夢路いとし死去。叔父さんが亡くなったように寂しい。
いとしこいしのおもしろさはなんといっても声の対比にあった。
息の量に比べてやけに声帯の鳴りが少ない、いとしの声。その薄い声が、こいしの低くてすきまだらけの世間の声を容易にくぐり抜け、ウチやキミんちの内輪の事情をさらりとなでてゆく酷薄さ。そのなで声が、ときどきとてつもなく攻撃的になって、世間をたじろがせる楽しさ。
「がっちり買いましょう」で、いとしの口のアップから繰り出される七万円五万円三万円運命の分かれ道。その頃、TVカメラの前のシロウトは、ピースしたりオーと手を挙げたり芸人にタメ口をきいたりはしなかった。いとしのマシンガンのような早口のあとに、こいしにうながされておずおずとゲームに参加する出場者を見て、ぼくはオトナの世界のためらいや恥じらいや、そこにひそむずるさや思い切りにふれた。そして、どんな運命であれ最後はカレーで帳尻
を合わせうることを覚えたのだ。
会議。棚瀬さんに紀要の〆切を聞いたら「あ、もうゲラまわってます」とのこと。あらら。継子いじめの論文を入れるつもりだったが次回に持ち越しとなってしまった。
とはいえ、次回まで置いておくとあれこれ忘れてしまうに違いないので、さらに忘れないうちに書き足す。
フィレンツェで買った電球傘がようやく届いたので、さっそくうちの電球スタンドにつけてみる。ついでにアヤハディオで光量調節器を買ってくる。この傘は透かし絵になっていて、光を落としていくと絶妙な夕暮れになる。猫にひっかかれないかが心配だ。何しろ表側は紙なので。
文献コピーが貯まり過ぎて頭がわやになりそうなので、その透かし傘のもと、一枚一枚読みながら分類し直す。意外に忘れていることが多い。国内の図
書館では、とにかくこれだと思うところにかたっぱしからしおりを入れ、ばんばんコピーに出していた(そうしないと時間がもったいないないので)のだが、
これをやってると、忘れることが多すぎる。
今回、たっぷりと時間をかけて図書館に通ってよくわかったが、文献はしゃかりきにコピーしてもダメで、その場で思い
ついたこと、コピーする理由を必ずノートにとった方がよい。
旅立つ前に放っておいて継子いじめの論文を仕上げにかかる。
「浅草十二階計画」WWWが復帰。ふう。viurtualave.netにはずいぶんメールを送ってようやくなんとかなった。いろいろ文句はあるが、とりあえず直ったので略す。旅行中の日記(長い)をすべてアップロードしたので興味のある方はどうぞ。
時差ぼけなのか眠りが浅い。午後、博覧会研究会。NY万博の頃のビデオを見ると、まだ民族博的イメージがつよい。寺下さんから、シカゴ万博のイラストを額装にしたものをいただいた。うれしい。
自宅。資料整理など。夜にハッシュ。建築事務所に進んだOBの人たちが来ていてあれこれ話。
関空から羽田行きのチケットをとるが、ここでも空席待ち。フライト10分前、直前で満席となり、あきらめかけたときに「あ、ぼくキャンセルしたい
んですが」という人が奇跡のようにカウンタに現われる。連れ合いの彼女が「ちょっと待ってよ、キャンセル料をきいてからにしなさいよ」といらぬことを言う
が「いいよいいよ経費で落とすから」と太っ腹な彼。ありがとう!
ホテルに荷物を置いて一時間ほど仮眠。それから身振り研究会へ。野辺さんの外国語学習者のジェスチャーに関する話。ビートという概念は、数を数えるため
の道具ではないか、という気がしてくる。つまり、計量的にジェスチャーを扱うときに必要とされる概念であると割り切ればよく、他のジェスチャーとは排他的
な質を持ったものではない。むしろ、質的に問題となるのは、「繰り返す」という現象だ。ある繰り返しが単なる繰り返しではなくなるポイント。
飲み会で考えたこと。記憶とは同定することであって、同じ記憶があるわけではない。記憶には同定可能な形が求められる。この同定可能性に記憶は拘束される。他人と話しながら生成される記憶が、しばしば記録と異なるのは、記憶がお互いの同定可能性に拘束されるからである。
ピンポンのサーブのごとき絵葉書送る
時差ぼけに負けてときどき眠りこけているため記憶があいまい。
宿に帰り、さまざまな夢に眠りをさまたげられる。