Oldiesに、Texture Time -移動について-。もともとは昔つくったスタックに入れてあった文章で、パソコン通信時代の用語が使われているが、それ以外の点については今でも読める、と思う。
Texture Time 29 Aug.、Texture Time 02 Sept.追加。
日記0921まで追加。
原稿。昼過ぎに京都、ギャラリーそわか。谷川さんのトークに吸い込まれるように半覚醒。
夜、青山さん、田尻さんとご飯。まだ時差ぼけの中という感じ。
日記0917まで追加。旅先では、パソコンに打ち込んだりメモをとったりICレコーダーに思いつきを吹き込んだりビデオを撮りながらぶつぶつしゃべっている。それを取捨選択して日記に落としていくのでどうしても時間がかかってしまう。
朝、宿舎の草刈りをしていたら、激痛。はっと地面をみたらスズメバチだった。アンモニアがないので一瞬おしっこでもかけようかと思ったが(ほんとは水洗いするのがよい)、相方に保険証を渡され病院へ。もちろんアナフィラキシーが起こることだってあるのは知ってるが、ハチごときで病院なんて。しかし、医者に「ああ、ずいぶんはれてますね」と言われて妙に自分がひどい事態に陥ってるような気がしてしまい、素直に注射を受け、薬をもらう。
しばらく鈍い痛みがあったが、そのあとはパソコンが打てる程度には復帰。
山田風太郎「戦中虫けら日記」を読み直す。毎日、これだけの文章、そのいずれもがおもしろい、無理がない、すがすがしい。嘘のないところを書いていても、凛とした品がある。
Texture Time (Different Train)に、Torino -> Barcelona・Barcelona -> Toledoを追加。
日記0827-0906を追加。
朝、関西空港に着く。帰りの電車の網棚にコートを忘れた。猫はいやにおとなしい。それともこちらが疲れているだけなのかもしれない。夜中近くまで眠る。
飛行機の中で見たNHKニュースはわけがわからなかった。首相訪米に「一定の感触は得た」と官房長官。何の感触が一定得られたのか。というか日本がなぜ自衛隊を派遣したがっているのかさっぱりわからん。
帰ってきてこれまでの日本報道をネットでざっと読む。民主党は今回の世界貿易センター爆撃の件で完全に馬脚を表わした。その対策がまったく鈍感な点で、自民党となんら変らない。
官邸メールマガジンは、なんとこのタイミングで「来日不法外国人による犯罪に対する取組み」を歌っている。
「当然のことながら、犯罪を犯す外国人は不法滞在者らごく一部です。合法的に滞在し、政治や経済、学術文化の各分野で日本との友好や協力の架け橋となっている外国の方々の名誉のためにも、外国人犯罪の急増により外国人一般に対する偏見や誤解が生じるようなことは絶対に避けなければなりません。」と付け足されてあるが、そこでは「政治や経済、学術文化の各分野で」活躍してる人々しか眼中になく、アフガニスタンの人々の生活への目線はまったく欠けている。移民という考え方に乏しい国のことばだ。
何より、この後に及んでまだ、警察体制を強化しさえすればテロリズムは防げる、とこの国の政治家たちが考えているのが問題だ。その考え方が破綻したのが世界貿易センター爆撃ではなかったのか。
このメールマガジンの書き手には、命を捨ててまで人を殺そうとする者とただの物盗りとの区別がまるでついていない。なぜ命を捨ててまで人殺しする者が現れたかを考えようともしていない。
ウサマ・ビン・ラディンは最近「アメリカは意外に弱い」と語っていたという。どれほど防衛を強化しても、わずかな穴は埋まらない。そして一点のわずかな穴は、現代技術の力のおかげで、強力なテロの基点となりうる。
「日本は意外に弱い」という発言を私たちは聞くかもしれない。そんな想像力が現在の政治にはまったく欠けている。
こんな事件が起こるたびに日本の「国際責任」とか「国際性」が問題になる。日本にとっての「国際」とはどの国のどんな反応を指すのか。
今回の事件に関するアメリカ側の報道で、もっとも多く登場する日本とは、犠牲者に哀悼の意を表する者としてでもなければ、国際貢献への賛同者としてでもない。「パール・ハーバー」という卑劣極まりないテロの首謀者としてである。真珠湾攻撃の映像はCNNで何度も放映された。ブッシュが使う「infamy」ということばは、真珠湾攻撃後のルーズベルトの演説で使われたものだ。
そして、今回のテロの首謀者たちは「カミカゼ」「カミカゼ・ボンバー」と呼ばれている。「kamikaze」の解説が載っている新聞まである。現在の日本の首相が「指揮官たちの特攻」を愛読していると知ったらアメリカはどう反応するだろう。
いっぽう、アフガニスタンに複雑なシンパシーを持つパキスタン人の口からは、今回の事件に関して「ヒロシマ・ナガサキ」という地名が出る。この表現を最初にヘラルド・トリビューンで読んだときは、妙な感じがしたが、パリで、そしてロンドンで会ったパキスタン人からも同じ地名を聞いた。
彼らは日本を「ヒロシマ、ナガサキ」に原爆を落とされた者として語る。テロはなるほどひどい事件だ。しかし、あれは「ヒロシマ、ナガサキ」に原爆を落とし、パレスチナ人を殺し、イスラムにしてきたことへの報いでもあるのだ、お前もそう思わないか、と。
日本人とは、時と状況が許せば人間は自らの命と引き換えに多くの人々を殺すことがある、ということを最も劇的に示してしまった者である。そして、それに対する「正義」の名のもとに、誰彼の区別なく殺されてきた者である。
その日本の首相が、アメリカがいったいどんな手段を取るのかもわからないうちから協力を約束し、自衛隊の海外派遣の決定を急いでいる。
日本人よ、テロリストの末裔よ、お前はいったい何様なのだ。テロの危険を歌うなら、日本人よ、お前こそいちばん危うい存在ではないか。そして「正義」の名のもとに、お前がやられたように誰彼の区別なく殺してしまう、そんな可能性に手を貸そうというのか。
ぼくはテロの強さも、強さによるテロへの解決も信頼しない。「日本人」の強さなどなおさら信頼できない。強さは、憎しみをつのらせ、憎しみの強さによって打ち砕かれるだろう。
むしろ、あの事件は弱さを認めることを世界に強いた、と思っている。倒れない塔はない。塔が建ちつづけていることの弱さを認めよう。塔の強さを目指す者は、強さによって倒される。倒れない塔を作ることはできない。もしこの世に神の奇蹟があるとすれば、それは、塔の弱さを維持し続けうる、ということなのだ。