アフガン関係でいくつかリンク。
RUR-55 Outlet(サイード、チョムスキーらのコメント)
レイコフによるコメントやはりメタファーが出てくる
オボハンからの緊急レポート。すでにあちこちでリンクが貼られているが覚え書きとして。
コミュニケーションの自然誌は串田氏の発表。データ自体がおもしろく、串田氏の命名がまた妙に想像力をかきたてるので、たくさんメモをとった。いくつか抜粋。
(指導員の)注意は、あやまることを要求しているだけでなく、適切なタイミングであやまることを要求している。子供はしばしば、このタイミングをはずして(早めに、遅めに)あやまってしまうことで、注意から逃れようとする。
注意はこどもによって脱臼させられてしまう。
規則の外側へと押し出されるように規則をはみ出す子供。もしくは規則の境界を明らかにする子供。その外側にさらに規則をかけることで、外側はさきほどの規則の補集合となる。かくして規則の輪郭は芽細胞から増殖する細胞群のように(指導員と子供のあいだで)相互的に浮かび上がってくる。
きこえがよしのことばがこちらに疎外感を与えるのは、いちばん間近の相手である私だけが、その発話の対象から外されているからだ。
注意は「ことばの矢」のように相手に突き刺さる。ただし必殺ではない。
明日は視覚心理学のダイナミックな視覚の話をするのだが、何の話をしようと考えていて、「背のびして見る海峡を」というのを思い出す。せのびしてみるかいきょうをきょうもきてきがとおざかるあなたにあげたよるをかえしてみなとみなとはこだてとおりあめ(「港町ブルース」森進一/作詞:深津 武志・なかにし礼/作曲:猪俣 公章)。昔の演歌がすごいと思うのは、詩がコンパクトで無駄がないこと。そのくせ謎があること。
『今日も』なのだから、おそらく昨日も一昨日も見ようとしたのだろう。背のびして見ようとしたのは何か。見えたのは海峡。聞こえたのは汽笛。海峡も汽笛も、見えなったしるし。
おそらく背のびしたくらいで見えなかった船が見えるようになるわけではない。が、面の向こうに見えないものを見ようとするとき、からだはつい背のびをしてしまう。
昼過ぎ、カフェ・ハッシュで「幻燈辻馬車」を読了。ラストの疾走に、まったく無関係だが、明治断頭台の「ともりはじめた浅草の灯が、飛ぶようにうしろへ流れ去る」ところを思い出す。
「幻燈辻馬車」。南方熊楠が胃から吐き戻した飯を味わうように読もうと思い、「明治断頭台」や「ラスプーチンガ来た」や「警視庁草紙」ではある程度吐き戻せていたのだが、ここに来て、どんどん先へ進んでしまう。
さらに「警視庁草紙」。まっすぐ前を見つめ、ご隠居とまなざしの通わぬザンギリ頭の兵四郎。来月のユリイカに書く山田風太郎論のタイトルを「覗く背中」にすることだけ決める。
講義とゼミが続く日は、ある意味でいちばん大学教員らしい仕事をしている日なのだが、その割には仕事をしたという感覚がまるで湧かない。ただ、早く時が過ぎたと思う。
空爆の報道にしばしば「限定」ということばが出る。そしてこの「限定」こそが空爆支持の根拠となっているらしい。今朝の朝日新聞の社説は「限定ならやむを得ない」というタイトルで今回の空爆を論じている。
しかし、ぼくには「限定」ということばの意味がさっぱりわからないし、なぜ「やむを得ない」と判断できるのかもまるでわからない。
世界貿易センター爆撃の映像は、爆撃シーンを白昼、しかも上からの俯瞰ではなく、水平から、そして見上げるアングルから撮影され、見る者にかつてない衝撃を与えた。
そしてこれらの映像によって、しばしば俯瞰で撮影される「空爆」というものがいったん地上で体験され瓦礫を目の前にするならば、どのような陰惨なものかが明らかになったはずだ。
にもかかわらず今回の空爆では、そうした衝撃はまったく忘れ去られたかのように、多くの人々が「限定」「人道的」といったことばによって空爆を納得しようとしている。
TVごしに見る限り、その空爆の映像とは、艦上から発射される光であり、あるいは、夜間の対空砲火の閃光、暗視カメラによるほの暗い緑の光線でしかない。
このように「限定」の実態がほとんど不明である時点で、小泉首相はいちはやくこの空爆を支持し、新聞も「限定ならやむを得ない」とする。空爆の結果を見る前から、なぜそれほど性急に「限定」を納得し支持できるのか。
このように「限定」として容認されたあと、やがてニュースは爆撃で、民間人が亡くなった、NGOの職員が亡くなったと伝える。しかしそれらは、いったん認めた「限定」の範囲内として、事後的に「やむを得ない」ことになってしまおうとしている。
湾岸戦争で「ピンポイント」ということばが、あるいは「砂漠」の嵐ということばが頻繁に使われ、CNNや米軍のブリーフィングが提供する夜間映像と俯瞰映像によって、あたかも無人地帯に的確に攻撃が行われたかのような報道が行われた。事態は10年前から少しも変わっていない。
俯瞰、夜間撮影で見えるのは、光の明滅に過ぎない。見る者は、たかだか光の明滅しか知らない。それらがどこで間近に見上げられたのか、間近に見上げた人々はどのように恐怖したかを知らない。今回の空爆で限定されているのは爆心地ではない。(例によって)またしても、「限定」されているのは、メディアのまなざしなのだ。見もしない、知りもしないことを「やむを得ない」とどうして言えるだろう。
「人間臨終図鑑」(徳間文庫)。
平岡正明の解説に出てくる「ラスプーチンが来た」の筋書きが混濁していて「ラスプーチンガ明治の日本にやってきて貧民街の聖者になり、樋口一葉を犯そうとして、あわやというときに明石六次郎のオナラが魔力を破る」といった具合に、すでにして平岡正明の世界になってしまっているところがおもしろい。
空爆が始まる。
ミラノ空港事件といい、先のウクライナ上空墜落といい、あらゆることがテロとの関連をほのめかしながら報道される。地下鉄サリン事件のあとに続発した異臭騒ぎに似ている。世界は明らかに亡霊を見始めている。
「警視庁草紙」。
このところのTV報道には不審を抱いている。こんなとき、覚醒度の強いメディアはよろしくない。自分と相容れない意見であっても意識下でつい影響を受けてしまう。こういうときには、メディアを選ぶことは思考を選ぶことでもある。
アルタイから来日するボロット・バイルシェフが滋賀でその喉歌を公開。共演は巻上公一。世話役はわたくしでお送りします。もうボロットの歌を生で聞けると思っただけですでにお世話を引き受けたかいがあるというもんですが、この喜びをあなたもぜひ味わいに来てください。今回のボロットの公演は関西では滋賀でのみ行われます。予約申し込み、詳しい内容は「アルタイの癒しの声」WWWを。
草津で、竹下さん、Drothy、橋彌さん、小林さん、ゆうこさんで飯。帰りに藤居本家へ。来月のライブの相談。
昨日のNHK「山田風太郎からくり事件帖」は、ほとんどその筋書きがよくわからず、もしかして自分の理解力が足りないせいかと思っていたけれど、「警視庁草紙」原作を読み直し、むしろこれは演出の問題だと思ったので書き留めておく。
江戸は去り、明治への違和感もぬぐえぬ怪しげな開化の煉瓦建築としての「幻燈煉瓦街」で巻き起こる事件を45分のドラマに落とさねばならない脚本家や演出家の苦労はいかばかりかと思うが、その試みはあちこちに疑問を感じさせる。
原作を読んだものなら、まず田辺誠一演じる兵四郎が、マゲをつけていない点にまず疑問を感じるところだろう。維新後の生活に違和感を覚え、いつまでも江戸を引きずっている時代遅れのスネ者という点で、隅のご隠居と兵四郎にはどこか相通じるところがあるのだし、だからこそ、銀座煉瓦街という開化の象徴のような場所では、彼らはその新しさに驚きつつも決して手放しで喜べぬこだわりを持っているわけだが、さかやきのあとすらないドラマの兵四郎の風貌には(役者の演技力はさておき)、そのような時代へのこだわりはまるで感じられない。
そして、のぞきからくりの演出にいたっては、この視覚的装置に対して、映像関係者がまるで注意を払っていないことが明らかだ。
原作では、この「のぞきからくり」は煉瓦建築の窓を塞いでいる板に穴を開けただけの簡素なものとして書かれている。だからこそ、煉瓦塀の向こうの部屋がまるごとのぞき部屋になっているという仕掛けが生きるのだが、ドラマでは、窓の前に絵を据え、窓から少し迫り出した箱状のものにレンズを付け、つまりは簡素なはずのからくりに、旧来の正統のぞきからくりの装飾をほどこし、その結果、原作の仕掛けをはなはだしく損ねている。
おそらくそこでは、旧来の「のぞきからくり」を資料通り再現すれば時代考証に合うといった思考が働いているのだろう。
しかし、そもそも小説の中の「のぞきからくり」は、そうした旧来の仕掛けを裏切っているからこそ、開化の新趣向となるのだ。それを旧来のものに戻したのでは何にもならない。そもそも、窓に穴が穿たれていること、煉瓦建築の内部そのものを覗くということが、伝わらなくなってしまう。
さらに、花魁の姿が出てくるところでは、油絵と実物の花魁との切り替わりこそをカットでつなぐべきところを、あろうことか、花魁の微笑みが一つのカットをはさんで二つのフラグメントとして編集されている。のぞきからくりではありえない「映画」的表現なのだが、そうした表現を採る必然性がまるで伝わってこない。
そして、こののぞきからくりには、高橋由一風の「絵」が使われており、その絵と実物が見わけがたいというところが妙味なのだが、演出からは、油絵と実物とを似せようとする努力すら感じられない。
のぞきからくりを見た兵四郎とご隠居が驚く様子がこのシークエンスでは挿入されているものの、この演出ではせいぜい、花魁の美しさに対する驚きを表現するのが関の山、のぞきからくりの「絵」が動くという開化の驚きは、伝わりようもない。
江戸のチョンマゲがザンギリ頭で裏切られ、江戸の木造が煉瓦で裏切られ、江戸の「のぞきからくり」の常識が、この煉瓦街の新式のぞきからくりによって裏切られる。作者はそうした生々しい裏切りの生まれるからくりを、これまた明治のからくりの名前である「幻燈」として呼ぶ。
このような、作者の小説の二重三重の距離は、この「TV」ドラマではすっかり落ちてしまっている。
「警視庁草紙」とは、時代小説に見えて、じつは時代に裏切られる小説である。、それを劇化するには、時代考証ではなく、時代に裏切られることを表現するための考証が必要となる。
そこでは、時代を表わすチョンマゲではなく、時代に裏切られるチョンマゲが表現されねばならない。田辺誠一に必要なものは、同じNHKの司会業で見せているような、時代の「トップランナー」たちの奇矯な発言に対する鈍さではない。ガラスの仮面の速水社長役が似合う時代不明な風貌の彼が獲得すべきは、むしろ「トップランナー」が牽引する時代と相容れない、精神のチョンマゲである。
「明治断頭台」読了。山田風太郎「ラスプーチンが来た」(ちくま文庫)読了。
TVで「警視庁草紙」。cobaの音楽がほとんど間断なく流れて、全編予告編のように落ち着かない。一人一人のわき役の機微に触れる山田風太郎の筆致にはとうてい及ばぬせわしなさ。
「日本ランカイ屋列伝」書評原稿。雨。
夕方、図書館で山田風太郎をごっそり借りてくる。カフェ・ハッシュでビール飲みつつ「明治断頭台」(ちくま文庫)。
「長坂さんの事か? ありゃあんまり無能過ぐる」
「無能というより、長坂さんは過ぎに何か妙なしっぽをつかまれているのじゃないかと思われるふしがある」
「そういえばそげな感もあるな。(中略)あれがギロチン廃止の音頭とりになると、それはそれで馬鹿には出来んと思うが」
「おれは別にギロチンの推進者でもないつもりだがね」
ギロチンの屍体のあと始末をしている牢役人や邏卒の姿を眺めながらの対話であった。 (p119)
「あれは、自分の髯と同様、その髯は剃ってやったものの、何としても牢臭のとれぬ首と、きれいな胴体のくいちがいを消すための − 洗えばどっちも同じ事になるための処理じゃなかったか?」
ともりはじめた浅草の灯が、飛ぶようにうしろへ流れ去る。(p370)
飛ぶように、とある。このとき二人は歩いているのか俥に乗っているのか定かでない。
志ん朝が亡くなった。八月に浅草で見た住吉踊りでは主任として、他の共演者のトボケたかっぽれ唄に、江戸前のかっぽれを踊ろうとしては崩れるところを見せていた。あれは、体調の悪さを江戸前崩れに乗せるぎりぎりの芸だったのかもしれない。
講義のあとの食事で、Drothyと「理解」の話になる。「理解」という考え方は、頭の中になんらかのコンセプトを形成することで、Drothyの「身体を動かしながらゴールにたどりつく」という考え方とは相反する。でもたとえば、予測、という場面では「理解」という現象が伴うのではないか。たとえば、(予測のはずれに対する)驚きや落胆といった表情や声の表出は、「理解」されていたモデルとのギャップによって起こるのではないだろうか。
といった話をすると、「そうねえ、『理解』という考え方はとても曖昧で危ういんだけど」と言いながら彼女が出してくれた例は、交差チューブの実験。二つのチューブを垂直面で交差させて、上からピーナッツを落とす。チューブは交差しているので、右から落とすと左から、左から落とすと右から出る。ところが、これをサルの前でやって見せると、サルはしばしばチューブの真下でピーナッツを待つらしい。つまり、「落としたものは真下に来る」という「理解」があるわけだ。
ある試みが成功した場合、それは「身体を動かしながらゴールにたどりついた」とも言えるし「頭の中のコンセプトに従って身体を動かした」とも言える。失敗した場合にもまた「間違った手がかりに従って身体を動かした」とも言えるし「頭の中のコンセプトが間違っていた(コンセプトがなかった)」とも言える。この二つの違いを詳しく調べるには、プロセスの詳細な観察、視線や身体動作の小さなスリップの観察が必要となってくる。
プロセスの中で得られる小さな手がかりを次々と選択していき、結果的にゴールが達成される。このとき選択のされやすさ(潜在性)に注目するなら、「身体」主義になる。選択する意識にこだわるなら「理解」主義になる。
何度も間違いながらやがてある行動を獲得していくとき、潜在行動は(いわば居眠り防止舗装のように)何度も覚醒させられ、手がかりが意識化されていく。意識化された手がかりはもしかしたらゴールを導くかもしれないし新たな間違いを生むかもしれない。それを何度も繰り返すことでゴールに行き当たる。そのようなプロセスとして行動の獲得を考えてみる。
サイード「パレスチナへ帰る」(四方田犬彦訳、作品社)。イスラエルに抗しながらアラファトにも単純に組みしないサイードの主張は、じつはとても明快だ。彼は、ホロコーストがイスラエル建国を正当づけるものとして使われることを否定する。かといって歴史修正主義者のように、ホロコーストはなかったと主張したり、その犠牲者の数の成否を問うたりするわけではない。むしろパレスチナの被ったできごととホロコーストとを併置させ、ホロコーストからパレスチナを想起させようとする。
まだ時差ぼけなのか、朝の6時には目が覚めて夜の9時には眠くなる。
竹下さんのところにDorothy Fragaszyというオマキザルの道具使用行動を研究している人が来ている。明日の講義で話してもらうので、打ち合わせがてら話。
彼女はサルの知識体系じたいよりもサルがいかなる手がかりを用いてある行動ができるようになるかに注意を払っている。アフォーダンスの考え方を使っているわけだが、道具を介した面の認知、というはっきりした現象を扱っている点で興味深い。
オマキザルに先がクワの形になった棒を与えて、格子ごしに餌を引き寄せる課題を与える。このとき、格子と餌との間に穴の障壁を設けてやる。すると、オマキザルは穴をよけることがなかなかできない。目に見える穴なのに、オマキザルにはよけるのが難しい。
で、従来はこの実験結果は「オマキザルには重力の概念がない」という形で解釈されていた。
が、彼女は、何頭かのサルが、面の触覚的手がかりによって実は障壁を越えることを学習するという点に注目している。「先に頭の中に概念があってこそ身体がそのゴールを目指す」というのではなく、「触覚的手がかりを使いながら身体が結果的にゴールにたどりつく」という考え方だ。
リハーサルで彼女とパワーポイントをプロジェクタに出すのにすったもんだ。
その後情報処理室のソフトの廃棄とインストールなど。プレインストール済みだったCD−ROMは開封もされていない。で、分別しないといけないので、捨てるときになって初めて開封し、プラスチック(CD−ROM)と紙(マニュアル)に分けて廃棄するのである。IT不経済。
第一回めの講義。居候が他人の家において自分の(比喩ではなく)居場所を決めるというのは、単に「あなたはこの部屋を使ってね」といったルールではっきり決まるわけではなく、家主とのインタラクションの中でじょじょに決まっていく、というような雑談を少し。
講義が始まると同時にさまざまな用事。