- 20000704
- 先日、カロリーメイト銅線混入の回収騒ぎで相方が大塚製薬にチーズ味を送付したのだが、その返事に書留が郵送されてきた。ほんの少しだけ、「おわびにカロリーメイト1年分ほか各種製品」などという幻想が頭をよぎったのだが、封筒を開けるとコロンと出てきたのはきっちり210円。お子様幻想の入る余地のないハードボイルドな対応だ。しかし、この210円を封筒ひとつひとつに入れていく作業ってたいへんだろうな。
成田くんのゼミを見て考えたこと。 レイコフ&ジョンソンや瀬戸賢一が書くように、空間のメタファーにはさまざまな言語間で普遍的な傾向があるのだとしたら、それは、コミュニケーション空間に普遍的な要素があるということだろう。ならば、コミュニケーション空間の影響をもっとも受けやすいしぐさに、それは現れるはずだ。そして、しぐさと声は同時に(並行して)生成される。 手が前後に振動しながらビートを繰り返し、声がことばをさぐるとき、手が促しているのは単なるビート(リズム)だけでなく、何度も前に出ようとするその空間移動を声で表出することを促進するのではないか。「前」「上」といったことばが人間関係や権力と関るのはこのようなプロセスの中ではないか。 佐々木正人がかつて行なった、手をまく動作をしながら「くま→まく」の反転を促す実験を、ここで考えてみること。
異なる権力体系を語るとき、権力の隠蔽を語るとき、組織化され図式化されたしぐさが破綻する可能性。たとえば、XY平面にあったしぐさがXZ平面へと展開され、そのきっかけとしてビートが使われる可能性。 マクニールが「ビート」と分類した特別な意味を持たないしぐさを、意味生成のしぐさとして分類しなおしてみること。ビートの現れる場所を、意味体系の破れ目として、破綻するために必要な「ビート(リズム)」としてたどり直してみること。
「ビート」はしばしば、自分の行為の表象へとつながる。他人のことを語るときでさえ。声を繰り出そうとして行為を繰り出すあやかし。他人を繰り出そうとして自分を繰り出すあやかし。
ヘンリー・ダーガー作品集。この夏はローザンヌに行くしかないだろう。
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