論文。カフェ工船で「暁の寺」を読了。
身振り研に出てから、zanpanoへ。リハももっぱら一緒にやる曲中心で。
「子どもと貨物船」でピアノ。「坂の季節」「時の鍵」でデュエット。なぜかあちこちから笑いが。「時の鍵」は名曲だなあ。夜半を過ぎて打ち上げが続く。
さまざまな校務。夏休みゼミ。夕方、扉野さん宅で、繭ごもり+かえる属で練習。さよちゃんとのデュエット曲を練習する。歌い方に工夫が必要。途中から単に好きな曲を歌い合う会になる。午前二時まで。
渋谷さんが8/24のスミス記念堂での写真を持ってきて下さる。
カメラ・オブスキュラのレクチャー終了後に、参加者で記念写真を撮影したもの。
渋谷さんお手製の四つ切り判大型ピンホールカメラと、コダックのカメラキャップにピンホールを仕込んだ小型のものとで撮影を行った。
大きい四つ切り判の方は、光漏れがあってうまくいかず、コダックが成功だったとのこと。上の写真はその一枚。
長年ピンホールで撮影しておられる渋谷さんの言によれば、やはり大判の細かい階調で2,3分露光して撮影するのがピンホール写真の魅力で、小さいのは「ほんとうのピンホールとはちょっと違いますね」ということ。でも、この、1-2秒の短い露光による写真にも、輪郭が輪郭として凝る直前の柔らかな階調が見えて、不思議な魅力がある。
朝からHCS二日目。午後、久しぶりに元町の高架下をぶらぶらする。商店街のドトールで「奔馬」。盆明けくらいから少しずつ「豊饒の海」を読んでいる。
JRで彦根へ。電車の中で読了。
徹夜明けで神戸大の滝川記念館へ。開始より一時間も早く着いてしまった。港を見下ろす会議室でPCをぱこぱこやる。
「洞窟体験者のキャラクタ視点ジェスチャー」というお題で話させていただく。体験された身体運動を繰り返すことが、じつは環境空間の立体性を表現するもっとも簡潔かつ適確な道であり、その簡潔さ、適確さによって、見る者もまた、「これは確かに体験された結果でてきたものだ」ということを体感する。問題は、この「簡潔さ」「適確さ」というのを、いかに微細に記述して、ジェスチャーの内部に込められている整合性を浮き彫りにするか、ということ。
終了後三宮でちょっと飲むものの、すぐに電池切れで寝てしまう。早めにお暇する。
明日の準備。データを見直すたびに、あそこも見えていなかった、あそこにもまだあったと思うことばかり。おそらく30分の発表では触れられぬことばかりなのだが。
朝、長いこと出してなかった幻灯機二台を出して、簡単なメンテナンス。箱も壊れているし、スライドもばらばら。
スミス記念堂に集合して、それぞれの作業に取りかかる。何度か予行をやっているのだが、新しい思いつきが加わって、この間にもいくつか別の試みをする。
幻灯を祭壇に映してみたのだが、これは惚れ惚れとした。古いErnst & Plank製の幻灯が映し出す映像と、教会のサイズとがぴったりなのだ。
そもそも祭壇というのは、ちょうど、その教会にいる者の視線を集め、教会の内部に聖なる空気を満たすのに適した大きさと距離に設えてある、ということなのだろう。その祭壇に映像を置けば、それが聖性を帯びるのは容易なことなのだろう。
外の光景や幻灯の映像をあちこちに映しているうちに、もう、スクリーンはほとんど要らないのではないかという気がしてきて、結局、基本的には何も使わず、ただ教会の壁一帯に、外の光景を映し出すのがいちばんいいような気がしてきた。とても暗い映像だし、ある程度の時間暗順応して、ようやく細部が分かるような体験だが、それをしてもらうのが一番よいのではないか。
などとあれこれ試しているうちに、早くも開始時間。真っ暗な中でスミス記念堂副理事の辻さんに挨拶していただき(顔がまるで見えない)、そのあとレクチャー。レクチャーというよりは、目の慣れていない方のために、そこで起こっていることをときどき実況するという内容。そして少し幻灯会。
PCも持ってきたし、カメラ・オブスキュラの資料映像もあれこれあったのだが、結局使わなかった。現代のプロジェクタの光では、この微妙な暗さには明るすぎる気がしたから。
白い布をかざして、近くに像を結んだときの明るさも体験していただく。おお、と声があがる。
あまりイベントらしい仕切りもなく、どうもやっているこちらの方が楽しんでしまったような気がするのだが、一時間近く真っ暗な中で、ほとんどの観客の方が残って下さった。一人、お年寄りの方が途中で出られて、ちょっと申し訳ない気もした。
静かにして下さいとお願いしたわけではないのだが、真っ暗な中で光を見つめていると、自然とことばが少なくなり、みんな黙ってしまう。遠くでバスの音がして、教会の右壁に小さくバスが現れる。それがぐんぐん大きくなり、正面の壁をさあっと過ぎて、左壁に移って、小さくなっていく。そのさまに、耳を澄ませている。
3:30ごろレクチャーは終わり。渋谷写真館の渋谷さんがわざわざ自作のピンホールカメラを持ってきて下さった。長年、ピンホールカメラで撮影をしておられる渋谷さんのお話を聞き、外で撮影会。渋谷さんの写真ファイルを、長いこと見ておられるお客さんもいた。渋谷さんの写真は、渋谷さんの説明があると、ぐんとその魅力が増す。
詳しくはこちらを。ちなみに明日は午後からいい天気かも。明日の彦根市の天気予報。いいぞいいぞ。彦根の老舗写真館、渋谷写真館のご主人が自作のピンホールカメラを持ってきて下さるそうです。うまくいけばピンホール記念写真が撮れるかも。
午前は、冨永英夫さんによる「レトリックとしての総称文」。総称文が、じつは真偽を扱っているとは限らず、総称されている対象の一部分を言い当てている例が多いことを示す話。たとえば、「ライオンにはたてがみがある」という文章は、じつはライオンのオスのみに当てはまるにも拘わらず、ライオンの総称文になっている、という風に。
この話を聞いて、市川伸一さんの「反例発見説」のことを思い出した。反例発見説というのは、四枚カード問題をはじめとする、形式論理と日常的推論のズレを考えるときに市川さんが用いている仮説。
たとえば、「野菜にはビタミンCが含まれている→野菜をとらなけれならない」という文章はもっともらしいが、「ピーマンにはビタミンCが含まれている→ピーマンをとらねばならない」というと、ちょっと言い過ぎかなという感じがする。さらに、いま、新種のキューマンなる野菜が開発されたとして、「キューマンにはビタミンCが含まれている→キューマンをとらねばならない」というと、いくらなんでもわざわざそんなものをとらずとも、と思いたくなる。
じつを言えば、野菜であれピーマンであれキューマンであれ、ビタミンCを含む食物の、一部に過ぎないし、野菜をとらなくてもビタミンCをとる方法はある。ただ、野菜はビタミンCを含む食物の中で、比較的占める割合が高いが、ピーマン、キューマンとなると、占める割合はほんのわずかになる。だから、野菜に比べて、ピーマン、キューマンの場合は、「AでないにもかかわらずBである場合」を発見しやすい。
ここで、「AはBである。」という総称文において、Bに対してAの占める割合のことを「被覆度」と呼んでおこう*1。
この「被覆度」概念を使うと、総称文を、真偽値というよりは、認知的に目立つ度合いの大きさによって捉え直せるのではないかという気がした。
レトリカルな総称文は、ひねったものが多い。「ヒトは裸のサルである」というと、一瞬、え、服を着てるじゃないか、と思うが、他の霊長類の中で、体毛の少ない naked な動物を思い浮かべると、なるほど、ヒトは裸といってもよい。この場合、サルの中で体毛の少ない種を考えて、その中でヒトの「被覆度」が高いと思いあたると、もっともらしく思える。
ということは、「AはBだ」という総称文は、「Bに対する被覆度が大きくなるようにA、Bを捉え直しなさい」と聞き手に要請する文だ、といえるのではないか。つまり、一種の遂行的な意味合いを持っているのではないか。
そして、聞き手が思わずそのようなA,Bについて思いをめぐらしてしまうという点で、総称文はレトリカルなのではないか。そんなことも考えた。
二番手はわたしで、「言い淀みと身体動作」について。「文と発話」に書いた話を使って、志向性と失敗について掘り下げるつもりだったのだが、その手前でタイムアップとなった。志向性の話は再挑戦が必要か。
午後は、宮浦国江さんの「概念化と言語における「気もち」の役割 —[X is X is X]を例として」。ガートルード・スタインのことばで有名な「a rose is a rose is a rose」をはじめ、英語には、X is X is Xという表現が多くある。この一見トートロジカルな表現が、じつは感情の問題と関わっているのではないかという問題を扱った話。体験が表現に織り込まれ、そこに感情がこもる、という現象は、すごく興味があるところ。今回は書き言葉を扱った話だったのだが、日本語会話だとこれにあたる現象はなんだろう、と考えることしきり。
宮原勇さんの「認知言語学と現象学的言語論の可能性」。志向性とイメージ・スキーマ理論とが照応され、ラネカーの分析が、時間上に展開されていく。そこでは、記憶が保持され深みが増していくさまが描かれるのだが、天の邪鬼なので、つい、忘却や失敗はどう扱われるのだろう、と考えてしまう。
徹夜明けのわりにはたくさん頭を使った。懇親会はおいとまして彦根に戻る。
*1: 研究会ではうっかり、市川さんの本に「被覆度」と書いてあったような気がして、質問で何度も「被覆度」ということばを使ってしまった。が、あとで、「考えるための科学」(中公新書)を読み直したら、そんな術語は使われていなかった。わたしが頭の中で勝手にねつ造した術語かもしれない。というわけで、日記を若干訂正。それにしても、なぜ「被覆度」なんてことばがあったような気がしていたんだろうか。(20080825)
論文推敲。ノートをがーっと書く。ぱこぱこ打つときとはアイディアの出方が違う。
スミス記念堂でカメラ・オブスキュラ試作二回目。スクリーンを見直した。ポカリスエットの空き缶で節穴を作る。上田君がこの穴を「レンズください」「レンズかざしてみましょうか」と呼ぶのでおもしろい。→「スミス記念堂のカメラ・オブスキュラ」へ
明日のコロキアムの準備。
8/29から京都のメディア・ショップでイヴニング・レクチャー「写真の余白に」(四回連続)が始まります。わたしは9/26(金)第三回に「異像と徴候 -ステレオ写真と身体動作-」というタイトルで話す予定です。第一回の8/29(金)は、先日、表象文化論学会でご一緒した橋本一径さんが「写真と指紋」というタイトルで話される予定。
イヴニングレクチャー「写真の余白に」第一回
日時:2008.8.29(金)20:00-21:30
場所:MEDIA SHOP
http://www.media-shop.co.jp
料金:1000円(学生)/1500円(一般) with 1 drink
講師:橋本一径 オーガナイザー:前川修
チラシpdfをダウンロード
沼:372 豊饒の海を読み始める
感情を風景に織り込む方法について。 (約19分)
ぱこぱこうねうねとやって、ようやく単行本の一章が片付いた。
以前書いたものの焼き直しなのだが、うっかり図表を増やそうとしたために時間を食ってしまった。
うねうね、というのはペンタブレットの動き。
ペンタブレットとPhotoshopは、映像からジェスチャーを描きおこすときの必需品。Photoshopは正規版を買うとすごく高いけど、主に必要なのはレイヤー機能なので、Photoshop Elementsのアカデミック版(数千円くらい)を持ってればとりあえず十分。
映像の中の人物を、うねうねとなぞって線画にする。絵心はいらない。
線画を描くのは最後の最後。本文を書き終わって、あとはもうこの場面を描きおこすしかない、と絞り込まれたあと。
うねうねの時間が来ると、できあがりが近い。ちょっと楽しい。
封筒を送り終わるとせいせいした。さて次。
ぱこぱこぱこ・・・
あ、この忙しいときにEndNoteが来た。いやはや。LaTeXにぶちこんだ引用文献をEndNoteに移す。これがけっこう面倒だったのだが、ちょいといいツールがあった。Columbia UniversityのGeomorphology Groupのwww。日本語はどうもうまくいかない。Excelにぶち込み直す。
文献よりも本文である。ぱこぱこぱこ・・・
Mint-Leeこと岡村みどりさんのCDにライナーを書く。発売前ゆえ詳細は書かないが、名作! 何度聴いても心躍る。
論文執筆用、と当てた日に次々と用件が。さてそれでも書き進めねば。
以前、bccksで作った「絵はがき風呂」が殿堂入りしました。殿堂なんて生涯初だ。
朝の陽射しが暑く、早くに目覚める。洗濯物を干してから、盆休みらしいことをしようと思って持ってきた漱石の「こころ」を読み始める。何年も前に読んだ本の内容は、たとえ漱石の小説であってもすっかり忘れている。困ったことだが、そのおかげで初めて読むような驚きが続く。
夏向きの話を選んだつもりはなかったのだが、そういえばこれは夏の海水浴で始まる話であり、夏に帰省する話であった。
「先生」が月に一度の墓参をするのは雑司ヶ谷霊園。
雑司ヶ谷にあった大塚楠緒子の墓を思い出す。若くして亡くなった作家に似合わぬ、名家の大きな墓だった。あるいは漱石も彼女の墓に繰り返し参じたのだろうか。その漱石の墓も、雑司ヶ谷にある。
「其時の私は」と、相手の死後にあって回想の形式を取る点は、あまたのケータイ小説のルーツと言えなくもない。
しかし、その回想の距離は、「両親と私」の終了間際に、思いがけない速さで現在進行形へと詰められていく。それは他ならぬ先生の手紙を「読む」という行為を揺らすことによってである。この、手紙を読む件の時間の揺れには、改めて唸ってしまった。
「私」は、「繊維の強い包紙を引き掻くように裂き破」ると、まずその分量に驚き、そわそわしながらただ最初の一頁を読む。しかし、「私」はいっぽうで、父親の危篤に接している。病室を退いた「私」は、「先生の手紙をただ無意味に頁だけ剥繰つて」行くが、拾い読みにする余裕すらおぼつかない。一番仕舞の頁まで順々に開けてみても、まだ文字が目に入らない。
しかし、結末の一文「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう」を見た「私」の時間は、一度に凝結する。逆に頁をはぐり返す。「一枚に一句づつの割で倒(さかさ)に読んで」行く。知らなければならない事、先生の安否を知ろうとして、「ちらちらする文字を、目で刺し通さうと」試みる。しかし、そこには、先生の薄暗い過去が広がっており、「私」は「必要な知識を容易に与へて呉れない此長い手紙を」じれったそうに畳む。
手紙を読む時間を追いながら、小説の読み手はもはや回想の距離を失い、読むことを体験する。危篤の父親をも残して停車場に向かう「私」の速さに乗って、手紙の全貌を知ろうとする構えができあがる。
かくして手紙はまず、急ぎ足で、書き手の想定した順序には全く従われずに、拾い読みされる。そのあと改めて、「ごうごう鳴る三等列車の中で」ゆっくりと再読される。
この、汽車の轟音下で静かに読まれるのが、「先生と遺書」なのだ。遺書、ということの重さばかりに気を取られていたせいだろうか、以前は、先生の手紙が、じつは再読されたものだったということも、汽車の中で読まれているということも気にも留めていなかったし、「手紙を読む時間=読書の時間」という問題についてあまり考えたことがなかった。
蒸し暑い戸外から古紙回収屋の音楽が聞こえる。読み終わって物干しに出ると、洗濯物はもう午後の陽射しの中で乾いていた。
夕方、久しぶりにカフェ工船へ。盆休みの終わり。
実家に姪と甥が勢揃い。みんな大きくなった。
大文字、五山の送り火に続いてurbanguildでライブ。
いつもながら、出演者中いちばん年上なのに、いちばん未熟である。
妹と姪が聞きにきてくれたのだが、新曲を盛りすぎたこともあり、ステージ上でテンパってしまい、あちこち間違えまくった。もっと練習せねば。もっとも、あとで「練習して出直します」と云うと、さまざまな人に「いや、そこを聴いてるわけじゃないから」と云われる。どこを聴かれているのだろうか。
店が閉まるまであれこれと話して解散。
Feistのなんとも愛らしいPVで思い出すのもどうかと思うのだが、つい、連想してしまったのが、Bat for lashes "Whats a Girl To Do"のPV。だって、ああいう始まりで、ああなって、ハンドクラッピングで、ああなんだもんなあ。
一年前くらいからようやく気づくようになったのだが、右耳が効かないで右利き用のギターを弾いていると、どうもギターの音がクリアに聞こえにくい。これは、つい左手の運指を気にして見ているからで、すると顔がギターの穴から遠ざかるので、響きを綿密に追いにくいのだ。ときどき右手のピッキングに注目すると、劇的に響きが耳に入るようになる。これは、顔の向きが代わってホールに耳が近づくから。それで、ときどき右手ばかりみながら弾いている。しかし、昔から左手のミュートが苦手なので、つい、また顔が遠ざかる。
ライブで、アコギの音をモニターで返してもらうと「え、こんな音だったんだ?」と驚くことがある。ふだん、ちゃんと聴いてない証拠ではある。
茂木健一郎さんが日高先生とコスタリカに行っている。クオリア日記で写真が公開されている。動物学教室OBの桜井さんも同行中。見覚えのあるオトシブミの観察ケージの作り方。
不肖の弟子としては、正直うらやましいのだけれど、いっぽうでありがたいことだとも思う。日高先生がゆっくりと海外で虫の観察に勤しむ時間は、何年ものあいだなかったはずだ。忙しい先生のことだから、茂木さんが声をかけてくれなければ、ずっと仕事を続けられていたかもしれない。
大学院生のときに幸運にも、ボルネオ調査をご一緒した。研究は遅々として進まず、まだ自分が将来何をするべきか迷っていた頃だったが、日高先生と森に入ってオバケナナフシに驚いたり、何日もナンヨウベッコウトンボとコフキオオメトンボばかり見ていた時間は、大きな転機になった。
ある時間単位を越えて、ある環境に居続けるときに、感覚、感情、さまざまなレベルで、質的な変化が訪れる。それはもう、後戻りできないほどの構造的な変化なのだけれど、これと一言で言い当てられるようなものではなく、すぐさま外に現れるものでもない。むしろそのあとの言動の感触に、長い時間をかけて顕在化するようなものなのだろう。何十年もかけて、いまだ、ボルネオの影にある。
実家へ。一族で夕食。夜半まであれこれと話。
徹子の部屋に小沢昭一。ハモニカ演奏。ついこの前は永六輔。お盆が近いなあ。
パイナップルが余っているので、豚の細切れを柔らかくしてチャーハンにしてみた。
しかし、なぜか直前に炊いた米を水で洗ってしまい(何と間違えたんだろう? 粥か何かか?)べとべとの悲惨な結果に。人生史上最低のチャーハンと相成った。肉も柔らか過ぎた。やっぱりチャーハンや焼きそばの肉は、歯ごたえがあるくらいじゃないと。
テレビをつけるとどこかのチャンネルで必ず五輪をやっている。知らない競技を見るのは好きだ。フェンシングの不思議な点の取り方や、男子卓球選手の、まるで「ピンポン」のような顔立ちの幼さと息詰まるプレイ。素人目に見ても、日本と香港の準決勝は声が出るくらいスリリングだった。岸川選手がサーブをするときの、術をかけるような構えと小さくバウンドする球。
ライブが近いのでギターと歌の練習。手がなまっている。自分で作った曲も思い出すのに時間がかかる。
沼:371 てづまつかい DS-10で新しい曲。DS-10のこと久しぶりのお便り。ご多分に漏れず五輪について。 (20分8秒)
ラジオでは触れなかったが、やすさんのお便りに、DS-10をYouTubeで解説しているというページの紹介があった。
これが、じつによくわかる解説だったので、みなさんにもおすそわけ。
だまされたと思って「KORG DS-10」の動画を見ようのページから、「はじめてのシンセサイザー」のリンクを。VCOやVCF、EGといった、初心者にはわかりにくい話がぐいぐい分かっちゃう。やすさん、どうもご紹介ありがとうございます。
社会言語科学会の原稿を作るべく、データを見直すうちに、タイムアップ。
残念だが今回は発表はとりやめることにした。まとまった話ができるかと思っていたが、どうもデータを見ると話が複雑で考え直すべき点が多い。見込みが甘かった。
ああ、あきらめたらサバサバした。徹夜明けでぐうぐう寝る。起きると夏雲が高い。夏休みだな。
久しぶりに日記のHTMLを書き換える。
いわゆるブログが出だした頃に、はてなやexciteなどのサービスに移行しそこねて、結局いまだにHTMLタグを手打ちで書いている。そのせいで、改行にいちいち「br」をつけたり段落がえに「p」を付けたりするヘンテコな性分が身についてしまった(といっても、HTMLを打つときだけだけど)。
わたしが原始的なタグを打っているあいだに、HTMLタグのほうはどんどん革新している。文章のレイアウトや装飾のほとんどは「スタイルシート」に預けて、HTMLの側には、そのスタイルシートを参照するための呪文を書いていけばいい、という方式に変換されつつある。
ふだんは、考えただけでもうやーめた、とあきらめたくなる話なのだが、ごくたまに、どれどれ、最近の人々は何をやってるのか・・・と、昨今の使い方をのぞいてみることがある。というわけで、あちこちのブログを見てみると、そうか、もうフレームとかもスタイルシートなんだなあ。さっそく書き換えてみた。こういうのは夏休みでないとできないな。
存分に流行し、普及したことを後から追いかけるのはおもしろい。www上では、失敗の事例と修復のノウハウがいくつも語られている。それぞれの人が、自分の小さな失敗に引き寄せながら、それにまつわる小さな勘所を語っている。単に「こうすればよい」という語りではなく、「ここをこうしちゃうとどういう失敗が起こるか」を語る語り方。
世の中は広いので、こちらがうっかりおかしてしまうようなミスは、たいていどこかで語られている。万一語られていないときは、自分で語って、wwwで公開しておけばいい。たぶん、誰か別の人が、わたしのように、それを読むだろう。
Feistのセサミ・ストリート版「1,2,3,4」を、もう何べん見たかわからんというくらい繰り返し見ているのだが、本当によく出来ているなあ。
地面が見えるように低いアングルから始めて、クッキーモンスターが遠くで現れる予兆を見せつつ、さりげなくアングルが上がっていく。そのおかげで、モンスターたちが、思いがけないタイミングで現れることができる。さっと現れてさっと消えるマペット達。マジックを見せるとはどういうことか、を考え抜いた演出。
Feistは、リズムに汲々とすることなく、少し遅れるくらいのタイミングで歌い出しては、いつの間にか歌をつかまえている。歌を揺らすための余白が生まれる。ゆるやかなグルーヴの棲息地。物音のミックス加減も素晴らしい。
じつはこれまで彼女のことを知らなかったのだが、昨年のフジロックに来ていたらしい。iPodのCMになっていたというのも気づかなかった。
1stのLet it die, 2nd のthe Reminderを買って聴いてみる。どちらも名作。
the Reminderには、1,2,3,4の別バージョンPV(というか、こちらが正規バージョンなんだろう)が入っていて、この映像にも、セサミ・ストリート版に通じるマジックがある。
学会の原稿を次々と送る。社会言語科学会大会の原稿が、なかなかうまい話にならない。
骨付き鶏肉を買ってくる。パイナップルの芯と皮で挟んでパパイン攻め。それをカレーで煮込んで晩飯。
柔道の谷本歩実選手が決勝で一本勝ちをしたときの場面があまりに凄かったので、思わずスローで確認してしまう。
内股で相手をひっくり返しながら、体が着地する前にもう顔が満面で笑っているのがわかる。くるりと相手の体が返る手応えがあって、技をかけた自分の足が地面から離れる。裏返る相手の体に自分の体もあずけていく。相手と自分がともに畳から浮いている、わずかコンマ何秒かの間に、人の感情が爆発する。
これまた何度も繰り返し見てしまう。
四釜さんのbookbar5で、ゴーヤとパイナップルのサラダというものを知って以来、パインとゴーヤを買ってきては作っているのだが、一度気に入ると飽きるまで続ける性分ゆえ、もはやカットパインでは飽きたらず、どーんとパイナップルを買ってきて盛大に食っている。ひとつ買うとけっこう食いでがあるので、そのまま食べたり、肉を焼いて付け合わせにしたり、毎食パイナップルを食べてる夏。
いつも芯を捨てるのがもったいなくて、ついしがんでしまう。カレーに入れて煮込んだりするといいかもなあ。
オープンキャンパス二日目。
社会言語科学会の発表原稿(まだ出来てない)。この期に及んでデータを増やそうともくろんでいる。
福田貴成さんに、Feistの歌うセサミ・ストリート版「1,2,3,4」というのを教えてもらって、YouTubeで見る。
マペットと数えることと歌。
モンスターを勘定に入れる歌。
これは隙を突かれた。うかつにもぐっときてしまった。
Ricky Lee Jonesを初めて聴いたときくらい。
以前にも、Princeがマペットと歌う「Starfish and Coffee」に何度も見入ったことがあった。
レイ・チャールズがカエルのカーミットと歌う「緑でいるのもラクじゃない」。
小さな者が生きていける世界はいいな。
オープンキャンパス初日。昨年よりは人数が増えたような気がする。
心理系担当教員でミニ講義。
そのあと、社会言語科学会の発表原稿。院生の城さんの分、WSの分もあるのでなかなか忙しい。
グルジア情勢。ブラウザのホームページをGuardianにする。
Macintoshユーザー向けにムービーや音声のトランスクリプトを書き起こすツールを公開している。そのツールをバージョンアップしようと思ったのだが、もうすっかりプログラミングの仕方を忘れていて、思い出すのにえらく時間がかかる。
仕方がないので、備忘録を作った。→Drowning by Scripts
AppleScriptで文字列を処理する(1)
AppleScriptで文字列を処理する(2)
AppleScriptで文字列を処理する(3)
どれもAppleScript上でテキストをいじるための基本的作業ばかり。知ってる人はなあんだと思うだろう。しかし、この程度のことがもう、思い出せない。浅瀬で溺れる河童の気分。いや、もともと河童ほども泳げなかったのだが。というわけで、サイトのタイトルを「AppleScriptに溺れて」とした。耽溺しているのではなく、単に溺れている、の意。
夜、オリンピックの開会式。圧倒し、力を見せつける演出。人力の太鼓、人力の活字。そう、紙も活字も羅針盤も、みんな中国からやってきた。日本にあるもののほとんどは、中国からやってきた。それは十分ほどわかるし、存分に敬意を表したい。
しかし、強すぎる表現、正しすぎる表現は、忘れなくていいものまで忘れさせてしまう。クリーンアップされ過ぎた北京を覆う花火。これからの中国には、適切な小ささが必要ではないだろうか。
チャン・イーモウの仕事はたいしたものだ。でも、ぼくは、チャン・イーモウよりチャウ・シンチーがいいと思うな。
過去に書いた東京人の書評をオンラインで公開しています。取り上げているのは東京に関係する本に限らないので、東京人でない方もこの機会にどうぞ。
大谷能生『貧しい音楽』(月曜社)、北里義之『サウンド・アナトミア』(青土社)
乾由紀子『イギリス炭鉱写真絵はがき』(京都大学出版会)
今年のコミュニケーション論のレポートは
「8/5までにあなた自身がやってしまった失敗についてその状況を克明に書きなさい。それが自分の身体のどのような使い方と関係しているかを詳しく書きなさい。」
というものだった。
身体動作とスリップについて論じることを想定した課題だったので、その人がどれくらい身体と環境との微細な相互作用に触れているかが読みどころとなる。が、人それぞれの失敗の捉え方を読み進めるうちに、狙いとは別の意味で、不思議な読後感が積分されてきた。
なんだか、百物語でも読んでいるようなヒヤリとした感触がある。
ひとつには、形式のせいだろう。受講しているのは二、三回生で、そろそろレポートの書き方を身につけている。彼らの多くは
「わたしの失敗は、机の角に腹をぶつけたというものである」
と、内容をまとめた一文でレポートを始める。
その上で、改めて語り出す。
「それは8月1日の夜のことだった。その日、コンビニのバイトに入っていた私は・・・」
そこから語られていくのは、もちろん、机の角に腹をぶつける話なのだが、このフォーマットは、ほとんど「It was a dark and stormy night...」であり、修学旅行の夜に車座になって一人一人が繰り広げる、怖い話の形式である。
好ましいことには、どのレポートも、あまり笑いを取ろうとしていない。事実を淡々と述べているものが多い。それだけによけい、小さな失敗なりの、緊張感が伝わってくる。
中でも怖いのは、レポートに追い込まれてレポート提出期日に遅れかける、という話を書いたレポートである。
「その日わたしは、前夜からの寝不足でレポートの期日に間に合わそうと必死でした・・・」
やがて、本が崩れたり、寝不足のまま食器を持って洗面所に向かったりする。小さな悲劇の果てにレポートが遅れて提出される。まあ、たいした失敗ではない。
が、いま読んでいるこのレポートだって、レポートなのである。
よほど鈍感な読者でない限り、このレポートそのものが、もしかしたら彼や彼女の切実かつ悲惨かつ小さな失敗の果てに生みだされたものではないか、という不穏な気配を感じずにはいられないではないか。っていうか、もしかして、他のレポートのことを書いてるふりして、じつはこれ、このレポートを書いたときの話なんじゃないの。こ、こわーーー。
来年もこの課題で行こうかな。
ちょっと寝てから、電子情報通信学会のアブスト。時間がなくて最大6ページのところを2ページでタイムアップ。情けないが仕方ない。詳細は本番で補うか。
そのまま朝から動物行動学の集中講義を5コマ。さすがに疲れて、耳の奥がじんじんとしびれる。早くに寝る。
朝から終日、グループホームでの参与観察。
すでに吉村さんが詳細にビデオを撮影しているので、手元には十分すぎるほどのデータがある。しかし、きちんと論文にするには、やはりスタッフの方々の活動を把握して、実際の大変さもある程度わからないと、うまく書き出せない。
といっても別に格好をつけているわけではない。「なんとなく書き出せない感じ」がするのは、たぶん、無意識が「このまま現場を知らないでいくと間違った予断が入るんじゃないの?」と警告しているのだ。ならばと、その警告に従い、まずは一日体験をさせていただくことにした。
参与し過ぎることで見えなくなることもあるかもしれない、とは思う。しかし、グループホームのような、場の制約の大きい場面では、ひとつの行動にいくつもの意味が折りたたまれている。余計な背景知識によって注意がいかなくなるリスクと、背景知識を欠くことによって注意がいかなくなるリスクを秤にかけたとき、どうも後者のリスクの方が大きいのではないか。あくまで直観だが。
体験、といっても、女性の入居者ばかりなので、トイレや風呂、個室の世話を手伝うのもはばかられる。結局のところ、夕食メニューを一部作るくらいの非力体験。あとはひたすらノートを取る。スタッフと入居者のちょっとしたやりとりにも、いくつかのモードが埋め込まれていることがわかり、多いに勉強になる。
午後から吉村さんが加わる。夜には、上田先生、中村さんも来られて、ビデオを見ながらミーティング。
一昨日、NHKでやっていた「帽子」を見る。NHK広島の制作で、呉の三条通りにある帽子屋が舞台だった。
三条通りは昔、伯父がいて、そこに行ったことがあるような気がするのだが、なにしろ子供時分のことではっきりと思い出せない。ただ、鼻の奥にひっかかるような懐かしさがあって、それは呉の景色が出てくるたびに感じられた。
とりわけ、中学校の坂を上がっていくところに、何か懐かしいような、不思議な感じがしたのだが、あとで実家の母と話すと、そこは両城中学校の坂で、わたしは子供の頃、知り合いのお兄さんにおんぶしてもらって、その坂を上ったことがあるらしい。あるいはそのことを、うっすら覚えていたのだろうか。しかし、学校のそばの急な坂は呉のあちこちにあるので、別の坂を思い出したのかもしれない。
ドラマは、老境に入った帽子屋とライフシステム警備員の若者との、しみじみとした話だった。緒形拳が新幹線で、若者の頭をげんこつでこつんとやるところがあるのだが、平手でパンチでもない、げんこつの間と重さが撮られていて、いいシーンだなと思った。
緒形拳と田中裕子といえば「北斎漫画」。その後半で、二人が老境に入ってからの場面があったことも思い出す。そのときは二人とも老人風のメイクをほどこしての老け役だったが、二十数年経った今回はそういうことはない。とはいえ、田中裕子は役よりも十歳くらい若く、そういう若さも含めて可憐な感じがした。可憐というと、生活力のなさそうな弱さを指しているようだけど、ちょっと違う。田中裕子の演技には、しばしば「生活力のありそうな弱さ」が漂っている。
田中裕子演じる「せっちゃん」が呉港(撮影では阿賀が使われたらしい)を出るのは、おそらく中学を出たくらいだから昭和35年のこと、自分が生まれた頃だ。
昭和二〇年生まれのせっちゃんは広島で胎内被爆をして、十代から予兆のような体のだるさを抱えながらも、日々の生活を生きている。自転車でクリーニングを届ける、という仕事の、小ささと適確さ。小さな公園、という待ち合わせ場所。
終戦の翌年に亡くなった母方の祖母のことを考えた。
明後日〆切の学会発表原稿。明日は一日フィールドで、明後日は集中講義を5コマ。週末にはオープンキャンパスもある。さて乗り切れるか。
KORGから出たニンテンドーDS用ソフト。アナログ・シンセサイザー・シミュレーターが入っているというフレコミに惹かれて買った。
電車の中であれこれいじっているのだが、これはかなりおもしろい。
昔、「Dr. BEAT」という簡単な打ち込みマシンをいじったことがあるので、あらかじめ決められた音色でシークエンサをいじるのには慣れていたのだが、DS-10のシンセサイザー部分はとても新鮮だった。
教科書通りに考えると、シンセサイザーというのは音色を作るものであって、その音色に音程をつけてシークエンスを作り、さらにシークエンスをいくつかのパターンに登録して、最後にパターンを組み合わせて曲にする、という手順を踏むのだと思う。じっさい、DS-10では、こういう曲の作り方もできる。
でも、やってておもしろいのは、むしろ、音色を作るプロセス自体を、音楽のように楽しめるところ。
とくにいいなと思うのは、KAOSSという機能。これは画面をXY座標軸と見立ててペンでいじるものなのだが、このXY軸にいろんなパラメータを割り当てることができる(とくに「3」が楽しい)。スケールやピッチやボリュームはもちろん、アタックやディケイやリリースなど、本来は音色を作るのに使うパラメータを、リアルタイムでいじることができる。つまり、音色変化じたいを演奏してしまえる、ということになる。
KAOSS画面だけでなく、SYN EDITやSYN PATCH画面をいじるだけでも、おもしろい。ペンをスライダやつまみに沿って動かせば、なめらかに動くし、ぽんとタッチすると、つまみの値がぽんとジャンプする。各つまみの効果がわかっていれば、かなり劇的な変化が得られる。BPMと連動させてもいいし、勝手にぴこぴこぶりぶりやってもいい。
そうか、音色が変わる時間だけで、音楽になるんだな。
もっとも、シンセサイザーをちゃんといじったことが経験がないので、どのパラメータがどんな効果を持ってるのか、まだ勘が働かない。それで、最初は、シンプルな音色から始めて、ピッチも一定にしておき、各パラメータがどんな変化をもたらすのかを聞きながらいじっている。いろいろ発見が多く、アンプにつなぐと音もかなりいい。
これが数千円で買えるとは、えらい時代になったものだ。
問題は、いじってるとなんぼでも時間が経つということか。さ、仕事仕事。
まだ頭の中でぴこぴこ言ってる。
会話分析研究会@奈良女子大。練習問題は串田さんから。JeffersonのList constructionを下敷きにしたものだったが、手がかりが多い例題で、共通部分を絞り込むのが難しかった。
会話分析の練習問題は、ゴール自体は、作者の意図した解答を当てることなのだが、その過程で、解答とは必ずしも一致しないさまざまなアイディアが出るところがおもしろい。
後半は吉村さんのデータセッションで、グループホームの会話。指導(行為前)と注意(行為後)のあいだに。on goingnの行為に対するリアルタイムの指導。観察された行為の記述という形をとる告発(「あ、またごはんこぼしてる」など)。「あなたはわたしのことを聴いていない」という指導のレベル・・・などなど、おもしろい問題がいろいろ明らかになった。
ホームの会話を読むときは、ついつい倫理的、心情的なもので覆われがちなのだが、あくまで会話の装置分析に徹することで、かえってそこで行われていることが緻密に明らかになる。教育の会話分析にも使えそうな内容。
飲み会で思いついたアイディア。2も3も複数なのだが、そこにはなぜか質的な差があるように思われる。リストではなぜ、2ではなく3が問題となるのか。それは、要素が二つのときは、それが対立概念(両極)として認知されやすいからではないか。いっぽう、要素が三つになったとたんに、それらは並列関係として響く。
「紅白」「赤と黒」に対して「赤と黒と白」と書く場合を考えてみよ。
「赤と:」とひとこときいただけだと、対立概念のことを話すつもりなのか、リストにするつもりなのか、ちょっとわかりにくい。が、「赤と:、黒と:」というと、リストの感じが出る。「・・・と」「・・・でね」「・・・てな」という風に、接続句が二つ続くと、あ、リストが来るな、という投射の感じが生まれる。
小学校低学年のときが、おそ松くん、天才バカボン、もーれつア太郎だった。ぶっとんでるとか、ギャグが先鋭的だとか、そういう鑑賞軸のない頃で、ただ、どの作品からも、なぜか、さみしい、あの世の感じがした。おもしろさというよりは、さみしさにひかれて読んでいたような気がする。
なかなか生まれない赤ん坊。あっけなく死んでしまう父親。
マンガ版をずいぶん長いこと読んでないので、どの話かは忘れたけれど、夜で、パパだったかバカボンだったかを迎えに行って、ラストは大きなコマで、空が黒々と塗られていて、星が出ていて、ああ、お腹のなかの赤ちゃんの見てる世界って、こんなふうなのかな、などと漠然と考えていた。あるいはハジメちゃんが生まれたあとの話がごっちゃになっているのかもしれない。
おそ松くんで妙に覚えているのは、チビ太が金庫を破る話で、チビ太とイヤミの独り身の境涯が迫ってくるようで、二人に比べて、おそ松くんたちが、急にコドモに見えたような気がした。図書館で借りたO.ヘンリーの短編に同じ筋書きを見つけたあとも、あれは、チビ太とイヤミの話だと思っている。
絵がヘタクソなので、マンガを写すという癖はなかったが、なぜかケムンパスは何度も練習したでやんす。
朝から校務の準備などなど。午後は原稿。東京人のロング書評で、松浦寿輝『増補折口信夫論』と吉増剛造『生涯は夢の中径』を取り上げた。わずか7枚ゆえ、ほんの要点だけ。
夜、ゆうこさんと久しぶりに飯を食いに出かけたら、どんと音がする。そういえば今日は花火だった。ベルロード沿いの高い看板ごしに、花火の頭が見え隠れする。ベンチに座って一服しながら花火を見たゆうこさんは、よし、やる気出た、と言う。
近くのマンションの階段にお邪魔して高いところから眺める。