The Beach : April 2006


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20060430

 さて、淡々と(ユーミンをなぞるなら、ダンダンダダンダンダダンと)、仕事の進行のみしか書くことがなくなってきた。ひつじ原稿はまだ終わらない。気分転換に喫茶店で「絵はがきの時代」のあとがきを書く。気分転換のつもりが三時間もかかってしまった。コーヒーがすっかり冷めてしまった。いかんいかん。


20060429

 どういうわけか、この一週間で急に.Macのデータ・トランスファが増えてしまい、最大量に。.Macから「いったんしめさせてもらいますわ」メールが来て、「ラジオ 沼」は月末までいったんクローズです。あと一日だけど。それにしてもどうしたんだろう。


20060428

 遅れに遅れているひつじ書房の原稿に取りかかる。いまごろ、と言われそうでたいへん申し訳ない。正直、こんなところに書いていいものかとも思う。しかし、偽らざる事実であるから仕方がない。ついでにもっと偽らざる事実を書くと、次号ユリイカのニンテンドー特集の原稿は、ひつじさんの後に連休中に書く予定にしている。


20060427

 次の単行本のタイトルは「絵はがきの時代」、発売は5月末と決まる。
 再校も次々とあがってくる。今度は、初校のときほど原稿を真っ赤に直すこともなく、比較的落ち着いて読める。われながらあまりにおもしろく、まさに自分の知りたいことが書いてあると思うが、自分が書いたのだから当然のことである。連載のときよりも図版が1.5倍ほど増えているし、原稿もずいぶん加筆訂正したせいもあって、だいぶ読みやすくなったと思う。
 校正の過程で、もう一冊くらい絵はがき本ができそうな気がしてきた。今回は図像として使えずに終わった絵はがきもずいぶんある。こんな風に、達成感とやり残した感じが同時にやってくると、いよいよ終わりだなという感じだ。
 朝から一日、ゼミや学生の相談。やはり四月は、学生の話を聞く時間が長くなる。
 ラーメンにっこうで旨いラーメンを食い、心和む。


20060426

「した」「だった」で語られるニュース

 じつはあまりTVを見てなくて気づいてなかったんだけど、21時のNHKニュースが、「ですます」調ではなくて「だった、した」調を主体にしてる。民法のニュースではときどきこういうナレーションを使っているが、NHKのメインのニュースで見るとは思わなかった。
 金水敏さんの役割語の話にもつながると思うんだけど、「でした、ました」ではなくて「だった、した」にすると、レポーター、アナウンサー調ではなく、より叙述的な、ナレーション調の感じがでる。つい今日あったばかりのニュースなのにもう終わった感じになる。
 これはぼくの感じ方の問題なのかもしれないけれど、「○○だった、○○した」とニュースで言われると、なぜそんなに急いで物語に固定するのか、とひねくれたくなる。どう反応すべきかも考えないままお涙頂戴か? 通夜もすまないうちに葬式か? 社員研修もすまないうちにプロジェクトXか?

 「オネアミスの翼」で、「だった、した」と「です、ます」の差がうまく使われていたのを思い出した。
 ニュース映画のシーンでは「だった、した」調のナレーションが使われ、主人公のシロツグのヒーローぶりがいかにも大本営発表的に流される。いっぽう、ニュースがリアルタイムで放映されるようになると、徳光アナの声で、ですます調のレポートが入るのである。


20060425

菅原和孝「フィールドワークへの挑戦」(世界思想社)

名作です。無類におもしろい。

 前半では、実習や卒論の力作の数々を紹介しながら菅原さんが率直に切り込み、光る部分は拾い上げ、フィールドワークの要諦を浮き彫りにしていく。
 サンドイッチマン、ホームレス、心霊教院、鳥葬など、扱われるテーマはさまざまで、20歳前後の学生にこのようなディープなフィールドは可能なのか、と思えるものまで含まれている。そして菅原さんの筆は、相手が20歳前後だろうと容赦なし。安易に既成のカテゴリーによりかかろうとしたり、表面をなぞるだけにとどまる言説には、遠慮仮借のない講評を下す。そのことで、逆に、どこにフィールドワークの困難があり、どこに突破口があるかが明らかになっていく。

後半は、卒論の優秀作6編の紹介。

<振売り>都市に息づく野菜行商
棚田を<守り>する人びと
生きものを屠って肉を食べる
接触障害に立ち向かう女たち
銭湯の行動学
エチオピアのビデオ小屋

 タイトルだけでもすでに引き込まれるけれども、これがですね、内容がすばらしい。どれもおもしろく、クオリティが高い。
 たとえば、「銭湯の行動学」で、著者の佐藤せり佳さんは74日間、毎日銭湯に3時間浸かる。それだけでもすごいのだが、常連さん全員を「個体識別」し、そこで起こっている他人同士の背中流しや他人の子どもの面倒見、サウナの会話、さらには銭湯での指定席感覚の機微など、なんとも人間くさいつきあいをつきづきと明らかにしていく。

 いや、じっさい、これから先、この本に収められた学部生の卒論のような仕事を生み出す指導がどれだけできるだろう。いや、指導どころか、ぼく自身、これらの卒論に匹敵しうる研究をはたしてどれほどできるだろうか。思わず居住まいを正す一作。


20060424

倒れかけレッスン

 本日、実習で、鴻上尚史さんの「表現力のレッスン」冒頭に書いてあった、倒れかけレッスンというのをやってみたんですが、これがなかなかおもしろかったです。

 やり方は簡単で、二人一組のペアになって、片方の人が背中側に向かって倒れる。で、もう片方が支える。倒れるといっても、ほんの数センチほどでいいんですが、最初はけっこうこわい。
 で、三十人以上いるので、わいわい言いながらやってたのですが、意外だったのは、これは倒れかかる側だけでなく、支える側にとってもレッスンだったこと。
 人間が重いものだってことが、けっこう最初はわからない。で、ほとんどの人が、まず、脚を横に開いて受け止めようとするわけです。どんなに心の準備をしていても、脚が横に開いているところに前から重いものがきたらちょっとよろめくよね。そしてよろめかれたほうは敏感にそのことに気づくから、お互いにすごく緊張してしまう。
 というわけで、途中から、「脚を縦に開いて、膝を落として、腰がぐらつかないようにして」と、まず、支える側にいくつか指導を出すことになりました。
 最初は、倒れかかる側がいかにリラックスして倒れかかるようになるかというエチュードだと思ってたんだけど、片方だけの問題ではなかったのだな。
 他にも、倒れかかる人の腰が引けてたり、脚がつい後ろで支えようとしたり、なかなか気持ちよく倒れるのは難しいということがよくわかりました。
 じつのところ、ぼくにとってもこのレッスンを実践するのは初めてで、始めるまではいったい何を指導したらいいのかよくわかってなかったんだけど、じっさいにやってみると、問題点はいろいろわかるものなのだな。岡目八目というやつか。それにしても昔、体育が2だった自分が人に腰の入れ方を教えるようになるとは。


20060423

追加原稿を書き、図像を揃えてCD-Rに焼く。ここのところ、午後六時前にヤマト便の集配センターまで自転車を飛ばす、というのが定番になりつつある。


20060422

文楽に感情移入できるか

 朝6時起床。さすがに眠い。新幹線の中で第一章の加筆部分(10ページ近くになった)を書いて送る。

 大阪の国立文楽劇場へ。「菅原伝授手習鑑」。車曳の段から茶筅酒、喧嘩、桜丸切腹、寺入り、寺子屋と一気に。三人兄弟が次々と悲劇に向かう話。
 兄弟の嫁三人が舅のために支度をする愛らしさにはぐっとくる。が、舅と嫁の一人、八重との「泣き分け」(明らかに山場である)などでは、うまいなとは思うが感情的にはなかなか動かされない。
 寺子屋の段は、菅原道真の子を助けるために我が子を身代わりに差し出す話である。残念ながらここでも、文楽では有名なこの物語に心の底から感情移入することはできなかった。
 たぶん、席が遠すぎて人形の顔が見えにくいせいだろう。おそらく間近で人形を見れば、もう少し違う感じがするところだと思う。

 あとで楽屋にお邪魔し、文雀師匠、和生師匠のお話をうかがう。浮絵への関心から、文楽の舞台の歴史を調べるのが目的だったのだが、「そもそも文楽はかける舞台の大きさによって背景の大きさも変わりますからね」「戦前は文楽と歌舞伎は同じ人が舞台を作っていることが多くて、文楽/歌舞伎という区別よりも、会社別にいろいろな人が背景を描いてました」「人形の大きさと動きに合わせて舞台は作られますから、歌舞伎とは当然話が違っています」などなど、基本的なところで目から鱗がいくつも落ちる。
 舞台裏にも案内していただく。早くも次の公演に向けての準備が始まっており、濡らした和紙が板に貼り付けられているところだった。壁にはずらりと泥絵の具のプラスチック瓶が並べられ、その芝居のどの部分に使われる色かがラベルに書いてあるものもある。こうした空気、背景画を描く絵師の空気を、浮絵を語るときに覚えておくこと。
 「ぼくらは昔のことはよくわからないから」と和生師匠は謙遜されておられたのだが、本だけを読んでいたのではわからないことをいくつも教えていただいた。むしろ、こちらがまだ未熟で、真におもしろい話を聞き取れないでいることが痛感される。

 家に帰ると、もうぐったり疲れてしまい、早めに蒲団にもぐりこむ。


20060421

 博多行きの新幹線の中は、気のせいか東海道新幹線よりも仕事がはかどるような気がする。山陽新幹線がトンネルだらけのせいだろうか。それはいいが、第一章の加筆分が膨大になってしまった。

細野晴臣&東京シャイネス@西南学院大学

 第三の男のテーマから、最後まで、ひたすらうっとりと聞く。行く前は、はっぴいえんど時代の曲がたくさん聞けるといいなと思っていたのだが(そして、じっさい、「夏なんです」も「風をあつめて」も歌われたのだが)、それ以上に、YMO時代の「Lotus of love」や、スケッチ・ショウの「Stella」など、テクノ以降の曲のよさを改めて感じた。HIS再結成の「幸せハッピー」も歌われたが、これはタイトルとは裏腹にじつにまがまがしい変態ビートで、頭がくらくらした。

 デジオ縁にて、ままん、まえさんのご案内で天神のうまい店に。出てくるものにあまりにハズレがないので、もはやいちいち「うまい」というのもためらわれ、ヨタ話をしながらただただ口に運び続ける。


20060420

 とりあえず第一章の書き直しをのぞいてどんと青土社に送る。あちこち相当加筆訂正したので、あたかも校正に爆弾が飛び交っているようである。
 結果的に手元にある絵はがきをかなり整理することになった。絵はがきフォルダをあと10個は買ったほうがいいということもわかった。生田誠氏に教わった「100均で売ってるパン容器」は、確かに投げ入れるのにはたいへん便利なのだが、単行本に使った絵はがきくらいはフォルダにまとめて入れておいたほうがよい。およそ100枚くらい手持ちの絵はがきを使った。


20060419

 次々と研究室に人が出入りする合間を縫って校正。ようやく3/4片付いた。しかし、明日が締めだというのにまだ1/4ある。あまりにゼツボー的な気分になって、思わず今日依頼が来たばかりのペラ一枚の原稿と、日本絵葉書会用の原稿を書いてしまう。達成感に飢えているのだろうか。


20060418

 講義にゼミに会議会議。でWWWメンテなど。そのあと校正。あいかわらず図像で苦労している。とにかく少しずつでも校正の山を減らしていくしかない。


20060417

 一回生の第一回の実習というのは、何度やっても独特の気分がする。全身耳になっている学生にしゃべるのだから、あらゆることばの意味が通常の何倍も深くなる。今日はもう、意味深いことを言ったり正確なことを言うのはやめて、ことばに謎をかけてやる。ことばを減らすことで、この特別な場の力に信頼を置いていることを、態度として見せる。あとは学生が考える。
 今日は軽くマリー・シェーファーの「イヤークリーニング」をやったが、わずか30秒のイヤークリーニングを経ただけで、鳥の声や遠い飛行機のかすかなうなりに、学生の体が、ぴくっと体が反応して音源を探そうとしているのがわかる。なかなかいいスタート。


20060416

 彦根は夕方すでに6度。冬に逆戻りか。自転車でヤマト便の配送センターまで校正を送りにいったら耳がじんじんした。帰りはみぞれまじり。二週間前は29度の石垣にいたのに。


20060415

ブラジル・夕凪・ラブジョイ@新世界ブリッジ

 ブラジルはすでに二枚目の中身を知っていたので、おおよそ聞いたことのある曲ばかりだったはずなのだが、きちんと不穏なテンションで支えられていた。稲田さんはかなりベースを工夫していて、西崎さんの突拍子もない歌詞に劇的な構造をほどこそうとしているのだが、それでも、歌詞がそこから漏れている。ブラジルを聞いていると、まず「あんたなにいうてまんねん」と思い、次の瞬間には「わしなにきいてまんねん」と思う。
 ラブジョイ。前々から名前は知っていたものの、聞くのは初めて。歩き、走る、不思議な歌の数々。bikkeさんの声は、鋭いのに幅がある。近藤さんのキーボードは、音色の選び方やフレージングが、ポップなようでいて予想を裏切る。この日、ファンになってしまったかも。そして、植村さんはいかなるバンドにあっても、胴体が異様に安定していて、腕は異様に速い。最後にふちがみさんが出てきてやった「ばんごーはん」の歌が忘れられない。
 終演後、ブラジルのリズムのかなめ、ハットリフェスティバルが串カツを食いながらミケランジェリのドビュッシーの前奏曲集DVDはイイ、と言いだし、そのうちになぜか「デルフィの舞姫たち」を合唱していたが、もちろん本来はピアノ曲である。少なくとも新世界の串カツ屋で酒を飲みながら歌う曲ではない。


20060414

四月はみんな心機一転

 そのせいだろうか、部屋にいると次々と用事が飛び込んでくる。ゼミの相談、単位の読み替え、パソコン設定、メールの設定、WWWページの見直しなどなど。会議も講義もなかったのだが、みるみる時間が過ぎて日が暮れる。


20060413

通常営業なれど

校正第一弾をやっと送る。何に手間取っているかというと、絵はがきの図像選びとスキャンである。手持ちの絵はがきをひっくり返して、これという一枚を選ぶのに、いちばん時間がかかる。あの絵はがきとあの絵はがきを、この章でこう結びつけて・・・などと考えていると、いままでやっていた絵はがきの分類を一からやり直すことになってしまう。それに、手元にあるのはいずれも、店先や蚤の市や交換会で、自分なりに「ぴん」と来た、いわば選りすぐりのものだ。一枚一枚手に取るたびに、それが「ぴん」と来た理由を考えているうちに、みるみる時間が経つ。あと一冊くらい書けそうだが、その前に、目の前の絵はがきを整理しないことには仕事がはかどらない。


20060412

偶然を待ち望む

 一人の学生が部屋を訪ねてきて、他学部なのだが講義を受けたいという。なんでまた酔狂にもぼくの講義を聴きに来るのかと思い、どんなことに興味があるのか聞いてみると、中仙道の空間感覚というのを、時間的にとらえ直すというのが卒論のテーマだったそうで、じっさい中仙道を自分で歩いたりもしているのだという。
 ちょうど、明治期に発行された東海道五十三次の絵はがきの話を校正していたところだったので、「じゃあ、こういうの興味ある?」と、話を軽くリンクするつもりで、その絵はがきの消印について説明する。

 「これ、10日間で五十三次の郵便局を全部まわって消印押してるんだよ。明治時代の汽車ってそんなに本数がなかったし遅かったから、うまくまわろうとおもったらすごく大変だったんじゃないかな。」
 「あ、10日なら歩けますね」
 「え?」
 「頑張れば歩けますよ。東海道の端から端まで」

 彼の体験によれば、一日数十キロというのは、ややきついが、不可能な距離ではないという。じっさい、明治期に中仙道を十日ほどで踏破した記録もあるんだそうだ。
 「中仙道にくらべたら東海道のほうが少し短いし、汽車だと駅から郵便局に寄ったりする道のりがあるから、むしろ歩いたほうが速いくらいじゃないかと思います」
 前の原稿では、汽車でまわったという仮定のもとにこの絵はがきの話を書いたものの、間遠な汽車でどうやって回ったのか釈然とせず、校正を読み直しているあいだも、これは当時の時刻表を調べて裏を取らなければならないかも、などと、悶々としてたところなのだ。
 しかし、歩いて回れる距離だったとすれば、話はじつにすっきりする。当時、汽車での移動が難しかったであろう、桑名と草津の間も、歩いてなら、なんとかなっただろう。そういえば、「関」の前後でやや消印に時間差があるが、これは鈴鹿越えに徒歩でかかった時間だと思えば説明がつく。

 なんだ、歩いたのか。
 そうわかると、頭がしびれてきた。

 この絵はがきの主が、実際に東海道を歩いたのだということに、まずしびれてきた。でもそれだけではない。いままさに、東海道五十三次の原稿を校正していたところに、どんぴしゃりのタイミングで、中仙道の研究をしている学生が研究室にふらりとやってきたこの偶然はなんだろう。
 おそらく、これは単なる偶然ではないのだろう。意識にはとどかないが、なんとなくこの原稿の筋立てが釈然しない感じは、自分の中に立ち上がっていた。だからこの章の校正が少しく遅れていた。それは単に遅れていたというよりは、釈然としないその筋立てを解決する決定打が降りてくるのを待っていたのである。待っていたから彼が訪れたのである。
 そう考えると、筆が遅い、というのは、単に効率が悪いのではなく、思考のバージョンアップがそこで行われているということなのではないか、と思えてくる。
 これはよい言い訳だ。


20060411

オリエンテーション

 一回の出番のつもりが何度かお呼びがかかり、気がついたら日が暮れていた。


20060410

入学式。貯まっていた事務仕事を片付ける。仕事仕事。


20060409

プラスティックの定規の目盛り掃くとんび

仕事仕事。


20060408

吉田稔美のピープショー@イリアス

 谷中のイリアスへ。吉田稔美さんのピープショーが目当て。妹背山の吉野川を題材にしたピープショーでは、定高と大判事のやりとり、雛鳥の首、久我之助の切腹がそれぞれ異なるレイヤーに配置されて、あたかも異なる時間を見通すよう。イナガキタルホものもあって、あちこちの奥行きから彗星が飛び込んでくるつくりだった。

ピナ・バウシュ「カフェ・ミュラー」「春の祭典」@国立劇場

 「カフェ・ミュラー」。踊りということを意識させない、かといって劇とも違う、体にかけられた謎を観るような数十分だった。
 薄暗がりで始まり薄暗がりに終わる。目をこらさなければ見えないほどの舞台の上を、床一面に並べられた椅子をよけながら移動する一人の女が現れる。その行く手の椅子を次々と手荒にどけていく男。そして影のようなもう一人の女がピナ。
 席がやや遠く、舞台が暗いこともあって、彼女の微細な動きに目を凝らしていると、何度か浅い眠りに誘われる。が、退屈しているというわけでもない。手の伸び方、足の運び方、そのスピードが、こちらの眠りの波長と同期するのだろう。

 だから、ほとんど夢うつつの境で見ていたのだが、ひとつ、印象的な繰り返しがあった。男女が両手を互いの背中に回して抱き合っている。そこへもう一人の男がやってきて、女の右手をはずし、左手を男の肩に置かせる。男の両手ははずして、鍵型に差し出させる。その鍵型の腕にひょいと女を乗せて、もう一人の男は立ち去る。
 すると、女は、男の腕からずるずると床に落ちてしまい、改めて起き直って男に抱きつく。
 これが劇中何度か繰り返される。最初は、もう一人の男に二人の関係が操作されている風なのだが、次第に一連の動作は二人の習い性になり、しまいには、操作されずとも、いったん男の腕から女が崩れ落ちるというのを経由しないとお互いに抱きしめ合うことが出来なくなる。
 いつもビデオで観察している日常会話の動作に似ているなと思う。お互いが相手の動作にタイミングを合わせながら動いているときは、片方の失敗さえもお互いの動作にとりこまれて、新しい動作を生んでいく。あの感じを、拡大鏡で見ているようだ。二人の動作に失敗を埋め込むことで、型が生じ、ディスプレイが生じるあの感じ。

 「春の祭典」は、型のひとつひとつがはっきりしており、安心して見ることのできる舞台。以前、炎のマズルカでも印象的に使われていたが、ときおりダンサーが観客に聞こえるような息づかいをする。
 破綻のない舞台だなと思ってみていたが、最後に、一人のダンサーが取り残されて生け贄の踊りを踊るところで手に汗握った。そこまで、男性対女性という群舞の対立で見せていた迫力を、たった一人の小さな女性ダンサーが担って、踊りきろうとしている。いちばんのフォルテシモの部分で。他のダンサーに見捨てられているのかとさえ思える、その健気さとひとりぼっちさ加減。


20060407

 宮良殿内。大正九年生まれのご主人が、受付の席に着くや、とうとうと昔語り。二十歳代の盛りの時期を、ずっと戦争で過ごされた話は、幾人の人に繰り返したのだろう、譲ることのできない、一筋の流れのように話される。一住居を文化財として指定するのも、首里城を失ったお上の都合、だからあくまで住居として住みなし、受付で語るという気骨。北支に徴兵された頃のお話などを伺う。
 庭に、なんとも言えぬ気配がある。「ただの山水ですよ。中国に行ったら同じようなものがいくらでもありました。こういうのは中国から来たんです。他にも、ここにあるいろんなものが中国にもあった。それでわかりましたよ、いろんなものはこの国から来たんだって」。それでもなお、庭には神さびた雰囲気がある。陽射しのせいだろうか。
 南嶋民俗資料館。ここはもともと宮良の分家だそうで、そういえば雰囲気が似ている。博物館級の資料があちこちに。手塚治虫と折口信夫が充実していた。昼間に来て本など読ませていただきたい場所だ。
 公文くんと昼食。
 東京へ。みやちゃん、いとときちゃんの新居へ。大河ドラマのテーマ音楽DVDの存在を知り大いに盛り上がる。NHKアーカイヴを見てつい音楽のほうに気がいってしまう人間にとって、大河ドラマのテーマ音楽の変遷はじつに興味深い。


20060406

 午前午後と喫茶店にこもって校正。夜、蛍を見に行く。主のような樹とせせらぎの配置、特別な場所、特別な時間でしかおこらないできごと。
 あさひ食堂にて夕食。夕食後、玉藻さんの西表のおじい話楽し。


20060405

潮騒はペンの形の影に書く

 午前・午後と喫茶店をはしごしつつ校正。県立図書館八重山分館、まだ冷房が入っておらず、蒸し暑い。八重山関係資料をあれこれ読む。島尾敏雄を読むうちに眠ってしまう。
 ソファのかたわらにあった老子をふと手にとって読む。高校で習ったときはどうもピンと来なかったが、いまはあれこれ思うところがある。たとえば、第二章。

天下皆知美之爲美、斯悪己。皆知善之爲善、斯不善己。
故有無相生、難易相生、長短相較、高下相傾、音聲相和、前後相随。

 最初の二文はおそらく、対立する概念の片方だけがただあるということはない、という話で、それ自体は前章からの続きである。しかし、二行目、有無、難易、長短、高下、ときて、音声が対立概念として挙げられているのがおもしろい。「音」と「声」は「有無」や「難易」に匹敵するほどの対立概念なのか。だとしたら、どのように対立しているのか。
 説文に「心の内に声有り、これを節となして音とす」という一文がある。また、「声は文(あや)をなす」という一節もある。ということは、もともと「声」は、声帯を震わす声のみを指すのではなく、むしろ音にならない声、内言のようなものを指していた、ということになる。
 ここで、書くという行為と声、というでかいテーマも気になってくる。読書はかつて声を伴っていたらしいことは、さまざまな歴史本で明らかになっているが、書くことと声はどうだったのか。書く時間は発音する時間に比べてずっと長く、また、漢字は表音文字ではないところからすると、書くときに即その音が頭に灯る、というのは不自然に感じられる。書くという行為の起源として「声」を考えるならば、それは音未満の静かな現象、表音ならぬ表象のような現象ではなかったか。
 「声」は「音」にも「文字」にもなりうる。そのような位置に「声」を置くならば、なるほど、これは対立概念ではあると同時に、有を用意する無/音を用意する声、が対応する。

 夜、公文くんの案内で、近くの飲み屋へ。三線を聞く。公文くん宅で、昼間気になっていた岡本太郎「沖縄文化論」。そこに、歌の「声」と三線の「音」との関係が書かれている。奇妙な符丁。


 

20060404

潮騒はペンの形の影に書く

 午前、シュノーケリング。ベラが横腹をサンゴにつけてじっとしている。海ぶどうや青茶けた珊瑚に似た模様。隠蔽擬態の好例。
遠浅の海を行くと、ほんの数十センチの深みの差によって生態系が激変する場所がある。遠浅の中のよりどころとしての岩。
 夜、南の島にて夕食。
 玉藻さんと俳句の推敲。誰かに俳句を見てもらうという経験はほとんどなかったのだが、これはおもしろい。ことばを詰めていく過程で、自分が織り込みたかったことのコアがよりはっきりしてくる。玉藻さんに教わったのは、感覚をクロスするということ、視点をクロスするということ。できたのは冒頭の一句。


20060403

西表へ

 まずは西表に渡って一泊することになった。朝8:30の船で上原港へ。
 ゆうこさんはシーカードを持っているので、朝からダイビングをする気満々なのだが、わたしはとくにこれといってあてがない。車で迎えに来てくれたアケボノ館の女将さんに「せっかく来たんなら山とか登ってみたらどうですか」と言われて、虫や樹を見るのは好きなので、勧められるままにいいですねいいですねと言っているうちに、浦内川の船着き場まで送っていただくことになる。
 河口そばの橋まで行って目を見張る。すっかりマングローヴだ。河沿いにヒルギのタコ足が見渡せる。ボルネオでもマングローヴはあちこち見たが、こんな風に一度に見下ろすように見たことはなかった。
 すると女将さんが「あ、そこカンムリワシ」というので電柱を見上げると、カラスとは明らかに異なるシルエットが見える。闇討ちのように思いがけないものが次々と目に飛び込んでくる。

イシガケチョウ

 遊覧船で浦内川を遡り、簡単な遊歩道へ。
 イシガケチョウが森から降りてきては、川床の岩場に翅を広げてとまる。
 わざわざ模様のある翅を広げては目立つのではないかと思うが、このチョウのぎざぎざした網目模様は、なるほど岩場によくなじむ。ならば翅を立てて立体になるより、翅を広げて岩の面に沿うほうが目立ちにくい。
 チョウは一頭二頭と数えるものだが、ひらひら降りてくるこのチョウにはどうも「頭数」はなじみにくい。一枚とか一羽と言いたいところだ。その一枚だか一羽だかが降りてきては、さっと岩面になる。謎をかけられているような気がしてくる。

滝とアラインメント

 あちこちを見ながら、カンビレーの滝に出る。広々とした川床は岩で、あちこちに丸い穴が開いており、のぞき込むと、オタマジャクシが底でじっとしている。不思議な場所だ。
 対岸の森をずっと眺めていると、森のあちこちからひらひらとチョウが落ちてきてはまた舞い上がるのがわかる。アオスジアゲハにカラスアゲハ。これだけチョウがあとからあとからわいてくるように見える場所は初めてだ。ここはカミサマにまつわる場所だという。カミサマが降りてくるとしたら、なんと広々とした場所だろう。

 カンビレーの滝からの帰り道、小さな滝を見ながら、重力について考える。滝が岩にあたって盛んにしぶきをあげる、あの岩のあたりに、おそらく手がかりがある。あの岩のような部分を、自分のボディ・イメージのどこに据えるか。
 滝のイメージを、身体のアラインメントのよすがとするのはどうか。池上六朗氏と内田樹氏との対談で「ペンダントでもなんでもいいから、何かぶらさげておくといいんですよ」とあったのを思い出す。首から何かをさげ、その重みに滝のイメージを重ねてみるというのはどうか。

 夕方、西表温泉へ。アケボノ館に戻る。


20060402

石垣へ

 成瀬巳喜男を見続け、風邪をひいてから南に行く、というのも妙なことだ。
 「浮雲」は寄る辺ない男女が逃れ逃れて屋久島で終わる話で、高峰秀子は「あそこの湿気は病人にはさわるからね」などと言われながら風邪をこじらせた身を押してその屋久島までたどりつき、そこで死んでしまう。調度もほとんどない壁に、まるで終焉の地を示すように屋久島の地図が貼ってある。戦後すぐのことだから、屋久島あたりで「日本」が果てる感じだったのだろう。果てるあたりが「日本」にとっての南であり、そこに戦前のインドシナが重なったのだろう。

 沖縄本島には行ったことがあるのだが、八重山は初めてだ。
 明け方に彦根を出て関空へ。午前十時半、飛行機から降り立つと、明らかに気候が夏。気温は27°。三枚の上着を次々と脱ぎ、Tシャツ一枚で宿へ向かう。
 楽天屋は石垣の奥に広い縁側を持つ畳の客間があって、くつろいだ雰囲気の宿。廊下には虹釜さんの360°レーベルのジャケットが飾られている。
 着いたものの、予定は白紙。知らないことは宿に相談。おすすめの昼飯屋をうかがう。コロッケ定食旨し。

竹富島

 午後は、竹富島に船で渡ることにする。竹富まではものの十数分。港に着くと左手にあれこれ送迎車が並んでいる。各オーナーは車の横で客が来るのを待っているが、これといった呼び込みはしない。なんとも奥ゆかしい。レンタサイクル屋の一台を選んで乗る。
 道をしばらく行き始めると、何か影のような気配が過ぎて、見上げるとシロオビアゲハで、それで、南に来たのだと思った。
 気配だと思ったのは最初だけで、それからは左右の林からチョウが次々と目の前を横切っていくので、すっかり季節が分からなくなった。サクラでも菜の花でもなくチョウの季節。
 レンタサイクルを借りて、牧場のあたりをうろつき、カイジ浜に出る。浜でぼんやりしていると、団体客が次々とやってきて星砂さがしをしては去っていく。「オレンジ色の砂のあたりを・・・」という説明が漏れ聞こえてくるので、手近な色の濃い砂をすくってみる。星砂は見つからないが、どれも珊瑚から来る粒なのか、柔らかな丸さをしている。長い年月をかけて完全な球体になったというよりは、もともとあった突起が苦もなく削れて、球に近い不規則な形になっているように見える。よく見ると、それぞれに美しい色や形をしている。
 もう少し波に洗われ続けたら、これらはさらに小さなかけらになるのだろう。波打ち際で、同じ重さのかけらがひとところにとどまって、いわば波淘汰の結果、均一な粒が集まる。拾い上げる側から見ると、淘汰のプロセスはかき消えて、あたかも同じ大きさのかけらがもとからあるように見える。

リュウキュウアサギマダラ

 カイジ浜の入口そばに「蔵元跡」がある。跡と言っても、石垣といくつかの屋内設備らしきものが残っているだけで、すっかり木々で覆われているので、表示板がなければ見過ごすところだった。
 石垣の崩れたわきには、小さな小道があって、ところどころに木漏れ陽が小さな日だまりを作っている。それがチョウの目には輝いてみえるのだろう、カラスアゲハ、リュウキュウアサギマダラ、オオゴマダラが種を越えて追尾を繰り返している。リュウキュウアサギマダラが林床を飛ぶ速さはどのチョウとも違っている。ときおり翅を止めたまま林床を掃いて滑空していくその軌跡は吸い込まれるようで、そのたびに時空間が改まって、別の場所に連れて行かれたような気になる。何度も誘うげにすぐそばを横切るので、最初はカメラに収めようと思ったが、途中からばからしくなって、その滑空を待ち望むだけになった。

 最終便で石垣に戻る。ゆうこさんの喫煙仲間でこちらに在住の公文くんに夜の石垣を案内してもらう。金の羽で泡盛を飲んだら、昨夜来の徹夜のせいか、うつらうつらしてしまう。  帰ってほどなく就寝。

20060401

チューニングと曲のあいだ

 夜、大阪workroomにて、「窓にうたえば」。melagukan、渕上純子×喜多村朋太(ex. POPO)、梅田哲也、大和川レコード、おニコ!(fromあふりらんぽ)×稲田誠。
 どのセットも楽しかった。とくに渕上さんと喜多村さんのデュオ、二人のオルガンワークの妙もあってすばらしい。喜多村さんちの犬のことを、渕上さんが犬視点かつ「ちょいヒップホップ」に歌うのだが、これ、名曲すぎ。犬ってそういやヒップでホップだ。彼女の天才を思い知る。
 大和川レコード氏の、チューニングから曲に入るやつ、いいなあ。あとで「チューニングから弾き出すまでに、じつは音楽っていっぱいあるよね」という話をする。

 帰ってから校正、明日の準備。


 
 

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