「アルタイの癒しの声」、まだ席に余裕あり。いやあ、ほんとこれいいですよ。人生は一度きりだ。ボロットの歌を聞くことのできた人生。スバラシイね。聞くことのできなかった人生。カナシイね。もちろん知らないで済めばカナシクなかったのだが、今読んでいるあなたは知ってしまった。だからスバラシクなりましょう。チケットのお申し込みはこちら。
成田くん担当でGoodwinの昔の論文を読む。二組のカップルが交わす短い会話とそこで交わされるまなざしや動作を、ただ丹念に追っていくだけなのだが、データの取り上げ方がおもしろい。アンがベスに向かって、夫ドンの行動について語る。ベスの夫ジョンは黙ってスープを注いでいる。物語る者、語り手にまなざされる者、物語られる者、傍観する者。四人の動作を追っていくと、それぞれがそれぞれのやり方によって時間をシンクロさせている。ドンは、アンの語りに登場する自分自身に合わせるように身構える。ジョンはスープを注いでいるが、その動作は物語の構造に合わせて中断したり再開したりする。
日常会話におけるジェスチャーという対位法的時間。
原稿、しかし遅々として進まず。文章が断片化するのはまだ本調子でない証拠。
新井洋一編・著「パサージュ/遊歩の商業空間」(商店建築社)。美しい写真が満載。これに載ってるパサージュのうち、ロンドンのものをチェックしていないのに気がついた。次回の課題。
帝国主義の産物としてのパサージュ・デ・ケール。
午前六時に歌舞伎町のカプセルを出て、9月の雑居ビル火事あとにカメラが早くも張り込んでいるのを見ながら新宿駅へ。九時過ぎには彦根に戻り、二限めの講義。あとでニュースで知ったことだが、じつはぼくがカプセルを出てしばらくしてすぐ近所で火事があったらしい。
「警視庁史」。この本は山田風太郎の「警視庁草紙」のネタ本のひとつ。川路利良の「警察手眼」から。
探索ノ道微妙ノ地位ニ至リテハ声ナキニ聞キ形ナキニ見ルカ如キ無声無形ノ際ニ感覚セサルヲ得サルナリ
怪シキ事ハ多ク実ナキモノナリ決シテ心ヲ動カスヘカラス然レトモ一度耳ニ入ルモノハ未タ其実ヲ得スト雖モ亦怠ラサルハ警察ノ要務ナリ
雨。まんが喫茶やただの喫茶をハシゴして原稿。夜、橋爪さんと青土社の前田さんと会ってあれこれ話。図像話やらジョビン話やらベンヤミン話など。
サイード「文化と帝国主義」。2が訳されたのを潮に読み始める。8年前の本なのに古びていない。むしろその頃から世界はますます退行しているのかもしれない。
今日もBOX東中野へ。今日は岸野雄一氏のうずまきナイト。ギャビン・ブライヤーズの「イエスの血は私を見捨てない」を20人で。酩酊ではなく、時間をかけてゆっくりと深まる。
倉地久美夫の歌をはじめて聞く。これ、すごい。もっと聞きたい。コカコーラが安い。
「trumpi」。これ、すごい。映画として。
イワン・シューマッハーという人はただならぬ監督だ。
ここにはシベリアらしき土地が出てくるが、そこは不思議惑星キン・ザ・ザよりも遠い。そして東京らしき都市も出てくるが、そこは惑星ソラリスよりも遠い。にもかかわらずこの映画はノンフィクションである。いったいどうなってるのだ。
最近話題になってるテルミンもドキュメンタリーとしておもしろい映画だが、あれはテルミンについての映画だった。それに対して、これはドキュメンタリーのふりをしているが、じつは口琴語によって物語られる口琴的映画である。字幕はないが、口琴語を知らずとも楽しめる。
物語はシベリアや東京に似た口琴国が舞台である。口琴語をあやつるアントン・ブリューヒン博士は底なしの目をもつ書記官、直川礼緒とともに旅をしている。直川礼緒は、ビデオに似たあやしげな記録装置によって旅を記録し、日本語に似たマジナイを書きつける。口琴国では、人間以外の動物はみな口琴語を解する。馬はよろこび、牛は驚き、猫はまた繰り言かというように歩き去る。
墓、雪、劇。口琴国はめずらしい事物でいっぱいだ。ぼくが特にこの映画でおどろいたのは、二人がホテルをチェックアウトするときに口琴を置いていく(ように見えた)シーン、そして日本によく似た国で、ブリューヒンの演奏を聞いた皇太子(なのだろう)が「ハッピーミュージック」とその音楽を評するシーンである。シネフィルを自称するものはどうしていますぐBOX東中野に直行してこの映画を見ないのか。見ろ!
神田の古本まつり。前からほしかった樺島勝一画の「火星国探検競争双六」をえいやっと買ってしまう。この絵の宇宙観はすばらしい。飛行船と塔と雷様。宮崎駿はこれを見て「天空の城ラピュタ」を作った(に違いない)。いずれエレベーターの本に使って元をとろう。
他に「警視庁史」龍胆寺雄の「シャボテン」など。
まんが喫茶に自機を持ち込みネットにアクセス、と思ったらクラッシュ。悲しい。
午後、東京へ。ひさしぶりに小島さん夫妻に会う。なんと小島さんは最近口琴を自作している。その材料はどうやらホームセンターにあるらしい。おそるべしホームセンター!鉄を打ち鉄を切るため毎日ガレージにこもってるそうだ。おそるべしガレージキット!
BOX東中野で口琴ナイト。巻上さん、ブリューヒン、Yuko Nexus6、サム・ベネットという取り合わせ。ビデオを撮ったのはいいが、席が近すぎて一度に二人しか入らない。こんなときワイズマンならきっとこうするだろう、と思って、ゆっくりパンして撮る。音を出していないものを撮るのがミソ。サムの下敷き技が絶妙だった。
ライブには何年ぶりかで会う人が何人も。口琴縁。しかし自分にはつくづくノスタルジー感がないのだと思う。ひさしぶりに会った人ともはじめて会った人とも、同じような感覚になってしまう。
円朝「怪談牡丹燈篭」、谷崎「盲目物語」を読み直す。原稿のヒントのため。
この日もまっとうに。データ解析演習はなんやかやで4時間。ふー。
まっとうに働く。
富岡多恵子「壷中庵異聞」。佐藤健二「風景の生産・風景の解放」(講談社選書メチエ)に、この小説に登場する製本屋のモデルが喜多川周之氏だと書いてあったので読み始める。途中、主人公の兄が高名な推理小説家、とあり、もしやとネットで検索してわかったが、この主人公「横川蒼太」とは、じつは江戸川乱歩の実弟、平井蒼太のことだ。
読んでいる間に考えたのは別のこと。
明治の人の律義さ。律義ということと、カタブツということとは違う。律義さとエロ、律義さとせんちめんたるは両立する。エロやせんちめんたるは律義という形をとりうるのだ。
その老人の律義なせんちめんたるは以下のように暴かれていく。
薔薇蒼太郎のこういう態度は、たんに小説書きの節度からくるものではないように思える。恐怖の対象から身をひいているところが見える。こわいものの正体を自分の目であばくことを避けている。こわいこわいといいながら、なんとかして、そこに美しいものがあるのを証明したい。こわいと思っているものがじつは美しいものでなければならない。それで、こわいもののまわりの美しいものをなぞっていく。たしかに、この態度は「せんちめんたる」である。「せんちめんたる」とは、こわいものの内部へ乗りこんでいき、そのこわいものを正確に眺めることで受ける衝撃を批評にまで変化させる痛みを避けることである。
(富岡多恵子「壷中庵異聞」)
しかし、この小説のおもしろいところは、このように「せんちめんたる」の正体を暴きながら、なおも主人公蒼太の小さな世界への探求が止まないことだ。その探求は、せんちめんたるの産物である豆本でなく、せんちめんたるの内部へ向かう。そのことでせんちめんたるを非せんちめんたるの風呂敷で包もうとする。非せんちめんたるによってくるまれたせんちめんたるの、骨より軽い小ささ。
講義で包囲光配列の話。帰って早めに寝る。夜中に目が覚めてぱこぱこやってまた寝る。
風邪ぎみ。「アルタイの癒しの声」の情宣用資料作り。一昨年のライブに来た人にDM発送。
絵はがき界の謎、菅野力夫のページを作る。
「アルタイの癒しの声」WWWを改訂。「アルタイってどこですか?」という声が多いので、地図をつけた。
朝、冷え込みがきつい。NHK教育をつけたらちょうど桂福団次が「立切れ」をやっていた。ついこないだ富岡多恵子の「立切れ」を読んだところなので妙な感じがした。福団次の話は客を泣かせんばかりのしみじみとした人情話で、サゲにまで泣きが名残っている。当世非凡人。
富岡多恵子の簡潔な文章は、単に摩滅したなめらかな文章ではなく、削られたコンクリート肌のように面がささくれ立っている。身過ぎ世過ぎを重ねるうちに登場人物の体に染みついた考えから考えに飛ぶ性癖を読みながら、がりがりとこちらの頭の余分な部分まで削られていく。漢字の多くはひらがなにひらかれ、字面のデコボコはならされているかに見える。そこにひょいと「ドブ」「オカズ」などというカタカナの凸凹があり、おそうざいの名前がむきだしに並ぶ。
ドブ川の子供が自動車でどこかへつれ去られ、むらがっていたひとたちがいなくなると、菊蔵は足をひきずりながら駅前のマーケットへいった。晩のオカズを買うためである。アパートの共同炊事場で煮炊きしなくていいように、すぐに食べられるものを菊蔵は買う。煮豆とか、コロッケとか、精進あげとか、つくだ煮とかである。菊蔵は、五百円札を出して煮豆を買い、八百五十円のおつりをもらった。相手が千円札とまちがえているのである。菊蔵は、おつりをにぎりしめ、ひきずる足ももどかしく、小走りにマーケットを出た。マーケットを出てから、菊蔵はおもしろそうに何度もうしろを振りかえった。
(富岡多恵子「立切れ」/「当世凡人伝」)
朝、消防署に調査依頼。消防署に調査を依頼したのではなく、消防署を調査することを依頼。国内での119番電話研究の先例はあるが、通報はプライヴァシーの問題もあって、実際どこまで調査させていただけるかは未知数。
あちこち署内を案内していただき、司令室の様子なども拝見した。これだけでも収穫。
「エドの舞踏会」読了。高雅で酷薄なロンド。数あるラストの中で、ロチのことばを含むこの小説の終りは、ひときわ惨く美しい。
夜、ACTでナチョスのライブ。
カフェ・ハッシュで「明治波涛歌」読了。富岡多恵子「当世凡人伝」(講談社学芸文庫)、小沢昭一「ぼくの浅草案内」(ちくま文庫、仁丹塔と都電のいい写真が表紙)と、一日本を読む。
「当世凡人伝」の文章は、ときに変速ギアが入ったようにスピードが上がる。主人公の連想が漂い出す。「幼友達」では、妻の連れ子から来た手紙を前に、難儀な幼友達を思い出す次のくだりで、時間は一文ごとにジャンプしている(p280)。
いつのころから、賢一が自分をオヤジと呼ぶようになったか、新三は思い出そうとしている。たしか高校へいくようになってからだ。手紙にもオヤジとなっている。賢一の子供の時のことが、また思い浮んでくる。最初自分を見た時の表情と目つきがはっきりと浮んでくる。するとまた、同時に、西のことが浮んでくる。汚れた半ズボンから出ていた、いつも傷だらけだった脚や、野球帽のひさしを横に向けてかぶっていた姿が出てくる。西は、だれのなにを盗んだのか。西は高校のころは美男子で女の子には人気があった。オトナになってからも男前だった。子供の時からそうだった。
文庫本には佐々木幹郎の解説がついている。そこで著者の小説の締めくくりを「よく練りこまれた羊羹を、まな板の上で最後の一片まで薄く切ると、その一片が震えながら垂直に立っているというような」と評しているのだが、読みながら感心するよりも、羊羹を評者はいつこのように切ったのだろう、と思う。
すると、急にコーヒーの苦さが上口蓋に貼りついているのに気づく。毎日何杯も飲んでいるのだが、こんな風にコーヒーの味に気づくことはなかった。
その解説には富岡多恵子の「策謀」という詩が引用してある。
自分が馬だと思えば
走っていることは
ひとつの景色になります
馬のまわりには景色なんてありません
あるのは柵と土と
時折の空です
向う正面の上り坂から
コーナーにかかると
馬の瞳はにごってきます
膿のような液体が
瞳の奥からにじみ出てきて
世界は膿色の液体でみたされます
それでやっと
自分が死ぬのだと気づくのです
それでこれは、視覚なき視覚、山田風太郎の「ともりはじめた浅草の灯が、飛ぶようにうしろへ流れ去る」知覚だと思う。
講義ゼミゼミ。「明治波涛歌」。
「明治波涛歌」の「からゆき草紙」での、村岡茂平次の人買い話の挿入。何かに似てるなと思って思い出したのは「カイジ」。人買いに三分の理。糞尿のように小説に排泄される悪。
このところ、アフガン空爆のニュースと平行するように、えひめ丸引き上げのニュースが流れる。米軍潜水艦の故意ではない浮上によって亡くなった人々への長きに渡る保証。かたや、米軍空軍の故意ではない誤爆によって亡くなった人々への形ばかりの哀悼。どう考えてもおかしいだろう。
もちろん世界は「平等」ではない。世界は狂っている。私並みに。世界には起伏と断層がある。私並みに。だから私は世界並みに鈍感にならないこと。
九月以降しばらく、トリビューン紙にはある種のバランス感覚があったのだが、空爆以降、(少なくともオンラインでは)ほとんどアメリカ寄りに記事が傾き出し、アフガニスタンやパキスタンからのニュースソースが減りつつある。