朝、御開帳。そのあと、幕屋の中で、守屋さん親子と話。「オヤカタ」の守屋さんと若い息子さんと、二通りの視点が伺えておもしろい。
守屋さんは「オヤカタ」として、別当とともに、田楽の進行の要となっていて、練習や本番中にいつも細やかな配慮をされている。ダメだしも単なる叱咤でなく、いつもユーモアを含んでいて、見ていて気持ちがいい。「高足」や「ねんねんぼうし」のコミカルな口上は、守屋さんならではのもので、見物人からどっと笑いが起こる。
先代の舞を「ああ、いつかはこれを自分が舞うんだな」と思いながらそばで見ていたせいか、いざやってみるとすっと出来たそうだ。
息子さんは小学校のとき二年間タヨガミをやって以来、田楽が好きになったとのこと。おじいさんの猩々の舞が好きだったことも舞好きのきっかけという。
明け方近く、眠たくなってぼうっとして吹いているときの方が「楽(がく)」が合う。意識して太鼓と合わせよう、能と合わせようとすると合わない。と、これも息子さんの話。
昼、喫茶店で油を売る。
菅原さんは小説にせよ映画にせよ、見たものをじつによく覚えていて、そこから一つの物語を引き出す。「彼岸過迄」の話になって、ぼくはついこの前読んだ漱石ですら、もううろ覚えなのに気づいた。自分の記憶のまだらぶりには呆れる。
開高健が小林秀雄から借りた本の中に、小林の銀髪を発見してぞっとするという話を菅原さんがする。それで、この前読んだ百間の文章に、漱石の原稿に鼻毛がついていた話があったのを思い出した。それから、鼻毛からDNAが取れるかという話になり、さらに、漱石のクローンを作るなら、原稿の鼻毛がいいか東大にある漱石の脳味噌のホルマリン漬けがいいかという話になる。果ては鼻毛漱石と脳漱石の書く鼻毛文体と脳文体の違いについて。鼻毛句読点vs脳のしわ文法。ヨタ話きわまる。
夜に鎮守の祭り。
西浦田楽では、火が重要な役割を持つ。キリ火で付けられた火は本堂能頭(のうがしら)によって、別当宅の北西の部屋「神座(カミデイ)」にある囲炉裏からたいまつに移される。本堂能頭はこのたいまつを持って家の中をだだだっと駆け抜ける。それまで能衆たちは稗酒を飲んで和気あいあいとしゃべっているのだが、木造家屋の中を大きな火が駆け抜けるので、ばっと緊張が走る。それがいかにもこれから儀式が始まるのだという緊張につながる。
本堂能頭は、能衆に先立って、境内に続く階段の両側にある灯明にまず火を灯し、階段を上がって境内に入る。これを庭上がりという。庭に上がると、今度は幕屋(まこや)と呼ばれる能衆の待機場の囲炉裏に火をくべる。さらに観音堂外陣の正面左(西側)にある鎮守様の前に火を灯し、それから内陣(北側)の観音様に火を灯し、最後に幕屋の奥(北側)にある愛宕様の前に火を灯す。
観音様の前の火は翌日、舟渡しの儀式で、観音堂外にある大きな松明(池島ダイ)に移される。
幕屋の囲炉裏の火はもちろん神聖なものなのだが、能衆の人たちはタバコの吸い殻を捨てたりしている。ただし、よそ者がうっかり囲炉裏の火に何かくべようとすると本堂能頭から叱咤が飛ぶ。
そもそも本来は幕屋にはよそ者は入れないならわしだが、そこは少しだけルーズになっていて、ときどき素人が入ったり、撮影隊が入っても、いきないとがめられるわけではない。
タヨガミと呼ばれる子供が二人、火のそばでいろいろなものをくべようとする。最初はわらづとを持ってきてくべる。そのうち木切れをくべ、今度は青々とした芝生のかたまりをくべようとして、「だめっおまえら守りしてなあかんのやで、おまえらここでほかのものくべんようにみとらなあかんのやで」とたしなめられる。若い佐々木さんが「そこの木をくべ」と助け船を出す。
そうやっているうちに、だんだんうかつなものは火に入れてはいけないことがわかってくる。「だめだよ静かにくべにゃ」といわれながら、木のくべ方や焼けの甘いところの裏返し方が身についてくる。
そのうち、自分のくべた木が燃えていくさまをじっとみつめるようになる。みずから火に入れたものがどうなっていくかを見届けたくなって、じっと火のゆらめきを見つめる、その心境ならぼくにも思い当たる。
子供は、火の概念はこれこれこうだと教わるのではない。こうしたごく具体的な場を通して、火の意味を学んでいくのだ。
地能にはね能。沢谷さんの「高砂」の足さばきは素晴らしかった。
朝、菅原さんの運転で水窪へ。ぼくにとっては西浦田楽の調査は今回で二回め。菅原さん持参のシベリウスやストラヴィンスキーをかけながら名神をすっとばし、ドヴォルザークで天竜川を上る。
夜、藤田さんと別当宅にお邪魔し、口開けの儀式。前は、バックに「日本人の質問」や大河ドラマが流れていて、その対比がおもしろかったんだけど、今年はベルギーのドキュメンタリー撮影隊が来ていて、「あれを消せ」と音声から指示が出る。このいかにも帝国主義的介入を藤田さんとひそかに「ベルギーパワー」と呼ぶことにした。ベルギーパワーは、稗酒の汲み出しも、音声が取れなかったとやり直しを要求。
で、いつもは入れない奥のまかないの部屋にも、ベルギーパワーはどんどん入っていく。別当の高木さんから「ホソマさんもご遠慮なくどうぞ」と言われて、ぼくもずんずん入る。これでは帝国主義の小判鮫である。
藤田さんが聞き役でぼくはビデオ役。藤田さんは聞くのがうまい。高木さんから西浦の磁場が身体化するすばらしいジェスチャーが出て、ファインダを見ながら興奮する。
そのあと練習。ほぼおととしと同じメンバー。あいかわらず沢谷さんの踊りは見てて惚れ惚れする。
人類学的調査というのは、なかなか微妙だ。
ドキュメンタリー撮影なら、構図を決めて美しく撮ることを優先し、あとで放映・上映したものを差し上げれば喜んでいただけるかもしれない。
しかし、調査の場合は、起っていることを漏れなく撮る必要があるので、カメラはどうしても引き気味で定位置になる。できるだけ介入を避け、みどころでもなんでもない所作も録画しなければならない。それを編集しても、たいして見栄えのするビデオにはならない。
しかも、そこから引き出される論文は、なんだかややこしい術語が使われて、誉められてるんだかけなされてるんだかわからない。
あとで高木さんからも「ホソマさんはもっと入ってこなくちゃ」と言われる。たぶん、はしっこでビデオを無言でまわし続けているぼくの存在は、かなり無気味な感じがするはずだ。申し訳ないとおもう。が、ぼくが入ってしまったら見えなくなってしまうこともあることは確かなのだ。
いま、目の前でお世話になっている人たちに何をお返しできるだろうかと考える。
予算執行、展覧会の準備、明日の準備など、ばたばたとあわただしい。
結局徹夜でレポートの採点。
「あなたが自宅から大学に来るまでの過程を、ダイナミックな知覚に注意しながら詳細に書きなさい」という題目。単に「ダイナミックな知覚について書け」とか「アフォーダンスを説明しなさい」とか書くと、最近はネットで調べたものをコピペして出す学生が多い。そういうのを繰り返し読むのもアホらしいので、けしてネットでは検索できない課題を出すのである。
で、268人の自宅から大学までの行程を読む。だいたい一人1,2分くらいだけど、それでも読むだけで半日はかかる。
おもしろい体験ではあった。ぼくも自転車通勤だし、あちこちの裏道を試したことがあるので、南彦根から大学までの地理は、どんなルートでもほぼ頭の中でたどることができる。
で、キリン堂の前の信号がいかに理不尽に短いかとか、電信柱にときどきつながれているゴールデンレトリバーだとか、竹薮に映る自分の影が大きくなったり小さくなったりする様が出てくる。そういうのに気づいてるのはぼくだけじゃないんだという、当り前の驚き。
そして、そのいずれもが、まったく違う文脈であらわれることの驚き。
原稿上がり。
ジェスチャー論の論文にはよく、ビデオ画像の輪郭をトレースした図が使われているが、あれってみんなどうやって描いているんだろう。フォトショップの輪郭検出とかは、背景や衣服が無地の模様でないとほとんど使えない。
結局、ぼくがやってるのは、ビデオをムービーに取り込んで、そこからコピーしたスティル画像をフォトショップのレイヤーに貼りつけるか、epsファイルにしてイラストレーターに配置する。で、ペンツールでトレース、という原始的方法。
これ何度も繰り返すと、こんな千手観音みたいな図版ができあがるのである。これでわずか6秒足らずのジェスチャー。ああ楽しい(ような苦しいような)。
気晴らしにデスクトップに「リトル・ネモ」の絵をスキャンして貼ったら眠りの国に吸い込まれる気分。いまさら言うまでもないが、天才だな、ウィンザー・マッケイ。そして、マイブリッジやフライシャーと同じく、二つの絵の間に夢を見た人の系譜だ。あるいは、理想宮のシュヴァルやヘンリー・ダーガーやレイモンド・スコットと同じく、何度も同じ場所を違った風に歩いた人の系譜だ。
どこかに「ホソマさん、ウィンザー・マッケイとクリス・ウェアとフライシャー兄弟とマイブリッジとブリュースターでアニメーション論書きませんか? 図像もばんばん使いましょう」なんて虫のいいこと言ってくれる編集者がいないだろうか。いや、最初からフルハウスでなくてもいいから、まずはクリス・ウェアとウィンザー・マッケイのワンペアで短いの書くとか。
いかんいかん。頭の皿の水がこぼれる。
今日から出張・・・のはずだったのだが、レポート採点と原稿が終らず断念。原稿モードに入ったカッパ頭には脳味噌から絞り出した琵琶湖げこげこ天然水が湧いている。この水藻臭い水をこぼさぬように行動しなくてはならない。
採点に苦しむ健三(もしくは漱石)。
健三は擲き付けるようにこう云って、又書斎へ入った。其所には鉛筆で一面に汚された紙が所々赤く染ったまま机の上で彼を待っていた。彼はすぐ洋筆を取り上げた。そうして既に汚れたものを猶更赤く汚さなければならなかった。
客に会う前と会った後との気分の相違が、彼を不公平にしはしまいかとの恐れが彼の心に起った時、彼は一旦読み了ったものを念のため又読んだ。それですら三時間前の彼の標準が今の標準であるかどうか、彼には全く分らなかった。
「神でない以上公平は保てない」
彼はあやふやな自分を弁護しながら、ずんずん眼を通し始めた。然し積重ねた半紙の束は、いくら速力を増しても尽きる期がなかった。
(『道草』)
来月ワークルームでやる展示会について、毎日新聞の取材。関西圏の3/1(金)の夕刊(もしくは朝刊)に乗るそうです。
さらに原稿。この間、だいぶジェスチャー論に対する自分のスタンスがまとまってきた。つまりぼくは、身体の拘束とコミュニケーション規則の拘束がぶつかる場面が好きなのだ。なんだ、要するにボンデージ好きだったのか。
修論発表、博士課程計画発表。
成田くんの発表を聞きながら考えたこと。
自発的ジェスチャーはエフェメラルな、その場かぎりの独創的なメディアだ。しかし、独創的なだけなら、それはメディアとしては成立しない。ひとつの会話の中で、独創されたジェスチャーは指の形態、てのひらの形態、向きなどをもとに引用、改変され、リサイクルされる。この、リサイクルされる、という点が、ベビーサインと大人の自発的ジェスチャーを分ける点だろう。
ベビーサインは、自発的ジェスチャーではあるが、それはあくまで赤ん坊から養育者に向けて一方的に読み取られるに過ぎない。自分や相手のジェスチャーを引用、改変していくには、さらなる何かが必要なのだ。それはおそらく「やりとり」を理解する能力と関係があるのではないか。自発的ジェスチャーの発達とやりとり能力の発達にはおそらくなんらかの関係があるはずだ。
TVで女子フィギュアスケート。しかしフィギュアの音楽って、なんでああいう、ロココ風の喫茶店でミックスジュース飲んでるみたいな選曲なんだろう。
鍛え上げた動きには美しさが伴う。わざわざこれみよがしのポーズをとらずとも、スピードスケーターの身体は美しい。スピードを競う競技の美しさははっきりしている。
それに対して、フィギュアでは、芸術点と技術点の両方を審査する。技術に必然的に伴う美だけでは足りない、あるいは美に必然的に伴う技術だけでは足りないという発想がこういう審査方式を生む。余計なものをつけなければ格好がつかない、余計なもので耳目を集めよう、と考えるのは見世物の発想である。というわけで、木下直之が体操において看破したように、フィギュアもまた見世物である。
じっさい、使われる音楽もまた、フィギュアの見世物性をよく示している。原曲じゃ地味で勝てないと思うからなのか、やたらストリングやコーラスが足されて、必要以上にゴージャスになったアレンジ。
なんて書くと見世物を馬鹿にしてるようだが、もちろん、この余計なものこそ見世物の醍醐味であり、ロココ喫茶であり、みっくちゅじゅーちゅであり、ありがとサンガリアなのである。
ただ、フィギュアスケートとか体操とかはどういうわけか、見世物のくせに見世物じゃないフリをしてるので、それがちょっと気に食わないだけである。
では、見世物ならぬ芸術だけでフィギュアは成立するか。などと考えつつ思い出してたのは、山岸涼子の『アラベスク』のアリババのエピソード。これ好きなんだよなー。
このエピソードは、見世物対芸術、ならぬ、動と静のお話だ。
ユーリのアクシデントで出演を乞われたライバルのエーディクは、ユーリの代役に出て「さんぜんたる黄金色」のアリババを踊ってしまう。代役にはありえないほどの拍手喝采を浴びるエーディク。そして「私のアリババがいまここで殺されたのがどうしてわからないのです?」と、人差し指をヤマギシ指にえびぞらせて読者を糾弾するユーリ。
そして翌日、「黄金色」のエーディクの踊りをさらに乗り越えるべく、ユーリはとんでもない踊りを踊る。のだが、この重要な場面で、主人公のノンナはなんと足が動かず、踊りを見ることができない。そして読者もまた、ユーリを見ることができない。
つづく。
つづくなよ。この読者と主人公をともに物語からハミゴにする手口!ヤマギシ節全開!
で、そのつづきであるところの次回、のっけからばーんと見開きだ。
そこには地べたにぺたっと足をつけたユーリのポーズ二態。
「みろ!ぜんぜん跳ばない!」「ジュテやパットマンはぜんぶのぞいてるわ」と舞台袖から感嘆の声。「なんという なんという自信なんだ(ぐっ)」と袖をつかんで身震いするエーディク。ユーリはニジンスキーの「牧神の午後」ばりに、跳躍を自分に禁じて踊ったのだった。
・・・などとあらすじを語ってるとキリがないので話をもとに戻すと、こういうの、フィギュアで起こらないかなー、と思ったのでした。
「みろ!クワンがぜんぜん跳ばない!」「トウ・ループもルッツもアクセルもぜんぶのぞいてるわ」「なんという なんという自信なんだ(ぐっ)」
とかさ。
ところで、このフューチャー・フィギュアスケーティングというページ、いいなー。あの呪文のようなサルコだのルッツだのということばの意味がじつによくわかる。3Dグラフィックもナイス。
朝から卒論発表会。どっと疲れる。
雑誌「ヘミングウェイ」の付録は毎号充実している。特に新年号には善悪双六の復刻版を初め、双六特集がすばらしかった。初三郎の大正十六年(つまり昭和二年)の日本鳥瞰図がどーんと付録についていた号もあった。雑誌の内容にはカード会社の小冊子に似たツッコミの甘さを感じるが、付録だけでも買う価値あり。
マイク録音機能がついているMPEG3プレーヤーを試してみようと思ってRIO800(ソニックブルー)を買う。ちなみにMacユーザー向けにはチバヒデトシ氏の詳細なレポートがこちらに。
うーん。デザインは他社にくらべて気がきいている。プレーヤーとしてはまずまずだと思う。もちろん外出には持っていこうと思う。
が、マイク機能はどうも納得がいかない。
まずマイクの感度が低い。音質はごくそばでしゃべってボイスメモとして使える程度。ポケットに入れたりや机においた状態で声をとるには苦しい。
さて、以下はMacintoshとつないだ場合の話。USB端子がついているのだが、これはあくまでパソコンからRIO800へのダウンロード専用で、逆にRIO800からパソコンにはアップロードできない。パソコンでRIO800内のファイルの音声を聞くこともできない。というわけで、録音内容をUSB経由でパソコンに移すことはできない。せっかくWAVEファイルになってるのに。
結局、パソコンと接続してできるのは、入っているファイルの追加と削除のみ。しかし、パソコンとつないでいる間は音声を聞くことができないわけだから、削除の前にボイスメモの中身を確かめることはできない。あらかじめヘッドフォンで内容を聞いてメモっておく必要があるわけだ。
まあ、マイク録音機能はあくまでオマケということなんだろう。
iTuneに対応してるのは便利なんだけどなー。
原稿。
「パンダ来るな〜藤井貞和自作詩朗読。あの、「つぎねぷと言ってみた」や「母韻」を作者はどんな風に声にするのだろう、と思って聞いてみる。
藤井氏の朗読には、そこここに語尾あげが入る。
語尾あげといっても、「いわゆる、ろうどく?」といった名詞の語尾をあげるタイプのものではない。読点で区切るときに少し文節のうしろを上げながらよみついでいく、教室での先生の朗読できかれる、あの語尾あげだ。名詞を言いおわり意識から助詞や助動詞は早や消失しようとする、それに抗う語尾あげが、を、で、も、むしろ次のことばを生む力に変えようと句読する苦闘点。