- 20001004
- 帰りに自転車乗り場に行く途中、友部正人の「遠雷」が頭の中で鳴っているのに気がついた。すでに2コーラスめにさしかかっていた。我がことながら急に不思議に思え、とりあえず記憶を数分ほど遡ってみたが、なぜこの歌が頭の中で鳴りだしたのか、思い当たるきっかけがない。夕暮れどきだからか。夕暮れなら他にも思い出すことはたくさんある。なのに「遠雷」を思い出してしまった。「遠雷」で思い出すことはたくさんある。
後期最初の講義。幻燈のスライドをあれこれ用意したものの、教材提示装置がうまく働かず、さえないプレゼンになった。次回はOHP装置とビデオを持ち込むとしよう。
うちの大学ではほとんどの講義室の器材の操作がタッチパネル方式になっている。ぼくはこれが嫌いだ。白墨まみれになった指とタッチパネルは相性が悪い。それでなくてもタッチパネルは誤感知、誤動作をしやすいインターフェースだ。ATMのようにひとつひとつのステップが一瞬で切り替わるようなものならともかく、ハードウェアはいったん動くと止めるのに時間がかかる。講義中に黒板の入れ替えボタンが感知しなくなり、数分の間黒板が出たり引っ込んだりし続けたことも一度ならずある。こういうときは受講生といっしょに黒板踊りを鑑賞するしかない。
器材に直接つまみがついているときはそれを使うんだけれど、わざわざタッチパネル以外の操作盤を隠してある装置まである。今日のはそれだった。まったくもう。
タッチパネル方式の講義室では、装置の選択だけでなく、各装置の操作まですべてタッチパネルになっている。で、問題は、多くの装置は「再生早送り」「フォーカス」「絞り」といった押し続けの操作を含んでいること。タッチパネルがもっとも苦手とするのが、この「押し続け」の感知なのだ。 「押し続け」操作で必要なことは、こちらの押した時間がきちんと操作に反映されることだ。それができて初めて、狙ったところでピタリと止めることができる。ところがタッチパネル操作では、こちらの指の表面の状態によって反応がかなりぶれる。オンもオフもタイミングがずれる。しかもそのずれの量はほとんど予測できない。結局、頭出し場所を行きすぎ、フォーカスはいつもちょっとピンボケで、頼みもしないのに絞りが全開になる。 たとえばATMに、タッチしている時間の長さで数字が変化する入力装置があったとしても、誰も使いたくないだろう。そんなもんで暗証番号なんか入力してた日にゃあ、狙った数字に届かなかったり行きすぎたりで何分でもかかってしまうからだ。フォーカスのタッチパネル操作ってのは、それとおんなじくらい使えないってことなんです。
結論。タッチパネルはせいぜいボタンの代わりである。タッチパネルはスライダやボリュームつまみの代わりとして不適切である。タッチパネルで連続変化を操作させるようなインターフェースデザインは止めましょう。
幻燈の時代には、幻燈師が幻燈機の蓋を開け閉めする巧みな技で、観客を魅了した。フェードアウトするには、レンズの前についた蓋を少しずつ閉めればよい。フェードインなら少しずつ開ければよい。幻燈を複数用意して(あるいは二連、三連式の幻燈を用意して)一つの蓋を閉めながら一つの蓋を開ければ、クロスフェードになった。あるときは素早く、あるときは目のにじみかと思えるほどに遅く、微妙な光の交替が行われた。 むろん、その操作には非常な手間と熟練が必要だった。逆に言えば、手間をかけ技術を覚えさえすれば、タッチパネルなどよりもずっと高度な場所までたどりつける装置だったのだ。
幻燈のような技術は、すでに100年以上前からこの世にあった。100年以上たって、ぼくは学生と黒板が出たり引っ込んだりするのを眺めるようになった。この鈍感なインターフェースに抗する手段を次週からは考えなくてはならない。
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