月別 | 見出し(1999.1-6)



19990215
▼コミュニケーションの自然誌研究会で、カメルーンの手話を研究している亀井氏の発表。いやあ、目鱗ぼろぼろな話いろいろ。

▼手話でだじゃれってあるんですか(つまり、手型などが似ていることばどうしがリンクすることってあるんですか)と質問したら、亀井さんが「あ、あります」といって答えてくれた例がおもしろかった。「トイレを探して、がまんがまん、ああすっきり」という4コママンガのようなポエムがそれ。といっても、これだけではいったいなにがおもしろいのかわからない。▼「トイレ」は、手話ではCの指の形をとる。「探す」は指をわっかにして目の回りでくるくる動かす。つまり、トイレを表す手の形が、じつは「探す」という動作を表すときの指の形に似ている。「トイレを探して」というとき、トイレであったはずのCの指が「探す」という動作に乗り(このとき指はわっかに閉じられようとする)、目の回りでくるくる動かされる。さらに、「がまんがまん」というときに、手は下に移動していくんだけど、わっか状の指の形はそこで保持される。トイレを形象する指の形が、「探す」「がまん」という所作に受け継がれることで、トイレという器であるだけでなく、排泄されるべき何かを表しているように見え出す。「ああすっきり」という所作で、その手の形が解消される。▼こういうことって、音声のことばでは起こりにくい。音声はリニアに次から次へと単語を並べていく。たとえば「トイレ」と声に出せば、そのことばはもう戻ってこない。「探して」というときに、「トイレ」という声が平行して鳴っているわけではない。ところが、手話では、「探して」という所作に、「トイレ」がのっかることができる。手話では、手の形(手型)と手のひらや手首の向き、手首から先の運動、さらには腕も含む手の移動といった、さまざまな要素が連合したり平行して意味を伝えることができるからだ。▼たとえば「男が行く」というシンプルな手話を考えよう。この場合、親指を突きだした手が移動する。こう書くと、「まず親指を突きだして静止、それから手が移動」のように思えるかもしれないけど、じっさいには、立った親指が移動しているのが見える、という感じ。「男が」「行く」と、時間を追ってわかるのではなく、「男」と「行く」が一挙にわかる。すごい情報圧縮率。ちなみに、「結婚」は親指を突き出した右手と小指を立てた左手が両側から合わさる。男と女の移動とその方向が、一挙に表現される。

▼音声にも、発音以外の要素、たとえば抑揚やアクセントがあって、文の変化にあずかる。しかし、それは意味を平行して伝えているわけではない。たとえば、あることばを抑揚を変えて言うことで、ことばの機能は変化するが(たとえば平叙文が疑問文になったり、皮肉な響きを伴わせたりはするが)、それは機能の変化であって、複数の意味を平行して伝えるわけではない。たとえば「男が」と言いながら、抑揚やアクセントによって「行く」を伝えることはできない。いっぽう手話には、主体と動作を同時に伝えることができてしまう。

▼手話で、指示語はどう使われるか。たとえば、「お土産」という所作をした後、その荷物をとったり忘れたり移動させるとき、いちいち「お土産」の動作をする必要があるのか。どうやらそうではないらしい。お土産をめぐるひとつのエピソードを語るときは、お土産は目の前の空間の特定の位置に置かれ、その位置がお土産の場所となる。その場所で指し示されたり、その場所で(その場所から)操作されるものが「お土産」となる。▼目の前の空間に登場人物や事物を配置し、それを操作するしぐさは聴者でも見られる。となると、その方法には、ろう者と聴者でどう違いがあるか。

▼飲み会で、自動車事故って特別だよね、って話。自動車事故って、交番に死亡者の表示があって、毎日「死亡者何人」って表示されるけど、ああいう現象ってほかにない(「マイクロ・エシックス」参照)。たとえば、インターネットというメディアが原因で死亡する人がいたとして、それが「インターネット死亡者●名」って掲示される可能性ってまずない。でもそれってヘンじゃないか。たとえば、インターネットにアクセスしたとたん、「昨日インターネットで死亡した人は●名です」と表示されたらどうか。

▼菅原さんから「フリッカー」の話。

19990214
▼でかいドット絵を作るツール「Dotage!」THE EV FILEに追加。ドット時代だからDotage。Dotageにはもうひとつ、「もうろく」って意味がある。しかし寒いですな。

老人の 力もなくて これって雪?

おっと17文字になってしまった。ここにDotage!で作った絵があります。 ▼元禄繚乱のオープニングCGいいよなあ、あの光琳川。いっぽうダサいぜあの音楽。「徳川慶喜」の弦と金管の拮抗がなつかしいよ。萩原健次の演技は、まるでいくつかの役のカットアップのよう。日本のジャック・ニコルソンってこういう形?▼長い説明が入るときに、関連映像をインサートするスタイルが「電子立国・日本の自叙伝」風でおもしろい。第一回のやつが特によかったんだけどな。石坂浩二演じる吉良上野之介が「茶の道」「俳諧」っていうときに、白の蓮の花と紅の蓮の花がインサートされるところとか。

19990213
▼ゲーム批評、ドリキャス雑誌等を立ち読みするが、戦国TURBに関するまともなことばにお目にかかったことがない。新しいものには、とりあえず「ヘン」とか「ヘンじゃない」とか「(笑)」とかそういう語彙が並ぶのが世の常だ。つまりいまだ輪郭のないものにはとりあえず、いままでと違うとか違わないとか言っておけば、何かの輪郭に触ったような気になるのであり、さもなくば笑っちゃうしかない。▼で、ここにおこがましくもわたくしの書いたコピーを記しておく。聞いておどろけ見て笑え。

戦国TURB讃

ついに個人的一大スペクタクルの幕が開いた。
ここは、わたしという戦国。
ねことひつじ、左目と右目、背中の表現者と腹話術師の戦い。
ねこなのひつじなの?左目なの右目なの?表現なの腹話術なの?
残酷な問いが、花火のように打ち上がる。
こんな戦争見たことない。でもいま、いま起こってるんだ。



▼ステレオグラムを見るために、偏光グラスをかけ、ノーマルなヴューマスターのヴュワーをつける。これはこれで正しい。しかし、ここに、ステレオグラム自体ではなく、ステレオグラムを見てるやつがヘン、という現象がある。よく全員がメガネをかけてワオッ、って写真がメディアな雑誌に載ってるでしょう。あれだ。彼や彼女らが見てるのがいったいどんな世界かはわからない。でも、それを見てる彼や彼女らがトチ狂ってるのはわかる。あるいはミッキーマウスやビッグバードの顔のついたヴューマスターのヴュワーを見ているやつ。そいつが見てる世界もさることながら、そいつの姿が馬鹿馬鹿しい。▼ステレオ、というのは、左右違う世界を見ることによって生まれる現象だ。それをいちばんよく表現してるのが赤青メガネ。あれは、左目と右目に違う世界を見せるツールでもあるが、同時に、左目と右目が違う世界を見ていることをお見せするツールでもある。赤青メガネを見ているステレオ者は、自分の左右の目が違うものを見ていることを我知らず表現してしまっている。▼もちろん、赤青メガネをかけるまでもなく、ぼくらの左右の目はそれぞれちょっとだけ違う世界を見ている。左右違う世界を見るためには赤青メガネは必要ない。というわけで、じのちゃんが赤青の目をしているのは、じのちゃんが生まれながらの表現者である証拠なの。

▼考えは日々変わる。だから日記を書いて人にお見せする、ということは、昨日言ったことを今日くつがえし、それを人にお見せすることをよしとする態度だ。書いたことに責任を持たない、ということではない。そもそも書いた本人に責任を持つつもりがあろうがなかろうが、責任というのは受け手と発信者の間に発生するものだ。変わることを容認する態度を人にお見せして、変わる責任が発生する。

19990212
▼寒い。この世に生まれなおしたことを呪いつつ起きあがる。鈴鹿山脈にも伊吹山にも比良山系にもあやしい雲がかかって、露骨に雪雲だとわかる。ああ、それがこっちにやってこないでほしい。▼おじゃる丸の最終回をみはぐったと思ったら翌日からまた第一回が始まってるらしい。どこまで終わりなきまったりとした日常?

▼電書ボタルの電ボがかわいいのは足が三対あるから。踊ってるときもおにぎりをにぎってるときも、真ん中の一対が腕を組んでるとこがいいんだ。いつも心に第二対。

▼藤居本家から酒粕。甘くなく香ばしい。焼くと、外が焦げて中がとろけて得も言われぬ風味。

19990211
▼滋賀県立大学の学生が運営している「ACT」へ下見。じつはここで来月、DJけろっぐが出る予定なのだ。▼前に来たときよりも一段と調度がそろってた。仮設だけどトイレもできてた。今回は屋上まで上らせてもらったんだけど、町が一望できて、なかなか楽しい。甍の波のありかがよくわかる。こういうところから町を眺めながら、都市論とかレクチャーするのっておもしろいんじゃないか。▼あと、こういう雑居ビルの記憶って、ゴミ以上廃墟未満の中途半端さがあるんだけど、それをきっちり中途半端に昇華させる方法が問題。たとえば煉瓦づくりの京都の第一勧銀みたいに、明治以来の伝統を引きずってるのとはわけが違う。半端には半端な記憶の堆積があって、それが澱を作っている。ヘアサロン、宿直室、スナックの革張りの壁、その澱をお見せしつつ、それが別の機能を帯び始める瞬間を、どう切り取るか。

▼携帯ビートマニア風29*29ドット絵を、白線入りのアニメーションにするスタックを作る。ほんとはDottyなんて名前でアップしたいところだが、人に使ってもらうためには、ユーザーインターフェースづくりにえらい時間がかかってしまう。というわけで、当面自分専用。そのDottyで作ったアニメーションを表紙に貼ってみたので、まだ見てない方はどうぞ。もういっちょう、こっちにも別のアニメーション



19990210
▼携帯ビートマニアのあのドット絵の感じって、スタックのアイコンアニメーションの感じに似てるんだな。というわけで、旧作を編集してこんなアニメーション作ってみました(この上のやつ↑)。でもちょっと違うな。何が違うんだろ。▼携帯ビートマニアの画面はひとつひとつのドットが白いラインで区切られている。だからドット感が高いんだ。ってことは、ドットとドットの間に白いラインを引くようなスタックを作っちゃえば、ドット感が高まるんじゃない?。▼ムームー星人フリークなら買うしかない「ポケットムームー」。買いましたよ。で、やり始めてるんだけど、うむ、このあまりに基本的なミニゲームはなかなかいいぞ。でも、ポケットステーションをゲットしないとな。▼ひょんなことからJimmy Corrigan探訪。この空の色、この色の空のなさ。

19990209
▼浅井さんが携帯ビートマニアを持ってくる。さっそくやらせてもらうと、お、いいなあ。アーケードのビートマニアにはいまひとつ食指が動かなかったけど、これは支持。なんといってもこの、波が湧いてくるよなドットアニメ。そしてちっちゃいスピーカーから聞こえるコンプの聞きすぎた音。こういう限界にぶつかってる音っていいんだよな。いいねえ、この音と絵。携帯ビートマニアを筐体にしてソフト作りたいくらい。

▼と思って、久しぶりにCD屋に行き、「虫プロアンソロジー」。ほら、この「リボンの騎士」のテーマだよ。ユニゾンで奏でられるメロディが、レベル振り切って歪んでる、この感じ。この割れた高音にしびれたんだよな。▼AMラジオのチューニングはどこで「あってる」と判断するか?ぼくは中学の頃、ずっと、高音がやたら強調されてヒリヒリ言うあたりがベストだと考えてた。いちばんノイズが減る周波数では、確かにノイズは少ないけど、音がこもり過ぎてて輪郭がはっきりしない。そこから少しはずれてた方が、音が出るたびにちりちりとひび割れるような響きがして、よりラジオらしいと思った。

19990208
▼壁に貼った絵を見ようとして、何か変な光が来るのに気がついた。光は画鋲から来ている。画鋲の頭にTVが映りこんでた。TVがちかちかするから変に見えたのか。いや、そうじゃない。光が浮き出てるんだ。これはSFでもオカルトでもない。そうだよ、画鋲の頭はちょっとへこんでる、だからミニ凹面鏡になってるんだ。凹面鏡は、鏡より少し手前に像を結ぶ。だから空間に像が浮いてるように見える。この画鋲の頭に、まさにそれが起こってる。▼小さくて手にとれそうな光。

19990207
▼ひさしぶりに検索エンジンでステレオ写真やステレオグラムのページを検索したらけっこうあるのに気づいた。じゃ、こういうのも需要があるかも、というわけで、むかし作ったステレオグラム関係の旧作スタックTHE EV FILEに追加。▼アップロード前に何年かぶりに旧作を見直してみたんだけど、どれもモノクロ画面でなまじ色がない分、奥行き感が潔くて、けっこう気持ちいいじゃないですか。奥行き感以外の感覚、フェイドイン・アウトやドットアニメーションに対する志向がほの見えるのも、ひとごとのようにおもしろい。▼3D Paintみたいなソフトは、なんか熱に浮かされたように作ってたんだろうな。いま作れって言われても絶対無理。▼考えてみると、こういうソフト作ってから、もう6年以上経ってるんだな。小学校に入学した子が卒業する時間だよ。iMacでも動くので、iMacユーザーの方もここで HyperCardを手に入れて試してみて下さいな。

▼夜中にNHK教育でモザイク・カルテット。ベートーベンの弦楽四重奏(Op. 131)。前の音が粘り着くように次の音へ向かう古楽器の音。ふくらみをずらせていくアンサンブル。弓が弦をひきずろうとしてその面の一点から一点へと弦が跳ねるのがわかるような、ぎいというきしみ。弦楽器って擦音楽器だったことを思い出した。▼ベートーベンには呼応や繰り返しへの不信がある。メロディが楽器から楽器に渡ろうとして、それが的確なリズムに乗らないように、相手のフォルテに忍び込もうとしたり、ピアノに弦の擦れを割り込ませようとする。誰かが皆まで語らぬうちに、誰かが別の話にしてしまう。そんな不信に気づかぬかのように、ときどきユニゾンになる。▼メロディはなぜ、共にあることが許されるのだろう。会話では、二人のことばが同時に響くことは、あまりない。共にあることは、音声に許されてことばに許されにくい。それでいて、音声にこっそり忍び込む、ことばのような抑揚。

19990206
▼アントン・ブリューヘンの「INOUT」。カセットのポーズボタンの音の洪水。めくるめく時間の飛躍。▼台湾からいろんなTV番組やCMを録画したテープ。ほとんどカットアップビデオみたい。録画が停止されるときに、一瞬だけ、次のCMや番組の場面がちらと映るんだけど、それがなんともいえず気をそそる。ことばや映像のテクスチャだけが強く残る。

19990205
▼部屋を掃除して原稿モード。

19990204
▼西宮のローカルFMであるサクラFM、そこで毎週やってる「パラレル・ワールド」のテープをかけつつドライブ。いやー、おもしろいっす「パラレル・ワールド」。パーソナル・ミュージック・パーティーの岩淵さんと、クリストファーのコンビなんだけど、毎週、「スポーツ」とか「ラブソング」とかテーマを決めながら、かかってるのは、たすけとかキティマミとかYuko Nexus6なのよ。▼ラブソングにロネッツの「He hits me」ってのもいいよな。▼うらやましいなあ。FMのDJってあこがれだよね。たとえば「エレベーター」っていうお題出されたら、一時間でも二時間でもDJしたいよ。自分でSEからジングルまで作りたいよ。▼彦根ってFM局がとんと入らないの。FM滋賀ってのがあるんだけど、これがFM東京系列で、しかもわりと無難なプログラムなもんで、なんかつまんなくてね。「渋谷のスタジオからお送りしてます」なんて言われてコムロとかドリカムとかサザンとかかかっても、そんなの彦根で聞いておもしろいか?なんかコンビニの放送みたいで、ちっともナンバーをキャッチした感じがしないんだぜ。海を湖を渡ってきた感じがしないんだぜべいびー。せめて一時間琵琶湖のさざなみを聞かせるだけとか、そういう番組はないもんか。▼あるいは。▼次は彦根市のチョコ食べたいくんからのお便り。「いま、すごく落ち込んでます。じつは、バレンタインを前に、彼女に呼び出されて、ふられちゃったんです。そんなぼくを、どうかなぐさめてください」おーけーおーけーチョコ食べたいくん。そんな君にぴったりなのが、フランク・ザッパの「いたち野郎」。もちろんノーカットだよ、わっちゃうと!▼とか、そういう番組、やりたいなあ。

19990203
▼卒論発表会。各人10分質疑応答5分で、40人の発表を2部屋で一日のうちにやる。発表の内容も多岐に渡っているけど、スタイルもさまざま。何を発表の最大目標に置くか、というのは学生によっても指導教官によっても考え方が違うんだけど、ぼくはとにかく、初めて聞いた人に内容が分かるように話すことが最大目標だと思ってる。だから発表時間は正確でなくてもいいから、教材提示装置もビデオもどんどん使って、考えの流れが分かるように自分のことばで話してほしい。

▼なんてことを書くようになるたあ、我ながら教師的身分になったもんだよ。
▼じつはぼくのいる大学は創立4年めで、卒論を指導するのは今年が初めて。で、やはり卒論生を持って初めて「あー、おれって教師だぜー」とか思いました。もちろん、いままでも課題を出したり実習を組んだりテストをしてきたけど、どれも短期間で答えを出す種類のものだったし、わりとあらかじめ「正解」っぽいものを想定した内容だった。でも、卒論となると、どこに正解があるのか、こっちもわかんない。そもそも正解なんかない。ないけど、達成感のある内容でないと困る。というか、達成感なんてのは発表会だの論文提出だのをすれば勝手についてくるわけだが、そういう課題クリア感とは別の、なんか浮き世ばなれしたことを根拠もなくがーっとやったぜ、てな感覚を持ってほしいもんじゃないですか。一生研究者として過ごす人ばかりじゃないし、ならば、卒業までのつかの間ではあるが、なんだか実社会に役に立つとか人のためになるといったいかにも世間が認めてくれることとはまるで別の、世間が根拠を支えてくれないようなことを、まるでなにかの根拠があるかのようにがーっとやったぜ、てな体験をしていただきたいもんじゃないですか。▼てなわけで、根拠なき研究の方法を、学生に話しながらこっちも考え、問われてまた考え、てなことをするうちに卒論の方向が決まっていくわけです。そういう共同作業の体験を経ると、まあなんだかこれまでの「教える」という心持ちとは違う、on goingな過程を楽しむ心境になったりはするのでした。

19990202
▼小学生のころ、何の雑誌だったかに、ジャイアント馬場の原寸大の手形が載っていた。手をのせてみると、自分の手はすっぽり手形のてのひらに入ってしまった。父親や母親の手と比べるときは、この自分の指がいつか伸びて、大人の指に近づくのかもしれない、そういう予感があった。でも、ジャイアント馬場の手は明らかに違う。ぜったいにこういう手になれない。世の中には全く違うてのひらがあって、けしてその人のようにはなれない。ぼくはジャイアント馬場にはなれない。そういうことが小学生のときわかる。ジャイアント馬場のせいで、ぼくは何かをあきらめた。なのに、ジャイアント馬場は、ちっともにくらしくない。その人にはてのひらがある。

19990201
▼やった!ウォー&ピース!ってわけで戦国TURBをクリアしましたよ。ってわけで最終データはこっちを見ていただくとして(クリアしてない人は見ないように)、いやあ、すげえ音響でしたよクライマックス。最後の方はシステムのBGMオフにして、戦前の愛国詩の朗読とかかけながら声欲情してましたから、もう愛国の果ての果ての果て。南国からすりゃこっちこそ果ての果ての果てなんだけど。▼うじゃんうじゃんじゃらんじゃらんのインドネシア語の響きが愛国のセンチメンタルに流される従軍詩集(大木惇夫作詞)の危うい調べを、コンスタティブなかっこにくくり、ぺZちゃん果てより来たりて果てに立つ。▼そのセンチメンタルな響きは、金子光晴が揺らす土地の名前、椰子の名前と似ているようで遠い。hujanという響きの心地よさをなんのてらいもなくうじゃんと取り込み、うじゃんうじゃんと取り込まれる哀切を嘆く大木惇夫と、ねっとりとした日本語を操りながらバトパハということばの響きに打ちひしがれ、洗面器に落ちる女の尿に日本語の壊れる音を聞く金子光晴との距離を考えよ。

月別 | 見出し(1999.1-6)
日記