京都造形芸術大学芸術学研究室公開講座
熊倉一紗「新春の寿ぎ・正月用引札の諸相」
細馬宏通「万国絵はがき合戦:国境を越える作家と絵はがき」
日時:2007年3月11日(日)13:30−16:30
会場:京都造形芸術大学(詳しくはこちらを)
料金:無料(一般の方も参加可)
滋賀県立大学人間文化セミナー
「計算力を考える - 計算はもっと楽しくなるはず -」
計算対談:鍵本聡(「計算力を考える」著者)×細馬宏通 aka かえるさん(「二桁のかけ算一九一九」)
日時:2007年3月16日(金)16:30-18:00
会場:滋賀県立大学(詳しくはこちらを)
料金:無料(一般の方も参加可)
朝、陽射しの暖かさと裏腹に風が強く冷たい。最初はジャンパーをはだけて自転車に乗っていたが、すぐに前を閉じる。
大和川レコードことアサダワタルくんから電話。なにやら新たなポッドキャストが始動しそうな予感。かと思えばユリイカ足立さんからメール。こちらも大胆な総特集の話。いろいろいろいろだが、しかし、いまは滞っている本をまず書かねばならぬ。
喫茶店でかちゃかちゃやっていると、急に気が遠くなる感じがして悪寒があとから来た。これは風邪をひいたかもしれない。そういえば指がしびれてどうも動きが鈍い。末端のぴりぴりも風邪特有の現象だ。それを抑えようとすると、自然と肩をすくめるような感じでキーボードに向かってしまう。自分がコンパクトになって12インチのパソコン本体になったような感じだ。
熱はない。たぶん、天ぷらの食い過ぎだろう。野菜の煮たものを食って、ピアノを弾いてぎゃあぎゃあ唄ったら、なんとか悪寒は収まった。
彦根絵はがきの記事を見て連絡をいただいた方に会いに磯まで出かける。
磯橋のたもとで待っていると清楚なご婦人が来られて、自転車で先導してくださる。「これがほんとの道なんですけど」と路地に入る。タイヤが砂利道を踏む。狭い路地を幾度も曲がり、もう覚えきれない、というところで、ぱっと広い舗装路に出て、そこが到着地点だった。初対面のぼくをそんな風に招いてくれるこの方の機知に、感じ入ってしまう。
磯の舗装路の多くは、もともと堀(水路)だったのだそうだ。舟は車のように鋭く曲がることはできないから、堀はゆるやかなカーヴを描く。だから、磯の舗装路は、交差点のような直角ではなく、大きく曲がっている、ということらしい。あちこちに露出している石垣はその当時のものとのこと。
家々のあいだは基本的に狭い路地で、集落間の行き来は堀を使った。広い屋敷の端には、いまでこそ車がとまっているが、もとは舟が二台つけてあったのだという。そこが「堀止め」。
磯にはつい十数年前まで「若いし宿(若衆宿)」の制度もあったんだそうだ。8人の子が一人の里親に属して、そこで遊び、ときにはごはんも食べる。お話を伺っていると、いわゆる若者組とは少し違って、子どもの頃からずっとその里親の方に第二の親となってもらうような制度だったらしい。
帰り道、自転車のペダルを止めてゆっくりとカーヴを曲がると、舵を切る心持ちがする。
夜、ミシガン大の高橋さんと、来年度の実習のことなどについて話す。夜の袋町、夢京橋キャッスルロードから四番町スクエアを歩く。店舗が多いわりに人の気配が少なく淋しい。どうも、あまりに画一的に店を作り過ぎなのではないだろうか。夢京橋や四番街のように町並みを一斉に作り替えると、なるほど景観は揃うのだが、どの店構えも同じに見えてしまう。ヘタウマな墨字で店名が書かれ、ラーメンや地鶏や創作料理が宣伝されていると、もういいやという気になる。
結局、昔ながらの銀座街裏の飲み屋に行く。梅酒がえらく旨かった。
京都泊。朝起きて、二階から庭先を眺めていたら、ひとつふたつと、もうずいぶん開いたフキノトウが見えた。彦根より育ちが早いのだろうか。
下に降りて庭を調べると、そこはなんとフキノトウパラダイスだった。あちこちに、まだ花が葉に覆われた、卵形のフキノトウが顔を出している。摘んでも摘んでも見つかる。当然、一昨日の記憶が蘇る。これは天ぷらパーティーしかない。
イズミヤに走り、具材に油などなど一式買ってくる。
京大でジェスチャー輪読会。発語に記号性とプロソディ性があるように、ジェスチャーにも(そして手話にも)記号性とプロソディ性があるのではないか。ただ、ジェスチャーは手話に比べて、記号性の含有量が少ない、ということではないか、という話。
神田先生や坊農さん、高梨くんもパーティにお誘いする。
夜になると、次々と来客。材料がなくなると、大の大人たちが懐中電灯を持って庭を探し回る。「わ!なに!?なに!?」と絶叫する声など。
天ぷらというのはおもしろいもので、自分の腕を試すべく、いろいろな人が鍋の前に陣取るようになる。うまく揚がると誰もがうれしいものらしい。その「揚がった!」という空気が油の匂いとともに部屋に充ちてきて、妙な盛り上がりを見せる。
旬のものを採って大勢で食うというのはいいものだ。場所の記憶に、時間の切れ目をすいと入れるようなところがある。
朝から前期試験の監督。例によって、会場に注意しながら、頭の中ではいろいろ妄考を飛ばす。先日の三四郎の話について。
美禰子は誰に対して「露悪/偽善」を為すのか。それは自分を意に染まぬ結婚に追いやろうとしている者たちであり、それを止めることのできない周囲のふがいなさであり、つまりはそのようにしか自分を生きさせない世間に対して、ということではないか。三四郎は、その美禰子と「迷える子」として並び立つことはできたが、いっぽうで、彼女に対して何をすることもできぬ「余っ程度胸のない」人であった。
では「度胸のある人」になるとどうなるかというと、三千代は鈴蘭の水を飲み、代助の頭の中では世の中がくるくると渦を巻くのだった。
そう解釈すれば、「『それから』は『三四郎』のそれから」なのであり、とても図式的なのだが、問題は、手紙とはがきが、そうした図式から漏れてくることだ。
手紙は物語の監獄を逃れる。野々宮さんのポケットからのぞく封筒、迷える子の絵はがきを、物語から漏れたメッセージ・イン・ア・ボトルとして読み取ること。
帰ってから、昨日のかき揚げをうどんに乗せて食う。
カヒミ・カリィ@寒梅館ハーディ・ホール。
以前、カヒミさんの声を「子音の人」と評したのだが、ちょっと見識を改めた。今日はフォルマントの変化がとてもおもしろい。
彼女の母音がある周波数を得たときに、輪郭がにじんで、ホール全体にふわっと膨らむ瞬間がある。霊的な、というのともちょっと違う。声が体を離れて漂っているというよりは、彼女のきゃしゃな体がそのまま拡張したような感じだ。それが、生々しすぎず、しかし希薄過ぎない密度に感じられるのは、ZAK氏の音響コントロールのせいかもしれない。
膨らんだ音声はすぐさま遠いステージ上の彼女の大きさに戻り、輪郭がはっきりする。何かに似てるなと思ったら、昔、望遠鏡を覗きながら焦点距離をいじっていたときの感じだ。
レンズの真ん中に恒星を収めて、焦点を合わせると、点のようになる。ここから、焦点をずらせていくと、真ん中の点がにじんで大きくなり、やがて視野いっぱいに広がる。アンタレスはかすかに赤く、シリウスはかすかに青くにじむ。
どの恒星も点にしか見えないのが不満で、星とはもっと大きさを持っているべきではないかと、幾度も焦点をずらせては納得がいかなかった。そういうことを思い出した。
などとぼうっとして聞いていると、いつのまにかSachiko Mのサイン波がいるのである。忍者のようである。
外山さんの水演奏(とくに前半)にはマジックがあった。何かが水に潜る音というのは、それだけで物語になっている。ざ、と手は水に激しく当たり、ぶん、と重たく潜っていく。水中に掻き込まれた空気が細かな泡となってぷちぷちと水上に上がってははじけている間、手は水中で沈黙している。そして、水を押しのけてざあっと浮上してくる。沈黙のために、はじめと終わりに激する時間。音楽を聞く時間に似ている。
大友さんとジム・オルークの曲作りは、メロディラインとコード進行に添いながら、むしろ音色変化に重点のあるもので、コードやフレーズが変わる際に、すぱんと演奏者が切り替わるのではなく、パレット上の色を混ぜ合わせるような濁りがある。この滞留のおかげで、時間が一直線ではなく、ゆるやかに伸縮するように感じられる。通常のコンサートとはずいぶんと時間のたち方が違う。
アンコールの一曲目などは、ペット・サウンズを初めて聞いたときのような、不思議な音場を感じた。ちょっと「キャロライン・ノー」に似ていたかもしれない。
吉田屋の打ち上げに混じって飲み出すも、朝からの活動で、さすがに途中でうつらうつらしてしまった。
彦根の裏庭に早くもふきのとうが生えていた。例年なら3月に見つかるのだが、今年はえらく早い。
ふきのとうと言えば天ぷら。これまで自宅で天ぷらというものを揚げたことはないのだが、ここは挑戦せねばなるまい。天ぷら鍋を買い、さっそく揚げにかかる。
天ぷらというのは、つまるところ天ぷら鍋の前でのプロセスが肝心なのだということがわかる。下準備には特に難しいところはない。卵と粉を混ぜ、氷を入れる。そこに野菜をつける。
ただ火加減は難しい。
サツマイモをあげるときは少し低いところからはじめてみる。かき揚げなどはむしろ高めの温度でさくっと揚げたほうがおいしそうに見える。ふきのとうもけっこう高温でよく揚がった。ちょっとした温度の違いでずいぶん結果が違う。そして、ただ温度を保てばよいというわけでもないらしく、さつまいもなどは最後に少し火を強めてやったほうがよいようだ。
こういう知識があらかじめあるわけではなく、揚げているうちに、だんだんコツがつかめてくるのだが、その間に油の蒸気を吸って、しかも揚げ損ないを口にしていたので、あっというまにお腹がいっぱいになった。
かき揚げは明日のたのしみに残しておく。
今日は『幽閉者』のライブなのだが、残念ながら研究会で行けない。
新幹線に乗るときに、アメヤさんのことを思い出した。
先日、京都駅でぼくがペットボトルのお茶を飲みながらホームを歩いていると、横から何かを突きだしてくる人がいた。よく見ると、それはようじにささった菓子で、売り子のおばさんが「お茶にようあいますよ」と差し出している。思わず「ええタイミングで勧めはりますね」と声が出てしまった。そうなるともう先方の思うツボで、これは栗、これはあずきと試食をすすめながら、言われるままに袋入りの詰め合わせを買ってしまった。
しかし、ぼくはそれほど熱心な甘納豆イーターではない。この袋をどうしようかと思ってふと、この前アメヤさんが、酒のアテにエンゼルパイとチョコパイとオレオパイを次々に食べていたのを思い出した。あの甘党ぶりなら甘納豆もいけるに違いない。それで、東京に着いてから用事を終えたあと、アメヤ邸に甘納豆を持って行った。
はい、と渡してから玄関先でコロスケさんと立ち話をしていて、ふと見ると、アメヤさんが袋を開けて、立ったまま食っている。もう決然と、マシンのように次から次へと口に入れている。「あれ、この人もう食ってるよ!」とコロスケさんが声をあげる。
たぶん、そんな速さで、『幽閉者』の「物音」が演奏されるんじゃないか。
阪大の山田一憲さんの発表。
ニホンザルの子どもには離乳期までに、母親の乳首をくわえる行動がよく見られる。触ったからといって必ずしも授乳にいたるのではないのだが、母親はときにこれを受け入れ、ときには体の向きを変えたり移動して接触を拒否する。子どものこの行動を「乳首接触行動」と呼ぶ。
山田さんは長時間に渡る観察を経て、母親がどんな行動をしているときに乳首接触行動は受け入れられやすいのか、そして、その適切なタイミングを子ザルは認知しているのかを、詳細な場合分けによって明らかにしている。
子どもが鳴くと母ザルは乳首接触を許容する確率が高くなる。なかなか切ない話だ。
あとで、もっとベイトソンの話に結びつけて質問すればよかったと後悔する。
ちょっとお知らせが遅れましたが更新されてます。第349回 OpenSky 2.0 と宮崎貴士さんの音楽 2007 Feb. 16・・・関連リンク:OpenSky 2.0 公式サイト
東大正門前の市民科学研究室で、サロン「日用品の歴史」。最初は日用品としての絵はがきについて話すつもりだったのだが、新幹線の中で、せっかく東大のそばでやるのならと、「三四郎」の話をすることにして、内容を考える。
行ってみてわかったのだが、研究所はもともと築百年になろうかという由緒正しい建物で、古くは下宿屋さんをやっていたらしい。となれば、ますますもって、三四郎だ。下宿の部屋に下女が熱い湯と手紙を持ってくる感覚が間近に感じられる。第一の世界である熊本は遠く、通りを隔てて、第二の世界である煉瓦で囲まれた書物の世界があり、下宿の一室におかれた絵はがきの世界はすぐそばにある。
話すだけで時代や土地が呼び出されるような不思議な感じがする。人々が湯を浴び、膳に向かい、寝転がり、手紙を書く気配が、肌に触れるようだ。
元日高研の水島さんがいたり、じつは神田パンセでお会いしていた武石さんがいたりと、知人に囲まれ、リラックスした感じ。近未来生活研究所の桑垣さんは、学生の頃に三四郎の精読をやっていたそうで、小説に出てくる場所をひとつひとつ訪ね歩いた経験があるという。これほどすばらしい聞き手はいない。よい体験をさせていただいた。
話が終わってから、市科研の上田さんに二階の間借りの部屋を案内していただく。百年前の下宿のスタイル。低い天井と炊事場、肘を曲げたまま両側に腕が届く廊下。北島マヤが自転車の乗り方を「よし、この感じ」とつかむのに似て、実地体験は、身体を動かすことで環境の形と寸法を感じさせる。
近くに「こころ」という喫茶店があり、そこでお茶。「三四郎」の次は「こころ」。漱石が「こころ」を書いたのは、いまのぼくの年齢のときだった。
朝、謝恩会の招待状をもらう。飛び出す絵本形式になっていた。昨日の卒論発表予行のあとせっせと作ったんだそうだ。泣かせるなあ。
卒論発表会+修士・博士発表会。10時から6時すぎまで。
そのあと、謝恩会。フルコースなり。
学生からもらった袋に手を突っ込んで取り出すと、かえるがずらずらと釣れた。さらに手を突っ込むと、出てきたのはかえるのポストカードで「先生、気が向いたら、おてがみちょーだい ケロッ」とある。中のカードの何枚かに、卒論生の名前と住所が書いてあった。泣かせるなあ。
朝、東京駅の改札をくぐったらそこに宇波君がいて驚いた。見れば、ジャン=リュック、ロードリ、ロビンもいる。彼らの京都ライブを聞きに行くつもりにはしていたのだが、まさかここで会うとは思わなかった。
彦根に戻り、卒論発表の予行。結局夕方までかかる。
急いで京都へ。
清水坂のふもとにあるギャラリーふじひらの内壁には、天井まで清水焼の壺が陳列されている。ここで、来日中の、ロビン・ヘイワード、ジャン=リュック・ギオネ、ロードリ・デイヴィスの三人に、宇波拓、木下和重、村山政二郎の三人が加わり、三つのDuoを行うという趣向。g/m/h/d/u とは、参加メンバーの頭文字。木下くんがゲスト。
最初の宇波×木下では、木下くんのうつむいた顔を長髪が覆い、会場の暗さもあいまって、リアル貞子状態。宇波くんのカチカチ音とアラーム音を組み合わせた演奏は、そのとりつくしまのなさによって構造を浮かび上がらせる。楽章形式を感じさせる曲だったのだが、なにしろ沈黙中の木下くんの身構えがすごく禍々しく、知人が「本気で逃げ出そうかと思った」とあとで言っていたほど怖かった。
ロビン×ロードリ。ロビンのチューバは初めて聞いたが、管楽器から出ているとは思えない音が聞こえ、驚く。チューバの大きな開口部はまっすぐぼくのほうを向いており、その暗がりからは砲弾でも飛び出してきそうなのだが、じっさいに出てくるのは、まるで紙を引き破るような音や、ぷちぷちと泡が弾けるような音。そして、音のはじまりと終わりが、こちらの予断を裏切ってすぱりと切れる。
これに、まるで電動ノコギリがわずかに木材をかすめていくようなロードリの薄いアタックが対比される。エレクトリック・ボウがハープの弦を「ちっ」と触ると、そのアタックの質感とは全く違った優雅な共鳴音が筐体を鳴らす。音色の妙。
ジャン=リュックは立ち、村山さんは座るデュオ。表をかちかちと火の用心の拍子木が通り過ぎるのが聞こえ、村山さんはそれからずっとシンバルを擦り続ける。
ジャン=リュックの音は「バ」とか「バボ」とか「ポゥ」とか、高等な屁のように突発する。たぶん、括約筋と屁の気配が絶妙にコントロールされたときに、体全体が高らかに屁と鳴るように、キーのタッピングと吹き出しのタイミングがうまくコントロールされると、サックス全体が、ぼん、と震えるのだろう。
ずいぶん時間がたってから、再びかちかちと火の用心が通り過ぎる。ジャン=リュックがまるでレコードの針飛びのようなぷちぷちという音を出して名残っている。ここできれいに終わるのかなと思ったら、村山さんがゆっくりとブラシを手に取り、スネアを擦って、ばしん、とやった。そこからさらに数分演奏。
終わってから、一行を壱銭洋食に案内。秘宝館めいた名刺にロードリが大笑いしている横で、ロビンはまじめにその内容を検討している。ロビンは不思議な人で、そのあとの飲み屋でも、食べ物には手をつけず、熱い茶が冷めるのを待ちながら、「音楽におけるformとshapeの違いは?」「materialとsubstanceの違いは?」といった問いを投げかけ続けた。
大学で午前中に会議。そのあと、京都に移動する。
佐久間新さんへのインタヴュー。エイブル・アート・ジャパンの機関誌のため。
見開き2ページの掲載とのことだったが、あとで編集の方が入るとのことだったので、ぼくの興味のおもむくまま、2時間のあいだ、もっぱら踊りと身体の動きとの関係についてお話をうかがった。
佐久間さんは、とくに、「さあトーマス」にも出演していたはるみさんの動きに何度か衝撃を受けたという。車いすから起ち上がる彼女の立ち姿を見て、あ、これは勝てないな、と思ったそうだ。
ふつう、わたしたちは、起ち上がって一歩を踏み出そうとするとき、不安定な状態を経由する。足を踏み出しながら体を少しく倒し、踏み出した足を着地させて、体を支える。安定にいたるにあたって、不安定さを経るのである。
これに対して、はるみさんの動きには「ここしかないという道がある」と佐久間さんは言われる。彼女の足の踏み出しはゆっくりとしている。足を踏み出し、足が宙に浮いている最中も、体のバランスを保たねばならない。だから、瞬間瞬間にも片足で立っているかのような微妙なバランスが保たれつつ、足の位置が移動していき、そして着地する。そこに緊張と力強さ、弱さからくる強さが生まれる。
もうひとつ。
はるみさんの手つきには、ときどき、あやつり人形と化したような、独特のだらりと脱力した手がある。これにも佐久間さんは衝撃を受けたといって、次のように説明してくれた。
まず手刀を切るように右手を差し出す。次に、手首の関節によけいな力をかけぬようにして、手首をゆっくり回して、手の甲を上にする。すると、あるポイントで、手首の先が、コロンと落ちる。このコロンがはるみさんの手の秘密だという。
こういった説明は、観察された所作の軌跡を、ただなぞるだけではできない。その所作を産むためには、どのような力の変化を経るのがいちばん合理的か、そこには身体のどんな条件が働いているのを見るのでなければ、こんな風に所作を語ることはできない。
佐久間さんの踊りは、各関節がとても柔らかい(工学系の人なら自由度が高い、というところだろう)。それでいて、全体に不思議な統一感があるのは、各関節の経緯が折り合わされている (interweaved)からだろう。
佐久間さんは何かを説明しようとするとすぐに起ち上がって体を動かす。そこがとてもおもしろいところなのだが、文字にはおこしにくいところだ。おこしにくいとわかっているのだが、こうですか、こうですか、とつい体を動かしながら質問を重ねてしまった。
東京に移動。GRIDにて大友良英さんへのインタヴュー。こちらは、昨年の「音の海」の成立過程を追う内容となり、昨年のコンサートの興奮が蘇ってくるようだった。
「知的障害者と音楽家のためのワークショップ」と銘打たれてはいるのだが、特定のミュージシャンの奏でる音楽を語るとき、「ミュージシャンだから」「ミュージシャンの音楽は」というような語り方にならないのと同じように、「知的障害者の音楽は」というような語り方も成立しない。じっさいには、○○ちゃんのピアノが、○○くんの指揮が、といった固有名詞の話になる。そしてこの固有名詞による語りのほうが、よりうまく彼らの音楽の魅力に近づける。
近づけるのだが、問題は話が長くなることで、これまた、とうてい見開きでは収まりようのない内容になった。ようやくインタヴューを終えて、それからさらに飯を食いながら話しているうちに夜半近く。
アメヤさんちにちょっと寄ってから、唐木君、モモちゃんと深夜の新宿デニーズで新雑誌について密談。唐木君が通っているという金魚釣りコミュニティについてのディープな話を聞く。練達の人々は、浮きの浮き沈みという視覚情報から、水中の金魚の様子をありありととらえることができるんだそうだ。音の情景分析に近い話である。
唐木君に「抜力」という卓抜なる語を教わり、いろいろ考えるところがあった。四時近くにようやく宿に帰還。
古本屋で雑誌「太陽」の「ヒコーキ野郎」特集(1999)があるのを見つけ、ぱらぱらとめくっていたら、飛行機のプロペラの前で、腹ばいになっている和服のおっさんが目に飛び込んできた。それは、伏見桃山公園で細江英公が撮影した稲垣足穂の姿だった。
腹ばいですよ、腹ばい!オープンスカイ!座席に座ってるより、いっそ飛行機になってしまいたい!裸足の足先、もしくは足穂が、冷たい機体に触っている。
ところで、足穂は木製プロペラを愛好しており、ことに胡桃製(もしくはトネリコ製)のプロペラを付けたカーティスがお気に入りだった。
そう思って写真を見ると、それはあたかも、頭脳に収められた胡桃の実を、回転する樹に接続するような、腹ばいのポーズ。
ところで、日本で最初に「化石くるみ」を見つけたのが宮沢賢治だって、知ってた?
高見順が、死を前にして
線路脇の道を
足ばやに行く出勤の人たちよ
おはよう諸君
みんな元気で働いている
安心だ 君たちがいれば大丈夫だ
さようなら
あとを頼むぜ
じゃ元気でー
という詩を作ったのを、富岡多恵子はいぶかしがる。
「君たち」のことよりも「死なねばならぬ」小説家のわたしの方が問題であって、「君たち」なんてどうでもいいではないか。「君たち」がいれば、いったい何が「安心」で、何が「大丈夫」だというのであろう。<君たちがいれば大丈夫だ>と思い、「安心」だといいたてているのは小説家によってえらばれた「詩人」であって、小説家はその「詩人」及び「詩」のうしろにかくれ、ホントにいいたいことをかくしているのではないだろうか。
(富岡多恵子『さまざまなうた 詩人と詩』より。太字は原文では傍点)
おそらく、事は、小説家だけの問題ではない。たとえ報酬がなくとも、誰かに見てもらおうとすることばは、(この日記も含めて)、おおかれ少なかれ、ホントにいいたいことをかくしている。
ここで、少なくとも小説家ならば、かくしていると知っていながら書く程度にはずるいのであり、正直に書いているとハタには見せても、自分の首まではとられない。
問題はむしろ、しろうとの側にあるだろう。もっと誠実に自分の思うところ、感じるところを書こう、ありのままを書こう、と、日記を書き始めたときは、思う。しかし、誠実に書こうとすればするほど、書くことばによって隠されていることがはっきりしてくる。もはや自分の表現が身に添わなくなる。以前は確かだと思えていたことばが確かでなくなる。
あるいは、そうして破産してしまったことばから、かろうじて詩が生まれるのかもしれない。
しかし「ブログ」や「日記」を書き始めさえすれば、誰しも詩にたどりつくことができるのか。
衆人環視の中で自分のことばが破産していく様を見せるのは、よほどの忍耐を要することだろう。むしろふつうは、美談であれ悪罵であれ日々の愚痴であれ、人にお見せしても恥ずかしくないできあいのことばで折り合いをつけたいものだ。仮に正直に書いているつもりでも、それはむしろ、できあいのことばで届く範囲のことを正直としているだけのことで、ことばの届かぬ奥で、ことばにされないことはとぐろを巻くだろう。そのようなことばを発することを長く続ければ続けるほど、とぐろは見過ごされ、ことばは腐臭を放ち始めるだろう。
それでも、書き始めてしまった以上は、しろうとも玄人も、そろってとぐろと付き合わねばならない。「ブログ」や「日記」の隆盛とは、そうしたしろくろ天国地獄を招き寄せる。
さて、富岡多恵子は、高見順の「詩」を取り上げながら、彼がけしてことばを破産させないこと、小説を手放さないことを言い当てていく。そのことをよいとも悪いとも書いているわけではない。が、しかし詩が表現を破産させないことに対して、彼女のことばは刺すように進む。
ネット上に日記まがいの文章を綴り続けているわたしにも、そのことばは刺さる。かといって、もはや止めるにはあまりにも書きすぎてしまった。もちろん、わたしには、高見順のようにタンカを切る度胸もない。
ガンの手術を二度も三度も受けている人間が、「闘病専一」でなく「過労」になるほ仕事をする。毎日記される日記も仕事である。「死の淵より」が「詩人の詩」だと繰り返したのは、その詩が作品であり仕事だからであった。その「詩」はタシナミやタノシミの「詩」ではない。また、他人には不明な、呪文や祈りではない。とすれば、小説の玄人は死にのぞんでも、作品用ではない言葉の切れ端さえ発することはできないものなのであろう。<人間も自然も幸福にみちみちている><だのにわたしは死なねばならぬ>という言葉は愚痴でも怨みでもなく「詩」という作品の一行になってしまった。たとえこれらの言葉が人間高見順の受け入れた静けさの表明であり、自然と人間をつつみこむやさしさの流出であっても小説家に命じられた「詩人」が作品にしてしまった。これは、言葉の虚構を信じて利用しつくしたむくいなのか。苦しみの死の床の日記さえも作品となる。小説家は言葉のプライバシーを奪い取ってしまっていた。苦しみの中であげるうめき声さえも書き記される。それでも小説家は小説家をすてず、言葉にプライバシーを返してやらない。その気力は壮絶である。<ざまア見ろ>とは死に向って発せられる前に、言葉に向って発せられていたはずである。
(富岡多恵子『さまざまなうた 詩人と詩』)
先日、飲みながら知人たちと話していたときにたまさか富岡多恵子の話になり、『波打つ土地』や『物語のように故郷は遠い」や『壺中庵異聞』のことを、「キショク悪い」だの「ヤケクソ」だの「メチャメチャ乾いてる」だの、それは全部「すごい」という讃辞のつもりだったのだが、それにしてはひどい言い方をしたのが我ながらひっかかっていたせいか、古本屋に行くと、富岡多恵子の文字をみっちり並ぶ背表紙に探していたのだった。
それで手に取ったのが中公文庫の「さまざまなうた」で、賢治のことを記した「手帳と暖簾」から、もう吸い込まれて、そのまま飯を食いながら読み(詩人とめし、という章もある)、屁をひっても読み、最後の高見順まで読み切ってしまった。
ことばを詩にしようとするときのズルさは、ことばによって問いつめられる。そのズルさによって、人に捨てられる。あるいは、人に捨てられることで、そのズルさと折り合えなくなる。そこからようやく、人を捨てる詩が始まる。そのことに、オンナもオトコも変わりない。
捨てる詩はしかし、人をただ人ならぬものとして遠ざけるのでなく、食い、歩き、人をにらみつける。一人一人の詩人のその長い道のりを追うことで、食う人、歩く人、にらみつけている人の祈りがすいと身に染みてくる瞬間がある。
人が食い、歩き、にらみつけ、詩が詩ならぬところにまで届こうとするとき、詩人はどうなるのか。そういうのっぴきならぬ話が次々に為される。
といっても気負った話ではない。
たとえば、賢治の「アメニモマケズ」を論じるにあたって、彼女は「大阪の人間なら『雨ニモ負ケトコ、風ニモ負ケトコ」と、いうのではないかと思ってしまう」と、まるで荷を降ろすかのように身軽になって、そこからとん、と踏み出すように「このことで思いつくのは、勿論、土地と気候である。」と書く。
彼女が時折使う大阪人らしい脱臼、文章のあちこちに散りばめられた大阪弁を思わせるカタカナは、しかし単なる皮肉やゴマカシではなく、分岐する詩の登山口を登り直すための、ちょっとした準備運動のようなものだ。
じっさい、彼女は、そこから「種山ヶ原 パート三」を経て、北上山地からイーハトーヴの広大無辺な時間空間へと、一息に登っていく。モナドノックス、角閃石斜長石そしてまさしく閃緑フン岩、フンはパソコンに乗らない王に分の字で、これら耳慣れない地学的術語や鉱石の名を肺にがさがさと入れながら、呼吸は不思議と確かになっていく。
詩論がほかほかと沸いてくる。それは、書くという運動によって温まった体から発せられるので、けして気宇壮大なブンガク論になることがない。てくてくと歩きながらいつのまにか別の天体の地面を踏んでいるかのようなのだ。
詩を言葉にするという行為自体が、次第に詩をつくり出すのに奉仕したレトリックを奪いとっていくのを、おそらくたいていの書き手は実感する。詩を言葉にする行為が、書き手のノドもとをつかんでつめよってくる、いいたいのはそれかと。言葉を使うことで詩の出現をもくろむうちに、言葉が、言葉を使う楽天主義を、言葉が咲かせた花の方からでなく根もとの方から問いつめてくる。言葉は根もとの方へ帰っていく。言葉で詩を書くことが、言葉を書かない詩を知らせる。このことは、体験してみるとまことに不可思議なことである。つまり言葉で「詩」を書く行為が、言葉(文字)の現在のかなたを投写してくるのである。詩の原初は祈りであった。農作物のみのりや狩りでの獲物をねがって祈り、旱魃の時の雨乞いの祈りもあり、死者の鎮魂もある。しかも、こういうものは、書きとめられて多くの人々に観賞されるためにあるのではない。その言葉には、他のあらゆるものと同じように霊があった。
トウモロコシの種子を植えたあとで、アリゾナのパパコ・インディアンは、足拍子を踏みながら、次のような言葉をとなえるのだという ー青い夜がおりてくる 青い夜がおりてくる ほら ここに ほら あそこに トウモロコシの房が震えている。また、アパッチ・インディアンには次のようなものがあるという
黒い七面鳥が 東の方で尾をひろげる するとその美しい尖端が 白い夜明けになる。(いずれも金関寿夫氏の著書「アメリカ・インディアンの詩」による)。これらの言葉は、文字による「詩作品」しか読んだことのない人間の、詩的観賞や詩的解釈ではアテがはずれてしまう。夜は事実青く、トウモロコシの房はホントウに震えているのである。また、黒い七面鳥が尾を広げると、ホントウに夜が明けるのだ。比喩も暗喩もまだ登場していないのだ。これらの言葉をとなえるひとびとは、トウモロコシの房、黒い七面鳥の尾と霊的に交感している。インディアンの先のような言葉の美しさは、「詩作品」のために造形されたのではない。したがって、言葉がまだ力であり得たのである。
賢治の書いた言葉はインディアンのそれと同じものではない。しかし、珍しい鉱石の名前が、レトリックや暗喩のためでなかったように、彼の「詩」と呼ばれているものは、イーハトヴというくに、そこに住むイーハトヴ族の祈りの言葉ではなかったのだろうか。賢治がその書きつけた言葉に推敲を重ねたのは、インディアンの口承を英訳するように、イーハトヴ語を岩手語、日本語に翻訳するものではなかったか。それとも、その推敲は、知的な近代人が、イーハトヴ族の祈りを、言葉がもつに到る原罪への通過儀礼として行ったものだったのだろうか。あれだけの推敲を重ねながら、その「詩作品」と呼ばれるものが、他人を楽しませるための芸というものをまったく感じさせない愉快を、読者は知るのである。
(富岡多恵子『さまざまなうた 詩人と詩』より。傍線は原文では傍点)
夕方、四条烏丸のShin-biで対談。ポップという、ふだん口にすることのないお題をいただき、どうしたものか考えあぐねて、出がけにJ.Meekの「I hear the new world」を聞いたものの、ステレオサウンドのチェックにはとてもよかったが、ポップを考えるにはいささかぶっとび過ぎていた。結局ノーガード戦法ならぬノーアイディア戦法で臨むことにして会場に行くと先に安田さんがいた。彼もやはり特別何か考えを持って臨んでいるのではないらしいが、ただ出がけには「ロング・バケイション」を聞いてきたというから、ぼくよりもよほどウォーミングアップがポップである。
まあ、適当に始めればなんとかなるでしょう、と言い合っているうちに山本さんが来たので、まあ適当に、とこれまた挨拶がわりに話しかけたら、山本さんは「ちょちょちょ」と、手招きして「ここじゃまずいから」とわれわれ二人を外に誘い、ベンチに座ってからおもむろ言うことには「今日は、本気でポップというかね、一般大衆ってのを考えようと思うんですよ」。そう語る彼のマナザシは明らかに、虚空を見据えており、そこにある何かに対決を求めている。あわてて気持ちを入れ替えて居住まいを正すことにし、鼎談に臨む。
例によって、自分が口走った内容はすっかり忘れてしまったのだが、個人的にいちばんおもしろかったのは、安田さんが山本さんの制作態度を表して「(既成の音楽に対して)バランスを考えてますよね」と言ったときに、山本さんが「ああ、ああ、宇宙とか」とぽつりとつぶやいた瞬間であった。バランス、という問題を考えるときにふつうは机上とか日本の市場とかを全体集合にするものだ。それがいきなり「宇宙」とは。いくら既成の音楽という部分集合を考えても、補集合が広大過ぎるではないか。
この日、ケージを語りながら、「禅ですよ、禅。いや、老子荘子、老子老子、タオ」と説法するように畳みかけるあたりなど、山本さんの宇宙タイムが幾度かあり、それが鼎談の見せ場だったような気がする。
近くの飲み屋に行くと、そこでかかっているのが、松原みきとか安全地帯とか、あまりに「ポップ」で、次は「大衆」と対決するのではなく、こういう音楽と対決するのもいいなと思った。次があるわけではないが。
はっぴいえんどとユーミンのことに話が及んだときに、鈴木茂のギターはなんであんな風に弾けちゃうのだろう、という話にもなった。それで、昔、「卒業写真」のワウの入ったようなギターのフレーズを口三味線で真似ていたことを思い出した。
以前、かえる目のライブをするときに書いた文章をここにメモっておく。
「あなたはときどき遠くで」
荒井由実の「卒業写真」は、複雑な時制を持った佳曲で、いわゆる「卒業ソング」とは似て非なるものである。
歌詞のなかの「わたし」はすでに「卒業」しており、いままさに「人混みに流されていく」ところ、そこから「あなた」に「遠くで叱って」と呼びかける。これは卒業という時点を遠くから眺めるわたしと、そのわたしをさらに遠くで眺めるあなたの歌であり、この世から過去を見るときに現れるかすかな仰角からあの世のありかを計測し、そこに向けて危うくシグナルを送ろうとする曲である。
この歌を初めて聞いたのは確か高校生のときだった。そのときはまだ、「卒業」ということじたいも淡い未来で、さらにその先で人混みに流されているわたしなど、どこにどう置いてよいのやらよくわからなかった。だいいち、あらかじめ人混みに流される大人のわたしを想定し、そこで生じるであろうあいまいな甘さにひたるというのは、高校生には過ぎた感傷であった。わたしは、このような感傷は幼稚なものであり、たぶん大人になれば通用しなくなるだろうとタカをくくっていた。つまり、大人になれば、「卒業写真」からもいつか卒業する日が来るのだろうと思っていたのだった。
しかし、そうではなかった。長じるにつれ「卒業写真」は色あせるどころか、有線から鈴木茂のギターのイントロが流れるたびに、この世から過去とあの世に向けて三角形が描かれ、その射程はますます深くなる。人混みに流される器量も欠いたまま人目もはばからぬオヤジになりおおせた現在、そのような精神の三角測量がこの身に駆動することを恥ずかしく思わぬほどに、わたしの面の皮は厚くなった。「おやじの肉体にユーミンのマインド」を自称する由縁である。
湖西の高島市へ。彦根からの直線距離はさほどないのだが、あいだに琵琶湖があるために、北に大回りしなければならない。暖冬とはいうものの、余呉から西浅井町に抜けるあたりではみぞれ、急に北国に来た気がする。
高島市のデイサービスセンターで、上田洋平くんによる心象絵図の「絵解き」。上田君は滋賀県立大学の一期生で、いまは非常勤講師として活躍している。上田くんを始め、滋賀県立大学の学生が、ひとつの村落で数多くの聞き取り調査を行った。それをもとに、その村落にかつてあった昭和初期の四季を絵として再現する。これを上田くんたちは「五感による心象絵図」と呼んでいる。
通常なら、聞き取りをして、報告書をまとめたら、それで調査は終わるものだ。しかし、上田くんたちの試みがおもしろいのは、この絵の細部を示しながら、その村落に行って絵解きをするというところだ。こうした絵解きをすると、土地のお年寄りから次々に思い出が語り出されて、不思議な盛り上がりを見せるのだという。
以前から話には聞いていたが、じっさいに目前にすると、じつにおもしろい試みだった。なんといっても、聞いておられるお年寄りの反応がとても鮮やかなのだ。たとえば、「昭和十九年の豪雪で、電線をまたぐほど雪が積もったということです」というようなくだりで、何人かが明らかに上体をぐっと起こして、文字通り「身を乗り出す」。まだ30才の上田くんの語りに、90才を越える古老の方々が目を細めて聞き入り、話が終わると手をあちこち動かして、山を指し、琵琶湖を指し、在所を刺し、物語内視点の身振りで思い出を語られる。
上田くんは、過去の出来に比べて今日のはいまひとつだったとしきりに反省していたが、ぼくからすれば、今日の聴衆の反応ですでに素晴らしいものだった。
もちろん、俳優の行う朗読のような、もっと朗々と強弱をつけた語りもできるかもしれないし、そのほうが大向こうを唸らせることはたやすいかもしれない。でも、上田君の控えめながら誘うような語り、聞き取りのプロセスで身につけたのであろう、その土地の古老と同じイントネーションの美しさは、確実に聞き手の情動を動かしていたし、それは聞き手の体の反応に現れていた。
さらに三コマ。終了後、長岡京で、青山さん、安藤さんと飲む。安藤さんはずいぶん前から存じ上げていたのだが、落ち着いて飲むのは初めてだった。
飛行機のプロペラと扇風機は似ている、という話から突如、「人類はプロペラを見て扇風機を思いついたのではないか」という話になり、プロペラに風をなびかせながら、飛ばない飛行機としての扇風機を夢想する発明家とか、家屋の天井に飛行機がつきささっているイメージとか、いろいろ妄想をたくましくしたが、あとで調べたら扇風機のほうが先だった。ま、そうだよな。
あと、宮崎駿アニメが、影の移動によって空間を産む、という話から、世界に影がなかったら?という話になり、キリコの絵からすべて影を取り除くとどうなるか、というのを想像してぎゃーとかもーとか言う。影のない「街の孤独と憂愁」って!
絵はがきの話をするつもりが、紙とプライヴァシーの話をするうちにみるみる三コマを使い果たす。
今回は通信メディアの歴史を考えるために、ちょっとした年表を描いてもらいながら講義をした。
まず最初にA4の紙を一枚配る。
次にいちばん左上に「1840年」を記してもらう。これはイギリスでブラック・ペニーが発行され、郵便料金が改定された年だ。いちばん右下には「2000年」を書いてもらう。ざっと160年を一枚に見立てるという仕組みだ。現在の2007年は右下をちょっとめくって紙の裏に書きつけてもらう。
さて、タテヨコに線を引いて紙を四等分する。ひとつが40年分にあたる。1840, 1880, 1920, 1960年が区切れ目になる。
次に1960年のコマを上下に二分してもらい、1980年代を作る。さらにこれを左右に二分して1990年を作る。おおよそここが、今回の受講者の人たちの経験している時代だ。
パソコン通信は1980年代後半、デジタル方式の携帯は1993年、インターネットのWWWサイトが一般的になるのが1995年ごろ、といった具合だ。いまや絵はがきを出したことのない学生がいて、多くの用事はe-mailで済まされている。この十年で通信メディア環境は激変した。紙年表の右下あたりがすぐにいっぱいになる。
この激変ぶりに比べると、絵はがきの歴史はゆったりしたものではある。が、一直線というわけではない。主な変化は、右上のコマ、1880-1920年のあいだに集中する。1890年代のドイツ多色刷り石版印刷絵はがきの時代から、世界的な絵はがきブーム、1904年の日露戦争による日本絵はがきブーム、そして1914年以降の第一次大戦による絵はがき流行の衰退、という具合だ。
これくらいの分量の年表をざっくり作ってみると、時代のスケール感のようなものができあがる。たとえば現在の携帯やインターネットの隆盛と絵はがきの隆盛のタイムスケールが重なってくる。
冒頭にその文の主部と述部を置かないことによって、日本語は、結末に向けて謎をかける。
たとえば、「ワーニャ伯父さん」に
そりゃ百年二百年たったあとで、この世に生れてくる人たちは、みじめなわれわれが、こんなにばかばかしい、こんなに味けない生涯を送ったことを、定めし軽蔑するだろう。そして、なんとか幸せにやっていく手を、見つけだすかもしれない。だが、われわれは結局・・・・・・。
という台詞がある。
この文章を一度読み通したあとならば、「そりゃ百年二百年たったあとで」というのが「この世に生まれてくる人たち」と「みじめなわれわれ」とを隔てる時間であることはわかる。
けれども、この文章を声で聞くとき、そのような結末をあらかじめ見通すことはできない。
「そりゃ百年二百年たったあとで」という声がするときに、その百年二百年という月日は、誰にとっての百年二百年なのかはまだわかっていない。「みじめなわれわれが」というところまで読み上げられても、まだ「百年二百年」が、この世に生まれてくる人たちや、みじめなわれわれにとってどのような意味を持つかは、明かではない。いま発せられつつある声はどこまで行けば終わりになるのか、声はいつこの文の結末を言い渡すのか、「みじめなわれわれが」ということばを聞く者はその「どこまで」からも「いつ」からも、隔てられている。
それはあたかも、「犬を連れた奥さん」で、ほんのいっときの気まぐれだと思って「奥さん」とつきあい始めた男の身に起こる、次のようなくだりにも似ている。
するとそのとき不意に、彼はあの晩がた停車場でアンナ・セルゲーヴナを見送ってから、これで万事おしまいだ、もう二度と会うことはあるまい、と心につぶやいたことを思い出した。それが、おしまいまではまだまだなんと遠いことだろう!
(チェーホフ「犬を連れた奥さん」神西清訳)
ことばの主を隠しながら、神西清の文体は、思いがけないほど遠くまで読む者を連れて行く。ならば、その文体を声にするとして、声はいかにしてことばの主をあらかじめ顕わにすることなく、聞き手に届きながらその主を発見させることができるだろうか。
地点での声のあり方には、そのような、声の主についての実験があったように思う。
前川さんと秋吉さん来訪。ステレオうたごえ喫茶などかけながら、Hi-Fiからステレオに移行したときの「ステレオ感」のプレゼンテーションについてあれこれ。
竹内敏晴の本で読んだと記憶するが、相手に声を届かせるためのエチュード、というのがある。大勢の聞き手が、話し手に背中を向けて離れたところに座る。話し手は、自分の声を届かせたいと思う相手に向けて声を出す。その声が届いたと感じた聞き手は手をあげる。
このやり方に練達した役者は、不思議なことに、自分の念じた聞き手の手をあげさせることができるようになるという。
空間の中でどのような大きさの声がどのように響くかを聞き手は聞き分け、それが自分に届けられつつある声かどうかが分かる、ということなのだろう。そして、声の発し手のほうも、自分の声の大きさと響きを調節しながら、特定の相手に向けられているかのように響かせることができるのだろう。
さて、地点公演の「ワーニャ伯父さん」で聞いた声は、これと全く逆だった。
登場人物は狭い舞台の上で出ずっぱりで、お互いがごく近く、ワーニャそソーニャにいたっては、手を伸ばせば届くほどの距離にいる。にもかかわらず、そこで発せられていることばは、舞台上の人物を通り越して虚空に放たれている。音量だけではない、その口調までが、相手に何かを伝えようとして出るというよりは、ずっと頭の中で唱えられている内言が思わず水面上に浮上したかのように、そして話者自身がそのことに驚いているかのように、単語の音を確かめ、思わぬ位置で語句を断って進んでいく。
かといってそれは、朗読というわけでもない。朗読にしては、抑揚は激し過ぎ、高揚し過ぎている。
この舞台での俳優たちの発声を聞きながら思い浮かべていたのは、最近読み終えた「カラマーゾフの兄弟」の第四部で、次兄イワンが内なる悪魔と格闘するくだりだった。
イワンは、自分の内部からわき上がる禍々しい考えを抑えきれずに、それを「声」にする。自分の考えだからそれを声にするのではない。自分の考えとするにはあまりにも禍々しいので、それを悪魔の「声」にし、悪魔と対決するのである。しかしそれは端から見ると、禍々しいひとりごとをつぶやいている者にしかみえない。
イワンは物語の上では、一応「譫妄」に取り付かれたことになっている。しかし、この「声」とひとりごととの関係、自分の考えであることに耐えられない(しかし自分によって生み出された)考えを、声に出してしまう、という論理には、いろいろ考えさせるところがある。おそらく、わたしたちが誰を他者とするか、という問題が、そこでは裏から漏れ出ている。
この公演での声の使い方は、まさに悪魔の声、内言であることに耐えられず発せられる声、に聞こえた。冒頭のワーニャ伯父さんの、どもるように発せられる第一声に始まり、まるでそれぞれの登場人物が、自分の悪魔と対決しているかのように、ことばを繰り出している。ことばの内容とタイミングは会話の形式をとりながら、あたかも一人の悪魔が複数の体を借りて語り続けているような時間が過ぎていく。
塗装を剥がされたグランドピアノが、ワーニャ伯父さんとソーニャの囚われている空間である。そのはるか上には、ピアノから取り出されたと思しき金属の反響板がつり下げられている。 ピアノの蓋を開けると中にはマトリョーシカやピストルが入っており、もはやこのピアノが音の鳴らないただの箱と化していることが知れる。その鳴らない箱の上にワーニャ伯父さんとソーニャは暮らしている。
これらの悪魔のような声は、もしかすると、この骸となったグランドピアノから取り仇されたものなのかもしれない、と思う。
響きを取り除かれたピアノには枯れ草が生えている。アーストロフはピアノの周りを巡りながら、この枯れ草の群れにとどめを射すかのようにタバコの吸い殻を一本、また一本と刺していく。おそらく公演の間中、吸い殻は増え続けるのだろう。
原作ではソーニャに抱きかかえられるはずのワーニャ伯父さんは、この舞台では、ソーニャに背中から幾度も足蹴を受ける。これはもう、救いのない47歳である。役割上の年齢とはいえ、自分と同じ年のオトコがそのように足蹴にされるのを見ていると、自分の背中をどやしつけられているようで、痛々しかった。
とにかくこんな舞台は見たことがなく、これからのチェーホフ連続公演がたのしみだ。
ところで。
いっしょに行った扉野良人さんが、神西清訳と米山正夫訳の二冊を持ってたので、二つの訳をあとで読み比べさせてもらった。これがなかなか含蓄のある違いなのだ。
たとえば最後のソーニャの台詞はこんなぐあい。
神西清訳:「ほっと息をつくんだわ」
米山正夫訳:「ゆっくり休めるでしょうよ!」
米山訳は、未来に線を見ている。そこには「休む」という状態が見込まれている。
いっぽう神西訳は、未来に点を見ている。そこでは「ほっと息をつく」という瞬間が語られている。息もつけない状態から息をつける状態への、変化の一点として「ほっと息をつく」点が、救い(のなさ)として浮かび上がる。あたかも(失敗に終わる)ピストル自殺のように。
東京へ。ICCのOpenSky2.0。宮崎貴士さんのライブを聞き、そのあと、八谷さんと雑誌「nu」用の対談。最初は会場の芝生の上で。正方形に切り取られた芝生は人工ではなく、腰を下ろしていると湿り気とともに草の匂いがする。
さらにそのあと、下のアイリッシュ・バーに場所を移して二時間ほど。
途中で八谷さんの娘さんが「ねえねえ」とお父さんに話しかける。そこで、話題はぽきんと折れてまたやり直す。その紆余曲折も含めて、全体が「やってきた失敗とやり直しを、いかにわれわれは創造的に受け入れるのか」という話になった、ように思う。
宿に戻って、ちょっと寝るには早い時間だったので、アメヤさんの家に遊びに行く。赤ちゃんの、小さなてのひらに、こちらのひとさし指を差し出す。赤ちゃんはその指を何度も握って、ちょっとにっこりする。
朝から卒論の口頭諮問。学生はそれぞれに緊張の面持ち。
院生ゼミと卒論生ゼミ。プレゼンのやり方を話すうちに日は暮れる。
ひさしぶりにナウシカを見る。
DVDのオーディオコメンタリで庵野英明氏が「ああ、うまいなー」と声をあげるところは、たいてい、空間や面がすごく「掃けてる」。止め絵だと遠近が分からないときに、光線や影やメーヴェの動きで、空間が現れ、面が現れる。
部屋があるから箒で掃くのではなく、箒で掃くから部屋が現れるという感じ。
採点や時間割委員会などなど。閉店間際の平和堂で買い物。ビーフシチューを作る。このところシチューづいている。
採点や
堀内カラーへ。生まれてこの方、ブローニーの焼き増しを出したことがなかった。2L、八つ切り、キャビネ、使い慣れないことばをおずおずと言う。それをひとつひとつ復唱する店員の口調はなめらかである。
会議の時間を間違える。
部屋にたどり着いたらもう話し合いの佳境で恐縮する。
とある学会大会のページを作る。フォーム入力で難儀する。JavaScriptとCGIとレンタルサーバのベストの組み合わせ、というのが意外に見つかりにくい。結局、NIFTYの出来合いのものを使う。Shift-JISでHTMLファイルをアップロードしないと化けるということに気づくのに時間を食う。
ふだんはこの日記を含めてタグを自分で打っているのだが、テーブルやらフォーム入力ともなると、もう何かソフトを使わないと煩雑でしかたない。Adobeを買ったときにGoLiveというのがついてきたのを思い出して、ちょっと使ってみる。さすがに自分でタグを打つより早い。
HTMLを手打ちにしてきたのは、Wordなどのソフトで生成されるHTMLがあまりにごちゃごちゃしていてあとで編集が面倒だったからなのだが、GoLiveはずいぶん生成されるタグがすっきりしていて使いやすい。
・・・といいつつこの日記は結局手打ち。
電車に乗り込んだら通路に巨大な乳母車があって、あまりに巨大なので、何かの展示かと思ったが、そばにいるのはただの赤ん坊だった。父親らしい男が座っており、その膝の上に赤ん坊はすっくと立って両手を少し上げている。じっさいには父親が脇で支えているのだが、正面に座ったぼくの位置からだと、まるで等身大のキューピーの商標が自立しているみたいだ。
そのキューピーはこっちをしばらくまじまじと見つめていたが、怖くなったのか、横の女に向き直った。女が手を振るとキューピーも手を振る。なんだ、ずいぶんそっちには愛想がいいではないか。
こちらも手を振って親睦を深めたいところだが、あいだに乳母車がはさまっているおかげで、どうも疎遠な感じだ。疎遠だと思う感じがぼくの顔から漏れているのかもしれない。キューピーはちらとこちらを見て、また女と手を振り合う。
女は、鞄を開けて、中から口紅を取り出した。すいとひねった筒から飛び出した薄いピンクは、彼女の唇と同じ色だった。下をひとなで、上をひとなでして、鏡に見せるように赤ん坊に向かって唇を軽く合わせる。
キューピーは、あー、と声をあげて、また手を振った。
京都へ。アパートで飲み会。誕生日のお祝いに星の本と星の便箋をいただく。星図盤の青い色を見ていると、体の内側がすうっと底なしになった気がする。酒は彗星のように流れ込む。そんな宇宙的郷愁から、なぜか富岡多恵子話へ、地上はうねうねと波打つ。
コーヒーメーカーにコーヒーをセットするとき、というのがいちばん落ち着く。家を出るまでにこんがらがった考えを自転車をこぎながら寒風にさらして、今日もくそったれだというところまでこちこちになったころには研究室に着く。扉を開けて鞄を置いたらさっそく、紙を折り、ざあっと粉を入れ、二杯分の水を汲み入れ、スイッチを入れる。そのうちがぽがぽ言う音がはっきりと聞こえて、そうか、この音にしばらく意識がいってなかったなと気づく。卒論指導の最中には、せっかく入れたスイッチを30分くらい放置するうちに部屋が焦げたコーヒー臭くなることもたびたびで、どうも調子が出なかったが、あれはがぽがぽを聞き逃していたに違いない。がぽがぽ直後のコーヒーを注ぎ、その場で立って飲むのがいちばんおいしい。本棚とロッカーと冷蔵庫に囲まれた、適切な狭さがあるから。なにかのインタヴューで、漫画家の高野文子が、風呂場の脱衣所でマンガを描く、というのを読んだことがある。台所の冷蔵庫のそば、だったかもしれない。
淡々と仕事をするうちに日が暮れる。節分に京都に行こうと思っていたのだが、そうもいかなかった。
カラマーゾフは第四部『少年たち』自意識過剰なコーリャの登場。何かを話しながら、おいおいオマエは何を言い出すのだ、と自分で自分に問いたくなるときの、ことばの力。カラマーゾフの登場人物の多くは、この、何かを言い出してしまう自分によって、その場を踏み破ってしまう。
登場人物それぞれが代わる代わるモノローグを語り、そのどれもが力を持っている点では、確かにドストエフスキーはバフチンの言うように「ポリフォニー」だし「交響曲」ではある。しかし、それはあくまで、読み終わった後に頭の中で再構成されるイメージのようなものであって、読んでいる最中は、けして「ポリフォニー」ではない。少なくとも、 zz音楽における「ポリフォニー」や「交響曲」の常識とはずいぶん違っている。それはバッハの二声のインヴェンションやベートーベンの交響曲のような、さまざまな声の同時進行ではない。登場人物は同時に話すのではない。一人が語り終えて、次にもう一人が語る。あえて言うなら、異なる楽器がひとつずつ、変奏や別のテーマを演奏していくのに近い。
実際のところ「カラマーゾフ」を読む時間は、ポリフォニーというよりは、モノローグがモノローグを踏み破っているような感じなのだ。
会話分析の先達はバフチンを引いていない。そもそも60年代末までバフチンはアメリカでほとんど評価の対象になっていなかったし、「会話」という現象は、そもそも多声で未完なのが当たり前なので、バフチンの理論の何がありがたいのかわかりにくい。
しかし、ドストエフスキーの、モノローグがモノローグを踏み破る感じは、これまでの会話分析であまり扱われてこなかったこともまた確かだ。
この、何を言い出すのだ、という「感じ」を、会話分析に乗せることはできるだろうか。
昨日の日記を書いたのをきっかけに、産婦人科医・産科医のブログや掲示板をあちこち見た。
少なくとも、産婦人科・産科医の肉体的精神的負担は、もはやネットのあちこちに噴出するほど抜き差しならぬところまで来ているということがよくわかった。
新聞・雑誌メディアも、患者も、行政も、産婦人科医の思いをわかってくれない、もう産科医は絶滅寸前である、という調子が、さまざまなブログから伝わってくる。
とくに、マスコミに対する産婦人科医の不信は強い。
先日の福島での大野病院裁判、昨年秋の奈良大淀病院の搬送問題など、必ずしも医師の責任と断じるのが簡単ではない問題が、次々と新聞で取り上げられ、あたかも特定の医師の責任であるかのように報じられた。こうした風潮に対して異議を唱えている産婦人科医のブログや掲示板は多い。
試しに「お産難民」などの語で検索してみられるとよい。
マスコミはもうそろそろ、古めかしい医師のイメージから脱したほうがよいのではないか。金と権力にまみれた医師の執刀ミスを裁判で告発するのが正義である、という「白い巨塔」的世界から、現実は遠く隔たっている。
誰もが赤ひげ先生やDr. コトーではないし、ましてブラックジャックであるはずもない。ごく通常の人間が、食べ、休み、仕事をしている。そういう仕事人としての医師と、うまくつきあう方法を考える必要がある。医師の仕事環境に配慮しない限り、この問題は解決しないように思われる。
この話、何かに似ていると思ったら、小中学校の教師の質問題とうり二つだ。
もっとも、四面楚歌である点は産む側も同じことだ。産婦人科医からは医者の一局集中化は必然であり地元でのお産はあきらめてくださいと言われる。マスメディアは危機感をあおるものの、これといった解決策を示してくれるわけではない。行政が今後、若き医者に産科医になることを奨励するとしても、効果が現れるのは10年単位先のことだ。
当面、できるだけ成功例の知識を増やすことが望まれる。単にマスコミで喧伝されるような事故例だけでなく、いざというときにこういうルートでこういうところに駆け込めばなんとかなった、といった経験をできるだけシェアすること。もちろん、マスメディアにはそこまでのきめ細かさは期待できない。市民運動や口コミの力が発揮されるとしたらこのあたりだろう。
ここ1,2年のあいだに急激に地方都市での分娩取りやめの問題が起こっている。
2005年の「産婦人科医・小児科医不足を考える」公開シンポジウムには、その前兆となる簡単な基礎資料がある。
「ある産婦人科医のひとりごと」では、精力的に産婦人科医・産科医の報道を集めながら産婦人科医から見た問題提議が行われている。(たとえば「お産難民」を問題にしたこのページ)。
お産難民問題は、とくに地方で進行している。全国紙には掲載されないさまざまな問題は、むしろ地方紙で明らかになりつつある(たとえば河北新報「お産SOS」)。
お産難民、ということばがある。産科医不足で、子どもを地元で産もうとしても、産科医が近くにいないため、いざというときの行き場を見失いかけている人々のことを指す。
先月、ぼくの住んでいる彦根市の市立病院で、3月下旬から医師が3人から1人に減ることが決まり、ニュースで報じられた。このニュースをきっかけに、彦根市立病院での安心なお産を願う会が起ち上がって、現在署名活動を続けている。ぼくも署名した。
ところが、この会のホームページにゲストブック(*1)が開設されると、そこには、会への賛意を示すメッセージよりも、むしろ、現在の産科医の過酷な労働状況や産科医不足の問題を強い調子で指摘するメッセージが次々と集まり出した。
ほとんどが匿名なので、どんな人がどういう経緯で書いたか簡単に判断はつかないが、文面からすると、書き手にはじっさいに産科医だったり身近に産科医の現状を見ている方々が含まれていると思われる。
*注1: なお、ここ数日は荒しのメッセージがあまりに多いので掲示板がパンクしているが、立ち上げから二週間ほどの内容は初期の掲示板・中期の掲示板で読める。また、会のひとたちが、冷静かつ真摯にこの掲示板の内容に相対していることは、設立の趣旨や掲示板管理者の趣旨から読み取れる。
初期の掲示板からは、少なくとも、こうした掲示板に現場の方々が悲鳴を書き込まざるをえないくらい、産科医の労働状況がたいへんであることがうかがい知れる。
さらに、昨年に福島で起こった産科医逮捕の事件が、この状況に追い打ちをかけていることも、いくつかの書き込みで指摘されている(この事件についてはたとえば周産期医療の崩壊をくい止める会のページを参照)。
人が人を治すという医療現場で、100%の安全はありえない。医師はたとえそこにリスクがあろうとも、治療にあたらざるを得ない。なのに、そのリスクがわずかな確率で不幸な結果に転んだとき、それを、医師の逮捕という形で決着をつけていては、医療に携わる人はやりきれない。患者は、100%安全に治癒する権利を持っているのではなく、医師とともに治癒の可能性を少しでも高める権利を持っているに過ぎない。まずは患者の側に、そのような意識が必要なことは確かだろう。
けれど、もし、そうした状況ゆえに、「安心なお産を願う」という考え方が「甘い」とか「わがまま」として断じられるなら、本末転倒ではないかと思う。安心なお産を願うというのは、何もコンビニのように気軽に行けて100%安全な病院を願うという意味ではなく、お産という難事業につきあってもらえる医師に、いざというときになんとか駆け込むことができる距離にいてもらえたほうがよい、というほどの意だろう。
もちろん、産科医の数が限られている現状で、単によそから医師を引き抜きさえすればよいわけでもない。
彦根市立病院の問題も、単に彦根市の産科医数のみを増やすということでは解決しないだろう。産科医不足の問題に対して、いますぐ画期的な案は出ないかもしれない。助産師の役割の見直しも含めた、出産システムや医療システムの立て直しという、迂遠ながら根本的な問題を考えていく必要があるかもしれない。
それでも、「願う会」の意味はあると思う。こうした会が起ち上がることによって、子どもの多さや少なさを論じる前に、産むこと自体が抱えている問題が、より明らかになるからだ。
出産は「少子化」解決のための数合わせ行為ではない。女性は「産む機械」ではないし、医師は出産援助機械ではない。子どもは一人より二人ですといわれてハイそうですかと選択ボタンを押すみたいに作るのではない。
それでも子どもは生まれてくる。医師も両親も、ともにリスクに立ち会いながら、出産をなんとか遂げようとする。治療の場を成り立たせたいという点で、両者は同じ方向を向いているはずだし、出産の問題を考えるには、まずそこを出発点にする必要があるだろう。
そのことを確認するためにも、この会の存在意義はあると思う。