毎年、大学の北東側の空き地にひばりが何羽も住み着く。広々とした空き地は、土手から見ると透いて見えるが、降り立つと意外に草は深い。何度かキジが出てくるのを見かけたこともある。
ひばりはこの空き地の真上に浮かんでいる。はばたきはせわしないが、位置は少ししか変わらない。ゆっくりと垂直に上下する。
昔、垂直に空気を吹き上げてピンポン玉を宙に浮かせるおもちゃがあったが、あれに似ている。
今年のひばりはやけに人なれしていて、通学路のまん中に平気でとまっていることがある。冠の形が見えるところまで自転車で近づくと、ようやく空き地のまん中に飛び込む。その小剣のような翼。
フランスvsセネガルを見ながらぎょーとかもーとか叫ぶ。
今日もまっとうに講義ゼミ講義しながら、(おそらくいま、多くの人がそうであるように)ぼくも気持ちだけはドリブルを蹴るように加速減速を繰り返している。ディフェンスはどこにいる。
小柴くんは収納に興味があるという。じゃあその収納で卒論で書いてもらおう。というわけで、今日は彼がコピーしてきた過去のオレンジページの収納特集を見ながらあれこれ話。
「見せる収納」というのが、ひとつのキーワードだと思う。見えるから使う、見えないものは使わなくなる。「見せる収納」とはまず、ユーザー自身に何があるかを把握させるインターフェースである。
しかし、それは同時に、他人に見せるものでもある。現在のワイドショーなどでリフォームや収納特集が花盛りなのは、収納が基本的に「見せる」ものだからだ。
それにしても、テレビ番組に依頼して収納改革してもらう人はともかく、一般人はいったい誰に台所なんぞの収納を見せるというのか。
やはり台所が他人に見えるようになったのが大きいのではないかと思う。
LDKという構造は台所のすぐそばに客を招きいれるようになった。このときから台所は人様に「見せる」場所になり、演技的な場所になった。キッチンに「カウンター」という名の配膳台が登場し、調理場の見えるレストランやバーの構造をまねるようになったのも、これと無関係ではあるまい。「見せる収納」はこうした住環境の変化がもたらしたものではあるまいか。
さらに、台所が収納改革を必要とするほど食料品であふれてしまうのは、週末まとめ買いの流行とも関係があるだろう。
つっぱり棒の歴史、すきまストッカーの歴史など、疑問点続出。収納史は意外に深い。おそらく大正期から今日までの住宅生活の歴史の断面が見えてくるのではないか。
九鬼周造「風流に関する一考察」ですごいのは、風流の正八面体の「内部」から光を投射するくだり。
「幽玄」にあっては立体性が顕著である。(中略)ただし「幽玄」では陰影が役を演じている。風流正八面体を半透明体と仮定し、二項点「華」と「笑」との作る稜の上において中央より「笑」に近いところに発光体を置くならば、幽玄正方錐は頂点に近づくに従って陰影を濃くするであろう。
立体性を語るときに、「半透明体」を考え、光源をその内部において陰影を出す。かくしてパースペクティブ(深み)が現れる。このパースペクティブの中を移動しながら思考は進む。「風流に関する一考察」はひとつの投射論としてとらえることができる。
ゼミ、さらに実験。またも予想を裏切るおもしろい現象が。そしてそれを含めてこれまでの実験結果を説明する包括的な考えがその場で浮かび、3回生にがーっとしゃべる。
このおもしろさを順序だてて説明するには論文を二つ書く必要がある。と、ここに書いておこう。
一日じゅう実験。やりはじめるまでが面倒だが、目の前で実際に被験者が動きはじめるとおもしろくてしょうがない。次々と予想が浮かんでは目の前の行動によって裏切られていく。人はきわめて単純な場面で思いがけない手を打つ。
そのあと一緒に実験した4回生を交えてゼミ歓迎会。研究室に13人も入るのかと思ったが、パソコン机を外に出して軽く模様替えするとなんとかなった。
サッカー部出身の甲斐君が「もうそわそわしてきてます」。そりゃそうだろうな。サッカー音痴のぼくですら、BSの入る電気店で立ち止まり、カメルーンのエトーがゴールにとどめをさすのを見て、ああこの季節が来たと思うんだから。長いパリでの停滞、そこから中津江村、エムボマ、ウォメ、エトー。どうよ。この予想を裏切るクロスの長さ。
ワールドカップの時期に日本を離れることにしたのは、うかつ過ぎた。そして絶不調。しかしそこからクロスは上がる。と思うことにしよう。
不調は不調として手近な岩波文庫など開いてみる。じつは読んだことのなかった九鬼周造「いきの構造」を読みはじめる。明治研究なんぞをやっていて「いきの構造」を読んでないのはジャズ批評家でコルトレーンを聞いたことがないのと同じくらい恥ずかしいことである、と読んだ今にして思うが、読む前の自分のことは忘れよう。ともかくあまりにおもしろい。
いき=媚態+意気地+諦め。これを表紙に描かれている四角柱の特定の点として解釈してはいけない。
「いき」の構造で重要なのは、媚態に「接近」という空間移動を見ていること、そして諦めに「消滅」という時間移動を見ていることだ。このことによって、「いき」は単なる二項対立の中間点ではなく、ダイナミックな現象となる。
たとえば、媚態についてはこうだ。「アキレウスは『そのスラリと長い脚で』無限に亀に近迫するがよい。しかし、ヅェノンの逆説を成立せしめることを忘れてはならない。」媚態を0にならない接近性と見て、九鬼節はさらに飛ばしまくる。
「継続された有限性」を継続する放浪者、「悪い無限性」を喜ぶ悪性者、「無窮に」追跡して仆れないアキレウス、この種の人間だけが本当の媚態を知っているのである。
アキレスと亀に媚態を見て無限小ならぬモナドを濃くするその書きっぷりには、ホフスタッターもびっくりだが、ここでのポイントは、アキレスと亀の差が極小であることではなく、極小に「近づいていく」こと、つまり、空間移動中であることに「いき」を見いだしている点だ。
媚態はほかにもさまざまな例で表されている。
「姿勢の相称性が打破せらるる場合は」「『いき』は異性の方向をほのかに暗示する」。露骨に腰をふるのが媚態なのではなく、相称性からのずれが「いき」。
透かしに媚態を見る部分も、透かし絵はがき愛好家としては見逃しがたい。うすものを身に纏うことは「いき」。それは
「いき」の質料因と形相因との関係が、うすものの透かしによる異性への通路開放とうすものの覆いによる通路封鎖として表現されている(p51)
からなのだ。つまり、単に向こうが見えるだけではなく、向こうを覆うものが見えるという点が「透かし」には重要。この透過性の捉え方には激しくうなずきたい。ちなみに、「風流に関する一考察」で、九鬼周造は、ことばにおける「s」「sh」の音に感覚の尖鋭化した「細み」を聞いている。この点も「透く」ということばを考える上で重要な点だろう。(さらにちなむなら、九鬼周蔵は異性や肌への「通路」ということばを好んで使う。パサージュを想起させる。)
媚態にはじつは時間移動もある。湯上がり姿が「いき」なのは「裸体を回想として近接の過去にもつ」からだ。つまり、裸体を空間で隔てた「いき」がうすもので、時間で隔てた「いき」が湯上がり。
さらに空間移動に時間移動を重ねるのが「流し目」だ。流し目では「異性への運動を示すために、眼の平衡を破って常態を崩す」のだが、
しかし、単に「色目」だけでは未だ「いき」ではない。「いき」であるためには、なお眼が過去の潤いを想起させるだけの一種の光沢を帯び、瞳はかろらかな諦めと凛乎とした張りとを無言のうちに有力に語っていなければならぬ。(p54)
とこうなのだ。
つまり来歴なき色目にはぐっとこない御仁も、過去から現在への時空間移動をもらす媚態にはぐっとくる。ふう。ここまでで、すでにして何度も首筋に抱きつかれたような気だるさを覚えるのだが、まだまだ行こう。
「諦め」が時間経過を表すことは、次の渋味に関する記述から明らかだ。
渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。(p41)
単に甘味の反対が渋味だと言っているのではない。現在の渋味は、はじめから渋かったのではなく、かつて甘かった。過去の甘味の忘れることで渋味となる。過去の甘味が回想される。では、「いき」と甘味-渋味の関係はどうなるか。
甘味を常態と考えて、対他的消極性の方向へ移り行くときに、「いき」を経て渋味に到る路があることに気附くのである。(p41)
という文章からもわかるように、「いき」はこの甘味から渋味へ到る路の途中にある。「いき」は単なる中間点ではない。「甘味」の記憶を含んでいなければ「いき」ではない。
同じことは音や色についても言える。「色合」とは、「明瞭な把握にもれる音色や色合を体験として拾得する」(p86)ものだ。「もれる」ためには、もれ出づるその出所と出先が必要となる。この、明瞭な把握という出所から、明瞭でない場所という出先への時間経過の中に、色合が感覚される。「いき」は色気のうちに色盲の灰色を蔵している(p74)のであり、色っぽい皇帝のうちに黒ずんだ否定を匿している(p75)。
さて、これらの「いき」がさらに微妙なのは、いったん「いき」を目指して形にこだわると「無粋」になることだ。九鬼周造は「いき」を形式化を「抽象的な形式化」と呼び、何度も牽制している。
九鬼周造の「いき」の感覚は疑問をはさむ余地のないほど揺るぎなく、それでいて抽象的な形式化を拒む。形にするまでもなく、確固たる「いき」がある。それは確固たる存在ではなく確固たる変化である。そのありかを空間や時間の一点にではなく、変化の過程におく。
「いき」は常に明瞭な対象(形)から空間や時間を隔てたところに成り立つ。つまり、「いき」は明晰な感覚であるにもかかわらず、空間的にも時間的にも明瞭さから離れたところで成り立つ。これはかなり奇妙な議論だ。にもかかわらず、ぼくには非常に納得がいく。「いき」の不明瞭さがよくわかってしまう。つまり、ぼくには、はっきりと不明瞭な感覚があるわけで、このことはよくよく考えてみなくてはいけない。
ところで、おそらくこうした「いき」の感覚は急速に失われつつある。今の学生に「いき」の意味についてたずねても、江戸っ子だってね、粋だね、の意味しか返ってこない。つまり、過去の遺物としての「意気」と、生「意気」のみが残って、媚態と諦めは消滅してしまったらしい。
まったくあてずっぽうで書くが、媚態と諦めを含む「いき」が生き残っていたのは70年代初頭までで、それはヒデとロザンナの「粋なうわさ」以降、消滅の道をたどったのではないか。
歌が世につれるとすれば、歌謡曲からJ-POPへの変化は、世間における意気と媚態と諦めの乖離を示している。そして意気が生々しく生意気に垂れ流され、媚態が距離を失い、諦めが癒しの対象でしかなくなったこの世は、いまや、ヘビーかつクールににじり寄り、距離を追い詰めながら諦めることを必要としている。クレイジー・ケン・バンドが昭和や60年代を取り上げるのを、単なる後ろ向きのノスタルジーとして捉えないこと。彼らが「イイね!」というカケ声とともに肯定しているのはおそらく、歌謡の復権であり、「いき」の復権なのだ。このことはよくよく考えてみなくてはいけない。少なくともそれは、「文語」の復活ブームなどよりもずっと深い。
ここ二週間というもの、毎土曜AIBOの無線LAN操作に挑戦しては通信不能、まったく原因がわからず、WWWで検索をかけても「うちのAIBOみてみて!」みたいな頁ばっかりで思わずモニタをぶんなげたくなるありさまだったのだが、ようやくわかった。
AIBOの通信には「IEEE802.11b準拠の無線LANカード」が必要なのだが、入手したLANカードPCWA-C500は「IEEE802.11a準拠の無線LANカード」だったのだ。
ふう。
まあ理屈の上ではこっちの不注意なんだろう。
「IEEE802.11a」がワイヤレスLANの新しい標準規格であることも、2.4GHzワイヤレスLAN/Bluetooth機器との通信はできないことも、なるほど気づいてみれば、あちこちのカタログやWWWに書いてある。
しかし納得がいかん。なんで、IEEE802.11などという長ったらしく意味ありげな数字を並べた規格名を使うんだろう。最後のaとかbとかの違いだけで、そんな重大な差があるなんて、到底想像できないぞ。藤子不二雄Aと藤子不二雄Fだっていっしょにマンガばかり書いてたんだぞ。それともaとbでは、「まんが道」と「ドラえもん」ぐらい違うっていいたいのか?(いかん、たとえがまずい)
ようやく一つ原稿をあげる。まだカルマだらけ。
講義、ゼミ、講義、ゼミ。アニメーションゼミはノーマン・マクラレン。悪かろうはずがない。
二十代の頃はマクラレンの初期のシネカリグラフィのはじけっぷりが好きで、後期は濃すぎてちょっとしんどいななどと思っていたのだが、「カノン」や「パ・ドゥ・ドゥ」を久しぶりに見ると、枝葉に樹液が行き渡っていくような充実感を感じた。
「カノン」は実によくできている。まず、位置関係がかもし出す関係(ABCのダイス)、そして線の動きがかもし出す関係(アニメーション)、最後に所作がかもし出す関係(人物の多重露光)。
カノン、つまり遁走曲では、先発と後発の時間差が重要になる。
時間差がわずかだと、遅れていること、ずれていること自体が楽しい。
しかし、時間差がある範囲を越えると、遅れやずれの感覚は希薄になる。同じ軌跡をたどりながら、独立の線であるかのように見えてくる。そして、同じ軌跡をたどりながら、二つの線はある瞬間いきなり関係を持つように見える。つまり、カノンは時間差を大きくとることによって、時間差の「ナルシス」となる。
「カノン」を見ると、後の「パ・ドゥ・ドゥ」や「ナルシス」などでマクラレンがやりたかったことがよくわかる。最初から関係によって軌跡が生まれるのではない。軌跡の偶然によって関係が見いだされる。見いだされた関係が軌跡へとはねかえる。軌跡に偶然をよびこむためにいくつもの時間差が試みられる。軌跡が生むストップモーション、ストップモーションに近づく軌跡。時間の円環をナルシスはスピンアウトする。
朝の八時に北大路駅へ。こんなに早くから開いている古本屋でちょっとだけ油を売り、彦根へ急ぐ。
へろへろになりながら講義、ゼミ。
発泡酒片手に自称「じじいキラー」の院生のFさんがそのキラーぶりを発揮して入手したという台湾製干し肉を千切っては食い千切っては食う夕食。はっ、原稿は。
夕方、やなぎさんのところへ。彼女の今度の個展カタログに文章を書く約束をしていたのだった。アトリエで完成間近の作品を見せてもらい、それから飲みつつあれこれ話すうちに終電を逃す。
アトリエの離れに泊めていただくことになり、部屋に案内されて入ってみると、なんとそこには煎餅と水とカップ式の津軽そばとCDプレーヤーが。この部屋を今晩は独占させていただけるという。こ、これはもしかして「かんづめ」なのでは。
というわけで、煎餅をかじりながら原稿を書く。ここで、2500字をさくっと仕上げれば私も一人前だが、このところの絶不調でなかなかはかどらず。午前4時まで粘ったが就寝。
「明治の読売新聞」CD-ROM到着。HDにインストールするのに3時間くらいかかったが、いったん終わるとあとはCDを入れ換えなくとも楽々検索。パラダイス。夜半を過ぎても検索止まらず。
夜、「ロード・オブ・ザ・リング」。絶句。ぼくは原作を読んでないが、それでもこれがいかにぶっとい覚悟の上に作られた映画かはじゅうぶんわかった。少なくとも映画館を出た段階では、そうよ、今日からは我欲を捨てて運命を受け入れるホビットのように人生を生きるんだわ、と思った。
とにかく、出てくる役者の顔がいい。イアン・ホルム、イアン・マッケラン、クリストファー・リーといったベテランはもちろん、ホビットの四人、イライジャ・ウッドの首すじの太さまでがすばらしい。ロケーションも合成も全編美しいが、とりわけ、指輪の見せるヴィジョンのピンスクリーンアニメーションのようなテクスチャ、ホビットの家でガンダルフを大男に見せるスケール感の工夫、アルゴナスの像の巨大さ、塔上からの視点移動など、ひたすら圧倒された。
ウィザードリー体験者としては、バルログとの戦いでガンダルフが落ちた後に飛んでくる矢のむなしさとか(クライマックスのあとの弱い敵の、あの手応えのなさだ)、至近距離でも矢をつがえることにこだわるエルフとか(最後は直接矢を相手に突き刺してた)、ひたすら敵をやりすごすホビットの小心さとか、戦闘場面にもぐっと来るところがあった。
これまで、ニュージーランドという国は死角にあったが、レン・ライとピーター・ジャクソンの国として急激に気になってきた。
部屋を模様替えしてみたりする。
手元の映像資料をリュミエール兄弟がグラン・カフェで上映した順番に並べ替える。「新兵いじめ」と「庭番」がどうもバージョン違いのような気がするが、今後の課題としよう。
ここのところ、オクノ修「こんにちわマーチンさん」がヘビーローテーション。繰り返したどられた歌の呼吸。どの単語、どの音にもちゃんと匂いがある。
部屋を片づけてみるが、頭があいかわらず前に進まない。絶不調といっていい。
畠山直哉氏のカメラオブスキュラのスケッチを壁に貼ってなごむ。
この前のペヨトルイベントのとき、外で畠山直哉氏がひっそりと、カメラオブスキュラをやっていた(もちろん見た)。で、そのカメラオブスキュラを使って3つの時刻をスケッチしてつなぎあわせたもののコピーを配ってた(もちろん入手)。三つ星屋根の昼のキメと夕暮れのキメが、一枚に並んでいる。
ピアノを弾いてみる。
春秋社の森安芳樹「ラヴェル全集」の驚きの運指。といっても、バイエルもろくに弾けなかったぼくに「夜のガスパール」など弾けるわけもなく、もう何ヶ月も「ハイドンの名によるメヌエット」ばかり練習している。ラヴェルは左右の手が近寄ってお互いのなわばりを侵しながらメロディを交差させる。これを縦に弾くと、左右がまじっておフランスなぼわんとした和音になるところだが、そこを涼しく凛として横に弾きたい。弾きたいとは言っても、こちとらにはそのノウハウがない。
で、森安版の運指には、そんなノウハウのない初心者にも「あ、これはこのメロディラインをキープするために同じ音をわざわざ違う指で弾きなおすのね」と納得のいく論理が貫かれているのだ。
その運指に乗せて、つっかかるところをえいやっと弾き飛ばすとき、さっと頭が晴れる瞬間がある。適切なスピードで弾かれたときだけに残るメロディ、そのDやGの残響が、新たな和音の中に異なるボリュームで名残っている。そう、こんな風に涼しくやりたい。
アニメーションゼミはスタレヴィッチにオスカー・フィッシンガー。悪かろうはずがない。このゼミをやるにあたって1986年に出た伴野孝司&望月信夫「世界アニメーション史」をあちこち読んでいるのだが、その充実した内容と視点には繰り返し驚かされる。
情報誌をまったく見ない生活をしていると、今年イメージフォーラムでレン・ライ特集をやってたことなどちーとも知らなかった。次は十年後か、それともニュージーランドか。