夕方、ギャラリーそわかのクロージング・パーティ。「テクノロジーはいかにしてバッドになるか」というイベントをやらせてもらったのは、震災の年のことだから、もう十年以上前だ。うちにある大倉侍郎さんのでかい作品はそわかで買ったものだった。ここ数年は、滋賀県に引っ越したこともあって、必ずしも熱心な観覧者とは言えなかったけれど、駅からDX東寺のあたりを抜けて、そわかに行き、そこからみなみ会館に行くというルートは、なんとなく体になじんでいる。
人が近づくたびに開く硝子の自動ドアを見てたら、昔、「シビレる」というイベントで、小川テツ夫さんが吉増剛造さんの朗読に合わせて、ぴょんぴょん飛びながら、自動ドアを開け閉めしていたのを思い出した。
久しぶりに「報道ステーション」を見て、あるニュースの報道のされ方になんだか妙な感じをもった。その理由を書いておく。
ニュースは、国家公務員の5年で5%削減が、霞ヶ関の抵抗によって無効化されつつある、というものであった。取材先は農水省の下部機関である、栗原統計情報センターの調査員で、彼による農家調査が簡単に紹介されたあと、全国の統計情報センターの職員数が紹介され、「民間で行われても構わない仕事ではないか」という結論をほのめかして終わる。
わたしは、じっさいの統計情報センターの組織形態や職員数がどれほどであればよいのかは知らない。だから、それを国家公務員削減問題の文脈で取り上げることが適切なのかどうかはわからない。
そもそも、適切かどうかを判断するだけの材料を、番組は示さない。このような調査機関が全国に数多く存在する、ということは、数字をもって示されるのだが、不思議なことに、職員の仕事の全容も賃金の妥当性も一切明かされない。だから、そもそも何をもって多い少ないを論じているのかがわからない。漠然と、多いなと思わせるに過ぎない。
取材が全く行われていない、というわけでもない。統計情報センターの職員のじっさいの仕事を取材するために、わざわざ出先の畑や農家にまでついて行く映像も撮られている。しかし、それにしては具体性に乏しい。豆の出来や農家の家計を調べるという作業の「絵」は撮影されているのだが、それがどれだけの労働力を要するものなのか、その仕事がどのような統計につながっていくのかという視点を欠いている。
にもかかわらず、この番組は、彼らの仕事を「民間化できるのではないか」という文脈に無理矢理落とし込もうとする。
畑をひとつひとつ回ってその出来具合を評価するという仕事は、そう簡単なものではあるまい。どのような作物をどのような尺度で評価するのか、そのために職員はどんな経験を積むのか。オフィスではなく、わざわざ畑にまでついていって取材したなら、そうしたことに注意が向いてもよさそうなものだ。そうした過程が、番組には不思議なほど欠落している。
この番組づくりには、農業に関心が見られない。関心のない仕事の価値には意識がいかないだろう。欠落しているのは制作者の関心のほうなのだが、それが、なぜか仕事の価値の欠落ということになる。それで居心地が悪くなる。
夜中にTVでBBCの「エマ」。オースティン原作のせいもあってBBC版「高慢と偏見」と印象が重なる。役者構成も似ていたので、もしかすると同じスタッフだったのかもしれない。喧嘩仲を経て結びつく、というのは恋愛ドラマによくある筋だが、その喧嘩の種が常に階級問題であるというところがいかにもイギリス。
誰に誰がふさわしいかを誰かと語り合い、私に誰がふさわしいかを考えていく。そして、語り合った「誰か」こそがいちばん私にふさわしい、とわかる、というドラマ。
青土社Mさんからひと鞭。さて本腰を入れよう。
ブラジル(西崎美津子・稲田誠・服部玲治・西山文章)の2nd 「コーヒー」のライナーを書くべく、あらためて聞き直す。きょ、きょ、きょ、虚をつかれまくる楽曲の数々。自分の虚がこれほど露わになるとは驚きだ。前作「希望」ともども、この世に二つとない名作。みんな聞こう。
朝から木村さん、わたしの発表と続き、研究会解散。有意義な二日間であった。伝統を継承するという現象をなんとかジェスチャー研究の文脈に乗せたいのだが、もう少しディティールを解析しなければならないということがよく分かった。
夜、このところの日課である成瀬巳喜男DVD鑑賞。「めし」「山の音」に続いて「浮雲」。
成瀬己喜男作品の男は、みんなどうしようもなくやさぐれている。「めし」「山の音」の上原謙は、どうしてここまで底意地が悪いのかと思うほど女性にひどく当たる。それはどうも家父長制や男尊女卑の問題というよりは、戦争の後遺症によるものらしい。というのも、同じような棘が、戦争未亡人の描かれ方から感じられるからだ。
つきあっている相手が信じられない。信じられない程度の相手としかつきあう気がしない。日常が信じられない。信じられない程度の日常としかつきあう気がしない。そういう心象の棘が、物語のあちこちに刺さっている。にもかかわらず、映画の光線はとても美しい。「めし」の天神様にいたる小道。「山の音」の芝垣。「浮雲」の広く抜けた空の曇り方。
「浮雲」では、高峰秀子と森雅之が出てくるたびに斎藤一郎による南方風の音楽が陰鬱に鳴り響き、戦争によって刻印された断層を繰り返しよみがえらせて、まるで悪い夢のようだ。この監督の戦争体験はどのようなものであったのだろうか。
ラジオ 沼 第311回
雲の雀。菜の花は黄色い。漱石の「草枕」と「菜花黄」を手がかりに。
荒川さんの音頭で、若手身振り研究者の合宿。若手ではないが無理矢理参加させていただく。13:00から始まって、夕食と風呂をはさんで夜半まで。ほとんど一日中ジェスチャーの話をしっぱなしだった。坊農さん、関根さん、大神さん、毛利さんによる発表。メモをいっぱいとる。とりわけ関根さんによる幼稚園児の道案内研究は、空間認知と身体論をつなぐ壮大な可能性を感じさせて、これから先が楽しみ。
内田樹・名越康文「14歳の子を持つ親たちへ」(新潮新書)。わたしには14歳の子はいないが、読むところが多い。
内田さんの本に共通して言えるのは、とても使える、ということだと思う。代入や置換がしやすいように、ことばの主述が明確にされている。たとえば
「越えられない一線がある」というのは事実認知じゃなくて、本当は遂行的な命令だと思うんです・・・もう一回身銭を切って、フィクションを再構築しなければいけないんじゃないかと思いますけど。
というフレーズは、もう今日から使えそうだ。「○○は○○である」というフレーズを聞いたら、「あ、これはじつは事実認知ではなく、遂行的命令なのではないか。その起源によりかかることなく再構築しなければならないのではないか」などと頭が回り出す。
もうひとつ、はっとさせられるのは、日常における「注意」のあり方に関する短い表現だ。たとえば
「居着く」
「あ、できたね」「なにが?」
など。どれも、あらかじめモデルが意識されてから注意が行く、という順番ではなく、まず注意が行ってから、次にモデルがあぶりだされる、という順番になっている。そして、モデルをあぶり出すのは、注意刺激を与える側ではなく、注意刺激を受ける側になっている。さらに、与える側は、何が注意刺激かに気づいているとは限らず、気がついたら注意されていた、というような現象も射程に入っている。そしてなにより、覚えやすい。
「注意刺激」が何かをあらかじめ設定する心理学では、「主体の他者に対する遅れ」(内田樹「他者と死者」海鳥社)は扱いにくい。
ひとつには、心理学実験が基本的に個人の被験者を相手にしており、複数の被験者による自由なやりとりを交絡要因として排除することに原因がある。
もうひとつには、心理学のパラダイムでは、他者に遅れることを知るための構えを持ちにくいという問題がある。心理実験の基本は、あらかじめモデルを想定し、注意刺激を絞り込み、対照させることである。この手続きの中で、研究者は被験者に先んじて事態を把握したつもりになってしまう。
リベットの「マインド・タイム」が再評価され始め、ようやく意識が行動に遅れる現象に注目が集まるようになった。次の問題は、遅れた意識が、じつは一個人によって形作られるとは限らず、対話によって形作られるという現象をどう扱うか、ということだろう。そして、このような観察を行おうとするならば、まず、研究者が被験者たちに遅れなければならない。心理学者はどこかで手ぶらになって、被験者たちにモデルをあずける必要がある。
朝、ヒバリがよく鳴く。夕方、頭の上に蚊柱が立つ。まだ夜は寒いが、いよいよ春めいてきた。
卒業式に謝恩会。謝恩会での立ち振る舞いを見ていると、明らかに一年前とは違う。卒論のテーマがなかなか決まらず、なんだか日頃の所作も頼りなさそうだった学生が、いつのまにかてきぱきと体が動くようになっている。まとまったデータをとって、同級生の協力をあおぎながら論文をまとめ、人にお見せするという作業は、体に効くらしい。
案の定、サーバに手を付け始めると、朝から夜中までかかる。
そういえば明日は卒業式だ。明日は卒業式だから、という歌があったな。不思議なロジックだ。卒業式、という理由で始まる歌を考えてみる。「明日は卒業式だから、三角形の内角の和は180度を越える。」「明日は卒業式だから、隕石には当たらない。」「明日は卒業式だから、今日はおやすみ。」
学部情報室+学部サーバの会議。
じつは、わたしは学部のサーバメンテその他に関わっているのだが、しばらく作業をさぼっていた。UNIXやLINUXのコマンドは、毎日使っていると空気のように感じられるが、ちょっと遠ざかると、もう霧の中になる。グループ属性の変更やパーミションの変更といった、メンテの基本すら、忘れてしまう。そうなると、それらを一から思い出す必要がある。マニュアルと首っ引きで思い出す。結局、数時間かければなんとか終わるのだが、この数時間、というのに立ち向かう気力がなかなか湧かない。
気力も何も、ぐずぐず言わずにやればよい、と言われればまったくその通りなのだが、人には、気がいかないと体がまったくついていかない、ということが、ある。
そういう弱みが自分にもあると知っておくのは悪いことではない、と思ったりする。思ったりするだけでは作業は進まぬ。蛮勇をふりしぼってサーバに立ち向かうも、結局、一部の作業は明日に持ち越し。
ひとつの学部のサーバを維持するのは、教員の片手間ではなかなか難しい。こういうことは、専門のSEさんを雇えば、おそらくもっと効率的に進むのだろう。しかし、予算の関係上、なかなかそうはいかない。
午前中に滋賀会館(大津)で、「親切なクムジャさん」。イ・ヨンエ主演。「あのチャングムが!」と思うだけで楽しめる内容。
「クムジャさん」というタイトルが気になる。
劇中で、これは、じつは入所前に里子に出した娘が、めでたく再会した主人公を呼ぶときの呼称でもあることが明かされる。娘は生後すぐにオーストラリアで育ったので韓国語をしゃべることができない。それで再会した主人公に「(韓国語で)なんと呼んだらいい?」と尋ねる。で、主人公は「オモニ」と呼ばせずに、あえて「クムジャさん」と、自らの名前を呼ばせる。他人から呼ばれる名前を娘に使わせるあたりに、主人公の強い屈託が出ている。
作中、「クムジャさんは・・・」と物語るナレーションがあちこちに入る。最初とてもすわりが悪くて、いったいどういう視点から語っているのかがわからないが、途中で「クムジャさん」という呼称が娘視点であると気づくと、とたんにぐっと来るようになる。このナレーションは最初から最後まで、成長して韓国語を習得した娘が物語っているのである、と思ってみると、なかなか味わいが深い(この見方は監督の意図どおりかどうかはわからないが)。先日のHanksの呼称の話を思い出す。
複雑な時間構成を持つ進行。スタイリッシュなショット多数(とくにクムジャさんが冥府に吸い込まれるように階段の降りていくさまを上から撮ったところ)。パン屋の店員と自分との年齢関係を、ウォンモと自分との関係にスライドさせるという仕組みもおもしろかった(つまり、単に個人が過去と現在を行き来するのではなく、関係が過去と現在を行き来するのだ)。ラストも思いがけない。
ただ、どうも乗り出すように見ることはできなかった。錯綜する時間をそのまま愉しむには、物語の筋にかなり依存しているし、前半と後半で主要メンバーががらりと替わってるせいかもしれない。あるいはわたしが「恨」とクリスチャニティの感情にうまく乗ることができないせいだろうか。
碧水ホールで「さあトーマス」公演。
「障害のある人たちと舞踏家、演奏家、観客とのコラボレーションによる即興パフォーマンス」とパンフにはある。じつに融通無碍な内容でおもしろかった。
音楽は主として、ガムランアンサンブル「マルガサリ」のメンバーによるガムラン演奏なのだが、これはいわば舞台の基調をつくる劇伴で、舞台ではさまざまな掛け合いが半ば即興的に作られていく。パフォーマンスの中心人物の一人、「トーマスくん」こと中西さんは、観客一人一人に語りかけるのが好きらしく、ことあるごとに、観客に「舞台にあがりませんか?」と誘う。しかし、そこから先は、その場まかせ。第一部では、大きなゴングの下に中川真さんが潜っているときに、トーマスくんの観客勧誘が始まったのだが、観客がそのあとやったことは、中川さんにわからぬよう、「こっそり舞台から降りること」だった(あとで伺ったら、この展開も「即興」だったとのこと)。
伊藤愛子さんの「バッタ」物語。背中につけた薄物がバッタの羽。独特のイントネーションで語りながら、その薄物をときどき広げる所作。アンコールがかかると、またその薄物を両手で右、左、と広げる。ああ、まだいまは彼女はバッタなんだな、とわかる。
二部は、再び、トーマスくんの丁寧すぎる観客インタヴューに始まり(これも全部段取り外のできごとらしい)、ガムランの鳴る中、はるみさんの踊り。はるみさんの目ぢからはかなりのもので、ガムランの手つきをしながらつぶらな瞳でこちらを射るように見つめてくるのでどきっとする。
思いがけない行為、それも、単なる一時的なアドリブではなく、繰り返しを伴うまとまった行為が、公演の中では自在に取り込まれていく。その柔軟な進行からは、何度も試行錯誤を重ねて得られたであろう、出演者どうしの信頼関係が伺えた。
さて、その一方で、違和感も少し感じたのであえて書いておく。それは細部の進行のことだ。
出演者の所作には、はっとするような間や、中断がある。ところが、それはしばしば、いっしょに出演しているマルガサリのメンバーによって、よりなめらかで巧みな形に真似られる。それが、なめらかすぎるのだ。
確かに、相手を真似ることは、やりとりをするための重要な方法だし、真似あいが起こるのは自然なことだ。ただ、経験やトレーニングを積んでいるメンバーの所作は、あまりにもなめらかで、ほかの出演者の断続的でとぎれとぎれの表現から、何か重要なことが落ちているように見えてしまう。
ことばが途切れること、途切れたところから継がれることは、それ自体で、緊張をはらんだ一個の表現だと思う。なめらかにやり直された途端に、その緊張は落ちてしまう。なんだか、つっかえる所作が、なめらかな所作に訂正されてしまったような、感じになる。なめらかさへの志向は、緊張を拒む硬さを持っている。
もちろん、演者の緊張を解くために、なめらかさを提示するのがよい、という考え方もあるから、ここで書いた違和感は、別の見方をすれば解けてしまうかもしれない。
人ごとではなかった。第二部終盤、またしてもトーマスくんの観客勧誘が始まり、観客の一人であるわたしも誘われて、出演者が舞っている舞台に行く。行きはしたものの、どう振る舞ってよいのかわからず、しばらく座り込んで身動きがとれなくなってしまった。普通にただ音楽に合わせて踊ればよかったと思うのだが、先に書いたような違和感のことをつらつら考えていたので、いざ自分が何かしようと思ったときに固まってしまった。
じっとしているのも居心地が悪いので、とりあえずうろうろと移動すると、伊藤さんがフォークダンスのような手つきで両手を広げて差し出してくる。それでその手をとると、伊藤さんは軽く手をひねるので、わたしの体は自然とくるくると回る。すると、今度はもう一方の手。またくるくると回る。大きな紙が舞っている。「音の海」みたいだな。その紙の下にもぐりこむと、マルガサリの佐久間さんが近づいてきて、「なんだか似てますねえ」と坊主頭をなでる。わたしも自分の坊主頭をなでる。
終演後、「音の海」の沼田さんといろいろお話。「すごく踊ってたじゃないですか」と言われる。
あれだけのイベントを企画した彼女は、じつはまだ大学院生だったりする。自分が大学院生の頃のふがいなさに比べると、なんとも頼もしい。
朝から仕事をするペースを作る。
社会言語科学会。本日は朝からまじめに出る。
昼からケータイコミュニケーションの行方のシンポジウム。松田美佐さんは、明治以降の家族観の変遷をレヴューしながら、じつは農村時代は、家族概念は希薄であり、むしろ戦後になって、「家族の対話」が重要視されてきたこと、さらに、最近の傾向として、家族の崩壊が進んでいるというよりは、むしろ、より家族教育にコンシャスになってきていることを指摘したうえで、ケータイが家族関係を規定したというよりは、現在進みつつある家族関係をケータイが促進していることに注意を促していた。
わたしの発表は「ページめくりをめぐる相互行為」。
関連性理論では「相互顕在化」ということが強調される。基盤化理論では「注意 attend」の問題が強調される。そのせいか、最近のコミュニケーション理論では、相手にわかるようなあからさまに意図的な行為が取り上げられることが多い。しかし、じっさいのデータを見ると、コミュニケーションに役立っているのは、単に意図的に発信された行為ばかりではない。むしろ大半は、ちょっとした操作や作業の中断であり、それ自体を取り出したときには、伝達意図の見えにくい行為である。行為を始めること、止めること自体が、「こんにちは」や「さようなら」と同じく、じつは相手を強く喚起するのだが、これら開始と中止の持つ力は、意識からしばしばこぼれ落ちる。
二者でページめくるときの例をとりながら、じつはそうしたサブリミナルな行為が、相互行為でかなりのウェイトをしめている、という話をする。
LAからシマコさんが来場。アリさん、伝さん、榎本さん、増田さんと近くの居酒屋で飯。終電で彦根へ。
学会に出るつもりで朝早くに出たのだが、それでも一番目の口頭発表には間に合いそうにない。東京駅を降りて、大手町駅まで歩いてたら、花曇りとでも言いたいようなやけに暖かな陽気で、ダメもとでステーションホテルに電話したら、またしてもシングルが取れてしまった。せっかくだから午後はホテルで仕事をすることにする。
とはいえ、現在、丸の内南口では「東京駅ルネッサンス」というのが開催中で、ドームに面した部屋にはその音楽が響く。かなりうるさい。これはかなわんと、廊下をうろついていたら、宿泊客用のこじんまりとした空間があるので、そこで仕事をする。
夜、川崎市民ミュージアムへ。
Analogic (坂本拓也 & 中村修):
初めて見るユニットだけど、とてもおもしろかった。ブリープのような映像にいくつものレイヤーがあって、それが音と対応しているのだが、その対応というのが、ときには周波数の差だったり、波形の差だったり、とにかく思いがけない音の要素が視覚的にレイヤー化されて油断がならない。とくにでかい長方形のようなレイヤーが画面を横断しては消えていくのが気持ちいい。
あとでご本人たちに聞いたら、映像のコンポジット出力を音声入力につなぎ、それをさらに音声出力から映像入力に入れているのだという。ということは、理屈の上では、いわゆるフラクタル映像になりそうなものだが、そうはならない。映像の一部を覆う長方形のようなレイヤーは、どうやらブラウン管を使用するときに出るブロックノイズらしい。
映像と音声がループしているので、本人どうしでも、途中で、映像と音声のどちらがどちらを操作しているのかわからなくなるという。なんともおもしろいユニットだ。
The Cozmic Urination (角田俊也+伊東篤宏+宇波拓+畠中実):
銀河での放尿なのか、尿からできた銀河なのか、妙な神話性を喚起するプログレ・ユニット。まがまがしい畠中さんのベース進行、宇波くんが真顔で(しかし明らかに腹にイチモツある表情で)、鐘の音を弾いていたのがおかしかった。伊東さんのオプトロンがあまりに似つかわしく、ふと、プログレって蛍光灯が入るロックだっけ?と錯誤しそう。天井が高いので、ときどき見上げると、その蛍光灯の反映が美しい。角田さんがタンブーラを弾き始めると、曲調は一転、哀愁を帯びた「シルクロード」風に。楽器編成からは想像できない意外なまとまりが感じられたが、あとで楽譜を見せてもらったら図形譜だった。Ashra風、という文字が見えたような気がする。
ホテルに戻って明日の準備。
東京ステーションホテルのベッドは、とりたてて固いとか柔らかいということはないのだが、絶妙に寝心地がよい。表で人が通るたびに鳴る電子音は、高いドームの天井に跳ね返って、深い残響になる。それも次第にまばらになり、気がつくと寝入ってしまう。
朝、ゆるゆると荷造りをしてホテルを出て、丸の内南口のホールに入る。電子音を鳴らすのはぼくで、見上げると、さきほどまで居た部屋に灯りがついている。清掃が入っているらしい。世界が裏返った。
彦根に戻って大学へ。夜はナムジム先生、土井先生、佐々木先生、崎山先生の退官記念パーティー。日高先生も熱をおして来られていた。開学以来11年、ということばがたびたび出る。そういえば、ぼくもこの大学に11年いることになる。最初は、そんなに長く勤めることなど想像できなかった。
時間は怖いほど早く過ぎる。それで、今朝の寝心地のよさを思い出す。
岩波ホールで川本喜八郎「死者の書」を見る。
人形はなんとも抽象的な存在だ。
原作で、大津皇子の体は、まさしく死者のように、着物もぼろぼろになり、肉も朽ち果てており、それゆえ「した、した」と落ちる水分が体に添わない。いっぽう、アニメーション版「死者の書」では、大津皇子には人形の固い胴体がある。
それで、その固い胴体と水分のそぐわなさに、死者と水分のそぐわなさを託してやる。すると、しだいに、大津皇子の低い声が死者らしく響いて聞こえてくる。
大津皇子の思いに憑かれた藤原郎女の情念も、家を出でて女一人で遠い当麻寺まで夜道を行くほどの狂おしさなのだから、その表情はよほど激しいことが想像される。しかし、人形の表情はすっきりと美しい。「あなたうと」と唱える宮沢りえの声も、感情を抑えてしみいるようだ。
ふさわしい表情、ふさわしい身体に託すのでなく、むしろ、ふさわしい表情のなさ、身体のなさに託してみる。すると、物語じたいに対する感情と同時に、そこにありえたであろう表情や身体に対する喪の感情が立ち上がる。
中学の頃はクラシックばかり聴いてたし、高校の頃はユーミンと矢野顕子だったし、好きなギタリストは?と言われれば、「卒業写真」の鈴木茂であるが、それは自分であんな風に弾きたい、という意味ではない。ギブソンとマーチンの区別もつかないし、スローハンドをコピーしたいわけでも、「天国への階段」を弾きたいわけでもない。そもそもいまだにバレーコードをうまく押さえられない。
にもかかわらず、じわじわとギターが欲しくなってきたのは、かなり前だが、オクノ修「こんにちはマーチンさん」の歌とギターをとてもうらやましいと思ったせいかもしれないし、昨年の大友さんの近江八幡でのライブを見たせいかもしれない。
そして最近、家にあるエレピの鍵盤が10個ほど鳴らなくなった。これでは、心を慰める音具としては物足りない。それで、ますますいいギターが欲しくなってきた。
とはいえ、ギターのメーカー名などさっぱりわからないし、そもそも自分の求めている音がよくわからない。かといって音なんてどうでもいいというのでもなく、なんだか単音でつまびいているうちにいい気分になるような、いろいろいじっているといろいろ思わぬ反応を返してくれそうな、つまりは可能性の広がりがある楽器だといいなと思う。
というわけで、やはりぼくのギターへの物欲を激しくかき立てる名プレイヤーであるところの、宇波拓の指南を仰ぐことにして、夕雨そぼ降る渋谷でギター選びツアーを敢行する。
道すがら宇波くんの言うことには、最近、団塊の世代以降の人たちにギターがえらく売れているらしい。つまり、十代にロックの洗礼を受け、あのモデルで弾きたいと思いながら高くて手が届かなかった世代が、いま、ようやく経済的に余裕ができて、ギターをばんばん買い始めている、ということらしい。
そういえば、ぼくと同世代の知人からギターを買ったという話をここ数年よく聞く。そしてそういう話には必ず「なんとかのなんとかのカスタムの」という風に、ついに買ってしまったあこがれのモデルというのが出てくる。ところがぼくにはそれがない。
まずイシバシ、クロサワといった有名楽器店から攻め、宇波くんの解説を聞きながらあれこれ見ていくものの、そもそもフルアコとセミアコとアコの区別も分からないありさまで、「ああ、これは色がいいねえ」とか、「薄いねえ」とか、「ずいぶんするもんだねえ」とか、我ながら埒のあかない感想しか出てこない。さすがの宇波くんも困惑したらしく、「いったん休みましょう」というので、そばにあるドトールに入る。ドトールにしてはやけにでかい店構えで、店内ではピアノ演奏までやっている。奥に入って、じゃばじゃば硝子のオブジェを水が上り下りするのを見ながら二人で今日の対策を練るが、ギターの銘柄よりも、目の前の硝子のオブジェの意味が気になってしょうがない。宇波くんは最初、「フルアコ」「バンド」などなど、いろいろキーワードを書き出して考えていたが、そのうち、匙を投げたのか、邪悪な顔をしたカエルを描き始め、その周りに楽器を描き足していく。
表に出ると、雨はいっそう激しくなっている。匙を投げても宇波くんは、「自分が買うときよりむずかしい」と真剣に悩んでくれる好人物である。途中で傘を買い、今度は井の頭線の南、歩道橋を渡ったギターショップエリアを攻める。入ったとたんに木の香りがぷんとするようなアコースティック専門店にもいくつか行ったが、どの店でも値段と外見をざっと見るどまり。試奏する、というところまで行くものがなかなか見つからない。それでも「だいぶ可能性が絞られてきましたね」と宇波コンピューターはこれまで見たギターを的確にマッピングしているらしいのだが、なにしろ、道中まだ一度もギターの音を鳴らしていないので、じつは絞られていく先がちっともわからない。
そうしてもう十軒くらい回っただろうか、「いつもはあまり行かない店なんですけど」と言われて、総合楽器店のエレベーターを上がる。店の奥からフュージョン系ベースを試奏する音が聞こえてきて、これまでの店に比べると、なんともオールラウンドな感じが漂っている。
入ってすぐに、チャコール色のなんとも品のよいボディのギターがあって、ふと目が泳ぐ。「特価」の札がついていて、お値段も悪くない。宇波くんがすぐ「あ、これはいいですよ。今日でいちばんいいかも」という。「ジム・ホールも使ってるモデルですよ」ともいう。ジム・ホールの演奏をまともに聴いたことはないが、さすがに名前くらいは知っている。それならと、本日初めての試奏をさせていただく。店員さんが手慣れた手つきでちゅいんちゅいんとチューニングをして、アンプのスイッチを入れ、さあ、どうぞ、とすすめてくれる。
試奏といっても、試すべきリフもないので、一番下の弦をちょっと押さえてぽーんと弾く。と、もうそれだけで吸い込まれそうな柔らかさ。さらにぽんぽんと単音をいくつか指で弾く。開放弦で弾き、左手で押さえて弾く。どの弦からも、なめらかな音が響く。明らかに自分の力量の数十倍、数百倍のポテンシャルを秘めた一品、最初のダンジョンでいきなりラスボスを倒せるアイテムを手にした気分だ。
すっかり買う気になったが、これでは試奏としてあまりに簡素すぎる。試奏とは、ギターを試す行為であると同時に、買い手が試される行為である。この貧しいパフォーマンスでは、わたしが納得しても、店員が納得しないだろう。しかたがないので、付け足しにコードをいくつか弾く。が、人差し指がうまく弦を押さえられない。これではよけい不信に思われてしまう。
あきらめて宇波くんに渡す。さすがに手にした途端に余裕の音づかい。買い手としてのパフォーマンスも申し分ない。そして宇波くんによって発生した買い手資格に滑り込むなら、いましかない。これ下さい、と間髪を入れず頼む。
ネックには「Da'quisto」「Jazz Line」とある。たいそう有名なモデルらしい。値引きするかわりに何か付属品をつけてくれるというので、では弦を、というと、このギターに合うゲージは何番から何番までありまして・・・などなどと言われる。ゲージってなんですか、と尋ねようかと思ったが、そんなことを口にしたら、おまえには売れぬと言われるかもしれないので、ああここに張ってあるやつと同じでいいです、と答える。さらにシールドを付けてもらう段になって、このギターの音質を生かすシールドは○○と××と・・・とまたしても固有名詞がずらずら出てきたので、ふむふむとやり過ごして、最後に勧められたものを頼む。
ハードケースをつけてもらい、手渡されると、ずっしりと重たい。ああ買ってしまった。
表はあいかわらずの雨。宇波くんと別れて、渋谷の歩道橋を歩きながらギターケースに傘をさしかける。肩がかしぐ。傘を持ち替えて、鞄を持ち替えて、どうも体が決まらない。ギターを持ちつけないので、動きがぎくしゃくする。山手線に乗り込み、椅子に座ろうとして、どうやってケースを持っていいか迷ってしまう。結局足のあいだに挟んで、ネックを抱き、顎を乗せる。首の据わらない赤ん坊になった気分だ。
ホテルに戻って、ガマンできなくなり、取り出してちょっとつま弾いてみる。隣室を気にしながらの、わずかな音量で、それでも弦の残響がはっきりと聞こえる。いつもはミュートし忘れて放っておくような弦の響きの足跡に、次々と意識が行く。音から音へ、ほんのわずかな音の重なりが彩づく。これは、もうコードなど弾かなくても楽しいではないか。
ずっと弾いていたかったが、再び中目黒にとって返す。ギター選びのお礼に夕食をおごる約束だったのに、遅刻してしまった。
宇波くん、モモちゃん、ハットリ、木下くん、泉くんとジンギスカンを食う。柔らかくてくさみが少なく、えらく旨い。東京に来るたびに、店は人にいわれるまま、いわれるところで食べる。人にまかせているとよいことが起こる。
日本女子大でシンポジウム。Enfieldの話。従来の認知言語学に文化やコミュニケーションの問題をもっと取り込もう、という趣旨。相互行為派としてはそれじたいは賛成なのだが、コミュニケーションの話になるととたんに認知の問題が希薄になり、従来の会話分析研究の成果を引きながら、それを「社会的知性」の所産とするにとどまっている。認知と文化の話をするなら、じつは認知が個人の所産ではなく、相互作用の所産であることを言うくらいまで行かないと、なんだか物足りない。今日は一般向けの概論だったので、彼自身のLaoのデータがもっと出てくるとおもしろいのかもしれない。
喜多さんの話は、これまでの彼の成果をまとめた手堅いもので。ユカタンとモパンの比較や、左手のタブーに制約された道案内の所作など、ジェスチャーと言語とが共に思考に軛かれていることを、比較文化的研究を用いて明らかにしていくという筋立て。
W.Hanksの話は、呼称の話。ユカタンのマヤ人の呼称がさまざまな親族関係を参照することをひきながら、誰かのことを指し示すときに、そこには関係性が埋め込まれている、という話。
最後の議論で、有徴性(marked)の話になったのだが、じつはpragmaticにunmarkedなものはないのでは?とHanksが指摘していたのがおもしろかった。そういわれてみれば、あらゆることばは、あるレベルではmarkedである。
marked/unmarkedというのは図と地のような関係であり、何が図で何を地と見るかは、その場のコンテクストに依存する。だから、ある現象を「有徴」であると指摘するだけでは不足であり、それがどのようなコンテクストにおいて「有徴」といえるのか、その現象がそれまでになかったどのような注意を喚起するのかを問題にせねばなるまい。
会議会議会議。じつは午前中にもう一本会議があったのをすっとばしていた。夜、石田さん、黒田さん、松嶋さんと飲みに行く。
春かと思ったら思いがけない雪。
以前予約していたBoseのMicro Music Monitorというのが届く。掌サイズのスピーカーが雑然たるデスクトップ環境にぴったり過ぎると思い、つい注文してしまった。
小ささに比して低音の鳴りがよい。「小ささに比して」というところがポイント。スピーカーを見ながら聞くと、スピーカーの上後方に音像の焦点が結ばれる感じなのだ。単純に音質ということで言えば、大きいスピーカーにもっとよいものがあると思うが、ファントム感という点では、かなり得点が高い。机が低音で振動するのでバイオソニック感もあり。
久しぶりにルー・リードの「New York」を聞く。てのひらのルー・リード。バックバンドの音の引きかげんがトランジスタ・ラジオみたい。
ドラクエVIIIのラスト。それまでとは違う「いのる」戦い。ラスト近く、ちょっとした祭りのシーンが静止画のシークエンスで表現されているのだが、そこで、それまでの動画とはうって変わって画質が上がっていて、がっかりしてしまった。なんというか、それまで生き生きと動いていた世界が、急にただのイラストになった感じ。
線画アニメーションの定石のひとつに、キャラクタが静止している場面であえてセルを描き直すというのがある。わざわざ、線をラフにトレースし直したセルを用いることで、キャラは止まっているが線は動いている、というアニメーションにする。アニメーションの「動かす animated」というのが、どのようなレベルで行われうるかを示す好例だと思う。
ドラクエVIIIは、細かいシーンまで3D移動を用いて絵全体のアニメーション感を生んでいる点が、それまでのドラクエとは全く違う印象をもたらしていた。最初はちょっと粒子が粗いかなと思ったが、すぐに気にならなくなった。が、最後にいくぶん高画質の静止画が多用されたことで、これまでの動画がみすぼらしくなると同時に、世界が急に静止してしまい、アニメーションのマジックががっくり落ちてしまった。ちょっと残念。
ドラクエにおいては、助けた姫と結ばれるというのは、助けた亀に連れられて竜宮城に行くのと同じくらい、逃れられない運命なのだが、今回もどうやらその模様。
東京から大阪へ。赤レンガ倉庫で「piano piano」展。気配を消して、とサブタイトルにあるように、多くの作品は、どこにあるかよく探さないとわからない仕掛けになっている。作品の押し出しの強さではなく、気配の消し方が試される。
なぜかにこやかな警備員さんがいて、それが作品だったりする。床にあたかも倉庫に昔から残っていた符丁のように描かれたチョークの絵が、これまた作品だったりする。もう途中から何が作品で何が倉庫にもとからあったものなのか、判然としなくなってくる。簡単な机と電話線のプラグの抜けたあとがあちこちに放置された部屋があって、これはまた妙な作品だと思ったら、ほんとにただの事務所の引っ越し後だった。その部屋と隣の部屋とのあいだ、仕切り板にはさまれた小さなスペースに作り物の蓮がびっしり咲いている。
小島さんのギターに最初まったく気づかなくて悔しかった。思ってたよりずっと上にあったのだ。柱を丸抱えにして弾くと、自然と耳が柱にくっついて、そのポーズだけでもう素晴らしいのだが、誰かと弾かないとコードにならない、というのも楽しい。
作品自体の気配は消えていなかったが、真昼の星を露光する、という作品にも、妄想をかきたてられた。モノクロームのプリントの、砂目ひとつひとつが、星の可能性を秘めている。
神戸に移動。ビッグアップルでTerakoya DJ Show。HacoさんとYukoさんが、エストニア生まれのSkypeを駆使する様をトークを交えて披露する。接続の失敗やノイズ混入も頻発し、それも拡声されて観客に披露される。ときどきうまく行くテクノロジー。
アンコールで呼ばれて「弁慶の引きずり鐘の伝説」を歌う。最近あんまりピアノを弾いてなかったのでよれよれだったが、意外にもうける。調子に乗って、終演後はすっかり高校生モードになり、「ひこうき雲」とか「海を見ていた午後」とか「卒業写真」とか弾き語る。
見知らぬ土地の一本道で、向こうから人が歩いてくるとき、その人は歩くものにとって特別な存在に見える。人が無事に歩いてきたということは、この先は、人が無事に歩けるような道であることを示している。その人は、自分の行く先がどんな場所かをすでに知っている。だから、「この先、○○まではどれくらいありますか」などと尋ねてみたりする。
わたしとすれ違うあなたは、わたしの知らない未来を知っている。いっぽうわたしは、あなたの知らない未来を歩いてきた。すれ違うことで、わたしはあなたの過去へと遡り、あなたはわたしの過去へと遡る。
「次郎長三国志」は、このようなすれ違いの予兆に満ちている。
画面の右手前から、左奥へと、誰かが横切っていく。わたしの知らない未来から、誰かが来て、わたしの知っている過去へと遡っていく。映画の奥行きが時間へと変換される。
第五部、猿屋の勘助にとらわれたお仲を助けるために、次郎長一家が甲州に殴り込みに行くくだり。一行の道中は、遠くから画面をたっぷり使って撮影されている。道は画面を右から左へ、斜めに横切っており、一行が来るのは画面右の遠くから、そして、そこに画面左、すぐ手前から人が歩いてきてすれ違う。
すれ違うどの人も、これからの旅の無事を告げているようであり、逆に敵の気配を届けにきたようでもある。
そこへ、飛脚が一家を追い越していく。何かに気づいたように次郎長が言う。「さっきやくざがすれ違ったろう? 飛脚が追い越していった」。未来から来て、過去を探り、再び未来へと帰る者がいる。一家は、自分たちがいよいよ、敵の待ちかまえる山中に入ったことを知る。
「次郎長三国志第五部」、秋祭りに賑わう清水港で、次郎長とお蝶は、土地のならわしを知らぬ子分たちに、祭りで出会った男女は夫婦になるのだと説明するうちに、他ならぬ自分たちのなれそめを話すはめになる。久しぶりに酒も入って思い出を語る次郎長、その顔にピントが合うと、子分たちの顔は夢のようにぼやけて、画面までのろけている。もうたくさんと言いたくなるほどにたっぷりと、二人ののろけ話が続き、法印の大五郎が思わず次郎長を叩くと、お蝶が「あたしも叩いて」という、そのあまりの甘さに、お仲が思わず「姐さん、惚れたよ」と、こちらも酔いながら笑いかける。
この場面は、先日見た東映版でもほぼ同じ脚本で繰り返されていたのだが、今回、この東宝版を見ていて、突然、「ここでお仲はひっそりと、恋に破れたのだな」という感じが迫ってきた。久慈あさみ演じるお仲の、少し原節子似の声とすっきりとした笑みが、急に淋しげに響いて見えてしまった。
この後、お仲が急に思い立ったように単身で敵の猿屋の勘助のもとに行くのは、次郎長とお蝶とのやりとりに、自分の思いの入り込む余地のないことを知ったからであり、それでもなお次郎長に尽くすとすれば、それはお蝶の前ではありえない、ならば敵陣にこの身を投げるしかないと覚悟したからだろう。そして、次郎長があえてお蝶を置いて勘助のもとに旅立つのも、おそらくはそのお仲の気持ちに答えようという無意識の表れだろう。じつは第五部から六部にかけての異様なまでに陰々滅々たる兇状旅の展開は、お仲の次郎長への気持ちに対する喪の過程であるとさえ言える・・・
などと、肩入れしたくなるくらい、久慈あさみ演じるお仲はいい女である(ここは。志ん生風に「いーーーー・・・いおんな」と言いたいところだ)。
第六部、劇中何度も御詠歌が流れ、兇状旅、いまで言うならおたずねものの旅の重さ苦しさはいや増していく。お百度を踏みながら権現様に話しかけるお園を演じるのは越路吹雪、鳥居の前に来るたびに、からりと投げ入れるお札の乾いた音。その願いに烏が不吉に応える。「鳥は池辺の樹に宿る。魚は月下の波に臥す。人は情けの袖の下」という御詠歌の文句がしみる。
終盤、ついにお蝶がいまわの際、というときに、大政から始めて、子分ひとりひとりの名を呼んでいくのだが、なぜか法印の大五郎だけなかなか呼びかけられない。たまりかねた大五郎が思わず「姐さん」と声をかけると、お蝶は「その声は大五郎さんね」と先に名前を言い当てる。それで大五郎が「おおきに、おおきに」と礼を言う。相手の死に際に自分との縁を相手に言わせたいと、感情の損得を弾き出す、田中春男のさりげない間の取り方。愁嘆場の中におかしさがある。
そのお蝶を演じる若山セツ子の声が、あまりに白石冬美の声にそっくりで、いまに「飛雄馬」などと呼びかけ出すのではと、妙な妄想。
昨日偶然会った元日高研の森くんと渋谷でへぎそば。二人ともシネマヴェーラ渋谷からはすごく遠いところに住んでるのに不思議。
シネマヴェーラ渋谷で、「次郎長三国志」第三部、第四部。第三部の久慈あさみと森繁久弥とのやりとりに吸い込まれてしまい、二回観てしまう。
「ラジオ 沼」第306回 「壺を上げる手」
マキノ作品のカット割りには、ひょんなところに思わぬ手が入っていて驚かされる。
第三部でいうと、森繁演じる森の石松が、こっそり旅立とうと廊下に出たところで、部屋にいる三五郎に見つかってしまう場面。森繁は廊下に置いた三度笠を隠そうと、後ずさりしながら後ろに蹴っていく。この所作がなんとも間抜けで楽しいのだが、その直後に、宿の表、旅姿の女性が遠くから歩いてくる様子が差し挟まれる。この二つのカットをつないでいるのは、ストーリーではなく、後ずさりと前進という、運動の対比である。そのことで、世界が、人の意志を越えた運動の論理によって動かされているかのような、不思議な感覚が立ち上がる。
マキノ演技論。次のくだりは、そのまま、ジェスチャーのマルチモーダル性を的確に言い表している。
たとえば、ひとを待っているとしますね。ふつう演出家というのは、演技の基本を教えとかないで、その場で、ただ、「ドアをたたく音が聞こえたら、きみ、こっちを見るのだよ」と、こう言うわけですね。そうすると、待っているのが一なら、ドアをたたく音を聞くのが二ですよ。ふりむくのは三になるわけですよ。これでは、割り切りがわるいんですね。ところが、基本を教えておくと、ドアがコンコンとたたかれる音を聞いて、待ちながら同時にふっと聞く瞬間があるわけですよ。待っているのがひとつ、聞くのがひとつ、ふりむくのがひとつ、ということではないんですね。コンコンと鳴ると、待っていながら、ふっとこう見ますよ。そこのへんで、好きなひとを待っているのか、それとも待たされているのか、ということをどうやってみせるかということになりますわね。
(山田宏一「次郎長三国志 マキノ雅弘の世界」ワイズ出版)
マキノ作品には、現在の映画に比べると意外なほど遠景のショットが多い。野外ロケでは、撮影の場を広く取って、カメラはぐっと引く。人物をアップにするかわりに、広い撮影舞台に、俳優を出入りさせて、画面に俳優が出入りするおもしろさを撮っている。
マキノ作品には、現在の映画に比べると意外なほど遠景のショットが多い。野外ロケでは、撮影の場を広く取って、カメラはぐっと引く。人物をアップにするかわりに、広い撮影舞台に、俳優を出入りさせて、画面に俳優が出入りするおもしろさを撮っている。
遠景のショットの手前に、道標や石地蔵が写っていることがある。遠景と近景という空間的な関係が、現在と未来という時間的な関係を想起させる。第三部の冒頭、石松が次郎長と別れる場面で、一同のやりとりは遠くにあり、手前には道標。名残を惜しむ現在の手前で、それぞれの道を示す標(#しるし)は静かに立っている。こうした構図はラストでも繰り返される。一行が画面を横切る清水港の浜、その手前には膝丈ほどの小さな鳥居と祠があり、舟影には石地蔵がある。それらは旅の守のしるしであると同時に、行く末を酷薄に見守る存在でもある。
原稿とドラクエ。
馬になったミーティア姫がときどき(ドラクエの中で)夢に出てくるのだが、これがなんとも浮世離れした女の子女の子した会話をかけてきてげんなりする。ミーティアは今日18才になりました、とかなんとか甘い夢物語を語るのだが、そのミーティアは、たぶん、道を歩きながら人目もはばからずぼろぼろと馬糞をしているはずなのである。ぼろぼろと馬糞をする経験を経たら、もう少しマシなことを言いそうなものだ。
京都で研究会。前回に引き続き、酒井邦嘉さんの話。今回は手話の話。ちょっと驚いたのは、「言語の脳科学」の最後のほうで述べられていた手話の世界が、その後どんどん広がって、酒井さんはいまや本格的な日本手話の研究者になっていたこと。
「はじめての手話」の著者でもある木村晴美さんや市田泰弘さんらとの共著の別刷をいただいたが(K. L. Sakai, Y. Tatsuno, K. Suzuki, H. Kimura & Y. Ichida 2005 Sign and speech: amodal commonality in left hemisphere dominance for comprehension of sentences. Brain 128, 1407-1417)、そこでは、周到な対照実験を用いたfMRIによる手話における左脳の優位性が確かめられている。従来、手話は、空間性の強いメディアであるせいもあってか、右脳優位の結果を出す研究が多かったわけだが、この論文では逆に、空間を使うメディアであっても、その文法と文章構築は左脳で担われることを明らかにしており、たいへん興味深い。
手話における文章内の単語レベルの間違いを検出するときは、左脳の「文法処理」部分が主に活動する。いっぽう文と文との関係の間違いを検出する場合は「文章理解」部分が活動する。提示刺激の映像を見せていただいたのだが、興味深いのは、文と文との関係の間違いを表すのに、二者の手話会話が用いられていたこと。二者それぞれの発語は日本手話として正しいのだが、会話としてはちぐはぐになるような刺激を見せると、左脳の「文章理解」部分が活動するというわけだ。
となると、この部位は、単に「文章理解」というだけでなく、「会話のターン間の意味理解」に関わっているということだ。そして、音声言語でも手話でも、会話のターン間の関係を解釈するときに、脳の同じ場所が灯るということになる。
酒井さんは、ご自身の手話体験のショックをさまざまな例で語っておられて、それがまたとてもおもしろかったのだが、この前の野村雅一さんの話と合わせて興味深かったのは、手話がじつは「手」のみならず胴体の傾きや顔の表情をものすごく使っている、ということ。
ぼくたちはつい、「手」の動きに注意を寄せるけれども、じつは手話をする人を見ていればわかるように、手話では表情がすごく効いていて、手話に伴う感情と、手話に伴う表情とはしばしば独立に働いている。さらに胴体を前に傾けるか、のけぞらせるか、それをどのタイミングで行うかでも、意味はずいぶんと変わってくる。
その意味では、手話は、手・顔・胴体の協調によってなされるマルチモーダルな現象だということになる。
と、ここまで考えて、では音声はどうなのか、とふと思いついた。音声も、じつは、口、喉頭と声帯、呼吸器の協調によってなされる現象であり、しかも、音素情報とは別に、そこに音のピッチ変化や音圧の変化などさまざまなプロソディ情報が載っている。となると、音声発話もまた、マルチモーダルな現象、というべきではないか。
じつは人間の言語能力には、もともとメディアにあまり依存しないマルチモーダルな性質があって、それが、口を中心として喉頭や声帯との協調作業で実現されると音声になり、手を中心として顔や胴体の協調作業で実現されると手話になる、ということではないか。(昔、筒井康隆の「関節話法」という小説があったけれど、あれも、SFだけの話としては片付けられない現実味を帯びて感じられてくる。)
そもそも、複数のモードを同時に感知する能力は、彼我という異なる二つのモードを同時に理解するのに必須の行為だ。彼の行為は視覚的に入ってくるし、我の行為は運動によって感じられる。この二つのモードは(おそらく)ミラーニューロン的なものを介して行われる。ミラーニューロンのみならず、複数の感覚の共起に反応し、相互をリンクさせるような共感覚も、そこには関与しているだろう。ミラーニューロンと共感覚が相互行為によっていかに時系列上で組織化されるのか。そこにどんな拘束条件が入っているのか。このあたりが、今後重要になってくる。
アルファベットのような表音文字は、こうしたマルチモーダルな現象を単一のモーダルな現象に落とし込んだ、非常に特殊なメディアだ(これに対して、漢字は、表音と表意を同時に乗せている点で、マルチモーダルである)。だから、アルファベットから言語を考えてしまうと、そこで同時並行に走っている別のモードを見逃すことになる。
酒井さんの話でおもしろかったもうひとつの話。双子の子どもは、母親の入れないくらい濃密な二人だけのことばのやりとりを持つ、という。これを酒井さんは「二人のクレオール」という呼び方をしていた。赤ん坊は、母親との関係でまずピジン化するのだが、双子の間でクレオール化が進むのだ。発達という時間軸の中に、ピジン、クレオールという概念は偏在している。
原稿とドラクエ。
前にも書いたけど、ぼくは、ミュージシャンによく「大人」を感じることがある。あちこち旅をして、初めて会った人にこちらのやりたいことを伝えて、演じる場所、演じる機材をセッティングし、何人もの(自分を含めた)我の強い面々と一つのバンドやユニットを作り上げる、その積み重ねは、通常の生活では想像つかないような経験値をもたらす。
この日、関わっていたミュージシャンからは、そうした「大人」を強く感じた。
十数人の個性の強い障害者さんたちがこの日の主役。一人一人、強い個性を持つ彼らに対して、ときどきは壇上で声をあげながら、音楽の始まりと終わりを指示していく大友さん、素っ頓狂な声から意外なほどの小さな声へとジェットコースターのように客席に音を届かせる加奈さん、気配を消しながら訥々としたトランペットの音のように舞台での態度を伝染させていく江崎さん、タッパの高いところから頼りがいのある睨みをきかせて進行をアナウンスするアリさん。彼らからは、演奏中のみならず、舞台のいろんな場面で、数々のステージで鍛え上げられた本番での体のあり方を感じた。
そして出演者の一人一人のそばにさりげなく移動して、その姿勢や位置をうまくセッティングしていた沼田さんをはじめスタッフの人たち。
そのように丁寧に作り上げた場の上で、ときには楽々と、ときには必死で、ときには作られた場を踏み越えて、出演者たちは、じつに思いがけないタイミングで音を出していた。
そんなわけで、「音の海」にはほんとうにノックアウトされた。
「ラジオ 沼」第304回音の海@ジーベックホール(前)
「ラジオ 沼」第305回音の海@ジーベックホール(後)
上記の放送でも全然舌足らずで「生き生きと」とか「美しい」とか、いつもなら何かを評するときは避けるはずのことばを使ってしまっているが、この日に起こったことのあまりにたくさんのことを伝えるのは難しい。
「ラジオ 沼」で話さなかったことをいくつか。
藤本さんのトランペット。ブロウとかロングトーンという考え方ではない、呼吸することと音を鳴らすこと。繰り返しをおそれないこと。呼吸を繰り返すことをおそれる人はいない。
江崎さん、大友さんとピアノの弾いた子(名前を失念してしまった)の、鍵盤へのあざやかな体重の乗せ方。ときおり、すわらない腰をスタッフに支えられながら、人差し指で(ときには拳で)単音を弾くとき、彼女の上半身が鍵盤に乗って、思いがけなく柔らかな音がする。これをゆっくりと、何度もやる。そのたびに、確かなで柔らかい音がする。
親御さんが出た二つのピースも、父兄参加、という以上の曲だった。だって、童謡やクラシックを弾くのじゃないのだ。習ったことのない楽器を一音、また一音と弾く。あるいはずらりと立ち並んで、掃除機を高々と掲げる。音楽の時間じゃけして習わないような、知らない人からすれば奇想天外な曲を演じておられるその姿は、少し神妙で、恥じらいがあって、しかし、はしばしで、ただの照れ笑いとは少し違う笑みが顔からこぼれてしまっている。
あとでこの公演を企画した沼田里衣さんから聞いた話なのだが、この公演の出演者は、別段、特定の学校や施設に通う仲良しどうしだったわけではなく、昨年の九月に、このプロジェクトで初めて顔を合わせたのだという。
初めて会う他の出演者とその親御さん、さらにはスタッフや出演者と、はたしてうまくやっていけるかどうか、親御さんには、さまざまな不安もあったのではないか。
その方々が、子どもをスタッフに預けて、なんとも楽しげに演壇に出ておられる。これはすごいなと思った。とりたてて力むでもなく、そんな風に我が子を誰かに託す。そういう胆力というか落ち着きが、壇上のみなさんの姿から感じられる。陳腐な言い回しだけど、演奏する体は人を表すのだ。
それにしても、このところずっと、これはと思う場所や時間に出会うと、「託す」ということばが浮かぶ。
アンコールで、客席から声をかけた野村誠くんが大友さんに呼ばれて前に出た。これはちょっとした事件になった。*
最初はおとなしく端で椅子を鳴らしていた野村くんは、だんだん暴風雨のように野蛮に振る舞い始めた。舞台中央に上がって太鼓を鳴らし、そして、それまで女の子が一生懸命クレヨンで何かを描きつけていた大きな模造紙をひっつかんで破り始めた。これには正直ヒヤリとした。
この日(そして前日までも)、出演者たちはあちこちで絵を描いており、それは舞台の後ろやホワイエに次々と張り出されていた。「絵を描く」という行為は、いわばこの公演の積み重ねを象徴するような存在になりつつあった。そんな絵の一枚を野村くんが破っている。ああ、やっちゃった。しかも、彼はそれを、マイクに急にがばっとかぶせる。TOAご自慢の高いスピーカーがぼすっと大きな音を立てた。PAの人があわててボリュームを切った。それでも野村くんは止まらない。暴れてる暴れてる。ちぎれた紙が舞う。見ているこちらも生アセが出る。
で、よく見ると、絵を描いてた女の子がいっしょに紙をばさばさやっている。それを見て、突然、すがすがしい感じがやってきた。
紙には絵を描くことができる。その紙は破くことができる。破ってもいいんだ。
野村くんのことだから、紙破りはただのでたらめではなかったのかもしれない。舞台の上で猛烈に暴れている最中に、ものすごい速さで出演者とのやりとりがあって、その高速のやりとりの中で、破る、ということになったのかもしれない。でも、じつのところ、そのやりとりはぼくの席からはわからなかった。
ただ、この日の確かな公演の最後の最後に、紙がこんな風に破れて宙に舞うなんて、すごいなと思った。その軌跡が折りにふれて思い出される。それはとても不思議な感情で、うまく説明がつかない。
*補足。以下、野村誠くんからのコメントです。野村くんが破いた紙は、じつは野村くん自身が壇上で描いた紙だった、とのこと。客席から観てるのとは、ことの前後関係も含めて、まったく違う経験が語られています。にもかかわらず、やっぱり「紙を破く」ことのすがすがしさはちゃんと伝わってきたんだな。それも含めて、すごくおもしろい。
『えっと、ちょっと補足を。
舞台中央で太鼓を叩いているときに、太鼓の上にクレヨンをのせて、叩いていました。クレヨンが太鼓の上で弾みます。すると、女の子がぼくがやっていた太鼓を叩きたくなったみたいです。クレヨンを一緒に弾ませながら演奏しました。そのうち、女の子に太鼓を奪われたので、ぼくの楽器は白い紙とクレヨンになりました。紙にクレヨンをカチカチならすと、音がすると同時に絵も少し描けます。ぼくは最初はクレヨンを中心に演奏していましたが、次に紙そのものを演奏することにしました。
ちなみに、ぼくが振り回した紙はぼくが描いた紙です。あしからず。
ぼくは紙を旗のように振り回したり、紙をバサバサ言わせたり。そして、マイクにかぶせる音も聴いてみたくなりました。
紙を破り始めたのは、子どもだったと思います。それにぼくも追随しました。それまでは、明らかにぼくは紙という楽器を演奏していました。最後は、音を楽しむというよりも、行為を楽しんでいました。でも、それは音と子どもから誘発された行為でした。それも、音楽とは切り離せないもので、永井くんが太鼓をやめて踊りを始めることに似ているなぁ、と感じてます。
それにしても、アンコールの時に、大友さんが「野村くんも入ったら」と言ったのが、不思議でした。唐突だったし。
本当に言葉にできない体験でしたね。』
ところで、この日、実際にステージに上がった経験が綴られた日記がすごくおもしろい。ああ、そういう風に見えてたんだという点がぼろぼろ出てきて、実際に観た人にとっても(というか特に実際に観た人にとっては)考えさせられるはず。
大友良英のJAMJAM日記 3/7, 3/9 (さらに続きがあるらしい)
野村誠の作曲日誌 3/5
kananagaの日記 (林加奈さんの日記。出演者や聞いていた人の日記へのリンクもたくさんあり)
京大会館で野村さんの話を聞く会。野村さんが国立民族学博物館を定年退職されるのを記念しての集まり。とはいえ、形式的なことは抜きで、膨大な知識から繰り出される舌鋒鋭い語りを堪能するための企画。
高橋悠治とルロワ=グーランの引用を中心に、ヤコブソン流の構造主義的な音声研究ではなく、運動としての声を復権させようとする壮大な「野村節」に、ノートを取りまくり、妄想をたくましくする。
昔は、データに裏付けられた確かなもののみに信頼を置くあまり、大きな話のおもしろみがわからなかったように思う。最近は、もちろん、実証は大事だと思ってはいるが、それ以上に、こちらの妄想エンジンをたくましく駆動させる話が、おもしろいと思うようになってきた。野村さんの今日の話は、まさにエンジンが駆動してやまない内容。以下、話を聞きながら書き殴ったノートから妄想を抜粋。
なぜ楽器は人の似姿に作られるか。楽器は演奏者の身体を表す鏡であり、身体を表すには他人の形をしているのが適しているから。
ナンカロウの自動ピアノ音楽がとんでもないのは、それが定規で引かれた線に基づいて開けられたパンチ穴によって演奏されているからではない。ナンカロウの音楽を聴くとき、聴き手の中に立ち上がる演奏家、この恐ろしいスピードで引きまくっているかもしれない指や手、そこで現れる幻の身体が問題なのではないか。
テクノやエレクトロがブラックミュージックに影響を受け、ブラックミュージックに影響を与えてきたに注意すること。テクノロジーが喚起するのは、テクノロジーそのものではなく肉体である。いまここにある肉体を越えようとすることがダンスであり、テクノやエレクトロは、それらが喚起する肉体によって、この肉体を越えようとするダンスミュージックである。
耳は立つことと関係している。耳システムが、聴覚器官であると同時に、重力感覚の器官(三半規管)であることに注意すること。直立歩行と聴覚、聴覚と言語のリンクに注意すること。
食べるという行為は、口のみによって行われるのではない。モルモットを始めとする齧歯類の多くは、木の実を食べようとすると自然と両手が口に添う。彼らにとって摂食という行為は口と手システムによる行為であり、固い木の殻の中から実を取り出すという行為は、口と手とを同時に使うことによってはじめて可能になる。
人間の場合は、手だけを使ったり、手と道具を使うことで木の実の殻を割って中身を出すことができる。口と手とのリンクは緩やかになり、口に運ぶ前のさまざまな処理が手のみを使って行われるようになった。人は「目黒のさんま」の殿様のように、あらかじめ手によってさまざまな処理をほどこされたひとかけらを、むなしく口に運ぶ。
宮崎アニメで、パンを食べるシーンが妙に動物的で印象に残るのは、それが、口と手の両方を使って摂食されるからではないか。パンは、あえて一口サイズではない大きさで作られている。それを、口と手とを使って引きちぎる。イーストでふくらまされた繊維が伸び、引きちぎられていくことの気持ちのよさ。人間が忘れていた、口ー手システムのヨロコビ。
口が聴覚的なメディアであることにとらわれ過ぎないこと。手が運動することによって世界をシミュレートするように、口もまた、運動することによって世界をシミュレートする。
文字がアルファベット化したときに、声の専制が起こり、言語に身振りが従属した。しかし、漢字文化では、声に乗らない形象がそこに乗せられた。表意文字と表音文字を共に使うわたしたちの場合、その身振りには、アルファベット文化にはない特質があるのではないか。
漢字は現在の中国語音声よりも古い。漢字は、音声中国語を正しく再生するためのツールというよりも、音声抜きで理解可能な形象ツールであった。
じつは、筆蝕以上に、漢字が実現するということのヨロコビが日本語にとっては重要なのではないか。音声日本語が、心的に漢字に変換されたときに、はじめてその意味が鮮やかに浮かび上がり、理解した気がする。たとえば、わたしたちが難しい術語を聞いたときにしばしば、「それどういう字を書くの?」と尋ねることを思い浮かべよ。
これほどワープロの漢字変換が普及する理由として、筆触よりも漢字の実現を考えること。
日本人のマンガ好きは漢字ひらがな文化による、漢字は絵でひらがなは吹き出しであるという養老孟司の説を考えること。
映画館で、誰かとともに映画を見ることが少なくなって久しい。最近、予備校ではサテライト授業が花盛りだが、あれは意外に、生の先生より評判がよかったりするのだそうだ。いまいちばん「誰かと共に映像を見る」体験として重要なのは、サテライト授業か?
バッハは失敗作が多い。書き直すより次の作品を書くほうが速かったからである。となると、日記とはバッハの作品のようなものか?
贈与とは時間差を設けることであり、相手にすぐに返礼できないこと、相手に負い目を追わせることが贈与の本質である(沈黙交易を想起せよ)。
猫はときどきシリアルに興味を失って、「にゃあ」と餌を要求する。ところが、餌をからからと揺すって動かしてやると、また食べ出す。猫はカナヘビを見つけて飼い主のもとに持ってくるが、シリアルを持ってくることはない。猫は空間的に固定されていなかったもの、つまり動きを贈っているのではないか。猫はゾンビを贈る。動かなくなったカナヘビを贈られたわたしは、いますぐ動くものを返礼することはできない。
蔵を改造した磔磔には太い柱が客席にあって、後ろから見ると、これがけっこうでかい死角を作る。目をつぶって聞くのもいいかと思ったが、小杉さんの演奏の場合、音もさることながらその油断ならない動きが魅力なので、端っこで立って見る。
容赦ない演奏。割り箸のような二本の棒を面に押しつけて引きずると、棒はその弾性ゆえちょっとたわんでから、ぴん、と面からはずれる。見た目には小さな現象だが、それがゴジラのつぶやきのごとく拡声される。なんというか和泉さんの鳴らす宇宙戦争の中で、ゴジラがいろいろ口の中でつぶやきながら、戦争を口内シミュレートしているような感じだった。
Green Zone。加藤さんのベースを聴くのは十数年ぶりだろうか。なんといっても野太いその音色にしびれた。音列をキープしながら、アタックやトーンの長さをあちこち入れ替えて、めくるめくリズムを弾き出す。それでいてビートが崩れない。
そこに植村さんの正確無比なスティックさばき。一曲めで、ひとつひとつのアタックにリヴァーブが見事に効いて聞こえたので、てっきりエフェクタをかけているのかと思ってよく見たら、リヴァーブではなく、アタックを少しずつ弱めながら全部手打ちで叩かれている。人力ダブ。しかもそれがときには左右でそろえられ、ずらされる。こうなるともう、エフェクタではあり得ない音だ。
加藤さんと植村さんのフレーズは、どんなに速くても、それがなだらかなテクスチャに落ち着くのではなく、はっきりした粒立ちを保っている。それは二人の体にも表れていて、腕はものすごく速く動いているのに、胴体がやけに安定している。
途方もないダブの化け物のようなこのリズム隊に乗って、大友さんのギターが暴れまくる。
打ち上げの吉田屋に。くわいのチップス、空豆のまるごと焼きに始まり、いつもながらめくるめく料理。
原稿。
大阪赤レンガ倉庫で行われる「アントルポッの放課後」回顧展用に、絵はがきを一枚作る。先日入手したシミだらけの大阪名所錦絵に描かれた高津宮の図像をあちこち修復して、絵はがき風にする。Photoshopは、写真の加工用に発達したソフトだけあって、シミの部分を切り取りツールで囲って「色の置き換え」をやると、かなり原画の感じが再生できる。ただし、こういう作業は、シミの持っている歴史性(それは誰がどんな経緯でこぼしたのか、なぜその部分なのか、などなど)を剥奪するので気をつけなければならない。
明治二八年(一八九五年)の高津宮からの風景画には、中之島公会堂の屋根や、北の九階(大阪凌雲閣)らしき建物の影が鳥居越しに描かれている。
足穂論校正。『彗星倶楽部』をしみじみと読み返す。