午前中にPDFファイルをWordで作るが、貼り込んだ表がいちいちずれて難儀する。どうもWordは好きになれん。しかもアテにしていた宿のプリントアウトサービスがPDFを受け付けないことが判明。結局途中からHTMLファイルにじかに書いてプリントアウト。
ジェスチャーでモノが置かれ、仮想空間が表現されるとき、ぼくたちはつい「ジェスチャー空間にモノが置かれる」というような言い方をする。しかしこれは正確ではない。むしろ、モノが置かれつつ可能なジェスチャー空間が限定されるというべきなのだ。
モノを置くということで、モノの絶対位置情報が示されるとともに、モノとモノとの相対的位置情報が示される。この相対的位置情報が空間を限定する。
たとえば、「Aさんが」と言いながら手を右前方に置き、「Bさんが」と言いながらその手を左前方に置くなら、Aさんは右に、Bさんは左にあるだけでなく、AさんとBさんは違う場所にいる。つまり、後者のジェスチャーによって、Bさんの絶対位置情報だけでなく、Bさんの相対位置情報が示されたことになる。そして、この二つのジェスチャーによって、AさんとBさんが横並びになることを可能にする空間が限定される。
つまり、二番目の事物を置くジェスチャーは、単に事物を表すだけでなく、一番目の事物との関係において、その空間の向きを限定する。ひとつの行為に異なる二つのレベルの意味が折り畳まれている。
同じ場所にジェスチャーが繰り返し戻ることで、モノの位置情報は確認される。
ではもし、位置が変更されたらどうなるか。次のジェスチャーで「Aさんが」と言いながら手が左前方に行くなら、Aさんの絶対位置情報は変更されたことになる。しかし、それはまだ、相対位置情報の変更を意味するとは限らない。次のジェスチャーで「Bさんが」と言いながら手が左後方を指したなら、(特にA、Bの移動についての説明がなければ)A、Bの相対位置情報が保存されたまま、観察者の視点が90度回転したと考えることができる。つまり、絶対位置情報が変更されたからといって、それまで構築された相対位置情報が変わるとは限らない。
じっさいのジェスチャーにはこのような暗黙の視点移動がしばしば起こる。
まだるっこしいようだが、空間表象では、ステップ・バイ・ステップの表現について考える必要がある。
国立情報研究所で身振り研の発表。その後竹橋でハシゴ。
蒲団の中にいても、積もっているなとわかる朝。近くの洋服屋で黒ネクタイとワイシャツを買い、コンビニで不祝儀袋を買い、墨を擦って名前を書き、猫に三日分の餌と水とトイレ砂をやり、数珠を握って米原までタクシーを飛ばして新幹線に乗る。案の定、雪で架線故障やら徐行運転。
さいたまで義父の通夜。
僧侶さんが読経を読む前にまず祭壇に時計を置く。なんだか学会発表に似ている。すると読経というのはいわば、霊前プレゼンテーションなのかななどと不謹慎なことを考える。
浅草のホテルに戻り、明日の発表の準備。
朝、冷蔵庫の修理に来てもらう。電気機器の修理を見るのは好きだ。ぼくの知らない知識体系によって、みるみるブラックボックスがブラックボックスでなくなっていく。冷凍庫の奥のパネルをはずして冷却管の霜の付き方をチェックしてから、「冷却ガスもれですね」という診断。ガスが入っている場合は、管に触っただけで「手がくっつくほど」冷えるのだという。管がいかれている場合は、管の取り外しや溶接ということになり、修理代はざっと35000円ほどかかるという。
ゼミ。空間参照枠に関する話。人に話すとアラがよく見える。話す時間に乗せてみると、その話の説得力がどれくらい時間の流れに依存しているかがわかる。
夜、近くの電気屋で冷蔵庫を見る。うちと似た型の冷蔵庫は20000円代になっていた。この際なので、買い換えることにする。すぐそばなので配達してもらえるかと思ったら、在庫は栗東で、今日から明日にかけては雪なので配送は明後日以降になるとのこと。いまの冷蔵庫の中身はあきらめるしかない。この寒さだから外に置けばじゅうぶん冷えるのだが、うちのベランダは猫の通り道なので、食べ物を外に出すわけにはいかない。
田中くんが来たので近くの居酒屋で飲む。
ゼミ。
「ロード・オブ・ザ・リング」エクステンディッド・エディション。新たに追加されたシーンとオマケが目当て。絵コンテで構成されたムービング・ストーリーボードやCGで構成されたプレ・ヴィジュアライゼイションなどの行程は映画製作の門外漢には「こんなことまで!」という感じ。他にも視覚効果や音楽の作成過程もあれこれ伺えて、おもしろい内容になっている。裂け谷の会議のシーンの編集断片をすべて見せるという趣向もある。いかにも贅をこらした編集。
映画館で見たとき、種族間のスケールの違いの表現に驚いたが、これにはどうやらあらゆる手法が使われているようだ。古式ゆかしい強制遠近法や代役、模型、巨人着ぐるみの使用もあれば、合成の技法もあるし、カメラ移動とテーブルの移動を同期させて強制遠近法の矛盾を隠す技術も使われている。結局、現場に合った方法をその都度とっていくのがいちばんの得策ということなのだろう。
夜中にルー・リードのドキュメンタリ。
叔母が亡くなり、義父が亡くなった。
冷蔵庫がこわれた。
講義その他。指輪は「The voice of Salman」「The Palantir」。小さなホビットが、馬の体温を感じながらマントにくるまれて聞くガンダルフの話。
夜、レンタルDVDで「ハリーポッターと賢者の石」。映画というよりは、ジョン・ウィリアムスの音楽を簡単に追うべく、この前から、タワーリング・インフェルノ、スターウォーズと続けて見て、今日はハリポタ。魔は四拍子を避ける。ジョン・ウィリアムスも三拍子を多用する。あとは例によって、ドビュッシーとラヴェルとストラヴィンスキーに砂糖と咆哮をふりかけたような感じ。
映像の方は、なんといってもハーマイオニー役のエマ・ワトソンに尽きる。脆弱で小生意気な表情といい髪型といい、吉野朔実の絵から出てきたのかのような絶妙なルックス。出演時間が二倍くらい欲しい。
あと、講堂空間(ろうそくやカボチャや投げ上げられる帽子)の奥行き感にはぐっときた。ハリポタってヴューマスターのリールで出てるのかな。あったらぜひあの講堂のシーンを3Dで見たい。
で、ストーリーは? どうもぼくはこの物語とすれ違っているようだ。原作も二巻まで読んだのだが、ピンとこない。魔法グッズやパブリック・スクールっぽい寮生活の設定にはそれなりの魅力があるけど、しかし、そんなにおもしろいんでしょうか、ハリポタって? つまるところ学校という狭い世界で、見るからにヤな奴をエリートがやっつけるって話じゃないか。
学校の物語のおもしろさは、ソリのあわない同級生や先輩後輩で決まる。ソリの合わないやつこそ成長の鍵なのだから。ハリポタにはスリザリンというライバル集団が出てくるけど、ただ単純に嫌がらせをするだけで、敵役としての格が低過ぎる。ウチの子命の母親によってウチの子に都合のよい敵味方のいる世界が語られている感じがしてしょうがない。比較するのが無理なのかもしれんが、たとえば「トーマの心臓」読んだら、ハリポタなんてアホらしくならんか?
山形浩生氏によれば原作の四巻はえらいことになっているらしいが未読。
指輪に戻る。ハリー・ポッターに足りないのは旅。
"Woman's perfomance art in Osaka"の二日目。気になったものについていくつかメモ。
山岡佐紀子「Garden」。目隠しをした山岡さんが体をよじりながら次々と産み落としていくビー玉、大豆、とうがらし、スーパーボール、ごろりとリンゴ。それぞれの色、弾力、そしてその落下がもたらす音の取り合わせ。スーパーボールがとんとんと壁に向かって転がっていく。その転がっていく時間がわかるようなゆっくりとした産み落とし。パフォーマンスが終わって、床に散らばった「Garden」を最後はみんなで掃除。とうがらしからは硬い実がこぼれていた。一昨年のバスケットボールもそうだったが、彼女のパフォーマンスはぼくの気づかない何かに触れていて、終わった後もいろいろと思い返すことがある。
上田假奈代「花の名前」「愛の名前」。詩を朗読で聴くとき、拍は時間に乗り、聴く者のことばは拍に乗って語る声の先を走るのだが、後から来た声は先走ったことばとは別の道をたどっている。こうして声はあちこちで分岐点を明らかにしては、ことばを置き去りにしていく。その、ことばと声の遠さによって、朗読を聴く。「森は 森の入り口で咲き」というところで、見事に置いて行かれた。あとで配られた詩を見たら「森は 森の入り口で風を呼び入れ」となっていた。詩人の声は詩人のことばさえ置いていく。
浪花ビニイル「中出し!ピンチ!連絡つかず!」延々とビデオでカップルやレズビアンの人たちの恋愛話が語られるのだが、妙に聞き入ってしまう。本人たちが公園で飛び回っているだけの映像、というのもその一因か。語っている映像が入ってたら、もっと生々しくてしんどかったかもしれない。「(セックスのとき)相手の腕のスジが見えるのが好き」という発言。
Yuko Nexus6「美容と健康」。身内ゆえパス。
ミリアム・ラプランテ「キャプテン・フリーダム」。的確な大仰さ。赤い目を光らせるウサギがコワイ。
高速飛ばして帰宅。
Cartoon
Music! に「カンザス・シティ・キティ」を追加。Jaiさんを彦根まで迎えに行く。駅は寒いので、一足先にハッシュに行って飲みながら待つ。1時くらいまで飲み、帰ってからジョージ・パル版の「タイム・マシン」を見て寝る。
卒論〆切。ようやく一息。指輪は "Flotsam and Jetsam"。基本的に指輪では、まず謎が現れ、それが旅人によって語り直される。引用符で始まったことばが、引用符で閉じられることなく改行されると、ああ旅の物語が始まったなと思う。引用符が閉じないとなれば、尻の下に湿った草や、乾いた砂の気配を感じながら、そこにしばらくの間体重を預けてもよい。
さらに。時間が細切れになるので、まとまった仕事はナシ。合間にWWWのアクセス制限を試したり期末課題のページを作ったり。
さらに卒論指導。ちょっとだけ指輪。"The Road to Isengard"。こういう戦いの合間の異文化交流の会話ってそのままスター・トレックのクリンゴンの在り方に影響してるのだな。
卒論指導が佳境に入ってきた。ゼミ生どもが次から次へと原稿を持ってくる。赤を入れまくる。
講義、卒論指導、京都で研究会。北村さんのルーマン的相互行為論を聞きながら「101匹目のサール」という秀逸なフレーズを思いついたつもりだったが、いまとなっては何が秀逸だったか思い出せない。
聞きながら考えたこと。関連性理論では認知環境変化の相互顕在性を問題にするが、その前提として、単に声の届くところ、目の届くところにいること、つまり、認知環境変化を共有できると思える場所にいることが問題なのではないかと思う。対人距離や配置など、人間どうしの空間関係は、つまるところ、この認知環境共有のセッティングの問題なのではないか。
飲み会に出たのはいいが帰りにまたJRが遅れ。ホームで40分待ち、さらに1時間かけて南彦根まで。そして寒風吹きすさぶ中、自転車。身も心も冷え切る。どうも昨年末から事故が多いな。
さらに本棚整理。部屋は足の踏み場もない。
4年前に狂った頭で書いた日記がでてきた。おもしろい。自分の関心にとても近い。自分が書いたのだから当たり前だ。自分で書いておきながらすっかり忘れていた。
夜、青山さん田尻さんとゆうこさんとでキノコ鍋。がつがつ食う。鍋は四人に限るな。
マーク・ピーターセン「続・日本人の英語」「心にとどく英語」岩波新書を続けて読む。「日本人の英語」に較べていくぶん事例的だが、やはり感覚の違いがよく現れていておもしろい。ふつうの英語本はフレーズや単語がどのような図であるかをエンエンと列挙するのだが、ピーターセンの本は、こうした図がどのような地から浮かび上がってくるかを言い当てようとしていておもしろい。
「続・日本人の英語」に出てくる「オズの魔法使い」の「ここはカンザスじゃないみたいよ」の話を読んでいて、フライシャーの「Kitty
from Kansas City」というカートゥーンを思い出した。「Kitty...」は、田舎娘のベティ・ブープが「ルディ谷」という駅に着くとそこにルディ・ヴァレーがいて歌を歌い出すというもので、その歌の内容も「その娘はキティ、生まれはカンザス・シティ・・・おまぬけだけどかまわない。なんたって、アインシュタインのことをビールの銘柄だと思ってるんだから」「マッシュルームを愛のルームだと思ってるんだから」てな具合にじつに他愛がない。
この娘の山出しさ加減に「カンザスは、アメリカの真ん中にある。まったく平坦な、木さえ少ない単調な風景に、小麦とトウモロコシの畑しか思い浮かばない田舎である。」(続・日本人の英語)というステレオタイプなイメージを重ねると、なるほど「from
Kansas City」というところが生きてくる。
もっともこのカートゥーンでは、ベティさんはただの田舎娘では終わらない。その過激なまぬけぶりが災いして海に放り出され、海面と海底を上下するうちに栓を抜いてしまい、干上がった海から人魚となって登場、海の生き物たちと行進を始めるのだから、フライシャーの怪奇趣味はものすごい(おっと、この話、Cartoon
Musicに書きとめておこう)。
いよいよ本を大量に整理する。ほんとうは去年やるつもりだったのだが、延び延びにするうちにもう床に本があふれてにっちもさっちもどうにもブルドッグ。景気よくばかばか本を段ボール箱に詰める。詰めたら二度と読まないような気がして怖い。これまでだって一度しか(いや一度すら)読んでないのも多いのだが。
本棚を組み立てる。いわゆるつっぱりラック式の木製本棚なのだが、棚板のいくつかを木ねじで固定する方式で、その棚板位置が気にくわない。そこで、好みの高さを計ってドリルでねじ穴を開けようとしたらスカッと空を切る手応え。あ、中が空洞じゃないか。側板をあちこち叩いてみると、どうやら大部分は中板がないらしい。道理で軽いはずだ。結局あちこちこつこつ確かめながら、中身の詰まった部分を探してねじ穴を切る。おかげでえらく時間がかかってしまった。
青山さんと田尻さん来訪。青山さんのラフロイグ三本セットに田尻さんのモンロワールのチョコ、という絶妙なおみやげに涙ちょちょぎれる。青山さんの絵葉書成果を拝見しつつぐんぐん飲む。二人がモチ好きとのことで、ちょうど実家から送られてきたモチを食う。これがまたとてもうまいモチだった。
卒論指導。人の日本語のアラはなんとたやすく見つかるのであろう。この調子で自分の論文もさくさく校正できるといいのだが。学部生のレポートや卒論によく見られるのは、もってまわった言い回し。一文が長い。長い上に、文中で話題や論理が何度もねじれる。読んでいてたいへんわかりにくい。ところが彼らはどうやらこのもってまわったわかりにくさを頭のよさと勘違いしているらしい。ざくざくと赤を入れる。文章をすっきりさせると実にカンタンなことを言っていることが本人にも読み手にもわかる。カンタンでよろしい。
指輪"Helm's Deep"続き。おっとこんな展開なのか。最後の2ぺーじで急激に見えないものの力が働いた。
どうも英作文をしていて冠詞の使い方がしっくりこないので、ネットでいくつか調べた末にマーク・ピーターセン「日本人の英語」(岩波新書)を読んでみる。これはアタリだった。特に、冠詞のaやtheを発語する感覚を時間の流れに沿ってとらえたところがおもしろい。
これは、上の I ate a chicken のような場合の思考のプロセスの順番を考えてみれば明らかに理解されると思う。例えば、もし食べた物として伝えたい物が、一つの形の決まった、単位性をもつ物ならば、"I
ate a...a...a hot dog!" (あるいはa sandwich, a rice ballなど)と、aを繰り返しつつ、思い出しながら名詞を探していくことになる。もし食べた物として伝えたい物が単位性もない、何の決まった形もない、材料的な物ならば、おそらく"I
ate...uh...uh...meat!"(あるいはFrench bread, riceなど)と思い出していうであろう。(後略)
(マーク・ピーターセン「日本人の英語」岩波新書)
この、冠詞を前から感じていくネイティヴの感覚は、以前日記に書いた「萩原朔太郎の「猿だ!」論を思い出させる。朔太郎は、"It
is a monkey"という文を時間に沿って考えながら"is"に「智恵の働らく状態」を見出したわけだが、ピーターセンの論を補うなら、"is"
と "monkey"のあいだに、"a" というさらに智恵が働く微分段階があるというべきなのだ。
前置詞のonの説明で、"written on a typewriter"と"written with a pen"を較べるくだりもおもしろかった。
(前略)伝達手段を導く on は、手段自体より、ものがその手段の上に乗って運ばれてきた感じで、伝達の出所と行き先の間に入って、手段がものを処理(process)して運んでくれるところも感じさせる。それと似たような意味で、先のワープロの場合でも、タイプライターの場合でも、文章を書く人の手と出来上がった作品との間に一つのプロセスがあり、書く人の手で機械に入れたインフォメーションがそのプロセスによって加工された形で機械から出るような状態であれば、
written on a typewriter
の on が英語の論理である。
ペンで各場合は、その媒介プロセスもなく、書くプロセス自体が直接的すぎて、手と作品との距離が全然感じられない。それでペンがただの道具として扱われ、
written with a pen
という英語になる。
ここでピーターセンが微妙な言い回しによって言い当てようとしているのはつまり「インターフェース感」のことだ。interfaceが感じられるときは
on 。まさしく「面」が間に入っている感覚なのだ。
指輪は"Helm's Deep"。どうも戦闘のくだりは他のくだりに較べてさほどぐっとこない。目の前のオークの恐怖より、見えない気配にじわじわと追いつめられる過程の方が楽しい。