The Beach : Oct. a 2003


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20031015

 気がつくともう十月の半ばか。やらねばならぬことは山積している。山積しているならとっととこなせばよいのだが、十月の夜は気配が濃すぎる。ゼミをこなし、大学業務をこなすうちにその夜が来る。浅井さんと大岡君が来て、古隠家、ハッシュとはしご。

 夜中にポリオラマ用の透かし絵を作る。木版画をスキャンして、それを表と透かし、二つのレイヤーに分ける。ポイントは、透かしのレイヤーを描くと き、ただ透かしの事物を描くだけでなく、表の事物を覆い隠す影と光をつけること。たとえば、透かしによって月夜を見せたい場合は、ただ夜のレイヤーに月を 描くだけではだめで、月によってできる光と影をすべて書き入れていく必要がある。
 ・・・というわけで描いたのが下図(左が表のレイヤー、右が透かしのレイヤー)。透かしのレイヤーで、右の人物の周りを影で覆ってあることに注意。効果は劇的になったが、色はどうにも悪趣味になってしまった。 



20031014

 会議が終わると強い雨。十月の昼の冷たさは、夜の空気をはらんでいる。ここのところ寝しなには志ん生の落語を聞いている。永井龍男の書く、十月の夜の濃さが分かるような気がする。


20031013

 パリでダゲール見物をして以来の懸案だったポリオラマの作成を始める。
ポリオラマ、というとなんだか難しそうだが、要はレンズと二つのフタのついた覗き箱である。透かし絵を見るために、天井と後ろの二カ所がフタになってお り、二つのフタは針金で連動されている。上を閉めると後ろが開き、後ろを閉めると上が開く。後ろが開くと後ろからの光で透かしが見え、上が開くと絵の前方 が見える。この二つが連動して、一枚の絵に仕組まれた昼夜二通りの光景が、ゆっくりと交代しながら見える。つくりはいたって簡単なのだが、そのディゾルヴの美しさは、光 源の強さを調節するよりもずっとナチュラルである。

 まず、写真を見ながら、簡単な設計図を書く。ほとんどは100円ショップとホームセンターでなんとかなりそう。
 ダイソーで虫眼鏡をゲットし、アヤハディオで絵葉書幅(約9cm)のヒノキ材を買う。あとはアヤハディオの工作室(無料!)で作業。足りない部品をすぐ買い足しに行けるし、工作道具も充実している。DIY用具を自分で揃えるよりもここを使うほうが、ぼくにはよほど便利。

 さて、ポリオラマのポイントは、完璧な暗箱を作ること。まず中を墨汁で真っ黒に塗ること。これは透かし絵効果を高めるために重要。縁から洩れてく る光を遮るために、オリジナルのポリオラマにはフタのすぐ内側に内枠が仕込んであるが、これは冷蔵庫用の防振パッキン(黒いし加工しやすい)で代用した。 材は手動ののこぎりだとどうしても切れ口が微妙に歪むし、コンマmm単位の狂いが出てしまい、隙間の原因となる。電動ノコなどで正確にスパッといきたい。
 もうひとつ、覗き穴に筒をつけること。こうすれば、覗いたときに鼻が本体にあたらないし、目にぴったり筒をくっつけさせることで、外光をシャットアウト でき、完璧な没入感が得られる。筒を作るには、水道管のパイプ部品の中から適当な口径のものを選んで切断して代用とする。
 また、二つのフタを連動させる針金は、クリーニング屋でよくもらうハンガーを切って代用した。


 今回は、いきなり木製で作ってみたが、同様のものは紙製でもできるだろう。また、レンズなしの簡易バージョンも考えられる。
 ただし、レンズを用いることで、目の焦点距離が短くなり、より箱はコンパクトになる(逆に、レンズを用いない場合は箱はより長くなる)。またレンズを介すことで映像に独特のなまりが出てより「覗いている」感じは出る。


20031012

 自宅であれこれ仕事。夜、青山さんと田尻さんが来る。ゆうこさんと田尻さんがやっている六甲山のワークショップビデオを見つつ、小学生に教えることの楽しさと困難さについて。


20031011

 文楽チョキチョキの会。竹本相子太夫さんの解説で義太夫の勉強。お軽と勘平のやりとりを相子太夫さんについて声に出す。登場人物の声や口調を区別 することを「語り分け」という。語り分けの基本テクニックに「かける」というのがある。これは片方のことばが終わるか終わらぬかのうちにすばやく次の人物 のセリフをたたみ込むこと。さらに、口調のスピードも瞬時に切り替える必要がある。じっさいに声を出してみると、女声から男声への切り替わりがなかなか難 しい。これは落語や講談などの一人語り全般に通じる技術だろう。
 もうひとつ、「盗む」というのも習ったが、これはちょっと説明がむずかしい。テンポをよくするために編み出されたものらしく、たとえば「両腰さして出られふか」というところを、「両腰さしって出られふか」と、ちょっと撥音便気味に間をあける。
 一人、歌舞伎好きとおっしゃるご高齢の方が来ておられて、この人はじつに感情豊かによい声でやられるので驚いた。

   大阪駅でサンドイッチにビールを買い込んで、山下さん、宮下さんと飲みながら近江八幡へ。移動というより旅行に近い。町家であった野間家に新たに作られたギャラリーで「記憶の測量計〜近江、町屋の月あそび」。
 八幡山の上にサーチライト光のような灯。会話が途切れると、この灯の回転が空間をスキャンし、藤本和音が持続するという、油断と隙をがっちりキャプチャーする月見作品。
 畳部屋ということもあってだろうが、どの部屋にも基本的に畳の上には物は置かないことで逆に空間のよさが出ていた。違い棚に並べられた障害者の人たちの 作品は、おそらく原作はもっと奔放だと思うのだが、あえて切りつめたレイアウトになっており、それが緊張感を出していた。これは藤本さんの意図だろう。床 の間に「チーター・チーター・チーター」という字が記憶に残る。ところが「障害者の人たち」と書いて、その名前を思い出せないことに気づいた。

 下の蔵には節穴を利用したカメラ・オブスクラ、それが戸外の光景ではないところがミソ。襖の隙間から洩れてくる光を使った笹岡作品は、キュービック・ギャラリーでの太陽光インスタレーションを彷彿とさせる。
 民博の佐藤さんと話。「家族の時間は一定に流れていない」ということについて、時間の観測法もふくめてあれこれ。


20031010

 ゼミ。夜、ビッグバンド部のライブにちょっと出て、ふなずしの唄を歌い、「ルンバでブンブン」のキーボードを弾く。その後、何人かの学生と話すが、こちらが何かのときに言ったささいなことというのを学生の人はじつによく覚えているものだということがよくわかった。


20031009

  朝、渋谷ユーロスペースで中平康レトロスペクティブ。
 「泥だらけの純情」。このころの黛敏郎音楽ってじつによくできてるなあ。劇中、 吉永小百合演じる外交官樺島家の令嬢が、浜田光男演じるチンピラを「プロテウス弦楽四重奏団演奏会」に誘うのだが、演目が、シュトックハウゼン、武満徹、 黛敏郎(!)。浜田光男は、当然聞きながら眠ってしまう。演奏会の主人公を眠らせ、映画の主人公を踊らせる現代音楽のおもてうら。
 「自宅天文台」が上流ステイタスになるとんでもない時代、どう考えても現実ばなれした吉永小百合の行動が、途中から可愛く見えてしかたなかった。
 ピーナッツの入ったビニル袋の薄さがたまらん。それを揉み出すように半分に分ける浜田光男の「不器用な」手つきも。そして兄貴がじつにいい味。愛情たっぷりに舎弟をハメる肩たたきのぬくもり。
 「危いことほど銭になる」。冒頭、ゆっくり舞う札束と主題歌を中断する「やばいことならゼニになる!」。浅丘ルリ子のユニセックス性がアクション・コメ ディに裏返った怪作。が、途中で眠気に襲われてしまった。閉じこめられたら天井を開けて脱出、は、エレベーターシーン黄金のパターン。左ト全の高笑で目が 覚めた。

 神田でさらにあれこれ買い物。徳川夢声の「甘茶観察記」を買ったら、正岡容の見世物考のパンフレットがついてきた。その正岡容の「東京歳時記」は、正岡容全集と内容が重なるものの、吉井勇の十二階の歌に始まり、浅草懐古に満ちており、買わざるをえない内容。
 彦根に戻る車中で、岩波の「ギリシャ・ローマ神話」。講義で天使の話をぶつには、ギリシャ・ローマ神話は必須ともいえるが、なにしろ顔と固有名詞を覚え るのが苦手な「代名詞の迷宮」の住人なので、神話に登場する名前などかたっぱしから忘れてしまう。確か、子供の頃、「星座物語」か何かで、星座になった名 前の由来はおよそ読んだはずなのだが、どれも初めて読むような読後感。
漱石の書いた野上弥生子訳の序文は、自分の聖書とギリシャ神話について「非常に貧弱なもの」として、ひたすら序文の依頼を迂回する内容なのだが、これは単なる謙遜ではなく、固有名詞の列挙による神学趣味が肌に合わなかったからではないかと思う。


20031008

 東京へ。もうあまり本は買うまい、と思いながら、森銑三が並んでいる本屋でつい未読のやつをあれこれ買ってしまう。さらにおもちゃ絵も。
 神保町で青土社の宮田さんとあれこれ相談。そこから映画の話にスライドし、中平康レトロスペクティブのちらしをもらう。

 渋谷に出て、「ドッペルゲンガー」。「M」的口笛。殺すことを思いつくまでの長さと殺す瞬間の速さの対比。三分割画面の操作は、近年のビデオ作家 が多用する気まぐれな画面分割に比べてずっと考えさせられる。特に人間だけでなく空間がドッペルゲンガー化する部分。後半の冥界巡りはあたかも「霧の中の 五マイル」。
 自分が二人いることの「非日常性」ならぬ「日常性」を愉しんだことは認めた上で、率直な感想。役所広司が気負いすぎていて少ししんどい感じがした。「と んかつ弁当」のやりとりなど、もっと別の間がありえるように思う。永作博美は「ああ、なんかどうでもよくなってきちゃった」と言うあたりから、ただのバカ に見えてしまった。柄本明の抜けた演技とユースケ・サンタマリアの素直な狂い方楽し。

 新宿に移動、タワーレコードでERATOの廉価版を買って宿で聞く。しかし、タワレコが23時まで開いているとはね。山手線の液晶画面には「やせ るってすばらしい!」の連発。狂った週刊誌の中吊り広告。隣に立っている女性が読んでいるのは「他人に心理戦で負けないために」。ほんとに東京ってどうか してるね。


20031007

 天王寺の大阪市立美術館「円山応挙展」へ。朝8時に彦根を出たのだが、着いた頃にはすでに20分待ちだった。
 このところ展覧会に行くたびにメモをとるのが楽しい。輪郭をヘタクソになぞるだけでも、見ているときには気づかなかったことが頭に入る。瀧の何もない激しさ。空白の力。一点透視法を描き破る氷のひび。屏風の曲を越える龍。襖を越えて身を伸ばす梅。

 龍の身を屏風に分かつ気配あり
 盛るほど遠き木の枝(え)の孤独かな
 遠き絵に花なき枝を届かせり

 フェスティバルゲートで山下さんと会い、CP(カルチャー・ポケット)の文楽記事インタヴュー。次号に掲載予定。CPは大阪市の出している芸能芸術情報雑誌。地下鉄駅などで手に入ります。
 帰路途中、京都に降りて、ギャラリーそわかで池田朗子展。起こし絵と似て非なる魅力。ありえない背景に「起こされた」物の小ささ。


20031006

 講義。予定通り前半は「受胎告知論」とする。まずはルカ伝の翻訳を配り、それをもとに受胎告知の絵を描いてもらい集める。森永エンゼルからサンリ オ、はてはエヴァンゲリオンにいたるまで、さまざまな系譜の天使登場。告知の背景もさまざまで、これでしばらく講義のネタは尽きそうにない。


20031005

 片岡さんの発表を聞いた後、社会言語科学会を抜けだし、心斎橋へ。

 タワレコで安田謙一「ピントがぼける音」を見つけ、著者にピントの合う音を送るべく購入。たまに((c)叶姉妹)書店の音楽コーナーでミュージッ クマガジンを手にとっては「安田謙一」の署名記事だけ読んで棚に戻すワタクシの、ゆるい読書生活に鞭なす濃縮の一冊。90年代になって遅ればせながら シャッグスとジョー・ミークとレイモンド・スコットに驚き、初めて手に入れた留守番電話の着信メッセージに「I hear the new world」を吹き込んだ自分にとって、あらためて思い当たるフシがありすぎる。むろん、思い当たらないフシも盛りだくさんなのだが、知らないフシは聞こ えなくとも、聞こえている頭のぐあいは分かってしまう「音のない歌謡曲」の不思議。3ちゃんロックも花文記事もたっぷり入って、これを読まずして何を読 む。

 複眼ギャラリーで電子音楽の数々。寝不足の身体に5時間という長丁場にもかかわらず、(途中で飯を食ったが)ほとんど飽きることなく楽しめた。指 吸さんの、演奏というよりは探索に近いダウジングワールドに衝撃を受ける。ユタ川崎のタフなアナログシンセ演奏には、落語を聞くような緩急が聞き取れた。
 手の届かなさが取り返しのつかなさに変換する瞬間を「事件」と呼ぶなら、宇波拓ソロはじつに事件に満ちた時間だった。


20031004

 阪大の千里キャンパスへ。社会言語科学会。対話における記憶の相互作用について発表。わりと受けがよかった。造成地の植生を見ていると遠い昔に 行ったような感じにとらわれる。掘り起こされた土を固めた土地にヌスビトハギが咲いている。病院のスカイラウンジにのぼると、正面に万博記念公演があり、 そのはるか向こうに大坂の町の灯。太陽の塔はうしろを向いている。
 ある研究者から「ちょっとおたずねしたいんですが」と声をかけられ、てっきり研究の話かと思ったら「そのTシャツ、どこで手に入れられたんですか?」  なんでも、テキサス大学のオースチン校に留学していたそうで、通学の途中にいつも見かける、カエルのようなナメクジのような奇妙な絵に惹かれ、写真におさ めたこともあるという(たぶん、あのレコード屋のことだ)。DJ、という署名があるので、てっきりどこかのDJが遊びで描いたのだろうと思っていたそうだ。
 というわけで、私がその夜着ていたのは、DJならぬ、ダニエル・ジョンストンのTシャツでした。
 夜は例によって二次会、三次会で夜中過ぎまで。



20031003

 ゼミ。明日の準備。今日は酒抜き。リポD飲んで徹夜。



20031002

 ゼミ。明後日の準備。がーっとデータ解析をする。  朝の連ドラ「てるてる家族」は、唐突な唄の挿入も含めてなかなか楽しい。少なくとも「こころ」に比べたらはるかに編集がまともで脚本がわかりやすい。浅 野ゆう子には前々から、芸能界で長年防衛戦線を張ってきた人ならではの、能面のようなとりつくしまのなさを感じているのだが、そのスーパーフラットな表情 によってミュージカル部分と日常部分がシームレスになっている。赤ん坊の前で椅子に身体をのけぞらせて唄う彼女は、そのうちホットパンツで「セクシー・パ スストップ」を歌いかねない勢いである。



20031001

 会議。夜はテレビを見てだらだら過ごす。




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