20050531 似姿に影を重ねて苗そよぐ
天気がよいので環琵琶湖文化論実習はサイクリングに出る。野田沼に行き、大学の建物を含めた景観をスケッチしてもらったのだが、けっこうフィールドノートを縦にして描く学生が多くてちょっととまどった。景観は縦よりも横に広がってるので、画面も横長にとったほうが便利なのだ。と、書くと当たり前みたいだけど、意外と、こういうところでつまずくのだな。
目の前には田植えが終わったばかりの田園が広がっている。早苗の反映が水に映り、さらに陽射しの影が落ちている。苗が風にひらひらとそよぐと、二つの影がひらひらとそよぐ。これがあたり一面並んで、ひらひらひらひらとやるので、いたるところから目が誘われてめまいがするような景色。
長曽根港まで行って絵はがきの場所を確認し、スケッチをしてから解散。
20050530 短夜に暮れなずむ空 橋を渡る
まっとうに仕事。郡さんから電話。いつもながら暖かき励ましに恐縮する。
20050529 一族が京見はるかす麦の秋
祖母の五十回忌。両親きょうだい五人で集まり食事をする。母はこのページの俳句を書き写してきていて、あれこれ論評される。駅ビルに移動してお茶。
帰りの電車が遅れる。ここのところ東海道線と琵琶湖線はよく遅れる。原因は、「先行電車が揺れを感じたので」「踏切内に人が侵入したので」などいろいろだが、先日の事故以来、ちょっとしたことにもかなり神経をとがらせていることが伺える。
帰ったら自治会の組長会。
先々週の「ここから研」の話の続き。実藤さんの実験内容は、「乳児が乳児の真似をするか」というテーマ。乳児の行動を見て、同じ月齢の乳児が同じ行動を真似やすい、という話。博士1年とは思えない充実したもので、大いに刺激になった。聞けば、発達心理学の本には必ず載ってるMeltzoff(赤ちゃんの舌だし実験でおなじみ)のところに行って、あれこれ秘伝を目撃してきたのだという。
実藤さんの実験は、どちらかというと「真似」に焦点を当てていたが、メルツォフのもともとの論文は、むしろ「意図理解」という文脈でこの実験を行なっている。それで、意図と真似との関係について、研究会以来、あれこれ考えている。
乳幼児を使った「意図理解 Understanding the intentions of others」の研究の詳細は、Meltzoff(彼の論文はこのサイトからダウンロードできる)が1995年に出したUnderstanding the intentions of othersに書かれている。
メルツォフの実験の段取りは、意図理解を考えるうえでいろいろおもしろいのでちょっとここで記しておこう。
まず、ダンベルと呼ばれる小さなおもちゃを18ヶ月の幼児に渡す。7.5cmほどの長さの棒の両端に、小さなキューブがくっついたもので、この両端を持って引っ張ると棒が抜けて二つに分かれる仕組みになっている。
さて、このダンベルを赤ちゃんに手渡したら、両端をひっぱってうまく二つにぽんと分けることができるだろうか? これを以下の4通りで比較する、というのがメルツォフのデザインだった。(1)ただ手渡す (base line) (2)両端をひっぱって二つに分けるところを見せてから手渡す (target) (3)両端をひっぱるが、左手(もしくは右手)がキューブからすっぽ抜けてうまく分けることができないところを見せる(intention) (4)両端を押し込むところを見せる。結果的には分けることができない(adult manipulation)。
すると、(2)のintentionと(3)のtargetを見たあとの場合で、赤ちゃんが手渡されたダンベルを抜く確率はぐっと高まるのである。つまり、分ける「ふり」をしただけで、赤ちゃんはその先の結果を見抜いたことになる。
さらに、メルツォフは、奇妙なマシンを使って第二の実験を行なっている。マシンはちょうど刀置きのように垂直に腕を出し、ダンベルの両端にあるキューブをかぎ爪のようなもので支えている。で、この腕を左右に移動するのだが、かぎ爪はそのたびにキューブからすっぽぬけてしまう。いわば、ひっぱり損ないを真似たマシンなのである。
この、ひっぱり損ないマシンの場合と、人が実際に引っ張り損なった場合(上のintentionの場合)を比べると、明らかに人の場合のほうが赤ちゃんの反応がよい。つまり、マシンよりも人間がひっぱり損なった場合のほうが、赤ちゃんは結果を見抜きやすい、ということになる。
この実験の結果から、メルツォフは、18ヶ月の赤ちゃんは人の行動の「意図」を見抜く、と結論している。
うーん、どうだろう。
まずひとつ疑問なのは実験じたいのデザインだ。ダンベルから手がすっぽ抜けるという大人の行動を見て、それをそっくり真似する行動が出ないのは、赤ちゃんがその行動から「ダンベルを二つに分ける」という「意図」を読み取ったからではなく、単純に、ダンベルを左右にひっぱりながら、しかも手をすっぽ抜くのを真似るのが難しいからではないだろうか。
また、相手が人間かマシンかで結果が変わるのは、単にマシンよりも人の手のほうが行動を励起しやすいからではないのではないか。
つまり、赤ちゃんは、大人の行動の意図を読み取ったというよりは、単に行動を不正確に真似ただけではないか。
・・・などなどと、反論は容易に思いつくが、いっぽうで、「マシンよりも人の行動のほうが行動を励起しやすい」ということじたいはおもしろい結果だとも言える。つまり、少なくとも、人が何かをしていることを見ることで、そこに注意が焦点化されるだけでなく、自らの行動もまた、まとまりを帯びていく、ということなのだ。
この実験にはもうひとつ、興味深い問題が含まれている。実験者は、ダンベルを抜く行動(あるいは抜きそこなう行動)を三回繰り返した後、乳幼児にそのダンベルを渡す。つまり、実験には、ダンベルを受け渡すという贈与のプロセスが入っており、さらに、行動を交替に行なうというターンテイキングのプロセスが入っている。
わたしたちが相手の真似をするときには、必ずしもひとまとまりの行動が交替するわけではない。たとえば、二人がそれぞれのダンベルを持って、片方がひっぱるのを片方が少しだけ遅れて真似をする、というシチュエーションもありうる。この場合は、二人の行動は時間的に重なる。そして、真似においておもしろいのは、じつはこの時間的に重なるというポイントなのだ。相手の行動をいったんチャンクとして記憶する話なら、それはシークエンスの記憶の問題になる。しかし、相手の行動がチャンクになる前に真似が開始され、次々と相手から手がかりが提示されるのであれば、それはミクロなコミュニケーションの問題になる。
メルツォフのイメージしている「意図理解」というのは、すでに行動がチャンクとして理解された後に生じるものなのだろう。ぼくの興味はむしろミクロなコミュニケーションにあるが、メルツォフの考えるような意図理解にも、おもしろい点は感じる。
それはたとえば、こういうことだ。行為のチャンクは、ダンベルを贈与することによって、ダンベルという事物に凝る。この意味で、この実験は文化人類学的な側面を持っている。事物は、行為の対象となることによって、行為を焦点化する。それが贈与され、受け取ったものの行為を引き起こす。たとえば「しるし」とか「穢れ」といった概念が、このいっけん抽象的な実験にはかかわってくるかもしれない。
「意図理解」は、ある種の「予期」であるに違いない。しかし、単に事象確率を手に入れて、生起確率の高い行動を予測することが「意図理解」かというと、どうもそうではないように思われる。
では、単なる「予測」と「意図理解」を分かつものはなんだろうか?それは、おそらく、特定の神経や情動を使うかどうかという問題ではないかと思う。
さて、ここからは別に学問的裏付けがあるわけではないが、妄言を記しておこう。
おそらく「意図理解」という現象に対応するものには二種類あるのではないかと思う。
ひとつには誰かの体を見て自分の体を動かしたくなること。
単に相手の行動を予測するだけであれば、自分の体を動かす必要はなく、ただ、目の前のできごとの生起確率から、その次を予測すればよい。しかし、誰かの行動に意図的なものを感じるときに起こっているのはどうもそれだけではない。たとえば、相手の行動に、自分の体を動かすときの感じを重ねているときがある。これはたとえば、ミラーニューロンなどによって為されている可能性がある。
これとは別に、もうひとつ「意図理解」という現象に対応するものが考えられる。それは「恐怖」のような情動だ。たとえば、相手がある表情を伴いながら自分に近づいてくるときに、それを単なる偶然としてではなく、自分を「襲ってくる」のだと感じること。
「襲う」というのはじつは、いくつかの具体的な行動のセットを表わしている。じっさいには殴りかかってくるかもしれないし、蹴ってくるかもしれないし、何か武器を持っているかもしれない。そのさまざまな行動のセットが「恐怖」によって予感されたり、一気に立ち上がってくるとき、人は「襲われる」と感じる。つまり、相手の行動から「襲う」という意図を読んでいることになる。
「恐怖」には、思い過ごしの場合もあれば、うまく相手の行動を予測する場合もあるだろう。しかし、少なくとも「恐怖」のような情動が、相手の意図理解に多少なりとも役立つのは、それが、行為者の「怒り」の情動と対応するからではないかと思う。
行為者のほうでは、情動によって異なる行為のセットが生起しやすくなっている。だから、受け手がこれを予測するには、あらゆる行為の生起確率を考えるよりも、「怒り」に対応するような受信者の情動を立ち上げるほうが手っ取り早く対応できる。おそらく、「怒り」という情動のセットに対応する情動を持つような受け手は、よりうまく「怒り」がもたらす行為を予測し、生き延びる結果につながっただろう。となれば、いくつかの情動は、(コミュニケーションの軍拡競争の結果)行為者と発信者の間で対になるように進化したのではないか。たとえば「怒り」に対しては「恐怖」というように。つまり、人には簡単な表情表出や行為によって起こる情動対のようなものがあって、それが意図理解につながっているのではないだろうか。
このような「意図理解」は、おそらく扁桃体や基底核などの情動とかかわる脳内活動と関わっているのではないかと考えられる。フィアネス・ゲイジのような例も、こうした方面から捉え直してみるとおもしろいかもしれない。
というわけで、私見では、意図理解には、ミラーニューロン的な経路と、情動対に関わる経路との二通りがあるのではないか、と思っている。これらは別に排他的なものではなく、たとえば、ミラーニューロンの発火に基本的情動がかかわるということはありうるだろう。
ミラーニューロン的なものは、ひとつの行動シークエンスをひとまとまりのチャンクと捉え、シークエンスの予測に関わる。いっぽう、情動対は、いくつかの行動シークエンスのセットを同時に励起/想起させ、シークエンスのセットの予測にかかわる。
つまり、意図理解にはミラーニューロン的/シンタグム的/ブローカー的なものと、情動対的/パラディグム的/ウェルニッケ的なものとがある。
20050528 ベランダの蒲団指す顔 のぞきこむ
子ども療育センターへ。学童保育の観察。やはり散歩の場面はおもしろいと思う。環境が会話にどのように引用されるかがあざやかに分かる。乳母車を押す者も押される者も前を見ている。が、お互いの表情は分からない。分からないが、声と姿勢の変化である程度のことは伝わる。押す者が押される者をのぞきこむのはいつで、それはどのようなときに起こるか。このおもしろさにはまだ名前がない。
20050527 陽は高く羊求める乳母車
一昨日のテイ・トウワのサウンドストリートで、宇川直宏氏が盛んに「アーカイヴ感」ということを言ってておもしろかった。確かにあるまとまったものをメガミックスすると、その元ネタが持っている肌理のようなものが前に浮き出てくることがある。
で、我田引水もいいところなのだが、一昨日発掘したCD-Rに入っていたテキストの中に、1994年に作ったカットアップがいくつか入っていて、これがなんだか「アーカイヴ感」を感じさせるものなので、この機会に公開しておこう。Trans_Beats。NIFTY-Serveの音楽フォーラムの記事をカットアップしたもので、当時のBBSで行なわれていたポップスの語り方のようなものが奇妙に輪郭化されている、といったら言い過ぎ? では、そのtrans_beatsから一曲、「在庫ルンバ」をお聴き下さい。
在庫 / ルンバ / 在庫 / ルンバ / 在庫 / ルンバ / らーららららー
/ 在庫 / ルンバ / 在庫 / ルンバ / 在庫 / ルンバ / らーららららー
/ ドンカマにあわせてノッている / 再び悲しい憤り / 聞けば聴こえている音でも / ノッている自分がドンカマ /
竹下先生主催の「インファン・クラブ」に。今日は一歳児のおかあさんとお子さんの会。赤ちゃんだらけのフロアで、人様の赤ちゃんに話しかけたり、こちらを触るにまかせたりしながら、二時間くらい過ごすと、世界がとてもゆるやかになり、こんなぼくにも、誰かに誰かを預けることの信頼が残存する。一人の赤ちゃんがさかんにそでを触り始めた。GbMのシャツを着ていたのだが、そのタグが気に入ったらしく、表を裏をひっくり返してよだれを垂らす。「この子、タグが好きなんですよー」とお母さん。GbMのタグをこんなに子細に眺める人は初めてだ。
ムーンライダーズの魅力は斉唱にあると思う。「スカンピン」「くれない埠頭」「Y.B.J.」、斉唱が印象的な曲は、たいてい好きになる。
一斉に唄っているものの、歌詞の内容はたいていひとりぼっちだ。彼らは同じ歌を唱えることで、同じ月のしるしを帯び始める。夏の終わりが照らし出される。月下の一群は、何もないことを目撃する「団」となる。
(続きはユリイカ6月号にて)
読者としてぐっときたのは、香山リカ、吉田アミ、そして松田洋子のマンガ。あ、全部女性じゃないか。なんで? たぶん、ブンガクに言い訳をしてないからだろうと思う。吉田アミの文章は、引用部分のみならず、どこも大島弓子の吹き出しから出てきたみたいに、いたい棘といたくない棘でできてる。
特集を一通り読み終わり、風呂に入って気がついたら「そういうわけさマーマーン」って唄ってた。あ、また安田さんにやられた。
朝から晩までよく働いた。へとへとになって部屋で「コラテラル」。夜だ、夜だなあ。ひたすら夜のタクシー内シーンが続き、ロサンジェルスでタクシーの、あの、行くあてのなさぐあいが思い出される。そんなアホな、という設定が随所に見られるが、これは緻密なストーリーに裏打ちされたスナイパー映画というよりも、犬と鹿とタクシーとメトロと夜の、都市伝説映画なのだ。そして都市伝説でありながら、空気の確かさがすばらしい。
コラテラルは、ロサンジェルスのご当地映画でもある。ぼくは、前半に出てくるロサンジェルス東部や南部のほうは行ったことはないのだけれど、にもかかわらず、妙な既視感がある。特定のロケーションというよりは、人気のない夜のロサンジェルスの感じがうまく出ていて、数ヶ月前の気分が水を得たスポンジのように蘇ってきた。
で、ご当地映画となれば、あのシーンはあのへんかな、などと考える人はやはりいるもので、Collateral Filming locationsを見ると、ロケーションのモザイクぶりがよくわかる。ロサンジェルスに滞在経験があると楽しめるかも。
卒論生の卒論ネタ候補ということで、ラーメンズのDVDを見る。見たのは「日本語学校-アメリカン-」。非常に緻密に構成されていて、一行一行に工夫がある。最初の二十秒ほど、「タナカカクエイ」「タナカカクエイ」がなぜおもしろいかについて、セリフと間とジェスチャーに触れながら考える。おもしろいのはもちろんなのだが、敢えて言えば、ここまで作り込まれていると、どう解析してもラーメンズの手の中という感じで、分析する側のヨロコビがやや希薄である。
ばるぼら「教科書に載らないニッポンのインターネットの歴史教科書」(翔泳社)。ぼくが熱心にあちこちのサイトを見ていたのは1995-96年くらいなのだが、その頃に見ていて目についたものはほとんど網羅されており、なんというか、10年前の空気を嗅ぐような再現ぶりだった。
で、いちおう自分のとこも載ってるかなと思って見ると、ちゃんと載ってた(p50)。「Textmedia」ということで取り上げられていたのだが、じつは自分で発信していながらすっかり忘れており、サイトからもファイルがなくなっている状態だった。昔のCD-Rを引っかき回したら出てきたので再掲しておこう(>Textmedia)。
インターネットのみならず、パソコン通信、雑誌の話もかなり充実しており、こちらは割と覚えている話が載っているはずなのだが、それでも、「Mac Power Bros」と「Guru」って同じ頃だったのか、などと朦朧と思い出す始末で、ずいぶん忘れていることが多い。とにかくいろいろ思い出させてくれてありがとう、と言いたい本。もちろん知らない話もたくさん載ってて、ちょっとずつ勉強させていただいている。
思い出しついでに、本棚の隅から1996年のCape-X(3,4月号)という雑誌が出てきたのでちょっとその内容をメモっておこう。特集は「テキストBBS」。当時、WWWに対抗して、First Class環境を使ったBBSが盛んで、その可能性を探る内容になっている。
First Classのブームは長くはなかったけど、いろいろおもしろいつながりが生まれた。ぼくは当時、ICCでヲノサトル氏がやってた「贋札作戦」というところに顔を出したり、神戸のXebec周辺でやってたCommuテレプレゼンスに足繁く通っていた。赤松さんや佐近田さんや三輪さんとはこの辺で知り合った。
ちなみにこの号に載ってる他の記事は、「ハル」「サイバーキッチン・ミュージック」「トイ・ストーリー」などなど。1996年ってそういう時代だったのね。でも、いちばん驚いたのは「タナカカツキロングインタヴュー」が載ってたことだ。当時はまったく気づかなかったけど、いま読むと、なんと、インタヴュー文体がほとんどデジオなのである。
で、そこにぼくが書いた「テクストBBSの可能性」なる文章があるので、再掲しておこう。First ClassにもWWWにもちっとも触れていないけど、「テキストサイト誕生前夜」な感じは出てると思う。ていうか、なんかちっとも成長してないな、わし。
テクストBBSの可能性
−構成されるできごと、できごとの不在−
さてBBSですがそれにしてもインターネット。「パソコン通信とかBBSっておたくの世界なんじゃ?」と思ってた人たちが昨年(1995)のブームで「これからはインターネットだよな」なんて調子いいこと考えてたりする今日この頃ですが、もちろん、いまや大手BBSのほとんどはインターネットにつながってるわけで、BBSVSインターネットって構図は単純に過ぎるという点はおさえておきたい。
それにかわって、テクスト志向VSAV志向、というこれまた単純な構図を出しておきます。つまり、BBSにもFirstClassやオリジナルGUIを用いたAudio-Visualな場もあるし、逆にインターネット上にもメーリングリストやニュースグループのようなテクスト志向の場があるわけだから、BBSかインターネットかではなく、むしろテクストを重視するかAVの多い場を好むかによって、アクセスする場も変わってくるだろうと思います。
で、テクスト志向なぼくとしてはまず、世間にありそうな誤解を解いておきたい。それは「テクストの世界より、AV付きの世界の方がなんとなくエライ」っていう誤解です。なんだかあまりに「ことばじゃわかりあえない」と思いたがってる人が多いんじゃないでしょうか。そのわりに、WWWなんかで絵とか音が出るといっきょにわかった気になったりする。ほんとにそうか?
ことばの内容以外のコミュニケーション、つまりノンバーバル(非言語)コミュニケーションが重要なのはもちろんです。でも、それは「ことばよりも、ことば以外が大事」とか「テクストよりしぐさ」といった単純な話ではない。
1970年にバートウィステルという人が、対話の65%はことば以外の手段によって伝わる、ってことを書いてまして、この話がことば以外の重要性を示す話としてあちこちに流布してます。けどこの65%ってのは、ケース・ケースで、いつもあてはまる話でもないんです。
たとえばバートウィステル以降、いろんな研究者が、表情や声などいろんな情報を使って、ひとはどれだけ他人の感情をつかむことができるかって研究をしてます。その結果わかってきたのは、まず、ノンバーバルコミュニケーションはけっこう冗長だということです。顔や声やしぐさをそれぞればらばらの情報にして、どれかひとつを与えても、けっこうわかっちゃう。ノンバーバルコミュニケーションはお互いに関連が高い、逆にいえばけっこう無駄が多い。
いや、たとえ無駄が多くても、ことばよりは優れてるだろう、と思われるかもしれない。けど、そうとは限らない。チェイクンとイーグリーって人がおもしろい実験をしてます。同じ内容の話を、テクストだけで読む場合とビデオを見る場合で比べてるんですけれども、話が難しいか易しいかによって結果は変わるんです。易しい話だとビデオの方が理解度もおもしろさも上がるんですが、いっぽう、難しい話の場合は逆で、テクストの方がいい結果がでるんです。
つまり、とにかくいつでも映像や音楽をぶち込みゃいいってもんじゃない。伝えたい感情や内容に応じて重要な言語/非言語コミュニケーションはなにかってのは変わるっていうことなんです。
あと、テクストオンリーのBBSの言語コミュニケーションで重要なのは時間構造。ひらたく言えばタイミングです。テクストって言っちゃうと印刷されたものみたいに思いがちだけど、同じテクストでも時間構造のあるなしでずいぶん違う。
たとえばチャットをやってるとき、相手の発言のタイミングから「この答えの遅れようはなにか気に食わなかったのか?」「だれかとSENDでもしてるのか?」「ネットが混んでるのか?」「単に飯食いながら話してるのか?」と状況に応じてあれこれと推測したりします。チャット慣れした人の打ち込みを後ろで見てると、文字列打ちおわったのに、最後のリターンキー押さずにタメてたりします。間合いをはかってるんですね、名人ですね。
あるいは、「きのうかくかくしかじか・・・」と一行でかくところを「きのう」とばーんと書いて、「なになに?」「え?」と反応を待ってからおもむろに「かくかくしかじか」と切り出すとかね。
チャットだけじゃなく会議室などの発言にも、表示のタイミングをめぐるノンバーバルな工夫があります。どれくらい頻繁にどのくらいの量の発言を出すかとか。誰にコメントリンクを張るかとか。1200bpsとか2400bps(ぼくはいまだに使ってます)の牧歌的なスピードのモデムを前提にした話ですけれども、自動スクロールで読むってことを考慮に入れたテキストもありますね。波形に整形してあったり、空白行を適当な間で挿入したり。
テクストをめぐる知恵ってのは、使用環境の進化とともに古くなっていくんでしょうけれども、こういう知恵を単なる過去の遺物としてとらえるんじゃなくて、ヒトはどういう環境においてどういうことを工夫しちゃうのかっていう事例として考えていくべきだろうと思います。BBSにはインターフェース論の材料がいっぱい転がってます。
「AV付きの方がエライ」と同種の誤解にオフライン信仰ってのもあります。とにかくオフ会をして実際に会わないと人はわからない、会議室とかは仮の姿だっていう。これもおかしい。
まず、対面以外の場を現実と認めないってのは考えが狭い。いま電話のことを「仮想現実」だって言う人なんていないでしょ。テクストが成熟してくればオンラインが「仮」なんて発想はだんだんなくなるでしょうね。
もちろん、テクストから得られる人物像と実際に会ったときの人物がまるで違うってことはあります。でもそれはなにも、テクストが仮の姿で対面してるときが本物だ、ってことじゃない。テクストにせよ対面にせよ、いくつかの手掛かりによって構成された現実なわけです。オフで感じる「え?この人ってこんな人だったの?」ってのは、オンラインとオフライン、二つの現実のギャップに過ぎないんですね。どちらが正しいかではなくて、それぞれから自分がどんな手掛かりを得て相手をどう推し量ってるのかを問題にする必要がある。その意味ではだれもかれもがインターフェース論者になってしまう時代なわけです、いまは。
話はぐっと変わっちゃうんですが、BBSのテクストって、なんか写真みたいだなと思います。すごく生々しいのに、どこか死の匂いがする。世界へのアクセス速度がどんどん速くなって、書き手が書いてから読み手が読むまでのタイムラグが縮まれば縮まるほど、書かれてしまったということはもうとりかえしがつかないんだってのがよりはっきりする。そんな感じがしてます。
どうもネットワークっていうとすぐ「わかりあう」だったり「情報を得る」だったりするんですが、そういうのとはじつは別のこと、たとえばテクストにきちんと死の匂いをかぎとれるかどうかってあたりにBBSの可能性はひそんでるように思います。
またまた話をあさってに振りますが、最近電車に乗ることが多くて、そのたびにノートパソコン持って文章打ち込んでるんです。わざと手元見ないで、窓の外と見ながらブラインドタッチで打ったりするんですけど、これがおもしろくてね。じつは今もやってるんですけど。
これまで、書くということは読むということでもあったんです。書きながら、じつは自分の字を読んでいた。ところがブラインドタッチってのは書くことを読むことから解放しました。たとえばいま窓の外の田んぼの広がりとかみてますでしょう。ぼくは手元見ないでその田んぼを見て、「田んぼのひろがり」って書く。そりゃ田んぼがあるんだけど、「田んぼ」でいいのか? もっとちがうことばがあるんじゃないか? てなことを考える間もなくもう田んぼは彼方に去っている。自分の頭にことばが浮かんだとたん、ことばはできごととずれてしまっている、しかもできごとは目の前からどんどん失われている。そういう経験なわけです、車窓を見ながら書くというのは。で一気に書いて読み返すと、自分の中で書き手と読者がきれいに分離するんです。そこに書かれてるのは、あんなことがあったこんなことがあったってことじゃなくて、あんなことを書こうとしたこんなことを書こうとしたって痕だってことを発見する。読むということは、単に書いたときの追体験じゃなくて、書くという行為の痕跡をたどる経験だってことがよくわかる。
今後テクストがよりワールドワイドになって、即時性が強調されるほど、書こうとして書かれなかったできごとの不在感は強まるんじゃないでしょうか。不在感、というのをかけがえのなさ、と言い換えてもいい。これはBBSに限らず、ことばを発していくときの根本的な問題ですけれども、テクストBBSが本当にぼくたちの生活に欠かせないものとなったとき、問題はよりクリアになると思います。
95.12 (初出:Cape-X 1996 Mar, April)
原稿を書くも沈没。
先週金曜日のここから研は、模倣二題だった。
実藤和佳子さんの「乳児が示す乳児への選好」と河野直子さんの「認知機能低下と摸倣の障害‐軽度DAT群と健常高齢者の無意味身振りの模倣能力差」。これは、とてもおもしろい組み合わせで、ふだんの時間をはるかに過ぎ、研究会は三時間に渡った。
わたしのやることを真似て下さい、と言われたとき、人は何から何まで相手を真似るわけではない。たとえば、相手の手が特定のポーズをとると、手が焦点化されるが、顔の表情は注意からはずれやすい。
河野さんがお年寄りと真似のし合いをすると、課題によっては不正確な真似が生じるという。たとえば、右手の先を左手の肘につけるようなポーズを示すと、両手の角度はあっているのだが、手の先と肘が離れてしまったりする。この場合は、いわば、両手の角度が焦点化されているのだが、トポロジカルな関係(手の接触)が見逃されているということになる。あるいは、両手をそろえて前に出す課題では、両手は出るのだが、左右で高さが違ってしまう人がいる。この場合は、両手の前後関係は焦点化されているのだが、左右の高さが焦点化されていないことになる。
わたしたちは、簡単な手の形を真似るとき、深く考えずに両手をほぼ同時に動かして一発で実現する。ところが、できない人の中には、形の要素をひとつひとつ真似ていく場合があるらしい。
となると、アルツハイマー性の障害で問題となるのは、単なる記憶障害というよりも、注意の焦点化と行動の構成をめぐる問題なのかもしれない。
こう考えていくと、注意の焦点化の狭さは、ネガティブなイメージしかもたらさない。もちろん、アルツハイマー患者の人たちのじっさいの経験がいつもポジティブなものだとは想像しにくいが、あえて、以下のイメージと接続しておこう。
シネクドキと旅
注意の焦点が特定のできごとに当たると、それが旅になる。それが旅になると、できごとに連なるさまざまなほかのできごとが芋づる式に旅としてつながってくる。つまり、シネクドキ(提喩)とは、部分が部分以上のものを名づけ、名づけが他の部分を浮上させる運動であり、この往復によって、名づけられたものが形を変えながら濃くなっていくという過程である。
後の食事中でもずっと発表の話が続いたのだが、そこで明和さんに聞いたMeltzoffの実験の話。乳幼児にイボイボのついたおもちゃを見えないようにくわえさせてから、あとで、いろんなおもちゃを見せると、イボイボのついたおもちゃで選好性が出るのだという。つまり、視覚的な現象と口内の触覚世界とは、なんらかの形で対応しているということになる。これはまさしく、「口内世界は世界のコピーである」というぼくの妄言とぴったり一致する話でおもしろかった。
20050522 石垣に檄文 上に喫茶あり
京都へ。The Road not Taken '05の行なわれている会場のひとつ、ギャラリーそわかへ。いきなりウィンドウの内側に、カバーをかけられた三台の車が搬入されていて驚く。どうやって入れたのか・・・と思ったらこれが岩井優作品(あとは行ってからのお楽しみ)。
そこから奥にいく壁には森山晶の絵。一面黒の中に青や赤のほのかな点が散らばっている。おもしろいことに、片目をつぶってじっと見ていると、次第に小さな点は黒の領域に覆われて見えなくなる。少し目を動かすとまた現われる。ぼくは視覚心理学には多少通じているので、これが視覚における補完による現象だというのは知っているのだが、この星の消失のような奇妙な感覚は何度も繰り返したくなる。
奥の部屋には上村豊作品。鳥居のフロッタージュのパースの歪みが、ちょっととっちらかった感じを漂わせる。色を切り取ったプランのようなドローイングが楽しい。
さて、ここ、そわかでは二階と地下にやられた。
二階の倉本麻弓作品は、手に乗るほどの34個の箱の中に彼女の夢を記述したもの。最初、部屋に入ったときには華奢な箱に手作りの箱庭が収められている風情で、なんだか夏休みの工作みたいに見えたのだが、子細に見ていくと、これはとんでもない世界だった。
いわゆる美しい夢とは違って、むしろつげ義春のマンガにも通じるような夢見が表われているのだが、とくに驚きなのは、彼女は夢で、ある種の土地をさまよっているらしく、夜ごとの夢の場面ひとつひとつが、その土地の上にマッピングされているのだ。確かに、夢によく現われる土地というのはあるし、おきまりのパターンというのもあるが、ここまで各場面がマッピングされているのは珍しい。
ひとつひとつの箱はひとつの夢を表わしている。箱の蓋は開けられて、裏返しに並べられている。つまり、箱の中味と箱の天井とが接していることになる。天井には、空色に雲が描かれているものもあれば、暗色に塗りつぶされているものもある。どんな色で塗られているにせよ、蓋を閉じてしまえばそこは真っ暗になるはずだが、不思議と、空色なら空色が保たれたまま閉じられるところを想像してしまう。ならば、この夢の光源はどこにあるのだろう。
34個の箱は、1番から番号順に並んでおり、横にはおよそ100文字程度に書かれている。夢の記述だから、その視点は固定されているようでもあり、同時に何カ所にもあるようでもあり、時間に沿って動くようでもある。箱を見下ろすことで、全体を見通すこともできるし、小さなヒトガタに仮託して、箱の中をあちこち動き回ることもできる。窓や戸口なのだろうか、壁に小さな切り込みの入った箱もあり、外側からそこに光が差し込んでいたりする。箱の高さにしゃがんで、その切り込みから中を覗き込むこともできる。
いくつかの夢は互いに時空が連続しており、さきほど入ったういろう屋がまた現われたり、風呂屋でうろうろしているあいだに次の夢で湯船を見つけたりする。そうやってヒトガタ世界を巡っていくと、なんだかひとまとまりの旅でもしたような気分になるから不思議だ。
作者は小さい頃から、このように小さな箱に夢を表わし続けてきたらしいのだが、ひとつひとつの箱の喚起力がすばらしく、どこまでも飽きさせない。これは恐るべき物語力だと思う。
地下は山本基による塩の迷路。これは美しかった。迷路と塩の境界域あたりを見つめていると、白い砂塵がもやっているように見える。そこから向こうには塩の丘、塩の岩。明らかに鉱物とは異なる透明感とこわれやすさを感じさせる。そしてこんなに透明でありながら、やはりそれは塩なのだから、湿度を招くのだろうなとも思う。それが証拠に、目の前に描かれた塩の迷路は、砂のような乾いた質感とは異なり、空気中の水分をつかまえて固化しそうな、親水性を漂わせている。
これから触手をさらにのばそうとするかのように手前で途切れている出入口をきっかけに、しばらく細かな迷路を目で追ってみたが、中に行くほどに、こちらの呼気を薄くするような緊迫感を感じてしまい、途中であきらめてしまった。
京都造形大学の春秋座で高田和子 Sangen Space No.4「帰ってきた<糸>」。
高田和子の弾き語りで始まる。弦を弾いたあとにさっと指で触ってこだまを出すところにしびれる。唯是震一「遠野」二曲目の「おっとーん」で「ん」を独立させる発音。
「ユーラシアン・タンゴ」は、タイトルがすでに世界を一周している曲。弦楽器の歴史を交錯し直すような既聴感。「箏と打楽器の練習曲No.1」では、箏のアクロバティックな演奏が見もので、両手に爪をつけてしかも縦方向から弾くという珍しい奏法も披露された。ハープを硬質にしたような絢爛たる響き。
この日の演奏でおもしろかったのは高橋悠治「すががきくずし」で、三弦と太棹の音色の差を用いながら、旋律がばらばらとこぼれながら、それぞれの線に凝ろうとするその動きは目が離せない。同じ風によって異なる種子が蒔かれていくような感じ。
三輪眞弘「占卓と邦楽器のための愛の占い”タアヘルムジク”」は打楽器奏者の進めていく駒によって演奏する音程が決まっていくという「逆シミュレーション音楽」。ただ、彼のいつもの「方法音楽」と異なるのは、役割に非対称性があること。方法音楽では、通常、ルールを実行することがそのまま音楽になっているのだが、この「占卓と・・・」では、まず、打楽器奏者がルールを実行して音楽化するとともに、駒の並びという譜面を作り、その譜面に従って他の奏者が音を出す。だから、打楽器奏者は方法にぴったり寄り添っているれども、他の奏者には譜面を見て演奏するという余裕が生じる。
そして、結果的には、このおかげで、演奏には従来の方法音楽にはない朗らかさというか、ゆとりが感じられた。演奏家たちが、お互いの撥音に微妙なずれを持ち込む訓練を積んでいるせいもあるのだろうが、ひとつひとつの音の表情が、微妙にずれながら心地よい粒だちで聞こえてくる。
途中、とつぜん「わたしはうたう。わたしはうたうためにうたう・・・(文言は記憶に基づくので曖昧)」という、まるで昼の連続テレビ小説のような独白が入って、椅子からずり落ちそうになった。これがただ一回語られる声だったら、たぶん、いわずもがなの唾棄すべき言語化に聞こえたことだろう。が、この声もまた、駒の進行に従って定期的に鳴らされ、そのせいで、コンセプトの言語化というよりは、演奏としてのことばへと質的に変化していく。
ナボコフの「Pale fire」の中の詩編に基づく武智由香「黄連雀」。この詩は、見る者があたかも窓ガラスに、外界を透かしながら自室の反映を見るように、世界が二重写しにされている。そして、私は、ガラスにくっついた柔毛を見ながら、世界の境界であるガラスになっていく。外界と反映は、雪によって次第にその重なりぐあいを変えていくのだが、その時間のうつりゆきが三弦の撥音と笙の持続音によって構成されていくように聞こえる。高田さんの声は、文章に柔毛の跡のような(促音のような)ひっかかりを与えて、見る者の仮託する先を指し示す。
私は窓枠の中の偽りの青空に殺された
一羽の黄連雀の影だった
私はちょっぴり(ガラスに)くっついたその灰色の柔毛(にこげ)の跡だった
それから私は
反映の空の中を生き続け、飛び続けていった。
そうして由紀が降り出して
芝生を覆ってゆき、だんだん積もって
椅子やベッドが向こう側のそのクリスタルの国の
雪の上に、ぴたりと決まって収まったときの何という楽しさ
(ナボコフ「黄連雀」)
最後は斉藤徹「Ombak Hitam」で、波のような<糸>の合奏。 変則的な編成とは思えない、多彩な音色の演奏会だった。
原稿。
今日の「きらきらアフロ」でも、松嶋の「時空間ルーペ」が出た。
今日のエピソードはけっこう複雑で、これまた松嶋の得意技である「後日譚による思いがけない展開」だったので、詳しい説明は略す。
問題の箇所は、「見たことはあるのだがしかとは思い出せない人」とすれ違ったときの描写。ここで、松嶋はすれ違う様をいったん図解的に示しつつ、しかもすれ違いざまの相手の表情や声を真似る(手で鳥瞰的に世界を表わしながら、声と顔は物語の中を拡大するというマルチモーダルな表現!)。そして、そこから時間を逆戻しにして、今度はすれ違ってもしかとは思い出せない自分の表情を演じる。
事件が現われるその衝撃を最後まで隠しながら、しかも状況をわかりやすく話すには、何をどこで明らかにするか、その順序とタイミングがとても重要になる。日常生活において、ぼんやりしているところにハッと事件が現われる、というのはおそらく松嶋尚美の天性の才能なのだろう。しかし、それをトークとして再現するにあたって、彼女はものすごく説明の組立てを考えているに違いない。
20050519 曇天の雲明らかな田に下りる
今日も朝からゼミで「きらきらアフロ」を見る。これまで、もっぱら松嶋中心のトークを見てきたのだが、今日は逆に、鶴瓶中心のトークの回を集中して見る。
鶴瓶のトークの多くは、松嶋の合いの手なしで成立している(といっても、松嶋は別の意味でかかわっているのだがこれについてはまたいずれ)。とくに注目すべきは人物の交替。落語では上下をつけることによって人物の区別をつけていくことが多いが、鶴瓶はこれ以外に、正面を向いたまま瞬時に人物を変える技をいくつか持っていて、これがすごいのだ。
「東京駅のホームでやくざ風の男にすごまれた話」というのがある。やくざ風の男の肩にスタッフが当たってしまい、一同が男にすごまれるのだが、男が相手の中に鶴瓶を見つけた途端「なんや、あんたかいな〜、あんたやったらええねや」と急に柔和な態度になるという話だ。
この、やくざの顔が豹変する場面で、語り手である鶴瓶の顔には完全にやくざ風男が憑依し、その口は完全に逆「への字」になる。この表情だけで客席から笑いが起こる。
さて、そこからだ。このやくざ風男の逆への字顔から、あっけにとられた鶴瓶の顔に戻るのだが、鶴瓶はただ二つの表情を瞬時に入れ替えるのではない。
「ぶるるるるるる」と顔を振るのである。
男から鶴瓶になるとき、鶴瓶はものすごい速さで首を振る。
現実には、われわれは驚いたからといって「ぶるるるるる」と顔を振ったりしない。この「ぶるるるる」は日常描写ではなく、表情から表情への変化を表わす、いわばメタ表情なのである。あえて似ているものを挙げるとすれば、マジシャンや形態模写の人がある物からを別の物へと変化させるときにやる、物を覆う手つきがそれにあたるだろうか。
この「ぶるるるるる」によって、ぼくは、やくざ男の憑依から覚めた鶴瓶を見る。憑依の夢がぶるるるるると揺さぶられ、揺さぶられたあとにぴたりと鶴瓶の表情が現われる。あたかも、スロットがいきなり回り出して、チェリーが三つ並んだ風情だ。そして、ぼくは、なんだかよい初夢を見たあとのようなおめでたさを感じるのである。
を、DVDで見る。これは掛け値なしによかった。男優に引き込まれるということは滅多にないのだが、大島弓子のマンガに現われそうな好青年、妻夫木聡の横顔と首筋に、まるで見る側にハタチ前後の乙女が憑依したように引き込まれてしまう。池脇千鶴の、ベテラン新屋英子と渡り合うようなくすんだ表情とその関西弁もすばらしい。まだ十代半ばの上野樹里の大人びた演技にも目を見張る。
関東とも関西ともつかぬ、荒川とも淀川ともつかぬ、しかしなぜか京阪沿線を思わせるダウンタウン。派手な看板がごちゃごちゃと並び、郷愁をずたずたにしていく国道沿い。ずたずたさという郷愁。なぜか三才まで住んでいた尼崎を思い出したしたりした。三才の思い出は、明確な絵を伴わず、ただ階段を上っていく感じ、車道を渡っていく感じ、隣のおばさんに怒られる感じが、境界のあやふやな大気のカタマリのように立ち上がってくる。
20050518 霧淡く鷺を脅かす夜半の明
学生が卒論の相談に来る。いろいろ興味があるようで「アフォーダンス」「POP広告」「お笑い」と守備範囲が広い。ただ、どれについてもまだ、経験に基づいたことばで語るに至っていない。
ま、それは経験をすれば(つまりフィールドに出たりデータに時間をかけて接すれば)いいわけで、それより「きらきらアフロ」でも見ようと、以前見た「タイで松嶋尚美が番傘をふっかけられた話」を見る。
この話については先週たっぷり一時間かけて議論したので、もうほぼ要点は出尽くしたと思っていたが、見直してみると、新発見があった。
松嶋尚美は、安い店を通り過ぎるところを描写するときに、いったん「別の店があってんやん」と図解的視点を取り、そのあといったんわざわざ体をバックさせて、もう一度、そこを通り過ぎるところを物語内視点でやり直すのだ。もし、このバックがなければ、両手ですでにその店の位置を横に表わしているので(すでに通り過ぎようとしているので)、「通り過ぎる」ジェスチャーが難しくなる。が、バックすれば、ふたたび店の少し手前の地点まで時間を巻き戻すことができる。その結果、ふんふんふーんと買い物気分で「通り過ぎ」ようとして安値に目を奪われるという表情変化をつける余裕がでる。
つまり、いったん手短かに鳥瞰的に説明した時空間を、いちどバックして、時間も空間も拡大して、もう一度再生するのである。時空間ルーペ! おそらく、こういうの、計算ずくではなく身体反応でやってるんだろうなあ。松嶋恐るべし。
午後、講義のあと光文社新書の編集の方とお会いする。遅筆ゆえ、確約というわけにはいかなかったが、お話しするうちに、なにやらいろいろとあやしく書きうることが蠢いてくるので、もしかしたらものになるかもしれない。
新書をどさっとお土産にいただく。擬音語・擬態語本「犬は『びよ』と鳴いていた」(山口仲美)。擬音・擬態語は時代に応じてうつろいやすいと考えられがちだが、今昔物語に現われる語は半分以上、さほど形を変えずに現在まで残っているという。この母音と子音の安定性は、最近考えている母音子音問題を考えるうえでおおいに励みになる。
前から読みたかった「現代思想のパフォーマンス」(難波江和英・内田樹)もいただく。これはちょっと気合いを入れて読まねば。
20050517 クローバーの匂い抜け来し講義棟
会議に実習。夜、学部の懇親会。なぜかカラオケもないのにかわりばんこに参加者が唄う(もちろんイントロは各自唄う)という見たことのない展開に。そのあと、今度はカラオケのある部屋に移動したが、ユーミンしか唄わなかった。
朝イチで谷町のホテルに戻り、すぐに大学へ。琵琶湖線で最前列に乗ったのだが、スピードが上がると何人かの乗客が中腰になり運転席のほうを覗きやる。
寝不足で、講義のテンションがヘンになった。こういう変調はすぐに学生に伝わってしまう。
20050515 茹で過ぎしそらまめ剥けば寝息かな
昨日に引き続き大阪。とはいえ、朝からずっと引きこもって原稿。
夜、ブリッジへ。POPO、Brazil、カリフォルニアドールズという豪華メンバーによるライブ。
POPOはトランペット二本とオルガンという変わった編成のユニット。これが予想外によかった。ときおりスチュアート・モーハムを思わせる、ラインのはっきりしたハモンドオルガンの音がすばらしく、メロディもよかった。ラッパ二つの訥々とした演奏も、いかにも「ぴこぴこ」ではなく「ぽぽ」にふさわしい響き。よけいなもののない音楽。
CDですでにその実力に期待していたBrazil。新曲でいきなり西崎さんが「歌手さん〜唄いすぎですよ」と歌い始め、大いに脱臼させられる。「大工さん」とか「板前さん」というのは聞いたことがあるが「歌手さん」というのは聞いたことがない。もちろん、「歌手」も職業名である以上「さん」を付けてもよい理屈ではある。理屈ではあるが、ふつう、誰もそんなことを思いつかん。伴奏はギター、ベースにアイリッシュドラムというこれまたヘンテコな編成なのだが、歌のボリュームと見合って、広々と抜けたよい演奏。ハットリはここぞとばかりきまじめ。Brazilには謹んで「心に響く妄言」というコピーをお送りしたい。
さて、ある意味でこの日の問題はカリフォルニア・ドールズだった。前二バンドがコントロールされたボリュームによって空間の抜けぐあいを聞かせる、ある意味「地味」な演奏だったのに対し、カリドルは、明らかに攻めのサウンド、攻めのルックス。若者がひしめくライブハウスであれば、この攻めぐあいこそ歓迎なのであり、そのほうが演じるほうも気合いが入ったに違いない。が、ここは、ただでもおっさん磁場の強い新世界、加えてわたしを筆頭にいささか隠居じみた空気を漂わせた場内は、その攻めっぷりにいささか戸惑い気味に感じられた。
CDでは二人のぶっ壊れた日本語が聞き所のひとつなのだが、この日の演奏では楽器の音が大きいせいでやや聞き取りにくく、「日本語」として聞くのが難しかった。言葉がわからない外国であれば、ヴォイス・パフォーマンスとして間違いなく受けると思う。が、日本語を理解する者としては、日本語からの偏差を「壊れっぷり」として聞き取りたいところだ。そこがちょっと惜しい感じ。もっとも、セッティングのボリューム調節次第で、まったく違う印象になるのではないかと思う。
聞けば、演奏前にアミちゃんはSPAワールドを攻め、和田さんは近所の銭湯を攻めていたという。新世界磁場との戦いはすでに進行中なのだ。おっさんの空気をねじ伏せる日も遠くないだろう。
打ち上げのあと、若人の情念うずまく東京ハイツにお邪魔する。むろん、帰れるはずもなし。
20050514 おつまみの匂いわけあう夕列車
じつはいままで読んでいなかった「残酷な神が支配する」後半を昨晩から一気に読了。これはすさまじい作品だった。これだけのテンションで長丁場の作品となると、作者の物語の生理が露骨に現われる。つまり、漫画家とマンガの関係が作品に色濃く現われる。イアンとジェルミの関係はそのまま漫画家とマンガの関係に重なり、読者とマンガの関係に重なる。中盤(PF版でいえば10巻あたり)の、キャラクタが一気に増えるあたりの躁状態を経て、終盤の中世イングランド巡りには、なんというか、ひさびさにマンガの時間(あるいは12月)を感じてしまった。
午後、近くの学童保育で二回目の見学。今回は二台ビデオを持っていった。
途中、AちゃんとRくんが車椅子で散歩に出るのにつきあったが、これはとてもおもしろい体験だった。車椅子を押して歩く速さはじつにゆったりしたもので、いつもの早歩きでは見えない、さまざまな住宅地のディティールに気づく。庭木のひとつひとつ、ベランダの干し物、表札、そこにときおり、一反ほどの小さな田んぼが現われる。散歩とは、歩きながら環境との関係をダイナミックに変えていく体験だ。学童たちの顔の向きはあちこちに動くし、それを見ながら、ボランティアの人たちもさまざまな「声かけ」を行なっていく。
二人の学童の視線の向きや反応の対象は、必ずしも声かけによって焦点化される注意の向きと一致しているとは限らない。が、ときおり、Aちゃんはぐぐっと上腕を伸ばして、声の指す方に伸び上がることがあるし、Rくんは、盛んに右手をぱんぱんと動かすことがある。たとえ、確かな当たりはずれが分からなくとも、とりあえず散歩によって目の前の風景は動いていくし、なにより天気がよくて汗ばむほどだ。Rくんは地蔵の前にくるとぱんぱんと手を合わせるし、Aちゃんはぐんぐんお茶を飲む。
おそらく、ボランティアスタッフの人たちが、学童といっしょに散歩空間・時間をどう構成していくかに注目すれば、おもしろい解析ができるのではないかと思う。
学童ともっとも関わるのは車椅子を押しているスタッフなのだが、いっぽうで、押す側にまわると学童の視線変化が追いにくいという問題がある。学童の所作や顔の向きの変化から、どうやってお互いの注意をナヴィゲートしていくかというあたりが、実践上は有用な解析になるかもしれない。
それにしても、参与観察には見所が多く、あっという間に三時間が過ぎた。
うめだ花月にて「ぜんじろうの世界」。ぜんじろうさんには、「テレビのツボ」や「屋台の目」の頃にお会いしたことがあるが、舞台を見るのは初めて。
いろいろみどころがあったのだが、個人的には、最初のピンの部分がとくにおもしろかった。セットは何もなく、空の舞台でトークが始まる。お客さんとよくメールでやりとりするんですよ、という話から、本番前に今日のお客さんの一人とずっとメールしていたという話。このあたりはまったくのトークという感じだけれど、客を話に巻き込んでいくイントロとしては格好の話題。
で、レンタル屋で借りた少林サッカーとターミネーター3の話題から軽い空想の話になり、そして、コンビニに向かう途中、いつもは通らない路地で目撃した覗き男の話になっていくところで、トークから芝居の様相を呈してくる。身軽な所作によって等身大の物語空間を切り分けていくのだが、舞台からいかに見えるかを周到に計算に入れたその身の動きには驚いた。この件に関しては、ラジオ 沼251回にて。
ネゴシックス,中山功太、ランディーズ、矢野兵動がゲストだったのだが、ネタをやるのかと思ったら全部ソファに腰を下ろしてのトークだった。若手は先輩に気を遣いながらのトークをしているさまが伝わってきて、もう少し前に出てもいいかも・・・と思わせたが、矢野兵動は、自分たちのトークの登場人物をぜんじろうさんに割り当てていくなど、舞台の動きがおもしろく、観客からの笑いもいちばん多かったように思う。
最後はアニメーションキャラクタ、ザビエルとの漫才。ビデオに録画されたキャラクタはあらかじめ決まった間で話すので、ツッコミの側が一方的に間を微調整しなければならない。それがうまくいってもいかなくても、どこか、「人間相手でないこと」の寒さ、一方的に間をとってやることの寒さが出る。たぶん、うまく間をとること自体よりも、その寒さとどうつきあって見せるか、のほうが重要なのだろうと思う。
ぼくが、陣内智則の芸を見ていていつも違和感を感じるのは、この寒さを、彼が見ないようにしているからなのだが、この日のぜんじろうさんの舞台には、どこか、寒さの影とつきあう風情が感じられた。なにか、融通のきかないビデオのキャラクタに気を遣ってやってる感じなのだ。
あとで伺うと、この日に使うビデオを家に忘れて、あわてて新幹線で取り寄せたとのこと。「相方を忘れる」って!
20050513 シャガ光る 月夜に背広 手ぶらかな
大谷能生さんから未発表の「鏡の国のデューク楽団」。1942年、デューク楽団の旅物語。大城のぼるの「汽車旅行」のように楽しく読み進めていくと、なんとこれが、死者がレコードに針を落として生者を蘇らせるという話なのだ。おもしろかった! これ読んでからデューク・エリントン聞くと、どの曲も冥界鉄道旅行に聞こえるよ。そしてレコードを聴いてるぼくは死んでいて、デューク楽団は生きているんだ。誰か単行本にしないかなー。みんなA列車で行こう。
20050512 雲いろの土手の銀輪抜き去れり
三回生ゼミは前回(風景化する鶴瓶)に引き続き「きらきらアフロ2003」の鑑賞。鑑賞とはいっても、5分ほどのやりとりを1時間くらいかけて検討していくもので、話の内容よりも、それを実現していく応答詞と所作に注目していく。これがじつに発見に充ち満ちている。
今日は、「松嶋尚美がタイで番傘の値段をふっかけられた話」というのを分析した。
話の前半では、松嶋尚美は観客のほうを向いて、TV収録で行ったタイのマーケットで番傘を買ったエピソードを語っている*1。ところが、よその店ではるかに安値で売っているのを観て、じつは値段をふっかけられたことに気づいた松嶋は、突然、「これは文句いわなあかん思て、スタッフに『ちょっとまっといて下さい』っていって・・・」といいながら鶴瓶の方へ向き、次に観客のほうに歩みだそうとする。
この、松嶋の身体動作によって物語は動き出す。
一般に二人の行なうトークでは、相方、観客という二つの視聴者がいる。で、エピソードを話すときに、どちらに対して身体を向けるかで、その後の話の展開は大きく変わる。
もし、単に観客相手にトークをするなら、『ちょっとまっといて』のところで、それまでと同様、観客に向かって呼びかければ済むところだ。しかし、ここで、あえて鶴瓶のほうに向き直り、「ちょっとまっといて」と言うことで、鶴瓶は突如「スタッフ」と化す。そして、観客席のほうに歩み出すことで、観客席方向がタイのマーケットと重なるのである。
ここでさらに見逃せないのは、鶴瓶が「ちょっとちょっと」とたしなめながら、観客のほうに歩み出している松嶋を止めるところだ。ここで鶴瓶は、トークの場(テーブルそば*2)を離れた相方をなだめると同時に、タイにいる松嶋を「(よその安い店の値段など)見んことにしといたらええねや」と、なだめているのだ。この鶴瓶の行動によって、鶴瓶と松嶋のトークは、タイにいるスタッフと松嶋のやりとりと重なり、トークの熱気がタイの熱気と重なってくる。じっさい観客の笑いは松嶋の『ちょっとまっといて下さい』っていって」の時点ではなく、鶴瓶が止めるところで起こる。
さらに見逃せないのは、松嶋が、今度は直接話法で「ちょっとまっといて!」と絶叫すること。ここでは、松嶋はナレーションを放棄し、直接鶴瓶に向かって叫んでいる。その結果、松嶋と鶴瓶は、トークの相方関係ではなく、タイ現地の松嶋とスタッフの関係へと憑依する。観客の笑いはこの二度目の「ちょっとまっといて!」でドカンと盛り上がる。
ここから松嶋はなおも前に出て「おっちゃんどこ?どこ?」と絶叫しながら、観客を見回す。これで観客席は完全にタイのマーケットと化してしまう。観客は、自分の横にいるかもしれない「おっちゃん」の気配を感じ出す。
そしてさらなる反転がくる。おっちゃん探索の渦中にいる松嶋は、とつぜん松嶋自身から、松嶋を呼び止めて「これはどう?」と爪を差し出すマニキュア塗りのおばちゃんへと変化するのである。
何度観てもこの「おばちゃん変化」には笑ってしまうのだが、それは、単に彼女の表情や手の出し方の滑稽さだけが原因ではないだろう。観客席のマーケット化というその前までの流れがあるからこそ、観客はそこに突如現われたマニキュア塗りのおばちゃんを「リアル」なものとして感じることができる。そして、そこまで松嶋によって探される側であった観客は、突如おばちゃんを観る松嶋の側に回らされ、虚を突かれるのである。
ほかにも、鶴瓶がいかに左手によって松嶋にキューを出しているか、松嶋が顔を鶴瓶に向けることでいかに合図を送っているかなど、みどころは満載。「きらきらアフロ」の分析だけで1年は過ごせそうだ。
*1 松嶋をいかにして止めるか
途中、「番傘」という語が出なくて松嶋は鶴瓶に視線を目を向ける。これを受けて鶴瓶は左手でツッコミを入れながら、それが油引きをした伝統的な「番傘」であることを教える。「松嶋にことばを教える」というのは、「アホの松嶋」を浮き上がらせるべく「きらきらアフロ」でしばしば用いられるやりとり。
じつは、鶴瓶は単に「教え」ているのではない。これは、放っておいたら間違ったことばづかいのままトークを進めていこうとする松嶋を、鶴瓶が「止める」というパフォーマンスなのである。「きらきらアフロ」は「鶴瓶はいかにして松嶋を止めるか」をめぐるトークであると言ってもよい。
鶴瓶が「ちょ、ちょっとまってください」と言い始めると、客は「次はどうやって松嶋を止めるのか」と期待を高めるのである。
*2 テーブル
舞台中央に置かれている透明なテーブルは「きらきらアフロ」では二人の定位置として重要な役割を果たしている。このテーブルがあることによって、二人の重心の移動や、そこから離れたときの「逸脱ぶり」はより鮮明になる。とくに双方が観客に向かって歩き出したときのダイナミックな感じに注意。
20050511 サボテンに薄日 午後の資料読む
自分の俳句の立ち位置を見直すべく子規を読み直す。子規には及びもつかない。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」は誰でも知ってる俳句だが、いっけんするだけなら、じつに簡単な要素から成り立っている。でたらめであれば「コーヒー飲めば薄日射すなり犬上川」「高楊枝波音聞こゆ彦根城」とか適当にいろいろ真似ることもできる。が、いざ自分の経験に沿いながら、食べる時間、時間を中断する鐘、鐘の鳴る時間を五七五で呼吸できるかというと、なかなかそうはいかない。
土日に大人買いしたCDを聞き呆然とする。
20050510 イタドリの茎巻き込みしペダル踏む
絵はがき原稿。昨日の筆談アンケートの結果を滑り込ませる。
午後、藤本さんと丸澤さんの研究計画を聞く。藤本さんが従来のチンパンジーの視線を用いたコミュニケーションをレヴューしていて、その中に「凝視」「覗き込み」という語があった。「凝視」は動かないことを意味するのだとして、「覗き込み」とはどのような現象だろうか、と想像をたくましくする。
こういうときは、「なぜ他の語ではなくこの語だったのだろう」と考えてみると、いろいろ分かる。
たとえば、なぜ「覗く」ではなく「覗き込む」だったか。
「覗く」と「覗き込む」の差は、視線ではなく身体動作にある。たとえば「窓を覗く」というときには、すでに身体は窓にシフトしており、そこから窓の向こうを観ている。いっぽう、「窓を覗き込む」というときには、身体がまだ窓に合っていない状態から、頭部を窓に当てに行くというプロセスが表わされている。よくヤンキーの整髪を表わすのに、櫛を頭にあてながら上半身をくねくねと鏡に向かって動かす所作が使われるが、あれなどは覗き込みだろう。
「覗く」にくらべて、「覗き込み」では焦点化のプロセスがより強調されている。まず、相手を見つけたあと、もっとよく観ようと枠内に顔を近づけていくときに覗き「込み」となる。覗く、だけでは「込み」のプロセスが弱い。
まとめると、「覗き込み」では「覗く」に比べて、身体と視線が協調しながら特定の場所(たとえば相手の目)を追尾している感じが出る、ということになる。おそらく観察者は、このような感触をひとことで「覗き込む」と表わしたのではないか。
20050509 箸袋の栞分厚き地下文庫
京都からの電車の中で、筆談について考える。隣の相手と筆談するとき、ぼくはわりとその筆談の紙を見るのを避けて、相手が差し出してきてから本格的に読んだ記憶がある。こんなことは会話では起こらない。相手の声が発せられる瞬間をみすみす逃して、あとからじっくり聴く、などということは録音機でも使わない限りありえない。いや、録音機を回していたとしても、相手の話に聞き入るのが普通だろう。
筆談のあの感じ、誰かが書いている最中をあまり見ないようにする感じは果たしてぼくだけの思いこみだろうか。
と思って、午後の講義で筆談についてアンケートをとってみる。こういうとき、いきなり「あなたは筆談のとき相手の紙を見ますか?」というようなアンケートをとるのはよくない。こういう無意識的に起こる現象について想起しようとすると、意識にのぼるときに自分の行動を常識で解釈しがちだからだ。
そこで、「話し言葉と書き言葉について、隣の人と『筆談』でディスカッションしてください」とお願いして、10分ほどやってもらう。すっかり筆談が終わったあとで、「さて、あなたは筆談で相手が書いている最中、どこを見ていましたか」と訊ねる。これなら、直前に自分のやっていたことだから、より確かに想起できる。
結果はとてもおもしろかった。最初は相手の紙を覗き込んでいる人がけっこういるのだが、筆談が佳境に入ってくると、どんどん紙から目をそらすようになってくるのだ。用事もないのに黒板を見ている人、別の手のあいた人と話している人、落書きをしている人・・・などなど。
話すことと書くこととの差は、えてして声と文字というメディアの違いとして語られやすい。しかしじつは、「ことばが発せられている現場を見ないこと」というのが、書くことにおいていちばんでかいのではないか。
という話を贈与論にまで結びつける。われながらおもしろい議論になったと思う。以下、次号のユリイカにて。
20050508 半袖が焚き火囲みし五月宵
午前中原稿。午後、西部講堂へ。あちこちでお久しぶり。安田夫妻にお薦めの映画を聞く。「ロサンジェルス行ったことあったらコラテラルいいですよー」「あ、観てない」「『カンフー・ハッスル』、今年はこれだけ観ておけばええっちゅうくらい」「あ、観てない」・・・てなぐあいで、ほんとーにぼくは映画観てないな。
それにしてもワッツタワーズには圧倒された。変拍子自在のバンド歌唱をカタパルトにして、途中、ヴォーカルとピアノの「ヒゲの未亡人」スタイルによって宇宙に飛び出し、再びバンド演奏に戻ってくるそのさまは、あたかも「唄うパワー・オブ・テン」。「吉田寮」や「メトロ」といったご当地ネタも盛り込みながら、単なる固有名詞の引用ではなく、寮の蒲団の匂いやライブハウス前の階段の冷たさまで想起させるアドリブの生理は、「京都在住バンド?」と問いたくなるヴィジョンの確かさ。そして、宮崎さんのメロディがまたいいんだよな。途中からは、ジョンも登場し、「ワン!」と正しく数を数える。怖くて愛らしい踊りの数々。このセットだけですでにして胸いっぱいだった。
幕間で岸野さんとちょっと立ち話したのだが、あの「ヒゲミボ」部分で、ピアノのみんとりさんは歌詞を聴きながらときどきアドリブで転調をしかけてくるんだそうだ。そして岸野さんのフレーズも、あらかじめ語彙は頭の中に詰まっているとはいえアドリブで組んでいくとのこと。つまり、恐るべき打々発止のやりとりの中で、あの、小唄というには長大すぎる世界が構築されていくわけで、このお二人の脳身体能力は、ほとんど想像を絶する。
次のセットはカヒミ・カリィ+ONJO。昨日と違って、減衰するビブラフォンではなく持続するサイン波が入り、ホーンセクションを増やした。大友さんはそのホーンの対面に座るという配置。浜田真理子が母音の人ならカヒミ・カリィは子音の人。声帯の震えによってボリュームを出すのではなく、口内で巻き起こるノイズで突き抜ける。フランス語の子音、とりわけ、j,r,shといった、持続可能な子音を多用することで、多人数のONJOと相対している。kのような、本来短い音ですら、舌が上口蓋の近くにとどまることで引き延ばされる。子音のスローモーション。
母音の響きはフィルタがかかったように遠ざかるいっぽうで、子音はクリアに客席まで届いてくる。近い、というよりは、遠くから手が伸びてくる、という感じなのだ。空間を唄えば空間の向こうから手が伸びてくる。時間を唄えば過去(それとも未来)から手が伸びてくる。
最後のセットはレイ・ハラカミ+高谷史郎。じつはレイ・ハラカミの音は初めて。演奏前にいちいち「いってきまーす」と声をかけるのが楽しい。その彼のいってしまった世界から届けられる音は、(ぼくはあまりシンセに詳しくないのであいまいな表現しかできないが)ぴこぴこというよりは、ぼっぼっというふくらみのある粒だちで構成されていて、好きな音空間だった。これは仕事中にも聞きたいなあ。高谷史郎の三連映像は、三つの画面に同じ映像をディレイで入れたり、横並びの同時映像を入れたりと、少ない動きでうまく時間感覚をずらしていくものでおもしろかった。
せっかく京都に来たのだが、仕事を片づけねば。終演後はおとなしく宿に戻って原稿モード。
20050507 スダジイのうすみどり萌ゆ路線バス
システムソフト電子辞典のTiger対応版が出ていた。助かった。
休日なれど早朝起床、琵琶湖博物館へ。環琵琶湖博物館実習。大学一年生というのは博粒感を鑑賞するには、ある意味いちばん不向きな年齢かもしれない。子供のように無邪気に「おさかなー」などとはしゃぐことができないし、かといって新鮮味を感じるにはスレ過ぎている。
しかし、これからどんどん楽しくなっていただきたい。もう見飽きたと思った魚の顔が、奇妙に生き物めいてくる。水族館のトンネルで10分立ちつくすことによって、水槽の壁を無きものとして感じることができる。ゴーグルもCGも使わない、リアリティを感じる力が、20才あたりからぐいぐい上がってくるのだ。たぶん、その会得の度合いには個人差があるだろうけれど、いつか、子供のときとは別の意味で、水面下の魚が泳いでいるのを見ることの「凄さ」がわかる日が来るだろう。と、思う。
京都へ。薄荷葉っぱ(オクノ修の「去年の夏」のカバーたのし)、トウヤマタケオ楽団と、ナイーヴで明るい演奏のあと、コンビニに走り、リポDで気合いを入れてから、ぐぐっと夜に傾斜。山本精一+羅針盤(大友良英ヴァージョン)。世界の果てにカミサマを置くノイズ。これは黒かった。前々から、ギターのつぶつぶエコーの音はなにゆえ都会的なのか疑問だったが、とつじょ、これは硬さに反射する音から空間を割り出そうとするのココロだと思いつく。彦根のだだっぴろい田圃で音を出しても、けしてこのような音は聞こえてこない。両側がコンクリートジャングルであればこそ、かつかつという音は反響して人気(ひとけ)のなさを増幅する。
この、音の構造によって、空間感覚が励起されるという感じは、じつは音楽を聴きながらスケープを構築していくときにとても重要になる。ところで、ぼくがこの、エコーによるコンクリート感覚をいちばん最初に味わったのは「ザ・ガードマン」のテーマだったように思う。あれにはギターの弦をこする音も入ってたんじゃなかったかな。
浜田真理子+大友良英NEW JAZZ SMALL ENSEMBLE SPECIAL。じつは浜田さんの歌を聴くのはCDも含めて今回が初めてだったのだが、一曲めの「Beyond」冒頭で一気に引き込まれた。いちばん最初の曲の出だしの音というのは、恐ろしいほどの緊張を強いるものだと思う。その「ゆこうよ」ということばの「ゆ」の音が、すさまじかったのだ。
日本語のYの音は、子音と母音の中間のような位置にある微妙な音で、なかでも「ゆ」はむずかしい。それは単純に舌を上から下に移動すれば出るのではない。じつは口の形も変えてやる必要がある。わずかに横に広げた「い」に近い口をすぼめながら「う」の形にしていく。つまり、「ゆ」の発音のし始めと、し終わりで、母音の響きは微妙に変化することになる。この過程で、舌をどんなタイミングでどの程度上から下に移動するか、舌と上口蓋の間にどれくらい空気を送り込むか、声帯をどのタイミングで鳴らし始めるかによって、「ゆ」の響きは激変する。空気を送りすぎれば空気の音が入ってしまうし、声帯の鳴りが遅れれば「ゆ」というよりは「ひゅ」に近くなる。かといって、空気を節約し過ぎたり声帯を鳴らしすぎると「いう」と響く。
歌謡曲では、「ゆ」の音の前に「い」に近い音を入れて「いゆ」と発音するやり方がよく用いられる。あらかじめ口をすぼめておけばよさそうなものだが「うゆ」と唄う人はいない。フランス語と違って、日本語には「eu」のような口をすぼめたまま舌を前に出す音がない。だから、「う」→「ゆ」と移行するよりも「い」→「ゆ」と移行するほうが楽なのだ。ちなみにこの「い」をアーフタクトに入れると、「(い)ゆめでもしあえたら」と、ちょっと蓮っ葉な歌い方になる。
さて回り道が長くなったが、その浜田真理子の冒頭の「ゆ」は、その「(い)ゆ」でもなければ「eu」でもなかった。小節の頭から狭まった口から、微かで、しかし確かな声帯の鳴りが漏れてきて、そこから声帯は力を抜くことなく、いつ着地したのかわからないほどのすばやく「う」へと移る。その途中で舌が移動しているはずであり、だからこそ「う」ではなく「ゆ」と聞こえるなのだが、声帯の鳴りは舌にまったく遮られていない。
偶然なのか。それがただのまぐれではない証拠に、彼女は、この冒頭の歌のたった二フレーズの中に「ゆこうよ ゆこうよ」とYの音を四つもたたみかけてくるのだ。そのひとつひとつが確かに鳴る。 もう、この冒頭だけで、ぼくの耳は次に彼女が発する「ゆ」の音を待ち望むようになり、すっかり引き込まれてしまった。なぜ日本語で振動あらわすことばに「ゆれる」と「ゆ」の音が入るのかがわかってしまった気がした(ちなみに、ゆら、とは、物自体に潜む<たま(魂)>が自ずから発動する状態を示すことばを指す)。
そこからあとは、加川良の「教訓I」が女性によって「しなさい」と唄われるだけでこれほど「青くなって尻込み」したくなってしまうのかとか、80年代に浅川マキの西部講堂ライブに通った身でありながら「かもめ」をまったく違う曲として聞いてしまうとか、驚愕の体験が続いたのだが、それはおそらくいろんな人が書いているだろうから略す。大友さんのアレンジは浜田さんのしゃんとした座り振る舞いが感染したような潔いもので、よけいな余韻を残さず、すっぱりと終わるものが多くてよく似合っていた。もうちょっとボーカルの肌理がクリアになってもいいかなと思ったが、西部講堂の構造からすれば最善の演奏だったと思う。
あと、泣けたのは高良さんのビブラフォンで、ときおりバンド演奏の休止符で表われるその響きから、「街の灯」ということばが思い浮かんだ。
ぼくは歌謡曲というのは「都会のねずみと田舎のねずみ」の話だと思っていて、それは演歌が真正面からふるさとを唄うのに対して、歌謡曲が街を唄うからそう思うのだが、かといって歌謡曲は単に街を礼賛する歌ではなく、かならずその底流に失われた故郷を隠し持っているのであり、その、失われた傷を照らしながら揺らすのがネオンや街灯といった「街の灯」であり、よい歌謡曲では必ずこの「街の灯」という光源と「失われたもの」の影との関係がゆらされている、とも思っている。
で、ビブラフォンの柔らかな金属音を聞くと、なにやらそうした「街の灯」が点火し(フィラメント!)、その澄んだ音がモーターによってゆっくりと揺らされるのを聞くと、光と影が正しく揺らされる思いなのだ。
最後の「純愛」で気持ちよくずたずたになり、終演後、屋台でCDを手に取る。レーベルの名前は「美音堂」。「びおんど」にYが忍び込んで「Beyond」。今日はYのことだけ考えよう。そそくさと帰路に。バス停に街の灯。
20050506 水底の田泥静かに五月雨
最近また、「風呂で読む」シリーズの「漱石の俳句」を読み出して、自分でも句作を作ろうと思い、日付に入れることにした。散文を書くプロセスは、シンタグゥムの力に導かれながら時間をたどっていく行為だが、句をひねるプロセスは、パラディグムの力に導かれながら時間を構築していく行為に近い。句をひねろうとてきとうな語を考えるうちにいくつもの枝分かれする水脈が発見されるのだが、それが短いシンタグゥムにきちんと凝るといい句になる。もちろんぼくのは、だくだくの駄句流。
コグさんからインターバル撮影映像いただく。コグさんの買ったばかりのデジカメについていたインターバル撮影と、彼女の趣味の園芸とが出会ったとき、この驚くべき映像群が誕生した。コグさんはこのところ、ベランダに毎日しかけるために、デジカメを外に持ち歩かないばかりか、わざわざカメラをセットするために帰宅時間を調節する日々だとか。
そんな、毎日の時間がぎゅっと三十秒ずつに圧縮された映像群をいただいたわけだから、これは贅沢以外の何ものでもない。
一枚一枚の静止画像がすでにして情報量満載の高画質なのだが、それを一気に動画で見るわけだから、もうなにしろ、すみずみまで、どこもかしこも動いている。花火のように広がるパンジーの花弁の中の模様が、ちっちゃなプリエッタの茎に生えたうぶ毛の一本一本が、マンモスフラワーのように。そして、こんなに拡大しても、あいかわらず愛らしい。ピアニシモを拡大したものは、ただのフォルテではない。この、ピアニシモをピアニシモたらしめている細部の感覚はなんだろう。
インターバル撮影が明らかにする、天体の運行、太陽の影、バラの花の確かさ。そして、人々とクレーンの動きのせわしなさ。「わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です。」という「春と修羅」の感覚は、花の確かさとわたくしのせわしなさの対比から生まれたのではないか。
花が咲くことの確かさ。花は、その身に集めた水分を花弁のすみずみまで、ゆっくりとゆきわたらせる。だからこそ、花が散ることははかない。うつろうているのはわたしのほうだ。
20050505 いたどりの柔らかき葉をたどる声
天気晴朗にして波おだやか。あこちゃん、ゆうこさんと琵琶湖畔に出て弁当を食いながら「女帝」を読む。通し読みすると、自分の老い先の短さが痛感されて、なかなかよい読後感である。
「女帝」には毎回、サービスカットともいうべきシャワーシーンがあり、多くの回想やアイディアはそこで生み出される。そうだ、銀座の老後を考えるには(しゃわーーーーーー)、小料理屋を開くのはどうかしら(しゃわーーーーーー)・・・などという具合に、研究のアイディアもみなさまにサービスしつつひねり出したいものだ。
Filament Boxを少しずつ聴いている。CDでは音量が調節できるので、ライブのように、座る位置によって音量が決まってしまうわけではない。しかし、CDのボリュームを上げるということは、大きい音のライブを聴くと言うことではない。ピアニシモの演奏のボリュームをいくら上げてもフォルテにはならない。
演奏におけるピアニシモは、再生される音量にかかわらず恒常性を持つ。つまり、ピアニシモによってひきおこされるのは、単なる音の大きさのコントロールではないのだ。
この前ガビンさんと話していて「ミクシイに入ったら世の中のほとんどの人はデザイナーであることに気づいた人の話」という笑い話が出た。もちろん、世の中にデザイナーが多いわけではなく、その人が選択的にデザイナーとつきあっているからであり、ソーシャル・ネットワーキングとはその選択の効率をあげる装置に過ぎないのだが、コミュニティの中に首をつっこみ続けているとそういうことが見えにくくなる。
デザイナーという職業の話であれば、さすがにその偏りにはすぐに気が付くわけだが、これがものの見方だったりすると、けっこう無意識に影響を受けてしまうことがあるだろう。ソーシャル・ネットワーキングは、たとえ偏ったサンプリングからでも、非常に効率よく「世論」や「常識」を形成できてしまう。引用が容易なネット上では、コピーや二次引用の数によって、サンプリング数が増えたかのような錯覚がひきおこされることすらある。
だから、ときどき首をあげて散歩をしたほうがいい。
原稿。夕方にあこちゃん来訪。例によってはらぺこ談義。そのあと、ネオン劇画の金字塔(というふれこみの)「女帝」に着手、翌日まで全24巻を読みまくるハメに。
ハットリポストフェストゥム。歓待していただきありがたい限り。新横浜から彦根へ。
新幹線の中で池谷裕二「進化しすぎた脳」(朝日出版社)。これはとても見通しのよい本で、とくに最後のヘブ則の化学的背景からアルツハイマー病の治療法にいたる流れは、ひじょうにおもしろかった。記憶をあいまいにすることで人間の心が生成されるという議論も、ジェスチャー分析の立場から大きく納得できる。
動物実験や戦争が促進する脳科学のダークサイドも隠さず話しているところ、高校生への語り方として誠実だと思う。人間にあって他の動物にないもの、に注目するからだろう、人間以外の動物と人間との比べ方が人間優位に過ぎて、そこはちょっとひっかかった。それにしても、アメリカの高校生にとって、知性ある動物の代表として「イルカ」の存在はでかいのだな。
家に帰って「ゴルゴ13はいつ終わるのか? 竹熊漫談」。著者と同い年なので、後半のクロニクルがいちいち思い当たることが多い。ガンダムを見なかったことのでかさ、や、オタク密教のねじれた心理(政治的に支持しなければいけないがゆえにいっそう他の無垢な支持者を嫌悪するという話)、はたまた、作画の差に敏感に反応してしまうオタク第一世代の性、など。そう、新ルパンの何が違和感だったかというと、演出もさることながら、あの線の丸さだったんだよなあ。
チャット中になんのはずみだったか「遡る記憶もないのに海にきた」というと、うなちんが「いまちょっとメロディーがうかびました」。うまく言ったらチャットで新曲ができる、かも。
なんとなくボストークに行きガビンさんとなごむ。帰り際に現われた松本弦人さんに、ジェスチャーの禁じられた空間で力の有り余った衆が体をふくらます誇示、というものすごい話を伺う。あの世はすごいな。
なんとなく東横線に乗り、服部フェスティバル。うなちん+きのしたくん+わたし、というわけで、これはまるでかえる目おれんちライブ。観客はハットリのみ。演目はひたすら食い、空虚なことばを投げ続ける。シンプルなり。なんか7月にもういっぽんライブをする、かも?
夕方、六本木一丁目へ。野老朝雄さんの作業場へ。森ビルの一フロアにさまざまなジャンルの人たちがブースと共有スペースを構えており、模型を撮影するカメラのレールやら縫製用の人形やらプロジェクタやら人ひとりが寝転がれそうな隙間やら、あちこちに使えなさそうで使えそうな、つまり使い方をあれこれ想像させる物品が並び、なんとも魅力的な場所になっている。少なくともうちの大学の学部よりも場所としてははるかに自由度が高く機能的に見える。机の上に置いてあったビー玉?入りアルミ管を見せていただいたが、これがまたタイムトンネルのような愛らしさ。
これまでは管を見たら吹いていた。これからは管を見つけたら覗いてみよう。
そもそもぼくの日記にちらと書かれていた野老さんの名前がたまたまご本人の目にとまったのが始まりで、そこからメールでやりとりをしているうちに、じつは同じ作業場に新城さんがいることが分かったり、野老さんとともにCETのインターフェースを手がけていた今井健さんの同僚が天狗デジオの荒牧さんだったり、全然違う場所で知り合った人たちがつながってしまい「つまり要するにこれがソーシャルネットワーキングってやつなのか!」。さらに偶然といえば、たまたま作業場のソファに「CGステレオグラム」(小学館)が一冊ぽんと置いてあったのだが、野老さんはその中にEV名義でぼくの作ったものが載っていることを知らずになんとなく手にとっていたんだそうだ。
・・・とこれだけ偶然がそろえば、場はあらかじめ温められていたといってよく、(b+n+n)aさんがきれいにレイアウトしてくれたMisleading Misreadingを拝見しつつ、それぞれの参加者がどのように聞き間違いをイメージするかという話から、水道管ゲームが分岐するごとく話は枝葉をたどり続け、場所を移して羊肉はみるみる無くなり、初対面ながらとても楽しい集まりになった。
新宿に場所を移して、クラシック青年だったという今井さんと話しながら、オーケストラのことを考える。
オーケストラでは二つのまったく異なるコミュニケーションが同時に走っている。ひとつは、指揮者と演奏者のあいだで起こるもので、そこでは対面する身体が鏡対称で(つまり共有スペースを用いて)行なう。ぼくの考えるところでは、もうひとつは譜面というメディアから各人が身体運動を立ち上げるコミュニケーションが並列している。ぼくが一昨年やった仕事では、鏡コミュニケーションはよりジェスチャーで使われるいっぽう、それぞれがおのおのの空間を形成して行なうコミュニケーションはより発語により使われ、二つのモードが同時に異なる情報を出すと、しばしば修復が起こった。オーケストラという形態は、いわば指揮者と演奏者とのあいだにおける修復のプロセスとして捉えることができるかもしれない。
わたしたちは、舞台と客席という考えからつい、「演奏者と観客が向かい合っている」というイメージを思い浮かべがちだが、少なくともオーケストラの場合、向かい合っているのはむしろ、指揮者と演奏者である。
と、そこまで考えて、オフサイトにおける演奏を思い出すと、それはまったく異なるものであることがよくわかる。
オフサイトの椅子は折り畳みの小さな布張りのもので、そこに座るものは自然と腰を低くかがめることになる。三十人ほどの観客は、演奏者から見ると、むしろ室内楽オーケストラのように見える。
で、何が起こるかというと、普通に前を向いたときに、やたら客と目が合う。ぼくはふだん、あまり人と目を合わせない性質なのだが、それでもオフサイトではお客さんとすごく目が合った。それも、曲を奏でている者と聞いている者とで目を合わせているというより、鳴っている音を同時に聴いてハッとしているような、ひじょうに奇妙な目の合い方なのだ。
向かい合うことは、同じ空間を共有しながら、180度異なる身体軸を持つことである。対面行動で起こる修復は、そもそも、この二通りの空間のあり方に起因している。となると、じつは、向かい合う、という形式じたいが、二つの空間のあり方をわたしたちに思い起こさせ、修復の可能性を予感させるのかもしれない。
そして、音は、わたしたちの頭の中で妄想たくましく伸び縮みする空間に、修復の合図を与え、時間を生み出す。