- 19990321
- ▼今日も寒い。が、自転車を借りて東京巡りをすることにする。うっかりポケット版の東京地図を忘れてきたので、かばんに入ってた「広重の大江戸名所百景散歩」(人文社)をときどき開いて目指す場所を確かめることにする。とは言っても、特にあてがあるわけではない。▼とりあえず浅草から南へ。両国のあたりでゆかしそうな公園があるので入ってみる。旧安田庭園。看板の池の形を見ると、明らかに琵琶湖をかたどったものであることがわかる。ということは、このベンチあたりはさしずめ彦根か。彦根イン東京。そういえば不忍池も琵琶湖をかたどったものなんじゃなかったっけ。隅田川から水を引いて潮の満ち引きで景観を変えるという趣向の庭園だったらしい。そのミニ琵琶湖をわずか数分で一周する。レイクサイド住民としてはイッツ・ア・スモール・ワールド的気分。小高い丘は石山寺?
▼さらに川沿いに下って深川萬年橋。ここから富士が見えたってんだからうそみたいだな。いまは¥ショップ武富士の看板が見える。▼富岡八幡宮。広重の絵では水と丘の織りなす美しい庭園だが、いまでは傍らの神社に池があるくらいで、東京は乾いて候。水水水。水はどこだ。
▼そぼ降る雨の中を水路沿いに上がって江東観水館を右に木場に抜け、MOTへ。まず下のスタジオへ。森本誠二展。室内で起こった音は録音され、フィードバックとエフェクタによって倍音の粒子へと摩滅していく。あちこちのポイントでホーミーをうなったり紙をくしゃくしゃにしてみる。周波数という垂直軸上に音が千切れるのを、時間軸上で聞く。
▼「アクション−行為がアートになるとき−1949-1979」展。ヨーゼフ・ボイスの黒板。消されるように書くことば。書く時間と消す時間。今度黒板を使うとき考えてみよう。田中敦子の電気服が点灯するときにタイマーボックスが、ばく、と鳴る。チェコの非合法ライブ「Aktual band」の、ジミヘンをフラットにしたような音。「カッティング・ピース」で、下着にハサミを入れられて無言でとまどい胸をおさえるオノ・ヨーコ的アクシデント。西洋的アクションは、いかに血と祭礼に依拠していることか。それに対して日本の祭礼色の希薄さ。逆にアクションの一撃から祭礼が始まるよう。昨日読んだ白川静が引いてた臨済のことばを思い出す。「孤輪獨り照らして江山静かなり 自ら笑ふ一聲して天地驚くを」。
▼MOTを出てあてずっぽうに走ると軒先に杏の咲いている店があって自転車を止める。引き戸を開けると奥は畳席になっていた。蕗の薹のてんぷらがうまいったら。しかも安い。深川江戸資料館通りの日吉屋。
▼雨はなおもそぼ降る。新大橋を渡りそこから浜町、浅草橋、神田川を渡って、さすがに体が冷えるのでドトールで一服。下町をずっとたどってくると、秋葉原の喧噪はいつもに増して異様に聞こえる。完全に異世界。いつもならここで長居をするところだが今日は素通り。神田明神へ。高台はさぞかし昔は見晴らしがよかったはずで、「神田明神曙之景」では東に見渡す限り甍の波が描かれている。▼神田明神を舞台にその坂を上り下る話といえば、泉鏡花の「売色鴨南蛮」があって、東に張り出した明神坂下の妾宅から見た風景はこんな具合だ。
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肘懸窓の障子を開けると、颯と出る灰の吹雪は、すッと蒼空に渡って、遙に品川の海に消えた。が、蔵前の煙突も、十二階も、睫毛に一眸の北の方、目の下、一雪崩の崕に成って、崕下の、ごみごみした屋根を隔てて、日南の煎餅屋の小さな店が、油障子も覗かれる。(泉鏡花「売色鴨南蛮」
▼北も東もいまはビルばかりで、本殿裏の駐車場からオノデンの看板が見えるくらいのこと。▼「パノラマ」という単語にひかれて資料館を見る。パノラマというよりジオラマだったが、片目で遠ざかってみると、遠近見晴らす気分がでないでもなかった。あとは将門ゆかりの資料、神田祭ゆかりの錦絵など。
▼湯島聖堂。大成殿の四角い空白。
▼広重の絵を見ながら巡ると、東京は負の磁力に満ちている。むろん、大震災と空襲でリセットされた街だから、でもある。が、それだけではない。高さを求めることで、眺望を失った街。いや、正確には、眺望の予感を失った街というべきか。一歩一歩、坂を階段を上っていくごとに木々の切れ目の移り変わりがもたらす眺望の予感。▼エレベーターで性急に高さを得る味気なさ。今年になって大阪・東京・横浜に相次いでできた観覧車は、その緩やかさによって、いわば眺望の予感の復権をもくろんでいる。▼そういえば昨日NHKで深夜にやってた「映像の20世紀」東京都前後編は、取り戻せないものを痛むあまりに暗い映像ばかりだった。
▼上野へ向かう。左手はずっと小高くなっている。そこここに左手に向かって誘う気に坂がある。眺望の予感が名残っている。左手奥に気になる石段。近づいてみると、湯島天神への男坂だった。自転車を降りて上る。梅は終わって裸木が雨に濡れている。境内左に「婦系図」に寄せた梅と筆塚。また泉鏡花だ。広重本を開くと、ここもまた北に東に眺望が開けていたことが分かる。
▼坂を下って自転車を走らせ不忍池へ、東岸をなめてから精養軒の高台へ。謝恩会のハイカラ衣裳の女学生の横をすりぬけて、博物館前広場に出る。谷底からやってくると、この上野山上の広場の開放感はひとしおで、まだ蕾の桜も雲かと思われる遠近の広がり。その明治の上空にスペンサーの気球が上がったときの高揚感はいかばかりだったか。
▼芸大横を抜けて寛永寺へ。ここの墓地はさすがにまだ東への眺望を保っている。そこから鶯谷に下りて根岸から三輪へ。体はがちがちに冷えているから、前から目を付けていた千束通りそばの曙湯へ。脱衣所の高い天井の升目に梅。
▼人心地のついたところで木馬亭へ自転車を走らせる。関敬六はじめ渥美清世代の浅草芸人の漫談やコント。Wエースの漫才おもしろし。自分をネタをせざるを得なくなってから広がる意外に自在な世界。たけしや爆笑問題の太田がよくやる「バカ」のポーズと共通の浅草芸がここに。「バカ」のポーズは、自分がバカであることを見せると同時に、バカであることをお見せするほどに正気であることを見せる。「バカ」のポーズを入れることで、素から正気に戻ったことが示される。正気の前の素が明らかになる。笑いが生まれる。
▼いつもの店でもんじゃ。この店は木馬館でやっている大衆演劇の客の待合所になっていて、次から次へと入れ替わりやってきては、今日の感想を交わし合っている。その、隣りのテーブルに陣取っているおばさまたちの話がいやでも耳に入る。▼「座長は××に目をかけてるからね」「そりゃ息子だからね」「××は息子じゃないのよ、赤の他人よ、二代目が息子」といった類の話がよく出る。座長のことをときおり「○○のおとうさん」と呼ぶ。会話のあちこちで強調される血縁非血縁の別。大衆演劇は、血縁と非血縁の若手がスターの座を競うという、家庭がらみの愛憎系が好きなおばちゃんのハートをぐっと掴む構造を持っている。同世代の老いと成熟を見せる座長の立ち振る舞いに我が身の老いと成熟を重ねながら、顔のよく似た二代目の若々しさに座長の若き日を追い、血縁から無縁ゆえの若手三枚目の自在さに気を浮かせ、嬌声を飛ばす。「やっぱり誰にも愛想振りまくってのはどういうもんかしらねえ、いつも応援してくれてる人にするんならともかくよ」だが、その分け隔てのなさ、すげなさが、おばちゃんをまた次の舞台へと向かわせる。▼金寿司の事情を隣りの店で伺う。どうやらいつも上にいるおばあちゃんが骨折したらしい。祈復帰。
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