大学院入試の面接。やり残していた採点などなど。あ、もう8月も終わりか。
地下鉄から地上にあがると、予兆のような雲。
村松さんや吉田さんに、ここここ、と見晴らしのよい席に誘われたが、なんとなく今日はボーカルの力を浴びたいなと思い、前のほうの席をとる。
コンサートはすばらしいもので、最初の「青空を抱きしめよう」からノックアウトされた。さがさんの歌、山本さんの影のようなデュエット、バンドのサウンド、どれも頭の先までしびれるようだった。
さがゆきさんの声は、本来ハスキーというわけではないのだが、声の終わりにとても豊かなテクスチャがあって、ひと声ひと声がいかに終わるのかがとても楽しみだった。たとえば『風に歌おう』で、「若いんだもん」「恋人だもん」と歌われるとき、さがさんは、「もん」をとても短く、酷薄に歌うこともあれば、「もーん」と、母音をふくらませながら、その響きをふいと鼻にあずけるときもある。
OからNに行くまでの時間の中に、ことばが響く時間、響いた声があずけられていく時間、あずけられた響きがはかなくなっていく時間があって、それが毎回違っている。
ただ離れる行為ではなく、一度相手の体に触れてからとんと軽く突き放すような行為。別れるために相手の体を借りるような行為。口の響きを借りながら、その響きを鼻に預けて消えていく「ん」には、かつて生々しく響いた母音の来歴があり、しかし、その先には消滅のはかなさもある。
つまり、これは「いき」なのだ。
というようなことを、さがさんの声を反芻しながら考えている。
ほかにもいろいろ考えたことがあるのだが、それは、ラジオ 沼vol. 335にて。
安田さんイレメさんと久しぶり。お互い、スパークスについていかに書かないかについて牽制しあう。
吉田屋での打ち上げにおじゃま。寒梅館の使用に関われた遠藤徹さんはプラスチック文化の研究をするかたわら、オルタナティブ・ロックについての講義ももたれ、なおかつホラー小説を書かれているという。plasticity?という共通項を思い浮かべながらお話を伺う。
関島さんとはじめてお話したのだが、途中で「あ、EVさん?」と言われ、そこからパソコン通信、MS-DOS時代の話へと遡る。関島さんはいまでもVZ Editor愛用者だという。VZ Editorの背景色を松竹の怪獣映画のような(つまりギララのような)濃い青にしていたことを思い出した。
初対面のさがゆきさんに失礼ながら今日の歌で思ったことをあれこれお話すると、わあ、といって両手を握りしめられた。
さらに御大渋谷毅さんに、左手がまるでバッハの音楽みたいに割って入って、と生意気な感想を申し上げると、
「演奏家はこれはバッハだとかなんとか考えてないんですよ。弾きだしたらそれが演奏家の音楽なの。」
ガビンさんから「バカCGの真実」DVD。内容のみならずメニューからDVDの配られ方にいたるまで、バカの空気が行き届いた一品。だって、手書きなんだよ、タイトルが盤面に。
考えてみれば、ヘタウマ、ということばは、ヘタとウマイを並列した時点で、ヘタな身体にウマ心、という一種の心身二元論に近づいていたわけだが、コンピューターが身体にウマをもたらしたとき、ウマウマとウマヘタ以外に何がありうるのか。
いや、まだヘタになりうる部分が残っている。ガビンさんは、最後のフロンティア、脳に「ヘタ」を見いだす。それも抽象的なお話ではなく、菅原そうたという、あざやかな現実によって。
いや、すごかったです。波が。波が文字通り存在感を増していく。存在感のある波とは何か?そもそも「存在感」とはなにか? ないものがある感じ、とはなにか? なぜ脳が「ヘタ」な人だけが、ないものを見せることができるのか?
それを知るには、バカCGの真実にアクセスするのこころだ〜
ばるぼらさんの「ウェブアニメーション大百科」(翔泳社)が送られてきた。なぜかなと思って最初を読んだら、いきなり「京姉妹シリーズ」が出てきたので驚いた。歴史(のハシッコ)に名を残した。
とはいえ、京姉妹からウェブアニメーションまでには(と、京姉妹でスタートするのもどうかと思うのだが)、いろいろ紆余曲折がある、はずだ。この機会に、この本の前史にあたる1990-95年あたりの動向について、覚えている範囲のことを補足しておこうと思う。もちろん、ぼくの書くことだから、ごくハシッコの方について。
1990年ごろ、すでにパソコン通信上では、簡単なアニメーションソフトは出回っていた。が、当時のグラフィックライブラリは機種依存が激しく、閲覧できるものはさほど多くなかった。また、通信速度の制約上、複雑なグラフィックをやりとりするのは難しかった。
わたし自身は、MS-DOS上で、「京姉妹」など、簡単な文字グラフィックを動かしたものを作っていた。この頃のものは、Pascalでプログラミングして、NECやEPSON機固有のグラフィックライブラリを使っていた。
会話の間をシミュレートする「Lovers」というソフトはわりとよくできていたと思うが、現在はもう手元で閲覧できるマシンがない。
1990,1年というと、ちょうど「低レベル研究所(低レ研)」こと丹羽信夫氏のソフトが一部で謎めいた魅力を振りまいていたころで、多分にこれに影響された記憶がある。当時、通信で流通しているPCのグラフィック・インターフェースのあまりのしょぼさを逆手に取る、という雰囲気が、一部の人々にはあり、その志の高さと技術力の低さのギャップには独特の雰囲気があったと思う(おお、書きながら思い出してきた)。
1992年ごろ、マッキントッシュを入手し、すぐにHyperCardの魅力にとりつかれ、山ほどスタックを作るようになった。
ときはDTP勃興時代、グラフィックに興味のあった人の多くはMacユーザーであり、パソコン通信上では、HyperCardをいわゆるハイパーテキストツールとして使っている人よりも、紙芝居ツール、もしくはアニメーションツールとして使っている人が多かった。こうしたHyperCardの「スタック」は、いまはなきNIFTYのFJAMEAやFMACUSといったフォーラムのデータライブラリに大量にアップされていた。
こうしたコップの中のメインストリームに一石を投じるべく、南国に頭をゆるやかにチューンアップし、善意と悪意の区別がつかないソフトを大量生産する「国際バカスタック協会」が設立され、わたしも晴れて会員となった。そこで作られた、数々のどうでもいいといえばどうでもいい作品群はここで見ていただければよい。
HyperCardは基本的にモノクロで1ピクセル二階調であったにも拘わらず、インターフェースを手軽に組み立てることのできる点で突出しており、さまざまな実験ができた。というよりも、カラーや階調という余計な成分がないぶん、よりインターフェースが突出して感じられたように思う。
にもかかわらず、あくまで、知ってる人は知っているというプラットフォームであるにとどまった。そのいちばんの原因は、MSDOSやWindows環境で閲覧できないということだったと思う。なにせいまやTigerでも見ることができないからなあ。
特定のプラットフォームで培われた技術や知識が、プラットフォームの消滅とともに、継承されることなく忘れ去られる、という事態は、なにもコンピュータのみのできごとでなく、アニメーションや映像の歴史にも同じようなことが何度も起こっているのだが、この話をしだすと長くなるので略す。
一方で、1993年前後から、それまでMacの特権だったAdobeをはじめとするいくつかのソフトでWindows版が出るようになり、Macは必ずしもグラフィックデザイナーやイラストレーターのための唯一のプラットフォームではなくなりつつあった。
HyperCardがMacintosh専用だったのに対してマクロメディアのDirectorは、当初はMac専用だったのが、3.0(1992)からWindowsで閲覧可能になり、さらに4.0(1994)では、Windowsでもプログラミング可能になり、QuickTime Movieがサポートされた。このころから、HyperCardから乗り換えたり両刀づかいになる人がけっこういたように思う。
HyperCardのプログラミング言語であるHyperTalkは、インターフェースとなるオブジェクトにプログラムを埋め込む点でMacroMedia DirectorのLingoに似ていたので、いちから学ぶよりは楽だった。
そして、このDirector4.0の登場あたりから、世間ではCD-ROMブームが起こった。ピーター・ゲイブリエルの「Xplora 1」やレジデンツの「フリークショー」、あるいは「ポップアップ・コンピューター」あたりを見れば、当時のディレクタとムービーを用いたアニメーションの可能性がよくわかると思う。
インタラクティヴとかマルチメディアということばが流行ったのもこの頃だ。
なお、Directorの歴史については、このUnofficial siteがコンパクトでよい。
これ以後、Shockwaveの登場から先の「ウェブ」アニメーションについては、ばるぼらさんの著書に詳しいので、そちらに譲る。はい、お疲れさんでした。
これらとは別に、もうひとつ、QuickTimeが出てしばらくしてから、QTマスコットというソフトが出た。これは、デスクトップにアイコンアニメーション風のキャラクタを常駐させて動き回らせるもので、Macユーザの中にはこれでアニメーションに目覚めた人もいるんじゃないかと思うので付記しておく。
なお、ここでは触れなかったが、1990年代初頭のアニメーションといえば、本来なら、AMIGAとデモ文化、デラペなどなどを話のメインにすえるべきところである。ウゴウゴルーガをはじめとする、この頃のとてつもなく反応の速いキュートなアニメーション文化については、AMIGAなしでは考えられない。が、これについてはわたしがあれこれ書くより、1993年出版(え?もうそんなに昔?)の「コモエスタアミーガ!」(翔泳社)を各自どうにかして入手しましょう。
「ガチャコン」こと近江鉄道に乗って、碧水ホールへ。野村誠の世界 vol.4。子どもとのワークショップの成果である第一部、野村誠作曲「踊る!ベートーヴェン」の第二部、メンバーによる第三部。
おもしろいことに、どの演奏でも、ザブトンが一種の鍵になっていた。そのあたりについては、ラジオ 沼を参照。また、制作過程や舞台の上から見たザブトンについては、野村くん自身の日記、林加奈さんの日記に詳しい。
ラジオ 沼で言わなかったことを補足。ガムランのそばを歩きながら、いろんな動作やイメージの号令がかかる第一部を見ながら、なぜかこの前見た伊勢克也さんの「『家』について」を思い出した。ずらりと並べられたガムランのボナンが、ちょうど町の縁のように思えたからだ。自分の歩みが何かのそばを通っていることに気づくとき、人はそこに「縁」を感じる。そこがちょうどゆるやかな境界になっていることに気づく。パサージュにも林縁にもあり、この舞台にもある「縁」の感覚。その縁でぽんとボナンが鳴る。
第三部で、片岡さんの肩をスボウォさんが持って歌い出したときにいきなり現れた、盆踊り感覚というか、どんぶらこっこ感覚。あたかも海洋を渡ってインドネシアと音頭でつながったような感じがした。この感じ、1980年代にインドネシア・ポップスを狂ったように聴いていたときに感じた、海洋の感じ。
アナンさんの歌はほかの人の演奏に比べて横に流れる。タイ語の持つ五声の抑揚のせいだろうか。それが次第に場をなだめていく。野村君は寝っ転がり、それに誘われるように、ボナンを一生懸命叩いていたタケオくんも楽器を離れた。最後の長い沈黙。
スパークスのライヴ・イン・ストックホルム 2004を観る。じつは、これまでは聴覚のみでしかスパークスをしらなかったのだが、すっかり見識を改める。いままでいまひとつピントの合わなかったことどもがあれこれと結びついた。50過ぎた男たちの演じる「I married myself」が素晴らしい。
This time it's gonna last,
this time it's gonna last
Forever, forever, forever
カウボーイの歌ではロン・メイルの魅力爆発。これでヒゲの話が書ける。一緒に買ったAngst in my pantsにMustacheという一曲が入っていたのでそれをかけながら原稿。10月の公演が待ち遠しい。It's a spark show, a spark show, a spark show!
朝日の夕刊に織井さんの記事で「絵はがき あせぬ魅力」。ていねいに取材していただき、いい記事だった。
新聞をはじめとするマスメディアについて、あれこれ注文はあるけれど、つまるところ、そこに関わる人の個人差が大きくものを言うと思う。朝日か読売か毎日か産経か、というような大枠の比較より、その記事を書く人の、対象に対する態度が、記事や報道の質をかなり左右する。
そんなことを書いた舌の根も乾かぬうちに言うと、東京のラジオ・テレビ取材では、残念ながらこれまでまっとうな経験をしたことがない。ニュースの絵を描いてからニュースを取材する人に、Newsは訪れない。それは、できごとがその人の頭に遅れているという点で、常に旧聞なのだ。たぶん、彼の地では、頭がニュースよりも速いことが有能さの証なのだろう。
久しぶりに吉田豊「寺子屋式 古文書手習い」を通読。こういうのはときどきやっておかないとすぐ忘れる。はがき文ではほとんど句点がわりに「可申候」のような定型が現れるので、このイメージを頭にたたき込んでおくと、少なくとも文章がどこで切れているかはわかるようになる。まだまだ道は遠いが、はじめはさっぱり読めなかったはがき文のあちこちがひとまとまりに浮かんでくる感じはいつもながら不思議。ある漢字のまとまりが読めたとき、同時にあちこちで、線を分節する可能性がばっと絞られる。
ようやく糞詰まりだった原稿を挙げる。このところ、カンタータでいちばん苦い珈琲とプリン、というのが定番になっている。
夏バテなのか、このところ後頭部がじんとしてときどき蒲団にぶっ倒れる。この夏は、ゴーヤをよく炒めた。
森本アリくんと神戸のSallowへ。絵はがきコレクションを拝見する。貿易商だった方が海外のコレクタとやりとりした文面の数々。あまりのすばらしさに昼飯から夕飯まで長居する。変体がなのさらなる習熟の必要性を痛感する。
さらに。
遅れに遅れている原稿。しかし、図を描き足さねばならない。
絵はがき会会合。山ほど買う。しかしつくづく絵はがきは高くなった。誰のせいかと言えば自分のせいかもしれないのだが。
ハットリ邸で「天狗カップ」。牌を握るのは十数年ぶり。点棒を分け、ゴットーだのザンクだのシバボウだのということばを発するたびに、ああ、そうだったそうだったと次第に感触が蘇ってくる。山から四枚とると、自分でも知らぬまに両手が牌を開いている。なんというか、体が水を吸うスポンジになった感じである。ああ、楽しい。
戦績は四位・一位・二位・四位・四位でトータル三位。なんといっても杉本さんに親の立直即純チャン三色ドラドラを振り込んだダメージが効いた。しかも簡単なスジ引っかけ。雪辱を期したい。
千駄ヶ谷LoolLineにて「室内楽の夕べ」。大蔵さんの曲は、飯田さんのカウントの間が等比級数的にタイミングをはずしながら進行する。宇波くんの曲、音階をつめていくハープの音美し。しかし朗読されているのは啄木の貧窮ぶり。杉本さんの曲、固体と液体、珍しくメロディのある、しかし子音と母音に分かたれた抑揚のような佳村さんの声。終演後アメヤさんとあれこれ話す。全盲の人が見る点字の絵の話。指が空間を掃いていく時間。「スキャン」ということばを、時間あたりに認知される空間密度の問題として捉え直すこと。そのとき、感覚器はどこに導かれ、どのように軌跡を予測し、それはどのように裏切られるか。時間を、形象という記号を経ずに、直接時間に変換する方法について妄想。
それにしても、佳村さんはつくづく美しい方である。目の前に並んでいるのは居酒屋メニューなのだが。まさか向かい合ってお話するとは思ってなかったので「浅草十二階」を持ってこなかったのが悔やまれる。「夢見るように眠りたい」の仁丹塔は、十二階がモデルなのだ。
早朝、ラジオ出演。5分の電話インタヴューで、なんだか通り魔に遭ったような気がした。
原稿。
昨日から実家。呉の墓の話など。戦後、両親は関西に越してきて、本籍のある呉は遠くなった。子どものわたしにとって、呉は、何年かに一度帰るところに過ぎない。が、そのような遠さもまた、墓らしさかもしれないと思う。
あちこちを調査したり旅するようになってから、それぞれの土地の持つ歴史性の力、人々の行動を我知らず律する土地空間をめぐる記憶について、いろいろ考えるようになった。墓の前で、たまにそういうことについて考えをめぐらすのも悪くないなと思っている。
靖国参拝問題がどうもすかすかして聞こえるのは、「英霊」というような言い方に、まるきり、土地の問題が抜け落ちているからだ。集団としての英霊といういたって抽象的な概念は、白黒のはっきりした感情しか伴うことができない。あらかじめ土地から切り離されているそのような感情は、どこに行っても誰に会っても動くことがない。喜びも涙も怒りもひたすら硬直する。
坪内祐三は「靖国」の中で書いているように、明治期、靖国神社には、こうした「英霊」だけではなく、日常的な霊の気配もなくはなかったことを指摘している。また、木下直之は「世の途中から隠されていること」の中で、かつての祭礼空間としての招魂社から辿り直し、高橋由一の油絵や、巨大な西洋建築であった遊就館に注目しながら、靖国神社の別の「未来」を探っている。
しかし、これらのさまざまな可能性は、大正・昭和と時代を経るにしたがって、現在の英霊を祭る場へと収束した。
坪内氏はそこから漏れる例として、内田百間の「鼻」を挙げている。
内田百間の『鬼苑横談』の中に「鼻」という随筆が収められている。昭和十三年六月、すでに靖国が「英霊」の場としてその力を強めつつあった頃のものだ。
伊藤長一郎という百間の教え子は直情径行で、憤慨すると鼻の先を動かした。それで「鼻」。百間は、この伊藤ともう一人の教え子と、どうしたいきさつか、靖国神社の裏門から境内に入り、相撲場へ出る。二人の教え子はそこで相撲を取り始め、百間はそれをぼんやりと見ている。
のちに伊藤の戦死の報を聞いた百間は、そのときの靖国神社のたそがれを思い出す。「護国の鬼となつて靖國神社に帰つて来た長さんの霊が、たまには社殿の裏の相撲場へ遊びに出て、少年時代の夢の破片を探してゐやしないかと云ふ気がする」と百間は随筆をしめくくっている。
「護国の鬼」と靖国いう記号の結びつきは、百間の書いた昭和十三年の日本にいかにもふさわしい。しかし、この世ならぬものの気配にひときわ敏感な内田百間は、そのような表向きの結びつきよりも、ふらふらと相撲場へ遊び出る霊のほうに感じ入る。
昨今の靖国論議では、とても日常的な霊がつぶやく声を聞き取るような静けさはない。むしろ日中日韓関係において、個人個人の霊は、それこそあの大鳥居のように、ますます「英霊」化しつつあるようだ。そのような現代の靖国的感情の発露、声高に「英霊」を拝し、あるいはそれに反する硬直した感情の発露からは、できるだけ距離をとりたいと思う。
近くのツタヤで盆にふさわしい本はないかと思い、池内紀「なぜかいい町一泊旅行」(光文社新書)を買って読む。
夜、佐藤さんのお家で大文字を見物させていただく。「大」の字を写真に撮るとどうもつまらん、と佐藤さんが言う。なるほど、遠い「大」の字はあまりに記号に過ぎて、気配が写りこむ余裕がない。やがて火が消えて、ぽつぽつと歯抜けになったところで、ようやく盆らしい火に見えてくる。遠く鴨川からにぎやかな人声、そしてぴーぴーと警邏の笛がいくつも響く。
こう暑いと、日中に外に出るのはなるべく避けたい。避けたいが、日々の用事は済まさねばならぬ。
自転車を飛ばして買い物やら銀行やら郵便局やらの用事を済ませて、さあ原稿、と思ったところに銀行から電話がかかってくる。振込先の口座名と、自動振込機で入力した名前が合わないという。おかしいなと思ってよくよく聞いてみたら、わたしが「ン」を「ソ」と間違えて入力してたことがわかった。
書類を書き直さなければいけないとのことなので、面倒だがもう一度銀行に行く。もう一度、振込先をすべて記入し(わざわざ間違いである「ソ」を「訂正前」として書いてから、訂正後の「ン」を記入し)、やれやれと思ったら、間違い手数料が630円かかるという。
なんですと。
いや、小学生のようなミスをおかしたわたしも悪い。だからこうして窓口まで来て、所定の書類に記入しているではありませんか。だからそこから先の手数はそちらで持っていただくのが筋というものではないか。
もちろん、銀行間の振込と取り消しには相応の手数がかかるのだろう。それは分からないではない。たとえ小さなミスであっても、その手間を換算すると、630円という金額が妥当なのかもしれない。てめえが字を間違えなきゃこんな仕事はせずに済んだのによ、とわたしが銀行員なら心の中で悪態のひとつもつくかもしれない。
しかしですよ。もしこれが手書きの書類のやりとりであれば
「ホソダさん?・・・ああ、これ、ホンダさんね」
で、済むところの問題である。そもそも人間の視覚認知は「ソ」と「ン」を間違いやすいのである。それがタッチパネル入力というインターフェースを経て、まったく離れた文字コードへと変換されるがゆえに、「ソ」と「ン」という、人間の目なら簡単に補正がきくはずの間違いが、銀行的には630円のミスとして扱われるのである。
でも、このようなミスは、そういうインターフェースを用いるときのリスクなんであって、そのリスクによって発生する手数料は銀行のほうでお支払いいただきたいと思う。
それに、たぶん「ソ」と「ン」を間違えて630円を払っている人が全国に何人もいるはずだ。そのたびにこうして余計な時間がかかる。あなたもわたしも得をしない。こんなシステムはおかしいじゃないか。そうでしょう?
と、窓口で告げるのだが、「はあ、ですがみなさんお支払いいただいてますし」と係の女性は困惑気味である。「私にそんなことを言われても・・・」という表情である。もっともだ。このシステムを考えたわけでもないあなたにこんなことを言うのは理不尽かもしれない。しかし、あなたが「窓口からの声」とか「改善案の募集」とかで、この、へんなオッサンの言いがかりについてなにがしかのコメントをすることだってあるかもしれないではないか。
だからあえて言うが、このシステムはおかしいよ。非人間的だ。モダンタイムズだ。
仮に百歩譲って、多少の手数料が必要だとしても、630円とはいかがなものか。だって、一文字なんだ。しかも「ソ」と「ン」だ。「ホンダ」を「タナカ」に間違えたって630円なんだろう。おかしいじゃないか。せめてニアピン賞があってしかるべきではないか。
いっそ、「ソンちゃん人形」とか作ってはどうか。「これからは気をつけてくださいね」と、顔が「ソン」の形で出来ている人形(なぜか海洋堂製)を渡されて「やっぱり似てるなあ」などと苦笑いする。
「うちのテレビの上に、もう10個並んでるんだ」
「では、次はツシちゃん人形はいかがですか?」
そんなハートフルな銀行なら、何文字間違っても通おうと思う。
じつは行ったのは一週間前のことなんだけど、ちゃんと書こうと思って書きそびれていた。
シェ・ドゥーヴルの奥の白い空間の中に夕暮れ色の家が並ぶ。その並びは、条里制のような整然としたものではなく、あるところは詰まり、あるところは空き、家々の隙間を縫って目で追っていくと、思わぬ多角形の庭が出現する。伊勢さんによると、きちんと並べたよりも「ブルドーザー式」に家を寄せたほうがいい感じになるんだそうだ。その、「ブルドーザー式」のあとなのだろう、展示全体は四角い領域になっているのだが、その縁に、町が感じられる。ちょうど大通りを歩きながら、歩いている体の側面に、あちこちから路地の気配がするように、展示の縁を見通すと、あちこちに秘密の路地が口を開けているのが感じられる。
よく見ると、淡い薔薇色に塗られた家は、一度水分を吸った跡を示すように少しそっている。それで、ここは雨上がりのようだなと思う。
上から見て、横から見て、さらに這いつくばってみる。白い一本の柱のまわりで、家たちがよじ登っていくように見える。ひょいとつまみあげた棒に粘性の高い液体が引っ張られていくように、塔がひとつ立つと、町は高みを目指し出す。
ある様式が繰り返されるときに、繰り返されたものたちが思わず知らず取ってしまう配置。お互いの斥力とこの星の重力が為す形。
展示は9月2日までやってますよ。
磔磔でJB+さかな。今日はアルバムに入っていなかった「アローン・アゲイン」をやっていた。ふちがみさんの訳詞なのか、原詞とはちがった、とてもいい詞だった。あと、たったったったっ、鳴る音、鳴る間、という歌。磔磔の壁には歴代のミュージシャンの看板が張ってある。Queen of New Orleansという文字の上に、THOMASの文字。ファーストネームは隠れて見えない。聞きながら、その見えないトーマスのことを考えている。そこから夕暮れが濃くなる。それにしても「オレンジ」はいい歌だな。
さかな。二人になってから生で聴くのは初めて。かつかつと音がするので、はじめはリズムマシンか何かなのかだと思っていたのだが、どうやらその音はpocopenさんの足下から来る。それはどの曲でも、適切なタイミングで鳴る(あとでタップシューズだと知った)。赤い靴が我が家に帰るために鳴らされるのなら、黒くつややかな靴はどこにたどりつくために鳴るのだろう。靴が踏み鳴らされ、夜が濃くなる。ときどき天井の隅をぼんやり見ながら、この夜は何色だろう、と思う。
最後にJBNP(JB+さかな)でやったんだけど、ふちがみさんが「たとえば」を歌い出したら泣けてきた。
午後、彦根から敦賀へ。普通運賃のみから見れば、彦根ー敦賀間と彦根ー京都間は同じくらい。ただし、北陸線の接続はよくないので、普通に乗ると一時間半から二時間くらいかかる。
敦賀駅から数km、鋳物師町はイモジチョウと読む。近くまでタクシーで行き、交差点からてくてく歩いていくと、どこからかラッパの音が聞こえてくる。その音のありかを探していくと、宅地を少し入ったところに、コスモスと菜園に囲まれた古い木造小屋があり、ガラス戸の中の純さんが、あら、という顔をする。
その前庭でpopoは演奏中。屋外なのだが、木造と漆喰の壁に囲まれているせいだろうか、音は柔らかく響いて空に抜けている。音楽に合わせてあちこちで写真を撮る。
終演後、犬の散歩をおおせつかる。紐をつなぐと、散歩の予感がしたのかものすごい勢いでくるくる回る。
犬と散歩するのは久しぶりだ。前はロサンジェルスのGoodwin夫妻との散歩で早朝だった。今度は日暮れどき。敦賀の砂浜で犬のたろじーと遠雷を見る。こちらが砂に寝そべるとたろじーも寝そべる。かわいいやつ。こやつはふちがみ&きたむらDuoの歌の中でラップを歌う犬である。
お手製のパエリヤや菜園でとれたてのシシトウ、ベーグルなどなどをごちそうになる。旨い。鶏肉の味付けが、ヘアトニックのような独特の香り。パキスタンのともだちからもらったものだとのこと。
自転車を借りて敦賀駅に急ぐ。終電は21:29。彦根駅からタクシーを拾ったら、運転席からヘアトニックの匂いがする。
Nintendo DSを買ったものの、1,2ゲームやったら使わなくなって、机の隅に置きっぱなし。そんな大人層に向けて周到にマーケティングされたソフトなんか買うものかと思っていたのだが、電器屋でCD-Rの不良品を返品してお金を返してもらったら得した気がして(もちろん気のせいだ)、今日の晩ご飯は何にしよう(と考えるたびに頭に浮かぶJBのあの曲はすばらしいな)、と思ったときにはなぜか買っていた「お料理ナビ」。
使ってみると、これはなかなかよい。とくにわたしのように、いつもおおざっぱに料理を作るがゆえに味の焦点が合わない人間にとって、かなり発見がある。ああ、ここで材料を入れる順番が違ったんだ、とか、調味料はこのタイミングで入れるんだ、といった、つまりは料理の時系列感覚が、ばーっと起ち上がってくる。この感覚は新しい。
料理本を見ても、うろおぼえじゃ詳しいタイミングはわからないし、いくら料理番組を見ていても、テレビに合わせて料理を作るわけじゃない。ところが、このDS「お料理ナビ」は、料理する側の時系列を完全にコントロールする。ゲーム機のもつ、時間の拘束力の威力を改めて知った。つまり、ゲームって、単にプレイヤーの時間を拘束するんじゃなくて、時間順序を拘束するんだよな。だから、イベントとイベントのあいだにどれだけ時間を取るかはプレイヤー次第なんだけど、イベントの発生順序にはしっかりとした規則がある。
そして、料理ってまさに、時間順序をいかに身につけるかなんですよ。 下準備と本ごしらえのあいだにいくら時間をとってもいいけど、下準備が先、本ごしらえがあとっていう、順序は変わらない。豆腐とかつぶしを炒めてから塩なんであって、さらに卵を炒め合わせてからしょうゆなんであって、塩を先に入れたり、しょうゆをはじめに入れてはいけない。
料理のうまい人にとっては、そんなことはイロハのうちなんだろうけど、長いこと、自分の作る料理がいまひとつだなと思っていたわたしのような人間にとっては、この時間順序の体感は、ちょっとぐっとくるものがありました。
今日は「蝶々夫人」DVD。カラヤン指揮にプラシド・ドミンゴなのだが、見終わると、とにかくフレーニの鼻の穴がひたすら頭に焼き付く。白塗りで強調された彼女の鼻の穴は往時の研ナオコに勝る。
舞台効果を狙った無国籍な障子といい、殺風景な庭先といい、間奏での蝶々さんのアメリカ幻想といい、全編ジャポニズムのねじれ方がものすごく、まずキッチュな一作といってよい。
以前なら、そのあまりのキッチュさに唖然として終わったところだが、今回はカトリシズムの表現にむしろ気が行く。というのも、このところずっと見てきたどのイタリアのオペラでも(当たり前といえば当たり前なのだが)、カトリック信仰の問題が常に伏流していると感じたからだ。
クリスチャンへの入信場面と、最後に再び神様を拝んでの自殺。蝶々さんの自害は、単にピンカートンとの決別であるだけでなく、カソリック信仰との決別でもある。それはカソリック信仰の立場から描かれるわけだから、蝶々さんは信仰世界から壮絶に消えるように見えるのだろう。
マスカーニのIrisや川上貞奴によって繰り返し描かれてきた自害のイメージがここでも繰り返される。
こうしたイメージがときを経てカミカゼ、ハラキリとしてテロリストのイメージと結びつくのだから油断ならない。そして19世紀末から20世紀初頭にかけて、自害のイメージを担ったのは主に女性であった。
ピンカートンからの絵はがきが気になる。
このDVDでは通信欄が半分になったものが用いられている。が、プッチーニがこのオペラを書いた1904年当時は、アメリカでも日本でもイタリアでも通信欄は設けられていなかったはずで、公開当時に時代を設定するならば、ピンカートンの絵はがきは、絵のそばにメッセージが添えられているのが正しい。
劇中繰り返されるテーマがやけにペトルーシュカに似ているのだが、蝶々夫人は1904年、ペトルーシュカは1911年、真似たとすればむしろストラヴィンスキーのほうである。幻想の東洋が、日露戦争を経てロシアに移入された格好。
いろいろ考えさせられた『蝶々夫人』だが、このまま寝ると夢の中で白塗りのフレーニに襲われそうなので、ヒッチコックの『めまい』で気分直し。どうせ悪夢なら二つの鼻の穴より二人のキム・ノヴァクに襲われるほうがよい。
京都で研究会。日高さん、奥野さん、中間さんと、今回はやや少人数なり。ミズンの本を叩き台に、認知と文法の話にいかにコミュニケーションの問題が欠けているかという話をぶつ。
本日は、プッチーニの「トゥーランドット」。三中さんの「系統樹的思考」の裏テーマともなっているこの作品だが、じつは見たことがなかった。なるほど、このオペラでは「真の名前」がテーマだということがよくわかった。マシン・エイジと東洋が重なる怪異な演出。
途中、リューが自害するところ(また自害だ)から、突如二人が結ばれるまでの過程は、筋書きとしてはなかなか苦しい。そこをベリオの補作が複数の情動を進行させるかのごとくもやもやと複数のラインを浮かび上がらせて、力業で説得させる。
そうそう、三中さんに、『トゥーランドット』のピン・ポン・パンは『ミカド』の何に当たるのか、という質問をいただいていたのだが、ようやくこれに答えることができる。
『ミカド』でも狂言回しが出てくるのだが、それは三人娘ではなく、Pish-Tush, Pooh-Bahといった高官たちだ。皇帝の家来という点で、この二人はまさにピン、ポン、パンと同じ立場にある。とくに、この二人と主役のKokoとが一斉に早口でまくしたてるように歌う"I am so proud"は、ピン、ポン、パンたちのあざやかな掛け合いを彷彿とさせる聞かせどころ。
続いてマスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」+レオンカヴァッロ「道化師」。いずれもフランコ・ゼフィレッリの映像演出によるもの。偶然なのか、どちらも、教会のミサから弾き出された女性が主役。プッチーニの絢爛豪華さとアヴァンギャルドさに比べると、マスカーニはいささか土臭い。しかし、女の動揺と男の怒りを重ねるサントゥッツァとトゥリトゥのデュエットはききもの。
音楽としては、「道化師」のほうが山あり谷ありで好み。ネッダ役、テレサ・ストラータス(美しい!)のお色気はすばらしい。
夕方、大阪の伊勢さんの展示オープニングに。さまざまな角度から黄昏れていく家並みに見入る。会場にはデジオオーナー&リスナー多数。
二次会で、なぜかスプーン曲げの話になり、最近会得したスプーン曲げの秘技についてお披露目する(このために、なぜかわたしのかばんにはスプーンが入っているのである)。
初めて入った店でひとしきり盛り上がっていると、店の方が「このスプーンは?」といって、新たなスプーンを持ってきて下さる。わたしの持参したものよりずっと太く手強そうである。しかし、最近、スプーン曲げに不可能はないと信じて止まないわたしは、気合いもろとも、人さし指をフン!とスプーンの先に当てた。
体は完全に曲がったときの反応を示す。しかし、手元を見ると、曲がっていない。ホームランの感触を持ったまま空振りした清原のごとく、ソファから転げ落ちる。
そのあとはもう、家に帰ることも忘れて飲む。気がつくと、車の中でユーミンをがなりながら、この展覧会のアレンジをした池田さん宅に転がり込んでいた。かたじけない。
ゆえあって、イタリアのオペラについて勉強している。勉強といっても、ひたすらDVDを見るのである。まずはプッチーニの「トスカ」から。プッチーニの曲というと、ほとんどアリアしか聴いたことがなく、そもそもソプラノが歌い上げるという行為じたいになじめないものを感じてきたので、ずっと遠ざけていた(フィギュアスケートがなんとなく苦手な原因も、この辺にある)。
が、オペラ全体を通してみると、やはり19世紀末から20世紀初頭の作曲家だけあって、そこからはドビュッシーも、あるいはのちのストラヴィンスキーやウィーン学派的なものも聞こえてくる。それでいて世俗と袂を分かたないバランス感がおもしろい。
トスカでは、1800年代のイタリア、フランスの関係が、1900年の目線で描かれる。そこでは堕落した教会と政争との結託が問題になる。神父が聖歌風のメロディで説教を垂れるくだりがおもしろい。
本書では、数十年前にホモ・サピエンスと分かれ数万年前に絶滅したネアンデルタール社会が、じつは音楽を主とするコミュニケーションに支えられていた、とする説が唱えられる。さまざまな文献によって前提が傍証されながら、やがて太古の昔の世界が音楽に満ちたていく過程は、なかなかロマンチックだ。
本書の主張をコンパクトに標語にすると、「Hmmmm(m)」ということになる。初期ホミニドのコミュニケーション体系は「Hmmmm(m)」つまり、全体的(Holistic)、多様式的(multi-modal)、操作的(manipulative)、音楽的(musical)、そして模倣的(mimetic)である、というわけだ。
このうち、「全体的」という性質の軸となるWrayの「全体的原型言語説」がおもしろい。「まず単語があってそれを組み合わせる文法があとから現れる」という従来の言語進化観に対して、「まず複雑で長い操作的なフレーズが現れ、その次にフレーズ間の共通要素に対する感性が進化して、単語になる」というのである。これはまさに、岡ノ谷さんたちが提唱している「相互分節学習仮説」と響き合う。岡ノ谷さんたちの場合は、進化のみならず、個体の発達の過程にもこうした「学習」過程を見いだそうとしている点が違うわけだが。
さて、ミズンは、この「全体的原型言語」にあたるものとして音楽を採用する。そして、音楽が持っている操作性として、乳幼児と養育者感のIDS(Infant Directed Speech)に見られるような情動の操作を挙げる。
ここから、彼の得意分野である先史時代研究を駆使しつつ、ネアンデルタールの生活様式と、音楽を用いた情動コミュニケーションが推測されていくわけだが、こと音楽の使用に関する限り、論はやや浅い。それは、情動の扱いに原因があると思われる。
たとえば、ある音楽が相手の情動を操作するとして、それは、ある短いフレーズによってなのか、それとも長い歌によってなのか。もし後者だとして、それはじっさいのところどのような過程なのか。歌はただ、一個体によって一方的に伝えられるのか、それとも鳴き交わされるのか、あるいは同時発話なのか。それぞれにおいて、一個体にわき起こった情動と同じことがもう一つの個体に起こるのか、それともまったく異なる情動が起こるのか。そもそもここで論じられている情動はいったいどのような時間単位でのできごとを指しているのか。などなど。
こうした、情動の伝播を考えるときの基本的な手続きは、本書では「共感」「同調」ということばで片付けられがちで、コミュニケーション論としては食い足りなかった。
ミズンは各章で、
木の上のすみかで目覚めるアウストラロピテクス>バッハの前奏曲ハ長調
アムッド洞窟に赤ん坊を埋葬するホモ・アファレンシス>ファリャによる「スペイン民謡『ナナ』」
「冬の氷がとけはじめたころのネアンデルタール」>ベートーベンの合唱幻想曲
といった音楽タイトルをつけている。どことなく、動物ドキュメンタリ番組を思わせる選曲だ。読書のBGMとしての趣向なら、それはそれで納得だ。
ただ、これらの曲はいずれも、著者の主張するような「全体的原型言語」としての「音楽」からはかなり遠いものであることは注意しておいたほうがよい。
これら、ホモ・サピエンスの音楽は、ただ長い一節によって相手の情動をかき立てるのではない。これらの音楽では、そこにさまざまなメロディの差異、和声の差異、同じメロディを別の和声に乗せることによって、音楽が周到に構造化されている。そしてこれらは、誰にでも単一の情動をかきたてるわけではない。
「全体的原型言語」というアイディアを音楽に結びつけるところまではよい。しかし、そこから先のミズンの音楽観は驚くほど素朴である。少なくとも、「憂鬱と官能を教えた学校」(菊地成孔+大谷能生)で、周到な音楽体系と情動との関係を知った者にとっては、ミズンの「カインド・オブ・ブルー(マイルス・デイヴィス) - 夕暮れどき、馬肉を堪能してから木に守られて休むホモ・ハイデルベルゲンシス」といったユーモアは、かえってミスリーディングではないかとすら思える。
仮にネアンデルタールに音楽があったとして、それを空想するには、全体的、とは何か、あるひとふしによって特定の情動がかきたてられるとはどのような過程かを考える必要があるだろう。
そしてなにより、ヒトの音楽と同じようなものをネアンデルタールに仮定しないから出発することだ。そんな空想なら、もう少し進めてみたい気がする。
新幹線で新横浜へ。車中、ミズンの「歌うネアンデルタール」を読む。前半、やや言語進化に関する話が列挙的な感じがするのだが、後半はおそらくミズンの専門である「心の先史時代」に関する記述がくるのだろう。
横浜美術館で新井卓さんの「鏡ごしのランデヴー Rendezvous on Mirror」を見る。ダゲレオタイプをきちんと見たのは初めてだったが、これはいろいろ考えさせられた。まずは、ラジオ 沼の第328回をどうぞ。
「細馬さんはなんか、ちょっとノイズの多いところがいいような気がするんです。」と言われて、動く歩道を乗り継いで桜木町駅のガード下へ。あちこちに貼り付いたガムの痕跡。ガードの柱に背をもたせかけてダゲレオタイプの撮影をしていただく。
写真論ではしばしば、撮ることと見ることとという対立が語られるが、じつは撮られるという問題が横たわっていることに気づく。
夜、新井さんのほか、同じくアーティスト・イン・ミュージアムに参加している川島秀明さん、学芸員の天野さん、木村さんらとお話する。いろいろおもしろい話があったが、ひとつ天啓のようにふってきた考えは、「最後に時間という体験は残る」ということだった。
ある時間に拘束される、という体験はなにものにも耐え難い。
つまり、ある体験をこの日記に書いたとして、それがすらすらと読み飛ばされたならば、その読み飛ばすという体験は、じつはたいしたことではない。
帽子をかぶっていないとどうにかなりそうな一日。今年の夏は部屋で籠城執筆する予定なので、10数年使っていたクーラーを付け替える。
動物の進化は垂直伝播を基本とする。ウイルスなどによる移入を除けば、進化は生殖細胞を介した突然変異の伝播によって起こる。生殖隔離によって極端なハイブリッドが起こりにくく、あちこちで起こった突然変異をいいとこ取りするという現象は仮定しにくい。
いっぽう、文化の場合は、言語や学習を介して、水平伝播や斜行伝播があちこちで起こる。
では、文化においては、まったく自由にものごとが進化するかというとそうではない。そこには、精神の慣性があって、あとから振り返れば、なぜあんな簡単なことが文化進化しなかったのか、と思うようなことが、なぜか達成されないことがある。ちょうどブニュエルの『皆殺しの天使』のように、パーティーに集まったブルジョアにしか見えない壁というものが、人を妨げうる。
たとえば、郵便の歴史において、封書と絵はがきと電報には下図のような関係がある。
あとから振り返るなら、ここには単純から複雑という歴史がありそうに見える。つまり、一枚の紙に封がプラスされる。あるいは一枚の紙に電気というテクノロジーが付加される。だから、現在から見て最節約的に見えるのは以下のような進化の図である。
しかし、事実は異なる。郵便の歴史を調べていくと、じっさいには以下のような時系列でことが起こっている。
朝から動物行動学の講義を5コマ。昨年同様、「生物から見た世界」を下敷きに話を進めたが、実例に関してはだいぶ入れ替えた。昨年は講義が終わった後、体重が二キロ減っていたので、今年はどうかなと思ったが、やはり2キロ減っていた。帰ってから頭が泡立つような感じ。
TVをつけたら亀田・ランダエダ戦の番組をやっていたが、まるでK1のような番組づくりで、どうやらゴングまでは相当時間があるらしい演出だったので、ゴングは9時だろうと踏んで飯を作ったり風呂に入ったり。
どんなビッグ・マウスも、きっちりと負けを体験せざるを得ないときがある。11,12Rで崩れ落ちるようにクリンチに逃れる亀田を見て、過酷な試合だなと思う。が、判定は意外な結果に。ジャッジ後、カメラがまったくといっていいほどランダエダを捉えなかったのが印象的だった。
ある現象を「視点を変えて見る」という言い方をしばしばする。あたかも現象が3Dですでに構築されており、それを周りから見るような感じを与えかねない。しかしじっさいに起こっているのは、視点の変更とともに、現象の3D構造じたいが変わっていることではないか。
三中さんの本を読みながらふと思いついたのは、もしかすると、「視点を変える」というときに起こっているのは、ひとつには、分岐図を系統樹化するときの根(root)の取り方の変更なのかな、ということだ。類関係が分かって、分岐図が書ける。しかし、どこから手を付けていいかわからない、ということがよくある。そのとき、とりあえずの出発点を設定する(たとえばいちばん年代の古いもの、というふうに)。すると、その出発点が根となって、樹ができる(たとえば編年体、というふうに)。
樹を描き終わったら、また別の根をとって再出発してみる。
ときには、ある根をとったときに、分岐図じたいに違和感が感じられることがあるかもしれない。時間軸に添ってみたときにだけ顕在化する分岐図の矛盾というのは、ある。そのときには、分岐図じたいを組み替えて、再びいろいろな根をとってみる。 そんな風に考えていくと、分けることと、それを時間に添って考えることとのあいだにある、さまざまな思考の可能性に気づく。
たとえば、1900年から2000年までのある歴史を考えるとき、その分岐図を、1900年からではなく、1950年からつまみあげてみよ。1950年を根に取ったときに何が見えるか。
あるいは、KJ法などで類に分けるとき、それらの分岐を考えてみること。次に、その分岐に添って、自分がどの類からどの類に注意を移していくのか、その注意の移動プロセスじたいに注目すること。