2007年11月新刊「絵はがきのなかの彦根」。
彦根市民のみならず絵はがきファンの方に。
かえる目1stアルバム「主観」
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2007.10.10発売
Lilmagで買うといろいろ特典が!
かえる目ライブ
11/29:アジール地下(東京、日本橋大伝馬町)
12/13:ガケ書房インストア(京都、北白川)
詳しくはライブ情報@かえる目ホームを。
シンポジウム「戦争とメディア、そして生活」12/1(土)
場所:東京大学駒場キャンパス 16号館119教室
昼、ビデオ分析。夜、d.v.d.レコ発@渋谷o-nest。シンクロの新世紀。すばらしい。
ドラムにはカーソルキーがない。全部AボタンでありBボタン。じゃ、カーソルを使う前後左右移動はできないのかっていうと、できるんですね。連打すれば! 当たり前だけど気づかなかった。そしてパラディドる連打に耐えるほどにリアルタイムアニメーションのリスポンスはよくなったんだなあ。
「テーブル・テニス」や「Quix」のような、点と線と面とに切り詰めた一糸まとわぬ世界が時間を得た。
対バンで出た大友・宇波デュオでは、マシントラブルにより、宇波くんの美しいマンドリンプレイに聞き入ることに。
CETに来るのは2004年以来。馬喰町もあれから様変わりし、いまなお、あちこちでクレーンが鉄骨を吊っている。
少し早く着いたので、佐藤直樹さんに連れられて、CET会場(というよりは街路)をあちこち歩く。佐藤さんが路上に張ったという小さなシールは、人々が見落とすほどの微妙な小ささで、しかし、よく見るとそれは同じシールではなく、それぞれ異なる数字が打ってある。しかも、数字は歩を進めるに従って増えていく。
CETの地図に描かれた点線の「点」の数と同じだけ、シールが貼ってあるんだそうだ。そんなこと、誰が気づくだろう。しかし、気づかれようが気づかれまいが、佐藤さんはこの、ヘンゼルとグレーテルが落としていったパンくずのようなシールをひとつひとつしゃがんで貼ったらしいのである。
佐藤さんといったん別れて、喫茶店で今宵のための新曲を書く。「この街は馬が食べるよ」と名付ける。
会場はアジールの地下。わりと天井がよく響くので、PAはなしで、アコースティックでやることに決定。
17:00をまわり、メンバーが集まってきたので、さっそく用意した新曲(4つもある)を打ち合わせる。今回は「SP鑑賞会のテーマ」という曲も作ってきた。いつもながら、ようやく曲の全貌をメンバーがつかみかけた、という手前で本番に。
SP鑑賞会は、前回とは違って歌モノ中心。「犬・鳩・馬」のかわいい展開から「そんな!」な展開(ちなみに、この三つの動物は、靖国神社にも祀られている、戦時中の代表的な軍用動物である)。なぜか一茶の肉声が聞こえる「一茶さん」。ハワイアンオーケストラによるチャイコフスキーのピアノコンチェルト。ついに遠足の本番が歌われることがない衝撃作「あしたは遠足」など。
続いてかえる目。お客さんが入ると、思ったよりボーカルが響かないので、ちょっと大きめの声で歌う。人の声は、CDのボリュームを上げるようには変わらない。声を大きく出すということは声質を変えるということでもある。
マイクを使うときに比べると、「がんばって」歌ってる感じになる。これを、楽々と小さく歌っている感じにできるといいのだが。
終演後、新宿に移動。へぎそば屋であれこれ。
講義を終えて東京へ。生田夫妻の紹介で、浅草のあほまろさんとお会いする。汲めども尽きぬコレクションと知識の数々の、ほんの端っこのほうを拝ませていただいた。ただの蒐集家ではなく、その細部に江戸研究で培われた、生活の細部を見抜く感覚をお持ちの方だった。まずは、とにかく勉強させていただくのみ。夜半過ぎまで浅草と戦前の趣味の会の話をして、宿へ。
最近、大学では「FD研修」というものが盛んに行われている。FD(Faculty Development)というのは、(大学)機関のさまざまな機能を向上させることを指すが、大学のFD研修というと、教員の教育力向上のための研修会を指すことが多い。
さて、わたしの勤務する学部にも、遅まきながらこのFD研修の波がやってきた。
本日は、講師に佐藤浩章先生をお招きし、わたしはそのとっかかりとして、ミニ講義を仰せつかった。
FD研修における公開講義というのは、講義の内容をあとから同僚や学生にチェックしてもらい、改善点を洗い出すというもの。
自分で気づかぬ欠点を指摘してもらえるのだから、理屈の上ではありがたい話ではある。が、自分の欠点を人に指摘してもらうのは、誰しもなんとなくいやーな感じがするものだ。
講師の佐藤浩章先生は、そのあたりの機微をよくわかっておられて、「大学の公開講義は必ずしも効果があるとは言えないんです」とおっしゃる。同僚どうしの批判が飛び交うと、講義をした方の傷になって、改善につながらないことがある。あえて公開講義をする場合も、今後長くつきあう同僚との関係を改善する、という配慮が肝要なのだそうだ。
そういう話のあとのミニ講義と講評なので、出てくる意見も自然とマイルドになる。
さらに、今回は、ミニ講義のあと、改善点をいきなり参加者に発言してもらうのでなく、まず紙に書いてもらい、そのあと、数人でその内容について話し合ってもらうという方式をとっておられた。
参加者を小さなグループに分けるこの段階が重要なのだそうだ。グループディスカッションしてもらって意見を「揉む」と、極端な意見がグループ内で丸められて、刺々しい応酬にならずに済む。
なるほど、やる前は針のムシロに座らされるような気分だったミニ講義後の講評も、落ち着いて聞くことができた。
これがもし、一人一人に感想を聞いていく進行だったら、生汗を山ほどかいていたところだ。
参加者の小グループ化は、大講義での質問にも使えるという。参加者どうしで話し合うことで、学生の孤立感が薄まり、参加している感じが出る。第一回の講義でこれをやれば、講義室になじんでいない学生の雰囲気を「アイス・ブレイク」することもできる。
FD研修ということで「教育不熱心な大学教員をびしびし叩き上げてスーパー先生にするための研修」という、いささか気の重い内容をイメージしていたのだが、佐藤先生のレクチャーは、むしろ、教員の限られた時間を使って、教室をどのように居心地のよい空間にするか、ということに関心が向けられていた。
教師の立場としては、つい、教師vs学生の関係改善にのみ注意が向きがちだが、佐藤先生のTIPSは、聴いている学生どうしの人間関係にも配慮する。教員の質を向上させる、というよりは、教室の場をよりよくオーガナイズするという目標を設定するのである。
これは目から鱗だった。
しかも、FD研修会じたいが教室づくりのメソッドを使って「(研修会の)居心地のよい空間づくり」を目指すよう配慮されている。
いろいろ発見の多い研修会だった。
「揉む」メソッドはさっそく明日から試みてみよう。
夜、京都へ。杉井ギサブローさんとお会いして、次回作の話。いろいろご協力することになりそう。
講義にゼミ。ビデオを見ている最中にどうにもこうにも目が開かなくなる。ビデオ分析に寝不足は大敵。寝ようと思いつつ、つい新曲を作ってしまう。
朝から一日、試験業務。
大貫妙子のGreySkiesとSunshowerを、本当に二十数年ぶりくらいに聴いて、好きな曲がたくさんあったことを、いまさらながら思い出した。「部屋」や「午后の休息」、「何もいらない」や「街」の入ったカセットを作って、それを何度聞いたことだろう。
昨日をすっかり休日にしてしまったことを反省しつつ、ビデオ分析。案の定、一日では終わりそうにない。珈琲を何度かいれて、とにかく作業。夕方、ガケ書房に行って大貫妙子の旧譜をどんと買ってきてかたっぱしからかけながらさらに続き。途中、「海と少年」ってあらためていい曲だなーと思ってギター弾いたり、新曲を思いついたり、など、道草を食いながら分析は続く。
どう考えても、仕事の量が破綻している。通常の人間なら楽々こなせる量かもしれないのだが、わたしにはこれが精一杯というところだ。〆切をひとつ減らしたつもりが、気づいていない〆切が二つあることに気がついた。しかも、一朝一夕にちょちょいのちょいとはいかないタイプのやつだ。
しかし、そんなときだからこそ、友人と優雅に時を過ごす心の余裕が必要というもの。
というわけで、倉谷さん、うららさんと京都で待ち合わせて、古本屋めぐりをする。ちょうど京都文化博物館で古本市をやっていたので、そちらもちょっと覗いてみる。本気で探し出せば数時間はかかるところだが、小一時間で軽く引き揚げる(それでも十二階入りの石版と、びわ湖風土記を手に入れた)。
倉谷さんと二人だと、とにかく本、本、本!という感じで、目が血走った感じになるのだが、うららさんがいるおかげで、あちこち気ままに寄り道する感じで、ちょっとしたピクニック気分である。ああ、休日だなあ。帰りに六曜社で珈琲を飲んで別れる。
さて、休日気分を満喫したところで、仕事をせねばならぬ。しかし、そんな折も折、p-hourのタムラさんから「精華大学こないんですか〜。客入れにかえる目かけるんですよ〜」と悪魔のささやきが聞こえてきた。携帯電話は悪魔の道具だ。しかたがないので、精華大に行く。
今日はpopo,UA+内橋和久。しかたがないから行く、というような失礼なことを言えるはずもない最高の組み合わせ。会場は満員の700人、その700人が、客入れ音楽とはいえ、かえる目を聞くともなしに聞いている。とんでもない光景だな。
そして、その700人の前で、popoの演奏。江崎さんのリコーダーがPAなしで鳴っている。キタさんの新曲とノブキさんの新曲はどちらもすばらしかった。なんだか、中学生のころ初めてラヴェルを聞いたときのトキメキを思い出した。最初明るかった照明がゆっくりと暮れてゆき、プラネタリウムのような時間だった。
UA+内橋和久もすばらしかった。のびのびとした島唄、かえるのようなざわめき、曲間でのようこそ先輩方式のトークも楽しく、みるみる時が過ぎる。しかし、内橋さん一人で何人分演奏していることか。
終演してタクシーに乗り込むころには、はや十時半。もう今日の仕事はあきらめて吉田屋へ。
ゼミで笑いの分析。その場で不完全なトランスクリプトを見せながら、それを完全なトランスクリプトに直しつつ、見所を解説する。
よく「トランスクリプトが完成すれば会話分析は半分以上終わったようなもの」と言われる。それは、会話の細部に、見所が埋め込まれているからで、よくできたトランスクリプトというのは、その細部のひとつひとつを(それこそナボコフの小説のごとく)拾い上げることができるように書かれている。
そうしたトランスクリプトを書くには、会話を何度も聞き直して、細かい重複の前後関係に注意し、何が何のあとに起こったかを正確に記述することが肝要だ。会話分析の命は、できごとの前後関係である。シェグロフが会話分析を「シークエンス分析」と呼ぶのは、この、前後関係のことだ。
卒論佳境。PCが足りないので、私物だった古いパソコンのHDを整理し、学生に貸し与えることにする。古い、といってもPowerBook G4で、Tigerをぶちこんであるので、スペックは申し分ない。
HDの中身を整理するというのは、現実の机を整理する以上にあれこれと時間がかかる。あれこれとバックアップを取り、すべてのプライヴァシー情報を消滅させ、ユーザーを切り分け、ようやく明け渡した頃には夜中近く。4年ほど使い続けて、基盤もHDもすっかり入れ替わったPowerBookだったが、なんとまあよく詰め込んだものだと思う。
ああ、仕事が減らないなあ。
もう何度も日記に書いたことだが、自分の事務仕事の遅さにはいまさらながらうんざりする。委細遺漏のないように書いたつもりの書類は、たいてい「ここが足りないのですが・・・」と返ってくる。それはハンコやサインの記入漏れだったり、先方の名前だったり日付だったり金額だったり細目だったり、とにかく、何かが漏れているのである。そんなのはまだいい方で、書類そのものが埋没して消えてしまうこともしばしばだ。
そんな私が時間割作成委員などになっているのだから、これはもう、なにかの冗談としかいいようがない。しかし冗談ではない。
エクセルで何度も見直してこれなら、と思ったファイルも、事務方の方々から見れば、まったくなってない内容なのである。申し訳ないやら情けないやらだ。
ほんとうは、こういう仕事がすばらしくできる人にやってもらえば1/100の手間で済むはずなのだ。しかし、そうすると、すばらしくできる人にすばらしく仕事が集中してすばらしい人がパンクしてしまう。というわけで、わたしのようなボンクラがみなさまに多大なご迷惑をかけながら仕事をしている。
最近は、メールの返事すら、滞るようになった。以前は、おおよそその日のうちに返事が書けていたのに、自分にとっても大事な用事や大切な相手へのメールすら、忘れるようになった。思い出すときは大事だと思ってるのに。
まあ、そんな状態でも、日記は書けるし「ちりとてちん」は見てるんですけどね。
職場が自転車距離であるヨロコビ。「ちりとてちん」を見たあとに家を出て、9時に着くこと。
卒論中間発表。13:00から始まって18:00まで。予定を1時間ほどオーバー。やはり一人6分というのは質疑応答を入れると短いなという感じ。
そろそろタガを締める時期が来たな、と知る。また、データを見ながらああでもないこうでもないという季節がやってきた。
彦根四番町スクエアで「かえる目」を聞いた少年が、そのあと、「ふなずしの唄」の替え歌を作ってくれたという。
うれしいなあ。
もりとんかつ、いずみにんにく、を引くまでもなく、替え歌ができるというのは、歌が肉体化したというか、鼻歌が鼻化したということですからね。作者冥利につきます。
メールで歌詞を教えていただいたので、ここに披露させていただきます。
「くら寿司」は関西の寿司屋チェーン。
おなかがすいて かっぱ寿司を 思い出した
君が食べるって言うから
ガチャポンしたいって言うから
それは くら寿司だって 言ったんだ
寿司飯のにおいがする 店が近いよ
講義を終えて京都へ。コミュニケーションの自然誌研究会。微笑と哄笑による相互分析の発表。Jeffersonの笑い研究を叩き台にした基本的なアウトラインはできた。あとは事例を増やすのみ。
東京であちこち回りたかったが仕事がたまっている。ポイントがたまっていたので、新幹線のグリーン車に乗る。グリーン席は、PC仕事がしやすい。〆切仕事をひとつ減らす。明日の準備。
東京へ。六本木スーパーデラックス。飛行機を乗り過ごして今朝成田に着いたばかりの宇波君は、まだ乗り過ごしショックの余波の中にあるらしく、リハで床に楽譜を並べてしばし途方に暮れていた。
「かえる目」は最初。なにしろ客席がシンとしているので、静かに聞いてくれてるなあ、と思う。例によって、新曲をいきなり本番で合わせる。
そのあと、core of bells、豊田明倫、山本精一+サム・ベネット、千住宗臣。どのセットもすごく良かった。
core of bells、ひとりだけ、べつのへや。ひとりだけ、かなしばり。豊田さんの歌を生で聞くのは初めてだったが、歌詞も声も歌い方も語りも、とてもチャーミングだった。豊田さん曰く、「最初のかえる目は、ミルクティーかな。core of bellsは、ビール。で、ぼくのは発泡酒なんだよね」。ミルクティーをたてようと思った。山本さんが「もういくつ寝るとお正月・・・」と歌いかけてぶっ壊れる。ああ、わたしは歌を作ろうと思った。千住さんの、時間を確実に分岐させていくような緻密なドラム。
ハセケンの声を聞くときは、なぜか姿勢を探している。ときどき座り直したり、背筋を伸ばしたりするうちに、彼の声が、あたかも自分の声であるかのように聞こえるポイントのようなものが見つかる。いったん探り当てると、自分が蓄音機になったかのようにハセケンの声で鳴る。
フナトさんが入ったセットを初めて生で聞いた。ハセケンの声の世界はそのままに、不思議な疾走感が出る。この感じをどう表したらいいかわからなくて、「祇園祭の山鉾がそのままランドローヴァーに乗ってアリゾナ砂漠を行くみたいな感じ」というわけのわからない感想をハセケンに言う。
客席にはmapの小田くんはじめ、石橋さんや渕上さん、キタさんジュンちゃん、たゆたうの二人も来ていた。彦根までかえる目を聞きに来てくれた加納さん、そしてアパートの住人も多数。誰もとりたてて今日のライブの話をしなくて、しかしなぜか上機嫌なのだった。
ゼミで城さんが持ってきた対話例に、「あ:」をめぐるかなり良い例が含まれていたので、その場でシークエンス分析しているうちに、以前から気になっていた「あ」と「あ:」の違いがうまく言えそうな気がしてきた。これは論文化かな。
FM滋賀のレイクサイド・モーニングに出演。滋賀、レイクサイド、平和堂提供、と、「かえるさんレイクサイド」的にはこれ以上の条件はない番組である。
DJの木谷さんは山口のインディーズ番組をやっておられたそうで、一楽さんをご存じだった。ラジオの仕事というのはおもしろい。声だけでイマジネーションを作る過程が。
同じ滋賀内とはいえ、膳所と南彦根は一時間弱の距離。あわただしく大学にもどって講義、さらに資料を作ってアルプラザ彦根で講演会。野瀬さん、渋谷さん、葛目さん、市川さんと、彦根でもひときわ濃い方々と、次々と土地の話ができる楽しみ。
あいかわらず風邪にて低空飛行。仕事の〆切(過ぎ)を山のように抱えているが一向に減らない。
米田さんに運転してもらい、「絵はがきのなかの彦根」の聞き取りでお世話になった方々に、本を持参する。本を手に取るとそれぞれの方がまた別のことを思い出されたり「この言い方とはちょっと違うんだけどね〜」と注文をつけられたりで、それぞれの場所で話が弾み、みるみる時間が過ぎる。本を出してからが楽しい、ということをまたしても実感する。
会議、明日の準備、卒論指導などなど。まだ風邪気味なので早めに寝る。
先週から今週のちりとてちんの展開はまったく泣けるなあ。
「せをはやみ〜」というところで、吉弥師匠演じる草原がいきなり大きな声を出す。これがあまりに唐突に、しかも本職の落語家の発声なのでびっくりする。
そのあと間髪を入れずに「何や大きな声だして」と続く。これは、落語「崇徳院」の中でのやりとりなんだけれど、同時に、草原自身による大声への照れ隠しのようにも響く。とつぜん大声を出してしまったこと、とつぜんそのような感情にとらわれてしまったことが、あやうく落語のことばに重なる。家庭人草原と落語家草原、ふたつの話法がひとつの声に折り重なる。
二つの話法は、お互いを隠し、表す。隠すことで表してしまう大阪人の感性。そういえば、富岡多恵子の書く釈㹦空と宇野浩二の話にも、そんな話があった。
そしてどういうわけか、このシーンに、うっすらシャンソンがかかっている。なぜ落語にシャンソン? しかし、それがなんというか、絶妙な距離となって、いい感じなのだ。これまた、お互いの響きが、お互いを隠すように表す。。
このシャンソンの使い方がすごい!という話は、浜田真理子さんもブログに書いておられたが、ちりとてちんは挿入される歌や音楽が、絶妙なんだよなあ。
落語の「寝床」さながらに下手なフォークを聞かせようとする飲み屋「寝床」の主人(木村祐一)が、店でコンサートを開く。そこで披露される「うどん」の歌が、意外にも「かえる目」ワールドにやや近い。むむむ。
「今日からおれがおまえの寝床〜」という歌詞なんだけど、これを「今日からおれがおまえの(落語の)『寝床』〜」と聞くならば、「おまえが死ぬまで歌い続ける」という意味にもとれて、ものすごい。
ところで、この「ちりとてちん」には、菊江という人が出てきて、その職業が仏壇屋なのだが、これはやはり「菊江仏壇」から来てるんだろうなあ。
カフェ工船でぼんやり。どうも本格的に風邪らしい。
いささか風邪気味。
大阪国立国際美術館でジョン・ケージ演奏会へ。ケージを好きこのんで行く人はさほどいるまい・・・などと失礼なタカをくくって開演30分まえに行くと長蛇の列。開演の二時間以上前に整理券がなくなったらしい。
というわけで、ロビーでモニタ鑑賞。うーん、たぶん生で見たら、あちこちに注意の焦点があってすごくおもしろかったと思うのだが、モニタ越しではどうしてもカメラ操作によって注意が限られてしまい、じっさいに起こったことを遠くで見る感じに。やはり、こうしたパフォーマンスは生に限るなあ。
せっかくなので、「現代美術の皮膚展」を見たが、どうもぼくにはピンと来なかった。いちばんよかったのは、入口近くにあったマーク・クインの女性像。ただし、肋骨を強調した「悟りの道」ではなく、水着姿の彫像のほう。これはきわめて普通の彫像なのに、なぜか振り返りたくなるような生々しさがあった。
読書日。水木しげる「猫楠」、若島正「ロリータ、ロリータ、ロリータ」、富岡多恵子「釈㹦空ノート」。
朝、彦根市役所で「絵はがきのなかの彦根」のプレス発表。偶然、藤野滋さんの「彦根藩士族の歳時記 高橋敬吉」といっしょの会見だった。
見本をぱらぱらと拝見しただけだが、この高橋敬吉の記録、かなりすばらしい内容とお見受けした。音の表現、空間の表現が尋常ではなく、単なる描写を脱して詩心を感じさせる。高橋敬吉の残した手書きの覚え書きを、藤野さんが丁寧に翻刻されたそうで、明治期の手書き文字を読み解くことの膨大な労力を少しは知っている身としては、本業をお持ちの藤野さんがこれだけの仕事をされていることに驚きを禁じ得ない。ゆっくり読んだらまた、感想を書きます。
藤野さんには先月初めてお会いしたのだが、高橋狗佛(敬吉)の犬玩具の展示を監修し、さらには袋町で趣味玩具の展示を行い、そして三田平凡寺日記の研究までやっておられる、趣味研究のキーパーソンとでもいうべき方。とにかくお話が尽きない。サンライズの岩根社長、藤野さんと喫茶店でしばし歓談。
大学は湖風祭。人間関係専攻の出し物を見たり、屋台をぐるりと回ってしばし学泉祭気分にひたる。
夕方に行ったせいか、さほど待たずに入ることができた。しかし、中はさすがに人いきれ。
最初に見た「花鳥図襖」の中央に雲雀が一羽が舞っている。襖の中空に放たれた雲雀は、頭を下に向けて墜落するかのようで、何も支えるものがない。
その、雲雀の下の空白に、細い梅枝が一本するりと伸びている。
不思議だなと思って梅枝をたどっていくと、枝はやがて太さを増し、川の水にざぶりとその身をひたしている。それは老木から遠く伸ばされた枝で、太い筆致で描かれた幹では鳥たちが憩っている。
幹からたどって改めて雲雀を眺め直す。つまり、老木は、腕の根元を川の水で洗われながらも、細い指先を、雲雀のはるか下につつましく差し出しているのだ。
この、雲雀に差し出された遠い枝を見て、永徳という人はとても孤独な人で、しかしその孤独を支える情けを知る人だと思った。その老木が元信で、雲雀が永徳だというと、いささか読み過ぎだろうか。
そういう、地上に生き物を支えるような細く鋭い筆致は、絵のいたるところにあり、同じふすま絵の小さな田鴫の足下にも、鳥のよすがとなるようにひとむらの草が描かれている。
「梔子に小禽図」で、虫を狙う鳥のくちばしも、ただ、虫を捕まえる残忍な存在ではなく、むしろ、虫を見逃す存在、この絵におけるちいさな虫の生を支える結構のように見える。
もしかしたら、さっきまで読んでいた若島正「ロリータ、ロリータ、ロリータ」のせいだろうか。世界のささいな事物が、思わぬ運命を支える兆候のように見える。
「許由巣父図」の文字のような衣、テグスのような葉。
「洛中洛外図屏風」の前は人だらけ。老眼が入りかけた目にはいささか辛い。微細な生活の描写はあとでカタログで確認するとして、金色の雲に隠された背後を想像するのを楽しんだ。
金碧障屏画の仰々しさを避けるように最後の部屋へ。「唐獅子図屏風」が途方もない大きさなのに驚く。洛中洛外図とはまったく異なる筆の大きさ。太い筆で、筆の線の確かさを見せるように引かれる顔の線、足の線。
ふちがみさんの書いた「ヘブン」という曲がある。
ずいぶん前に、ふちがみとふなとのライブでこの曲を聴いたとき、のけぞった記憶がある。こんな歌詞だ。
僕の買ったタバコが君に
君の酒がヘブンに
ヘブンはごきげんに
ごきげんなヘブン
手の中のものがいつのまにか誰かの手に渡ってしまうマジック。それが、思わぬところから思わぬ形で返ってくるマジック。
そういう「交換」が、ふちがみさんの曲にはよく出てくる。
ものが誰かの手に渡り、自分の手から消える。それが自分の手ではないどこかで「ごきげん」に変わる。
ヘブンはごきげんになる。それはヘブンのことだ。でも、ごきげんなヘブンはみんなのものだ。ヘブンのことが、ヘブンのことではなくなる。ヘブンがごきげんになることが、ごきげんなヘブンと交換される。
メロディとコード進行が「ごきげん」を経由して天国=「ヘブン」にたどりつく。
数年前に出たアルバム、ふちがみとふなと「ハッピーセット」をいまごろ手に入れて、それからプレイヤーに入れっぱなしになっている。
「ハッピーセット」は、全曲、不思議な「交換」に満ちている。そこには、相手の大切なものを巻き上げてしまう狡さも、なけなしの金をはたいてしまう間抜けさも、見返りのない手間を惜しまぬ情けもあって、ふちがみさんは、何かを手放す才能と、手放した何かが「ごきげん」に変わる瞬間をキャッチする才能と、そしてなによりうたごころを持っている。
チェーホフの「可愛い女」がほんの十数行で歌い切られるかのような「お店やさん」、ママとジュンコとそのどちらでもありどちらでもない人の話法が交錯する「ママの山羊は10匹」、ああ、ほんとは全曲言いたいことがあるが、ぐっとこらえて「はじめまして」「ひっこし」「坂をのぼる」「アリの話」「トラック野郎ジョン」「このまち」「寅おばさん」「at home」と、名曲が目白押し。
フナトさんのひそやかなベースは、擦音までが夜にしみいる繊細な演奏。
ジャケの絵もいいなあ。
ハッピーセットはお金と交換すると手に入る。でも、お金で買えないLやMやSがついてくるので、交換しといたほうがいいです。なんでもamazonで交換できるわけじゃない。へなwebを見てみよう。
以前作っていたJEdit用のスクリプトのページがちょっとごちゃごちゃしてたので整理した。QuickTime PlayerやSoundStudioとJEditを連動させて、会話分析やジェスチャー分析の書き起こしをするツール。使い慣れるとけっこう便利。詳しくはScriptのページを。
会話分析によく出てくる「投射 projection」ということばも、ちょっとむずかしいことばだ。これまた、「投射可能 projectable」「投射可能性 projectability」ということばがあるのでややこしい。(ちなみに哲学用語にも「projectibility 投射可能性」ということばがあるのだが、会話分析の術語は、これとは別物と考えたほうがよいと思う)
投射、ということばには「予告」という意味と「予測」という意味が折り重なっていることに注意しよう。予告、つまり、何かを予測しやすい形にすることも「投射」。何かを見てあることを予測することも「投射」だ。
何を主語とするかによって、「投射」は「予告」的にも「予測」的にもなる。
たとえば、ある単語がターンの終わりを「投射」する。このときの「投射」とは、ある単語によって、未来におけるターンの終わりが予告されることを指す。
しかし聞き手からすると、これは、ターンの終わることが予測しやすくなることでもある。
つまり、ことばから見た予告と、聞き手から見た予測とが折り重なって「投射」になる。
聞き手(もしくはもっと広くとって参加者)にとっての予測しやすさのことを「projectable」と呼ぶ。だから、投射ということばは、「予告」の意味でも「予測」の意味でも使えるが、投射可能(投射可能性)という場合は、予測のことを言っている。
これらはあくまで、「予告」「予測」であって、予告や予測通りにことが運ぶとは限らない。ある時点で予測できたターンの終わりが、いざそのときがくるとはぐらかされたり、人が割って入ってまるで違うことになったりする。だから、「投射」はあくまで未来の可能性に関する考えであって、未来が投射された通りになるわけではない。
12月のシンポの打ち合わせで京都へ。佐藤卓己さんのゼミ室で、内藤陽介さん、田島奈都子さんと話。お二人とも切手、ポスターの経験値がおそろしく高いので、濃い話が続く。
以前に熊倉さんから聞いた引札のディスプレイの話を念頭に置きながら田島さんの話を聞くと、いろいろおもしろいことがわかる。
引札は商家によって正月に配られて、各家庭のふすまなどに貼られた。引札をどこに貼るかは、各家庭の裁量によって決まっていた。
ところで、引札を配ったのは、地方の商家、企業だったわけだが、ポスター時代にはいると、ビールや飲料水など、全国規模の新興企業が作成者となり、商家はむしろターゲットになる。ここでおもしろいのは、企業は単にポスターを配っただけでなく、ポスターを入れる「額」を配ったことだ。額には商家の名前と企業の名前を入れておく。額はそれなりにかさばり、商家の定位置を占める。だから、いったん掲げられると、ずっとその位置を広告ポスターが占めることになる。ポスターが更新されたら、額はそのままで、中身だけ入れ替える。
かくして、消費者の出入りする商家は、いわば広告ポスターのディスプレイの場となる。
そこに戦時プロパガンダ色の強いポスターがいつしか忍び込んだ・・・となると、これはメディア網が整ったところに国策が入り込んでくるプロセスなわけで、なかなかおもしろい歴史なのだが・・・ここまでくると、ちょっとぼくの妄想も入ってしまう。田島さんに改めて正確なことを伺わなくてはなるまい。
そんな風に、さまざまなメディアの歴史から戦争とメディアの関係を検証するシンポジウムが、12/1に神奈川大学で開催されます。興味のある方は孫安石さんのホームページのシンポジウム「戦争とメディア、そして生活」のお知らせをどうぞ。わたしは絵はがき趣味と戦争の話をいたします。
京都精華大学へ。それぞれワンマンで聴きたいくらいの豪華な顔ぶれ。
それぞれの演奏もさることながら、思わぬ取り合わせを楽しんだ。とくに、三人のボーカルによるキャンディーズの「あなたに夢中」は、一人ずつコーラスに加わっていき思わぬ分厚いコーラスになる過程が、怖いくらいだった。原曲の、田中好子(スーちゃん)によるちょっとひっくり返り気味の声を鈴木祥子さんがなぞっているのも、いっそう、ただならぬ感じ。
あと、個人的に、すごくすきな「Close to you」の最後で、三人のコーラスになるところ。レコードではさんざん聴いたこの曲だが、生でこのような美しいコーラスが聴けるとは思わなかった。
アンコールでそれぞれがボーカルをとる「みんな夢の中」の美しさにも聞き入った。
それぞれ、マイクの使い方がまったく違うのもおもしろかった。ふちがみさんが、マイクを仰ぐように喉を開いて、息の音を響かせる。鈴木さんはマイクを近くとって、声のすべてをマイクに吹き込む。浜田さんはマイクからちょっと離れて、空間の反響を取り込む。
だから、こちらに届くそれぞれの声質はまったく違うのだが、これがコーラスになると、不思議な厚みを醸し出す。もしかすると、コーラスを聴くとき、そこにまとわりついているマイクの特性の一部は非人称的になるのかもしれない。
他にも、大友さんが珍しく低音のボーカルを(励まされつつ)聴かせる「いつでも夢を」や、浜田さんとフナトさんのベースによる「夜が明けたら」、鈴木さん、浜田さんで歌う「夏はどこへいった」などなど、楽しめる箇所満載。
ところで。この日、客入れと客だしの音楽が、かえる目の「主観」だった。入退場時とはいえ、200人以上のお客さんが、かえる目を聴いている。わあ。
会話分析研究会。練習問題は鈴木加奈さんによる「ね」の事例。「ね」が単独で使われる事例集で、これはとてもおもしろかった。
「ね」とか「でしょう」ということばは単独でしばしば使われるけど、考えてみるとおもしろい現象だ。
単独で使われる「ね」や「でしょう」は相手との経験と評価の共有を示している。
たとえば、
A:「こどもってほんとにすぐどっかいっちゃうから」
B:「そうよねえ」
A:「ねえ」
というような会話をするとき、Aの「ねえ」は、自分の経験に基づいた評価を相手と共有した上で「ねえ」と言っているように見える。
しかし、こういう会話だったらどうか。
A:「こどもってほんとにすぐどっかいっちゃうから」
B:「ねえ」
Bは、自分に「どっかにいっちゃう」ようなこどもがいるかどうかを開陳していない。にもかかわらず「ねえ」ということで、相手の評価が自分の経験に基づいた評価と一致しているかのように振る舞っている。
もし、Bが前触れもなく「ねえ」といったのであれば、Aとしては、Bがはたしてどのような経験にもとづいて「ねえ」を言っているのかがわからない。Bからすれば、自分がどのような経験において「ねえ」を言っているのか説明責任が生じる。
責任、というと重たい感じだが、あえて自分のエピソードを切り出すために「ねえ」とあいづちを打つ、というとらえ方もできる。
たとえばBはこんな風に語り出すかもしれない。
A:「こどもってほんとにすぐどっかいっちゃうから」
B:「ねえ」
A:「ほんと」
B:「じつはうちの子もこの前、公園でいなくなっちゃって大騒ぎになって・・・」
A:「あらそうなの?」
つまり、「ね」の機能をあくまで単独で考えるなら、「自分の経験と評価が相手と共有されていることを示す」こと、なのだが、「ね」の直前に、その経験と評価がどの程度明示されているかによって、会話のゆくえは変わる、ということになる。
「ねえ」は、しばしば相手の発語の途中に重複を伴って発せられる。これは、自分の経験によって、相手の発語のゆくえが予期できてしまうから、と考えることもできる。どんなときにどんな重複が起こりうるかは、じっさいのデータを検討してみなくてはならないだろうが、おもしろい問題だ。
A:こどもってほんとにすぐどっか[いっちゃう]から
B: [ねえ]
A:ほんと
B:じつはうちの子もこの前、公園でいなくなっちゃって大騒ぎになって・・・
硬い言い方をするなら、経験と評価の投射がどのように行われるか、その道筋 trajectory を追うことで、「ね」や「でしょう」のとらえ方はより深くなる。
データは花田さん提供で、セラピストによるあいづちの打ち方を中心に見ていく。おもしろかったのは「いろいろありそうですね」という言い方で、この「いろいろ」ということばは、自分の経験について言うときは、そこから経験内容が開陳していきやすいが、相手のことばについて「いろいろあるんですね」というときは、むしろまとめに入っているというか、相手の経験内容の記述を終わらせるような校歌があるのではないか、ということ。あくまで直感だが。
セラピストが、クライアントのしぐさを真似るとき、すでにクライアントがエピソードを語り終えている、という点もおもしろかった。相手の真似をするのに適切なタイミングとはどういうものだろう。
「主観」所収のキラーチューン「女学院とわたし」の源泉でもあるデジジョこと「デジオ女学院」で、いま、何かが語られています。なにかといえば・・・それは、聞きに行きましょう。デジオ女学院#490。いまこそ。
そしてさらに、コグさんのこちらの話もぜひ。「弟という字のフリガナが"リモコン"だった日」。
わあわあわあ。
いろんな音がするよ。そして、すごく速い。
音楽は全然違うんだけど、その心浮き立つ感じ、いてもたってもいられない感じをあえて喩えるなら、XTCを初めて聞いたときみたい。歌い方もいいなあ。ソラミミだらけ。「きみのえがいたギャラクシー」(Green Rain)。わーになった、わーになった。わめくわめくわめくはウィッシュ(これ、D.P.O.)。
このめくるめく世界を、ライブでは「マジック・バンド」で演るらしい。どんな音がするんだろう。
山本義隆「一六世紀文化革命」、福岡伸一「生物と無生物のあいだ」を取り上げました。
9月に見たテニスコーツ、tape、えでぃまあこんのライブで、最後にみんなで合奏する場面があった。そのときの、メンバーたちのコントロールがすばらしくて、とても多人数で違うバンドどうしがやっているとは思えない独特の雰囲気だったのだが、この「タンタン・テラピー」を聴いて、そのときの感じがまた蘇ってきた。
息を吸って吐くだけのリズムの機知。重ねるだけでなく、スキマを作るためのオーバーダブ。世界が色を帯びるまでに丁寧にかけられていく時間。
会話分析では、「○○可能 ...able」とか「○○可能性 ...ablity」ということばがよく用いられる。たとえば「修復 repair」ということばとは別に「修復可能箇所 a repairable」という。「投射 projection」ということばとは別に「投射可能 projectable」「投射可能性 projectability」ということばがある。
なぜ、すっぱり言い切らずに、こうした類語がいくつも使われるのか。
まずは「修復可能箇所 repairable」について書いておこう。
英語のニュアンスをおさえるために、教科書からちょっと例文を挙げておこう。
a repair sequence starts with a repairable, an utterance that can be reconstituted as the trouble source. It should be clear that any utterance can be turned into a repairable.
修復連鎖は「修復可能箇所 a repairable」、つまり、のちのちトラブル源として再構成されうるような発語によって開始されます。どんな発語であれ、修復可能箇所となりうることは明らかでしょう。
(P.T. Have p116 "Doing Conversation Analysis")
もし、会話というものを、あたかも脚本を読み終えたときのように、すべて発語され終わった時点から眺めるならば、上の文章は、まったく無意味に見えるだろう。第一文はこんな風に簡単に書けばよいはずだ。「修復連鎖は、修復箇所、つまり、トラブルのもととなる発語によって開始されます」
でも、それでは、「どんな発語であれ、修復箇所となりうることは明らかでしょう」ということばが謎めいてしまう。修復された場所が修復箇所なのであって、「どんな発語であれ」というただし書きはいらない。
これはどう考えたらいいのだろうか。
会話分析の特徴は、問題となる発語を、いま言われつつある地点、もしくはいま言われたばかりの地点から眺めることにある。
たとえば、いま「こんにちは」と言ったばかりの人にとって、これが将来言い直されるべき発語になるかどうかは、予見できない。
相手が「どうも」とことばを返してくれれば、それは、挨拶として成立するだろう。でも、もし相手が「は?」と聞き直したとしたら、こちらは改めて「こんにちは」と言いなおす(修復する)必要があるだろう。
だから、ある発語が「修復箇所」となるかどうかは、発語の直後にはわからない。たとえ言った本人には修復の必要性が感じられなくても、次の相手の発語によっては、それは修復箇所となってしまう。
「聞こえません I can't hear you」という返答はすべての発語を修復箇所にしてしまう、と、かつてSacksは指摘した。その上で、すべての発語は「修復可能箇所 a repairable」である、と言い当てた。
ここまで考えると、「のちのちトラブル源として再構成されうるような発語」というのは、ただのもってまわった言い方ではないことがわかる。それはまだ未だ来たらぬ未来を予測しながら、いまの発語が持っている可能性を考える態度である。
「○○可能 ○○able」ということばは、未来についての考えを指している。それは、現時点ではどうにもならないことと、未来にはどうにかなることの、両方を言い当てようとしている。