それにしても、蛹は、ため息が出るような形をしている。
終齢幼虫は、ある時期になると、とつぜん、枝を探し回り、手頃な場所でぶりぶりと脱糞し、尾を固定し、背中に糸を回し始める。それはもう運命であって、逃れることはできない。(脱糞するのは消化器に残ったものを排出するためらしい)
そして、その細い細い背中に回した糸にもたれて、無防備な体を支える。鳥が来ても、暴風雨が来ても、もうなすすべはない。それが二日目には脱皮し、三日目にはもう壁とみまがう模様に色変わりし、四日と生き続けている。戸を開け閉めすると、振動が伝わるのかわずかにぴくりとする。
あんまりよくできているのでスケッチする。写真に撮るのもいいのだが、絵に描こうとすることで、ひとふしひとふしの造形に目が行く。頭には、目玉や触覚を収めるためなのか、角張った突起が出ている。いまだに蛹のCTスキャンというものを見たことがないが、もしやってみたら、さぞかし見事な収納ぶりがわかるのではないか。
記号の時間・ほうきぼしの時間(新幹線の中から)
歌舞伎町でア ヤさんとコロスケさんにちょっと会う。わあ、もうほんとにぽんと出てきそう。
吉祥寺STAR PINE'S CAFEで「ドキッ! 岸野雄一だらけの水泳大会(ポロリもあるよ!?)」(*WATTS TOWERS/SPACE PONCH/ヒゲの未亡人/GIRAGIRA KNIGHTS)
幕間の「舞」も含めすばらしかった。長丁場でたっぷり演じる体に浸かっていたせいなのだろうか、最後のワッツタワーズの後半(ジョンが出てくるあたりから)では、いつにも増して岸野さんの情感が伝わってくるようだった。
ピアニカが溶けた、とあとで聞いた。詩的なトラブルだ。
よいライブを見た後の常として、ならば自分には何ができるのか、と自問せざるをえない。意識と歌の起源について、帰りの道すがらあれこれ考える。進化学者はみんな岸野雄一を見ればいいのに、と思う。
ほうきぼしは横切る(昨日の話の続き)
この、10-15分歩きながら話すというのはいいやり方だなと思った。話に気配が呼び込まれる。そして、話しているときに気づかないことが聴き直すと決定的であることがわかる。足穂は、このような事態を文章というメディアの上だけで引き起こした。
エスノメソドロジー輪読会。
無事脱皮を終えた。
それにしてもつくづくおもしろい形をしている。
ベランダで緑色に光る突起があるのでなんだろうと思ってみたら、アゲハの幼虫が蛹化するところだった。そばにこれといった柑橘系の木も見あたらない。どこからどのような長旅をして、ここまでたどりついたのか。こんな背景をわざわざ選んだのはあっぱれだが、あまりに目立つのでそのうち鳥に食べられないかと思う。
チェルフィッチュの「演劇論」に、感情とイメージについて興味深い文章があったのでリンクしておく。
いちおう、情動研究に首をつっこみかけているので、「感情」「イメージ」ということばには慎重に距離を置きたいが、ここで書かれていることは、演劇を成立させるためのことばとしてとてもよくわかる。
前にも書いたけど、ダマシオに従えば、「感情 feeling」と「情動 emotion」は似て非なるもので、区別したほうがよい。感情というのは、カテゴライズして名前をつけることができ、意識することができる。いっぽう、情動のほうは+-のようなベクトルはあるけれど、意識にはのぼりにくい。
おそらく、岡田氏が言わんとしている「感情」というのは、「情動に乗った感情」のようなもので、「イメージ」とは、情動を動かすためのいくつかの種のようなものなのだろうと思う。そして、その種とは、単に、泣きのツボのようなものとは違って、もっとぶっとい情動をどんと引き起こしながら、いくつもの感情に分岐していくようなものなのだろうと思う。
夜、仕事が一段落して松田さんと自転車を飛ばしてラーメンにっこうへ。麺が変わってより味わい深くなった。ラーメンというのは、味以前のマッチョな演出とか精神論に向かいがちなむずかしい食べ物だが、ラーメンにっこうの西山くんはきわどいところで、おいしいラーメンに一歩ずつ近づいていると思う。やっぱり舌がいいんだろうな。
荒神山にものすごい三日月。田圃の中を飛ばしていくと、何かすさまじき心地がする。
ぼくのような粗忽なおっさんが紹介するのもためらわれるのだが、日曜日に、幸田和子さんからいただいた『dioramarquis』01。「ジオラマ侯爵」というタイトルに、すでにしてジオラマ、パノラマ好きとしてはノックアウト。
この01号は昨年出たもので、羽良多さんデザインの細い線がひりひりする一冊。その目に見えないものへの触覚のような線と呼応するが如く、白い水引きがひょいと本の外に張り出している。
カラーページには、ブルトン編纂「黒いユーモア選集」とフィニィ挿絵の「O嬢の物語」。山下陽子さん作のカードが一枚、おまじないのように添えられている。「ヤムヤム・インナートリップ」に気後れしたままついぞ入ったことのなかった男子も、覗いていいのかしらん?
その『dioramarquis』01も含め、とらんぷ堂のこのカタログに載ってる本、どれも手にとってしげしげ読みたい感じ。
朝、わたしと同じくソファにぶっ倒れている大谷氏に無言の挨拶を送り、レジデンツを辞す。米原まで乗り過ごした(最近よくやる)。がーっとシャワーを浴びてしばし寝て、通常営業。
日曜の産経新聞に生田誠氏の書評。少なくとも新聞書評の質量からいえば「絵はがきの時代」はベストセラー並み、ではある。売上げは全然そうではないが。新聞・雑誌・WWW評のページを作りました。買おうかどうか迷ってる方、背中を押されてみてください。
ぶーんと鳴ってる筒はよく観るときょ、きょ、きょ、挙動不審。小さいモーターが生きもののように回っている。畳を踏むとぴくぴくする。屋上にはスリッパがあり、外には作品の骨のような筒と石。
とくにこれ以上書かないけど、またきゃつに何か持ち帰らされた感じだ。
京都芸術センターにチェルフィッチュの「体と関係のない時間」を観に行く。脚本も映像も舞台も見たことのないこの公演をなぜ選んだかというと、昨年のユリイカ「この小劇場を見よ!」特集で、演劇のことばとからだについて、岡田氏がとてもおもしろい論考を書いていたからだ。
そして、じっさいとてもおもしろかった。これはジェスチャー研究者はみんな見たほうがいいんじゃないか。
舞台は、小山田徹さんによる、モデルハウスの床のような舞台。床面は全部木で、壁はなく、間取りの手がかりとなる部屋の仕切りだけが設えてある。そこに男二人、女一人が上がる。
最初に、女性がぎこちなく笑いながら、左手で右腕のひじのあたりをさする。それが妙にこちらの目を惹きつける。そのあと、「こんなふうに」(あるいは「ここ・・・」だったかもしれない)と、指示語から最初の台詞が始まって、文章にならないうちに止んだ。
もうその「こんな(ここ)」が指し示すものの、思いがけない広がりで、頭がぶわっとなってしまった。
ふだん、ぼくたちは何気ないことばとしぐさのタイミングによって、指示語の指し示す対象を絞り込んでいる。
しかし、こんなふうに、そのタイミングを少しずらせたり、中断させるだけで、指示語の可能性は膨大に広がるのだ。「こんな(ここ)」は女性がなでさすっている右腕のひじのあたりのことかもしれない。でも、もしかしたら彼女が立っているそのポーズ全部を指すのかも知れない。いや、彼女が立っている位置のことかもしれない。この三人がいまいるこの家のことかもしれない。あるいは三人がこの家にいること、なのかもしれない。はたまた、この演劇を始めようとしている彼女のことかもしれない・・・
普段、無意識のうちに束ねられ、確実にある特定のものやことに向かってナヴィゲートされていることばが、ほんの少し体の動きをずらすだけで、まるできつく締め上げられていた花束をほどくように、あちこちに向かって指し示しを始める。逆に体の側も、ことばの軛から離れ落ち、別のことば、別のできごとに向かって指し示しを始める。そんな感覚が、とにかく劇中ずっと続く。このゆるめられた指し示しの広がりは、ときとして狂おしいほどで、そのすべての可能性を追おうとすると気が遠くなりそうだった。
床だけの家の、見えない架空の壁越しに交わされるまなざし。俳優の独断なのか、舞台外のきしみに驚いたようにふりむく所作(あれは、通常の演劇なら、反応しないところだ)。「ね」という助詞が共有をせまるその幅はどこからどこまでか。「妻」というなまなましいことばは、そこにいる女性が引き受けるものとは限らないのではないか。はたしてあなたはそのトサカのように広げた頭の上の手にふさわしいことばをしゃべろうとしているのか? そして身を少しずつかがめていくこの女性の時間は、彼女の独白の時間とは別の、無意識に支えられてはいないか。などなどなど。
大谷能生氏の音楽は、情動の動き、ないしはその表現型としての「姿勢」のようなものに感じられた。音楽が切り替わることで、会話の底に伏流している情動のようなものが切り替わる。それは会話の内容を即座に切り替えるようなものではないが、明らかに会話がシフトしたように感じさせる。常々、会話には複数の時系列が同時に走っているということを観察している人間にとって、この感じはとても近しいものだった。
今回の劇は、他のチェルフィッチュの作品とはかなり違うアプローチだという。とにかく他のものも全部見たい。
上演のあとにアーティスト・トークがあったんだけど、その中で印象的だった岡田氏の発言。このように長い間で隔てられ、あちこち組み替えられたことばを俳優が言おうとすると「イメージを太くしないと言えないんですよ」とのこと。逆に、「イメージを太くして」やると、このことばは間引いてもだいじょうぶだな、というのがわかってくるんだそうだ。
だから、今度の劇ではすごくことばがずいぶん間遠であちこち入れ替わっているけど、あれは、稽古を通して役者の(そしておそらくは岡田さん自身の)イメージを太くした結果なんだという。
このところ、ある行為を持続するための感情とはなんだろうということをずっと考えているのだが、そこに「イメージ」ということばを導入できるだろうか。たとえば、ある種の感情を励起したり維持するものとしての「イメージ」、というふうに。
岡田氏の発言のみならず、床だけの家にあれこれ物語を見ていく小山田さんの家妄想がおもしろい。まるでガラスの仮面の「通り雨」の舞台である。内装について小山田さん曰く「自分の家を考えるのは難しいですね、むしろ離れてる人のほうがあれこれ見えやすい」。昨日の今日だけにぐっと来た。
ああそうか、今度借りる部屋は、誰かに内装をまかせるといいなと思う。
けいぶんしゃへ。ユリイカ9月臨時増刊号総特集*稲垣足穂 の出版打ち上げの待ち合わせ。
けいぶんしゃは、十年前まで京都にいた時分にはよく来た本屋。前から気になっていた「1914年ヒコーキ野郎のフランス便り」を立ち読みして、その克明な記述にすっかり参っていたら、「それ・・・ぼくが書いたんです」とそばで言ったのがじつは扉野良人さんだった。うわあ。
そうするうちに、向こうから偶然、山本精一氏が現れて、分厚い足穂特集をさくっとお買い上げになった。
東鞍馬口通りの店で打ち上げ。この通りには昔住んでいたので、妙な感じがする。編集の郡さん以外初対面の方々だったのでどうしようかと思っていたのだが、自己紹介したら「ああ、『PH』の」と言われてちょっと楽になった。
扉野さんが持ってきた、竹中郁編集の「きりん」の詩がすごい。選者の力もあるだろう。大人のフレーズが入りすぎた作品は佳作どまりにしてあって、子どもがどんと善悪も解らずことばを終えるような詩が大きく載っている。フォントやイラストもすばらしく、とあるページをぱっと開いて羽良多さんが「みてみて!この見開き、もう完璧だなあ」。
その羽良多さんは、小学生の時、なぜかこの雑誌に「アフリカの地図」を投稿して掲載されたそうだ。
スパークスの話をちょっとすると、ラジエーターのような(蜜蜂の巣のような)詩を書いた田中宏輔さんが即座に反応し、郡さんが「Girl from Germany」をフェバリットに挙げる。
ページをめくる話をしてるとき、近代ナリコさんが、そうそう、あたし読むのがすごく早くて、相手を待ってるあの時間ってすごく特別なんですよ、とおっしゃる。誰かと本を読む経験についてかくもヴィヴィッドに反応した方は初めてだ(ふつうの人は、読書は一人でするもの、と思っているものだ)。共同読書の経験値、ということを考える。そんなええ話のあとになんだが、近代さんが編集するとってもコンクでチャーミングなあの「modern juice」は、毎号2000部発行されているとか。学術書の初版刷の部数くらいある。書店置きとかいろいろ含めてたいへんだろうなあ。
それにしても、昨日から、まるで長年の京都のブランクを上空飛行するような奇妙な感覚。
夜も更けて羽良多平吉さんといろいろお話。十代の頃以来、毎日書架から揮発してくる羽良多さんのデザインを浴びて暮らしてきたので、なんだか不思議な感じがする。物質と揮発のあいだにある、消息としてのデザインのこと。
揮発性物質、ということばを思い浮かべたあとで、これに似たことばがあったような気がしてくる。なんだろう。田村隆一だ。そうか、「腐敗性物質」だ。
すっかり酔っぱらって、チェルフィッチュの音響で京都にいる大谷さんの宿にふらふらと行き、エレピでユーミンを弾きあううちに気絶。
おいしい朝食をいただき、壁画を鑑賞し、細野晴臣&東京シャイネスの演奏に送られるようにタムラ邸を辞す。
アパートの下見。サカネさんが煎れるジャスミン茶は花がゆっくり開く。「これ、今度はタテに伸びるんですよ」と言われて、しばらく見つめていたら、ほんとうにタテに伸びるので驚く。別役実の話などしながら、お茶を飲み、珈琲を飲み、フリスクをかじる。それでもうこのアパートに住むような気がしてきた。
不動産屋の人がやってくる。とても話の早い人で、ものの五分で話が決まる。
近所の駒井邸を見物。ひところ、毎日のように駒井さんの顔を見て暮らしていたので妙な感じがする(理学部の会議室などに、肖像画や写真がかかっていたのだ)。空気の違う庭園。ススキの群れ。
疎水沿いをゆっくりと散歩する。農学部のグラウンドから学生が土手にあがってくるのをみて、「こういうところをみると、ああ、昔こういうのってあったよなあ、って感じがしますか?」とサカネさんがいう。じつをいうと、そんななつかしさなど思いもよらず、ただ不思議な生きものが歩いてるなと思いながら見てただけだ。
川を覆うような桜の木枝に蜘蛛の巣が張ってある。西日に透かすと、蜘蛛の巣はいたるところに見つかり、ここぞというところには必ず張ってあることに気づいて感心する。さきほどの学生のようだ。サカネさんはタバコを吸っている。
むかし京都に住んでいたときに何度となく通った場所なのだが、そのころはこんな空気には気づかなかった。たぶん、ずっと住んでいたらこんな風には気づかなかっただろう。感覚には、おそらく長い時間をかけて生まれる慣性のようなものがあって、そこからなかなか逃れられないのだ。
一時間ほど遅れて磔磔へ。ちょうどBlack birdをやっているところだった。うわあ、と思ったら、アンコールでClose to you(しかもウーリッツァで)。Close to youは、ピアノを独習し始めたとき最初にコピーした曲で、Black birdはギターを独習し始めたとき最初にコピーした曲である。
彼女のオリジナルにも、世代は違うが、ピアノを弾き語る人独特の、メロディ進行の癖のようなものがある。
ピアノ、ギター、ドラム(大友さんとのデュオはしびれた)を弾き回る多彩なステージ。
例によって吉田屋で打ち上げ。どうやら、祥子ママと浅からぬ縁があるらしいことが判明。そのママのパワーにたじたじするのがまた楽しい。祥子さんは、いま和泉式部に強く惹かれているというので、ああ、それでしたら西行の我が身を自然に移すあの態度は和泉式部に影響を与えているのでは、などと、でたらめなことを講釈して大友さんに「わ、インテリ」と言わしめたのだが、あとでよく考えると和泉式部のほうが100年ほど時代が早いのである。
途中、初対面のサカネさんがふともらした京都のアパートについての話に、すーっと惹かれてしまう。話をするまでは、京都に部屋を持つなどということは考えてもいなかったのだが、いつのまにか、ずっと前からそうしたいと思っていたような気がしてくる。「今月のLマガが左京区特集なので、急いだほうがいいですよ」とタムラ氏が追い打ちをかける。
毎度のことながら終電を逃し、そのタムラ氏のところにおじゃまする。
ほんの2、3曲、のつもりでかけたが、全部観てしまった。福岡の演奏は「ここにいた」、京都と狭山の演奏は「ここにいればよかった」。いつもながら安田謙一氏のライナーに、しかと空気が捉えられている。
以前書いた松本隆論と大瀧詠一論を見たという方から依頼があり、紙ジャケで再発されるはちみつぱい「センチメンタル通り」の解説を書くことになった。
生まれて初めて書くライナーノートなので、ライナーが満たすべき諸条件というのがよくわからない。果たして先方のご希望に添えるかどうかはなはだ不安ながら、書けることを書く。
それでも、繰り返し「センチメンタル通り」を聞き直したおかげで、このアルバムの新しい魅力がわかって、自分にとっては収穫だった。「鈴木慶一の街は惑星ソラリスである」という話。くわしくは発売後のライナーにて。
法人化が決まった頃から、会議がやたらと長い。それに加えて、学部サーバの入れ替えもあり、大学に来るとどうも落ち着かない。将来構想、カリキュラム編成、などなど。なぜ、わたしのようなズサンかつ気の利かない人間にそんな重要な案件が回ってくるのか不思議でしょうがない。
もちろん、自分の属する組織にわざわざ災厄をもたらすほどわたしはバカではない。が、同時に、どの種類の仕事をするとどんな杜撰な結果を自分が引き起こす可能性が高いかも、ある程度わかってはいる。わかってはいるが、そういうリスクというのを、組織は知らず知らずのうちに冒すものだ。冒さなければ、有能な人間にのみ仕事が集中してしまうからだ。いずれにしても、リスクは現場で起こっている。そのエッジにいるわたしにとっては薄氷を踏む思いである。
窓を開けると、強い陽射しの中を渡ってきた風は意外に涼しく、ロサンジェルスの11月を思い出した。
近刊のスパークス来日(10/20:東京、10/22:京都)記念本に、「ヒゲ考」を執筆。これ書くのに、手元のスパークスCDをかたっぱしからiPod nanoに入れたら、ほとんどいっぱいになってしまった。一日中スパークス聞いてるがちっとも飽きないぞ。来日公演がほんとに楽しみだ。詳細はこちら
最新作の一曲目「Dick around」はなんて訳したらいいんだろう? 歌詞カードには「ウダウダ」になってるんだけど、モノを扱いながら、なんかうまくいってない感じを出すのにいい日本語は・・・「モタモタ」とか?
24h喫茶で夜中にパソコンを打っていると、つるつるの床でこおろぎが跳ねている。
休日中にこなすべき仕事はいろいろあれど、なかなか手に付かず。
鬱心をなまらせるべくジョアン・ジルベルトの「サンバがサンバであるからには(Desde que a Samba É Samba)」のギターの運指を書きとめ始めたのだが、次第にとんでもないものに手を付け始めたことに気づいた。少なくとも、フォークギターやロックギターのコード概念ではまったく歯が立たない。耳には、さして難しいところのない響きなのに、タブ譜に変換しようとすると、なかなかうまく行かない。現象が難しいというよりは、それを解釈するためのモデルが頭にないのだ。モデルがないということは、その現象が新しい、ということだ。
音数はごく節約されており、押さえる指の形じたいには無理がない。たぶん、いったん習得してしまえばそれほどむずかしい運指ではないのだろう。しかし、その運指を支えている論理が、いわゆるコードとかモードとかでは解釈できない。
カウンタメロディの進行は、ベース音でもテンションでもなく、むしろ中音あたりでうごめいている。開放弦を使うか高い方を押さえるかは、単に指の動きの論理だけでなく、弦の音色をどう選ぶかにかかわっている。たとえ、開放弦で弾けるとしても、手で押さえたときのこもった音のほうがよければ、そちらが選ばれるし、その逆もありうる。そしてほとんどの響きには、通常のコードに落ち着かないように、不安定な音が盛り込まれている。
このような演奏は、おそらく、さまざまな音の組み合わせを確かめながら、そこから淘汰された結果として出てきたものだろう。伴奏と言うよりは、むしろ作曲に近く、そこで重要視されているのは、コードというよりは音色の変化だ。「声とギター」の繊細な響きの変化のわけが、少しわかった気がした。もっともまだ半分も譜面にできてないのだけれど。
ギターのタブ譜を書き取るpdfを作ったんだけど、こんなの使う人いるかしらん?
元ゼミ生の結婚式で祝辞を述べる。彼女が入学してきたのはいまの仕事について二年目のことで、もう10年前になる。そうか、もう勤続10年以上なのだなと思う。式場は京都の北山で、まだ青いモミジの影が美しい。
そのあと、他のゼミ生とお茶。最初の何期かのゼミ生に対してはどこかその後にはない気分がある。開学して間もない、上級生のいないころのことで、無意識のうちに教師役だけでなく先輩役を引き受けたようなところがあった。それがゼミの雰囲気にも反映したのだろう。
林加奈さんから「今、野村誠と佐久間新が横にいて、再びラジオ 沼を聞いてます。2人とも大爆笑です!」とメール。わあ。
知り合いのライブに行くことが増えて、自然とこちらの書いたものや言ったことが演者本人に届くようになってきた。書いたり言ったりするときにも、これは本人の目や耳に入るだろうなと思っている。
それだけに、演者本人の意向を汲みすぎないようにしようと思っている。書いたり語ったりするうちに、どこかで独断や齟齬や妄言が入る。演者が想定しているところと違うところに力点が置かれる。それをあえて止めないようにしておきたい。
知り合いだから、少なくとも語るに足る何かがあったときには、まず「よかった」とか「すばらしかった」と言ったりはする。少なくともその人の演奏や作品をまた見たり聞いたりしたい、ということは、表しておきたい。
でも、自分の感じたよかったところ、すばらしかったところは、じつは勘違いかもしれない。wwwや本であえて何かについて書いたり言ったりするときは、なるべく勘違いがわかるようにしておきたい。そのほうがたぶん、演者にとってもおもしろいと思う。
とはいえ、この按配は、いつも流動的で、どこに正解があるのかはっきりしていないのだが。
てっきり予定のない日かと思って、喫茶店でつらつらとWrayのFormulaic language and lexiconを読んでいて、ふとカレンダをチェックしたら研究会が一本入っていた。しかもぼくがプレゼンをすることになっている。
あわてて南彦根駅まで自転車を飛ばし、電車の中で資料を作って京都へ。ヒューマン・ルネサンス研究会。結局、プロジェクタは使わず、ホワイトボードを使って話す。
ミズンの「歌うネアンデルタール」で提唱されながら不発に終わっているいくつかの概念、情動・全体的原型言語・模倣の問題について、もう一度整理しながら、言語進化のおおまかな筋道(というかそこに存在するいくつかのハードル)を明らかにする。
この研究会向けにいろいろ発表してきたので、そろそろ公にアウトプットしたほうがいいのかもしれない。問題は書く時間だが。
ジェスチャー読書会で中京大の神田和幸先生と同席する。McNeillの「Gesture and thought」を読み合わせる会合だったのだが、そこで出た疑問を手話の場合について考えるという展開になり、とてもおもしろかった。
ジェスチャーでは、視点が物語の中に入ったり俯瞰的に遠のいたりすることがある。その結果、所作のスケールが大きくなったり小さくなったりする。手話ではこれがもっと意識的に使われているそうで、俯瞰的に見るときの小さい所作のことは「縮尺」と呼び、大きい所作のことは「原寸」というのだそうだ。そういえば、物語の中に入っているときのジェスチャーは、単に大きいというよりも「原寸」である。
手話で、たくさんの事物の出てくる物語を語るときは、目の前の空間に登場する事物を配置していくことになる。しかし、話の場面が変わると、その配置を一度リセットしなければならないときがある。そんなときどうするか、以前から不思議だったのだが、神田先生によると、そういうときは、すっと身を引くといいのだそうだ。
ある空間配置を使って語っているときは、自然と肩が前に出て上半身が前傾姿勢になる。そこですっと身を引くと配置はキャンセルされる。
とてもおもしろい現象だ。というのは、上半身が前傾になるというのは、ダマジオの記述によれば、情動の基本にあたるからだ。
語りの時間構造が基本情動によって形作られ、さらに会話の中で動く手によって、空間配置が組み立てられていく。そんな過程として会話を見ていくことができるかもしれない。
研究会で、ジェスチャーのとある概念について説明をしているときに、ダジャレと詩的言語の違いをうまく説明する方法を思いついた気がしたので、以下に書き留めておく。
ダジャレは音の対応だけを言い当てればよい。が、詩的言語では、対応する音の環境がまとわりつく。たとえば、aとa'の関係を言い当てるのがダジャレだとすれば、詩は、aに先行するxとa'に先行するyとの関係をも言い当てる。つまり、詩では、aとa'の類似性によって、xaとya'のあいだの関係を発見させるのである。詩の韻とは、xaとya'の関係を発生させるためのaとa'である。
たとえば、「おしゃれなシャレ」というフレーズが、ダジャレとしてはオーケーなのにいまひとつ詩的感興に乏しいのは、それが単にa(「しゃれ」)とa'(「シャレ」)の類似性のみを目指しているように響くからである。
いっぽう、「His big tears, for he wept full well. / Turned to mile-stone as they fell.」のようなシェリーの詩で、詩的感興が増すのは、単に一番目の「well」と二番目の「fell」が対応しているからではない。「His big tears, for he wept full well」という出来事と、「Turned to mile-stone as they fell」という出来事がa ("well")とa' ("fell") という形式によって結びつくからである。
(ヤコブソンの言う)詩的機能とは、形式的類似性によって、その周囲にまとわりついていてる異なるものを釣り上げる現象を指す。言い換えれば、形式的類似性によって、その周囲に時間的に分布しているもの(シンタグム)どうしに、対応関係(パラディグム)を見いださせる。
何かと何かが類似しているだけでは詩にならない。それはダジャレに過ぎない。その何かと何かとともに、異なるものが釣り上がるところが、妙味である。
午前四時にダジャレが妙におかしくなるのは、午前四時という時間が、異なるものの気配をまとっているからである。
繰り返しが詩になるには、繰り返される二つとともに釣り上がる時間が必要である。詩的な繰り返しには、適切な間がある。
神田先生に「手話のダジャレ」を教わる。「ヨコハマのカミソリはスムーズ」というのがあるそうだ。頬を右手のチョキでなでるとヨコハマ/カミソリの意味(横浜は最初にカミソリが輸入されたところらしい)で、右手の人さし指でなでるとスムーズなんだそうだ。
横浜とカミソリは同じ所作なのだが、なぜか異なる意味にとられるという。「スムーズ」の所作が、事後的に、二つに異なる意味を与えるのだろうか。
手話のダジャレが、手話の形態の類似性によって生まれるのなら、そこからうまれる手話の詩もありそうだ。たとえば、「わたしの行った横浜。あなたの買ったカミソリ。二人の仲はとてもスムーズ。」というような手話を行ったときに、それは手話をする人にとって「詩」に見えるだろうか。文法的な語順にもよるが、このあたりに、新しい手話の詩の可能性がありそうな気がする。
電車に乗ったときに揚げ物の匂いがぷんとして、ふと見ると高校生がハンバーガーとフライドポテトをぱくついていたので、まったくこいつらは、と思ったのだった。まったく高校生ってやつは自分が発する匂いに鈍感なんだから、と、自分のカレー臭を棚に上げてフンガイしたのであった。
揚げ物の匂いがした時点では、もう少しいろいろな想像が可能だったはずである。たとえば夕べの天ぷらを思い出すとか、幼い日の揚げ物のにおいを思い出すとか。
しかし、それを「匂いに鈍感な高校生」というカテゴリーに押しこめてしまうと、もうそこから想像が広がらなくなる。ひたすら高校生に対するフンガイにこの身がひたされる。ここにはカテゴリー化による認識のせばまりがある。
カテゴリー化に抗して、ファースト・アタックでとどまること。さまざまな分岐への可能性を残す方法。
コミュニケーションの自然誌で鈴木佳奈さんの発表。会話の中で使われる数字について。
事例を見ていくと、いくつかおもしろい問題があることに気づく。たとえば言い直しで用いられる数字。
「すぐ、5分しないうちに」「午前中、あ、11時に」とか「すごく長く、300分」
これらは統計学でいう、質的変数から量的変数への言い直しとして捉えることができる。というより、こうした日常的な言い直しの感覚が、統計学の質的/量的変数に反映されているというべきかもしれない。
鈴木さんの発表は数字の正確さや誇張の問題を取り扱っており、議論百出。
数字には0から無限大の値を取るもの(たとえばノーマル/アブノーマル)や、0を中心に正負のあるもの(速い/遅い)ものがある。
数字に正確さが求められるのは、表現がアバウト(あいまい)である場合、および、そこにある種の誇張が入っていると感じられる場合である。数量的表現をするとき、わたしたちは、その概念が通常とりうる最大値(もしくは最小値)を感覚的にもっていて、表現されたものがそこを越えると感じると、「誇張」かもしれないという疑いを持つ。いやむしろ、会話中の「誇張」をたしなめる表現によって最大値/最小値感覚が会話の中で形作られていく、ということなのかもしれない。
五年の歳月を経て通し公演となった「桃太郎」。粛々とした田植えの儀、中川真さんの間、そして、第三部までの和気藹々とした舞台上のかけあいは、第四部で阿鼻叫喚に投げ込まれた。舞台上すべての人々が鬼と化す。
そして鬼みずから鬼を弔うような第五部の長い歩み。観る側もまた、長い歳月を経たような気がした。
東京でも京都でも観ることができない、地元に根付きながら世界に通じているこのすばらしい公演は、観客を200人以上を動員しながら今回で終わりだと言う。まったくもったいないことだ。
ラジオ 沼
第337回:桃太郎とガムラン(1)開かれた演奏
第338回:桃太郎とガムラン(2)みんな鬼になる
墓好きというシャロームさんといっしょに雑司ヶ谷墓地を歩く。最初は片隅をちょっと歩くつもりだったが、けっきょくあちこち巡っているあいだに、ほぼ墓全体を歩くことになった。
漱石の眠る夏目家の墓は意外に大きく、大塚楠緒子の眠る大塚家の墓もまた、大きな墓石が隣り合うように並んでいて、「あるたけの菊投げ入れよ」の句もはね返されそうだった。荷風の墓はさながらサンシャインから隠れるような森、夢二の墓石には「竹久夢二を埋む」とある。
多くの墓は、本人だけのものではなく、家のものであり、必ずしも一個人の個性が反映されているわけではない。当たり前のことだが、そういうこともつくづくと感じられる。
いずみたくの墓は墓地の縁にある。「見上げてごらん夜の星を」の顕彰碑を観ているとき、祭りのかけ声がかかり、墓石のすぐ裏を、大鳥神社に向かう子ども御輿の鳳凰が、垣根ごしに揺れていた。
すると、通りとは反対側の墓石の向こうから「ああ、お祭りね」と声がして、その見知らぬ二人の女性と、墓越しにしばらく話をした。
国立情報研で身振り研究会。荒川さんによる感情と自己接触に関する発表。
聞きながらつらつらと考えたこと。これまで自己接触行動については、ジェスチャーとは別物として考えていたのだが、じつは自己接触行動にも準備があり、ストロークがあり、保持があり、退却がある。時間構造じたいはジェスチャーと同じである。となると、それぞれのオンタイムがいったい何と同期しているかを調べるとおもしろい問題が浮かびあがってくるだろう。自己接触行動については20年前に菅原和孝さんがすでに会話分析的研究をしているが、いまの映像解析装置ならばさらに精度をあげた解析が可能ではないか。
自己接触行動はトラブルの最中のみにおこるわけではない。トラブルを乗り越えたところ、ほっと息をつくようなところでも起こりうる。そうした機微も、マイクロ分析で明らかにすることができるかもしれない。
竹橋で談笑したあと、渋谷に移動。青い部屋でコズミックユリネーション。薔薇を背負っているせいなのか、ごうごうとぎらつく演奏。
現在の選択範囲を前後にシフトさせる:qt_selection
現在の再生速度を速く/遅くする: qrate_plus, qrate_minus
いずれも単独で動かせるが、Jeditに組み込んでショートカットを割り当てると、映像の書き起こしに便利。
インタヴューなんかの書き起こしであったらいいなと思うのは、いま再生しているところよりちょっと前のフレーズを聴きたい。あるいはいまの部分をおこしおえたので次を聴きたい、といった、ちょっとした巻き戻しであり、早送りである。それを実現したのがqt_selection。
電気通信大学@調布で、3Dフォーラム。下條信輔さんと、錯視研究で話題の北岡明佳さんの講演。
下條さんの話は、面知覚研究など、彼の仕事としてはやや以前の話が中心。それでも、局所的な認知によって全体的な認知が即座に成立するという一連の話は改めておもしろい。まずボトムアップのfill-inによって一気に全体に関する知覚が成り立つ過程と、トップダウンのfill-outによって部分が見過ごされていく過程。
北岡さんはPhi movementなどの運動錯視と奥行き知覚との関係を論じるという内容。あいにく講演中はうしろの席だったので、錯視効果がいまひとつ実感できなかったが、帰って北岡さんのサイト(講演用HTML)を見たら、相当強力だった。
新宿でちょっとお茶。そのあとホテルに戻ったら、ブロードバンドなので、ついyoutubeを山ほど見てしまう。じつは家ではナロウバンドなので、あまりyoutubeを見ないのだ。
前回に引き続き、「提案と拒否」の話。戸江くんが持ってきた、夕飯のしたくが面倒で、出来合のお総菜ですませてしまう「阪スパデー」の話がおもしろかった。
いくつかの例を見ていくと、会話の中で行われる提案には、提案と自慢のあいだのような現象がある。話者の自慢に対して、相手が「いいなあ、わたしもやろうかな」というと、それは事後的に提案になる。
概して、自分の体験に基づく記述(自慢を含む)は、伝聞による話よりも、聴き手の欲望を点火しやすいように思える。「わたしはこうする」という宣言は、「わたしならこうする」という提案に近づく。
提案、という現象には、相手の情動を動かすとか、欲望を喚起するという、従来の会話分析では扱いにくい問題が含まれている。そこがおもしろい。
彦根まちなか博物館プロジェクト委員の杉原さん来訪。
来年は彦根城築城400年ということで、彦根ではあれこれイベントが計画されている。彦根まちなか博物館というプロジェクトもそのひとつ。
じつは、いわゆるどこにでもあるおにぎやかしの企画だったらどうしようと思っていたのだが、杉原さんの作った資料はどれも魅力的なものばかりで驚いた。郷土玩具の高橋狗佛、書家の日下部鳴鶴など、しぶいラインアップ。すでにかなりの資料調査がなされている。近江鉄道の展示では、彦根駅にずらりと車両を並べるそうで、鉄道ファンにはたまらない企画になりそう。
来年の展示にむけてさらなる情報を集めているとのこと。興味のある方はまちなか博物館お宝募集をどうぞ。
ぼくも彦根絵はがきの展示で協力することになった。
昨日作った、QuickTime用の字幕ソフトだが、これは一種の字幕シーケンサとして使えることに気づいた。QuickTimeの字幕は通常の映像に比べると容量が軽く、エフェクトさえかけなければスムーズに動く。そして、フォントデータなので、ムービーを拡大しても、ディザが出ない。というわけで、字幕を10個同時に動かすというムービーを作ってみた。Sparksの"Here Kitty"を題材に。
「スクリプトで考える」を更新。
以前、映像とテキストエディタのあいだを結びつけて、会話やジェスチャーを分析するGeScriptというのを作ったことがあるのだが、TigerにバージョンアップしてからどうもこのGeScriptの動きがうまくいかない。久しぶりに改変しようかとも思ったが、この春にはまたOS Xがバージョンアップするらしいので、またこちらも仕様を変更しなければならないかもしれない。
考えてみると、ソフトウェアのインターフェースを作り込めば作り込むほど、ハードウェアやシステムへの依存度は高くなる。当然、ハードウェアやシステムのバージョンアップに伴って、ソフトウェアのほうも改変を迫られやすくなる。
こちらはプロの開発者ではないのだから、ソフトを改変する回数はなるべく少ないほうがありがたい。ならば、インターフェースに凝らない方向を目指すほうがよい。
ならば、エディタとムービーとのあいだにインターフェースを置くのではなく、エディタから直接ムービーを動かすのはどうか、と思いつく。
幸い、Macintoshユーザーにはよく知られているJeditは、AppleScriptという言語に対応しており、これで簡単なプログラムを組めば、映像を直接いじることができる。というわけで、いくつか作ってみた。
Jeditは、作ったマクロをショートカットに割り当てることができるので、その気になれば、ムービーの再生や巻き戻しなどもすべてJeditからショートカット一発で行うことが可能である。近々その辺も試してみよう。
沼:336 夜に抗う赤、夜をはらむ青
See you in a dreamの話のつづき。声の終わる時間。九鬼周造『「いき」の構造』。ジャケット・デザインのこと。記号と空間から、運動と時間へ。などなど。
夜風がだいぶ涼しくなってきた。裏庭のすすきがこのところ急に穂を伸ばしている。満月の頃にはよい長さになっているだろう。
沼:335 声はいかにしてプラットフォームを蹴るか
See you in a dream @ 京都のあとに。
さがゆきさんの声を聞き直す。
"Delicate Music Party #2"
『ComPosition by Taku Sugimoto - 杉本拓 作曲作品演奏会 -』
@トリトンカフェ(神戸)
空調も切らず、ドアも開け放し。音を招き入れるカフェで、三曲目の「principia sugimatica variation」を聞いてると、5月に聞いた「天狗と狐の野外音楽会」の感覚が蘇ってきて、ドアから川原が入ってくる感じでした。夏の気配と夏の名残り。
県立大の学生が来ていた。じつは、彼は以前、研究室に訪ねてきたことがあったのだが、すっかり忘れていた。聞けば、碧水ホールのワークショップにも参加し、この前のSee you in a dreamにも行ってたそうだ。彦根からそんな風にあちこち通っているのはぼくくらいのものかと思っていたので驚く。