ビバ・シティで「ファインディング・ニモ」(吹き替え版)。いやはやのけぞった。水中のなまった光線の具合といい、浮力と波とそれぞれの魚の泳法のもたらす力のバランス表現といい、ピクサーは新作を出すたびに動画表現をすごいレベルでバージョンアップしてくる。水槽世界の場面では、トイストーリー風の、人間のつくった機構を読み替えるような遊びも多く、こちらも楽しめた。
物語としては、ドリーというもの忘れの激しい魚の存在がおもしろかった。想起が他人を必要とする事例、そして言った本人よりも聞いた方が覚えているという知の存在を示す例として。そういえばNEMOという文字列からは、MNEMONICSということばも思い出される。
部屋でだらだらと過ごす。マットに突っ伏した曙のような年の暮れ。
京都で森さんと会い、上賀茂あたりを歩きながらあれこれ話す。
「<民主>と<愛国>」読了。後半になて、吉本論、江藤論、鶴見俊輔・小田実論と、ぶっとい議論がぶれの少ないスタンスで書き続けられているのは驚異。ごくおおざっぱには吉本、江藤の私的言説の広げ方を批判し、鶴見、小田のオープンさを評価するという流れにはなっている。が、批判されている吉本、江藤についても、彼らがそれぞれのやり方で、自分の出自や体験の核をしぼりこみ、そこにことばを重ねようとしてきたのだということがよく伝わってくる。
この分厚い本からは、人は意識するしないにかかわらず、自分の出自や体験から逃れて言説を紡ぐことができない(もしくは出自や体験からある種の誠実さを持って言説を紡いでいった者のみが言説を受容されていく)ということが痛烈に感じられる。読みながら、思わず自分の出自や体験についても考えざるをえない。が、およそ耐え難いことが多すぎ、途中でそそくさと退却してしまう。
昼から、カンタータに5時間くらいいてずっと「<民主>と<愛国>」。年末のぽっかり空いた時間には本がよく読める。あいまに、日経の文化欄に北杜夫の随筆。最近また鬱で、人に励まされるのが困るという話と、母親がわがままかつ思ったことをはっきりいうので困ったという話。どくとるマンボウ昆虫記のごとくなんということはないのだが、何か白湯を飲むように、自分の精神の調子が明らかになる文章。
夜、 M-1グランプリ。個人的には、ほとんど「青春の門」状態の千鳥が予想外におもしろかった。あの胸をつかまれたツッコミの無表情さがたまらん。笑い飯の一回目はもうええっちゅうくらい笑ったが(服の襟を正す人形がたまらん)、二回目は通り魔に会ったような感じで、これまた予想外に凄かった(あの執拗な「脱脂綿」の繰り返しはなに? そして「もえる」>「もうええわ」のオチ)。ビデオとっとけばよかったなー。
もうおなかいっぱい、のはずだったが、そのあと年末らしく、サボテンブラザーズを見る。
夜中、ココスで「<民主>と<愛国>」の続き。六十年安保から吉本隆明論へ。このあたりはあれこれ考えることが多く、読みながら気がついたら目をあげてぼんやりしている時間が増える。
近くに24時間喫茶店ができたので行ってみる。学習行為にはいささか賑やか。自宅の机がふさがっているとき、たまにでかけてしまうかもしれない。
大学から自己評価書類が自宅宛てに送られてくる。わざわざ自宅に宛てて年末の休日に送られてくるところがものものしい。例によって書類が死ぬほどキライなので、少なくとも正月が明けるまでは見ないことにする。
CXで「太閤記」をやっていたのだが、主演が草なぎ剛で驚いた。いくらなんでもチョナンカンが豊臣秀吉を演じてはマズイだろう。アホらしくて最後のほうだけ見たが、豊臣秀吉は平和主義者で戦を好まぬ好人物として描かれており、話は天下統一までで「朝鮮征伐」はナシ。ポリティカリー・コレクトかどうか以前に、どういう意図でこんな企画になったのかまったくもって謎。あの人にもいろいろあったんですよ、ならともかく、あの人は「いいひと」でした、っていう歴史観ってただのバカじゃないの?
朝から会議にゼミ。夜、「<民主>と<愛国>」の続き。「国民的歴史学運動」での石母田正のひりつくような描き方。イラン地震のニュース。
昨日八重洲で買った小熊英二「<民主>と<愛国>」(新曜社)を読み始める。以前から気になっていたものの、分厚さに気圧されて今まで読まずにいたが、これはすごい。戦後の各人の思想を安易に世代論で切り分けるのでなく、それぞれの戦争体験から掘り起こし、その思想のよってきたるところを明らかにしていく。言説分析でありながらしかも評伝のように読ませる。言論以外の小説や映画、世相などへの目配りも行き届いている。戦争が単なる思想の切断でなく<愛国>の屈折を生んでいくさまを読みながら、いままでただ不可解に思っていたさまざまな戦後映画の陰影がみるみる明確になってくる思いがした。まだしばらく読み通すのに時間がかかりそうだが、三分の一は早くも書き込みだらけになった。
ちょっと休もうと思って、相方がコタツの上に置いていたMarjane Satrapiの「Persepolis」(Pantheon Books)を手にとって読み出したら、これまた無類におもしろく、結局読み切ってしまった。サトラピは1969年にイランで生まれ、現在はパリ在住のイラストレーター。79年のイラン革命とその後のイラン・イラク戦争期をテヘランで過ごし、14歳でウィーンに渡り、ストラスブールでイラストを学んでからパリに移っている。
「ペルセポリス」は、革命と戦争の渦中にあったテヘランでの彼女の自伝的コミック。
革命が正義と悪とを反転させるように、預言者になることを夢見る少女の空想や遊びの中では、正義と悪、名誉と不義とがくるくる反転する。友達の父親がうけたひどい拷問の話を聞いてから、他の仲間と拷問ごっこを始めてしまう。弾圧を受けていない自分の父親に物足りなさを感じ、9年刑務所に入れられていた自分の叔父の話を聞くと、今度は「うちの家族にはすごい人がいっぱいいるのよ」と自慢してしまう。
その叔父さんは、大人びた物言いをする彼女を可愛がり、入獄中にパンを固めて作った白鳥をくれる。白鳥には不思議な重さがあり、胸の上にのせると安らかに眠ることができる。その重さはやがて、叔父さんの処刑を告げる新聞の重しになる。大好きだった叔父さんの死の知らせとともに、彼女は空想の中のカミサマと決別する。
白黒のくっきりとした画面。明るい昼には夜のきもの、暗い夜には昼のきもの。髪がチャドルで覆われ、窓が暗幕で覆われても、戦中はいつも恐怖だけに満ちているわけではない。イラン革命直後、イスラムの戒律の目が厳しい戦時下テヘランにも、パンクやキム・ワイルドやデニムのジーンズがある。密造酒やパーティーだってある。戦中閑あり。サトゥラピの物語には豊かさにも閑さにもてらいがない。そのてらいのなさで、世界は夜から昼に、昼から夜に転じる。白と黒、昼と夜はいつもきびすを接している。
なまじ歴史を俯瞰せずに、限られた体験からイランの生活をたどっていく手法には、ちょうど「<民主>と<愛国>」に通じるセンスが感じられる。
手元にあったイランの歌姫、グーグーシュのビデオを見直す。
吉田稔美さんに教わった桑原弘明氏の個展を見に、有楽町のスパン・アート・ギャラリーへ。何が起こるのかも分からぬまま、暗幕で仕切られた部屋の中に入ると、マグライトを持った背の高い男性が現われて、手のひらの大きさの金属箱を次々と覗かせてくれる。コンマミリ単位の椅子やテーブルが、わずかな光に照らされて影を落としている。箱の大きさから光の扱いまで、まるで自分の頭の中を覗くように秘密めいている。「もういいですか」と声がかかるまでずっと眺め続けてしまう。
そのマグライトを持った男性が桑原さんで、奥であれこれ四方山話。箱の中の椅子は、旋盤にセットした細い軸を接眼鏡越しに見ながら削られるという。箱によっては、ヤン・ファン・アイクよろしく、さりげなく凸面鏡がかかっているのだが、それもわずか一ミリていどの鏡に豆電球をあてて曲面を出すのだとか。光学に虫集め、となればいちいち思い当たることが多く、楽しくお話した。
偶然、種村季弘さんもおられた。お会いするのは初めてだったが、覗きからくりに話が及ぶと、陶製のからくり箱の話から、木地師世界から船大工世界、はては巌谷小波、泉鏡花、そのゆかりの地金沢のコレクター世界にいたるまで。猛スピードで話題が移動しながら淡々と話される。
桑原さんの作品には残念ながらほとんど売約済の赤シールが貼ってあったが、一点残っていた「ピラネージ」を求める。廃墟の開口部から見える山並みはあたかもダゲールの描いた油絵のよう。来年はこの覗き箱を覗きながら仕事をしよう。
電車の中で、画廊でいただいた種村季弘「渋澤さん家で午後五時にお茶を」(学研M文庫)「江戸東京<奇想>徘徊記」(朝日新聞社)。
いささか体がだるい。風邪か。せっかく浅草に泊まったので寄席に入るか映画を見るかしたいところだが、どうも調子が出ない。より道で昼飯。調子悪くてもここの昼飯はいつもうまい。早めに宿に戻って横になる。
寝転がって「唄うエノケン大全集」を聞く。エノケンの歌い方は、声の終え方に特徴がある。声門閉鎖音で、ぱきっと棒が折られるように声が終わる。関東大震災でサラ地になった浅草の数年後に現われた奇妙な棒読みジャズ。声の高さをしばる緊張とセリフの弛緩とのあいだ。水に溺れると見せて水に泳ぐ水族館の二階。
夕方、成増へ。今日は、中尾さん宅におじゃまして、その膨大なコレクションの一部を拝ませていただこうという趣向。部屋のドアを開けるなり、向こうの棚いちめんにローライフレックスがずらずらと並んでいてかなり驚く。「ゴミですよ、ゴミ」と中尾さん。
なにしろ壁面いちめんが蒐集物なので、どこからというあてもなく、まずは、部屋の隅から出てきたマイク類の数々で遊ぶ。シュアーのマイクに100円などという驚異的な値段が貼ってある。カラオケマイクの投げ売りセールの箱の中で見つけたそうだ。こういうマイクが山のようにある。「いやあ、便利なものはいくらあってもいい。うちには便利なものはことかかないね」。さらにはワイヤレスマイクを使って、FMラジオで飛ばす。わずか一部屋サイズのワイヤレス機能を試しながら「どこの放送局が78.5でやってるんだろうね。迷惑なハナシだ。」(マイクの音声がラジオ局の電波に打ち勝ったのを聞いて)「電波ジャックだ!」などと、早くも異様な盛り上がり。
そのあと、LP6連チェンジャー(実験の結果じつは8連まで行けるそうだ)から流れる「野生の民謡歌手」ジョーン・バエズ他のライブ録音(中尾評「蛇口をひねるような拍手だ」)を聞きながら部屋にある珍品をあれこれ眺めてみるものの、あまりにもありすぎて何がなんだかわからない。
「そこにあるのが8ミリに16ミリに、それから9.5も・・・」という中尾さんの説明に、はっと意識がめざめて「え、パテ・ベビーですか?」とおもわずたずねる。8ミリや16ミリならカメラを入手して撮影することが可能だが、9.5ミリは戦前の規格で、映写目的にしか使えない。つまり、そんなものをわざわざ持っている人は、映写に必要な戦前の珍しいフィルムを持っている、ということだ。
中尾さんは、以前クラシック・カメラ雑誌に載っていた杉本五郎(もちろん書架には「映画を集めて」もあった)のパテ・ベビーに関する記事を見て、「これだ」と思ったそうで、その折りもおり、埼玉の古道具屋の店先でそのパテ・ベビーとフィルムがセットで「こんにちは」とおでましになったそうである。「じゃ出してみましょうかね」と立ち上がった中尾さんは壁にかけられた時計に手をかけると、なんとうしろには扉があって、そこにそのパテ・ベビーがきちんと収められていた。ここは怪人二十面相の隠れ家か。買ったときは壊れていたという電球部分には三つ又ソケットが当てられていて、ミニ工具セットの中から適当な電球をはめて、電圧に応じたAC/DC変換アダプタをかませると(こういうのがさっと出てくるのだ)、パテベビーのセッティングができあがり。
というわけで、流し台の下の白い化粧板にて、戦前アニメの名作「さるかに」の上映会。中尾さんは手回しでスピードを可変させながら、ここぞという見所ではスローモーションで、登場キャラクタの変形ぶりをつぶさに見せながら、「このハチがすごい!こんなやつが部屋に入ってきても一緒に住みたくありませんねー」「なんだこれは、テロです!テロ!」「目ん玉ちぎれてます!」などと、もう涙なしには見ることができない壮絶な語り。「さるかに」以上に、弁士中尾のインパクトにすっかりあてられる。
「ほらほら、この二つのツメでフィルムをかきおとすんですね。字幕のところにくると、ノッチがまわってそのコマでしばらく待つようになってるんですけど、フィルムがくたくたになってるんで、そこは手動でやってます。これ考えた人、アタマいいですよ、これで巻き戻せるんだからアタマいいです」。と、パテ・ベビーの巻き戻しハンドルを楽しそうに回す中尾さん。ホイールについていたラバーは買ったときは朽ちていたそうで、あとで台所用のパッキンをはめたそうだ。
そのあと畠山さんも来て、SP鑑賞会。「一人だけスケートシューズをはいてるんじゃないか」(「幸福獲得」のギターソロを聞いて)、「まわるまわる立体的、舞踏会」(オーケストラ・ミュゼットを聞いて)。さらに、先のワイヤレスマイクを使ったフィードバックごっこへと事態は進展し「人類未到の酸素が薄い場所」「新しいシャーリーテンプル」「なんか欠乏してるかんじ」などと、中尾さんの名言は連発する。最後は中学時代の中尾さんの録音鑑賞。中坊のくせにロリンズばりに大人びたサックスのフレージングとすとすとドラム、そして音程が半音くらいずれているフルートがマイペースで奏でるナベサダやオブラディ・オブラダに一同すっかりへこたれる。
終電も近くなりようやく解散。帰りの地下鉄で、一ヶ月くらい別の国に行って来たような虚脱感におそわれる。漢字が漢字に見えず、宇波くんと泉くんを呼び間違える始末。そのくせ、気がついたら、昼間の体のだるさはすっかり取れていた。
午前中、「ことばとジェスチャーの個体内・個体間相互作用」と題して空間参照枠の修復について発表。山崎敬一さんから、手と体が別々の参照枠を持つ可能性について指摘された。おもしろい問題なので、あれこれ考えてみる。
人間の手と胴体は別々なのだから、理屈の上ではこれらが別々の参照枠を持つ可能性は確かにありそうだ。しかし、これまで観察したデータを振り返ってみると、どうも一人の人がある瞬間に複数の参照枠を表わすような事例が思い浮かばない。
仮に、話者の顔が東を向き、てのひらが西を向きながらある人物を表わしているとしよう。このとき、顔とてのひらは、まったく異なる参照枠に属す別々の世界の生き物として考えられるわけではない。むしろ、同じ参照枠の中で「向かい合っている」ものとして知覚される。
たとえ、手が、腰のあたりでごく小さな世界についてジェスチャーしており、話者の目が手を鳥瞰するように見下ろしていたとしても、目と手は異なる参照枠を表わすわけではないだろう。鳥瞰する目は、じつは世界と切り離されているのではなく、手の表わす世界を特定の視点から見下ろしている。でなければ、目は手を見ることができない。
おそらく、ジェスチャーの理解には、「一人の人間の身体がいかなる部分にわかれていようと、ある瞬間には一つだけの参照枠を仮定する」という規則があるのではないか。あまりに当たり前すぎていままで意識して考えたことがなかったが、この規則を入れることで、身体の各部の協調行動がよりはっきりと理解できそうだ。
午後は山崎晶子さんの博物館における会話の発表と、榎本さんの発話終了予測実験の発表。榎本さんの発表はすでに「認知科学」で発表されたもので、とてもクリアな実験結果だったが、TCU (Turn Construction Unit) の定義と「逆行投射 retrojection」というアイディアをめぐって紛糾。会話分析の「予測可能性 projectability」ということばをめぐるそれぞれの研究者のこだわりがわかっておもしろい議論だった。逆行投射、と時間を逆行させることばを使うことは会話分析の「予測可能性」ということばと抵触するわけだが、しかし、その抵触がなかなかおもしろいな、と不謹慎にも思う。未来から過去を予測することだってありではないか。
議論を聞きながら、重複の積極的意義、というアイディアを考える。日本語のUFO (Utterance Final Object) では重複が起こりやすい。そして、榎本さんによれば、この重複は、名詞や動詞の最中における重複に比べて、「妨害している」とは認知されにくい。となると、それは「妨害」として認知されにくいだけでなく、逆に、会話の親密さやテンポのよさを表わしている可能性はないだろうか。
八重洲で山崎さんご夫妻と田中さん、西澤さんとで食事。田中さんは最初、数学を専攻していたそうで、それからインド哲学を経て、会話分析の世界に入ったそうだ。でも、それらの領域は「projectability」という関心でつながっている、とのこと。
そのあと、西澤さんと近くの焼鳥屋に。なぜか西澤さん宅にサンタの役で「プレゼントはもう用意してあるからねー」と電話をかけることに。えらそうな口調で「いい子にしているかね」と問いかけると娘さんは感に堪えたように「わー、ほんものみたい」。その声が、なんともかわいい。「みたい」という以上は、本物ではないと勘づいているのだろうが、いっぽうで、すごく「ほんもの」だという感じも持っている。オトナが陥ってしまいそうな虚実の境目を、あっさり体感で越えてしまう力。
埼玉大学の八重洲カレッジ(東京駅が目の前)で、「日本語の会話分析ワークショップ」。午前中は田中博子さんの、日本語のターンテイキング、とりわけ「ターン終結要素」をめぐる話。ターン終結要素というのは、終助詞(ね、よ、さ、など)、判定詞「です、だ」、動詞性接尾詞(ます)、形式名詞(わけ、もの、もん)、終助詞に準じるもの(なさい、ください、ちょうだい)を指す。これを田中さんは「UFO (Utterance Final Object)」というチャーミングな名前で呼ぶ。その結果、「UFOが来た後に話し始める」「UFOを使わずに言い切る」などと楽しい言い回しがあちこちに。
山崎敬一さんの保育園での会話。GoodwinのところではFinal Cut Proを使って字幕を入れるそうで、これは時刻と発話内容をトランスクリプトに落とすことができるならかなり使えそうだった。確かFinal Cut ProはAppleScript対応だったはずで、このあたりを自動化するプログラムができると便利そう。冬休みの宿題とするか。
高木さんの保育所での会話についての発表。こどもの列挙。
夜、関西メンバーで飲みに行く。ぼくは明日の発表があるので早めに引き上げ。宿で4時間ほど寝てからPowerPoint書類作り。
雪。床屋に行ってさっぱりしてから、午後の新幹線で東京へ。ホテルに荷物を置いてから市ヶ谷へ。法政大の学生会館で「Anode」。
各奏者は観客を取り囲むように円形に配置されている。第一部は、衣ずれの音もはばかられるようなかそけき音に耳を傾ける。例によってぼくは片耳が聞こえないので、こういう円陣の真ん中では音の定位が難しい。とくに、一発だけの短い音では判断に困るときがある。幸い、ほとんどの音は響きが長く持続しているので、頭を動かすと音の聞こえ具合の変化からおおよその位置が分かる。というわけで、しょっちゅう頭をふらふらさせることに。
ふつう、音というのは、アタックでもっとも注意を惹きつけ、そこから注意がだんだん減衰していくように思われるが、「Anode」では、むしろ、気が付くと鳴っている響き、というのに魅力がある。アタックを終えた音の響きが、聞くうちに他の音と対比されることでポップアップしてきたり、逆に他の音に埋もれていく。そうした事後的な響きの読み替えがおもしろい。サイン波にはとりわけそういう性質がある。あたかもTVモニタが発する高周波のように、ずっと鳴り続けていながら、あるときはっとその存在に注意がいく。忘れていたものを思い出すような音。
第二部は全員が大音量で鳴らし、観客は自由にあちこちを移動できるという趣向。おもしろいことに、第一部とほとんど同じ感覚だった。ここでもやはり、鳴り続けている音がいつポップアップしてくるかというところに眼目がありそう。
終わってから鍋。中尾さん宅訪問計画。
そのあと宇波くんと茶飲み話。今日のは音が終わってから次の人が入るやり方がフラットな感じだった、というのが宇波くんの感想。そこからランダムに鳴らすということとタイミングをはずすことは違う、という話。まったくランダムに事が起こるなら、人はもはやタイミングを計ることをあきらめてしまう。タイミングを計らせておいて裏切らなければ「タイミングをはずす」というできごとはわからない。すなわち(何がすなわちなんだか)、すぐれたミュージシャンとは「友達の多い裏切り者」ではないか。あるいは「物忘れのはげしい友達がたくさんいるやつ」というのもいいかもしれない。
あと、新曲のタイトルをあれこれ思いついたはずだったのだが、忘れてしまった。
朝から卒論ゼミ。夜、昨日の解析の続き。夜半を過ぎて帰ってから屋台に行く途中、通りの灯りがいっせいに落ちる瞬間を見る。
一日中データ分析。
二年前に発表したデータをプロソディ分析してみる。語の中にプロソディ変化を埋め込むことで修復部をしぼりこんでいることがわかる。この事例については2年前にジェスチャーを逐一分析して、すっかりわかったつもりでいたが、音韻に注目するとまた新たな発見がある。わずか20秒の会話なのだが。
会議会議。