- 20000630
- 午後、新幹線で東京へ。目の前にシャープの液晶TVの車内広告。
白い背景、左には液晶TV、そして右には座椅子の上に吉永小百合が座っている。 真っ赤な座椅子は、ミックジャガーの舌を思わせるゆるやかな曲線で作られている。椅子は、足を投げ出して座ることを前提にしたデザインで、太ももを乗せるあたりは上に傾むき、ふくらはぎをしどけなく下にたれ下がらせる舌の先。 しかし吉永小百合は、足を投げ出しているのではない。キモノ姿で正座している。太ももを置くことを想定して傾けられた椅子の床面は、正座にはまるで不向きで、吉永小百合は自分の意志でそこにそのポーズで座っているというよりも、まるでどこかの畳の上からUFOキャッチャーで捕まえられて据え置かれたように見える。 TVの上には縦書きでコピーが書かれている。「ほら、21世紀らしくなってきたでしょ。」 液晶TVと座椅子の前面は消費者に向かって「ハ」の字型に置かれている。TVを鑑賞する位置に座椅子は向いていない。吉永小百合は新世紀のTVを楽しむ位置には座っていない。「21世紀らしさ」を醸し出す置き物として座っている。
この商品のTV版CMなら見たことはある。吉永小百合がやはり和服姿で、壁に液晶TVをかけて「ほら、21世紀らしくなってきたでしょ。」というやつだ。そのCMでは少なくとも、和服姿の吉永小百合は、せいぜい小百合ファン世代という購買層のためのサービスか、さもなくば新たな新しい世紀に対するキッチュな和風ぶりを醸し出すキャラクターに過ぎなかった。
でも、この車内広告は少し違う。もはや、吉永小百合は、白バックに何の手がかりもなく置かれた液晶TVと同じくらい「異物」だ。TVと人間がいながら視聴者がいない空間。人が人扱いされていないことに無自覚な空間。人と関りなく機能するテクノロジーの空間。そのような寒々とした「21世紀らしさ」をこの広告は表わしている。 白と赤で構成された画面はキューブリックの近未来を思わせる。色彩はかつての「21世紀らしさ」をなぞっている。ではこの広告が配置している関係の方は、どのように「21世紀らしい」のか。
HALは人と関りなく機能することで人を恐怖に陥れた。しかし、この広告の配置で異様なのは、人と関りなく機能しようとしている液晶TVの方の無気味さではなく、むしろTVと関りなく吉永小百合として機能させられてしまっている人間の方であり、ポーズもファッションもまったくこの空間にそぐわない吉永小百合として機能させられてしまっている人間の方だ。
これが岩下志麻だったら、厳しいまなざしによって、異物として演出される自分を引き受け、そのことで女優の風格を見せつけただろう。若手のアイドルやモデルなら、手足を投げ出して易々と人形らしく壊れてみせることができただろう。しかし、吉永小百合にはそのような強い眼力も過剰に壊れる力もない。異物でありながら異物としての自分を出さない。そのことで吉永小百合になる。なるほどこれは吉永小百合にしかできない打ち捨てられ方だ。
女優を女優らしさによって打ち捨てるまなざしの持ち主とは、広告屋であり、消費者である。21世紀とは、このように吉永小百合を時代遅れにするまなざしの時代であり、人を人として打ち捨てる時代である。それが、この広告から喚起される「21世紀らしさ」だ。
神田で単行本の打ち合わせ。その後、須川さんとコミック高岡。地下鉄で桜玉吉「幽玄日記」。車中ではあるがまったいらな気持ち。 歌舞伎町へ。CD屋に入るも、シングル1枚10円で買う癖がついてると、普通のCD屋って別世界でなかなか手が出ない。まあ異常なのは10円の方なのだが。岡村靖幸のシングル買って終わり。 歌舞伎町の呼び込みで使ってるバックライト付きの掌サイズの案内盤。あれ、なんていうんだろ。あれは欲しいな。見せたい情報以外何も映ってない潔さ。純コミュニケーションツール。それに比べたらモバイルや携帯って潔くなさ過ぎ。 常宿カプセルへ。単行本の構成打ち込み。 衛星放送のエロチャンネル選んだら全然終わらないので買ってきたマンガにときどき浮気しつつ朝まで見てしまう。悟るのはマンガを止めてから。
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