンごしに言う。はーいとおかみさんが降りてくる。

 スターバックスで古山さんの論文を読みつつノートに隣接ペアとアップテークのことを書き始めたら10ページくらいになった。たまにペンで書くと頭が進む。

 暑いな。暑いが、自転車で秋葉原に出る。昨日、カメラ屋でCASIOのEXILIM(EX-M1)を店頭で見たら、いつになく物欲が刺激されてしまい、品切れだったので、つい自転車を飛ばして来てしまった。何軒かまわって無事現物をゲット。

 さっそく帰ってあれこれ試す。あまりにやりたいことが次々とできるので驚く。なんといっても好感が持てるのは、USBでつなぐと即、カメラ内のフォルダ構造が見えることだ。
 画像ファイルも音声ファイルも普通にドラッグ&ドロップで移動すればいい。
 カメラ本体からパソコンへの移動がラク。録音機能もついていて、録音されたWAVEファイルはパソコン側にファイル移動するだけでコピーできる。iTuneにドロップすればそのまま聞ける。
 逆にパソコンからカメラへの移動も簡単で、たとえば、iTuneの曲リストからaudioフォルダにドラッグすれば曲をぶちこめる。
 たぶんWindowsでも同じようなことができるはずだ。

 USBでカメラ内のJPEGやWAVEやMP3ファイルに直接アクセスできさえすれば、特定の機種やソフトに依存することなく使える。当たり前のことみたいだけど、これができるICレコーダーが少なくて以前苦労したのだ。

 そして、なんといっても立ち上がりが速い。すぐ使える。デジカメ特有の、シャッターを押してから「処理中」の画面が出て脱臼させられる感じがほとんどない。録音音声のクオリティも悪くない。これならインタヴューや街の会話拾いに使えそう。

 細かいことだけど、電源を切っても各種設定がリセットされずに保存できるのにも感心した。たとえば、音声録音モードを選ぶと、電源を切って再び立ち上げたときにまた音声録音モードとして立ち上げることができる。つまり、「いまからしばらく街の録音に励もう」と決めたら、カメラではなく音声録音マシンとして使い続けることができる。
 シャッターが録音のオンオフボタンになっているので、写真を撮るように録音できる。これも楽しい。

 ・・・と、ほとんどレヴュー記事のようになってしまったが、ほんとに久々に手になじむものを手に入れた感じ。
 気が付いたら100枚くらい写真を撮っていた。せっかくなので、トップに日替わりで写真を載せることにする。飽きなければしばらく続く予定。




20020804

 朝8時。ハットリ宅で目覚める。川の字の三人をあとに渋谷の宿へ。二度寝の間もなくチェックアウト。とりあえず荷物を置いて宇田川町をぶらぶら。
 とはいえ、ここは物欲の街、ニュートラルにぶらぶらすることはきわめて難しい。タワレコ最上階に行くと、なんかテキサスのコミックショップを包含するようなえらい規模の本屋でガクゼンとする。東京がどうかしてると思うのはこういうときである。ガイジン向け日本案内のTokyoの項をあれこれ見比べつつ、ちょっと振り向いてみただけの異邦人気分。

 そこから一階ずつ下に降りつつ各フロアで停滞。クラシックフロアのトイレの便器に腰掛けつつ「エスプレッソ」を読んでいると、壁抜けをしてきた幽霊のようなマリア・カラスの声、とてもこの世とは思えなかった。
 除霊がわりにエレクトリックですたすたした演奏を聴きたくなり、マイルス・イン・ザ・スカイとかハンコックの「Thrust」とか買う。

 アサクサに移動。まだマリア・カラスの霊に憑かれているのか身体がだるい。ミルキィさんおすすめの中華料理屋で肉野菜炒め食って、堀澤光儀「金田一京助物語」(三省堂)読んで寝る。




20020803

 朝、講演の準備。
 昼前に青山墓地へ。下水文化研究会のバルトン忌(8/5)記念の墓参。バルトンの墓石は切り立つような平板の石。改めて生年と没年を見ると、43歳(1856-1899)で亡くなっている。もうすぐ同い年だなと思いながらバグパイプを聞く。

 学士会館に移動、ちょい神田を攻めてから講演「浅草十二階とバルトンのいた明治」。1時間でコンパクトにまとめるつもりだったが、ちょっと話が粗くなった。
 小川一真の写真集にはいくつか縮緬紙で作られたものがあって、それをいくつか講演で見せたのだが、あとで、紙史研究家の関野勉さんにその縮緬紙の印刷法を教えていただいた。
 あれは縮緬紙に印刷するというよりは、いったん平らな紙に印刷着色してから、縮緬を彫り込んだ桜の版木に置き、少し湿らせてから圧して縮緬をつけるのだそうだ。その結果、紙はもとの大きさから2割くらい縮む。その縮み率がタテヨコで揃うようにするのが職人芸、とのこと。
 福沢諭吉協会の馬場さんには、日朝秀宜氏の論文コピーをいただく。「風船乗評判高閣」における諭吉と広告とのかかわりについての論考。時事新報の宣伝戦略という点からこの演目について考えていなかったので目鱗だった。やはり講演の最大の魅力は、後からこうやって教わることだ。

 夜、PlanBで大友さんの「ポータブル・オーケストラの試み」夜の部。参加者は20人ほど。各自が持続音の出るもの、余韻のある音のするものを持ち寄って、大友さんのインストラクションに従って音を出す。「余韻のあるものを3分間演奏。ただし、余韻が消えるまで次の音を出してはいけない。」「なるべく音を短く切って音を出す。自分で10数えたら次の音を出す」など、規則はごくシンプルなのだが、驚くほどいい音空間になる。
 ポイントは、他の人の音を聞いて演奏しないこと。「他人の音をよく聞いて演奏しましょう」ではない。聞いてもいいが、それに合わせて音を鳴らさないこと。
 演奏するスキルと聴取するスキルを分離させるというアイディア。

 大友さんと須川さんとで新宿に移動。大友さん曰く「ミュージシャンの頭の中にイディオムというか音楽ソフトをいっぺんはずしたいのよ」。そこから音楽の話になるはずだったのだが、どうしたわけか気がついたら二人にジェスチャーのビデオを見せていた。
 密談のつもりが、なぜかハットリフェスティバル登場。いまハットリボトルを勝手に開けたところなのになぜ分かるのだ。キャップに探知機でも付いているのか。なおかつ、さっき須川さんに「カプチーノ」を見せてもらったばかりだというのに、目の前に座っているのが編集者の大谷氏だと知りさらに驚く。

 で、うまい沖縄料理をもうええっちゅうくらい食ったらホテルの門限を過ぎていた。あ、これでは先週のコピー&ペーストではないか。コピペ人生を悔やむ間もなくG街の別の店に行くともうええっちゅうくらい私の頭を刺激する歌謡曲が流れるので「松崎しげるのことなら語るよオレは、麦わら帽子の黄色さからリーブ21の悩みのなさまで」「レオのうたのフルート間奏を聞いた子供のわたしは、冨田勲が牧神の午後をシンセ化するのを予見したね(月の光と間違えているらしい)」「地球が壊れそうだ、しゅびしゅびしゅびしゅび」「ベストテンで君はバラより美しいを歌っているとき、布施明が布施明に遅れるのを目撃した」「酒と泪と男と女のあとにアクロス・ザ・ユニバースをかければ河島英五とジョン・レノンの最短距離が測れる」などなど、たそがれマイラブなたわごとを山ほど口にする。

 その後、ハットリ宅で沈没。




20020802

 新幹線で新横浜を過ぎたあたりから午後4時前だというのにあちこちにネオンがつくほど暗くなる。そのうち窓の外のあちこちで稲光が起こる。なんだか急によその国にいるみたいだ。カワレロウイッチの「夜行列車」を思い出す。

 山手線は徐行運転で、井の頭線は止まっていた。約束の時間に20分遅れてようやく駒場前に。

 羽尻さん、佐々木くんと東大生産研へ。阿部さんに廣瀬研のVRシステムをあれこれ見せていただく。ベンチに腰掛けると、前方の3面スクリーンがある。3面、とはいっても、継ぎ目は緩やかにカーブして、見た目には一面の半円筒のような形をしている。そこにマヤ遺跡を描いたCGが映し出される。
 リアルタイム描画が速いこと、テクスチャや奥行きデータが細かいことにも驚いたが、なんといってもいちばんすごいと思ったのは、視野の大きさが持つ効果だった。視点が上昇すると、明らかに身体が浮くと感じる。地面を見下ろすようにアングルが傾いていくと、ベンチは全く動いていないのに、あたかも身体が前傾するようだった。視覚が重力感覚を完全に覆い隠してしまうのだ。視点が横にパンしていくと、部屋が回転移動するように感じられる。つまり地球の重力だけでなく、加速による重力の感覚も視覚で覆われてしまう。

 あらためて「視野を覆う」ということの力のすごさを痛感する。明らかに、この驚きは、パノラマ館と相通じている。
 視野を覆うことは、視覚以外の感覚を覆うこと。パノラマとパースペクティブを考えつつ、この圧倒的な視覚優位性を忘れないこと。

 もう一つ、両眼立体視を使ったVR。こちらはゴーグルをはめて3Dオブジェクトを64のコントローラーでぐりぐり動かすというもの。ゴーグルに位置センサーがついていて、頭部を動かすと、描画の視点がそれにつれて動く。横や下からのぞき込むとちゃんと遮蔽されていた部分が見えるのが楽しい。

 そういえば、視野の限られた節穴や覆いの中のような場所を見るときも「覗く」だけど、遮蔽されている面の向こう側を見るために視点を変えることも「覗く」だ。穴に近づくこと、遮蔽を回避することという二つの意味が折り畳まれたことば。

穴を覗くということは、穴に近づくことで結果的に遮蔽を回避するのだが、このような認知(というか動作にともなうダイナミックな認知変化)と遮蔽物から横にそれようとするときの認知は同じなのだろうか。

 そのあと渋谷で飲んで帰る。沖野さんの「言語」タトゥーには驚いた。なにしろ明朝体なのだ。




20020801

 会議をこなして夕方に立命館。情報の小川先生、羽尻さんとあれこれ話。


 昨日、いっこく堂のインタヴュー番組があった。いっこく堂は、学生時代はものまねが主な芸で、そこから民芸にはいって役者修行をして30代で腹話術の修行をしたという。彼は事後的に「ものまねも役者修行もみんな腹話術のためだったと思う」と言ってたけれど、たぶん修行時代にはそんなことは考えていなかったはずだ。腹話術師として成功した現在から振り返って、役者生活やものまね時代が役に立っていると回顧しているのだろう。
 もし、いっこく堂が最初から腹話術師をめざしていたとしたら、あるいは破裂音を唇を動かさずにしゃべるスキルはマスターかもしれないが、それをどうパフォーマンス化するかというアイディアの幅はより狭くなったんじゃないかと思う。

 仮に、腹話術スクールを開設したとしても、いっこく堂を越える芸人は育たないだろう。むしろ、複数のシステムを横断した人間が、あるシステムに新風をもたらす。あるシステムに柔軟性があるか硬直して滅びるかを決めるポイントはどれだけ自分以外のシステムを評価する目があるかだろう。





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