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20000804


Lyon -> Hauterives -> Lyon



 朝からレンタカーを借りてゆうこさんの運転でリヨンから南へ。「スマート」は超ミニサイズながら二人なら座席はゆったり。
 目指すは、シュヴァルの理想宮。ブルトンやシュールレアリストが誉めそやしたとか、いわゆる「Art Brut」の元祖だとか、いろいろ伝聞では聞いていたが、とにかく見なくては始まらないだろう。

 A7を飛ばして、途中から東へ折れると、とたんに田園の続く田舎道になる。Bearequapまで来たらまた右折して南下。カーブのきつい山道を越えてようやくHauterivesに着く。理想宮は町の観光資源らしく、あちこちに「Palais Id斬l」と矢印が書いてあるので、場所はすぐに分かる。

 小さな棚にぶどうがなっている。まだ青く小さくて鉱物のようだ。それをくぐると目の前にあちこちでこぼこした岩の塊が現れる。あれ、この程度の大きさなのか、と思う。何か10mくらいのとてつもない高さを思い描いていたせいだ。いや、それよりも、見ているこちらがなんだかまだ浮き足立っている。とりあえず、しばらく立って見て、それからあちこちにある入り口に入ってみる。

 歩くことで、この宮殿は姿を顕し、姿を変える。シュヴァルは郵便配達人として、上下の激しい谷丘を越え、一日30数km歩いたという。ある日、その途中でつまずいた石の奇妙な形に惹かれて、彼は石を集め始める。それはやがて袋いっぱいになり、畚いっぱいとなり、積まれた石は漆喰で固められ、やがてひとつの「理想宮」となった。でも、それは、外側から眺めるための宮殿ではなく、歩くことで刻々と事物が現れ隠れていく、動的な世界だ。

 歩いているうちになんだか泣けてくる。といっても、これだけのものを作りながら村人からちっとも理解されなかったシュヴァルの哀れさに対して泣けるのではない。
 これは、まるでシュヴァルの配達して回ったあとのような建物だ。これはシュヴァルが、世界から石という郵便を集め、それをしかるべき場所に配達していった跡ではないか。彼は毎日同じルートをたどって郵便を配りながら、理想のルート、理想の郵便、理想の配達先をたどる術を得たのではないか。ここにあるのは、まさに郵便配達という行為の膨大な跡で、この石はこの場所に、あの石はあの場所に届けられた。シュヴァルが配達していく。この場所に重なるこの場所によって、はるか向こうのあの場所によって、その足取りを知る。足取りの気配をたどっている自分に気づいて泣けている。なぜたどりうる(と思える)のかわからないことにも泣けている。



 貝殻について。
 原始時代の彫刻館(Galerie des sculptures au temps primitif)の中で、巻き貝がフルーツになっている。貝殻というのはただの殻ではなく、貝の結晶だ。生物としての貝が鉱物化した存在として、貝殻がある。貝は機能の結晶であり、結晶のような貝をシュヴァルは拾う。
 貝に刻まれた筋の凹凸は、生物の痕跡ではなく、生物の凝ったものだ。貝の表面に現れる模様は、樹の形が樹の成長の痕跡ではなく樹じたいであるように、成長の凝ったものだ。だからこそ、貝の模様をなぞる。幻想の宮殿 (un palais imaginaire)の、貝でできたシャンデリア。貝はもちろん光らない。でも、貝を円形に並べたとき、そこからイマジナリーな光が現れる。

 石について。
 貝殻が鉱物化した生物であるなら、石は生物化しようとする鉱物だ。生物のように変化しようとする石に、シュヴァルはつまずき、変化の気配のする石を、シュヴァルは拾う。石の密集には、石の形をそのまま並べたいという欲望が表れている。単に変わった石だから置くというのではなく、彼のイメージの結晶がそこに凝っているから置く。
 ヒンズー寺院は変化しようとする石で作られている。スイスはいまだ変化のきざしが浅いが、土台にはきのこのような力で石が起ちあがろうとしている。ホワイトハウスは、なぜかホワイトではなく、色とりどりの石でできている。ホワイトハウスには貝はない。カレーは貝殻が使われている。石と貝によって、世界は区切られる。モスクの石の選ばれ方を見ること。

 集めることと結ばれること。
 この建物では、「置く」「位置づける」ということに焦点が置かれている。置いていくという行為。これはシュヴァルの造ったあとではなく、置いたあとであり、ものを配置していくという行為のあとだ。行為のあとに、また新たな配置が現れ、また石を置きたくなる、そのような石積みのあと。「配達的」な建築。
 歩いていくと現れる光景。遠くから見ると、石のディテールはテクスチャとなり、石という結晶の集積が、またひとつの結晶として表れてくる。結晶とは、要素間どうしの関係でいえば「結ばれる」ということだ。でも、結晶を造るときには、要素は「集められる」。「集める」という行為が生み出す「結ばれ」。
 あちこちに刻まれた文章。それは引用句だったり彼の個人的な思いだったり、警句だったりする。そのようにテキストが集められたときに結晶してくるできごとは何か。

 理想宮から南へ、シュヴァルの墓までは畑の中の一本道で、日盛りの中を歩いていると、途中に石を取り混ぜた塀のある家々が点在しているのに気づく。このあたりの家は、塀にボリュームを出すために漆喰かなにかに石を混ぜている。もしかすると、シュヴァルの石積みは、こうした塀作りの知識から自然に発生したのかもしれない。
 シュヴァルの墓は、墓所の角にある。理想宮に比べ、石はさらに植物化し、枝分かれしている。枝があるということは、枝と枝の間に隙間があるということであり、それを歩きながら見るということは、いままで見えていたものが隠れ、隠れていたものが現れるということだ。枝が門になり、扉になり、人からできごとを隠し、できごとを顕している。


 帰りにヒマワリ畑を過ぎる。ゴッホはおそらく、この広大なヒマワリ畑を見て、その中の一本が咲き、枯れることを描こうとしたのではないか、と思う。目の前の一本のヒマワリは、あらゆるヒマワリが凝縮しあらゆる体液をみなぎらせて、一輪となったヒマワリだ。そのヒマワリが枯れていく。
 ヒマワリ畑の向こうに広がる林。その植物たちすべてが、鉱物化していく気がする。

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Beach diary