- 19990130
- ▼池波正太郎のうまいもの話にはいろいろあるが、たいていは、うまい飯があってうまい素材があって、飯に素材を突き込んで醤油をたらしてかきまぜる、といったごく簡単なものだ。▼そこで、いかにも池波正太郎風なのをひとつ作ってみよう。▼まず、ちりめんじゃこをごま油で炒める。このときたっぷりきざみネギを加える。じゃこがあまりかたくならないところで火を止める。
「肴になりますかな、こんなものが」
「うふ、ふふ・・・」
飯にのせ、醤油をさっとかけていただく。
「うまい!!」
のひとことが出るかと思って待っていると
「妙な・・・」
である。
(なんということだ、おれとしたことが)
である。
▼さらに、ちりめんじゃこを揚げた油を洗わずに、それで卵を炒る。少しだけ塩をする。じゃことネギの風味が卵に移る。
(これは・・・)
である。
(してやられたわい)
思わず舌打ちが出る。
▼で、あいかわらず「存在論的・郵便的」を読んでいる。どうもこの本を読んでると、あれこれ考えが散って(それとも、いろんな電波が聞こえてくるので、と言おうか)まだ一章。こういう本をすっと読み通そうと思うと、それこそ、いったんパフォーマティブなことばをコンスタティブにかっこにくくるべし、と腹をくくらなければならない。ぼくにはくくる腹もないので、だらだらと読む。▼会話に現れることばの運命。会話はパロールの代表でありながら、会話にはエクリチュール的な現象が現れる。▼たとえば、「したがって私たちがここで問題にすべきは、かつてあった多様性の抑圧ではなく、もともとなかった多様性が事後的にあったかのように見なされてしまう現象、つまり散種の多義化である。」という文に見られる、異なる時間からの視点移動をめぐる考えは、そのまま、会話の「話題」について言える。「したがって私たちがここで問題にすべきは、かつてあった話題の抑圧ではなく、もともとなかった話題が事後的にあったかのようにみなされてしまう現象、つまり会話の多義化である。」
▼デリダ流の、パロール/エクリチュールの区別は、もはや、音声/書き言葉、という区別を離れつつある。▼たとえば音声。このサンプリング時代では、音はいちいちもったいをつけてかっこにくくられ、ぺらぺらのぺらであることを保証される。パフォーマティブなフレーズはコンスタティブなかっこに入れられ続けたあげく、「ああ、例のアレ」的な納得さえ生みつつある。つまり、サンプリングというジャンルの中で、貧しいパフォーマティブな機能さえ担いつつある。むしろ、困難なのは、ひとつの音声のもとに多様性が見出されるという運動、つまり「多義化」だ。だからこそ、大谷安宏氏の仕事が新鮮なのだ。多義化の許されない場所で多義化を行使する音声を考えること。あるいは、何がかっこにくくられたかもわからぬほど、超イントロクイズの勝者にも答えられないほど、あっけないサンプリングを考えること。▼たとえば打ち言葉。キーボードを介して表音と直結し、さらに、チャットという時間の中に投げ込まれ、決まったフォントで表示される。そうした場所での打ち言葉を、音と書のどちらに分類するのか。▼「失敗」「間違い」について。「失敗」「間違い」ということばは、事後的な視点から見出される。それを現在から問えば「失敗可能性」とか「間違い可能性」といった持って回った言い方になる。この前の藪田氏のミスジチョウチョウウオの発表で、彼はミスジチョウチョウウオが尻尾を上げる行動を、単なる「間違い」と記述することに抵抗した。それは、チョウチョウウオが行動した時点では、それは「間違い」として捉え得ないからだ。▼「失敗」は事後的に表れる。しかし「失敗可能性」が予見される。いや、すっぱり「賭け」といえばよいのではないか。
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