朝、橋のそばのフリーマーケット。絵葉書を二十枚ほど。20世紀初頭のスイス観光ものが主。ほとんどが使用済みで、使用のあとに興味があるぼくには都合がいい。 自分のいる場所を矢印で書き込む、というのはよくあることだが、スイス絵葉書の場合、景色がでかすぎて、矢印が(書き手の存在が)ほんとにちっぽけに見えるのがおもしろい。 ローザンヌへ。ルツェルンからはベルン経由で電車で2時間半ほど。ダーガーのあるアール・ブリュット美術館が目的。 Texture Time。 トンネルを抜けるといきなり目の前に湖。それもでかい、広い。そして間もなくローザンヌに着く。ってことはこれがレマン湖か。 同じ湖畔の町でもルツェルンとは違う。ルツェルンは湖が狭くなっているし、街の中心は湖面に対してフラットな場所にあるから、湖の大きさは対岸との距離によって実感されることになる。ところがローザンヌ駅はすでにして湖より高い位置にあり、この湖の広さと多様さが一望できる。西には平地、そして対岸にはカンナでならしたような傾斜を経て屈曲する山々。そしてなんといっても、スカイラインの多様さを全部チャラにするような馬鹿馬鹿しい湖の空白。 このやたら広い水鏡を前にする生活を続けるなら、人の気質は変わらざるを得ないだろう。 そして歩きだして気がついたが、この街は湖を見下ろすだけでなく、後ろに丘陵を背負っている。アール・ブリュットまではけっこうな上り坂だ。そして暑い。バスで来ればよかった。 やがて近代的な建物が散在するエリアに来るので、美術館もその手合いの建物だろうと思って探すがなかなか見当たらない。看板を頼りにようやくたどりつくと、意外にも瀟洒なスイス風の建物で、となりは精神科の医院になっている。建物は通りから木々で隠れているので見逃しやすい。 でも、中は意外にも広く、中の作品はかなり多様だ。 思いつくまま。 ダーガーの部屋は、二階の奥から階段を上がったところだ。絵はいずれも裏表に描かれている。いちばん端の二枚の裏には、人の立てるスペースがほとんどないので、うっかりすると裏に絵があることを見逃してしまう。注意。 まず、思ったより横に長い。薄い紙に描かれているから、仮に机に置いて描いたのだとすると、全体の出来を見るには吊るすか張るかして、離れてみる必要がある。ダーガーは時々それをしたかもしれないが、しかし、空や植物や人物の断片化ぶりを見ると、むしろ描くときは絵のごく一部に集中していたのではないかと思う。 実際に絵を見ると、デコパージュの唐突さや、カーボン紙によるのであろう輪郭のムラがよくわかる。筆跡のムラは、写し取られたそれぞれの人物が、異なる時間に、異なる筆圧で描かれたことを想起させる。 カーボンで描くとは、筆圧の透過だ。カーボン紙で描くことは、単なるコピー、あるいはカーボンコピーではない。コピー機では、一様な光が元絵の透明な面を透過する。それに対し、カーボンで描く場合は、変化する筆圧が輪郭の上のみを透過する。面のない輪郭線の上だけを、一刻一刻異なる力で透過していく。 写された線のたどたどしさやムラから、そうした透過の痕跡が見てとれる。線で囲まれた面は、透過のあとではなく、透過されなかった空白であったことがわかる。つまり、カーボンの筆跡から、この絵の「塗り絵性」が立ち上がってくるのだ。 その空白が充填されている。淡いカーボン色の輪郭の手応えのなさに対して、少女たちの裸体はかすかに変色した紙の淡い色で満たされている。実をいえば、満たされているのではなく、そこは、塗り残されたのだ。塗り残されることで、逆に、不透明な面の存在を感じさせれる。 同じ形をした少女たちに、異なる目が描き加えられている。不透明さのシルシ。 「裁判」「始まるよ」「あと3分」。カーボンで写された3人の少女が言う。一人で言えばいいものを3人で言う。3人で言うことによって3つの層に分断される。そう、この絵にはいくつもの時間の層がある。一つ一つの人物、デコパージュが異なる層に属している。 この絵の透明さは、空間的な透明さではなく、時間的な透明さなのだ。目の前の景色を見つめながら、その眼力で絵を貫き、時間を見抜く。時間は見抜かれることで、紙の上に色をあらわにする。少女の身体だけが、その眼力に耐える。「裁判」「始まるよ」「あと3分」ことばだけがその眼力に耐える。 「裁判」「始まるよ」「あと3分」、3つのことばは一つの文を構成しながら、じつは別の文、別の時間層に属しているようにずらされている。 3つのことばは、3、2、1のカウントダウンのように切迫している。もうすぐすべての時間が見抜かれてしまう。そのときこの世界は消えてなくなるだろう。この不透明な身体は、輪郭を貫かれながら、いっそ貫かれることで生き残りを賭けている。貫かれることで、この身を次の時間へと繰り越している。 少女たちの足元にはこう書いてある「Not playing it's the real thing」 この透明な世界たちの基層に、空の領域がある。雲はくっきりとした輪郭で描かれ、あちこちで動物の形を帯びる。雲には雲じたいの層がある。 ダーガーは21のときにイリノイで大竜巻を見て以来、天気に異様な関心を持つようになった。 「じつのところ、わたしが子供の頃、父は毎日とてもいそがしくて、日曜日と休みの日しか暇がなくて、これといって何もおこらなかったけれど、ただとても好きだったのは夏の雷を見ること(いまでもそうだけれど)、それから冬の寒い日は一日窓辺に立って雪の降るのを見ること、すごい吹雪があれくるっている日は特に好きだった。雨を見るのも大好きだった。にわか雨も長い雨も好きだった。」 (ダーガー自伝「Raw Comic」に掲載された抄録から) 彼の描く稲光は線虫のようだ。漫画的な稲光が電気マークに代表されるような鋭角であるのに対し、分岐する時間を蛇のようにたどり、うねうねと曲がりくねる。 帰りにローザンヌの大聖堂のある高台に上る。午後6時前。ミサを告げる長い鐘の音。広々とした湖面の中空から響いてくるようだ。 |