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20001015
 二日酔い。一面曇り。栗橋総合文化会館に「かっぽれと江戸太神楽のつどい」を見に行く。習いはじめて日が浅い人もいるらしく踊りにはかなり上手下手があったが、桜川寿々之輔という人の、律義がゆえにもれてくる愛敬にかっぽれを見た、と思う。
 演芸はおもしろうてやがてかなしき。帰り道、空き地にまばらなコスモス。かなしくなったので新宿タワレコに寄り山ほど音盤を買ってしまう。
 
 地面から10cmほど浮き世離れした気分のまま新幹線で彦根へ。夜中にNHKアーカイブ「さすらい」を見て、地面からの距離は倍に。
 ブランコ乗りの人が主人公を引き止めようと話しながら、体を揺らしている。役者として素人の人たちから引き出されたセリフ、身体の動きがすごい。横倒しのピンキーのポスターなど気になるショットも満載。

20001014
 今朝までの酒をカプセルの風呂で払い、都立図書館で都新聞のマイクロをゆっくり回す。大正三年の連載記事「湯屋と床屋」で湯上がり気分。十二階の記事も見つけたが、ちょうど破れていて一部しか読めない。
 明治学院大で西阪さんのやってる研究会。 Berducci氏のヴィトゲンシュタインとヴィゴツキーの話。Scott氏の「朝まで生テレビ」分析。 田原総一郎の「ね」を使った呼びかけの手管について。談話管理論をからませるとおもしろいと見た。
 新宿へ。最近でかい音盤屋に行きつけないので、タワレコの「名盤!」とかいう手書き引き文句を見るとバーゲンの赤札を見るような胸騒ぎがする。編集の柴さん、索ちゃんと話す。でもって栗原さんを交えさらに夜明け近くまで飲んでたような気がする。

20001013
 東京へ。図書館に行くつもりで地下鉄に乗り換えようとしたが、薄寒い曇天を見たとたんに、妙に浅草に行きたくなり、丸の内線から銀座線に乗り換える。あいかわらず銀座線は発車のときにトッド・ラングレンの「Cold Morning」そっくりの音できしむ。低い龍の天井をくぐって雷門前に出ると、この前買った絵葉書の中に入ったような居心地の不確かさ。たぶん、仲見世の遠近法のせいだ。古本屋まで歩いて、森銑三「砧」。明治・大正の資料を読む楽しみがまっすぐに書かれていて気持ちがよい。都新聞を「漫読」したくなってきた。
 夕飯には早いが寿司屋に入ってゆっくり食べつつ、他に客もいないのでご主人と話す。これまで河岸に行くときに4回くらいすられたそうだ。バーゲンのときに手に持っていた札入れを服の山の上に置いていたらなくなった、ということも。「やな世の中だねえ」と、くじにはずれたような口ぶり。
 夜中近く、なのれーさんとチビーズ新城さんと飲む。4時くらいまで?

20001012
 さまざまな仕事によって考えは細切れのカリカリベーコンのようにひっかかる一日。その考えも「どっちの料理ショー」によってただの歯ごたえに変換。
 Irwin Chusid(Chusidはlucidみたく発音して、アーウィン・チューシッド、と読むのが正しい、とJeff Winnerが教えてくれた)の 「Songs in the Key of Z」。ジョー・ミーク、ダニエル・ジョンストン、シャグス、シド・バレット、ハリー・パーチなど、まるで三月書房のごとく、自分の棚を見るような並び(じっさいには棚にないのもたくさんあったが)。いっぺんに読むと目眩がしそうなので、まずダニエル・ジョンストンのところだけ読む。

20001011
 ミシガンから来てるティナが来て鍋。パンクの好きな娘でヴェジタリアンでネコ好き。パンクロックが好きなのはやさしいから?(ブルハ)。日本研究の講義では「あはれ」とか「をかし」を習ってるんだって。「バナナヨシモトとハルキムラカミはニューあはれスクールです」などといい加減なことを教える。
 野菜鍋、食った直後はよかったが、しばらくするとなんか食い足りない気がする、肉食な日本のわたし。かまへん、オードリーはな、好きなように食うたらええねん。自分のストマックにきいてみ(段田安則の声で)。

20001010
 会議とかいろいろ。

20001009
 部屋の整理はまだ続いている。とりあえず机の上は片づいたので翻訳校正。昨日空いたはずの床は再び一時的物置き場となり埋まってしまった。

 久しぶりに見続けている、と言える朝の連ドラ「オードリー」。賀来千香子の役回りは「冬彦さん」の頃からちっとも変わってない(叫んでるアンタがいちばんコワイ)。大竹しのぶの頬のこけぶりはますます山岸涼子のマンガのキャラに近づきつつある(トラウマばらまき過ぎ)。藤山直美は一服の清涼剤。どんなイキナリな登場なのか毎回楽しみ。そして忘れちゃいけない「京都のアメリカ人」段田安則のバイリンぶり。


20001008
 さらに部屋の整理が続いている。というか、作業をバックに音楽を聞いていると言っていい。あまりに聞いたことのない音が鳴っているのでおもしろくて止められない。
 それでもようやく部屋の床が見えてきた。床が見えるとようやく一時的に物を置くことができる。ようやく本番というところだが、NHKアーカイブの時間になった。新宿の昔。

20001007
 eBayに必要以上に気をもんでしまうのは、この部屋が無整理状態なのが問題なのだろう、と思い、この連休中に整理することを決意する。が、何かを発掘するたびに見入ってしまい、なかなか進まない。花形文化通信のバックナンバーがごっそり出てきて、読みふけってたら2時間経ってしまった。いかんいかん。

 いらぬ書類を選り分けているうちに、つまらない読書を続けた後のようにぐったりしてしまい、ラジカセをかけて景気をつけようとするが、今度はラジカセの音が気に食わなくなり、隣の古道具屋でミニコンポを買ってきて目の前の本棚にはめ込むと、本のスペースがなくなったので棚を増やそうと、アヤハディオ(近くのホームセンター)に行き、板とボルトを物色していたら、隣でやはりボルトを眺めていた女性があのう、いいですか? このキャスターに合うネジのサイズはどれでしょうか? などと尋ねてくるので、5mmの平ネジを手に取り、キャスターにはめてぐっぐっと引っ張り、しっかり止まるのを見せ、「さあ、次はぼくとキミのサイズの相談をしようぜ」と新しく作ったアヤハカードで軽快にレジを通過し森へと急ぐ。

 そんなことを考えていたらまた2時間経ってしまった。いかんいかん。

20001006
 このところeBayへのビット加速。会計とか伝票整理が大の苦手なので控えてたんだが、いったん勢いがつくと止まらん。いくつもビットすると大変なんだがなあ。ただでもザルな頭なのに、何にどれだけビットしてたかなんて覚えてられないつーの。もちろんeBayからのメールを見ればどのビットに勝ったかまでは思い出せるが、最後の送金のところだけは手作業だからログがない。家計簿ならぬビット簿をつけりゃいいのだが、そんなことするほどマメじゃねえ。
 しかたないので、送金したら即相手に「送ったからもうすぐ着くよ」メールを出して、そのログを残すことにしてるが、このメール送信だっていつ忘れるかわかったもんじゃない。自分がいつ約束を裏切ってしまうか賭けてるようなもんです。

 オンライン決算すりゃいいわけだけど、eBayではまだPayPalが主流で、BitPayやBillpoint使ってる人は少ない(PayPalが国際取り引きを始めてくれりゃ事態はマシになるのだが)。「昨日出したエアメールはどの品物のやつだっけ?」てのがもう思い出せない。それどころか「エアメール用の封筒どこやったっけ?」てのがすでに分からない。そんなこと覚えてようとすると別の大切なことを忘れそうな気がする。ほら、何が大切だったかもう思い出せない。

 長い揺れ。すぐにTVを見ると鳥取で地震。実家に電話したらつながらない。どうやら大阪方面は大したことはなさそうなので、とりあえずHPにこちらの無事をアップしておく。

20001005
 小田さんからMAP創刊号とCD。グリーンバーガーの特集、たまらん。掲載されたコミックも含めて素晴らしすぎ。滅多に雑誌を通読しないけど、この雑誌はほとんど全部読みました。どうもありがとう。CD「ソー・ファー・ソングス」も気になる曲だらけでした。一曲めの村上ゴンゾはほんま天国もの。ふちがみとふなと、ラブクライ、渚にて、山本精一 with Rashinbanなどなどと書けば、好きな人は即買うだろうけど、そのなどなどのトラックがまたええでっせ。
 
 ゼミ用に、マクニールのLanguage and gesture のイントロ。

 雑談でクイズ番組の形式の話。「ジェスチャー」以降いくつかの番組に見られた「男女二チーム、中央に司会者、各チームにキャプテン」って形式はいつ始まりいつ終わったんだろう。NHKの「連想ゲーム」は長いことそうだったが、「日本人の質問」ではもはや男女別ではなくなった。民放では「ヒントでピント」が最後か。クイズ番組に限らなければ、紅白歌合戦というでかいのがあるけど。
 関西ではナイト・イン・ナイトの三枝司会の番組でオヤジvsギャルという構図がまだ保たれているが、これは男女差以外に年齢差が入っていてちょっとひねられている。
 クイズ番組におけるジェンダー史という研究テーマはどうか。歴史を追うだけだとちょっと弱いが、番組で語られるディスコースまで分析するとけっこういけるかも。さあこのアイディア、タダどすえ。誰かやらないかな(やったら教えてね)。

 「金曜日のアンナ」(ウーリ/大修館書店)。ファンタジー仕立ての言語学の本。扱われてるのは比較言語学、言語相対主義批判、生成文法、脳の左右差などなどで、スタイルは「ソフィーの世界」、内容は「言語を生み出す本能」簡略版という感じ。言語学ってノルウェー語から見るとこんな眺めなのか、ってことが伝わってくる前半がおもしろかった。いろいろ謎めいた仕掛けはあるものの、アンナの先生臭が強すぎることもあって、ファンタジーとしてはピンと来なかった。

20001004
 帰りに自転車乗り場に行く途中、友部正人の「遠雷」が頭の中で鳴っているのに気がついた。すでに2コーラスめにさしかかっていた。我がことながら急に不思議に思え、とりあえず記憶を数分ほど遡ってみたが、なぜこの歌が頭の中で鳴りだしたのか、思い当たるきっかけがない。夕暮れどきだからか。夕暮れなら他にも思い出すことはたくさんある。なのに「遠雷」を思い出してしまった。「遠雷」で思い出すことはたくさんある。

 後期最初の講義。幻燈のスライドをあれこれ用意したものの、教材提示装置がうまく働かず、さえないプレゼンになった。次回はOHP装置とビデオを持ち込むとしよう。

 うちの大学ではほとんどの講義室の器材の操作がタッチパネル方式になっている。ぼくはこれが嫌いだ。白墨まみれになった指とタッチパネルは相性が悪い。それでなくてもタッチパネルは誤感知、誤動作をしやすいインターフェースだ。ATMのようにひとつひとつのステップが一瞬で切り替わるようなものならともかく、ハードウェアはいったん動くと止めるのに時間がかかる。講義中に黒板の入れ替えボタンが感知しなくなり、数分の間黒板が出たり引っ込んだりし続けたことも一度ならずある。こういうときは受講生といっしょに黒板踊りを鑑賞するしかない。

 器材に直接つまみがついているときはそれを使うんだけれど、わざわざタッチパネル以外の操作盤を隠してある装置まである。今日のはそれだった。まったくもう。

 タッチパネル方式の講義室では、装置の選択だけでなく、各装置の操作まですべてタッチパネルになっている。で、問題は、多くの装置は「再生早送り」「フォーカス」「絞り」といった押し続けの操作を含んでいること。タッチパネルがもっとも苦手とするのが、この「押し続け」の感知なのだ。
 「押し続け」操作で必要なことは、こちらの押した時間がきちんと操作に反映されることだ。それができて初めて、狙ったところでピタリと止めることができる。ところがタッチパネル操作では、こちらの指の表面の状態によって反応がかなりぶれる。オンもオフもタイミングがずれる。しかもそのずれの量はほとんど予測できない。結局、頭出し場所を行きすぎ、フォーカスはいつもちょっとピンボケで、頼みもしないのに絞りが全開になる。
 たとえばATMに、タッチしている時間の長さで数字が変化する入力装置があったとしても、誰も使いたくないだろう。そんなもんで暗証番号なんか入力してた日にゃあ、狙った数字に届かなかったり行きすぎたりで何分でもかかってしまうからだ。フォーカスのタッチパネル操作ってのは、それとおんなじくらい使えないってことなんです。

 結論。タッチパネルはせいぜいボタンの代わりである。タッチパネルはスライダやボリュームつまみの代わりとして不適切である。タッチパネルで連続変化を操作させるようなインターフェースデザインは止めましょう。

 幻燈の時代には、幻燈師が幻燈機の蓋を開け閉めする巧みな技で、観客を魅了した。フェードアウトするには、レンズの前についた蓋を少しずつ閉めればよい。フェードインなら少しずつ開ければよい。幻燈を複数用意して(あるいは二連、三連式の幻燈を用意して)一つの蓋を閉めながら一つの蓋を開ければ、クロスフェードになった。あるときは素早く、あるときは目のにじみかと思えるほどに遅く、微妙な光の交替が行われた。
 むろん、その操作には非常な手間と熟練が必要だった。逆に言えば、手間をかけ技術を覚えさえすれば、タッチパネルなどよりもずっと高度な場所までたどりつける装置だったのだ。

 幻燈のような技術は、すでに100年以上前からこの世にあった。100年以上たって、ぼくは学生と黒板が出たり引っ込んだりするのを眺めるようになった。この鈍感なインターフェースに抗する手段を次週からは考えなくてはならない。

20001003
 マラソンの高橋の35km付近でのサングラス投げは、いまや「勝負の合図」として定着してしまっているが、確か彼女は最初のインタヴューでは「いや、30kmあたりからもう脱ぎたくてしょうがなかったんですけど」と言っていたと思う。しかし、おそらくインタヴュアーが求めている答えを察したのであろう「でも、二位の人が離れたので、いけるかなと思って」と付け加えていた。で、いつのまにか、サングラス投げ=勝負の合図、ということになってしまっている。

 今回のオリンピックでは、瀧本の「なにがなんだかわからないうちに勝っちゃって」や田嶋の「金がいいですぅー」に愛敬は感じたものの、ほとんどは何かインタヴュアーが言外に押しつけるコメントばかりでつまらなかった。むろん、それは選手のせいというよりは、「念願の金メダルです。」と、質問でもなんでもないことを言ってマイクを向ける聞き手のせいだ。インタヴュアーは、自分は質問してるわけでもないのに、マイクを向けるだけで、自分と選手との間に何か相互顕在性が実現すると決めてかかっているのである。普通、こういうアホウな質問には、「どういうことでしょう?」と聞き返せばよい。しかし、インタヴュアーのご機嫌を損ねると、次は何を聞かれるかわかったもんじゃない。

 バルセロナの有森に驚いたのは、彼女の笑顔やインタヴューの受け答えがじつにマイペースで、「3位」とか「銅メダル」という世間的な尺度とは全く違う自分の尺度が彼女にはあるのだな、ということがよく伝わってきたからだった。インタヴュアーの言わせたがってることと自分の意見は違うということをはっきり表現できるのが有森の魅力。たとえば今回の高橋の優勝に対する有森のコメントにもそれは表れていた。(正確な言い回しはよく覚えてないけど、私もまだアスリートですから素直にああよかったですねとは言えないです、といった内容のことを言っていたと思う)。

 しかし、有森のような特別な人を除けば、ほとんどの選手はステレオタイプな相互顕在性に寄り添わざるをえない。「国民性」とはこういう場面でステレオタイプとして表れるものなのだ。問いならぬ問いによって相手にターンをあずけるインタヴュアー、それにイヤでも答えざるをえない選手、二人の協同作業が、ステレオタイプな「国民性」を明らかにする。日本人とは、「メダルの色は違うけど」であり「自分の柔道(走り、泳ぎ、etc.)ができたと思います」であり「これが自分のいまの力なんだと思います」である。
 それにしてもオリンピックとは、日本人ではない日本人、人間ではない人間を見るイベントなのではないのか。

 田村亮子まで行くと、サービスが過ぎて、「初恋」などというとんでもない単語を用意してしまう。彼女の金メダルへのキスは、その「初恋」ということばとともに放映される。彼女が実際にどのような気持ちでメダルにキスをしたかなど知るよしもないし、そもそもキスの意味など知ることはできないが、その知りえないキスが「初恋」ということばで先回りされ、周到に説明されてしまっている。うんざりしてしまう。YAWARAちゃんなんて呼ばれてインタヴューされ過ぎてる間に、すっかりインタヴュアー対策の筋肉がついちゃって、と思う。

 問わず語りに語る日記の書き手にとっては、ほとんど人ごとではない。

20001002
 どこまでこだわるねん!と叫びたくなるプラウダの永井くんのpv、読み応えあり過ぎ。どんなコンディションでも、「I saw the light」のイントロを聞いた瞬間に頭の中に花束が差し出される気がする、そんなトッド・ラングレン好きの人には(トッド好きじゃない人にも)素直にたまらんページです。

 ドーンセンターで会話分析研究会。担当は串田さん。エリクソン&シュッツのカウンセラーの本。よく読むとけっこう統計的手法はザルだったりする。しかし、それでもなお魅力的なのは、彼らが統計を探索的に使っていて、そこに研究の過程がにじみ出ているからだろう。この本は、単に「折衷主義」であるだけでなく、現象のある面から別の面へと、旅するように書かれている。
 帰りに鳥せい。
 
 酔っぱらって電車の中で考える。車内の携帯が疎まれるのは、じつは「車内共同体」からの逸脱を感じさせるからではないか。たとえば、新聞や本に没頭している人はとがめられない。また、車内で大声で会話をしている人は、多少疎まれるものの、公的にアナウンスでとがめられはしない。携帯は、時に大声で話す人よりはひそやかに話されるにも関らず、疎まれる。
 携帯を使う人は「いま車外とつながっている」というしるしを発信することによって、車内共同体とは別の場所にいる自分を表現してしまっているのではないか。逆に、携帯によって、周りにいる者は、ふだんは意識されない車内共同体を意識させられるのではないか。

 と、心細い酔っ払いの考えそうな話になった。酔っ払い続けたままさらに、多木浩二「戦争論」(岩波新書)を読む。
 ベルリンで見たステレオ写真のことを思い出した。戦争ステレオ写真がもよおす吐き気、もしくは吐き気を押して見たいと思う魅力を、ステレオという現象と戦争という現象とに切り離すこと。

20001001
 日曜。忍者武芸帖を読み出したら止まらなくなり、また全巻読んでしまった。ときどき何気に使っている「ここでいう○○とは」という言い回しは、忍者武芸帖から学んだのだったと思い出す。
 さらに勢いでアラベスクを全巻読んでしまう。最後の方はよれよれになり、「は、はげまし賃」というセリフが「は、はみだしチン」に見えて笑い、そんなたわいないことに笑っている自分に笑いが止まらなくなる。
 
 笑い止めてNHKアーカイブ三本。「現代の映像」から。「ツーマッチ」は深大寺の自由広場でのロックコンサートのドキュメントで、期待大だったんだけど、なんちゅうか時代を割り引いても力の空回り方(バイク50台も含めて)にしんどさを感じる。漏れてない。同じハプニングでも、村上三郎や東京ミキサー計画のようなたくまざる漏れが感じられない。(あるいは取材のせいか?)

 むしろ、ぐっと来たのはその後の「つかのまの光芒」という定時制高校野球のドキュメンタリー。番組で密着取材されてる無口な捕手の高校生、その彼が四畳半で鳴らすギターが「風」「戦争を知らない子供たち」というのはいいとして、なぜか「春のうららーの」をインストで弾く、これがなんちゅうか、ギター個人史を聴くような感じで染みたっす。あんまりうまくないんだ。でも、たぶんギター経験者なら楽器を持ったとたんに手遊びでつまびくの練習曲ってのがあるでしょう、たぶん彼の場合はそれが「春のうららの」なんだ。「禁じられた遊び」じゃなくて「春のー」なんだなあ。テンポがいいんだ。川の歌だから。甲子園と比較しながら定時制高校野球の人気のなさをあくどいほどに対比させる、番組の狙いはなんだかずいぶんあざといんだけど、そのあざといはずのドキュメンタリーが「春のー」でトツトツと動きだす、客のまばらな球場で勝ったり負けたり、上り下りの船人のごとく無言で進んでいく、流れを何にたとうべき。

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