2008年4-6月
朝日新聞be(日曜版)「心体観測」に「漏れる動作」を連載。
ハンドメイド豆本(ハガキの半分の大きさ)、管の歌は、ガケ書房@京都、Lilmag storeにて。
dotimpactさん作のRSSを使って、この日記を快適表示!→詳しく
認知心理学会大会一日目。いつもは現象発見的アプローチばかりしているので、実験計画がしっかりした発表をあれこれ聞くのは楽しい(でも自分ではやらない)。
午後は城さんとの連名発表。10分で会話とジェスチャーの分析を説明するのはちょっと無理があるかも。次からはポスターかなあ。
招待講演は岡ノ谷さん。世界言語を構築する、という野望が最後に表明されて驚いた。大きく出たなあ。
懇親会で岡ノ谷さんと話していると、横にファッショナブルな紳士が。名札を見ると、高野陽太郎先生だったので、突然ミーハーとなりご挨拶申し上げる。
その昔、認知科学選書で読んだ高野先生の「傾いた図形の謎」は、メンタルローテーションの諸説を推理小説のごとく検討していくスマートな本で、門外漢にもぐっとくる内容だった。その頃は、まだ動物学教室にいてシャクトリムシやトンボを追いかけていたので、まさか自分が空間表象の研究をするとは思っていなかったが、ジェスチャーをあれこれ考えるうちに、いつの間にか、身体枠問題を扱うようになっていた。
日記を読み返したら、2002.11.18の日記で、「鏡の中のミステリー」について考えているのを見つけた。この頃からあれこれ考えていたのか。自分でもすっかり忘れていた。
モバイル環境を変えた。いろいろ迷ったが、イーモバイル社のサービスにする。これまでより料金が安く、しかもぐっと早くなった。Twitterがさくさく更新される。京都に行く電車の中で、Twitterを使って久しぶりにDifferent Trainsをやってみた。
京都へ。文化人類学会に来ておられる乾先生と話。乾先生は戦争柄の着物コレクションをほとんど私費をなげうって買っておられる。コレクターとしての苦労話や、戦争柄のいろいろなど。
東京へ。明日の学会のため。夜半過ぎ、アメヤさん、コロスケさん、コドモちゃんと寿司。コドモちゃんはどんどん頼もしくなる。
ゼミ三本に講義。統計学は毎年、「標本平均の分布」のところで、学生の顔が「えー?」という感じになる。ものの大きさや重さの分布というのはわかりやすいが、「平均を何度も測ってそれを分布にする」というところがちょっとつまずくらしい。これまで、平均といえば一つの集団に一つと決まっていたから、母集団から何度も標本をとって、そのつど平均を取る、というような考えに出会うと面食らうのだろう。
統計学はアリの目線、という話をする。鳥の目線ですべてを把握するのではなく、あくまで地べたのアリのように、手元にあるものだけを手がかりに、鳥の目線だったらどう見えるかを推測するのだ、という教訓話のような説明。
データ分析とトランスクリプションで一日暮れる。先日、高梨くん、城さんと離しているときに、エディタの一行にムービーの一コマの情報を割り当てるというアイディアを思いついたのだが、いざプログラムを組んでみると、ちょっと冗長で使いにくい。やはり、開始時刻、終了時刻、アノテーションがセットになっていたほうがわかりやすいようだ。
これまで使ったさまざまなソフトで、画面構成上いちばん理想に近いのはWaveSurferなのだが、操作インターフェースがいささか煩雑なのと、映像と音声のシンクに不安があるのと、Macでは日本語が使えない点が難点(けっこうたくさんあるな)。細々した機能はいらないので、とにかく波形と動画が同時に扱えて、カーソルがすいすい動き、テキストがずんずん打ち込めるソフトが欲しいなと思う。
なければ自分で作ればいい、と云いたいところだが、もうプログラム脳が退化してるので若い有能な人にまかせたいところ。
講義に会議。火曜日はこのところ毎週、朝日の原稿があるので、一週間がまわってくる感覚になる。
朝イチで彦根に戻る。実習三つと会議。
一回生の実習で、大学そばの木和田神社について調べてもらう。正門のすぐ脇にあるのだが、「いままで気づかなかった」という人が多い。バス乗り場や自転車置き場に一直線にやってきて、その途中は寄り道しない、ということが多いのだろう。これを機会にあちこち大学の近所を散歩する癖をつけてもらおう。
ジェスチャー研究会@京大。帰りに高梨君とちょっと食事。夜、zanpanoに行き、浮田さんの絵を見る。
百人は入っていただろうか。酒游舘には何度か来ているが、これほど客が入っているのを見たのは初めて。
最初は姜泰煥、大友良英のセット。姜泰煥の音が倍音をはらんではしぼむのをしばし聴いてから、大友良英の鋭く低い弦のアタック。そこから、モジュレーションの波が膨らんでいく。
モジュレーションの音の太さは、何かが高速で安定していることのもたらす太さだ。
発振するものと共振するものとがある距離をとったときに、互いにやりとりする音の波が、束の間の定常状態を得る。ギターとスピーカーとの距離を変えると、波はにわかに粘性を帯びるので、高速の振動でできたその束を、束ごとつかんでたわめ、歪めることができる。
二人の組み合わせは初めて見たが、倍音を出し入れする姜さんのサックスの音が大友さんのモジュレーションの音にとても近いのに驚いた。ときどきどちが鳴らしているのかわからなくなる。
最近、「誰が鳴らしているのかわからなくなる」という表現をよく使うのだが、これはどうもこのところの大友さんのプレイを考える上でひとつのキーになっている気がする。まるで自分が思いついた音であるかのように相手の音が鳴り、まるで誰かが思いついた音であるかのように自分の音が鳴る。たわめられることとたわめることとが入れ替わる。斬りながら斬られている。
第二部は姜泰煥、大友良英、田中泯。
酒蔵の壁は、柱と漆喰でできており、そこにジーパンとジャケット姿の 田中泯が貼りつくと、柱はガクブチのように見える。ガクブチをまたいで手が伸びる。中腰のまま、ガクブチからガクブチへ。ガクブチ越境。柱がガクブチになるように体を置たから、柱をまたぐと、境を「越える」ように見える。
まず収まる身構えがあって、そこから思いがけなくひょい、と境をまたぐ速さがある。それで、「越える」ように見える。ジャケット姿のせいもあって、どこか探偵のように見える。
不思議なことに、そこから自分の近くに踊りが移動してきたあたり、記憶が飛んでいる。気が付くと、もう田中泯は正面に戻っていて、それまでの激しい動きは止んでただの白目を剥いた老人のようになった。それは憑きものが落ちたというよりも、また新たな別の憑きものがついたようだった。
IAMASで特別講義。メディア文化論という講義枠だったのだが、ジェスチャーと表情研究の話をひとしきり。アンケートを見る限り、まずまずというところか。あとで、何人かの学生さんに呼び止められてあれこれ話す。三輪さんとも久しぶりに話した。
終了後、呼んで下さった前田真一郎さん、IAMAS前川さん、学生さんとでうなぎ屋に。ひつまぶしが旨かった。途中でちょっとうとうとしながらしゃべってしまった。
ゼミ三本と講義。へとへとになって帰宅したものの、笑いシンポジウムの原稿が切迫している。遅れまくって迷惑をかけていたのだが、もうどうしようもなくタイムリミット。徹夜でなんとか仕上げる。
大津歴史博物館へ。来年の初めに行う木版絵はがき展の打ち合わせ。これまでいまひとつわからなかった大正・昭和趣味人のネットワークがようやく見えてきた感じ。歴博の木津さん、そして昨年知己を得た藤野滋さんとあれこれお話できるのが楽しい。
書きそびれていたけれど、藤野滋さんの「彦根藩士族の歳時記—高橋敬吉」は、明治期の藩士族の日常生活の匂いをかぐことができるような、なんともしみじみとした名著である。手書きの日記を書き起こすのは、手間暇のかかる仕事だが、一種の写経ににて、書き写すその内容に、こちらの心情が染まっていくようなところがある。言い換えれば、その本にこちらの心情を沿わせるような人でなければ、書き写すことはできない。この繊細な日記を書いたのは高橋敬吉(狗仏)なのだが、同時に、藤野さんの人柄が偲ばれるようだ。
博物館の帰りに、その藤野さんのお宅にお邪魔して、さらにいろいろお話。絵はがきや紙ものをあれこれ拝見し、楽しい夜を過ごす。
帰ったら原稿が待っている。三時まで夜なべ。
講義に会議。夜、学部の懇親会。酒をセーブして、帰って夜なべ。
昨日、藤本さんが歌い終わってから、しばらくぼうっとしていたら、隣の部屋から、からからという音が聞こえだした。覗いてみると、しおりちゃんが向こうをむいてアンクルンを揺すっているところだった。膝に楽譜をおいて、楽譜と竹とを交互に見ながら、両手でからから、からからと揺すっていく。演奏しているというよりは、竹に籠もっている音を静かに起こしているようで、音が起きると、もう用は済んだというように、手が離れる。余計な音がしない。
曲が終わるとぱちぱちと拍手が鳴る。観客がいたらしい。こちらから死角になっていたのでわからなかった。なんだか客がいるように見えなかったので、意外だった。
電車の中で、東京でモモちゃんにもらった『少女と少年と大人のための漫画読本2007-2008』。
取り上げられている漫画は、いましろたかしを除いてほとんど読んだことがないのだが、なぜかじつに気持ちよく読める一冊。編集が行き届いているからなのだろう。レイアウトも、あちこちに盛り込まれたイラストも、愛らしい一冊。
普段読まない漫画に手が伸びそうな気がしてくる。それにしても、よっちの表紙、いいなあ。
東京から神戸へ。「音遊びの会」のトロンボーニスト、藤本優さんが陶器展をやっているというので拝見しにいく。海辺を見下ろす旧グッゲンハイム邸の窓は開け放たれて、陶器と海が相対しているよう。
お母さんとお話していると、藤本さんがてくてくとやってきて、いきなり海に向かって歌い出した。
きみはおぼえて いるうかしら あのおしろいいぶらんこお
澄んだテノール。どこが気持ちよくて歌っているのかよくわかる。
一番を歌ったところで何人かが拍手したけれど、藤本さんは最後まで歌わなければ気が済まない。
「白いブランコ」、それから、「せいくらべ」、「千の風になって」。もちろんどれもフルコーラス。
「せいくらべ」の二番というのを、初めて聞いた。山の背比べなのだな。背の高い藤本さんは山のようで、目の前は海。
「千の風になって」の最後に、ちょっとポルタメントがかかるところがあって、藤本さんはそこにくると声をぐうっと伸ばして歌う。
この曲を聴いていいなと思ったのは初めてだった。
拍手するとまた「せいくらべ」が始まったので、お母さんが「もういいよ」と肩を叩くと、藤本さんはスタスタと隣の部屋に歩いていった。
吉祥寺バウスシアターで、かえる目ライブ+「喜劇 とんかつ一代」上映会。
あいかわらず懸案の仕事はできていないが、以前から決まっていた「とんかつ一代」ライブはやらなくてはならぬ。
というわけで、新幹線の中で作詞作曲、無事、「とんかつ岬」が完成した。まだアレンジがこなれていないけど、いい曲だ。一週間ほど前に作った「とんかつ飛行」そして今回は演らなかった「とんかつマスター」と合わせて、「とんかつ組曲」ができそう。いや、むしろ、「組曲とんかつ」もしくは「組曲という名のとんかつ」というべきか。
驚いたのは、初めて見た「とんかつ一代」が、意外にも妄想で作った曲の世界とそれほど違っていなかったこと。とんかつの芥子を耳かきみたいな匙ですくうところや、二階に決まった席がある感じ、あとで中尾さんと「あってましたねー!」。
しかしよく考えたら、歌づくりは、答え合わせではない。
「とんかつ一代」では追いかけっこがよく出てくる。カメラが家族の喧嘩を追いかけて、ずんずん移動する。そして、人物たちがカメラの奥に逃げていき、もう追えない、というところで、カメラは止まって、その顛末を写す。追いかけっこがカメラの奥に消えていき、顛末の最後はわからない。そこの、見とどける感じがいいなあと思う。
爆音で見る意味があるのか、という意見もあったかもしれないが(もちろんプライベート・ライアンみたいな地響きは出てこないけど)、音のすみずみがわかってすごくよかったなあ。あの獣の声といったら!
いまでも、銅像を指で弾く音を思い出しただけで頭を弾かれている気がする。クロレラ研究音楽もすばらしかった。
高宮のとあるお宅にお邪魔する。近く家を譲り渡すにあたって絵はがきを処分される、との話を聞き、それを譲り受ける話をしに行った。ついでに蔵の中を拝見すると、いろいろ生活用品があるので、面矢先生と濱崎先生に電話して、急遽来ていただくことに。即席鑑定団といったところ。濱崎先生は建築が専門。来るとまず仏壇の引き出しの裏をひっくり返す。仏壇というのはたいていその家が建ったときから同じものを使っている。古い仏壇の引き出しには作られた年月日が入っていることがある。それをみれば、建物の建った年代が分かるのだという。なるほど。
蔵の中をあちこち探したところ、先々代の方が書かれた日誌も出てきた。これと絵はがきを照らし合わせれば、どんな人がどんな状況で絵はがきを集めたかが分かる。すばらしい。
ゼミ日。3回生、4回生、院生がそれぞれ別のゼミなので、なんだか一日映像を見てゼミをやってるような感じがする木曜日。間には統計学基礎の講義もあり、いつもながらハード。
故あって、ヴィゴツキーの受容史を勉強する。ヴィゴツキーは内言と書き言葉について多くの論考を残している。書き言葉の発達というのを、鉛筆の持ち方の発達という即物的な視点から考え、そこからヴィゴツキーに接続することはできないか。
遅れに遅れている月刊言語の原稿。もう一息。
講義・ゼミ・会議。合間に朝日の連載原稿。週刊の連載は〆切が来るのが早い。もう一週間が過ぎたのかと思う。
今日の実習のテーマは行動の微細な観察。今年は、ペンの握り方をネタにすることにした。
お互いに向かい合ってもらい、ペンの握り方、書くときの手の動きをできるだけ細かく記述してもらう。さらにペアで得た観察を、1班6人で共有し、簡単なタイプ分けを行ってもらう。タイプ分けをするときには何を基準(尺度)にしたかを考えてもらう。
最後の一時間で各班にプレゼンしてもらって終わり、のつもりだったが、思いがけず細かい観察が次々に現れて、各班とも熱演してくれた。結局時間を延長。
ある発表者が「むかし、○○グリップを使ってたときは」と言ったので、その○○グリップというのは何?と聞いたら、鉛筆の持ち方矯正器具なのだそうだ。試みに全員に聞いてみると、驚いたことに、ほとんどの学生が、小学校時代に持ち方矯正器具を使っていたらしい。
にもかかわらずほとんどの学生は、この正規の持ち方からずいぶんと違った持ち方へとシフトしている。
毎年、鉛筆の握り方を見ているが、いわゆるお手本通りの握り方をしている学生はいつも少数派だ。そもそも、お手本の握り方が、ほんとうに書きよい握り方なのかを考え直してみてもいいかもしれない。
沼 360:プレゼント
寝る前に、10分ほどしゃべる。以前はナロウバンドだったので、アップロードが面倒だったが、3月にようやくブロードバンド化したので、数Mのファイルがひょいとアップできる。
沼 359:田中泯、小学生と相対する
NHK「ようこそ先輩」の田中泯の会を見て。
沼 358:ひさしぶりにおしゃべり
「ラジオ 沼」は、ココログのページに移動しております。
http://12kai.cocolog-nifty.com/gesture/
古い音源の一部は、http://12kai.com/numa/に。
昨日の部屋片付けの際に、昔作ったビデオを発掘。
つい最近再オープンした「ギャラリーそわか」の展示用に作ったもの。
七年ぶりに見直してみたものの、どんないきさつでこんなものを思いついたのかほとんど思い出せない。
始末に負えないものこそネットにアップすればいい、というわけで、以下にアップ。YouTube初アップロード。
Kaleidophonex
・・・と書いてから日記を見直したら、いろいろ作ったいきさつが書いてあった。そうか、NHKのインパク用に原稿書いてて思いついたんだ。インパクって!
200107b.html#20010722
http://www.nhk.or.jp/school/netabra/lesson/movie/04-1.html
http://www.nhk.or.jp/school/netabra/lesson/movie/04-2.html
http://www.nhk.or.jp/school/netabra/lesson/movie/04-3.html
彦根男女共同参画センターの大久保さんが来て、夏休みの親子大会の話。一九一九かるたをやることに。はじめは「インド式かけ算を」というご依頼だったのだが、別の話に。
夕方、会議の時間に部屋に行ってみると誰もいない。もしやと思って事務で聞いてみたら時間を間違えていた。しかしiCalには、確かにその時刻でつけてあるのだった。ということは、自分が入力ミスをしているということになる。一昨日といい今日といい、どうもおかしい。iCalへの入力ミスがなぜ起こるのか考えてみなくては。
見たい資料が出てこないことがあまりに多く、とりあえず、本棚から半分はみ出している本を片付ける。原稿が書けないときのさまざまなじたばたのひとつ。
一日ゼミ&講義の日。他の部屋で割と使われていなさそうな液晶テレビを借りてきて、実験室の分析用にする。これでぐっと楽になった。5限目のゼミのあと、卒論生の一人の誕生祝い。学生のさまざまな恋愛事情を聞き、ほええ、と驚くことしきり。どういう文脈かは失念したが、「口ずさめよ!」と突っ込むとえらく受ける。「口ずさめ」という命令文はそういえば、普段使わないな。
休み中に貯まっていた大学の仕事を片付けていたら、ゼミ生が「今日のゼミは・・・?」とやってくる。どうも時間を一コマ間違えていたらしい。休みぼけか。
コーヒーを飲んで、パンを食って原稿を書く。
工藤冬里・工藤礼子の演奏のあと、篠田昌已の記録映像。
最初のインタヴューでいきなり、がははは、と独特の笑い声が響いて、あ、中尾さんだ、と思う。
篠田さんの、近くで吹いているのに遠くで震えるような、独特のヴィブラート。
初めて見る映像がほとんどだったけど、意外にも、「バブル」ということばが思い浮かんだ。
東京チンドン前夜、1987年の若い演奏家たちには、まだ、フレーズをキメることへの志向が表れているように見えた。
いっぽうで、最後に流れた篠田昌已ユニットの演奏には、コンポステラと東京チンドンを予感させる隙間、人を招き入れて歌を鳴らすための隙間が感じられる。
フレーズをきめることと、ユニゾンすることの間にある、近くて遠い溝のことを考える。あなたとわたしが同じ歌を知っている、という驚きを保ちながら、どうすれば遠くまで歩いていけるか。
原稿日。
なかなか考えが散らばってまとまらないので、久しぶりに墨を擦って臨書をする。「雁塔聖教序」をとにかく書き進める、という方式。途中、「洞」の字があることに気づく。「洞」の字は、洞口の輪郭を表すように口が囲われていて、書いているといかにも象形文字らしく感じられる。接筆を空けると、そこから洞水がちょろちょろと漏れてさんずいになる心持ちだ。
ちょっと大きめに「洞観」と書き、落款がわりにコーヒーの消しゴム判を押す。
小山田さんの展示をやってるギャラリーにお土産がわりに持って行ったら、これで参加しませんかと言われて、ぽっかり空いたスペースに貼っていただくことになった。というわけで、いま行くと、私のヘタクソな習字が貼ってあります。
そこに突然、鳥の顔をした細身のガイジンが入ってくる。あまりに突然だったので、誰だかわからなかったが、まじまじとこちらを見て「ヒロミチ?」と聞くので、ようやくジェラルドだとわかった。なんだ、ジェラルド、久しぶりだ。
例によって、宿のあるようなないような自転車旅を続けているらしい。結局、うちに泊まることになった。最近は京都芸大の学生たちとガリ版をやっていたらしく、明日もガリ版伝承館に行くという。「大枝アートプロジェクト」のページに彼の写真が載っていてるんだけど、ぼくと会うときはいつも突然で、旅の途中で風来坊だ。
お土産に一枚ガリ版をもらった。あまり書き込み過ぎない、いかにもジェラルドらしい構成で感心する。
小山田さんの「実測図」を核に、小山田徹・吉田龍一・大西伸明・サカネユキの四人がそれぞれの方法で世界を測定・複製しようとする試み。
実測図、というと、いかにも世界を正確に記述したもののように響くけれども、そもそも測定というのは、世界の中から数値を取り出す作業であり、世界の縮約だ。縮約することで世界を異なった形で見せる。
だから、同じ実測図を描いても、何をどのように縮約するかによっていろいろバリエーションが出る。たとえば、小山田さんと吉田さんの描いた、同じ洞窟の実測図を見ると、小山田さんが3次元の形状をいろんな手管で二次元に載せようとすることにこだわっているのがわかるし、逆に吉田さんが、いかに洞窟にいる身体を二次元で伝えようとしているかがわかる。
実測されているのは、洞窟、漂着物、日用品などいろいろ。
ひとつ、実測の対象として、ブリキでできた折り鶴が置いてある。ちょっと不思議な感じがした。
折り紙には、大きく分けて二つの行程がある。それは「折りをつけるための折り」と「形をつけるための折り」だ。前者の場合、折ったものをいったん開いてしまうということになる。
しかし、ブリキで折り鶴を作るとしたら、この作業はとてもわずらわしいものになるだろう。だって、ブリキの場合、一度折ったものを開いてまた折るにはあまりに素材が固いし、それに金属疲労の原因にもなる。
とすれば、折り紙とは違う、ショートカットの折り、折りをつけながら同時に形をつける折りというのが存在するはずだ。
小山田さんに聞いたところ、折り鶴というのはブリキ職人の腕を見せるための一品で、よくショウウィンドウなどに飾ってあるという。折り紙だと最後に鶴の胴体にふっと息を吹きかけるのだが、ブリキだとコテ先を腹から突っ込んでふくらみをつけるそうだ。
一度作るところを見てみたいものだ。
その他、まだ開催中だから詳しくは書かないけど、いろいろ考えさせられる展示。6/1まで。
現代美術収集家としても名高い岡けんたさんも来ておられた。ええ声は出しておられなかった。
夜、オープニング・パーティー。オオヤさん、さーちゃんたちの、やたらおいしい手料理が振る舞われる。あちこち談笑と妄言。かつて地塩寮で行われていた「ウィークエンド・カフェ」を彷彿とさせる。
久しぶりに「ラジオ 沼」を吹き込む。今月17日の爆音映画祭の告知に加えて、「meat is murder」を歌ったスミスの歌い方で、とんかつを言祝ぐというバチ当たりな試み。モリッシーの歌い方は、肉を食べようと食べまいと感染力が高い。つい真似てしまいたくなる。
http://12kai.cocolog-nifty.com/gesture/2008/05/eat_is_murder.html
朝からずっとビデオを見る演習や講義が続いて、五限目になったら、もうどうにも目を開いていられなくなってしまった。ビデオを見ているとすぐにピントがぼけてしまい、そのままがくっと落ちてしまう。すぐに、あ、まずいまずいと思ってまた目を開けるのだが、またがくっとなる。あまりにひどいので、研究室に戻って目薬をさしたが、あまり効果はなかった。
もう、モニタを凝視する作業は長時間できないということなのかもしれない。少しでも楽になるために、いいモニタを導入しなければ。プラズマか液晶か。