3回生ゼミで雑談(ぼくのゼミは雑談の時間が多い)がてら、傘を忘れる話をそれぞれの人に思い出してもらう。これがじつにおもしろく、後期の実験は「傘忘れ話対話実験」にしようと思う。夜、ネットワーク管理でハマリに会い、難儀する。
梅原賢一郎「カミの現象学」(角川叢書)。以前からいただいていながら、じつは最初の一頁を読んだとき、「これは落ち着いて読むべき本である」と直観してしばらく置いていた。
最終章で著者が書いているように、「際」から「穴」へ、という転換によって、この本の穴はぐっと広がった。単なる境界ではなく「穴」。穴の可能性を次々と試みるべく、本書では身体に予断を許さない力が注がれ、穴を開け、柔らかく傷つきやすい場所が外に開く。
読みながら、そういえば粘膜のある場所というのは、なぜことごとく穴なのだろう、というようなことを考えた。穴は外に通じていながら、そこに流れを貯め、かき混ぜ、咀嚼し、ひり出す。皮膚をなでるように過ぎていく空気が、そこではむせかえるような臭気となる。
著者は、そのような穴を身体のあちこちにうがとうという。途方もないイメージなのだが、読み進めるうちになぜか、イカの身に歯がさしこまれるように、我
が身にぼこぼこと穴が開いていく気がするから不思議だ。80年代以降の「境界」「越境」といったことばに代わりうる、よいことばを得た。しばらく、折りに
ふれて「穴」のことを考えることになりそうだ。
Mac OS 10.3 (Panther)
を入れる。ぐっと使いやすくなった。特にexposeの機能、以前からアプリケーションウィンドウがすべて手前にこないのが不満だったぼくにはどんぴしゃり。
単独のファインダも以前よりだいぶアクセスしやすくなった。リムーバブルメディアの取りだしボタンが表示されるのも便利。
今回のOSでは、applescriptも充実した。applescriptが可能なアプリケーションについてはメニューバーにスクリプトマークが現わ
れて、そこに関連スクリプトが入っている。たとえばDVD playerなら、指定時刻から再生する"Go To
Time"というスクリプトを立ち上げることができる。こうしたスクリプト集はapplescriptに多少通じている人間にとってはひじょうに役に立
つ。このスクリプトを改変すれば、DVD
playerを外から制御して、好みのシークエンスを切り貼りするもできそう。あいにくそれに着手する時間がないのだが、誰か好きな人がやらないかな。
記憶と忘却論、途中まではよかったのだが、考えるほどに穴が見つかり、全面見直し。ある表現が言えるのにある表現は言えないという事例を積み上げ
ていきながら、日本語の前提となっている認知を掘り下げていく手法(これは定延さんの本で学んだことだ)をとっているのだが、これは言語学のトレーニング
をかなり積んでいないと独善的になりがちなことに気づいた。
書きながら自分でちょっと苦しいなと思うようなところには、たいてい論理の穴や強引さがある。言語化する前に、そういうあいまいさは「書く苦しさ」によって体感される。
今日はAIBOの日。高橋さんが来て今年やったAIBO実験のデータを一緒に見る。じつは実験結果のバラエティがけっこうあって、どうまとめよう か迷っていたところだったのだが、AIBOが立ち上がる瞬間の人の反応を見て、「これだ」という感触をつかみ、そこから先は続々とアイディアがわいて、論 文の見通しはついた。
人がとまどったり、一気に何かをつかみかけているという事態を分析するときは、プロトコル分析は間に合わない。プロトコル分析というのは、ことば
と行動が一対一対応するような、ひじょうにはっきり分節化されて組織だった行動を扱うときには威力を発揮するが、人がとまどったりスリップしたりしている
様子をとるのには向いていない。そういう行動は言語化の過程よりもずっと速く起こって、ことばを振り切ってしまうからだ。
では、後からゆっくり時間をかけてインタヴューすればよいかというと、そうもいかない。人が無意識にやっている行動のほとんどは、意識化のスピードが間
に合わず、あとから内観してもらってもなかなか思い出せない。というわけで、現場で人が「おおおっ」と驚きながら身体をバタバタさせている過程を追う場
合、行動の微細なシークエンスを追うようなマイクロ分析が必要になってくる。おっと、この話、年度末の発達心理学会ワークショップで使えるではないか。メ
モメモ。
飲み過ぎた。菅原邸を辞し、六曜社のカウンタに座り、先週末から憑かれたように書いている、記憶と忘却論のメモをとる。レジで支払いをしようとポ
ケットを探ると「細馬さんは超ナルシストyeah-」という紙片が見つかり、しばらく考えてから、それは昨夜の飲み会で伊藤さんが書いたものであろうこと
を思い出す。しかしどういう経緯でそんな話になったのか。ここにも忘却が。
夜、彦根に戻り、70年代のグールドを映したDVD。ギボンズを弾くときの指離れ。グールドは指離れのコントロールがすごいんだよな。
「こころの自然誌」二回目。ミルトンの「失楽園」を紹介しながら、17世紀の宇宙観と堕天使観の関係を論じる。地獄というと、わたしたちは「地
底」を想像しがちだが、「失楽園」の地獄は、地球からも太陽からも隔てられた、宇宙の限界の三倍以上離れた辺境である。サタンはいわば流刑に会ったのだ。
ミルトンは当時、ヨーロッパ旅行の途上でガリレイに会っており、下巻のアダムと天使のやりとりの中には、天体論が出てくる。
コミュニケーションの自然誌。藤田さんの西浦の発表。しばらくデータから離れていたが、こうやって藤田さんの舞いの分析を聞いていると、またいろいろ思い出すこと多し。
例によって一次会二次会と飲み歩く。最近、自分の物忘れに愛想が尽きてきたので、いいフレーズを思いつくと、すぐそこでメモを取るようにしてい
る。「憑依はパターナリズムである」「体操言語は催眠術である」「シンクロとは、どちらが誘ったかを顕在化させたくないという欲望の現われである」「シン
クロとは、無意識の振動を意識が言い当てそこなっていることばである」など。いずれも飛躍が大きすぎて、考えを思い出すのに時間がかかるのが難点。
最後は菅原さんの息子さん宅へ。夜中を過ぎていいオトナが二人よっぱらって乗り込むさまは、まさに「東京物語」。わたしは東野英治郎の役回りなので、ああ愉快愉快とのんきに椅子に座らせていただき、息子さんが手際よく敷いてくれた蒲団に沈没する。
飲み過ぎた。ふらふらになりながら、立命館へ。
今日はワイズマンの「チチカット・フォーリーズ」「高校」。
「チチカット・フォーリーズ」は慰安会の出し物である合唱で始まり合唱で終わる。デビュー作のせいか、他の作品よりも諧謔味あり。
「高校」は1968年。冒頭に流れる「ドック・オブ・ザ・ベイ」がリアルタイムで流れていたころだ。フランス語の授業の例文は「今日、私はある実存主義の思想家にあった。ジャン・ポール・サルトル」。
この作品には珍しく、音楽があちこちで使われている。いずれもじっさいにテープやプレーヤーで流れているところを取っているのだが、これがかなり効果を
出している。体育館で「手を頭にあげて」という曲に合わせて手を頭にやる女子学生。詩の時間なのか、サイモン&ガーファンクルの「夢の中の世界」を朗読し
てテープで聞き入る授業。当時のポール・サイモンのシニカルな歌詞に対するユダヤな感性がよく出ているシーン。
ラストは、ベトナム孤児をケアする軍務に赴く学生からの手紙を読み上げる校長のシーンで終わる。その学生は自分がかけた保険を学校に寄付するという。アメリカの善の限界。
自分が善意でやっていることが、じつはアメとムチのアメとして使われていたことに気づくとき、ぼくなら「ハメられた!」と感じるところなのだが、アメリ
カの感性というのは、アメとムチシステムの中でけなげにアメ役を引き受けている自分に涙するのだな。
ワイズマンはそのシーンにナレーションも字幕もコメント的な映像も加えない。あるいはこのシーンは、ラストにおかれることで世間的な感動を呼ぶかもしれない。が、すくなくともぼくには、(あたかも「手を
頭にやって」に合わせて踊る学生よろしく)「アメの涙」思考にハマるアメリカをなまなましく露呈させたシーンとして、印象に残った。
あとで、サトウさんと天一でラーメンを食いながらあれこれ話。
次世代人間科学研究会。ぼくは記憶と忘却をめぐる対話実験、および「東京物語」の解析。やまだようこさんは「東京物語」に見る並ぶ身体、やりとり
する身体の話。フロアからの質問がじつに活発で、むしろこちらが勉強にさせてもらった感じ。つい最近読んで感銘をうけた「記憶の持続・自己の持続」の松島
恵介さんも来ておられて、記憶の相互作用に関する鋭いコメントをいくつもいただいた。
相互作用、というといいことづくめのようだが、誘導尋問や精神分析の偽記憶の問題のように、相互作用によって事実とはまったく異なる記憶があぶりだされてしまうこともある。そういう相互作用の魔のようなこともどこかで言い当てておく必要がある。
川野健治さんからは「二人がことばで明示できないことを有標化によって絞り込んでしまうことはないか」という質問をいただき、じつはあとで「東京 物語」の団扇づかいで話そうと思っていたことにどんぴしゃりだったので驚く。懇親会で川野さん曰く「あれはエンジェル・パスでした」。
ジャズ・ダンスをやっているという名大の河野さんに、ジャズ・ダンスの練習の話をあれこれ聞く。ぼくは「ガラスの仮面」で姫川亜弓が
やっている、首を水平にカクカクと動かすトレーニングを、マンガ的表現だと思っていたのだが、河野さんがやると、ほんとうにマンガのごとく、首が身体とは
別物のようにカクカク動くのである。真似してみたが、ヨコに首をやろうとすると、どうしても首の軸が傾いてしまいうまく行かない。たぶん、こういうこと
は、まず鏡を見て自分の首まわりの感覚と首の動きとの関係をつかまないとできないだろう。さらに、本番で鏡を見ずにこういう動きをするためには、「いま首
がまがってる」といった他人の指示によって微調整をすることが必要だろう。「鏡は模倣を越え、指示は鏡を越える」とメモをとる。そこからなぜか松浦亜弥が
異様に鏡好きで、ヒマさえあれば鏡を見ているという話になり、おそらく彼女の完璧な笑顔は日頃の鏡訓練のたまものであり、ダンサーが日々鏡により研鑽を積んでいるのと同じだという話になる。「ダンサーとは身体アイドルである」とメモ。
二次会あたりから早稲田の清水くんがすごい酔い方をしていて、ひさしぶりに「バンカラ」ということばを思い出した。三次会のバーのカウンタでズブ
ロッカを重ねつつ、やまださんと「並ぶ」関係になりつつ、受胎告知の宗教画の話。じつはやまださんもイタリア絵画めぐりを重ねているそうで、アッシジの絵
の話をあれこれ聞く。
カウンタにはボトルキープされた瓶、それぞれの瓶に残された酒量から、逆に飲まれた気配が漂ってくる。それを眺めながら、昼の質問で松島さんが、並ぶ身
体の前には、共有された環境が広がっていて、それが記憶の手がかりに利用されるのではないか、ということを話していたのを思い出す。これぞ記憶の共有地。
さらに。
考えてみると、ぼくは子供の頃から、物を忘れるということがやたらと多かった。いまもこの物忘れには悩まされている、というか、悩まなければならないと
いうことすら忘れている。その意味では、自分のことを考えさえすれば、いくらでも忘却論のネタはあがってくるはずなのだ。
問題は、どう忘れたのか、自分でなかなか思い出せないということなのだが。
明後日の発表の準備。東京物語の冒頭の解析をし始めたら、自分でも不思議なほどおもしろくなり、これはいっそ「記憶と忘却論」にまとめようと思う。
ずるさ。
原節子演じる紀子が、「わたくし、ずるいんです」というときの「ずるさ」。
そのあと、語られるのは、いつも亡くなった夫のことばかり考えているわけじゃありません、という告白だ。八年も前に亡くなった夫のことをときどき忘れて
しまうことは、なにもずるくはない。すでに義母も義父も認めている再婚をしてしまうことも、ずるくはない。それを「ずるいんです」とわざわざ告げる紀子のセリフをきいて、ぼくは二十歳過ぎの頃、あまりに潔癖なことだと感じて
いたように思う。が、いまならもう少し、その「ずるさ」のことが分かる。
亡き夫のことをときどき忘れてしまう。そのようなささいな手がかりから語り始めて、将来に対する不安について語りだそうとしている自分のずるさ。義父か
ら言い出されたということに乗じて、義母の死んだこの区切りに、自分の新たな区切りを重ねてしまいかねない自分のずるさ。その結果、義父と嫁という関係か
ら離れてしまうかもしれないことに気づいているずるさ。義父をひとりにしてしまうことに気づいているずるさ。うすうす気づいていながら「ずるいんです」と
まず言ってしまい、あとから見れば、その「ずるいんです」ということばによって許しを乞ってしまうことになるずるさ。会話によって、自らずるさへと導かれ
てしまう正直さ。
「ええんじゃよ、それで。やっぱりあんたはええ人じゃよ、正直で」
時計と時間。「母さんが紀さんくらいのときにしていた時計」を紀子がもらうこと。困ったクチから困ったクチへ、髪の一族から髪の一族へ引き継がれるもの。引き継がれることによって進む時間。紀子の乗る汽車の時間、義父の眺める連絡船の時間。
松嶋恵介「記憶の持続、自己の持続」(金子書房)の断酒会の解析を読みながら、「東京物語」で、笠智衆演じる父親が、断っていた酒を再び飲み始めることを思い出す。
断っていた酒を飲む。
笠智衆と東野英治郎が美容院の椅子に座りこんでしまうシーンがあまりに印象的なせいもあって、てっきりぼくは、周吉(笠智衆)が長いこと断っていた酒を飲み始めたのは、旧友どうしの再会がきっかけだったと記憶していた。が、今回見直してみるとそうではなかった。
周吉は、まず、原節子演じる亡き息子の嫁、紀子のアパートに行ったときに、酒を出されて「やっぱりうまいのぉ」と酒の味を思い出すのだった。さらにこの
とき、妻のとみ(東山千栄子)と紀子との何気ない会話から、戦死した次男がやはり結婚後に酒を飲んでいたことを知る。妻は「じゃあ、あんたも困ったクチ
じゃのう」と紀子に言う。
酒の味はもはや、幾重にも重なった記憶につながる。酒をなめることで、酒で妻を困らせたことを思い出す。同じように酒をなめたであろう亡き息子に思いが
行き、同じように酒で「困ったクチ」の紀子に思いが行ってしまう。自分の来訪と同時に隣に一升瓶を借りに行く機転がきくほどに、息子の飲酒は嫁にとって
困った、しかし近しい出来事だったらしい。そのように嫁が用意してくれたことによって再び思い出すことになったのがこの酒で、酒をなめるとまたそのことを
思い出す。確かめるようにまたなめてみる。つい酒を過ごしてしまう。
旧友と再会した父親はまた酒を飲む。そこでは父親が三人の中でもひときわ酒が強かったことがほのめかせられる。強いから何度も忘れ、何度も確かめること
ができる。美容院に帰ってきた父親に、杉村春子演じる長女の志げが、いやんなっちゃうなあ、ああいやんなっちゃうなあと繰り返す。酒をやめたのは次女の京
子が生まれたことがきっかけであることが語られる。
マクラ代わりに折りたたまれる二枚の座布団。
妻が亡くなった葬儀の夜、父親はまた酒を飲む。長女志げは再び父親を「おとうさん、あんまりお酒飲んじゃだめよ」とたしなめる。京子(香川京子)は喪服だ形見分けだと勝手な調子の志げについて紀子に不満をもらす。
京子と紀子は同じ側にいるように見える。しかし、「困ったクチ」という点からすれば、じつは紀子と志げ、亡きとみと志げとが同じ側なのであり、父親の飲
酒を見るのが(おそらく)初めての京子には、その酒はまだ、母の死によって再開された父親の癖以上の意味が生じていない。
髪をさわる。
紀子も、志げも、とみも、髪をさわる。髪をさわることは、髪をさわる時間以外に何も示していない。髪をさわる者は、髪をさわることで何かを伝えようとし
ているわけでもない。その空虚さゆえに、空の井戸に自然と地下水がわき出してくるように、時間が気配で満たされていく。何かを伝えようとしているわけでも
ないからこそ、三人はあたかも髪の術をあやつるある一族に属しているかのように見える。
紀子ととみが髪をさわると、カットで画面が切り替わる。髪の術は、世界を見る位置をまるごと変えてしまう。髪をさわるときにカットが切り替わった、と、髪をさわったからカットが切り替わった、のあいだ。
行為の陰。
「いそがしいんだけどなあ」といって志げが髪をさわるところではカットはなく、カメラは吸い込まれるようにその様子を追っている。時間がない者に訪れる
空虚な時間。「麦秋」で杉村春子がくるりと意味もなく玄関先でまわるのは覚えていたが、「東京物語」でもやはり玄関先で行きつ戻りつしていた。なぜこの
シーンを忘れていたのだろう。
意味づけようのない行為から、行為に表われないなにものかがもれてくると思えるのはなぜだろう。行為が世界から切り離されているから、行為が何かを含ん
でいるように見える。文脈が何かを生じさせるのではない。文脈を追えなくなったとき、そこに新しい水があふれだす。ハハキトクの電報について話し合ったあ
と、長男が、犬に吹きかける口笛のように。
講義、ゼミのあと、成田君と論文の相談。次の論文は「ことばとジェスチャーにおける繰り返し、差異化、極性化」と名づけることにする。
ネットで買った小津安二郎DVD-BOX第一集を開け、今日は「東京物語」を見る。
「東京物語」を初めて見たのは二十歳過ぎのときで、確か千日前の小津安二郎特集のときだった。
そのあと、三十前後になって、もう一度ビデオで見ている。
そして今回が三回目、こちらは四十三になる。
以前は気にもとまらなかったことが、いまでは、不思議なほど深みを帯びて見える。年はとってみるものだ。
昨日に続き、立命館大学でワイズマン上映会。今日は「臨死」。
「臨死」で驚かされるのは、この病院(Beth Israel
Hospital)では、少なくとも撮影当時、患者や家族の意志を徹底して言語化していくやり方をとっていることだ。患者に対して決定的な措置を行なう前
には、必ず患者の医師を聞く。手を振る力さえない患者に対しては、「分かったら手を握って下さい」と頼む。
しかし、患者という個人が未来を選択し決定するという考えは、破綻する。その原因は、必ずしも、患者の意識が朦朧としていることや、患者の応答能力にあるのではない。
患者の答えは時間の経過や尋ねる相手によって、しばしば変化する。医者でもない患者に選択を迫り続けることが可能なのか、医師たち自身も疑問を持つ。
末期医療の場で、「患者が選択したこと」「患者の意志」が尊重される。しかし「患者の選択」とはどういう事態か。患者の選択は二転三転する。その転じ続
ける選択のうちのひとつを、「患者の選択」としてある固定してしまう。しかし、ある時刻の選択を真の選択と見なすなら、別の時刻の選択は偽として扱われて
しまう。ここにはDVに見られた「供述書」の問題と同じ問題が見える。二転三転する供述を、「供述書」としてある時刻で固定してしまうことの矛盾。供述書
は、「ある時刻における本人の選択(供述)」を真とすることで、本人の他の時間における供述さえも退けるようになる。
廊下を過ぎる掃除夫。「WET FLOOR」という表示板。毎日更新される選択のような掃除。
過去の選択によって現在の選択が裏切られることを避けるため、医師たちは、くどいほど何度も、患者に向かって選択を問い直し、患者の選択を最新のものに更新する。ある医師は「いま決めてもあとで変更できるんだよ」と言って、患者の決定を促す。
しかし、たとえ最新の選択を採用するとしても、「選択」という行為じたいが持っている困難さは解消されない。言語化することが許されていない(患者は口
がほとんどきけない)自分の意志や思いを、医師の提示するあれかこれかという選択によって表現することを、患者は迫られている。選択によってしか自分の意
志を表現できないこと。それが患者の相対している困難なのだ。
選択という表現じたいに抗する患者。ある老患者は、今つけている呼吸管をはずしたあと、もし自力の呼吸ができなかった場合に、呼吸管の再挿入なしか(そ
れはほとんど死を意味する)、気管切除か(それは気管から直接呼吸管を入れた体となり延命されることを意味する)という二つの選択肢に対して、てのひらを
ひらひらと裏返す。うらがえすことで「どちらも」と訴える。「わからない」ことを強く訴える、老患者の弱い手。弱い手の、意志の強さ。
テイラー医師は、ある家族にこう告げる。「これは良いか悪いかではなく、辛い選択なのです」
患者の家族はしばしば「できるだけのことはすべてやってください」と頼む。そして医師も「手を尽くします」と答える。しかし、じつはその「手」がどのようなものかは常に明らかなわけではない。たとえば、ある看護婦が次のようなことを話す。
「できるだけのことはすべてやってください」と家族が頼んでくる。しかし、心臓に電気ショックを与えるような蘇生術(ワイズマンは巧妙に、この蘇生術の
映像を最初のほうで挿入している)がどのように衝撃的なものかを話して、「できるだけのことをすべてやる、というのはそういう蘇生術も含むのですよ」と諭
すと、家族は「では蘇生術はやめてください」と納得する。このような説得の会話がかわされるのが「夜中の一時のことなのよ」。
この「夜中の一時の説得」が語られるシークエンスの後に続く、夜の光景。ワイズマンの映画に必ずある、廊下のような夜。
患者も家族も、ほどこされる処置についてすべてを知っているわけではない。たとえことばを尽くして説明されたとしても、いざ実際にできごとが起こると、目の前のできごとは知識を越えてしまう。
ミーティングである医師は次のように語る。
わたしは4年間いろんな知識を学んで、脳死についても知っていたけど、はじめて目の前で見ると「え?これが死なの?まだ心臓は動いているのに?」って思ったわ。わたしでもハーバード基準には驚いたもの。まして家族にそんなことを理解しろと言うほうが無理よ。
ミーティングをする医師のことばもまた、選択の前で揺らいでいる。臨死の「ハーバード基準」やDVの「ベレス法?」(固有名詞あやふや)といった公的基
準が、単なる正当な基準として扱われるのではなく、むしろ当事者にとって納得しがたいものとして現われる。「納得しがたさ」の対象としての「法のことば」
に注意。
「DV」といい「臨死」といい、以前見た「モデル」といい、ワイズマンは一貫して、ことばの信憑性がゆらぐ場面を選んで撮影しているかのように、
いっけん思われる。いや、彼が選んでいるのは、「ことばの信憑性がゆらぐ場面」なのだろうか。むしろ彼は、徹底して「ことばを尽くす」時間を撮っているの
ではないか。そしてじつは、ことばを尽くすこと、治療を尽くすことが、必然的にことばの破れ、治療の破れを伴ってしまうのではないか。膨大な撮影フィルム
から編集された彼のフィルムに、その破れが、破れのまま残っているのではないか。
選択の不可能性が、見ている自分の知覚にまで効いてしまった例。前半、男性の老患者に向かってテイラー医師が経過と今後の処置を説明するシーンを
見るうちに、老人の顔がどんどんベッドに溶けて、一瞬奇怪なシーツのしわになったように見えてしかたがなかった。ついには見ながら一瞬うとうとしてしまっ
た。この二人の会話には眠りを誘うようなループが、何度ことばを変えながら繰り返しても選択にたどりつかないという感覚が漏れている。
立命館大学でワイズマン上映会。「DV」「DV II」。タンパで1998年に撮影された、ドメスティック・バイオレンスへの警察の出動と逮捕、施設「スプリング」での更正保護の様子(DV)、そして法 廷での原告と被告の言い争い(その多くは別れたカップルである)(DV II)のドキュメンタリ。
不思議なことに、暴力を受けた女性や男性はしばしば、警察に対して「相手は悪くない」とかばう。最初は、暴力をふるう相手が身内であるがゆえの、暴力と愛情の板挟みなのかと思ってみていた。しかし、映画が進むにつれ、どうもそれだけでは説明できない力が感じられてきた。
迂回するだけではない。迂回しながら逸脱していく会話。なぜ彼女や彼は、逸脱することがその人たちの生の証であるように語るのだろうか。
そのぼんやりとした感覚はとりわけ、施設「スプリング」で行なわれる、被害者どうしのミーティングでよりはっきりと感じられるようになってきた。被害者
たちは、お互いに自分の凄惨な体験を話し合う。そこでは、単に、被害者どうしの共感が形成されるだけではない。彼女たちは「そう、そういうことってあるの
よ」といいながら、より凄惨な、あるいはより克明な体験を語りながら、被害告白をエスカレートさせていく。人はなぜ、他人をいったんふりきることによって
しか自分を語り得ないのか。他人のことばを越え、他人のことばをくつがえすことによってしか、暴力が語り得ないとはどういうことか。
法は被害者のことばの逸脱を許さず、事を直線的に進行させる。いったん通報を受けた警察は、現場を押さえた以上は被害者がいくらかばおうと逮捕に踏み切る。そして、 たとえ家族であろうとも、というよりも、家族であるがゆえに、被害者と加害者との間に「接触禁止令」が発せられる。いったん出された起訴状を原告本人が取 り下げる場合は、懲役30日か罰金50ドルを支払わねばならない。ときには、起訴状の取り下げが却下される。
暴力は、ことばと行為の間の亀裂である。単に、暴力をふるう側にとってのみそうなのではない。暴力をふるわれる側にとっても、それはことばと体験
との間に亀裂をもたらす。警察がいかに冷静に暴力から逃れる方法をアドバイスしようと、カウンセラーがいかに暴力から姿を消すdisappear方法を説
こうと、被害者はなかなか納得しない。それは、あたかも、ことばが暴力の正体を規定することに対する拒絶のように見える。そのような解決は「不公平」なの
だ。行為がことばを裏切る事態に立ち会ったものにとっては、むしろことばが意識を裏切ること、ことばが行為を裏切ることのほうが、ずっと納得しやすいかの
ようである。
「DV」の施設「スプリング」のミーティングで、「これまで家庭では、あれこれしゃべることを禁じられてきた。ここに来てから、こうやってしゃべること
ができてとてもしあわせだ」という女性。その話のとまらなさは、単にことばが次々と暴力を規定していく楽しさというよりも、ことばが行為を裏切ってもなお
しゃべり続けてかまわないことに対する愉しさのように聞こえる。
verbalの魔。暴力について語るほど、verbalはlogicalの手を離れる。verbalは問題を解決する装置ではなく、問いを開き、謎を開
く装置。ドメスティック・バイオレンスの分類の中に「verbal
violence」があることに注意。verbalの魔をverbalで御する綱渡り。漱石の「明暗」。
「ショアー」は検事の映画であり、「DV
II」は観察者の映画である。どちらにも、事件の映像は不在である。しかし、その不在に対する態度は決定的に異なる。「ショアー」はその事件映像の存在を
追いつめ、ひたすら個人を記憶の担い手として追いつめていく。相手がユダヤ人であれ元ナチ将校であれ、相手を黙らせるところまで追いつめて空白を絞り込
み、そこに真実を求める。
それに対し、「DV
II」は、検事どころか傍聴人の映画ですらない。それは、加害者と被害者のことばから事件を構成することの困難さが浮かび上がっている点で、「藪の中」を
彷彿とさせる。が、延々たる法廷の場は、もはや「真相に手が届かない」といった「藪の中」の残念よりもさらに遠くまで行ってしまう。傍聴人の残念よりも、
むしろ、飽くことなく物語をつむぎ直されては逸脱することばを浮かび上がらせ、その魔を形式的に終わらせてしまう法のことば、法の身振りを浮かび上が
らせる。原告に被告を指さし確認させる弁護人の語りの紋切り型を浮かび上がらせ、食い違う被告と原告に対して「接触禁止令」という宝
刀を振り上げる裁判官の紋切り型を浮かび上がらせる。相手を黙らせるまで語り続けてやまないことばの魔を浮かび上がらせる。
上映後、鈴木一誌さんの講演。「ワイズマンの映画には廊下がよく出てくる」という指摘を聞いて、「ツィゴイネルワイゼン」の坂、「映画史」のタイ
プライターを思い出した。カメラと録音機がセットになった60年代ごろからドキュメンタリーというジャンルが成立した、という指摘には目からウロコ。絵と
音のシンクロとは、技術ではなくコードなのだ。いま見ている絵から音が出ている、それは技術に支えられている、という信念によって生じる映画。
打ち上げにおじゃまする。主催者の渡辺公三さんから、フランスにいるときに、ブニュエルの「欲望のあいまいな対象」に日本人役で出演したという話を聞く。今度見直してみよう。
いつもコミュニケーション研究会でいっしょになる分藤さんも来ていて、じつは上映にかかわっていると知り驚く。そういえば、分藤
さんには二年前にもワイズマン上映会で会ったのだった。鈴木さんご夫妻とは、大学の講演会にいらしたときに、これまたたまたまワイズマン話で盛り上がって以来だ。鈴木さんといえば「ページの力」なのだが、そういえばDV
IIで、裁判官が被告を呼ぶとき、ページ番号で呼ぶことで、その日の仕事量を感じているように見えたのを思い出して、あれはページの力ですね、と言う。
個人主義の破綻。「私」を孤立させ、「私」に思考や記憶の責任のすべてを負わせる立場は、いつか破綻するだろう。なぜなら、思考や記憶はそもそも
一人で生成されるものではないからだ。「集合的記憶」とは、可能性ではなく、必然的につきまとう限定条件である。「共有地」もまたしかり。
個人主義とは、じつは「罪が誰にあるか」に由来する、責任の分配方式のことではないか。思考や記憶の責任の所在は、法によって要請されるものではあって
も、わたしたちの思考や記憶のあり方を規定するものではない。供述分析によって明らかになる供述の誘導を、単に間違った記憶の生成過程として扱うなら、私
たちは個人に正しい記憶を負わせすぎることになる。
そもそも記憶とは構成される過程であることを認めた上で、どのような構成がありうるかを考えること。
ナカニシヤ書店の酒井さんが来て、出版に関して話。つい、会話分析の本はどうでしょうか、と水を向ける。ああ、また仕事を増やしてしまった。
病後の志ん生が語る「寝床」のマクラは、なぜ何度聞いても笑えるのだろう。なにかくだらない、まとまりのつかないことから始まる話。「でー、声を出すということは、たいへん薬だそうで」といって から、銭湯で声を暖め、声を試していくその様が、そのまま、落語を暖め、落語を試していく志ん生に重なる。「ええええ」とぶつけるように発してから、高み に向かって消えかかる煙のように細くなっていく声。体の弱さゆえによけいに力を入れて暖められた声が、弱さを遠さに変換しながら離れていく浮遊感。そして それはブーメランのように、いきなり舞台に戻ってくる。