朝、伊藤一雄氏に聞き取り。口拍子にあわせて、各能の太鼓の拍子を叩いてもらう。指でコタツのへりを叩く、ただそれだけのことで、舞いの空気が立ち上がってくる。
昼、ずっと論文書き。水窪のデータをまとめる。藤田氏は池田柾氏のところへ聞き取り。
夜は鹿刺しをはじめ、数々の皿に小鉢。あいかわらずこの旅館の料理はうまい。そのあと、高崎竹一氏に聞き取り。
水窪へ。ローカル線から新幹線、新幹線からローカル線への接続がじつに効率悪し。
夜、佐々木寿氏にインタヴュー。月を背に自分の影を見ながら練習する、という話。幸男氏も加わり11時ごろまで。初日から濃い聞き取り。
レポートに返事を書きまくる。河瀬高校で講義。視覚心理学における問題の立て方について話す。
博士課程の入試監督。口頭諮問。監督の合間に論文の構想。大阪で博覧会研究会。清水さんの背景画・ディスプレイ史レヴュー。ぶっとい歴史。
さらに。か弱いホビットが力を尽くして失神するところで自分の涙腺はゆるくなることがわかった。
指輪読書。Book 4。Gollumの使う人称は、翻訳家にとっては難所だろうと思う。映画の字幕が気になるところ。
部屋にあった古本を段ボール6箱分、ブックオフに持っていく。450円なり。安過ぎ。ブックオフだけなのかと思って、もう一軒、遠くにある万代書店に三冊ほど持っていったら30円だった。査定といっても、本の価値を見ているわけではない。アルバイトの子が冊数で査定しているのだ。つまり、引き取ってくれるだけマシ、という感覚によってこうした郊外書店は成り立っているのだな。
こちらも、ひきとってくれればラッキー、のつもりでセレクトしてはいるのだが、新聞集成明治編年史のダブりを何冊か入れたのはちょっと悔いが残った。
古本を売りに出すということは、その本を世界の適当な場所に配置し直すということである。どうせなら同好の士の目の届きやすい店にもっていけばよかった。以後、あの種の本は人にあげるか、遠くの古本屋に郵送することにしよう。
食玩フィギュアがおよそ一個300円前後で売られていた。200円で買ってダブるより、確実に中身のわかってるやつを300円で買う、という金銭感覚なのだろうか。
あろうことか、別枠で入っていた卒論諮問をすっかり忘れていた。また間の悪いことに、机の中に携帯を入れっぱなしにしてマナーモードにしていたので、呼び出しが鳴っているのにちっとも気づかなかった。大学に行って平謝り。
今年はレポート提出をメールに限定したので、どんどんメールがやってくる。どんどん返事を書く。点数という形式でいくつものレポートに答えるのは辛いが、返事という形式で答えるのはじつに楽だ。「個人の体験に基づいて」という但し書きをつけて課題を出してあるので、同じようなレポートが続いてうんざりすることもない。それぞれにだいたい50字から200字くらいのコメントをつけて返す。全部に答えると原稿用紙40枚くらいになる勘定だ。
一晩寝かした原稿を見直して書き足してから送る。
夜、DVD2枚組でディズニー『白雪姫』。この作品の目指している世界はぜんぜん好きではないが、アニメーションとしては驚きの連続。1938年にこれを見たら「うおおおおおおお」の連続だったに違いない。何度見ても発見多し。井戸の水表現と声との絶妙なシンクロや、森のマルチプレーンを使ったシークエンスは、今見ても驚きだ。あと、このアニメーションの女王様はけっこう好き。変身前と後で全然声が違うけど、同じ声優なんだよなあ。
特典映像にマルチプレーンのデモがあったのは収穫。それにしてもこの特典DVD、クライアント向けのプレゼンみたいな内容で、いささかへきえきとする。Culhaneの「Talking
animals and other people」くらいのバランス感覚があればいいんだけどな。
マルチプレーンでいちばん遠い平面からカメラをズームアウトしていくと、いままで見えなかった周囲の光景がわっと入ってくる。ピープショーをのぞき込んだり目を離したりするときの感覚に近い。この独特の遮蔽変化の感覚は、セルを重ねて背景画をずらせていくやり方では表現できない。「千と千尋の神隠し」で、ハクリュウに乗って家を遠ざかっていくときの門の現れ方も、このマルチプレーン感覚に通じている。
さらに原稿。ポプラ社の「少年探偵」シリーズの抜けている部分を読み直そうと思い図書館に行くがなんと整理期間で休館。手元にある6作品を頼りになんとか13枚書き上げる。この機会に風船乗りスペンサーの記事をあれこれ読み直したが、もう書き尽くしたつもりだったのに、けっこう再発見があった。
子供のときに読んだ乱歩は怖かった。で、二十歳過ぎて読み直して、なんと荒唐無稽なのだろうとおもしろく読んだ。で、いま読み直すと再び怖い。人間は思ったより荒唐無稽だと思うようになったからだろうか。「少年探偵」シリーズの『透明怪人』の展開など、以前は、んなアホな、と思ったものだが、今読むと、リアルに怖い。推理物というよりも、人間関係が構築する現実の強固さを描いたホラーなのだ。
日曜日に買った『愛宕下藪小路』と『亀戸梅屋鋪』が届く。
実際に手にとってみると、雪の表現がすばらしい。摺るときにしっかり版木にあてるので、ちょうど(雪のように)色を乗せない部分は表から見るとわずかに凸になっている。これが、あたかも空摺りをしたように浮いて見えるのだ。こうしたわずかな凹凸は、額に入れてガラスを一枚はさんでしまうとなかなかわかりにくい。
雪道の足跡はネズで摺られている。この部分も、雪の白に比べてわずかに凹んでいる。バレンの面が版木の凸を通過した跡の凹。それが雪面を下駄の凸が通過した跡の凹に重なる。絵を傾けて見ると、凹の影が落ちて、下駄の跡が深くなる。
ゼミで成田君によるGoodwin論文の紹介。例によってGoodwin節炸裂でおもしろい。彼は会話の手がかりをいきなり全部盛り込まずに、まずテキストレベルで語り、ジェスチャーを入れ、人間関係を入れという風に、少しずつ要素を加えながら、同じデータの視点を変えていく。そのことで、ひとつのデータが持っている深度が体感できる。
河出の「乱歩と少年探偵」用原稿。
さらに卒論審査やら相談やら。カートゥーンの話を800字*3回分。字数は大したことはないのだが、トーキー初期の話は諸説いろいろあるので、文献を読み比べないとつい不正確になってしまう。じつはトーキー初期の音楽担当者本人の語った資料というのはさほど多くなくて、"History
of American Cinema"のような分厚い映画の本を見ても、けっこう二次引用だったりする。いちばんあてになるのは1971年に出たカール・ストーリングのインタヴューか。あとは、Cabargaのフライシャーズ・ストーリーとシャムス・カルヘーンの一連の本など。アイワークスの伝記も、「蒸気船ウィリー」前後の話に関しては詳しい。それから「Cartoon
Music」も。もちろん、最終的にいちばんあてになるのは作品自体。「蒸気船ウィリー」をポスト・レコーディング(本によってはプレ・レコーディングだと書いてあるが、アイワークス伝によればポスト)だと思って見ると、そのシンクロぶりにも感慨の深いものが。
朝からカートゥーン・ネットワーク用の原稿。携帯が鳴るのでどうしたのかと思ったら、なんと今日が講義の最終日だったらしい。しまった、てっきり卒論審査があるから講義はないつもりでいた。で、その卒論審査。さらに原稿。
帰ると、青山さんと田尻さんとゆうこさんが誕生日の料理とデザートを作って待っていてくれた。もはや誕生日に何の感慨もない年ではあるが、何かをしてもらうのはうれしい。スープにメインにデザートとフルコースをいただく。そのあとなぜか大貧民をしようということになり、ひとしきりトランプで遊ぶ。
午前中から自転車で江戸東京博物館へ。「本の歴史 喜多川周之コレクション」が目当て。絵葉書本や十二階関係書をはじめ喜多川氏の蔵書をあれこれ並べる。この一つ一つのコーナーを拡大するだけで展覧会ができそうな感じ。
大江戸八百八町展。日曜とはいえ、観客が多いのに驚く。ベルリンで見つかったという日本橋の気の遠くなるような往来の風俗絵巻は圧巻だったが、あまりゆっくり見ることができない。
広重の「名所江戸百景」復刻の部屋に行くと、ちょうど摺りの実演が始まるところ。『愛宕下藪小路』をいちから摺っている。こんな機会はめったにないと思い、結局一枚摺るのをほとんど見てしまった。摺り師は沼辺伸吉さん。
ぼかしは、絵の具をブラシでのばす、そののばし方で決まる。
まず版木を水で湿らせる。色をぼかして淡くしたい部分には刷毛か小さく巻いた布で水を乗せるようにする。ぼける領域が直線なら、まっすぐに刷毛や布を動かす。
次に色をしっかりつけたい部分に絵の具を乗せる。このときにはのばさない。ただ絵の具を適量置く、という感じ。絵の具と少しだけ離れたところにでんぷんのりを乗せる。これも小さな刷毛からひとたらしぐらいだ。
それから版木の上をブラシでこする。こすりながらでんぷんのりと絵の具をまぜあわせる。のばす領域は直線なので、ブラシもほぼ直線上を往復する。さりげない動きだが、このときのブラシの描く軌跡で、ぼかしの境界がどのような形になるかが決まる。
絵の具がのびたら、紙を版木の見当にあてる。これまたほとんどムダがなく、角の見当にぴたり、ぴたりと、狙った場所に一瞬で紙が当たる。当てた紙をおさえこむこともない。見当に当てられた紙は、自身の重さでさっと版木に降りていく。素人がやったら、版木と紙の間に空気が入って簡単にずれてしまうだろう。
版木を置いて、バレンでこすっていく。このとき、毎回バレンで頬をさっとなでる。「何かのおまじないですか」とたずねると、「これで油をつけるんです」とのこと。湿った紙の上では、バレンはすべりにくい。そこで、少しだけ油をつける。椿油が使われることもあるらしいのだが、ほっぺたの油分がちょうどいいのだそうだ。乾燥肌の人にはこの方法はできないかもしれない。
わざと粗く刷るところも見せていただいた。バレンにうまく力を入れないと刷りにがさがさとしたむらができてしまう。均等な圧力でしっかり刷り込むと、いかにもしっとりとした色合いになる。
バレンでこすって、紙に絵の具を「刷り込ませる」。いったん刷り込ませると、絵の具は紙の繊維質に入り込んでもう出てこない。あとから紙の湿度を保つために水を塗ったりするのだが、刷り「込んだ」絵の具はもうにじまない。
絵の具は多すぎたからといって濃くなるわけではない。紙にバレンは、入っている砂粒の大きさでキメの粗いものや細かいモノがある。
『愛宕下藪小路』では、いちばん上の空(画像では違う色になっているが、じっさいはネズ(ねずみ色))を二度摺る。それから、雪道の中央のネズの部分(これも画像ではほとんど見えない)も二度摺る。こちらは当てなしボカシで、道の曲線に合わせてブラシで色をのばす。薄いネズを二度摺ると、人が通ってうっすら踏み汚されたような跡が出る。あたかも人が踏み「込む」ことによって自らの足跡を刷り「込んだ」かのようにしっとりとしたねずみ色。
ブラシの毛は馬の尻尾でできていて、鮫皮でこすって先を数本くらいの枝毛にする。これを、毛先を「割る」という。長く使うと減ってくるので、そうなったらまた鮫皮でこするんだそうだ。
ひとしきり見たので、結局この絵を買うことにした。
夕方、図書館で調べ物。そのあと、東京から彦根へ。車中、少しカートゥーン・ネットワーク用の原稿。帰宅してしばらくすると青山さん、田尻さんがゆうこさんとともにやってくる。
台東区立図書館で調べもの。原稿。
木馬亭の前を通るとちょうど浪曲をやってる。そういえば浪曲をきちんと生で聞いたことがなかったと思い、途中から入る。ちょうど東家三楽嬢。ネタの題名はわからないが、村からあずかった大事な七十両すられた作造が、近くのスリの女親分に偶然出会って七十両に十両足した八十両をもらい、村にかえったあとその恩義が忘れられずに石碑を建てるという話。マイクとの距離が不安定でちょっと聞くのがしんどかった。
澤孝子は鏡花「瀧の白糸」(大西信行脚本)。声のコントロールがすばらしい。
ひとつ気づいたこと。浪曲では、道中の地名を次々と調子よく並べていくというやり方は基本なのだな。志ん生の「黄金餅」で、仏をかついでいく道中を「下谷の山崎町を出まして・・・麻布の長坂を降りまして・・・」と並べて笑いをとるところがあるのだが、浪曲の道中づけの調子よさを知っていると、志ん生のは酔っぱらい運転でぶっとばしているようなおもしろさが出るのだな。
東家浦太郎は「夕立勘五郎」から辰兵衛(サンバラの辰)駆けつけの一席。辰兵衛が馬に乗って湯島にかけつける様を語るというただそれだけのことなのに、これが道中目にうかぶようで実に楽しい。最後に「風邪がはやっておりますが、ぬるめのお湯にちょいと塩いれて、うがいするのを忘れずに」と節をつけて送り出されるのも気持ちよく、そうそうと塩のかわりにリステリンを買い、宿に帰ってうがいをする。
浅草新劇場のオールナイトで『街から街へつむじ風』。いつもながら満員。なぜ満員かというと、入れ替えなし1000円均一のため、半ば簡易宿泊場となっているからである。満員なのになぜところどころ席が空いているように見えるかというと、それは空いているのではなくて、人が横たわっているからである。その人を起こさぬようにそーっと座って見るというのがこの劇場の仁義である。
映画の方は、ドイツ帰りの裕次郎が父(宇野重吉)の知り合いの開業医(東野英二郎)のもとに修行がてら送り込まれ、その医院の土地問題にからんでクラブのヤクザたちと対決、というお話。オープニング、ただでも横長の日活スコープをさらに対角線に使って写される高度成長期の東京に、おお、まだ街にスキマが多いなあ、と思う。宇野重吉、東野英二郎を使ってるわりには、その老人ぶりがどうも希薄だし、のんべえの医者も中途半端だし、秘密社員の明かし方もとってつけたようだし、どうも脚本がつじつまを気にしすぎていてシマリがない。で、やはりこの映画のみどころは、「銀座の恋の物語」を掛け合いで歌いながら、作戦を話し合うところなのだろうな。手術シーンでの音楽(鏑木創)の和声が、絶妙に展開のよめない不安な進行。