The Beach : Dec. b 2001


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20011231

 原稿とプロポーザル書き。紅白は美川憲一だけ見た。「展覧会の絵」から演歌ブリッジという歌舞きすぎた展開。
 教育TVで「ムトゥ踊るマハラジャ」をやってるのでそれを流しつつ年越し。MTV臭い編集が鼻について、ぼくはさほど好きではない。タミル映画なら他にもいくらでもおもしろいのがあると思うんだが。そのあともプロポーザルを書き続ける。




20011230

 朝、下呂を出て、昼過ぎには彦根に戻る。

 自室の掃除(まだやってる)。

 本棚の端に記憶の底をくすぐる袋があって、取り出して中身をみるとなんと十八、九の頃の日記だった。よく今まで未練がましく取ってあったものだ。
 少し読み返してみたが「思い出にはメジャー7が似合う」などと、ドタマかちわったろかと思うようなことが書いてあったので、これは未来永劫抹消すべきだと考え、以前近所の電気屋でタダでもらったハンディシュレッダーにかけまくる。そのうちに、その安物のシュレッダーはすぐに歯が合わなくなって壊れてしまい、シュレッダーが壊れるほどムキになって十代の自分を否定している今の自分こそシュレッダーにかけるべきかもしれないような気がしてきたが、ここで止めるわけにはいかない。シュレッダーなしでこの日記をどのようにちょんちょんのちょんにすれば効率がよいか考える。横書きなのだから縦に裂けば、より文章は復元不可能になるだろう。そこで、手で縦にどんどん裂いていき、それをハサミでナナメにさくさく切っていくことにする。ときどき「涙」とか「雨」とか「がんばる」とか書いてある断片が見えると、まだまだ手ぬるく思えて、より細かくハサミを入れていく。

 30分くらい格闘してなんとか復元不可能な断片にする。

 何かお祓いでもした方がいいような気になる。戦中派虫けら日記(山田風太郎)を読み直す。




20011229

 朝飯を食ってまずは街中を散歩。山川の景色はいいのだが、町並みはやけに車通りがあって、店先もつるりとしていて取りつくしまがない。駅近くの幸の湯で朝風呂。

 温泉といえば漱石。パソコンに入っている「吾輩は猫である」を読み始める。第一回が終ったところで昼飯。近くの合掌村というのに行ってみる。入場料800円なり。けっこう高い。白川郷から移転された合掌づくりの家が十軒ほど並んでいる。中のひとつで大衆演劇がはじまったところらしく、入ってみる。

 中は本格的な座敷席で、ちゃんと升が切ってある。気分は小津の「浮草」。芝居は葵陽之介の「劇団朱雀」。客はざっと十数人。まずはいかにも段取りをこなす感の人情芝居。もっともこの段取り感の中に、各役者の性格づけが刻まれていて、第二部がおもしろく見れるのだからあなどってはいけない。

 で、その二部の「歌と踊りの豪華ショー」。一番人気はまだ小学生らしき早乙女太一。目線の流し方や肩の落とし方はもう色気づいていて、この年でこんな色気の出し方を覚えてしまって、この先どうするんだろう。
 雀京矢は魚類を正面から見たような顔だちで、踊るときに、ラメ入りの紅を塗った唇を小さくぱくぱくっとやる。まじないか何かを唱えているように見える。この京矢と、丸顔の雀輝樹がにこやかに踊る対比が、見ていて飽きない。

 見るうちに、大衆演劇の時間の流れ方は妙に温泉じみていると思う。いっけんするとパチモンに見える芝居や踊りだが、時間が経つに連れ、段取りを決める体、段取りの稀薄なところでふわふわと浮き出す体のおもしろさが分かってくる。そして浮き出し加減の中に現われる役者の個性に引き込まれるようになってくる。物語の感覚は少しマヒし、かわりに細部の感覚が尖ってくる。

 升席で二時間くつろいで300円。合掌村への入場料を入れても1100円とは激安だ。下呂に来たら合掌村のしらさぎ座はマストだと思う。




 宿の近くの川辺に岩で囲った池のようなものがあって、無料の公衆浴場になっている。橋の上から見ると、水琴窟のようだ。夜、その水琴窟に入ってみる。ちゃぷちゃぷと音がする。
 ここには噴泉池という名がついている。無論青天井で、川床にあるから、空も山も見わたせる。長湯できる温さだ。心なしか、銭湯の湯よりもぬるぬるしているような気がする。

 そのうち、「あ、ここか」という声がして、中学生たちがぞろぞろとやってくる。中学生だから、パンツひとつ脱ぐにもおまえのが見えるの見えないの双子が下がっているだの毛が生えているだのとうるさい。入浴前の騒ぎが終ると、今度は湯船のなかで車座になり、しりとりやらじゃんけんやらがじゃぶじゃぶ始まる。町のあちこちに「歓迎 全国中学選抜バスケットボール大会」の看板がかかっていた。たぶんその連中だ。

 こちらは、昨日から温泉馴れしているので、長湯は覚悟の上でじっと連中があがるのを待つ。
 案の定、「もうのぼせた」という声があがって、次々と上がっていく。それから「つめてえ」だの「死ぬう」だの悲鳴が起ってまた賑わしい。何しろ気温は0度近い。高くしまった背中たちからは湯気がもうもうと立っている。その柱のような体たちが橋の灯をさえぎり、影は湯面からわき上がる湯気のスクリーンに幾重にも落ちて、濡れた体を拭くのに合わせて幽霊のように動く。なぜか昼間の「歌と踊りの豪華ショー」を思い出す。

 帰り道はさすがに冷える。少し寒いが浴衣に下駄では急ぐわけにもいかない。病人服とスリッパによって人の動きが病人らしくなるように、浴衣と下駄は、人の動きを「湯治客」にさせる。寒かろうと暑かろうと、小さな歩幅で、自らの歩みを確かめるように歩かざるをえない。漱石は修善寺でこのように歩いたのだろうし、伊豆の梶井基次郎はこのような歩みで道に迷ったのだろう。

 部屋に帰って猫伝の続き。


 主人の様に裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿悉く真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己れの真面目を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寐ているまでの事さ。


 世間に出してまで発揮されるWWW日記の面目はいよいよ猫に見放されるかもしれぬ。三毛子は死んでしまい、鼻子の鼻はいよいよ大きくなる。




20011228

 さて仕事はやめだ。前から相方が予約していた下呂温泉に向かう。が、直接行く前に、篠原猛史さんがアーティスト・イン・レジデンツの展示をやっている美濃へ。
 美濃和紙の里会館。ごわごわの紙でできた四角い部屋で、中にも紙が下がっている。天気のいい日にこの中で一日いると、もっといろいろな光と影が見えるだろうな。
 何人かの作品の中で、クロアチアのクリスチーナ・レナードのインスタレーションが印象に残る。紙に丸く穴が開けられている。見通すための穴、光をとおすための穴、影を落とすための穴。それらの機能が紙の配置によって表されている。

 売店であれこれ和紙を買ってから、せっかくなので流し漉きのワークショップというのをやってみる。化粧水、横揺り、縦揺り、払い水をやるという簡単なものだが、それでも見るのとやるのとはえらい違いだった。名人になると、横とも縦ともつかぬ真似のできぬ揺りによって漉くのだそうだ。

 流し漉きに使う紙料の液には「ねり」というものが入っている。これには「トロロアオイ」の根を使うという。トロロアオイ、という固有名詞に見覚えがあるのだが、何で読んだのだったか。
 売店にあった「和紙の手帖」(全国手すき和紙連合会)を読む。


 美しい紙を漉くには、原料繊維を一本一本均一にむらなく水中に分散させておく必要が有ります。(中略)
 そこで紙を漉く時には「ねり」の力を借りるのです。よく「ねり」とか「のり」とか言いますので、これは紙を漉く時に繊維と繊維を接着するために使われるものと思っている人がいますが、これは間違いで、「ねり」の役目は水中で繊維の分散を助けるためで、接着の力は全くありません。(中略)
 トロロアオイの根を潰して水に漬けると、粘度のある液がたくさん溶け出してきます。この液を袋に入れて濾過してほこりを取り、漉き槽に入れて原料と一緒に撹拌します。するとこの「ねり」はセルロースと同じ多糖類ですから繊維とたいへん仲良しで、一本一本の繊維をぬるぬるで包んでしまい、繊維は互いに絡みあうことなく水中で分散します。そのうえ水に適当な粘り気がでますので、繊維も簡単に沈むことなく、長時間水中に浮くようになります。
(「和紙の手帖」)



 ここまで読んで思い出した。トロロアオイが出てきたのは「浮浪雲」だ。それは男色の秘薬として登場する。だから、トロロアオイに接着の力があったらえらいことだ。
 トロロアオイはともかく「和紙の手帖」には、和紙づくりのプロセスが実にわかりやすく書いてある。これ一冊でずいぶん勉強になった。資料室の引き出しに入っている紙を指でなぶって楽しむ。


 帰りに「うだつの上がる町」というのに寄ってみる。うだつというのは屋根の両側、隣家との境にある防火壁のこと。これに装飾的な破風瓦や鬼瓦や懸魚(けぎょ)がつくことが多い。で、これを立てることのできる財力を持った家がうだつの上がる家で、それだけの金がないと「うだつがあがらない」ということになる。今も旧上有地(こうずち)には目の字型の町割りがあって、そこをぐるぐる歩くと、うだつが上がったり上がらなかったりしている。

 旧今井家の庭の水琴窟があって、これはじつによかった。

 水琴窟の音は、上に向かって立ち上る。

 水琴窟は丸く岩で囲まれている。囲まれた中はぽっかりと空いている。地下からぴちぴちと音がする。それはまるで、空いた空間のために地下から上ってくるように聞こえる。
 ちょうど丸い岩がエッグスタンドで、地下から上ってきた音は、目に見えない巨大な卵の形のような空間を明らかにする。

 少し離れて縁側から聞いてみる。ちょうど雨がそぼふる午後で、ひしゃくで水を足さなくとも小さくぴちぴち言っている。
 岩のそばにいるときは気づかなかったが、水琴窟のそばの松の形がすばらしい。まるで立ち上る音に力を得るように幹を伸ばしている。音は、岩の上、卵のような空間を鳴らして、さらに松の幹から枝を伝って空に放たれる。

 別室のビデオがやけに大きな音なのが残念。「日本の音風景百選」に選ばれているのだが、音を保つ感性は難しい。


 美濃から関に戻り、58号線から41号線を北上。中山七里のあたりから山間は霧に包まれ出し、霧の晴れ間には山上にうっすら雪が積もっているのが見える。「奥」に入っていく感じ。

 下呂泊。




20011227

 原口さんが来て卒論指導。これで、今年の大学での仕事は終り。立て版古の図面を作りなおす。




20011226

 原口さんと住吉さんが来て卒論指導。

 先週、自室を片づけたはずなのに、もう机がいろんなもので埋まっている。調べものをすると論文や資料がすぐあちこちに散らばってしまう。
 ビールの二ダース箱を買うたびに斜め半分に切って書類ばこを二つ作る。それが十数個くらい並んでいる。それはいいのだがどれに何を入れたかすぐに忘れてしまう。よく使う資料をごっそり同じ箱に入れるのだが、その中の一部はいつのまにかあまり使わない資料になる。これを定期的に分類すればいいのだが、定期的はもっとも苦手な分野だ。

 日記をつけるのは、思いついたことをメモっておくためなのだが、困ったことに何をメモったかを忘れる。検索すればいいのだが、何を検索したらよいかを忘れる。

 ときどき、自分の日記にたどりついた人の検索語を見ていると、なんだか忘れていることを人に呼び出されているような気がする。




20011225

 さらに立て版古の図面づくり。今年最後のゼミ。そのあと忘年会。

 帰ってから酔い覚ましがてら、立て版古をプリントアウトしたら俄然作りたくなってしまい、カッターマットに向かって気がついたら3時間くらい経ってた。わあ、
ぶさいくな塔になった。

 いちばん苦労したのは、外壁の柱を折り出す作業で、やはり図面が小さすぎて、折りが甘くなってしまう。あと、色がちょっと暗すぎた。これは作りなおしかな。

 実際にスケールモデルを作るといろいろわかることがある。たとえば、十二階というと八角柱のイメージが強いが、実際には外壁の柱がかなり外に飛び出していること、十二階や十一階のテラスの面積を広くとるために、屋内がすごく狭苦しくなっていること。こんなところに何百人も上ったらほとんどパニック状態といっていいだろう。




20011224

 以前から懸案だった浅草十二階の立て版古づくりに挑む。立て版古というのは、早い話がジャパニーズ・ペーパークラフト。有名な建物に行くと、よくその建物の組み立て絵葉書を売っていてつい買ってしまうのだが、あれの十二階バージョンを作ろうというわけ。
 幸い手元には、震災調査委員会の図面の写しがあるので、これをもとに正確なスケールモデルが作ることにする。スキャナで図面を取り込んでイラストレーターに配置してあとはベジェ曲線をひきまくる。設計図でわからないディティールは、当時の絵葉書で補う。じつはもっとも分からないのが色なのだが、これは実物通りにするのはあきらめて、着色絵葉書のスキャン画像からスポイトツールで取り込むことにする。

 あちこち細かいところを再現してて、手すりやら継ぎ目やらを別々の部品にしてしまう。こんなの組み立てられないだろうな。

 インターコミュニケーション用に久保田晃弘さんと往復書簡を開始。テーマは「本」。




20011223

 浅草十二階に梅坊主数奇伝凌雲閣開設当時の記事浅草凌雲閣(石版図絵、明治二四年)「浅草っ子」(渋沢青花)よりを追加。

 渋沢青花の本は以前からいつか紹介しようと思っていたもの。浅草の明治の事蹟を扱った本は数多くあるが、これほど生活が空気を伴って浮かび上がってくる本は珍しい。身体を動かした人間だけが書ける文章。




20011222

 DVD版のイエロー・サブマリンを買ってきてものすごくひさしぶりに見る。テクニックの引き出しが山ほどあって、しかもそれがどうしようもなくロードムービー。

 これまたものすごくひさしぶりに「それから」を読む。折り目をいっぱいつける。
 とくに意識にのぼったのは、当時(明治四二年)朝日新聞に勤めていた石川啄木は、この小説を毎日読みながらどう思っただろうか、ということ。啄木の「食ふべき詩」はこの年の十一月に書かれる。
 代助は独り身で、金回りについては親があてになるし、嫂に申しこんで借金をすることができる。啄木は逆で、親はあてになるどころか自分の収入をあてにして同居しにやってくるし、妻子はいるし、金はないし、どちらかといえば、代助の友人である平岡の立場である。しかし、生来の高踏趣味と金銭への無計画さは代助的でもある。
 なにより、維新のどさくさにまぎれた金儲けや人切りに対する感性(すなわち半端な江戸の残生)をそのまま明治後期のモラルとして定着させつつある父親世代への鬱陶しさは、啄木が後に書く「時代閉塞の状況」に通じる。
 日露戦争後の、イヤな感じというのは、単に戦後の気の抜けた感じとは違う。日露戦争が終ってようやく、生き延びすぎた幕末のイヤな部分が露呈し始めた。
 この、幕末のイヤな感じへの我が身の重ね方が、漱石、啄木、そして花袋の作品を分ける鍵となる。


 「それから」はすでにパソコンに入っているのだが、結局本屋で文庫本を買って読んでしまった。パソコンに新潮文庫CD−ROMの「明治の文豪」「大正の文豪」「絶版100冊」の中身を全部放り込んであって、漱石の小説はこの中に全部入ってるので、読もうと思えばいつでもどこでも読めるのだ。が、いちいち立ち上げるのが面倒だしバッテリーの消費が気になるので、あまり使わない。

 考えてみると、いつも背負ってるカバンの中に、「泡鳴五部作」も「アイヴァンホー」も「人生劇場」全編も「銭形平次百選」も全部入ってるわけで、おそろしい時代になったものだが、もっとおそろしいことにはこれらを毎日背負ってるくせにちっとも読んでいないという事実だ。
 思い出してみると、パソコンで読むのはたいていは旅先だ。そういえば鴎外のヴィタ・セクスアリスも、二葉亭の平凡も旅先のモニタで読んだ。
 
 高橋悠治「音楽の反方法論序説」を読み直す。これも「青空文庫」としてこのパソコンにいつも入ってる文章。著者がSE/30を使っている頃のものだが、そんなことはとりあえずどうでもよい。この平易なことばが繰り出す跳躍につぐ跳躍。




20011221

 コーヒーをいれようと思ったら粉がもうない。豆をひこうと思ったらコーヒーミルがない。相方が一昨日の演奏用に持っていってしまったからだ。ちぇ。コーヒーミルを楽器に使う相方を持つとこういうとき不便だ。

 ゼミで竹岡さんのジェスチャーおこしを見る。ジェスチャーを奪い合う会話、という視点はナイスアイディアだ。相手の発話に(自分の発話に、ではない)矛盾するジェスチャー。発話レベルではあいづちらしきものが行われていても、ジェスチャーレベルでは相手のことばに反することが行われている。
 他にもアイディア連発。さっそくいくつか名前をつけておく。「ジェスチャーのチャンク傾向」「未分化ジェスチャー」など。

 昔は、くだらないアイディアにやたら名前をつけて虚勢を張る批評家や研究者を軽薄だと思っていた。が、最近、ちょっとしたアイディアにも名づけは必要だと思うようになってきた。これは一種の記憶術なのだ。そして、名をつけておいた方が他人とディスカッションするときにあれこれいじりやすい。ディスカッションの結果くだらないと思ったら、そのとき引っ込めればいい。




20011220

 神奈川近代文学館に一日居る。
「うきよ」の浅草関係の箇所を拾い読み。「うきよ」は創刊当時は十二階下をはじめとする「悪所」を、居丈高に糾弾するフリをしながら裏事情を載せるという内容で、大正期の私娼研究には欠かせない雑誌である。目次の裏は必ず「ホーカー液」という女性用の美顔水。(十二階下で童貞を失ったことを書いている金子光晴の「這えば立て」には、中学生の金子光晴がこのホーカー液や「玉の肌」を塗りたくって歩いていた、という話が載っている。いまでいうと、ニベアやビオレでスキンケアする男子学生といったところか。)

 「うきよ」は大正五年七月、吉原の張り見世が禁止されるあたりから、編集方針が変わったらしく、品行方正かつ私娼制度糾弾的雑誌に変貌した。
 なかで、十二階劇場にもしばしば出ていたかっぽれ梅坊主の数奇伝は収穫。

 「ハガキ文学」四年分の絵はがき関係記事をざっと見る。当時、石版、木版、コロタイプ、写真版といった印刷技術の最前線が絵葉書であったことを、改めて痛感する。
 十二階爆破計画を大正期に唱えた塚本靖工学博士が意外にも(というかおそらくは海外とのやりとりが多かったゆえに)絵葉書趣味な人だったことが判明。

 中華街の小さな店で旨い豚バラ丼を食って石川町からJRに乗り、新横浜で改札を抜けようとしたらピンポンが鳴る。米原最終は終了しましたですと。えー、まだ8時前だぜ。しかたなく券を「のぞみ」に買い替えて名古屋まで行き、そこで「こだま」を待つ。名古屋で30分待ち、米原で30分待ち。米原での新幹線と在来線の接続はつくづくひどい。投書したろかしらん。




20011219

 横浜開港資料館へ。ひたすら新聞を読んではコピー。中華街も近いし、国図より通ってて気持ちがいい。

 夜、神奈川県民ホールで「コンピューター・ミュージック・コンサート」。

 中で千野さんのビデオ映像とMAXを使ったパフォーマンスに圧倒される。乳首とノイズ、色気と老人性、マウスとでんでん太鼓の繰り出すモノクロ・ノーマン・マクラレン世界。出演者中いちばん年上でいちばん過激。千野秀一おそるべし。
 ヲノサトル「弦楽四重奏」はいかにも彼らしい、見通しのよい構成で、細かいメロディ分割も、一つのフレーズを複数の楽器に分割するウェーベルンとは違って、乾いた符割りに響く。と、思いきや最後の微分ポルタメントとぎゅんという一音に、いい意味の意外性と残尿感。
 他にYuko Nexus6「わたしのいる場所」、小坂直敏「篳篥(ひちりき)とコンピューターのための「千重鏡」、三輪眞弘「訪れよわが友よ」「新しい時代」(
「新しい時代」からの抜粋)。三輪さんの信徒のための歌曲集CDが出てた。

 中華街の北京飯店で打ち上げ。タワレコの至宝、金子雄樹さんの顔のあちこちにピアス。唇にあけると穴のまわりが「曖昧にじんとくる」感じなんだそうだ。からだにはそういう曖昧でじんとくる場所って必要ですよねー、という話。粘膜とか。




20011218

 朝イチでゆうこさんの運転で横浜へ。昼過ぎには到着。とりあえず宿泊先近くの横浜開港資料館へ。資料をコピーしまくる。ちょっと高いけど「彩色アルバム:明治の日本」「100年前の横浜・神奈川 絵はがきで見る風景」(いずれも有隣堂)を購入。横浜写真、絵葉書の基本資料満載。手元の絵葉書の中に横浜写真からの複製がいくつかあることにも気づいた。
 千野さんとゆうこさんと中華街へ。武智鉄二の文楽論の話など。




20011217

 今年最後の講義を終えて午後、京都へ。精華大にジョゼフ・コーネル展。箱ものは三つ(うち二つは志賀近美)、コラージュが2つと、ごく小さな展示。川村記念美術館にはもっとたくさんあったんじゃなかったっけな。映画は、筋らしい筋もなく、コラージュというよりはお気に入りのシーンを寄せ集めたような感。1秒以下の睡眠を数十回は繰り返した。50年代以降のフィルムには、ロールシャッハのようなイメージの連鎖があって、よく見ると木立の影や少年や窓なのだが、カットの直後、まるで別の生き物のように見える。

 なぜかメリエスを思い出す。そういえば、コーネルのいくつかの箱は、メリエスの夢幻劇のようだ。箱は奥行きを持ち、側面を持つ。それゆえに、箱は舞台性を帯びる。二本の金属棒は側面から出て側面に入る。舞台の上手から下手に引っ込む月。上ることも沈むこともなく、ただ現れて消える天体。


 カフェ・アンデパンダン「CHANNEL 1 feat. DAME DARCY」

 She's Pipiのディストーションのきいたカシオトーン?「I saw the light」カバーにちょい泣ける。

 ふちがみとふなとはプリンスのカバーで始まり。いえーい。口ずさむよな「オー・シャンゼリゼ」。ふちがみさんの「オー」は驚きの「オー」じゃなくて、「オー・シャンゼリゼ」の「オー」。感嘆符+地名ではなくて、「オー・シャンゼリゼ」でひとつの呪文。声を張り上げると大事なことを驚かせてしまうから、そっと唱えられる「オー・シャンゼリゼ」。
 新曲「アリの店」は、アフリカのキャンプの広場でオヤジが続けるひとりごとのような投擲的歌唱。
 投擲的、というのは、木村大治氏がバカ・ピグミーのとある発話に対して名づけた形容で、広場で誰にともなく一人延々とごちるオヤジの発話を指す。ほとんどひとりごとなのだが、女が昼食を作りながら窓辺で聞くともなしに聞いていたりする。
 ただ距離表示だけがあるフィールドに向けて誰にともなく何度も放られる発話。でも、窓で聞く女のごとく、あとで誰かが計測にくるんだよな。「アリはバカだ」というのは、なんだか計測のときに発せられる「78.5メートル」という声みたいだ。

 Dame Darcyは京人形のように目の覚めるような美形。そのくせ、私は毒を盛りましたー、とか、馬が死んだー、とかすくいようのない歌詞を、三味線をつまびくようなバンジョーをお供に弾き語る。ソロの最後にタンバリン片手に歌った曲が物凄かった。後半は年下の男とひどい録音のバックトラックに合わせてヒデとロザンナ(もしくはソニー&シェー)状態。
 あとでmapの福田さんに聞いたら、京都の舞妓さんにならって白く塗ってきたらしい。
 彼女のコミックがまた、トチ狂っているので一冊購入。「人形ニオイ占い」「人形夢占い」など。丸尾末広のファンなんだそうだが、いい意味でかなり誤解してると思う。

 まだ次のセットが続いているが、小田さんと少ししゃべって最終で帰る。




20011216

 今日はいよいよ自室最大の謎、押し入れに取り組む。このスペースには小は発光ダイオードから大はEPSON286用モニタ(1989年製)まで、始末におえないものがどっさり縦積みに入っている。
 押し入れのサイズは1720*730*700と、やたら高い。そのくせ棚がない。しかも左奥には配管が通っているので、そこをよけるように物を入れないといけない。というか、これまでは無計画に崩れない程度に積んできたので、うっかり触れるとすべてが雪崩れる将棋くずし状態になっている。

 収納の基本は、垂直方向に棚を作ることである。しかし宿舎なので、壁にやたらと棚を作ったり穴をあけるわけにはいかない。それに手間と金をかけたくない。
 というわけで、昨日メジャーでさんざ計測した後、風呂で考えぬいた計画を実行する。まず押し入れのものをすべて外に出す。次に、カラーボックスを二つ買ってきて底面に「く」の字型に置く。この上に棚板を敷く。棚板は、配管の部分をよけることができるようにホームセンターで切ってもらう。
 さらに、カラーボックスと同じ高さに角材を切ってもらい、これを棚板の下二ヶ所に添え木として付け、電動ドリルで固定する。というわけで、カラーボックス二個と添え木を土台とする棚ができた。これで3、40kgはだいじょうぶだろう。象が踏んだらたぶん壊れるが、象は押し入れにはやってこないだろう。

 しかし、収納場所の確保は収納作業のほんの一部に過ぎず、掃除と分類こそが本番なのだった。そして、この前からなかなか作業が進まないのは、この分類のせいだ。

 そこで、まず、どうでもいいものから手をつけることにする。たとえば筆箱や工作箱や机の上に散らばっている木ネジをサイズ別にする。そのうち部屋のあちこちからフィルムケースが出てくるので、それに入れなおす。木ネジはおそらく年に一度しかくらいしか使わないだろう。
 とかなんとかやってると、木ネジだけで10分くらいかかってしまう。普段ならここで「あーやめやめ」と投げるところなのだが、今日は収納の日と決めたので、次はクリップに取りかかる。

 夜になり、ようやくステレオヴュワー関係や幻燈機関係に取りかかる。この辺になってくると、ひとつ手にとるごとにいちいち思い出されることが多く、しかも次に手にとるときのことまで考えてしまい、収納しては取り出し、また別の収納場所を試すというのを繰り返してしまう。切手帳の上で切手をいじるのを身体と部屋全体を使ってやってるわけだ。

 イームズ夫妻は、分類では「その他」を大切にしなさい、てなことを言ったが、ぼくの自室には「その他」と「その他でないもの」の区別がほとんどない。あちこち「その他」だらけだ。
 だから、これは、分類によって「その他」を追いつめ、あぶり出さす作業なのだという気がしてくる。たとえば木ねじは「その他」でいいのだが、しかし、それがいかなる「その他」なのかを見極めるべく、フィルムケースに入れ直し、そのことで木ネジを脳と手先に覚え込ませる。
 そうか、自室の収納に時間がかかるのは、それが物の物理的な配置がえであると同時に、記憶の手がかりの配置がえでもあるからなのだな。

 煮詰めた寒天のように、どこにも行き場のない品々が部屋の片隅で密度を増していく。その中には橙や緑の発光ダイオードがあって、濁ったプラスチックが、やがて光るのを待っている。





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