オール・シングス・マスト・パス(すべては移りゆく)。そしてジョージ・ハリソンも。手彩色の絵葉書のようなのジャケのCDをボリュームを上げて聴く。「I'D HAVE YOU ANYTIME」のリヴァーブとビブラフォン。
「え!!何回『マイ・スウィート・ロード』聴くつもり?」(「レコスケくん」より)。
さらに実験。データおこし。
以前から考えていた新しいジェスチャー実験の予備実験。ジェスチャーのもっとも基本的な時間構造でさえ、まださまざまな謎をはらんでいる。
ユリイカ「山田風太郎」特集。「声と合いの手」を書いた。自分の書いてる号は他の人が何を書いてるかが楽しみ。四方田犬彦氏は以前のブニュエル論やパゾリーニ論といい、一貫して背後のぶっとい物語について語ろうとしている。表層批評は、単なる記憶の無視と紙一重である。一つの作品が背負込んでいる膨大な記憶の細部にもう一度分け入る試み。
明治小説に関して言えば、山田風太郎が江戸と明治の屈曲を書いたことはもはや語られ尽くしていると感じる。むしろそれが「いかに」書かれたかが問題だと思う。
午前中講義をこなして、午後京都へ。パゾリーニをがーっと見る。分藤さんがきてた。「奇跡の丘」「大きな鳥小さな鳥」「ソドムの市」。
「奇跡の丘」のその顔その顔。ほとんど素人を使いながら、彫像のように輝く顔の数々。「大きな鳥小さな鳥」はいまいちばん聞きたいサントラ。屋台倒し。神は理不尽である。
「ソドムの市」という、とりつくしまのない朗読映画。少女に小便をかけられてその股下から朗読に突っ込む男。「声に出して読みたいイタリア語」の数々。日本語もこんな風に「声に出して」読むとよい。
ピアニストの死、ピアノを離れて部屋を横切っていくあの時間はすごいな。何を見て死んだかも含めて謎。
認知科学の新展開シリーズ「運動と言語」「イメージと認知」(岩波書店)はジェスチャー論のヒント満載。
学会三日目。徹夜でふらふらだがさくさくこなすぜ。
ビデオ発表。オブジェクト操作というコミュニケーションについて。オブジェクト操作に関する、ではなくて、オブジェクト操作じたいがコミュニケーションとして活用されるという現象。このとき、操作が中断したりタイミングをずらされることによって、相互行為への道が開ける、という話。
中山桂さんが、ニホンザルの「覗き」行動というおもしろい研究をやっている。三つのケージを用意する。うち一つには覗かれるサルを入れ、もう一つには覗くサル(ターゲット)を入れる。この研究のおもしろいところは、第三のケージに「『覗くサル』を覗くサル」(オブザーバー)を入れるところ。第ニ・第三のケージはアクリル板で仕切られていて、オブザーバーは覗き穴は覗けないかわりにターゲットの様子を見ることができる。覗き穴を覗いている者の姿自体が好奇の対象になる、というアイディア。
で、どうやら、ターゲットは覗いた先に別のサルがいると(不安からか)体を盛んに掻く(スクラッチする)らしい。さらに、このスクラッチを見た第三のケージのオブザーバーのサルたちもまた、体を掻く。つまり、覗く者の反応が、覗く者を覗く者の反応をひき起こす。
帰りにあちこち音盤屋と本屋をまわって、肩が抜けるほど買う。「オール・シングス・マスト・パス」のリマスタリング盤を買ったのは、むろん「レコスケくん」の影響。そしてとある音盤屋で、「これ、よろしかったら入れときますので」とカウンターで言われ、も、もしかしてそれは・・・ぼくへの手紙!?とリアルな動揺(『レコスケくん』参照)。むろん、ただの年末サービスチラシだった。
日本動物行動学会二日目。シンポジウムは知らない話が多くて楽しかったが、まとめがなんかお行儀いい感じ。
懇親会に出て今日もさくっと帰る。しかしさくっと帰るには電車が間遠。電車待ちの間、山科の本屋で、「レコスケくん」。かわいい顔したカウボーイ、ただし非癒しキャラ(コレクターが癒しキャラになるはずがない)。こだわり派にしてヌケ作、イヤなところに目が届き、しかしツメが甘い。絶妙に等身大。
あ、いかんいかん。今晩こそは明日の準備。
京都へ。行きがけにユニ黒でエアテックジャケット買う。今日の陽射しだと暑いくらい。
動物行動学会初日。ポスターをばーっと見て、ラウンドテーブルに出る。薮田くんと中田さんの映像アーカイブの話は、プレゼンがすばらしく、非常に説得力があった。
寄り道せずにさくっと帰る。京都にいる間じゅう、ジャケットがかさばってしょうがなかったのだが、帰りの自転車でその実力を知る。これはあったかくていいわ。彦根の寒風の中を自転車通学する身にはマストかも。
明日の準備をしようと思ったが気が付くとまたプリンスを見てしまう。ダーティーマインド。辛酸なめ子「千年王国」。ハミチチとか半ケツとかいうことばは知ってるが、これはなんとハミ窓マンガ。で、もろハミ窓の「相原勇」が気になる。
浅草十二階計画に、明治四〇年浅草公園図および久保田万太郎の「雷門以北」を追加。
いやいやながら会計報告。これほど瑣末なことをいやがる自分にイヤ気がさしつつ。景気づけにプリンスのヒットコレクションのDVDを買ってきたらずっと見入ってしまった。プリンスって基本的に4ビートで地団駄を踏んでるだけなのになんで気が付くと宙に浮いてるのかな。しかも80年代のビデオのマット効果って今見ると、エッジが腐ってるのかと思うくらいガサガサに溶けてすばらしいな。田舎くさい、すきだらけのセックスの歌。エクセルで会計計算してる間、頭の中でプリンスが、コートの下は黒のブリーフにタイツで足を「く」の字に曲げたり伸ばしたりする。
ニュースステーションに大江健三郎が出て、原稿用紙に文章を書いている。ある行でダッシュを書き、次の行でまたダッシュを書く。その位置がつかず離れずの位置に収まる。たぶん、あらかじめ考えて書いているというより、書いているとそんな風にダッシュのリズムがわき、ダッシュが並んでいくのだろう。小説家の原稿用紙とペンという拘束条件。
タイム・トラベルのトリックについて考えるところがあって、ウェルズの「タイム・マシン」を読む。じつは原作をきちんと読んだのははじめて。
この小説は1895年、つまり飛行機の発明と軌を一にしている。リリエンタールがグライダーによる飛行で名をなしたのはこの4年前、そしてライト兄弟が動力飛行機を飛ばすのはこの8年後で、アーデールをはじめさまざまな飛行家たちによる実験が盛んに行われていた時代だ。
ウェルズは、単純に空間に一次元加えた時空間移動の世界を書いたわけではない。二次元移動(地面の上での移動)から三次元移動(飛行機による移動)への移行から類推して、三次元移動(空間移動)から四次元移動(時空間移動)への移行を書いたのだ。
タイムマシンの発明家を、時間「飛行」家、と呼んでいるのは、その証左だろう。
目盛りをあげるに従って時空間移動は速度を増すが、ジャンプはしない。ワープゾーンもどこでもドアもない。「タイム・マシン」の時間飛行の描写は時間をジャンプしないシンプルな連続移動だ。そのことで、かえって時空間のドライブ感が生まれる。突然、西の空の大洋の輪郭に変化が現われる。曲線に湾のような窪みができて、どんどん大きくなっていく。暗い湾が、昼の明るさを侵食していく。まだ微速度撮影もない、映画の誕生の年に書かれた本だ。
そのような飛行の高揚に駆られて進む物語はどのようなものか。
タイム・マシンから降り立つや、主人公の時間飛行家はインカに銃と病原菌をもたらしたピサロ並みに迷惑な暴君となる。エロイとモーロックのわずかな習性から彼らの文化を自分の価値観でディストピアと断定し、自分が助かりたい一心に異国の森林を山火事で焼いてしまい、あげくの果てにつきあっていた女ウィーナ(彼女の存在はいわば「フライデー」であり「舞姫」だろう)をその山火事に置き去りにする。しかも失われた者に対する旅行者特有の身勝手な疲労感とセンチメンタリズムこそあれ、自分がひき起こしたこれらのことにいささかの悔恨の色もない。この時間飛行家は再び飛行の旅にでる。おそらくこのあと、彼は行く先々で、恐怖と哀しみのうちにその力でさまざまな文化を崩壊していくのだろう。
「タイム・マシン」は、遠い未来に訪れる人類の知性のはかない末路の話ではない。市井のサロン人の物語は、飛行という新たなテクノロジーの力を借り、時間飛行という想像の翼をはばたかせ、その想像力に見合わぬ世界を、哀しい表情を浮かべながら破壊していく。これは現在も続く、帝国主義の物語なのだ。
成田君の「チクる」ということばをめぐるジェスチャーの学会前発表を聞きながらいくつかアイディア。三者関係には、三者が同時にその場にいて成立するものと、逆にその場に三者が同時にいては成立しないものとがある。たとえば「紹介」という現象は三者が同時にいることが必要だが、「伝言」という現象は少なくとも一人がその場から欠けている必要がある。
密告という現象もまた、三人以上の関係を要するにもかかわらず、少なくとも一人がその場から欠けている必要がある。そしてジェスチャーによって密告を表現するには、二つの異なる場、異なる時間を表現する必要がある。
手を動かすとき、手の起点は行為者、手の軌跡は行為、手の終点は行為対象であるといえるか。実験が必要。
さて問題。
「AさんはBさんに密告されました」さて、Bさんは誰のことを密告したでしょう。1.Aさん 2.Cさん。
「Bさんに密告されたのはAさんでした」さて、Bさんは誰のことを密告したでしょう。1.Aさん 2.Cさん。
未明に外に出てしし座を見上げる。2時半ごろには1分間に何個となく、一度に数個見えるときもあった。なるほど方向はしし座が中心のようだが、出現範囲は広く、視野の端で気配だけして消えていくものもある。オレンジの閃光のあと、空を刻むように強く掃いていくものをいくつも見た。
コンマ秒単位ほどの間に、さまざまな長さで空は書のように蝕られていく。見続けるうちに、流れ星の時間に感染し、流れ星の時間が意識にのぼってくる。異なる時間、異なる筆蝕で、できごとを空間に深く刻む方法。逆に、消え残る流星の尾から、いましがた起こった時間、筆蝕を呼び出す方法。
部屋に戻ったあとにも、何かが流れ星の時間で掃いている。その間だけ、流れ星の強さで覚醒する感覚がある。
久しぶりにグールドの27歳のときのドキュメンタリーを見る。人と犬のようなフーガの技法。歩行と思考のような旋律。
一昨日、電車に揺られながら吉増剛造の「絵馬」を読んでいたら、切れ切れに聞こえる気象通報の、聞こえる部分ではなく、聞こえない部分で、何かが頭の中を掃くような気がした。きっとあのとき、句読点で流れ星は幾つも砕けていたのだ。
どうにも気分がさえない。金勘定と整理整頓と手紙の仕事がたまっている。金勘定と整理整頓と手紙は自分でもうんざりするほど苦手だ。たぶん小学生でもクリアできるはずのことが考えただけでいやになり、先延ばしてはさらにいやになる。なぜこんなに苦手なのか自分でもわからない。
鬱に効く作業に「家計簿をつける」というのがあると何かの本で読んだことがあるが、金勘定をすることを考えただけで鬱になる性分の人間はどうすればよいのか。そしてこんな性分なら会計など引き受けなければいいのだが、つい行きがかり上、引き受けてしまっては後悔する。
昨年来、ときどきeBayで出物を買ったりしているが、これなど自分にとってはほとんど発狂寸前の行為だ。期日内にきちんとコンタクトを取り、相手の情報にお礼のメールを出し、為替を作って郵送する。一回やるたびに気持ちがすり減る。いつかとんでもないポカをするのではないかと恐れながら、この数十回、ポジティブフィードバックを貰いつづけている。薄氷を踏む思いだ。
たぶん、ある種の人間には、自分を危機に陥れることで危うく今日を乗り切るような、奇妙な性癖が生じるのではないかと思う。啄木が借金を作り続け、梶井基次郎が伊豆の山中で、病の我が身をくらがりに置き去りにする。その危機に触っているときだけ、死からまぬがれる考えや感覚が覚醒するかのように。
むろん、つきあっている人間にとっては、ただの迷惑だ。
昨日のHEP大阪の観覧車は、スピードはよかったが音楽は余計だった。せめて客の好みに応じてオフにできるようにしてほしい。ぼくが乗っているゴンドラでは「天下無敵のゴーヤーマン」が延々と流れていた。これ聞きながらキスしたりする豪胆な恋人たちもいるのだろうか。
不吉な車内アナウンスに耳を凝らすと、「すばらしい」ということばが聞こえるので、それは不吉なアナウンスではなく、カニとか鍋とかエクスプレスへの勧誘なのだろうと一度は安心するものの、なおも入念に検討しなければならないと思う。いまやどんなことばもそのままには響かない。「すばらしい」ということばを含む不吉なできごととは何だろう。切れ切れになって見えないことばには前兆がある。それを幸不幸に振り分けるのはそのときのコンディションの揺れに過ぎない。野球場をくまなく照らしているカクテルライトが、野球場ではない何かを照らしていると野球場で思うとき、やはりそれはコンディションの問題なのだが、そこからさらに幸不幸を読み取るのはコンディションのコンディションの問題だ。発電機が動かすものは見えない。人間は見えないものを動かすことを発明し、そのことによって見えないものに何かを仮託する病は形を与えられた。安全第一、と書いて白い布で覆われた囲いには、安全を第一にするための秘密が隠されており、南草津、という固有名詞は行き着くことのできない場所に適度な形を与える。それは草津のようでありながら南にあって、どうしたわけか、南や北のあとに二文字の漢字が並ぶ場所は、国道が横切り、ラーメン屋が点在する郊外であることが多い。そのように、車でならとばされかねない固有名詞にも律義に止まっていくのがJR各駅停車の仕事であり、私は南のつく場所に向かっている。ホームの幅が狭くなっていますので列車にご注意ください。草津と南草津ほどの狭さを通過する列車。それは時間にして、次の駅名がつげられてから到着前の駅名が告げられることをせわしないと思うほどの長さだ。今日、HEP大阪の観覧車に15分乗り続けたところ、そこには注意深く観察したときに初めて明らかになる確かな速度があり、それはこの静けさに耐えることができず立ち上がっている杉本君にすらわかる緩やかさだった。OS劇場のビルの屋上のラインが次第に沈んでいく、というよりも気配が先に来て、そこに目を凝らすとそれはOS劇場ビル屋上だった。OS劇場ビル屋上はいったん動き始めたらけしてとどめることのできない力であるかのように、上り、そして降りていく。この円運動を、ただ乗り降りするこちらの都合によって区切る。そして、無理矢理名前をつけるようにわたしたちは乗り込み、降りた。たとえば「700円」と。