結局徹夜でペーパークラフトの改訂と工作。作ってから直すのでえらく時間がかかる。
棚にある細工絵はがきの束をつかんで彦根駅へ急ぐ。電車の中でレクチャーのアウトラインを考えて大阪駅でカツカレー食ってワークルームへ。しまった、束をひとつ忘れた。
頭が朦朧としてとっちらかった内容になったが、透かし絵はがき自体のアウラに助けられ、なんとかやり終える。今回もたくさんご来場ありがとうございました。植田くん生麩まんじゅうサンクス。
それにつけても今回最大の収穫は、透かし絵の展示にインスパイアされて作ったという大北さんの自作透かし絵はがき。展覧会のDMをカッターで削って作ったというその透かしのあまりに微妙な空間感覚はプリティーのひとこと。手法もユニークだ。ぜひ個展までもっていってほしい。
ペーパークラフトに詳しい小林さんが来ておられたのであれこれ設計のコツを教わる。紙の白い部分を残さない、作り手があきらめない程度の複雑さを目指す、など、目鱗な話いろいろ。
どうも鈴木宗男関係の報道で釈然としないのは、たとえば、苗木を持ち込んだ島民に植物免疫の書類を出さない役人を殴った、といった話が、いちいち言語道断の暴力沙汰ように報じられることだ。役人の融通のきかなさが非難されるところなんでないの? そんなに日本人って規律好きだっけ? まあ、ムネオを叩く奴がいまは正義だからな。それより、パレスチナよりアフガンより、どうしてムネオが(というよりムネオを報じる文章が)紙面で幅をきかしているんだろう。そんなに日本人ってヒマなんだっけ?
ペーパークラフトを組立てながら、頭の中では、ひとでとコーヒーとメイプルシロップとジャムが旋回。そのあとは、「バタースカッチの雲とタンジェリン、サイドオーダーにハム」って続く。我慢できなくなり、昨日録画したプリンスとマペットが抱き合って唄ってるところを何度も見直す。
レオンハルトの「マタイ受難曲」を聞きつつ、浅草十二階ペーパークラフトの手直し。図面作りもさることながら、実際の組立てに手間がかかる。
生態学辞典の原稿。800字とか1600字というのは、道草の余裕がなくて苦しい。
確定深刻。小沢健二の新譜を聞きつつ、源泉徴収票が一枚見つからなくて気が狂いそうになった。うーごこう、うーごこう。書類書きと金勘定は死ぬほど苦手だ。だから確定深刻は二重に死にたくなる。じっさいにはほとんど相方まかせなのだが、考えただけでも頭がおかしくなりそう。
小沢健二、音の閉じ方やコーラスアレンジがますますもって吉田美奈子っぽい。
夜、ヘンソン・プロダクションの「マペット放送局」。(元)プリンスの「Starfish and coffee」がめちゃ泣ける。「ラズベリー・ベレー」もそうだけど、ヘンテコな女の子が出てくるプリンスの歌ってほんっといいな。
試験監督。その後、予算執行そのほかでかけずり回る。頭がおかしくなりそう。
夜、NHK教育で「マペット放送局」。ラスベガス芸人(というより、ぼくはレジデンツやハーフ・ジャパニーズのビデオで知ってるんだが)ペン&テラーが出てた。
大阪教育大の串田研究室で文献収集大会。串田さんが集めまくった会話分析関係のジャーナルを手分けしてもうええっちゅうくらいコピーする。
長い電車移動中に「世界版画史」(美術出版社)。石版美術の発生と日本への移入について。ルドンの石版の暗さを考えなおす。水木しげるが引用したのは、単にルドンのクモというよりは、ルドンの石版の暗さではなかったか。
そのあと京都によって、一講座の昔風飲み会。手作り料理を食い、音楽をかけて踊りまくるというスタイル。さっき買ったばかりのプリンスの新譜を持ち込む。わー、やっぱりかっこええなー、プリンス。ヘビ森氏は「むしまるQ」のCDをほぼ持っているらしい。おそるべし。ペンギン森氏の「ヨーデル食べ放題」を聞いてタクシーに飛び乗り彦根へ。
朝から武蔵小杉の川崎市民ミュージアムへ。「明治の版画」展。幕末のペリー来航から明治末までに流布した版画を紹介するもの。とくに石版の展示が多く、その登場から写真の登場による衰退までをうまくなぞってあった。
しかし、つくづく石版の砂目って影が濃くて怖いなあ。
天皇のアイコンというと、主に写真真影の話が論じられるが、じつは鮮明、巨大かつ安価ということから考えて、手彩色石版や多色刷石版の方が多く流布したのではないかと考えられる。
竹橋に移動して国立近代美術館で「20世紀−未完のプロジェクト−」展。こちらは絵画を中心に明治中期以降をなぞる。さっきの「明治の版画」感覚が残存しているのでおもしろい。
数ある展示の中で、やはり菱田春草の「落葉」の屏風は突出している。輪郭をほどこした葉と輪郭のない葉を織り交ぜた微妙な奥行き感もさることながら、模様と見紛う樹皮の表現は、ほとんどクリムト描く「接吻」の衣服。そういや年代的にもクリムトと菱田春草は接近している。「落葉」は、風景画でありながら、そこにいく通りものレイヤーと遮蔽が込められて、見方によって奥行きがかわる。しかもそこに屏風の遮蔽が入る。
抽象絵画の円や線の隆盛は、将来的には宗教画のキリストや聖人のように、イコンとして語られるのではないかという気がした。
浅草によって金寿司。新幹線で彦根へ。
横浜へ移動、開港資料館で文献漁り。2時からマヤコフスキーの「ズボンをはいた雲」。お母さん、あの子が火事です。宇波くんたちのいつにもまして微妙な演奏。あとで聞いたらチューバの譜面には「あまり吹かないで」と書いてあったとか。休符以上音符未満。宇波彰氏にはじめておめもじする。氏からは以前、「浅草十二階」に丹念な書評をいただいた。
シンポジウムを失礼して、ホテルにチェックイン、再び資料館で文献漁りして夕食に向かうと、服部くんが。マヤコフスキー打ち上げに合流。トロンボーンの中尾さんが、じつはカートゥーン好きにして車窓ファン、さらにはビルメンテのプロとわかり、周囲をおいてけぼりにして動画話とエレベーター話で盛り上がる。
二次会は服部くんの案内で伊勢崎町の鳥料理屋。もうええっちゅうくらい食った。
午後から彦根→東京。神田で軽く(といっても万札が何枚か飛んでいったが)買って、新宿で福井さんと少し話。タワレコであれこれ買って夜中。
昨日から読んでる"Spatial schemas and abstract thougtht."(ed. M. Gattis) MIT Press.に、Kita, S., Danziger, E. & Stolz, C. 2001 "Cultural Specificity of Spatial Schemas." というおもしろい論文が載っている。Kitaは、ジェスチャー研究で有名な喜多荘太郎氏。
この論文では、ベリーズに住むモパン族の人たちのジェスチャーが分析されている。おもしろいことに、この人たちは、架空の空間表現をするときに、左右の区別を使わない。たとえば、図形を使った絵合わせをやるとき、左右対称の図形を同じものとして扱ったりする。
といっても、左右を区別する能力がないわけじゃなくて、実際の土地について説明するときは、ちゃんと左右を区別する。だから、左右対称の図形を同じものとして扱うかどうかは、モパン族の人たちに左右の弁別能力があるかどうかという問題じゃなくて、世界をどんな風にカテゴリーわけするかという問題なんだ。
モパン族の人たちは神話のような、実際の土地と関係ない空間をジェスチャーで表現するときは、左右の軸をほとんど使わずに、かわりに、前後軸や上下軸を使う。
たとえば、時間が経つのを表わすときは、手を左から右にやるかわりに、手前から向こうにやったりする。
二つの物を区別するときには、二つを左右に振り分けるジェスチャーをするかわりに、向こうと手前に振り分ける。
つまり、左右概念というのは、脳の中にモジュールとしてあるわけじゃなくて、文化的に決まってるというわけ。レイコフ&ジョンソンのメタファー論を、どこまで生得的なものとして捉えるかは慎重であらねばならない。
中学校のとき、未来形として「will」というのといっしょに「be going to」というのを習う。習うんだけど、なんで「be doing to」じゃなくて、「be going to」なのか、誰も教えてくれなかった。
で、Spatial schemas and abstract thougtht.(ed. M. Gattis) MIT Press.を読んでたら、腑におちる解説が載っていた。
Dedre Gentnerの"Spatial Metaphors in Temporal Reasoning"って論文がそれ。
人間が時間を表わすときに、よく空間のメタファーを使う。このとき大きく分けて二つのやりかたがある。ひとつは自分から時の流れの中を動く「自己移動」メタファー(ego-moving metaphor)、もうひとつは自分は止まっていて時間の方が動く「時間移動」メタファー(time-moving metaphor)。
で、自己移動メタファーの例のが「I am going to do that」とか「We are fast approaching the holidays」ってわけ。つまり、「be going to」は、時間の中を話者が未来に向かって近づいているということなんだ。逆に「時間移動」メタファーの例としては「The years to come」とか「Night follows day」なんてのがある。こちらの場合は、話者はじっとしていて、目の前を時が過ぎていく。
で、これはじつはGentnerの話のとっかかりで、ここからがおもしろい。時間を表わすとき、自己移動メタファーだと、自分のいる時間とできごとの時間とを比較する。時間移動メタファーだと、二つのできごとの時間が比較される。どちらにしても、複数の時間の前後関係を語ることになる。
でも、その前後関係の認知は、どちらの表し方でも同じわけじゃない。実験してみると、自己移動メタファーより時間移動メタファーの方がちょっと難しい(前後関係の判断が遅れる)。
なぜか。Gentnerは語り手(観察者)が問題だと考える。
自己移動メタファーだと、自分とできごとAの関係を考えればいい。
でも、時間移動メタファーだと、できごとAとできごとBとの関係に加えて、二つの時間と観察者の関係を考えなくちゃいけない。だから仮にAがBより先だとしても、まだ考えることがある。観察者はできごとAより以前にいるのかもしれないし、AとBの間にいるのかもしれないし、Bより以後にいるかもしれない。
つまり、時間移動メタファーのほうが自己移動メタファーに比べて、前後関係の組み合わせが多いため、認知に時間がかかる、というのだ。うーん。
ともあれ、「be going to」で未来を表わすとは、空間のメタファーを借りて時間を表わすことである。そしてこのやり方は、自己を中心とするので認知しやすい、というわけだ。
朝、実家から彦根へ。西浦田楽のビデオを見なおし、別当の高木さんのジェスチャーについてあれこれ考える。
その場でも、すごいジェスチャーが出たと思ってはいたが、見直すとさらにすごい。方角や世界が身体によって次々と実現していく。田楽の別当とはこういう存在なのか。
それで、ベイトソンの「バリニーズ・キャラクター」を思い出した。
「バリニーズ・キャラクター」は祭礼や日常生活を撮影した写真から身体動作を分析しようとする本だ。
中でも、子供がいかにして日常生活から身体動作を獲得していくか、それが大人の踊りや日常の所作にどうつながっているかの分析がおもしろい。写真と写真の間隙をノートの記述で埋めていき、分析を掘り下げるというよりは事例を列挙していくというスタイルのものではあるが、当時としては画期的なことだった。
ビデオをパソコンに取り込み、繰り返しコンマ秒単位で動く身体を見るということで、時間は分解され、改めて流れる。何度見直しても、その分解と流れの間に亀裂がある。流れにない違和感が分解によって現われる。
動きだけを見ると、ぼくの無意識が何かを自動的に納得してしまう。それはもしかしたらミラー・ニューロンのせいかもしれないし、何かもっと高次な認知が無意識に起こるせいかもしれない。
ともあれ、この無意識に身を委ねるだけでは、無意識を実践することはできても、記述することはできない。分析は、この分解と流れの間の折り合いをつけることではなく、むしろ折り合いをつけないことであり、そのことで、時間を浮き彫りにする作業だ。
だから、マイクロ分析では、何が生まれたか、だけではなく、いかに多くの可能性が選び取られなかったかに注意する必要がある。
こころは生得的に体現されている。思考の多くは無意識である。抽象的概念の多くはメタファー的である。と、これらは、レイコフ&ジョンソンが「Philosophy in the flesh」で宣言していることだが、その、無意識に行われている認知の姿、身体が思わず漏らしている認知の姿に迫ってこそ、ようやくベイトソンを乗り越えることができる。そして、どのような認知がどこまで生得的かは、じつはまだわかっているとは言いがたい。
朝から会議やら書類仕事やら。夕方、大阪へ。ワークルームでレクチャー。同窓生の植田くんや、やなぎみわさんや、藤本さんや、久しぶりの人がいっぱい。think-photo.netから何人も。ありがとうございます。やなぎさんからエレベーターガールシリーズのポストカードをもらった。
レクチャー後もなんだかんだで、11時ごろまでしゃべって、結局彦根には帰れず実家に。
それからまた親とあれこれしゃべって、棚にあった志ん朝(この、正直め!)と小三治のビデオを見て寝る。
ここのところ旺文社文庫の内田百間を風呂で読んでいる。ひとつひとつが短いので、風呂に浸かりながら読むのにはちょうどいい。(以下、『七体百鬼園』にならって、ひゃっけんの「けん」はもんがまえにつきではなく「間」を用いる)
川本三郎の『東京残影』に、百間の『春雪記』(福武文庫)の解説が入っている。
川本三郎によれば、百間はただの着流しスタイルの自然体隠居ではなく、彼の根底には「意識的な無意識」がある。そして百間は「意識的に世界と関わるまいと決意した神経質な遊民なのである」。
百間はあちこちの文章で「よくわからない」「憶えていない」「ぼんやりしていた」と繰り返す。これを川本三郎はこう考える。
ここでは百間は明らかに「意識的な無意識」を使っている。大きな事件に会うと意識的に「わからない」と自己防衛する。
いっけんして百間と思わせる話だ。が、なにかがしっくりこない。
数年前や十年前の細々とした記憶はまだらになっているのが普通だ。百間が昔のことを思い出す時に「憶えてない」「わからない」と書くのは、何もしらを切っているのではなくて、本当に憶えてなかったりわからなかったりするのではないかと思う。
そして、そういう記憶の穴に対して知ったかぶりをせずに穴のままに残しておくのは、意識的な無意識というよりも、無意識に忠実なのであって、この無意識への忠誠こそ、百間の特徴だと思う。
人はでたらめに忘れるだけでなく、なにがしかの規則によって忘れる。記憶の穴は、規則の痕跡であり、規則にかかわる力の痕跡である。そしてもののけの気配は、こうした穴から漂ってくる。百間はその気配を逃さぬよう、「わからない」と書く。
川本三郎はまた、百間の関東大震災や二・二六事件の捉え方を「政治的文脈や社会的文脈から離れて芝居の出来事のように距離を置いて見ている」と書く。大所高所からではなく「町民の目」で書いた、ともある。
「春雪記」は、もっと怖い、予感めいたものがうろうろするような話だったような気がしたので、このくだりも意外だった。
少なくとも、「大きな事件もいったん引越ししてしまえばあっというまに遠くに行ってしまうのである」なんてのは、震災から十数年経って書かれた「長春香」や「塔の雀」を読んだならほとんどありえない感想だと思う。
それで、風呂に浸かりながら手元のを読み直してみる。旺文社文庫では「春雪記」は『有頂天』に入っている。
なるほど、これは二・二六事件の顛末を「政治的文脈や社会的文脈」で語ってはいない。
しかし、平穏に書かれているのでもない。
たとえば百間は往来の雪の静けさを見て戸を閉める。「急に顔から襟にかけて、かつかつと火がついた様に熱くなつたので、わくわくし出した」。自分でも意識できぬほど長く雪を見ていたのだ。そして「なんにもしないで、起つたり坐つたりしてゐる内に夕方になつた」。なんにもしないで、というのは、なんにも考えないで、ということではない。無為と無関心は違うのだ。
漱石や百間の文章に「わくわく」が出てきたときは要注意だ。現代の「わくわく」は、たいていその先に楽しいことが待っているが、漱石や百間の書く「わくわく」とは、プラスにもマイナスにもいきつきかねない、おそろしく不安定な振り子の揺れを指す。
NHK教育の「つくってあそぼう」に「わくわくさん」というのが出てきて、いろいろ楽しいものを工作して遊んでいるが、もし百間の小説に「わくわくさん」などという者があらわれたなら、スタジオを憑かれたようにうろつき、作りかけた工作を途中で放り出し、隣のクマの着ぐるみに火をつけてじっと燃える様を眺めたり、とにかく、およそ幼児番組に似つかわしくない内容になることは確かだ。
春雪記では、屋根の雪塊が落ちて棚板がへし折られてしまう。
さうして砕けた雪の上から、目のちかちかする様な日が照りつけてゐるので、今に跡方もなく消えてしまふ事と思ふ。すつかり乾いてしまつた後になつたら、棚がどうして毀れたか不思議に思はれるだらうと考へたりした。
不可視なものが捉えきれないほどの速さで、しかし大きく確かな力で通過していく。力は、遠いのではなく、速すぎて見えないのだ。見えなさを遠さに変換するのはノスタルジーである。
ゴダールの映画史DVD版を入手。これから毎晩ちびちびと見よう。「1A」にヴィトゲンシュタインの引用。
”両手はある?”と盲人が問う
両手を目で確かめたりしないよ
そこまで疑うと目が信頼できなくなる
確かめるなら手を確かめている目ではないの?
次々と映画が見たくなり、DVDで「大きな鳥と小さな鳥」(モリコーネ最高)と「黒いオルフェ」。
とがめきくべっとうのまえにかげながし。
観音様の祭りは、神を呼んで始まり、神を追うことで終る。せっかく呼んだ神様だが、そのままいつかれると悪霊になる。そこで、「しずめ」では、神々を表わす面をつけた別当が、東の山々を背に御座に坐る。これに対して、とがめ役が、わざと大声で叱咤するように「本郷にーーかえーーれーーー」と、とがめる。この頃ちょうど朝日がのぼり、別当の影を長く照らす。
宿に帰って昼まで寝て、それから菅原さんの運転で彦根まで。天竜川沿いの道の景色はいつもながらすばらしい(が、道が狭くてこわい)。
ココスで飯を食べ、昨日のデータをおこして寝る。
午前中、図書館で水窪の資料を漁る。水窪の図書館には、柳田国男全集と折口信夫全集は揃っていて、しかも西浦田楽に関する部分にはポストイットがはさんである。
折口信夫より釈迢空。田楽に関する民俗学的な由来の考察もそれなりにおもしろいが、ぼくには、むしろ歌作の方が印象的だった。どれも、燈火のない頃の光の変化とそこに響き渡る音について書かれている。いくつか抜き出してみる。
啼き倦みて聲やめぬらし。
鴉の止(すま)へる木は、おぼろになれり
山の霧いや明りつゝ鴉の
唯ひと聲は大きかりけり
鴉棲(ヰ)る梢わかれずなりにけり。
山の夜霧はあかるけれども
山深きあかとき闇や。火をすりて
片時見えしわが立ち處(ド)かも
夕かげの明りにうかぶ土の色。
ほのかに靄は這ひにけるかも
境内に電燈がともり、いくつものフラッシュがたかれ、ビデオ撮影のためのやたらと明るい照明が庭を照らす現代では、けして感じることのできない知覚だ。
須藤功の写真集を入手。昭和30〜40年代の白黒写真。いかにも厳しい冬に耐え、切実に豊作や家内安全を祈っているという切迫感が伝わってくる。なんというか、風物だけでなく、顔つきがいまの能衆の人たちと違うのだ。生活じたいに余裕の違い、そしてそれがもたらす、観音信仰への切実さの違い。こうした違いが顔にあらわれているのだろう。
午後、楽堂の組立て。大人数でみるみる立つ。結界となるクゾバヅルをつけて「おこない」。
ここまで見終って、いったん宿に引き上げ、夜に備える。
夜。地能三十三番にはね能。今年は人間関係を頭に入れたせいか、世襲制にかかわるシーンが印象に残った。親子で演じる芸はないのだが、舞い手と楽に親子が分かれているとき、幕屋で親が子の面をつけるときなどに、強い因縁が感じられる。