午後から「繁昌花形本舗」あらため「ワークルーム」へ。なんか塚村さんと会うのってすげえ久しぶりだと思って二人で思い出してたら5年ぶりくらいだった。最近、パノラマというか一つめの奥行きが気になってるとのこと。
塚村さん、西元さんと3月にやる絵はがき展の打ち合わせ。透かし絵はがきと十二階絵はがきを展示することに決まる。
ワークルームのあるビルは中之島公会堂の対岸にあって、眺めがすばらしい。窓際は喫茶スペースになっている。
帰りに梅田を降りたら目の前がいきなりヨドバシカメラだった。
御堂筋線梅田の北口からするっとヨドバシカメラに入るのは非常に奇妙な気分で、なんだか梅田にいるような気がしない。店内に各国語放送が流れるのでますますあの世感がつのる。
あの世であれこれ物色。2万代くらいのMPEGプレーヤーの多くにボイスレコーダー機能がついている。USBでパソコンとのやりとりもできる。マイクが少しちゃちそうなのが気になるが、インタヴュー程度には使えそうだ。こうなるとICレコーダーよりMPEGプレーヤーって気になってくる。
Lマガジンのコラムで安田謙一氏が「携帯電話の着メロで、昔のダイアル式の電話のベルの呼び出し音をサンプリングしたやつがありますね。あれ、生まれた時から『電話の着信音は電子音』って世代にはどー聞こえるのかなー、って思ったりすることがあります。」と、いつもながら読者のツボを絶妙に指圧する書き出し。
それで、思い出したが、この前、浅草から根岸へと自転車を走らせていたとき、公園へと急ぐ子供たちが「りんりんりりんりんりんりりんりん」とフィンガー5を歌っていて、いまはいったい西暦何年なんだろうと思ったことでした。やつらはどこであんな歌を覚えるんだろう。歌の古さもさることながら、あの「りんりんりりん」という音は子供にとってどういう擬音なんだろう。
あの子供たちは生まれたときから、電子音かつプッシュ式の電話に接しているはずだ。つまり、あの歌の「りんりんりりん」とか「ダイヤルまわしたよ」とかいうことばは、いわばぼくにとっての「しゅっしゅっぽっぽ」とか「井戸端会議」と同じくらい、耳には近いがそのリアリティからは百万年くらい遠い記号として響くはずだ。子供たちはその「りんりんりりん」を、何かのまじないのように調子よく唄う。
それでさらに思い出したが、「ミニモニテレフォン」(作詞/作曲つんく)の「りんりんりん」というあの擬音も、加護亜衣や辻希美には、ほとんどリアリティのない、ただの記号なんじゃないだろうか。
しかも、この歌の歌詞は「ぱっかぱか電話ぱっか リンリンリン」だ。携帯を開く「ぱっかぱっか」という音、そしてぱっかぱかという響きにふさわしい電話のせわしなさが、「りんりんりん」という旧式電話の音に接続されている。
だいたい、呼び出しは何回も鳴るが電話は一回開けば使えるのであって、対比されるべきは一回の「ぱっか」と複数の「りんりんりん」である。それが「ぱっかぱっか電話ぱっか」で「りんりんりん」だ。一ぱっかに一りんだ。ワン切りかよ。
あ、「りん」+「ぱっか」って、これこそまさに「携帯電話の着メロで、昔のダイアル式の電話のベルの呼び出し音をサンプリングしたやつ」の世界じゃないか。うーん、安田氏の話は深いわ。
「りんりんりん」は、現代の電話の音ではなく「ミニモニテレフォン」という特別な電話の音として響く。いっぽう「ぱっかぱか電話ぱっか」という現代の電話の音は「ぱっかぱかコンパクト」と、お化粧の音になってしまう。携帯のせわしなさでお化粧をこなす。ここではないあの世のテレフォン接続サービスは、じつは芸能界というこの世のお化粧とつながっていて、あの世のようなこの世はぱっかぱっかナチュラルに仕上がっていく。
「ミニモニテレフォン」では、ただでも「楽しいお話」をわざわざ「楽しく」する。たぶん、あの世の楽しいお話をこの世で楽しくしているのだ。
昨日から「田中くんのための携帯日記」を俳句仕様にした。気詰まりな日々を慰めるため。季語はあったりなかったり。日付が季語の代わり。
前も書いたが、この日記にたどりつく検索語をチェックすると思わぬ語に出会うことがある。で、今日ひときわインパクトを受けたひとこと。
「なぜ戦う」
夜、ビデオで『銀河鉄道の夜』。久しぶりに見たがやはり古びた感じはしなかった。原作の唐突さを下手にわかりやすくせずに丁寧に生かした別役実の脚本(最後のナレーションはもちろん常田冨士男)、そして音楽と音効。
好きなシーンはジョバンニが母親のためにパンと角砂糖を買いに行くところ。原作にはない次のやりとり
「パンと角砂糖をください」「はい、パンと角砂糖」。この、復唱とともに物が渡されるところが、強く記憶に残る。
売り手の背後にすべてがあって、それは買い手のことばで確実に引き出される。こんな買い物があるえるだろうか。
むしろわたしたちは、活版所でのジョバンニのように、だまって活字のつまった箱を差し出し、だまって銀貨をもらう。
「オネアミスの翼」と「銀河鉄道の夜」とファミコン版「MOTHER」のBGMは、80年代ならではの産物だと思う。
どれもビートが非情だ。
「オネアミスの翼」の、小節の頭に付点で先走るアタック。『銀河鉄道の夜』の、汽笛音が規律正しく刻む四分音符。そして、プログラミング上の制約によって生まれたであろう『MOTHER』のぎざぎざした音色。
どれも、精密なテンポが非人間的だった時代、人間が非人間的に牽引される違和感を強く意識していた時代に生まれた音だ。たぶんこういう感じは、デジタルの洗礼を受けなかった人間が大人になってデジタルの違和感に出会ったときに生まれるものなのだと思う。
ジョイ・ディヴィジョンとニューオーダーの境目にあるデジタル。
夜、『オネアミスの翼』を見る。十数年前に見たときはもっぱら、世界の描かれ方やディティールに気を奪われていたのだが、今回は、シロツグとリイクニの距離のとられ方が気になった。
卒論提出〆切日。今年はないかと思ったがやはりコピー機と部屋の間を疾走する学生あり。
打ち上げに焼肉。
卒論指導。
卒論指導。
卒論追い込み週間。
夜、『たけし・所のWA!風がきた』のリフォーム対決。リフォームはもはやエンタテインメントの一ジャンルだな。
誰の家にも、部屋に、家具の裏に堆積している恥ずかしい過去がある。リフォームは過去を暴き、破壊する。大胆に壊すリフォーマー、依頼主のあきれ顔のショットはお約束。リフォームは暴力的であるほど楽しい。
講義に卒論指導。研究会に行く予定だったが、卒論指導と雑用が全く終らず断念する。
夜、青山さんと田尻さんとゆうこさんとで鍋。大橋先生からいただいたキャベツの実力を知る。
昼の講義では『明暗』をネタに会話の持つ力について話をした。
他人の屁理屈や独白を聞いてもぴんとこない、かといって自分一人で屁理屈をひねり出すほどの粘着力がない。そんな人でもどういうわけか、会話で生成された屁理屈にはハマる。独白なら屁理屈やただのナンセンスに過ぎないものが、会話になると無気味な力を帯びてくる。相手の発話に対してこちらが発話するという簡単なやりとりによってある結論が生まれる。生まれた結論を引き受けなくてはならないような気がする。
この、引き受けなくてはならないような感じになる、というところがミソだ。『明暗』はこうした会話の力をじつに執拗にさまざまな声で明らかにしていく。
この点で、『明暗』とは漱石における『不思議な国のアリス』である。
『不思議な国のアリス』の魅力の半分は不条理なナンセンスにある。あくまで半分だ。あとの半分は、それが会話によって進行することにある。
アリスに向かって奇怪な登場キャラクタたちが、ほとんど取るに足らない屁理屈を話す。が、その屁理屈がアリスにとってただの屁理屈で済まないのは、アリスが会話に参加しているからである。奇妙な生き物たちと会話をするうちに、アリスは、自分にとってどうでもいい、意味のない理屈に自らハマり、意味のない理屈にリアリティをもたせる。
アリスは問わず語りが好きだ。問わず語りとは、問わずに語ることではなく、問われもしないのに自らを問うことをさす。アリスの独白は会話に似ている。問われもしないのに、自分を問い、自分で答え、自分を穴に誘い込む。一人で会話の力を行使する。
自分で会話に参加していながら自分の望まない結論を出してしまう。いざ出してみると、それこそが自分の望んでいた結論のような気もしてくる。こういう事態は昔からあって、人はそれを「墓穴を掘る」と呼ぶ。墓穴とはおかしなもので、一人で掘るのは難しいが、他人とならあっという間に掘ることができる。他人と掘った墓穴は、墓穴の割に居心地よさそうに思えることすらある。しかし墓穴はあくまで墓穴なので、たいてい最後は悲劇で終る。
電話勧誘などはこうした会話の力をうまく利用している。とんでもない理屈を、小さな理屈に分解し、問いを立てる。小さな問いに答えさせ続けることで、いつのまにかとんでもない結論に相手を追い込む。どうでもよいYes/No質問に答えるうちに、相手は穴に誘い込まれていく。壺や不動産を買うハメになる。
いや、確信犯である電話勧誘の場合、まだ会話の力は浅いとすらいえる。じつのところ、私たちは会話によって、自分でもわからぬうちに互いに互いを追い込み、互いの墓穴を深くしている。
そしてこうした会話の墓穴力を正しく描写しているからこそ、漱石はぼくにとって魅力的だ。たとえば『夢十夜』の第三話や、『硝子戸の中』の「どうも自分の周囲がきちんと片付かないで困りますが、どうしたら宜しいものでしょう」と頭の収納問題について悩む女の話や、『行人』で嫂とあいまいな関係に陥る主人公が「姉さん怖かありませんか」「怖いわ」と話すところや、『明暗』のすべてがそれにあたる。『吾輩は猫である』の鼻子の登場や『二百十日』にもちょっとそういうところがある。
朝から夕暮れまで大学入試監督。ふう。
もちろん一日じゅうただじっと見回りを続けることじたいも疲れるが、なによりも疲れにダメージを与えるのは、マニュアル読み上げだ。
大学入試の監督をやると、否応なく権力的でイヤミな監督であることを強いられる。「これ以降、鉛筆を持った者は不正行為をしたものと見なし・・・」と、自らの声で言うとき、たとえそれがマニュアルに書いてあることであり、それを律義に読み上げるのが自分の仕事であるとわかっていたとしても、かくも官僚的で抑圧的な者として自分を表出してしまうことに違和感を感じずにはいられない。
国語の設問に山本周五郎。就職難を反映した問題づくり? 会話の意図は一通りに解釈できるという、平和でノンキな会話観の反映した設問。
漱石の『明暗』で問題を出したらどうなるか、などと考える。
「僕が予言するから見ていろ。今に戦いが始まるから。その時漸く僕の敵でないという意味が分るから」「構わない、擦れっ枯らしに負けるのは僕の名誉だから」
「強情だな。僕と戦うんじゃないぜ」
「じゃ誰と戦うんだ」
「君は今既に腹の中で戦いつつあるんだ。それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。余裕が君を煽動して無役の負戦をさせるんだ」
(『明暗』)
問:小林の「僕の敵でない」という発言の解釈として正しいものはどれか。次の中から適当なものを選んでマークをつけなさい。
1:津田が小林のような擦れっ枯らしに負けるということ。
2:津田が小林と戦うのではないということ。
3:じゃ誰と戦うんだということ。
4:津田は今既に腹の中で戦いつつあるということ。
5:それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るということ。
6:余裕が津田を煽動して無役の負戦をさせるということ。
正解:1、2、3、4、5、6
解法のポイント:1と3にもマークをつけましょう。
例によって、5分で終る曲や10分で終る曲を頭の中で鳴らすのだが、どうしても頭が曲を端折ってしまう。足や手でリズムを取るとだいじょうぶなのだが、じっと頭の中で音楽を思い出すと、どうしても早送りが起ってしまう。
こういう自動的な早送りが誰にでも起るのだとしたら、記憶の取り出し方の問題としておもしろいと思う。
夜、青山さんと田尻さんが来る。こたつにろうそくを灯して、ステレオグッズや幻燈を観賞。ろうそくを囲んで各人がヴュワーを覗いている絵はほとんど黒魔術か降霊術の会合なり。
青山さんは早くも交差法と平行法ができるようになった。
日帰りで東京へ。明日で終る「東京たてもの展」を見るため。朝に彦根を出て、東京に着いたら昼前。
まず武蔵小金井の「江戸東京たてもの園」へ。ここに来るのははじめて。
企画展示はごくあっさりしたものだったが、移築された建物群は見ごたえ十分。なるほど、これはつまり「昭和住宅の展示場」なのだな。大川邱に女中部屋に電話があったのが気になった。女中がとりついだ電話を受けて女中部屋で話していたのだろうか。なんだか女中が気の毒な気がする。
たてもの展示をほとんど見ないままタイムアップ。半日くらいかけて見たい場所だ。また今度ゆっくり来よう。
両国の江戸東京博物館へ移動。展示内容もさることながら、段ボールを主体にした展示方法がすばらしい。昭和の住宅史の「こわれもの」感がじつによく表れている。
ミゼットハウスに入ると、すごい既視感。友達の家に行ったときに、まさにこういう壁の感じ、間取りの感じを体験した。
戦後、住宅不足対策としてしばらく存在したという「汽車住宅」にぐっとくる。うわあ、これ、もろに『ドンキッコ』じゃないか。
『ドンキッコ』とは、60年代後期に放映されていたアニメで、おんぼろのチンチン電車に住んでいる男の子の話だ。筋はすっかり忘れてしまったが、とにかく電車に住んでいるというのが子供心に強烈にうらやましく、ピンキーとキラーズがピンキング・カーに住みながら旅する『青空に飛び出せ!』と並んで、キャンプ感覚をいたく刺激されたTV番組だった。
しかし、それが単なるアニメの話でなく、実際の話とは知らなかった。もちろん、実際の汽車住宅は、アニメのような気楽な住まいではなかっただろうが、線路からはずされた汽車があって、そこに住むというのは、二重に世間からはぐれている感じがして、気をひかれてしまう。
戦後すぐの展示がおもしろかったのに比べて、ここ30年くらいの各建築家のアイディアにはさほど魅力を感じなかった。住宅とはよくも悪くもそれを支える論理の無根拠さが表われやすい事物だと思う。戦後すぐ、住宅が必要だった時代には、必要という力によって無根拠は支えられた。しかしいまや、その無根拠さが力を失って空々しい。
多くの建築家たちの描く未来予想図がそうした空々しさに対して無自覚だった、もしくは9月11日を予想していなかったのに対して、藤森照信や宮崎駿の未来予想図には、少なくともそんな空々しさへの反発が感じられた。また、工房での改築、改修、居候ライフの展示には、そうした空々しさを捉えなおそうという試みが感じられたように思う。
ウソを支える力をどこから得るのかを考えていく都市計画と、ウソを支えることを諦める都市計画の違いはますます先鋭化しつつある。と書くといかにも後者の方が分がありそうだが、このあたり、もう少し落ちついて考えたいところだ。
展覧会資料を見直したいのだが、カタログはヴィジュアル中心でちょっと物足りない。十二階のページがあったので一応買っておく。
下の映像ライブラリで、バルトンの話と小僧の話を見て帰る。
卒論指導。
気がついたら1/7以来CDを入れ換えていない。これは単に自室でこのところほとんどCDを聞いていないからだ。
浅草で海苔をもらってきたので、ここ数日、夜食にはそれを食べている。といっても浅草海苔ではなく、四万十川の岩海苔、それも佃煮にするまえの乾燥させただけのもの。
アルミホイルを大きめにちぎって、上にばらばらと敷く。次にレンジの火を最弱にして、そこにアルミホイルをかざして揺する。なるべく火から離して、遠くで揺する。海苔があたたまる程度でよい。
で、白飯に塩をちょっとかけて、そのあたためた海苔をまぶして食べる。口で海苔がさっと溶けて、川床の匂いがする。まるで藻のエキスだ。つぶ貝の奥に詰まった内臓の味に似ている。
海苔を温めるとき、レンジにホイルを直接置くと、たとえ火が弱くてもあっという間に海苔がこげてしまうので注意。
「誰があっと云ったの」
この質問程津田に取って無意味なものはなかった。誰があっと云おうと余計なお世話としか彼には見えなかった。然るに夫人は其所へ留まって動かなかった。
「あなたがあっと云ったんですか。清子さんがあっと云ったんですか。或は両方であっと云ったんですか」
「さあ」
津田は已むなく考えさせられた。夫人は彼より先へ出た。
「清子さんの方は平気だったんじゃありませんか」
「さあ」
「さあじゃ仕方がないわ、貴方。貴方にはどう見えたのよ、その時の清子さんが。平気には見えなかったの」
「どうも平気のようでした」
夫人は軽蔑の眼を彼の上に向けた。
「随分気楽ね、貴方も。清子さんの方が平気だったから、貴方があっと云わせられたんじゃありませんか」
「或はそうかも知れません」
「そんならその時のあっの始末はどう付ける気なの」
(『明暗』)
先週来、卒論指導をしているといつの間にか夜、という平日。実験や調査結果について話し合うのは発見が多いので、苦にはならない。自分のものの見方を堀り当てていく感じ。ただ、その反動として夜は虚脱。
塾とは、複数の学校やクラスに属する生徒が介する場所だ。だからそこでは(サックスが書いたような)カテゴリーの生成が起る。
A:それ体操服?
B:うん。
A:わたしらのん、もっと短いわ。
このとき、「わたしら」ということばによって、AはBとは異なるカテゴリーに属している自分を表出することになる。
「わたしたちの体操服は短い」という文章は、何人かの体操服が短いという現象を示しているに過ぎない。が、同じことばが塾という場所で会話の中で発話されるとき、それは単に体操服の短さを語っているだけではなく、「わたしたち」と「わたしたちでない相手」との差異を語っている。言い替えれば、「わたしたち」というカテゴリーと「わたしたちでないもの」というカテゴリーを生むことになる。
体操服という制度から考えて、それは二つの「学校」というカテゴリーであろうと、その場にいないぼくにも容易にわかる。
わずか三行の会話から、そこに異なる学校というカテゴリーが容易に読み取れてしまうかに見える。こうした会話の力は、「成員カテゴリー装置」と呼ばれる。
塾の休み時間には、学校やクラスやクラブといったカテゴリーが会話の中で生まれる。卒論生がこのことを指して「人は多層的カテゴリーに属している」という意味のことを書いていて、それは間違いじゃないけどちょっと力点が違うと思う。
塾における「学校」話、「クラス」話、「生徒会」話などでは、互いに違う学校出身の生徒が会話をする。話はしばしば、一般論としての学校から、自分の学校やクラス、生徒会の話に移る。つまり、自分の属するカテゴリーが変化する。
問題は、あるカテゴリーから別のカテゴリーへと自分の立場をシフトさせるとき、しばしば重複や言い直し、淀みが生まれることだ。
どうやら塾の生徒は、あらかじめ存在する学校やクラスやクラブといった多層的カテゴリーの間を自発的に乗り換えているわけではないらしい。もしそうだとしたら、会話はもっと屈託のない、スムーズなものになるはずだ。
あらかじめ整然とベン図のように配置された複数のカテゴリー間をスムーズに移動しているのではなく、むしろ会話によって矛盾が生じ、矛盾がカテゴリーを招く。ひとつの発話ではなく、発話と発話の間の関係の力、つまり会話の力が、話者をカテゴリーへと押し出していく。
エスノメソドロジーにおける「成員カテゴリー装置」を考えるときのポイントは、この「会話の力」を捉えるところにある。
人は既存のカテゴリーを選んだ上で発話を行なうわけではない。むしろ、齟齬によってそれまで意識していなかったカテゴリーに気づかされる(あるいはうすうす気づいてはいたが無視していたカテゴリーに気づかされる)。