外は雪。さらに悶々とする。ナラ・レオンの"Gaiolas abertas"に何度となくなぐさめられる。Voa、口が柔らかく開かれる、オー、アー。ナラは手のひらを柔らかく開くように小鳥に呼びかける、Voa(飛べ)。そしてCanta(歌え)。
会議やゼミや。SLUD用の原稿を書くうちにデータの穴に気づく。熊のように部屋をうろうろする。ナラ・レオンをずっとかける。外が吹雪いてくる。
新大阪から彦根に。車中指輪。The King of the Golden Hall。卒論を見る。
サニー・サイド・オブ・ナラ・レオン。最初のデザフィナードを聞いて、なんだかオシャレすぎて違和感があったのだが、次第にしみじみとしてしまい、"Nasci
para bailar"の明るいアレンジでついに頭の中にさっと陽が射してしまう。
間奏なしに歌を最初から通して歌い直すということを日本の歌謡曲ではあまり良しとしないが、ブラジルの歌にはこれがしばしばある。繰り返しなのだが、ひとつステージが繰り上がっている。らせんに乗り、らせんを急がない。のぼる足を止めない。するとどういうわけか繰り上がっている。だって生まれた、生まれたのは踊るため、だって生まれた、生まれたのは踊るため、繰り返すことで生まれることと踊ることがニワトリになりタマゴになりヒナが孵る。音楽を言祝ぐ歌では、なんと繰り返しが喜ばしいのだろう。
指輪はWhite Riders。
朝から新幹線で神戸に移動。兵庫県立美術館で「未来予想図 私の人生劇場」。スロープではなく地上階の入口から入ったのだが、まず山と積まれたベッドの背、そしてその奥にある廃材で作られたベッドの謎。天の廃材? チケットブース前ではすでに何かのイベントが終わったあとらしく、ものすごい量の紙くずがフロアに散乱していて、それをがさがさと踏み分けながら中へ。
やなぎみわ「Granddaughters」は、朗読中学生の映像が対称形になり、おばあさん映像と向かい合わせになることで、資生堂のときに較べて何が対面しているかがよりはっきりしてきた。各映像に対応する音声が映像下のスピーカーから鳴らされることで、鑑賞者がより音声に近づきやすくなった。そばでじゅうたんに寝っ転がった女性が「ここ、むっちゃ気持ちいい」と思わず声をあげていた。あとでやなぎさんに電話で聞いたら、フロアのじゅうたんは、ウレタンにボアを張ったお手製だそうだ。この作品については資生堂のカタログにいろいろ書いたので略。
松井智恵「寓意の入れもの」。中央の小部屋から映像が投射されている。浜の岩礁が映し出され、水着の女性が一人、岩礁をひとめぐりする。その動きと、作品のまわりを鑑賞者がひとめぐりする動きが妙に対照的でおもしろい。小部屋の前には置き物のロバ、その耳が映像にかかって影になっている。そのせいでスクリーンを横切ったり画面にかぶることにそれほど抵抗がわかないのか、プロジェクタの前をどんどん観客の影が通り過ぎていく。ロバの影だけが動かない。映像もさることながら小部屋の中も気になる。プロジェクタのあるその部屋を覗くのはなんだか淫靡な感じがした。淫靡の内側には日本の歴史書がずらりと並んでいた。
この美術館に来たのは初めて。設計は安藤忠雄。屋根の軒先を深く、というか、ほとんど無意味なほど長くとってある。屋根の稜線が海側と山側に向かって開口し、山と海とが切り取られている。屋根でできた神戸断層。神戸は山が近い。近いが人を威圧するほどのサイズではない。スイスではこんな建築はありえないな。階段の先には純粋踊り場、エレベータから降りるだけのためにあるかのようなエレベータホール。
この、ある意味ではとりつくしまのない建築のあちこちに、廃材のベッドを置き、青いビニルシートを広げているのは堀尾貞治。解体現場の素材から、これまた解体現場の素材である紐が伸び、建物のこちら側からあちら側に渡っている。そのことで、踊り場はものがものを目指す目的地であるかのように感じられてくる。風景を切り取っていた屋根の開口は、ものを降臨させる穴に見えてくる。館内の百円ショップも体験したかったが、箱男がいる時間とすれ違ってしまった。
かなもりゆうこ「美術の時間」。スライドショーとビデオにりんごだらけ。とざきまなみをモデルに撮影されたもの。彼女の笑わない、というか、笑っているように見えて何かの儀式に殉じているかのような表情は、それが撮影者とモデルという関係で撮られていることを忘れてしまうほど。
榎忠「Corridor AK-47」。鋳られるなり押収されたかのような武器の山。そこに介在したはずの人の気配のなさが不気味。
会場で偶然に森下さんと会う。何年ぶりだろう。何年ぶりかなのだが、鍋のパーティーがあるというのでさっそくお邪魔することに。はるか紀伊半島を見晴るかす部屋には、廃線本がずらり。そしてそこには三人のスイス人がいた。そのうちの一人、リュバーのパフォーマンス・カタログを見せてもらったが、ことばが文字通り形になってしまい、そのことばに支えられている人がいて、とても気に入った。これは実物が見たい。彼のWWWにもいくつか写真が挙がっている。
遅くまで話して、大阪発の終電を逃し、新大阪に泊まる。
午前中、教育会館で軽く買い物。太田三郎の「風俗おんな帖」、戦後版の浜本浩「浅草の灯」(表紙がめあて)など。そのあとしばし指輪読書。Treebeard。頭の中で抽象的な大木髭男を想像するが、天井の木目を見つめるようなこわい考えになってしまう。午後にエネルギー切れして昼寝。
新宿タワレコ。二日間歩き通したホビットが水に出会ったかのようにあれこれ買う。ジョルジュ・ベン、ナラ・レオン、49アメリカンズ全部、など。
新宿ピットインでONJQ。30分前にふらふらと行ったらすでに長蛇の列で驚く。ライブの入場に並ぶというのは何年ぶりだろう。立ち見の後ろの方で、人の頭の隙間から芳垣氏のスティックが遠くぶれている。
それにしてもロングトーンがこれほど美しいクインテットがあるだろうか。いわゆるジャズというのは、ソロがあって、ソロの見せ場らしきものがあって、それからロングトーンでソロを終えて、客から拍手が来て、次のソロ、なのだ。だからロングトーンとはすでにして見せ場の終わりもしくは交代の合図であり、そこで一度ジャズは沈静化する。ところがONJQの場合では、ロングトーンこそがただならぬ気配を秘めており、そこで地平が一つ上がってしまう。どーんとハイランドが見えてくる。
Professor Takeo Yamashita Mission 2 の最後に「煙の王様」のサウンドトラックが入っていて、そのアルトのデュオがまるで中尾勘二SP鑑賞会で聞いたアロハ・オエのように美しいのだが、最後の二曲のバラードでそのことを思い出した。
終わってから須川さん、索ちゃんと話して夜半過ぎに帰る。
朝、出がけに田尻さんが洗濯していたのだが、なんとワタクシの分まで干しておられる。恐縮。
東京へ。「本とコンピューター」の座談会。座談会は5時から8時くらいまで。その後神保町で飲み会。紀田さんが持ってきておられた改造社版の円本を拝見すると、そこにはびっしりと書き込みがしてある。それは本に関する書き込みではなくて、本とは関係のない覚え書きだった。三段組の本の横余白には三日ずつ日付が記してある。1月で始まり12月で終わっている。つまりカレンダーの役割も果たしているのだ。戦時中、紙のないときに、円本を紙がわりに使っていたのだろう。紀田さんは昭和24年に発行された印刷物をすべて集めようとしているのだという。誰それの書いた本を全部、ではなく、ある年に発行された本をすべて。おそるべき紙へのこだわり。
この座談会で、十二階BBSで声をかけていただいていた石塚さんにはじめてお目もじ。人形を拝見すると、思いがけないサイズで不思議な感じがする。うちには石塚さんの写真を使った大きなポスターが玄関にはってあって、いつもピストルを持って斜に構えたモノクロの乱歩を出がけに眺めているのだが、これまで、それが人形だということを忘れていた。
明日の座談会用にWWW巡り。指輪はBook3に。田尻さん連泊。カキ鍋。いいオトナが全員マンガを読んでいるというコタツマンガ喫茶状態。ナニワ壱番館にテントさんが出るというのでかぶりつくように見る。今田・東野コンビはツッコミ過ぎとも思えたが、そのツッコミすらも最後はただの義務教育に見えてしまう。テント・ワールドおそるべし。
今日から講義。サイモン&ガーファンクルのセントラル・パーク・コンサートから話をはじめて、考えが現実になるということについて話す。
指輪は仲間が分裂し、「旅の仲間」読了。
田尻さん来訪。夜、東映マンガ主題歌DVDを見ながらあれこれと雑談。田尻さんが思いがけずテレビっ子であることを知る。
指輪は「さらばロスロリエン」(とでも訳すのか)。ガラドリエル様の慈愛にしみじみと感じ入る。玉露を得て舌頭へぽたりと載せて、「清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液は殆んどない」という「草枕」の一節を思い出す。
そして、ああ、また旅なのか。もうずっとこのまま冬のロルロリエンでよいのだが。そして案の定、ヘルツォークの川下りのようなじりじりとした展開。というか、ヘルツォーク「アギーレ・神の怒り」の川下りの場面って、もしかしてこの場面にどんぴしゃなのだが。
外は案の定すっかり雪景色。指輪はガラドリエルの鏡。
年末やりそこねた部屋の整理に着手するが、「気がつくと机のがぐちゃぐちゃになっているあなたへ」がすでにして机がぐちゃぐちゃで見つからない。買ってきた段ボールに机のものを片っ端からものを詰め込んでいくうちに発掘される。
年末に読んだ内容をすっかり忘れて読み返してみると「探し物をするためだけに一年間に百五十時間も消費している」「仕事を中断させる事柄のうち、本当に対応する価値のあるものはわずか一五パーセントしかない」といった誰がどうやって取ったんだろうと思うような統計が太字で書いてあって、ぐいぐいハウツー本の快楽にハマっていく。
「みなさんはその書類をどうしたらよいのか、実際は知っていたのに、そうしなかっただけだ」。この、読者の無意識をつくフレーズ。これこれ、これだよなあ。意識の中にないものは無意識にある、という前提のもと、無意識をズバリ言い当てて意識化させようとするこの言い方、ハウツーだなあ。ここで「意識の中にも無意識の中にもないことだってあるのでは?」と考えるのはヤボというものだ。
いまからすごーく昔、多湖輝の「ホイホイ勉強術」という本がバカ売れした頃、高校生のぼくは初めてハウツー本の快楽にハマった。読むとホイホイ勉強する気がわき、どんどん頭がよくなるような気がして、何度も読み返した。読み返すヒマがあるなら本に書いてあることを実行すればよかったのだが、読むたびに実行した気になるのでなかなか実行できない。実行した気になるべくまた読み返してしまう。
といったわけで、すっかり机をかたづけた気になったところで、カートゥーン音楽の原稿のネタ用に「鉄腕アトム」(S38-40)の第一話を見なおす。天馬博士がアトムにスイッチを入れるところで「運命」がかかり、ここで少しだけ動作やカット割りと音楽とがミッキーマウシング(というかファンタジア風)となる。音楽は初回から「ロボットマーチ」や「お茶の水博士のテーマ」など基本的なものは使われ始めている。これらは後に定番の劇伴となる。アトムの目覚めのシーンは特別に音楽を作っているかもしれない(あるいは使い回しているかも?)。
それにしても、あらためて、アトムの効果音のバラエティに驚く。大野松雄の仕事を集めたCDは何年か前に聴いていたが、映像をつけ文脈を加わえてみると驚きも新た。ハイウェイを急ぐホーバーカーの電子音やクラクションの早回し音が、独特の未来感を醸し出す。そのくせクラッシュの瞬間はジャーンと太鼓にシンバルだったりする。この新しい試みとカートゥーン文法とが新旧入り交じっているところが楽しい。工場シーンでも、最初はショスタコヴィッチで始まるのだが、その後は効果音満載と、やはり旧新まじっている。ちなみにアトムの第一話の足音は意外なことに、あの「ピヨ、ピヨ」ではなく「カツカツ」と固いものだった。
第四話「ゲルニカ」でもまだ足音はカツカツ。防衛庁長官が出てくるカットで、スイングやキューバンを使ったりレコードの早回しを使ったりしているところが音楽的にはおもしろい。遅くとも七話の「ロボットランド」であの「ピヨ、ピヨ」という足音が登場する。
第一話でいちばん好きなのは、アトムが飛行機を持って地球の昼と夜を巡り続け、カレンダーが回るところ。音楽は「アトムのテーマ」のワルツ版。あのカレンダーの数字がいいんだよなあ。手塚治虫の描く数字の字体は、子供の頃のぼくにとってとても「未来」で「宇宙」だった。鉄腕アトムの「W3」の、地球の運命について評決をとるシーンで、数字がかたかたと入れ替わるが、あの字体もとても地球離れしていた。
いっしょに借りてきた「リボンの騎士」(S42-43)を見て、冨田勲のもの凄さを改めて感じる。「鉄腕アトム」のようにあらかじめいくつかの劇伴を用意してそれをモチーフとして演奏したり流しっぱなしにするのではなく、劇の細かい進行や動きに応じて毎回そのつど作曲を行うという、いわゆるハリウッド劇映画音楽の文法なのだ。いや、ハリウッドだからエライというんじゃなくて、泣かせるメロディに乙女で少年な和音が「マ・メール・ロア」が好きなぼくのハートにどんぴしゃなのだ。というか、小さいときに冨田勲を聴いてたからラヴェルが好きになったんだと思う。「ジャングル大帝」(S40-41)と「リボンの騎士」はオープニングの見事さも含めてすごく「音楽が動いてる!」って感じがしたアニメだった。
「リボンの騎士」では、ときには剣のさばきのひとつひとつにまで音楽が合わされる。サファイアとチンクが落下するときは二人のテーマが別々に落ちる(たとえばサファイアは木管で、チンクはピッコロ一本で、という具合)。とてつもない仕事量だ。つまり、冨田勲の劇伴というのはじつは数限りなくバージョンがある。
こういう冨田勲の仕事と並行して山下毅郎の「スーパージェッター」S40-41(このテーマってじつはバンジョが使われてないか?!ところでぼくはProfesser Takeo Ymashita mission 1 に入ってる「冒険ガボテン島」S42の「飢えた一日」というトラックがすごく好きだ)や服部公一の「レインボー戦隊ロビン」S41-42(LDにサントラがもうええっちゅうくらい入ってる)があったり、小林亜星の「魔法使いサリー」S41-43があったわけだから、昭和40年代前半のアニメ音楽はとてつもなくヴァラエティにとんでいたことになる。東映動画や虫プロ、竜の子プロ、東京ムービーなどの初期TV劇伴がどう作られていったのか、とても興味のあるところ(冨田勲が使っていたキューシートって現存するのだろうか)。
日本のアニメ音楽を考えるには、戦前からTVアニメ前夜までの国産アニメーションの膨大な資料にも当たる必要があるが、こちらもなかなか手が出ない。分かっている範囲のことをメモっておこう。
政岡憲三「くもとちゅうりっぷ」S18(音楽:弘田龍太郎/ゆーらゆらぎんのーはーんもーっくー:ちなみにこの人は冨田勲の先生にあたる)や瀬尾光世・政岡憲三「桃太郎 海の神兵」(S20)(音楽:古関裕而)などは、作画のクオリティのみならず音楽とのシンクロ率もまた高い。以前、「そのとき歴史が動いた」で「桃太郎 海の神兵」が取り上げられたのを観てたら、「桃太郎」の日本語教育ソング「アイウエオの歌」のあとに「ジャングル大帝」のアイウエオソングを流すというスルドイ構成になっていて驚いた。誰のアイディアだろう。ともあれ、カートゥーン・ミュージックと比較するならむしろ同時代である戦前から戦後すぐのものが適当なのかもしれない。山口且訓・渡辺泰「日本アニメーション映画史」(プラネット編)の解説によれば、政岡憲三はすでに「べんけい対ウシワカ」(S14)でプレ・スコアリングを使っていることがわかるし、他にも同時期のカートゥーン音楽に影響を受けたとおぼしきものが戦前にいくつかあったことが伺える。少なくとも「あきれたぼういず」の芸を聴けば、カートゥーン音楽の劇進行に合わせてめまぐるしく変転するスタイルに対して敏感に反応する感性が戦前の日本にあったことははっきりわかる。
Lothlorien。ブラインド・ウォークのあとの森。雪に暗闇のあとだけにしみる。
茶店を出て黄昏を歩いているとジーンズの布目を貫くような寒風。対向車のヘッドライトの中で雪煙が横殴りに舞っている。
新年早々、景気の悪いSPAMメールが届く。
あなたの利用した、インターネット・アダルトコンテンツ利用料が未だ
に確認できません。
これまで、再三連絡を試みてきましたが、誠意ある回答も示されません
でした。
当社としましては、これ以上入金をお待ちする訳にはいきません。
つきましては、ここに最終的な和解案を示し、これでも尚、入金なき時は
断固たる態度で望む所存です。
・・・うんぬんといった内容で、「再三」とか「誠意ある回答も」などとこれだけ自信たっぷりに恫喝されると、身に覚えのないことでも覚えがあるような気がしてくるから不思議だ。昨年11月からかなり広範囲に広まっている詐欺メールらしいが(impressの記事参照)うちに来たのは初めて。「最終和解案」というタイトルがまた、もらった段階ですでに事が抜き差しならなくなっている感じで、実にイヤなところをついている。
夜、窓の外を目を凝らしてみると、街灯が隠れるほどの雪。積もりそうだ。
文楽チョキチョキガールズの山下さんのお誘いで国立文楽劇場に文楽を見に行く。文楽を観るのはこれが初めて。
まずは「祗園祭礼信仰記」金閣寺の段・爪先鼠の段。天井から桜の花がさがっていかにも新春らしい。冒頭、松永大膳が碁を打つところがあるのだが、ぐいと碁石をつかんで盤上に打ち込む手のひらの開閉、打ち終わって手首が上に返るのがおもしろい。単に人間そっくりというよりも、人の所作を分析的に見せられているような感じ。爪先鼠の段では、此下東吉こと真柴久吉が金閣の究竟頂(くっきょうちょう)に登り詰める場面で、金閣がぐいぐいと上に上がっていく大仕掛けに客席が沸く。
「壺坂観音霊験記」。冒頭、お里が縫い物を始めると会場がざわめきだし、その針さばきの見事さに拍手が起こった。主遣い(おもづかい)は吉田蓑太郎。左遣いは誰だったのだろう。夫婦がねっちり悲嘆に暮れて谷中に飛び込むという上方的夫婦の暗い話なのだが、観音様の力で二人とも生き返り、座頭沢市の目が開くとそこからはいともあっけらかんとヨロコビにかわる。明治期だったら谷の中から観音様登場の場面で、会場から南無阿弥陀仏の声がしたかもしれないな。生人形や節談説教などの観音信仰の芸とのかかわりを感じさせる話だった。「ソリヤ聞こえぬ聞こえぬ聞こえぬエエ聞こえませぬはいなー」ということばが頭にこびりついて離れない。「この世も見えぬ盲目の闇より、闇の死出の旅」というえげつないとも言えるくだりでは、「みいいいいいいいいえええぬううう」と見えないものをより見えなくさせる節回し。闇の「み」は「みいい、いいい、いいい、いいい」とより闇を深くする。義太夫にハマる人が多かったわけだ。
最後はおめでいたい「団子売」。
いずれの舞台装置も浮絵的だというのは発見だった。浮絵というと、つい浮世絵のような刷り物を思い浮かべてしまうが、こうした舞台美術のほうがむしろ大きさの点でパノラマに近い。
終演後、近くの中華料理屋にて、太夫と三味線の方をまじえて会食。入門の経緯や稽古のことなどあれこれ伺えた。
行き帰りの電車で、昨日買った電子辞典で遊ぶ。ジーニアス英単語2500というのがついていて、簡単な例文問題を解きながらボキャブラリを増やしていくという趣向で、入力方式テストと選択方式テストの二通りがある。入力方式テストをやってみると、スペリング能力や前置詞の知識がもう涙が出るほど低いことに気づく。disappointの綴りも書けない。がっくり。
指輪読書のために近くの電気店で電子辞書を探す。これまでは、パソコンのHDに仕込んであるリーダーズとAHDでいいやと思ってたのだが、喫茶店で読書するのに分厚いペーパーバックにラップトップまでげたのではコーヒーカップを置くスペースもなくなってしまう。電子辞書はいろいろ種類がある。英単語年代記OEDで指輪年代記を読んだら楽しそうだ(そして死ぬほど時間がかかりそうだ)と思ったが、さすがにOEDまるごと一冊が電子辞書に入ってるというのはなかった(トールキンはかつてOEDの辞書編集にかかわっているのだ)。手頃な英英と英和が入ってるやつ、という条件でキャノンのIDF-2000Eにする。OALDとジーニアスが入って卓上サイズ、値段も手頃、とどめは、あの戸田奈津子お勧め! 戸田奈津子の字幕に征服されない頑強な無欲さを持つもののみがこの辞書を携えることができるのである。
というわけで、喫茶店卓上にIDF-2000Eを置きつつ指輪読書。A journey in the dark, The Bridge of Kazad-Dum. 雪のあとは暗闇か。読みながらいい意味で疲労困憊。読書時間がダンジョンを味わせるだけの長さを持っている。
夜、NHKをつけたら今日はS&Gだった。昨日と似てるな。いつも同じ時間に自分はTVをつけてしまうのだろうか。セントラルパークのライブで、最後に「サウンド・オブ・サイレンス」。ポール・サイモンは一万人の前で歌うことになると思ってこの曲を書いたわけではないだろう。が、「ten
thousand people, maybe more」というところで、それこそ何万人いようかという観客から拍手。そして人々は「People
talking without speaking, People hearing without listening」 のpeopleとなるべく静まっていく。声を分かちあうことなく詩を唱える。「そして誰もサウンド・オブ・サイレンスを破りはしない」という歌を実現すべく。実際には少しざわめいていたが、しびれる場面だった。
姪を泣かせてしまう。経緯はこうだ。
母と二人の姪と私とで七並べをした。下の姪はまだ小さくて七並べのルールが分からないので、母に助けてもらいながら札を出す。第一戦は母の助言もあってその姪が勝った。せっかく勝ったので勝者から敗者への罰ゲームをすることにした。一位以外の者が右の手のひらを重ね、一位のものがシッペをする。その瞬間にすばやく手をひっこめ、ひっこめそこなった者がシッペを受ける。私は手を引っ込め損ねて見事シッペを受け、姪はこの変わった罰ゲームにご機嫌だった。
一度花を持たせたので、二戦めはイジワルな札の出し方をして(つまり6や8を止めて)私が勝ち、下の姪は3位だった。少しふくれていたが、その時点ではまだ泣いていたわけではない。ここで私は年上の常として、サッカーボールにツバを吐きかけるブラジル選手のように右手のチョキにハアとわざとらしく息を吐きかけて呪いをかけ、いかにもこのシッペは痛いのだという演出をした上で、振り下ろす手はごく軽く、ぴしりとやった。下の姪が一瞬手をひっこめるのが遅れた。「誰がしっぺされた?」と母がたずねると、下の姪はいちばんに「わたしじゃないよ」と答えた。上の姪は「あれ、でもわたしでもないよ」と言った。私は結論をあいまいにしたままでもいいかと思いながら札を繰り始めたが、上の姪はまだ腑に落ちないようだった。両手のひらを重ねて母に「ちょっとしっぺしてみて」という。そしてしっぺされた右手の甲を見ながら「あ、こっちじゃないよ。この下の手の方の感じだったよ。」と今度は左手の甲を見る。つまり、自分の手の上にあった手のひらがしっぺされたことを実験によって明確にしたのである。小学2年生のくせになんと末恐ろしい娘だろう。そして下の姪が顔を崩して泣き出したのはこのときだった。5才のくせに、実験によって自分が負けん気で言ったウソの退路が完全にふさがれたことに気づいたらしい。ごうごうと泣き出して止まらない。異様な声に台所から姪の親である私の妹がやってきて、事情を聞いてから肩を抱いて娘をあやし始める。ただなぐさめるのかと思ったら、妹には花登筺の霊がとりついていた。「あんな、負けたら悔しいやろ。悔しいとおもったらな、今度はちゃんと勉強するんや。七並べを勉強しておじちゃんを負かすんやで、な。」なんという恐ろしいことを教えるのだろう。下の姪は燃えるような瞳で私をにらみつけた。この恨みが積もり積もって積年の怨みによって私はやがてこの姪の足下に倒れるのであろうか。いたたまれなくなって、隣の部屋に退散することにした。
30分後、姪は「アホの踊るバレエ」という創作舞踊を始めていた。目を半開きにして、右手右足、左手左足をかわるがわる二回出してから、ばたばたと暴れるというアヴァンギャルドな踊りだった。私が隣室からクルミ割り人形のメロディを歌うと、姪はアホの踊るコンペイトウの踊りを踊った。そこで私は移動して、姪と差し向かいでコンペイトウの踊りを何度も口ずさんだ。和解は成立した。いや、成立したと思ったのは私だけで、じつは姪は、ふつふつと復讐の炎を胸で燃やし続けているのかもしれない。
彦根へ。車中指輪。The ring goes south. 休憩の少ない旅。しかも雪。
夜、NHKをつけたらカーペンターズをやってた。カレンのドラムは、すとすとすと。とてもタムの音が軽い。叩くというより必要な音をさわっていく感じなのだ。
午後1時起床。梅茶を飲み、雑煮を食う。賀状を見る。数年前からこちらからは一枚も出していない。今年は返事を書くのが10枚くらいになりそう。
実家に帰る。弟が来ていてあれこれ話す。
夜中、指輪。Counsil of Elrond。最初はあれこれ紹介が多くて閉口したが、ガンダルフのエピソードのあたりからぐいぐい読み進む。