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20000725
 さて原稿2本があと12時間で上がることを期待しよう。8/31まで不在にします。旅先でうまくつながったら更新する予定。

20000724
 また「昇天峠」。やっと寝ずに見た。でもまだ居眠りしてしまったような感じが残っている。
 この前アッテンポローの番組でタカが上昇気流をとらえる話を見たとき、あ、これってウィングスパイロット64じゃん、って思った。また時間があるときにやろうっと。なにをいまさら、データ解析のため、リースマン「孤独な群衆」を読む。リースマン読むよりウィングスパイロット64をやる方が実があるんでは。ジャイロスコープ型人間よりジャイロスコープ。

20000723
 水口の碧水ホールでワイズマンの「モデル」「バレエ」。パンすることで見えない人物を作る手管。声の気配。「バレエ」の足音。鏡。視線がとらえているものの不在。観客の不在。

20000722
 しぐさ分析の文章を書くために、データをフレーム単位でトレースしていく。昇天峠を見る。また寝てしまった。ブニュエルの映画を見るとどうして寝てしまうのか。けして退屈ではないのに。

20000721
 表紙を変える。原稿。出国までにあと2本。
 夜中過ぎ、アッテンポローの「鳥の世界」。飛んでいるところをアップで追尾するのってどうやってるんだろう?ラジコンでも飛ばしているのか。
 それにしても、むかしグリーナウェイの「ZOO」を見て以来、アッテンポローの動物ものを見ると、映っている動物が高速度で骸になり朽ちていくイメージが湧いてしょうがない。
 アホウドリが水面すれすれを飛ぶのを見て思い出したが、ぼくは、地面すれすれを歩くという夢をよく見る。あまりにすれすれなので誰も気づかないが、実は地面からわずかに浮いて歩いている。なぜ誰も気づかないのか不思議だが、実は足を動かさずに歩いている。地面に足をつけて歩くよりちょっとだけ速い。
 「よく見る」と書いたけれども、実は、「地面すれすれを歩く夢をよく見る」という夢を見たのかもしれない。

20000720
 現代思想辞書のWWWページまるごと変換を作っているyanさんのページには自動ASCIIアート作成ページがあるのだが、ここで「泣く男」をASCII文字化してみました。うわ。
 もういっちょう。うわわ。
 グレースケールのものを変換すると、文字密度とささくれ加減が、実に「電波」。ささくれてるでしょう。気になるでしょう。絵に目を近づけるでしょう。何か文字が読めるような気がするでしょう。ほんとに読めるんだから。えらいことです。

 昨日はヤになった文章だが、今日見ると、あ、いいこと書いてあるじゃん。かくして日が経つとともに自分の文章への批判精神は摩滅していく。まあ、しばらく読まずにおけば、また腐臭を放ってくるのだが。というわけで、bit別冊「身体性とコンピューター」は共立出版から好評発売中です。ちょい結論を真空パック。

 チャットを用いたチュ−リング・テストにおいて、プログラムは、人間が音声会話で行なっているようなルールの生成や組織化からまぬがれている。重複やターンの生成はあらかじめ排除されているか、簡略化されており、プログラムは重複やターンを扱うための複雑なコミュニケーション技術を持つことなく、判定者と「会話」をすることができる。
(中略)
 プログラムは文字列を生成する過程を表現することを免れている。いっぽう、言葉の生成過程を相手にさらすというリスクを負うことで、人間どうしの音声コミュニケーションは複雑な陰影を帯びている。刻々と進む発言のプロセスを参加者全員で共有し、お互いの発言の時空間的な重複を許すようなチャット環境が出現したとき、チュ−リング・テストの新世紀が訪れるだろう。
(「チャットは何を前提としているか」)


 ここ2、3日久しぶりにピアノ復活。基礎訓練は小学校のときのバイエルで放棄したので、ただの一曲を弾き終えることもできない。譜面を読むのに時間がかかり、シャープやフラットを数えなおし、やっと読めてもそのとおりに指が動かない。でも好きな曲しか弾きたくないので、「ハイドンの名によるメヌエット」をなぞりかけてはあきらめている。HAYDNの5つの音は表れかけては消える。
 ラベルのピアノ曲には、2声の音が重なるところがときどきある。同じ音が、左手では伴奏として、右手ではメロディとして書かれていたりする(たとえば「亡き王女のためのパヴァーヌ」)。しかも片方はスタッカートで片方はスラーだったりする。オーケストラ編曲を念頭に置いた書き方なのか。ではピアノではどうやって弾くのか。その音のアタックにちょっとだけボリュームをつけたりするといいのかもしれない。が、そこまで微妙に指が動かない。仕方ないので幻のスタッカートを弾いたつもりでメロディーにその音を乗せる。
 十本の指で3声や4声を弾きわける感覚は驚異だと思う。
 久しぶりにフランソワの「ハイドン」を聞く。そこや、そこやがな、とか、それはないやろ、とかあれこれツッコミを入れたくなる。阪神戦の観戦に似ている。

20000719
 それにしても「パンダラブー」。ビバーICBM入り。
 やー、なんというかなあ、一つのコマにやったこととやられたことが入っちゃってる、このすっとばし感。たとえば、ボールが頭にぶつかるでしょう、するとケータの顔はもうヘナヘナなの。蒲団に転がされるでしょう、するともう諦めてるの。蒲団にまさに転がされてるとこなんだけど、イタイとかチクショウはすっとばされて、イタくなった後の情けなさがすでにして顔に出ちゃってる。情けなさ先取り。事件のいちばんおいしいとこの見えない情けなさ。そう、大事なものは目にみえへんがな(星の王子様)。クライマックスご一緒に、と言われても、まだやがな、もう終わってるがな。

 あれこれ貯まった仕事をこなす。あさってからオープンキャンパス。コースの宣伝映像を作るうちに、なんでこんなヤな仕事に何時間もかけているのかと自己嫌悪に襲われバッドに。数分ぶん作ったところでヤメ。bit別冊「身体性とコンピューター」が送られてくる。自分の章を読んで、またヤな気分になる。
 日が落ちる前にコンビニに行ったら、とてつもなく長い影。夜の月の明るいこと。アスファルトに伸びる影の確かさ。

20000718
 レポート採点と事務処理。
 おとつい部屋を整理、ピアノを猫のいる部屋に移した。猫はさっそくその上を涼み場所にしている。何度か猫を鍵盤の上に置いて弾かせる。フレーズらしきものになる前に飛び降りてしまう。

20000717
 告白野郎(Mr. Confess) Joe Mattの「Peep Show」。ジョー・マットは、マスターベーションを悔い、ポルノグラフィでむらむらする自分を悔い、危篤の父親を見舞いながら、その行き帰りにピーウィーハーマンのプレイハウスを買ってしまう自分を悔いる。悔いるものの、悔い改めはしない。彼はあいかわらず、マスターベーションを止めることができないし、ポルノグラフィへの興味を抑えることができないし、気がつくとガジェット屋に行って山のように買い込んでしまう。カソリック出身の彼にとって、告白こそが救いであり、彼の日記マンガは、救いを求める彼の行為の副産物である。ただし、告白は改心へと結びつかない。だって、改心してしまったらもう告白ができないではないか。かくして、切手サイズのコマを延々と連ねていく飽くことのない告白日記が綴られる。
 彼が告白することで、彼の関係まで告白されてしまう。彼は過去の恋人を巻き込み、現在の恋人であり同居人のトリシュを巻き込む。同居人は自分がマンガに書かれることに抗議するのだが、ジョー・マットはマンガに同居人を書いてしまった自分にふりかかるできごとまで告白してしまう。彼も彼の同居人も、彼の告白をもてあましつつ、彼の告白とつきあうことを余儀なくされる。

 昼から京都。ちょい絵葉書漁り。あっさり十二階をゲット、見つかるときはこんなもんか。地下鉄ビルのいいアングル。
 コミュニケーションの自然誌は伊藤さんの発表。途中、串田さんが質問の中で言った「頃合い」ということばにピンとくるものあり。
 後で飲み会。分藤さんと映画の話。山田さんにランディ・ニューマンの「in me」の話をしたら、そうなんですよ、エスノメソドロジーにじつは必要なのはin meなんです、という話に。記述者の身体が「in me」というずるさとして表わされるランディな研究スタイルを夢想する。じつは欲しかった「日常性批判」(山田富秋/せりか書房)をいただく。ランディの功名。

20000716
 スキャナ+プリンタを買い替え。昨今のUSB化でどうにも家のスキャナとプリンタが使いづらくなったため。さらばGT-6000+StyleWriter II。
 とりあえず、新しいCC-700は速くて静かだ。で、いちばん最初にスキャンした画像はこんなんですけど

「明治東京逸聞史」に目青不動の由来。おっと「虚無への供物」ネタだ。引き写しておくと、


 目青不動(東京日日/一四・一・二七)
 目黒・目白・目赤の三不動は、昔から府下にあるが、それに対して、目黄を昨年下谷坂下町へ新設した。今度はまた、横浜野毛新田に目青不動を安置して、この二十八日に正遷座をなし、大護摩を焚くという。西洋人の居留地に近いだけに、「目青とは、よい思ひつきかな」といっている。
 (「明治東京逸聞史1」(森銑三/平凡社) p83)


 中日新聞を広げると、左上に黒いエリア。佃公彦「ほのぼの君」だった。今日の「皆既月食」という4コマ(というか3コマ)ではコマ全体が大胆に黒く塗られている。そこから紙面に夜が染み出している。新聞漫画にこんなにベタが使ってあるのは珍しい。
 昔、家に佃公彦の絵の入った小銭入れがあったのをふいに思い出した。たぶん「お笑い頭の体操」か何かで彼の絵が流行っていた頃だ。
 スポーツ面見出しは「ボッチャン沈む竜投」。松山の坊ちゃんスタジアムとボッチャンをかけたものぞなもし。赤シャツならぬ赤ヘルの勝ちぞなもし。いまでもいうのかな、「ぞなもし」。

 街中で月が欠け尽くすのを見ても、その光のなさ加減はわかるまいと思い、皆既大作戦を見るべく近くの田んぼへ。でも、あかりひとつない田んぼの中にいても、目が馴れてくると遠い打ちっぱなし場の灯だの、工場の灯だのが明るすぎて、とても月明かりのほどはわからない。それでも、月が限りなく細くなったとき、カモが3羽ぎょえと鳴きながら暗闇を飛んで行ったのは見えた。

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Beach diary