The Beach : March a 2003


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20030315

 大学まで散歩。自転車なら10分だが歩くと30分以上かかる。田んぼに早咲きの菜の花がちらほら。近くに寄ってみると、葉色が薄く、花びらの先に白が混じっていて、貧血気味な感じ。いわゆるセイヨウカラシナとは違う種類なのだろうか。ホトケノザもすでにちらほら咲き始めていた。まだ気温は10度にも満たないが、花のほうは春になりつつある。
 菜の花を一本摘んで部屋の急須に活け、キーボードの横に置く。やけに花粉の匂いがきつい。きついというよりカラい。

 昨日に引き続き論文を書く。サックスの成員カテゴリー装置の概念が使えるかと思ったが、彼の講義録を読み返すと、どうもこちらの考えと違う。
 サックスはどうも「男/女」とか「白人/黒人」とか「冗談/本気」といった、そのカテゴリーを思いついたとたんに推論がぱーっと広がるような(inference richな)状況を問題にしている。つまり、ある種のステレオタイプを問題にしているといっていい。
 が、こちとらの考えたいのは、そういうステレオタイプにいたる以前の、自分と相手はどうやらあれこれ違う点があるのだがこの違いをどういう表象(もしくはスティグマ)のもとにどういうカテゴリーに落とし込めばいいのかわからん、という事態である。
 既存のカテゴリーに向けてカテゴリー化がおこなわれていく事態ではなく、あるのかないのかわからないカテゴリーが形をとっていく事態を扱いたい。ささいな表象や表象に関する知識が核となり、そのまわりにさまざまなエピソードが飽和点を越えたホウ酸よろしくカテゴリーとして結晶化していくような過程は、どのように記述できるだろう。

 ずいぶん前に、浅草の路地で聞いたわらべ歌なのだが、ネット検索をかけたら(というか、正確には、うちのページに「めーがーでーてー」で検索をかけてきた酔狂な方がおられたので逆リンクをたどったら)、こんなのが出てきた。

おーてーらーのーおーしょーさんーがー
かーぼーちゃーのーたーねーをーまーきーまーしーた
めーがーでーてー
ふくらんでー
はーながさいたら
かれちゃってー
にんぽうつかって
そらとんでー
東京タワーにぶつかってー
テレビの前で
じゃんけんぽん

 「東京タワー」が登場するところが興味深い。「いろはにこんぺいとう」(浅草十二階や通天閣が登場するバージョンがある)と同じく、塔の記憶が刻印されている。お寺のおしょうさんジャンケン遊びといったイトルでもひっかかった。どうもいろいろバリエーションがあるらしい。



20030314

 空気は冷たいが陽射しは暖かい。陽射しを背に歩いていると黒いジャケットにみるみる太陽熱が蓄積されてくるのがわかる。
 昨年に中尾くんが書いた卒論のデータを引き取り、これを論文にする作業。塾と成員カテゴリーという魅力的なテーマなのだが、論文にするにはもう一歩新しい問題発見が欲しい。何度ももとの会話を見直すが、テーマとは別の発見多し。

 夜、どうも本調子ではなく、『幽玄漫玉日記』を読み直したり『天空の城ラピュタ』を見たりしてぼやーっとする。長いこと見てなくて気づかなかったが、シータが飛行船で洗い物をまかされるところとか、城を去るとき遠景にちらっとロボットが見えて遠ざかっていくカットとかは、ほとんど『千と千尋の神隠し』で繰り返されるのだな。

 風呂場で猫を洗う。



20030313

 午前中会議。午後、雑用でみるみるつぶれる。昨日のコピー&ペーストである。コピペのような日常。事務仕事が絶望的に苦手な自分を再認識する。わたしに事務仕事を頼まないのが大学の運営にとってはいちばん効率がいいと思うのだが。



20030312

 午前中試験監督。午後、雑用でみるみるつぶれる。成田君と、成員カテゴリー装置の文献をあれこれあさる。


20030311

 午前中、論文のアウトライン。東京駅で間があったので八重洲ブックセンターで何冊か。新幹線車中で『キェシロフスキの世界』(和久本みさ子訳/河出書房新社)。ささいなことだが、デカローグの七話と十話では、例の男が出ていないと書いてあり、ちょっと安心した。いくつかの解説で「十話すべてに登場する謎の男」という書き方がしてあるのに、七話と十話ではいっこうに出てこないので、いったいどこを見逃したのか不安だったのだ(七話ではそのかわり、列車から松葉杖の男がアウト・オブ・フォーカスで降りてきて、この男がなんだか謎めいている)。なぜ登場させなかったかというと、「きちんと撮影してなかったからカットしてしまったのだ」(p187)ですと。いたってそっけない。

 若いとき、キェシロフスキは兵役をまぬがれるために、10日水も飲まなかったという。

 バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社 関口時正訳)。ショパンの伝記をあれこれ立ち読みしてみたが、ワルシャワからウィーン、ミュンヘン、シュトゥットガルドを経由してパリに移動する経緯がわかりやすかったのでこれにした。ポーランド語で書かれたショパンの書簡については、意外なことにポーランド語からの直接の邦訳がほとんどない状態らしい。これを読むと、やはりショパンは『ピアニスト』だったことがよくわかる。


20030310

 午前中、宿を移動して考え事。昼、末広町で石井さんと落ち合い、十二階話やら資料の見せ合いやら。

 渋谷のBunkamura ル・シネマ1でキェシロフスキ・コレクション。『トリコロール/青の愛』『終わりなし』『トリコロール/赤の愛』の三本(しかし、この「の愛」ってつける邦題、なんとかならんかなー)。

 なんとわんわん大行進! 昨日イヌさんを食べたわたくしは平然と『終わりなし』の犬に涙し、『赤』の犬のけなげさにも涙しましたよ。ああ、イヌはほんとうに可愛いなあ。昨日は食べたりしてごめん。また食べるかもしれないけど。

 じつは「赤」でもう一カ所泣いたりもした。男の涙はわざものだ! 梨のブランデー飲んでたイレーヌ・ジャコブにばーっと光がさしていくところ。ああ他愛ない、愚かなり我が心。もう探偵ナイトスクープの西田敏行くらい泣くよ!
 でもでも、イレーヌ・マジックはやはり『ふたりのベロニカ』が頂点だったなあ。『赤』では普通に美しい女優さんて感じだった。それに、トランティニャン演じる元判事に比べて、イレーヌの演じるヴァランティーヌって、カマトト?ってくらい正論を言うのでかったるいのだ。でも、そのかったるい若い女に元判事は目覚めさせられるのね。そういうことってあるのかもね。

 『ふたりのベロニカ』やデカローグの5話の、レイヤーが幾層にもなってる世界が好きなので、『青』はラストも含めてかなり楽しめた。スワヴォミル・イジャクの撮影はいいな。音楽がやりすぎな感じもしたが、暗転やホワイトアウトとともにばっさりと意識が途切れるような発作的効果は悪くなかった。

 三作いずれにもあれこれ留保をつけたいが、しかし気に入ったところを書いておこう。

 『赤』で、イレーヌ・ジャコブ演じるヴァランティーヌは、ファッション・ショーの舞台袖に引っ込もうとして少しつまずく。べつに転んだわけでもなく、ヴァランティーヌは「つまずいちゃった」と口にしてから次の着替えに急ぎ、ショーは滞りなく終わる。
 ヴァランティーヌはこの映画の中でもう一度つまずく。綱を離した犬がとつぜん駆け出し、どこかでミサを告げる鐘が鳴る。犬が入った先は教会で、そこはミサの真っ最中で、彼女は沈黙を破ったわびを司祭にして、教会の扉を出て石の階段を降りようとする。そのときまた、少しつまずく。
 それを見て、ああっと思う。まるで見えないチェリーが並んでリーチがかかっているような、コインがざくざくとあふれ出す一歩手前のような予兆。
 
 そして、こういうシーンを見ながら、キェシロフスキもまた「存在の耐えられない連鎖」派なのだと思う。クリス・ウェア、ナボコフ、キェシロフスキ、メディアは違えど、最近、頭にひっかかってくる作家には、かならずこの資質がある。
 ささいな繰り返しに目がとまる。繰り返しの先に起こるであろう過去の事件が見えてしまう。より悪い過去としての未来。そしてその悪い過去が実現されるのを見てしまう。クリス・ウェアなら、それは血縁とシカゴの歴史が繰り返す偶然の一致であり、ナボコフなら固有名詞と数字の繰り返しだ。
 
 キェシロフスキの映画を表すのに「神」の視点という表現が用いられることがあるが、この表現には少し注意が必要だ。この元判事に感じられるのは、神の視点というより、むしろ「観察者」の視点であり、観察者の苦さであり、ポーランド政治にかかわりながら、政治を主体的に動かすことができなかった監督の苦さだろう。

 『終わりなし』の手の謎めいた動き。半ドアの車。擦られるコップの音の絶妙な入り。


20030309

 社会言語学会二日目。朝、橋本良明氏の若者におけるインターネット・携帯使用動向に関する話。膨大な質問紙調査の結果に基づくもので、つまるところ、若者は携帯を使うからとりたてて孤独を愛しているわけでもなく、友達が広く浅いわけでもない、という話。それはそれで納得なのだが、調査が自己評価に基づくところがひっかかる。
 おそらく携帯電話がもたらしたもっとも劇的な変化のひとつは、対面会話に電話が割って入ってくる頻度を画期的に高めたことだろう。だから、携帯の使用によるコミュニケーションの質的変化を調べるには、自己評価だけでなく、携帯を使っている他人に対する印象調査も必要なのではないかと思う。

 午後、口頭発表と会話分析のシンポジウム。

 夜、伝さんがうろおぼえにしている「ジンギスカンの店」というのを小磯さん、榎本さんとともに探す。歩くことしばし、彼が「ここだ」というので看板を見るとなるほど「羊肉串」と書いてある。が、ぼくはその横に書いてある「狗肉料理」に目が言った。羊頭狗肉ならぬ羊肉&狗肉、どこがジンギスカンの店やねん、いぬだいぬだというと、みんな「えー、イノシシって読むんじゃないのー」と信用しない。言語学者が狗の字をイノシシと読んでどうするのだ。結局奥のほうにあるエレベーターに乗って4Fに行き、扉をあけると、ファミレス風の店内、厨房にはでかい串。いい感じ。アタリの予感がふつふつとわく。
 串を一通り頼む。直方体のフレームが出てきたが、使い方がわからない。焼くときは底辺に乗せて、焼き終わったら天井に乗せて保温するんだそうな。羊スジ、羊ロース、牛スジと、いずれもうまい。そしていよいよ狗火鍋。ミントのようなハーブをどっちゃり入れて臭みを抜き、そこにさらに唐辛子とシソ?か何かをといたものを入れる。すると、意外にもいい味に落ち着く。香草たっぷりのベトナムのフォーに似てる。そして食べるともうええちゅうくらい汗をかく。頭部が汗だらけになる。なぜこういうとき、脇とか足の裏とかでなく頭から汗がでるのであろうか。筒井康隆描く薬菜飯店に行った気分。マッコリもうまく、大満足。


20030308

 早起きしてポスター書類を作って、さて携帯プリンタで打ち出し、と思ったらなんとUSBケーブル忘れてた。しかたないので、松屋の開店を待ってベスト電器へ。やれやれ、と思ったら今度は黒インクがなくなる。またまた松屋へ。サプライ用品はまめに買い足しておかねば。
 午後、波多野誼余夫氏の講演。波多野氏の講演を聴くのは確か3回目だが、いつもながら依頼先の学会へのサービスを織り込みながら、じつに手際よくその分野前線の問題をレヴューされる。それでいてスパイスが効いている。今回も、進化心理学をmind探求派、文化心理学をmentality探求派として分類しながら、社会言語学の立ち位置へとつなげていくという、お見事な流れだった。

 午後ポスター。ポスターはSLUDと社会言語学会との共催。日本語の左右問題とジェスチャーと空間参照枠について。ひとつのポスターあたりの滞在時間が長くてあんまり聞けなかった。
 今年度はこれでジェスチャーがらみだけで4つの違うネタで学会発表した。ネタだけはまだまだあるのだが、肝心のペーパーになっていないのではしょうがない。そろそろ論文モードに入らねばなるまい。

 懇親会、飲み会と続く。なんかメンツがATRにいったときの感じと似てるなあ。結局四次会くらいまで飲み歩き続け、最後はタクシーで浅草へ。


20030307

 朝、PPT書類作り。さらに新幹線の中で続きを作ってから、池袋の立教大で「人工知能学会 音声・言語理解と対話処理研究会」(SLUD)という ながーい名前の研究会。水窪の西浦田楽(観音様の祭り)におけるジェスチャーの話をする。ちゃちゃっと終わって、飲み会へ。明日もまた発表なので終電のあるうちに浅草の常宿へ。夜、ポスターを印刷しようと思ったが頭が働かないのでとりあえず寝る。


20030306

  GoogleはなぜGoogleなのか。出た当初は「ゴーグル Goggle」なのかと思っていたが、スペルをよく見たら「のどぼとけ Google」だった。なんでのどぼとけなのかわかんないけど、みんな「ぐぐる」って呼んでるし、日本語版のGoogleのページにも「『グーグル』と発音します」と書いてあるので、検索結果がのどぼとけにつっかかるようなイメージをずっともっていたのだが、名前の由来は英語のほうのサイトに書いてあるのかもしれないと思って調べたら、なんだ、ゴーグルでものどぼとけでもない、Googol(10の百乗)からきてるんだってさ。ちなみに、なんで10の百乗をGoogolというようになったかというと、Edoward Kasnerという数学者が9才になる甥に「10を百回かけるみたいなすごく大きな数のことをなんて呼んだらいいかな」とたずねたら「 Googol」と答えたというのが始まりなんですと。知らなかったのはわたしだけ? 
 由来がわかって、のどのつかえがとれたかというと、あいかわらず「のどぼとけ」を思い出しながらぐぐっている。

 ナボコフ『Laughter in the Dark』読了。いやすごかった。p182の固有名詞(特に秘す)の登場には心底ぎょっとした。最後の映画化不能な表現(「演出」の陶器のバレリーナも含めて)もとんでもなかった。なるほど、原題の「カメラ・オブスキュラ」とはそういうことか。「Laughter in the Dark」よりも「カメラ・オブスキュラ」のほうがいろいろと考えさせる。
 口笛のおそるべき使い方にはラングの「M」(1931)の、はすっぱな女のために堕落する男の描き方には「嘆きの天使」(1930)の影。オリジナルは1932年から33年にかけて連載されたということだから、これらのドイツ映画をナボコフが見ていた可能性はおおいにあるだろう。
 あと、この小説の中では、p72のように鏡がいろんな働きをするのだが、それをまるで自分で言い当てるように"mirrors were having plenty of work that day" (p40)だって。なんてすっとぼけた(しかし怖い)注釈なんだろう。
 p152の引きとか、たまらん。肝心なところでぐっと遠くなるんだ。いや、まったくこわいこわい小説でした。あまり熱心に見てないのであてずっぽうで書くが、たぶん黒沢清の作品に近い感覚だと思う。これ、男が愛人に溺れて死ぬただの情けない話だと思ったら、足下すくわれます。ていうか、それだけの話を読みたいのなら、最初の一頁を読めば十分だ。

 さて、次はディフェンスとホビット、どちらにしよう。『Laughter in the Dark』は、すごくイヤな小説だった。今度は、はじめから不幸な終わりとわかっているのではなく、はじめから帰るとわかっている小説にしようか。
 でも明日は学会発表だ。



20030305

 会議やらゼミやら。成田君、浅井さん、高橋さんと日夏の中華料理屋へ。安くてうまかった。でも車がないとここまで遠出はせんやろな。

 成田君がそことは別の中華料理屋を評して「中華料理屋でやる気のない店って、ものすごいさびれた感じしますよね」という。それで、どんよりとやる気のない中華料理店の正しい在り方についてあれこれイメージをふくらます。あれこれ考えるよりもその、やる気のない店に行けば一発でわかるかもしれないが、こちらの予想を越えるやる気のなさに会いそうで気が引ける。


20030304

  山形浩生氏に送っていただいた『たかがバロウズ本。』(大村書店)に影響されて、何年かぶりに「Cutup」のページを更新。カットアップソフトの作り方第一回 第二回 第三回 。これに続けて、さらに「前選択」と「後選択」の問題にも触れたいところだがどこまでいけるか。


 「吉村智樹の原宿キッス」は、中川家事情聴取「事件」(あれは新聞を読む限り警察に駆け込むシロートがどうかしている)、さらには昨年のM1で(こころの)グランプリだった笑い飯がじつはおぎやはぎの影響を受けていた話など、あまりにも絶妙にツボを押さえてくれる内容。
 決勝戦における笑い飯の「どちらがレールの音を聞きながらより正しい機関車でありトーマスであることができるか」というネタは、その予想外のオチも含めて記憶に新しい。


 外は雪。また冬なのか。


 太田蓉子さんからお手紙と制服に関する論文。何年か前にアムステルダム行きの航空機にたまたま乗り合わせてお話したことがあったのだが、そのことを書いたぼくの日記がたまたま検索でヒットして、お手紙を下さったとのこと。


 帰るとなんと早くもネットで注文していたTolkien『The Hobbitナボコフ『ディフェンス』(若島正訳/河出書房新社)が来ていた。困った。まるで居酒屋で次々に好きなものばかり頼んで、それがいっぺんに5番さんテーブルに運ばれてきたときの感じだ。

 じつは今読んでいる『Laughter in the Dark』は、『The Hobbit』までのつなぎのつもりだった。しかし、まだ読み終わっていない。そして、意外にもおもしろい。これを読み終わるまでは『The Hobbit』にも『ディフェンス』にも手が出せない。しかしどちらにも手を出したい。

 そもそもいまごろなんでナボコフかというと、それはたぶん、去年の初夏に読んだ若島正『乱視読者の帰還』(みすず書房)のせいなのだ。なんでこの本を買ったのかはよく覚えてないが、たぶん「乱視」で「読者」というところに、同類相哀れむほのかな感触を得たからではないかと思う。痔にシンパシーを覚えて『明暗』を読み始めるようなものかもしれない。

 ところで、ぼくは小説というものを滅多に読まない。たまに読んでも漱石くらいで、そのときまでナボコフは一冊も読んだことがなかったし若島正の名前も知らなかった。そして『乱視読者の帰還』は、それまで読んだことのない著者が、それまで読んだことのない作家の(それも「ロリータ」のようにタイトルくらいは知ってる小説ならともかく)「セバスチャン・ナイト」といういたって地味な題名の作品について書いているという、普通ならまるでこちらに縁のない内容で始まるのだった。

 が、これがおもしろかった。

 おもしろかったというよりも、引き込まれるように読んでしまった。なんというか、たまたま入った居酒屋で(また居酒屋か)、慣れない雰囲気にとまどっていると、向こうの方で見知らぬ人が、見たことのない料理を、ものすごく旨そうに食べていて、その見知らぬ人の食べっぷり以外なんの手がかりもないにもかかわらず、とにかくその料理を食いたいと思ってしまうのに似ている。

 居酒屋なら見知らぬ人の食ってるものをさして「ぼくもアレ下さい」と頼むのはためらわれるところだが、読書にそんな気後れはいらないので、夏の盛りについ『Lolita』を買ってしまった。ペーパーバックの小説を読むのはものすごく久しぶりだった。しかも300ページ以上。自分の根気のなさからしてまず途中で挫折するだろうと思っていたら、意外にも旅先で読み切ってしまった。

 いま思うと、この『Lolita』体験は、このひと冬に渡るペーパーバック版『指輪物語』読書の布石だったんじゃないだろうか。そしてついこないだ指輪を読み終えて、またナボコフに戻ってきたのは、やはり伏流水のように指輪の底にロリータが流れていたからではなかろうか。そして山形浩生『たかがバロウズ本。』を読むとまたしてもナボコフ。ああここにもだ。
 こんな風に世界にいちいち符丁を見出しすぎるのはどうかしている。どうかしているが、偶然の一致が「まさしくチェスの猛攻に似て、哀れな主人公の正気を支える最奥の部分をずたずたに」することがあるのだ(ああ、もう『ディフェンス』のまえがきを読んじゃったよ)。

 つい一昨日も『Laughter in the Dark』を読んでたら、女にはじめて声をかけた男は小心にも「自分のポケットに片手を突っ込んで、結婚指輪を親指を使って必死で押しはずそうとする」(p29)ではないか。
 しかも、女と別れたあと、手がなぜかとても軽くて無防備になったように思えてあわててはめ直すと、「指輪はまだ暖かかった」。

 しょ、しょえー。

 自分はいったい『指輪』を読んでるのかナボコフを読んでいるのか。

 ・・・といった現在。
 ここに、今日、ナボコフ+若島正の『ディフェンス』と、トールキンの『The Hobbit』がいっぺんにやってきてしまった。どないしょう。盆と正月がいっぺんに来たとき人はどうするのだろう。門松にナスをつきさしたりするのだろうか。マルゴでホビットをディフェンスするのか。んなあほな。

 いまはまだ読むわけにはいかない。いかないが、『The Hobbit』を少しだけめくってみた。そしたらこんなことが書いてあった。

 The door opened on to a tube-shaped hall like a tunnel: a very comfortable tunnel without smoke, with panelled walls, and floors tiled and carpeted, provided with polished chairs, and lots and lots of pegs for hats and coats
(The Hobbit , p1)

 ああやられた。とてもとてもたくさんの「peg」なんだ。とつぜんスティーリー・ダンの『Peg』を思い出す。ペグ、ウォンチュー・カムバック・トゥ・ミー。そうか、Pegはpegだよ。Pegは記憶にpegされている。その記憶のpegがホビットの部屋にはとてもとてもたくさんあって、そのひとつひとつに、まるで繰り返す記憶のようにたくさんの帽子とコートがかかっている。まるで一粒一粒の眠り薬がそれぞれの小宇宙を持っているように。Pegのpeg。my preciousのthe Precious。そして、カメラのシャッターがおりて、世界はあっという間に3Dになる・・・
 いかんいかんいかん。さっさと『The Hobbit』を閉じる。



20030303

 ふたたび雨。検索してみてわかったのだが、ナボコフの「Laughter in the Dark」は「マルゴ」というタイトルで邦訳(篠田一士訳)され、映画化もされているらしい。確かにヒッチコックが撮りそうな、強迫的なしるしに満ちた話なのだが、じっさいはどんな演出なんだろう。

 「Laughter in the Dark」は、のっけから結末で始まる。

 むかしむかし、ドイツのベルリンに、アルビヌスという男がおりました、男はお金持ちで身分もよく幸せでした、ある日、彼は一人の若い愛人のために妻を捨てました、彼は愛し、しかし愛されませんでした、そしてたいへん不幸に一生を終えました。
 これがこのお話のすべてである。これ以上話しても得や楽しみは何もないということにして、そのままにしておくこともできよう。しかしながら、たとえその墓石には苔むした余白がたっぷりありそこに男の生涯がかいつまんで記されているとしても、話をつまびらかにすること(detail)はいつでも歓迎されるものだ。
(Laughter in the Dark , p5)

 つまり、この話は、最初から詰んでいるのだ。

 そしてこの小説は、どこもかしこも詰みの気配で満ちている。敗着の予感をはらみ、しかし詰んだあとでしか「敗着」と呼びえないできごとが、一手また一手と置かれていく。
 男はマルゴに対して、最初「Schiffermiller」という偽名を使う。その「Miller」という響きにマルゴは苦い気持ちになる。「またミラーなの・・・まだ間もないのに」(p31)。「Miller」はマルゴが別れた、彼女の最初の男の名前だ。ああ、最初から敗着だ、この男は出会ったときからもう負けている、読みながらそう思う。

 家族の留守に愛人がやってくる約束になっている。窓の外を見ると、教会の時計が4時15分過ぎを指している(p38)。教会が数字を指し示し、男がそれを見る、それだけのことだ。しかも、この愛人との逢瀬は、家族になんとかばれずに済むのだから、このささいなできごとは具体的な事件を引き起こしているわけではない。
 それでも、教会の数字を男が見てしまったことは、たぶん彼の長い生涯における敗着なのだ。そう思えてしょうがない。『ロリータ』で数字がいちいち特別な意味を担っていたように、この「4時15分過ぎ」ももしかしたら何かの符丁なのではないか。そしてこの教会の時計に続けて男が見るのは「向かいの家の壁には陽が当たっており、そこには煙の影が、横流れに急ぎながら煙突の影からわいてくる」という光景だ。これが一昨日書いたマルゴの見る光景の陰画でなくてなんの因果だろう。そして、いま書いて気づいたが、これはまるで昨日わたし自身が見たあの喫茶店の影のようではないか。

 男はマルゴと出会う前に、じつは彼女を描いたスケッチを目にしたことがある。美術学校のモデルをしていた彼女を、かかりつけの医者の息子がスケッチし、男はそれを見せられた。しかし男はそれを見て「いや、こっちのせむしの方がいいな」と別のスケッチに目をやってしまう(p38)。いまのところ、彼女との交際にこの小さな偶然は何ら影響を及ぼしていない。それでも、このなにげない見過ごしすら、後の何か大きな見過ごしの布石であるかのように感じられる。
 こんな調子で、あらゆるdetailが確実に詰みの気配を帯びながら進行している。それはこの小説がどこに向かって詰んでいくかを、読者であるわたしが知っているからなのだろうか。

 小説を読みながら、世界のあらゆるdetailが、ゆっくりと敗着のしるしを帯びてくる。ただ、わたしは自分がどこに向かって詰みつつあるのかを知らない。



20030302

 喫茶店のカウンタで本を読んでいると、何かが動くのに気づく。目をあげると、カウンタの奥の壁に、花の影が映って、それが右から左にぐうっと動いては消える。
 何か妙な夢でも見ているのかと思ったが、よく見てみると、それはすぐそばにある花瓶に生けられた花の影で、光は店の外から来る。信号待ちの車の窓が夕陽をはね返して、信号が青になるとぐうっと動き出す。しばらくするとまた別の車が信号にひっかかり、光をはね返してくる。
 大気と喫茶店の窓で丸められた光は淡い黄色で、影は壁に焼き付けられたように動かない。それが突然、花の力で壁ごと持って行かれるように移動する。

 夕方TV。だらだらと見る再放送のTVはきらいではない。ガオレンジャーの金子昇の話。ヒーローが走る場面の演出で、走り止まるときに必ず息を「アハッ」とつき、逆肩を前に出すよう監督に指示された、という。そうすると、「ヒーロー」なカンジが出るらしい。



20030301

 雨。この2ヶ月半、毎日持ち歩いてくたくたになった指輪のぶっといペーパーバックをカバンから出し、さてかわりに何を入れようと本棚を見てナボコフの「Laughter in the Dark」にする。のっけからアニメーションを作る男の話で、しかももともとのタイトルが「Camera Obscura」というので飛びついて買ったものの、しばらく放ってあったもの。
 アニメーションの話はほんの最初だけで、あとはどうやら延々と、家族を捨て、愛人に翻弄されるみじめな男の話。これがどう「Camera Obscura」な話になるのか。
 わずかなエピソードの列挙でvixenな女のできあがりを描いてしまうナボコフの的確さ。最初の男に捨てられたところはこうだ。

 翌朝、彼女はブレーメンからの電報を受け取った。「部屋は七月まで払い済み。アデュー、いとしき悪女」。
 「たいへん、彼なしでどうすればいいの?」マルゴは声に出して言った。窓に飛びつき、思い切り開け放って身を投げようとした。が、まさにそのとき、赤いぴかぴかの消防車が走り込んできて、けたたましい排気音とともに、ちょうど家の真向かいに止まった。人々は集まり、もくもくと屋根の上に煙が渦巻き、黒こげになった紙の燃えかすが風に舞った。彼女は火事にすっかり夢中になって、何をしたかったのか忘れてしまった。(Laughter in the Dark , p25)


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