大学にいると降ってくるさまざまな所用の合間に、〆切をとうに過ぎた絵はがき原稿をなんとか書き上げる。オンラインに点在する貴重な情報にはあらためて感心させられた。CartExpoでもほとんどお目にかかれなかった絵はがきをいくつか見ることができた。もっとも、その「CartExpoでもお目にかかれない」という感覚は、じっさいにCartExpoに行かなければつかめないのだが。オンライン情報の多くは二次以上の情報なので、そこからどうやって一次情報にたどりつくかが鍵。原稿が掲載されたら、関連サイトのリンクを作ってみようかなと思う。
ようやく休日。絵はがき原稿。文章じたいはほぼ書けているのだが、細かい知識の詰めに時間がかかる。久しぶりにネット・オークションのサイトも覗く。最後にぼくが落札した日付は2年前だった。ずいぶんご無沙汰したもんだ。絵はがきの高騰ぶりに嫌気がさしてしばらく止めていたのだ。あいかわらず値段が高くて辟易としたが、じっさいに買わなくとも、出品されている図像を眺めるだけで、ずいぶんと勉強になる。
てなことを考えながら、結局いくつかビッドしてしまった。たぶんスナイプされるだろうからアキラメ半分。
講義講義ゼミ。へとへと。夜中にへこたれてハッシュに行ったら建築の院生の人たちがいて、一緒に飲んでるうちに3時。
午前中、北風写真館の野口さんが来訪。絵はがきの話と来月の自転車ツアーの取材。「写真を撮るんですが、ちょっと作っていいですか」と言われる。作為のある写真を撮ることを「作る」というのだな。地図を読んでいるところやら絵はがきを眺めているところやらを「作る」。
会議に実習。1回生を連れて琵琶湖岸へ。曇天の琵琶湖の波を見ながらぼうっとする。目をつぶって音を聞き、それをフィールドノートに記述してもらう。若い人々が波打ち際で目をつぶって波音を聞いているというのはなかなかよい光景である。最初はほとんどの人がフィールドノートに「波」としか書いていなかったが、次第に「石のさらわれる音」や「引き際に泡立っていく音」が書き込まれるようになった。犬上川河口から琵琶湖岸を歩いて戻って1時間半。
研究室に戻って、茶を飲みながらそれぞれのアニメ体験の話になったが、音楽の趣味同様、アニメ体験も再放送やらリメイクやらで、いまの18、9の人々の知識は新旧入り乱れている。なにしろピカチュー発光事件を小学校高学年で体験している人が、いっぽうで「一休さん」やら「ひみつのアッコちゃん」やら「鉄腕アトム」を体験しているのだから、いったいどうなっているのか。「セーラームーン」は最初の回からリアルタイムで見ているそうな。
朝、葛目さんがいらして彦根城周囲の樹木の景観についていろいろお話。竹矢来の作り方から桜の手入れの仕方まであれこれ教わる。
月曜は例によって4コマ連続。それからさらにあれこれ雑用して家に帰ったら、飯を食うなり眠気に襲われ、そのまま蒲団へ。
今日気がついたが中日新聞にイラクから帰ってきた安田純平氏の手記が連載されていた。草原の星空のもとで礼拝をする農民の話。
文字を覚えたてのころの感覚というのは、こういうものだっただろうか。今朝、北朝鮮列車爆発事故の写真が新聞に掲載されていて、小学校の校門らしき場所が写っていた。それでようやく「死亡者のうち半数は小学生」の意味がにわかにわかったのだが、そのいっぽうで目は校門に掲げられた「룡전소학교」という文字に吸い寄せられていた。一文字読むのに数秒かかる。「リョンチョンソハッキョ」と読める。竜川小学校、ということだろう。小学校はソハッキョなのだな。読み終わると、ハングルはまた、意味の読み取れない記号へと帰ってしまう。まだ、文字の構造からゆっくりと文字を読み解るのが精一杯で、一目見て発音が頭に浮かぶわけではない。読めない文字をほどいて、ほどき終わったと思ったらもう、文字は文字に戻っている。文字は、読めとこちらを強迫するようでもあり、読めはしないだろうと屹立しているようでもある。
夜、TVで久世光彦監督の「センセイの鞄」。これは予想外によかった。はじめ、小泉今日子の声がぜんぜん違ってえらく落ち着いているので驚いたが、途中からずっとなじむようになった。
朝、早く起きたので自転車で大学へ。3時間ほど学部情報室のサーバメンテを試みるが謎が多すぎる。Windows NTサーバの基本的な知識が得られる本が意外に少ない。ユーザ管理をGUIでやる話ばかりで、大量のユーザを一度に登録したり削除したり、ディレクトリを振り分けたり、といった話に欠ける。ネットで検索するといくつか有用な情報があった。たとえばここ。
ユリイカの5月号が届く。この号から「絵はがきの時代」の連載が始まった。巻頭だとは思わなかったので、ちょっと驚いた。ユリイカは以前より組版が読みやすくなったような気がする。
5月号では漱石の「三四郎」の絵はがきについて論じた。漱石論は世に山ほどあるので確かなことは言えないが、絵はがきから漱石を論じた話というのはあまりないのではないかと思う。じつは漱石と絵はがきの話は、まだいくつも書くことがあるのだが、どこまで盛り込めるか。
と言っている間に次号の〆切が近づいている。次号はセルロイド・エイジの話。かちゃかちゃ。
今日も講義。学部情報室からうまくメールを開くことができない、という問題について、学部情報室のユーザ管理ツールと格闘するも、はかばかしい進展はなし。Windows NT サーバに関する基本的な勉強をしないといけないのかもしれない。いまさらそんなことはやりたくないのだが、かといって放っておくわけにもいかんので、図書館でWindows NT サーバ関連本をあれこれ調べる。同じ棚には、10年前の開学当時に大量に購入されて、いまや誰も見ないであろう時代遅れのコンピューターマニュアル本がずらりと並んでいる。こういう場所にくると、後世の学者が、コンピューター史をひもとこうとしてこの棚の前で呆然とする光景を夢想してしまう。
技術革新が濃密に起こるときというのは、このような膨大な知識が一挙に吹き出し、あっという間に時代遅れになるのだ。自分がひもとこうとしている絵はがき史にも、そういうところがあるのだろう。
ゼミにサーバメンテに講義。もう5月いっぱいまではこのペースだとあきらめる。夜、あんまり消耗したので閉店間際のパリヤにかけこんで牛肉とトマトを買ってきて炒めて食べたら、妙に腹が張る。それで思い出したが、6時ごろ、二回生と食堂でおいしく夕食を食べたばかりだった。満腹中枢が狂っているのかもしれない。
狂いついでに、大橋先生にいただいた朝掘りのタケノコを夜中にぐつぐつ煮てダイナミックに食す。皮がじつに柔らかくてうまい。
講義講義にゼミ相談。夜、彦根市市民活動センターで会合。彦根樹友会の葛目良水さんが来ておられて、彦根の桜の現状を話されたのだが、これがおもしろかった。桜は適切に植え替えたりメンテナンスをしないといけないのだが、彦根の桜ではほとんどこれが為されていないという。たとえば、壕の水位と土との差があまりない場所に植わっている桜は、土壌がじめじめしているために、寿命がずっと短くなってしまう。あるいは、古木がかかったさまざまな病気をそのままにしてその間に新しい苗木を植えていくと、新たな木も根を伝わって同じ病気にかかってしまう。桜の寿命は60から80才なのだが、昭和8年に植えられた彦根の桜はすでにこの寿命を迎えつつある。現在、彦根にある桜は700本あるが、元気な桜はそのうちの1割に満たないという。
会が終わってからも、玄宮園の庭の考察(「小山を盛ってあるところには、松ではなくソテツが植わっていたのではないか」と葛目さんはおっしゃる)や、行政の問題など、あれこれ話を伺い、ずいぶんと勉強になった。
ところで現在の市民活動センターの建物は、じつはヴォーリス建築のひとつで、もとは滋賀大学の外国人教員のための住居だった。一昨年、豊郷小学校問題で、ヴォーリス建築はにわかに脚光を浴びたが、じつは湖東にはヴォーリスの建てたものはたくさんあり、この市民活動センターもそのひとつ。窓ごしに彦根城が間近に見え、壕のそばの静かな環境。ここに住んでいた人はさぞかし住み心地がよかったことだろう。
1990年代までは、この建物はじっさいに教員が住む実用的な住宅だった。ところが、市が彦根城のまわりを和風建築風に整備するため、当時住んでいた教員を立ち退かせて、取り壊すことがいったん決まりかけた。そこで貴重な近代建築だということを、元滋賀県立大学の石田潤一郎さんや故内井昭蔵さん、大阪芸術大学の山形政昭さんが詳しく調査し、また平田町の柴田さんを中心に市民運動や署名活動が起こり、結局取り壊しはとりやめになり、保存修復されて現在の市民活動センターになった。
保存修復が決まったところまではよかったのだが、じっさいの修復は、正直言って建築シロウトのぼくから見てもどうかと思うところがある。たとえば、オリジナルの扉はすべてとりはずされて、最近の建築によくあるフラッシュ扉になっている。また、引き戸と開き戸の区別がオリジナルの図面と異なっている。また、オリジナルはモルタル壁だったと思われるが、そこにボードを入れて壁紙を貼ってあるのがいかにも「モデルルーム」っぽい。さらに、柱にべったりと塗られた塗料がてらてらして、いささか品を欠いており、しかもその厚ぼったい塗料のせいで窓のいくつかが開閉できない状態になっている。建築学の専門家が詳細な調査をしており、滋賀大学の施設課にはオリジナルの図面も残っているのだから、もう少しオリジナルを大事にした修復が可能だったのではないかと思うが、おそらく、そうした知識の蓄積がうまく市の行なった修復作業に生かされなかったのだろう。保存運動にかかわった柴田さんの話では、煙突も以前は縦に割れた手を合わせて拝むような形になっており、宗教的な雰囲気を醸し出していたのが、取り替えられているという。
ともあれ、部屋の構造や外観はオリジナルの状態を保っており、大正13年の洋風建築の雰囲気を味わうことができる。この建物の一部屋を借りて、5月に彦根絵はがきの展示をすることになった。部屋の計測も終わり、あとは上田くんたちと内容を詰めればよい。
会議や演習など。忙しい。
月曜は講義と演習が4コマ連続。2コマ連続するだけで、すでに頭がじんじんして、あまりモノが考えられなくなる。休み時間に入ってきた明和さんがぼくを見て「なんかアップアップって感じですね」。よほどへとへと応対していたらしい。
昨日、ダマシオの「The feeling of what happens」を読んでいたら、彼が、アルツハイマーにかかった友人の開く写真の折り目のことを書いているくだりがあった。ダマシオの撮ったその写真を、その友人は、意識障害が始まったころから何度も開いてはまた折り畳んできた。いまではそこに写っている奥さんの笑顔は四つ折りでぼろぼろになっている。
その「折り目」のイメージを読んで、ああ、この人はリスボンの空気を吸った人だ、と突然直感した。なぜか、そのときに、バイロ・アルトの坂を毎日上り下りしたときのことや「白い町で」に出てきた8mm撮影のぼろぼろの映像が、それこそせき止められない情動を伴って手先まで染みてきた。それで、今年の「こころの自然誌」の一回目は、リスボンと水のイメージで始めようと思った。
「海」のスコアを紹介して、行為の多声 (the behavioral score) について話す。そのあと、マリア・ジョアン・ピリスの演奏、アマリア・ロドリゲスのファド、ダマシオの本の一節を紹介して、情動をめぐる三人のリスボン人の話。暗い講義室でピリスが弾くショパンの子守歌を聴くと、この曲の左手はまさしく「背景的情動」だなと思う。
「The feeling of what happens」には邦訳もある。ダマシオ「無意識の脳・自己意識の脳」田中三彦(講談社)。そこでは、先の友人のくだりは以下のように訳されている。
その写真はすでに、病気の進行の早い段階から定期的に折りたたまれたり開かれたりしていた。そのころはまだ、彼は何かがおかしいことを認識していた。写真を折りたたんだり開いたりしていたのは、たぶん、確かな過去にしがみつきたいという必死の努力だったのだろう。しかし、いまやそれは無意識の儀式になっていた。いつも同じようにゆっくりしたペースで、同じように黙々と、同じように感情の共鳴がないまま、それをこなしていた。その悲しみの中で、私は彼がもはや何も認識できないことを確信した。(太線引用者)
ところで、最後の一文は原文では次のようになっている。
In the sadness of the moment I was happy that he no longer could know. (太線引用者)
もしかしたら訳者は、過去に必死でしがみつこうとする努力と比べてそれができない状態を「happy」と表現することに違和感を感じて、「確信」ということばをあえてあてたのかもしれない。
でも、最後の一文にある「sad / happy」の同居には、ダマシオの素直な感情が表われていると思う。たとえばこんな訳だったらどうだろう。「もはや彼が何かがおかしいと認識することすらできないことを、私は悲しみのまっただ中で、なぜかよかったと感じていた。」
昨日夕方、また二人が解放された。二人ともジャーナリストらしい気骨のある面構えをして訥々としゃべっていたが、書くのが仕事の人たちだから、何を言うべきか何をいま言わずに置くかについてもいろいろ考えるところがあるだろう。その一人、渡辺さんのイラク記事はいまも読める。内容にはいくつか予断も入っているように感じられ、全部に賛成はしないが、それでも、具体的な細部はTV報道で見るイラクよりも圧倒的に豊かだと思う。
それにしても、解放の3人にチャーター機代など請求などという記事を見ると、人質になった人たちに対する風当たりは異様だなと思う。もちろん彼ら自身は限定された情報に基づいて身の危険を冒したのだろうし、そこにはまずい予断もあったのだろう。しかし、結果的には戦時下のイラクに対してこれだけさまざまなネットワークが成立し、日本のグッドイメージを宣伝することになったのだから、外務省は(たとえそれが外務省にとってはおもしろくないイメージだったとしても)出費を惜しむべきではない。まして日本でのうのうとTV観戦してきた者が「自己責任」をとやかく言ったりチャーター代にかかる税金を出し惜しみする理由はないだろう。
とんでもない目に遭った人を歓待し、その話に聞き入ることは、古来、さまざまな奇譚・冒険譚の源泉となってきた。「自己責任」の重圧で彼らをひたすら謝らせその口をふさぐよりも、彼らの口からそこで起こった体験を聞くほうが、どれだけこの間のできごとを豊かにするだろう。「ごめんなさい」の連続よりも、イラクの農家でふるまわれたという鳥料理の話を聞くことのほうが、どれだけわたしの耳を豊かにするだろうか。
と、朝方に書いたが、これは呑気すぎた。三人の状態はとてもそれどころではないらしい。
極度の緊張状態におかれた人間が、そこからようやく脱したときに、脱した先の世界から受け入れられていない、ということを知ったら、世界から退却するしかない。あるいはそのようなことが、三人にも起こっているのかもしれない。
後から解放された二人は「大使館に連絡しないでくれ」と言ったという。もちろん、イラクで活動を続けたい、という気持ちがあったのだろう。あるいは日本のおぞましい「世論」が人質という事態になぜか「迷惑」を感じあらぬ怨嗟を向けつつあることを、あらかじめ知っていたせいかもしれない。
解放された三人のビデオが放映された。聖職者協会で保護されているところだというその映像の中で、高遠菜穂子さんは、なぜか口に氷か食べ物かを含んでいるらしく、頬がごろごろと動いていた。彼女の表情からは、「解放」ということばに似つかわしいあからさまな安堵や喜びは読み取れないし、いったいどんな文脈でその様子が撮られたのかは定かではない。けれども、その頬はよく動き、誰かに何かを伝えるためにする生ではない、あふれでる生を感じさせた。
口に含み、口の中で転がし、よく顎が動く。口にしたとたん味を確かめる間もなくうまいと言いそれに似つかわしい表情をするのではなく、ただ口が動き続ける。このような映像を、通常の日本のメディアは流すことがない。撮る側も撮られる側も、これから何を伝えるかについて暗黙の考えを置き、その考えに似つかわしい表情を撮ろうとし、撮られようとする。そのように生み出される映像を視聴者は期待している。
ネット上で飛び交った自作自演説のひとつとして、犯行声明ビデオの解析と称するものがいくつかある。たとえば、人質と犯人が話している様子をさして「(人質の)目つきを見ると、この手前の人物(犯人)と彼ら2人は心が通じているように見える。」「ある種の馴れ合いが存在している」と評し、その印象に基づいて自作自演説を唱えている。
こうした説を唱える人たちは、メディアや映像が伝える内容に対して身構え、疑ってかかる態度を良しとしているのだろう。しかしそのわりには、「心が通じる」とか「馴れ合い」というような、外側から分かりにくい「心」を読み取ることに対してはおどろくほど無防備な信頼を置いており、また、映像に与えられたテーマにふさわしい行為や表情がそこに映し出されているべきである、という前提に対してもまるで疑いを抱いていない。
人の行為はその状況にふさわしい一貫性を持ち、その状況にふさわしい心を反映する。このような信念を持っている人にとっては、犯行声明映像の中で人質と犯人が話したり、救出映像の中で人質だった人が仏頂面でごろごろと頬を動かすといった「行為」は、単に状況に似つかわしくない、疑いを抱かせるだけのものに見えるだろう。しかし、そんな信念は、周到にコントロールされた映像に囲まれて暮らしているわたしたちが知らず知らずのうちに持つ幻想に過ぎない。人の行動がそれほど簡単でないことは、イラク人質事件の映像を見ながら、夕餉のおかずをもぐもぐ口に含んでいる自分の行動を振り返るだけでもすぐに分かるはずだ。
深刻な状況で旨いものを食べるのが悪いと言いたいのではない。わたしたちは、そもそも「喜び」や「悲しみ」や「深刻さ」を誰かに向かって表わし続けるように生きてはいない。わたしたちの生は、ある一貫した感情や考えに従ってすべての行為を制御するようにはできていない。むしろそのような一貫性から生は漏れだし、一貫性を踏み越えていく。
今回の事件では、人質の様子を捉えるにあたって、図らずもパーソナルビデオで撮られたさまざまな映像が日本のマスメディアで流通した。解放時のビデオも、おそらくもともとはプロフェッショナルが撮影編集したものではあるまい。粗く切り取られた映像が被写体のどのような心証を表わしているか、わたしにはわからない。ただ、映像の中で三人は、食べ、飲み、話し、挨拶を交わしており、彼らの口はよく動き、そして、そうした活動を記念すべく撮影しているイラク人の撮影者が写りこんでおり、それだけで、わたしは「よかった」と思った。
夜、相方が佐近田さんから借りてきたフルクサスのビデオ「Some Fluxus」を見る。60年代のビデオを見てちょっと驚いたのは、観客の反応がすごくいいことだった。ちょっと意外なことが起こるとすぐに笑いがあり拍手がある。「東京ミキサー計画」で赤瀬川原平が書いているような、ある種の手応えのなさとか前衛の持つ暗さがあまりなく、とにかく協力的で暖かい。そのせいか、おさめられた作品の多くが「一発芸」的になっている。
中でおもしろかったのは、小杉さんの「マイクロ」だった。小杉さんが突然、透明なラップでマイクをぐしゃぐしゃにくるんで退場すると、すぐさま観客から拍手があって、いったんそこで出し物が終わったかに見える。けれど、じっさいはそのラップがじわじわと広がりながら音を発しているのに気づくと、観客がしー、しー、といいながら次第に黙り始める。
ぼくはこの「マイクロ」を、いま存続問題で揺れている芦屋市立美術館で見たことがある。そのときは確か、小杉さんの迫力に圧倒されて、誰も拍手するいとまもなかった。
今年から行動論の演習で学部生にwavesurferを使って音声・ビデオ解析をしてもらうことにした。それはいいのだが、 学部情報室のパソコン30台すべてにQuickTimeやwavesurferをインストールしなくてはならない。実験助手の高橋さんとかたっぱしからインストール作業。こういうときにキャスター付きの椅子はほんとうに便利で、ごろごろー、ごろごろーとあちこちのパソコンに座ったまま移動してインストールをチェック。
こころとからだ研究会は新しい院生の藤本さんのニホンザルのグルーミングに関する発表。嵐山のニホンザルで個体追跡法を数百時間に渡って行なったという膨大なデータ。そこから浮かび上がってくるのは、手近な相手のシラミをのんびりと取るといった従来のグルーミングのイメージとはまったく異なる現象だ。
これまで、グルーミングは劣位個体が優位個体に行なうことが多いとされてきた。ところが藤本さんが交尾期の非発情メスどうしのグルーミングを調べていくと、どうも優位個体が劣位個体にグルーミングすることが多いらしい。さらに、繰り返し同じ二個体がグルーミングをする「繰り返しペア」が存在し、このペアの間ではグルーミング時間がより長くなるという。この繰り返しペアでは、グルーミングする側(優位個体)は、目の前にいない相手(劣位個体)をわざわざ山を下りて探しに行き、近づいていっていきなりグルーミングすることもあるらしい。つまり、たまたま目の前にいた相手と「ま、グルーミングでも」と始めるのではなく、なんというか、やむにやまれず相手を探しに行き、ようやく当の相手を見つけると憑かれたようにグルーミングをする、ということらしいのだ。藤本さんはこの現象を、非発情状態の優位メスがグルーミング相手にあぶれて(交尾期ではオス・メスとも発情中の相手とグルーミングをすることが多くなる)、そのストレスでグルーミングを繰り返すようになるのではないかと考察している。
あとで飲み会でもあれこれ話したのだが、このニホンザルのグルーミングに見られる一途さというのは、人間の行動とはかなり違うなと思った。グルーミングは「コミュニケーション」とか「会話」にたとえられることがあるけれど、思い詰めた末に誰かのところに話に行って一方的に話をしおわってハイさようなら、てな風にふるまうことは人間にはあまりない。たぶん、人間の日常行動はもっと計画性がなく、出たとこ勝負で、さまざまな未来に向かって開かれている。
人質解放から一夜明けて、さっそく事後的な解釈があれこれ行なわれている。
政府関係者はこれを「撤退をしないと明言したこと」や「多方面に向けた対策」による手柄にしようとしている。前にも書いたし今日の武装勢力側の声明でも明らかだが、自衛隊を撤退しない、という小泉発言や、それに類する川口外務大臣や安倍幹事長の発言は今回の解放にまったく貢献していないし、むしろリスクを高めたはずだ。
日本の米国への協力要請の結果としてファルージャの停戦が実現したかのように報じる向きもあるが、ぼくの知る限り、日本側がそんなことを米国に持ちかけたという報道はこれまでなかった。モスク攻撃をはじめとする米国によるイラク人大量殺戮後、ファルージャでの一時停戦は、米国がエスカレーションを免れるために人質問題と関係なく必要な措置だっただろうし、停戦後も人質事件はいくつも起こっている。
政府が行なったとされるイラク・ムスリム・聖職者協会との連絡というのも、民間のネットワークによってつながり11日に報じられたイラク・ムスリム・聖職者協会とのコネクションにあとから乗っかっただけだろう。
各種報道から見る限り、今回の事件に対して日本政府は当初、ほとんどイラクの人々と「交渉」を行なわず、人質を事実上見捨てた。しかし民間ネットワークによるメディアを通じた働きかけにイラクの武装勢力側や聖職者協会が応じて、人質は最初の三日間を生き延び、救われた。
今回の事件を通じて、聖職者協会やドレイミ族など、これまで顔の見えにくかったイラクの人々の間に存在する具体的なネットワークが姿を現わした。逆にイラクの人々に対しては、日本の民間ネットワークの具体的な姿が明らかになり、日本政府の公式見解とは異なる多様な考えがあることが明らかとなった。「交渉」とはこのような事態を指すのではないか。この「交渉」を今後の財産とするのか、ただの事件として片づけるのかで、新たに起こった二人の人質事件の行方も変わってくるだろう。
朝からの作業に疲れて、外で昼飯でもと犬上川沿いに自転車を走らせていたら、やはり自転車で珈琲を飲みにいくところだった近さんと会い、そのまま小川珈琲へ。近さんとは大学院生の頃からのつきあいで、喫茶店でうだうだ話をするというのも、もう 20年くらいやっており、今日もいつものようによもやま話をしていたのだが、その話の最中にふと、白いカップに目をやると、コーヒーの表面がやけに光っていて、ああ、コーヒーはつくづく魅入られるような色をしているなと思った。こうしげしげとコーヒーを見るのは久しぶりだった。その間にも話は続いていたのだが、馴れた会話には、なぜか、そういう風に意識のたがが緩んでリアリティが浮き出してくるような隙間がある。
夜、人質解放のニュース。
今日も講義講義。大学院の講義では、「コップを探すビデオ」をじっくりねっちり解析する。数年前のビデオを、重箱の隅を生かすべくコンマ秒単位で見続けていく。ジェスチャー分析は毎日が「奥村さんちのお茄子」のようなところがあって、被写体である本人たちがとうに忘れた微細なやりとりをことばや所作から詰めていく。今年の大学院の講義は毎回、1分以内のビデオを一発話、一ジェスチャーごとに解析するという趣向。
夕方、上田くん、塚本くんと市民活動センターに計測に行く。湿った草むらの匂い。
昨日のオリエンテーションから今年は何かと忙しい。キャンパスツアーの引率やら院生室の整備やら会議やら実習やらでみるみる時間が過ぎる。毎年、平日のうち一日は講義のない日があったのだが、今年は前期にスケジュールをつめこんだ上、担当科目も増えたので、毎日何かの講義や実習がある。
気分転換に風呂の中で漱石の「文鳥」を読むといつもより染み入る。冒頭の三重吉とのやりとりで、「かう」という音が「買う」にも「飼う」にも転がるところなど、以前はさほどぴんと来なかったが、いまはその転がりが、こちらに文鳥が転がりこんでくる思いがけなさに重なって楽しい。以前にも何度か書いたが、漱石にはそういう「会話の聖性」があちこちにある。
うちの風呂文庫は漱石と西行と百間だが、最近、保坂和志の「<私>という演算」が加わった。風呂の外ではいま「カンバセーション・ピース」を読んでいるところで、これまたタイトル通り、家に記憶がまとわりつくように、ことばに記憶がまとわりつき、かわされることば、つまり会話に、あたかも転居者のように何かが転がりこんでくる。静かになると猫が二階屋の中を上下して会話を転がす。猫を飼っている者には、この猫が出てくるところだけでもすでにたまらない。相方は早や、この作家の猫連作を全部読み切った模様だが、ぼくのほうは遅々として進まない。
日曜の夜に、EZTVというCX系の番組を見たらイラクの人質事件を扱っていた。具体的には、最近露出度の高い大野元裕氏(中東調査会)がコメンテーターとして細かい解釈に真実味を与え、和田解説委員がそれを拡大解釈しながら話す、という構図であった。その内容、というよりも形式にはいくつかの徴候が見られ、興味深かった。
たとえば逢沢副大臣とともにヨルダン入りした政府の「TRT(国際テロ緊急展開チーム)」が、過去のペルー人質事件などの業績とともに(わざわざ「TRT」とは?などとCMをはさんで引っ張って)華々しく紹介されたのだが、さて彼らが今回何をしたかとなると、「情報収集」というごく曖昧な紹介がなされただけであった。
あるいは、和田解説委員が「ある意味で今回のできごとはひじょうにマニュアル通りに進んでいる」とコメントし、政府が昨年の自衛隊派遣以来、こうした事件に対してきちんとしたマニュアルを作っていることを強調していた。しかし、そのマニュアルに従って、具体的にどのような有効な対策がとられているかは明らかにされなかった。
現在、犯人グループが発している唯一の情報である声明文に関しては、その「くわしい分析」というのが行なわれた。そこでは大野氏が文章のごく一部、たとえば Hiroshimaや Nagasakiの綴りが間違っており、前の声明文と文の調子が異なることを指摘したあと、なぜか和田解説委員や森本毅郎氏が、声明文がやけにお粗末でつじつまがあっていないことをしきりと強調しようとしていた。
この番組には今回の事件をめぐるメディアや人々の捉え方がよく表われている。それは、関連性のほとんどない情報を手がかりにしているにもかかわらず、それを大きく取り上げることで自分たちは真実に近づいていると感じたい性癖であり、もうひとつは、声明文のようなあからさまに目の前にある情報を軽んじるという性癖である。ちょうど、霊能者や元FBI捜査官を登場させて未解決の事件の真相を探る番組が持つ傾向に似ている。
大野調査官の発言の根拠となっているのは、おそらく 中東調査会で為されている 「邦人誘拐事件に関する声明テキスト分析」だろう。私はアラビア語を知らないから、アラビア語の細かいニュアンスについては譲るとしても、その分析には声明文の出所を論じるにあたって、ややほのめかしが過ぎるところがあるように思う。また、和田解説委員や森本毅郎の反応は、大野調査官の話からさらに飛躍して、声明文を読み取ることじたいから離れてしまっている。
イラクに住んでいる者が「ヒロシマ」や「ナガサキ」の名前を知っていて、なおかつその綴りが不正確であることはそれほど不自然なことだろうか。日本を離れて日本について誰かと話したことのある人なら、「ヒロシマ」「ナガサキ」が「カミカゼ」「ハラキリ」と並んで外国でいかに有名かは知っているだろうし、いっぽうで、それを正確に発音・表記できない人がいかに多いかということにも気づくだろう(じっさい外国の絵はがきやその分類には日本の地名のスペルミスが多く見られる)。役所の文書ならともかく、簡単な声明文にいちいち正確な綴りは必要ないし、フルシマだろうがナザキだろうが、読み手であるこちらが広島、長崎と変換できる以上、別にさしたる不都合も不信も感じる理由はない。じっさいそれは広島、長崎と翻訳されているではないか(日本人だってシーア派だのスンナ派だのをきちんと発音・表記できる人はさほどいるまい)。
また、犯人グループ側の目にしうる情報はごく限られているだろうから声明文の論調が、アルジャジーラで報道される内容やウラマー協会経由で伝えられているであろう市民活動家の主張に引きずられるとしてもさほど不自然ではない。いっぽう日本政府の主張は「自衛隊は撤退しない」というもので、声明文の作成にとって参考になりようがない。また日本の「軍隊」の撤退を要求している点で過去の二つの声明文は一貫している。
以上の点を考えに入れて声明文を読むとき、(絶対に正しいとは言えないにしても)もっとも平明な解釈はこうだろう。
アルジャジーラによるビデオ報道とイラク・ムスリム・ウラマー(聖職者)協会からの連絡に接して、犯人グループ側に三人に対する態度の変化があった。ただし、彼らと米軍や日本政府との間にはこれまで何ら交渉はなく、あくまで米軍や日本政府に抗する形でこの声明は行なわれている。
とすれば、この2日間で解放が目に見える形で行なわれない理由として、この「米軍や日本政府に抗する形での」解放声明という問題が考えられる。ファルージャは米軍の攻撃で数百人の死者を出しており、いまもっとも米軍に対する憎悪の激しい地域だ。「アメリカに救助を要請できないのか」といったことをメディアで言っている人がいるが、人質がこの地域で米軍と行動を共にすることはむしろ危険を高めるだろうし、米軍もいまはそれどころではないはずだ。
また、日本政府と交渉が成立していない以上、犯人グループ側が日本「政府」に引き渡すという形も取りえない。情報が錯綜しているというより、ほとんど実質的な情報がメディアに表われないのは、犯人と交渉するための方策を政府が持っておらず、報道の情報源がほとんどないからだろう。
また、この声明の「決定事項」として掲げられている「日本人民に、可能な方法で日本政府に対し日本の軍隊をイラクから撤退させる圧力をかけること に貢献するよう求める」という要求が、彼らの目に見える形で実行されていない以上、やはり「決定事項」として挙がっている「人質の解放」についても、実現にはまだ危うさがあることが読み取れる。
それにしても興味深いのは、こうした事態に対して、政府だけでなくメディアが(そしておそらくは多くの人々が)目の前の情報を「見ない」ことを志向し、さらには自分に近しい者をより忌避するということだ。
メディアに表われる犯人グループの声明文と日本におけるメディア上の世論との間にはいくつか奇妙なねじれが起こっている。
ひとつは犯人グループの側が三人に理解を示す声明を出すと、逆に日本では交渉の可能性を疑い、さらには三人に非難の矛先を向ける論調が起こるという事態である。たとえば三人の実家に嫌がらせの電話がかかっているという報道や、ネット上で「自作自演」を噂する風評がそれにあたるだろう。
もうひとつは、安倍幹事長の「自衛隊による出動によって人質を救出できるよう法改正をすべきである」といった発言に見られるような、今回のできごとの解決策とはまったく逆の方策に正当性を与えようとする考え方である。これまで、「自衛隊駐留」を唱える政府は何ら人質解放に関する成果を出しておらず犯人グループとの交渉にも成功していないが、いっぽう、交渉を続けた家族なり市民活動家なりのメディアを介した活動によって、とにもかくにも「声明文」が発表されている。ところが、安倍幹事長は成果の出ているやり方にまったく価値を与えず、成果の出ていない方策を逆に唱えている。また、いまやアメリカでブッシュ政権の政策に異を唱える人が過半数を越えているのに対して、日本ではなぜか小泉政権への支持がわずかながら高まっている(NHKの9-11日の世論調査)といった傾向にも同質のねじれが感じられる。
安倍幹事長は、北朝鮮問題についても「一元化」や「入港禁止法」といった考え方を強力に推し進めている。これらの彼の考え方には、相手との交渉の可能性やつきあいをできるだけ忌避しようという性癖を読み取ることができる。
問題解決の可能性が限られていくとき、それをより選択肢が減っていくと感じるのではなく、より事態が解決に向かっていると感じ、解決に向かう感覚を得たいがゆえに自ら可能性を減らしていこうとする。これは、人の考え方が陥りがちな型のひとつである。安倍幹事長の考えにもそうした感覚が取りついているように見える。
目の前の情報を見ないこと、交渉を疑い、交渉の可能性を閉ざし、目の前の成果を否定すること。これらの傾向はいずれも、コミュニケーションのチャンネルを閉じることがそのまま真実に近づいている感覚を引き起こしているという点で共通している。メディアに反映される日本の世論は、コミュニケーションのチャンネルを自ら閉じることで「真実に近づいている自分」を得ようとする傾向を持っており、それを体現した政府をわたしたちは抱えている、ということだろう。
外界とのチャンネルを閉ざすことで真実に近づく自分をより実感しようとする。このような傾向を指してかつては「オウムのような」という形容句が用いられたはずだった。オウム的なものは終わったというよりも、より根深くメディアとわたしたちに浸透したというべきかもしれない。
朝、TVで人質24時間以内に解放のニュース。まだ予断を許さないが事態はひとまず好転した。それも、人質を取った者たちからの表明という思いがけない形で。 どうやらアルジャジーラをはじめとするいくつかのメディアで流された情報、そしてイラクのネットワークを通じて伝えられた三人の立場に関する情報がこの解放のニュースにつながったらしい。
仮に彼らが無事戻るとするなら、ますます自衛隊は撤退すべきだろう。もはや「取り引きによる撤退」という足かせすら無くなったのだから。サマワで引きこもっている自衛隊に実質的な国際貢献などできはしないし、そのあいまいな軍隊性は引き続き「日本」というレッテルを持つ者を危機にさらしていることに変わりはない。
今回の解放が日本政府の方針および自衛隊の駐留に反対する形で行なわれたことは犯人の声明からわかる。駐留を主張し犯人の要求を無視した小泉首相をはじめとする現政権の方策はたいへん危険なものであったにもかかわらず、政権政治とは異なるネットワークを通じて、かろうじて解放が起こったと見るべきだろう。
新幹線で東京へ、地下鉄駅国会議事堂前で下車。開始予定の12時少し前だったので、もしかしてすごい人だったらどうしようと思っていたが、地下鉄構内は人はちらほらという感じだった。それでも衆議院議員面会所前はいっぱいで、ようやく中に潜り込む。12:00の時点では 2500人ということだった。
集会はワールド・ピース・ナウの高田健氏のコメントで始まり、(まだ気を許せない状態ではあるが)今回の解決が政府の力ではなく、あくまで市民団体やNGOによる活動、そして一部のマスメディアのレベルで解決されたものであることが強調された。また、米軍による救出行動が仮に行なわれたならかえって事態を悪化させただろうし、まだその危険は残っているということも指摘された。解放の可能性はすでに昨日の午後3時には手元に届いていたが、安全のために公表できなかったとのこと。
そのあと、各団体の署名運動の報告や、協力議員のコメント、そして今回の解決に尽力したイラク人民主化潮流情報室のアッラ・アル・アミ氏の声明が読み上げが行なわれた。
12:40ごろ、高遠・郡山・今井三氏のご家族の方が入られて場内からいっせいに拍手が起こった。各ご家族から聴衆を前に感謝の意が伝えられた。 家族からの声明文も配られたが、そこには「我々の家族の解放に尽力いただいたアルジャジーラとイラク・ムスリム・ウラマー協会をはじめとする、世界中の仲間に対して、心からの感謝をささげます」とあり、政府に対する挨拶はなかった。また、「解放の速報以前にワールド・オファーより配信された川口外務大臣のコメントに対して、その文中に使用された『怒り』・『わが国の自衛隊もこのために派遣されているのです。』という表現を、配信以前に削除することを要求しました。削除することができないなら放映の中止を求めました。」とあった。
昨日来、政府が明らかにしてきた方策は、ヨルダンのアンマンに対策本部を置いた、あるいは関係諸国に協力を要請した、といった、ほとんど効力のない内容に感じられたが、このご家族の声明文からもそのことは裏付けられているように思う。また、川口外務大臣の発言は、サラヤ・アルムジャヒディンによる解放についての条件が「日本国民による自衛隊の撤退」であることを無視している点で、まだ安否が確定しない三人にとってきわめて勝手で危険なコメントであることも示していると思う。
議員面会所での集会は1時間ほどで終わり、そのあと表の歩道に集まった人々が並び(これにけっこう時間がかかった)、高田氏の「あのう、市民団体、個人、みなさんそれぞれ自発的に来ておられますからシュプレヒコールというのはなかなかなじまないかもしれませんけれども、こういう場面ではたいへん便利なパターンでもあるんですね」という呼びかけで、二度、合計10分ほどシュプレヒコールを行ない、「行動」は2時で解散。各派合同自主参加ということもあるのだろう、行進はなく、内容はごくコンパクトだったが、だらだらと無駄なところがなく、いい集会だと思った。
神保町に出て、三省堂の下でやっていたフェアで絵はがきを漁り、夕方には新幹線に。
最近、音声記録のためにiPod専用のBelkin製マイクを使っているのだが、このマイク、自動入力レベル補正がないのでよく音割れする。集会のあいだずっと録音していたのだが、シュプレヒコールが全部音割れしてしまっていていた。
20:00時点でまだ事態は解決していない。米軍の攻撃はさらに事態を悪化させており、予断を許さない。
私は東京の首相官邸緊急抗議行動の呼びかけ
に参加することにする。今回のできごとに関して何かアクションを起こそうと思うみなさん、そこで会いましょう。私には今回の事態に対するデモや抗議行動がいったいどのようなものなのかを見たい、という蓮っ葉な好奇心や社会学的な興味がある。そのような好奇心や興味をやましく思わない。むしろそのような気持ちを利用して構わないと思う。このタイミングを逃せば、もう次はない、と考える。
地元や近い場所のデモに参加する方法もあるだろう。あるいはここ彦根でデモをすることもできるだろう。それぞれの人ができる範囲のことをやればよいと思う。私は東京での特定の場所がより政府へ強いインパクトを与えるだろうと考える。幸い次の日曜に東京に行く時間的経済的余裕があるので東京に行く。幸い気軽にデモに行けるロケーションに住んでいる人は行きましょう。
あえて現在の政府がとっている政策を「(何者かへの)戦い」であるとしよう。戦いには「撤退」という選択肢がある。撤退の時期を誤る者は長期的にその国を危機に陥れる。敵に塩、などということばは、じつは党派のつまらないメンツにこだわった短期的な言説に過ぎない。ここまでの政府の対応の是非をうんぬんすることはもはや遅いし、これまでの対応を維持する必要もない。いま撤退することがこの国の最大の利益になる。それが決断できない現在の政治はもはや機能不全に陥っている。機能不全に陥っている、ということを知らせよう。
夜、話題の「白いソナタ」を初めて見るが、こ、これはほとんどむかしの乙女ちっくまんがではないか。 70年代の青春ドラマからヒゲ剃りあとを取り去ったようなつるつるの内容で、へなへなになる。とかなんとか言いながら最後まで見てしまったが。
自衛隊は即時撤退すべきである。ずっとそうすべきであった (20031209)。タイミングが今ではいけない理由はない。今ほど求められているときはない。
今撤退するならば、自衛隊は「国民」の命を救うことができるかもしれない。それは「国民」を守るという自衛隊の機能を十全に果たすことになる。現在の自衛隊のイラク駐留はイラク復興に役立つどころか、イラクの人々との友好的な活動や交渉の可能性を本質的な危機にさらしている。
いまの日本政府には、このような事態に対して、誰に交渉したらよいのかすらわからない。おそらくは犯人のみならず、該当地区で誰かと折衝するということすらおぼつかないし、相手にも確たる組織がないのだろう。現在の日本政府には、残念ながらイラクの人々とまともにつきあうパイプがないし、イラクにも受け入れる母体がない。そのような相手に対して国家による「復興支援」などできるはずがない。即時、自衛隊を撤退し、まずイラクの人々との交渉の基盤作りからやり直さなくてはならない。
テロが国家のいちばん繊細で脆弱な部分を狙うことは911ですでに明らかになったし、「テロとの戦い」なるものが実際のテロ行為の増殖につながる (20010927)ことは、イラクをめぐるこの1年で世界が体験している。
日本人が人質に捉えられていることでこれほど背筋が凍る思いをする自分には、やはり想像力が欠如していたこと、連日のようにイラクの民間人や米国人の死者が出ていることに麻痺していたことを素直に認めよう。が、もはやそれどころではなくなった。
この3日が、今後のこの国の行方を決定するだろう。小泉首相や福田官房長官の言動は、これまでも人の死を悼む身振りをしながら、人の死への鈍感さを露呈してきた (20010927, 20031113)。もはやこの政権にはノーを出さなければならない。そればかりか民主党の岡田幹事長は「敵に塩を送ることになる」という、まるで身代金誘拐に対して金を出し惜しみするような奇妙な理由のもとに即時撤退に反対しているという。他力に屈する政府の弱さよりも、これまで自衛隊派遣を止めることができなかった自党の弱さこそを悔い、即時撤退を求めるべきだろう。
早くもさまざまな業務。その合間にできることを。 彦根絵はがきのページを作る。今後の「風景探偵・彦根計画」の足がかり。
夜、ブニュエルの「自由の幻想」を見たあと、TVに切り替えるとイラクで人質事件の報道。まだ事の詳細は明らかではない。うすうす感じながら見ることを避けてきたことが起こった。もう見ずに済ますことはできない。18歳でイラクに赴いた子が囚われている。明日は新入生を迎えなければならない。
文藝別冊「田中小実昌」に、彼の「姦淫問答」が収められていて、これはポロポロより前の作なのだが、ポロポロとほとんど一貫したスタイルで書き進められていて驚いた。思い出せてしまうことを疑う、というプロセスを書く。なんでもかんでも疑うというのではない。むしろ自分が何かを整えようとする力を測り、それを逆にとる。何かを整えようとする力はしばしば意識から逃れるので、これはとてもむずかしい。
日記には、時間をおかないのをいいことに、思い出すのをためらわないようなところがある。想起の多幸症。いましがたのことを書きながら、もう忘れたことだって沢山あるのだが。
いい陽気だ。来週からはハードな日々が始まるが、それまでは多少ゆっくりできる。
ExcelのVBAをいじって、時系列データをトイレットペーパー状のグラフにするマクロを書いた。VBAをいじるのは初めてだが、変数の指定もきわめてアバウトでよく、ぼくには向いている。なんといっても変数名になんぼでも日本語が使えるのがありがたい(アルファベットだと後から見てもさっぱり思い出せない)。試しに手元のデータをもとに実行させてみたが、多人数会話の状況がひとめで見通せて驚いた。グラフの力だな。Windowsで実行できればけっこう汎用性もある。近々公開予定。
イラクはいよいよ予期できぬ危うさを帯びてきた。いくら自衛隊がボランティア団体であるかのようにふるまったとしても、軍備をしている以上、それを発揮するかしないかの判断を迫られるときがくる。なぜ、そういう事態について考えないフリをするのだろう。
「報道ステーション」、古館伊知郎のあざとい言い回しは封印されているものの、「サマワ」とか「バスラ」といった声の抑揚から、どうにもこうにもリングサイドな空気がもれてしまっている。やけにてらてらした照明もなにやらリングサイドである。彼は言わないだろうし言うつもりも毛頭ないかもしれないが、ぼくの頭の中では「さあ、この地サマワでもまた、壮絶なバトルが繰り広げられてしまうのか」というような声が聞こえてしまった。それで、ぼくには縁のない番組だと思った。
起きたら寝汗をどっとかいていた。いつもならだいたい寝汗をかいた翌日には治っているのだが、今度の風邪はどうもしつこい。
絵はがきプロジェクトのため、上田君と市民活動センターの二階に下見に行く。昨日とはうってかわって快晴で、桜見にはうってつけの日和。ここはヴォーリス建築のひとつで、旧彦根行動商業学校外国人教員住宅にあたる。あやうく取り壊されるところを保存が決まったと聞く。柱の線を強調した洋風建築。文化財指定とのことなのだが、今後どう維持していくのか、いろいろやることがありそう。
文藝別冊「田中小実昌」特集が届く。いまから見るとぼくの文章はフヌケていて格好つけにこだわっており、居心地が悪い。しかしそれが一ヶ月前のぼくだったのだろう。
すごい寝汗をかく。朝八時にホテルを出てバスで仁川空港へ。ソウルでは毎食戦ったな。空港の安いサンドイッチを食い、へなへなした食生活に備える。
飛行機が朝鮮半島を横切ると東沿岸で雲がきれいに終わっていた。そこから海を隔てて、島根あたりに近づくと、また分厚い雲が近づいてきて、日本上空では水平線まで一面白い雲だった。低気圧を過ぎているのか風邪のせいなのか、耳がおしつぶされるほど痛くなる。
午後三時ごろ帰宅。ソウルもたいがい寒かったが、彦根も同じくらい寒い。格別何をする気も起こらず、早めに寝る。
昨日にも増して頭は重い。いよいよ本格的に風邪らしい。しかし食への関心だけがこの体を持ち上げる。
近所で冷麺を食ってから弘大までぶらぶら散歩。昨日食べた焼き肉屋の前を通りかかって驚く。金網に白いものが大量にぶらさがっていて、昨日は夜目に、おみくじか何かがくくりつけてあるのかと思っていたのだが、白日のもとで近づいてみると、なんと白の軍手が大量に干してあった。
この軍手の列が、夜ごとあの重たい金網をつかみまくっているのだ。
そういえば漢江の向こうに行ったことがないなということで、夢村土城にある写真ギャラリーへ。あいにく休館日だったが、ちょうどキュレーターの人がいて、特別に展示替えの最中の写真を見せてくれた。数分から数日まで、さまざまな時間を積分したポートレート。表情のぶれに、持続することの緊張のありか。
観光の定番、南大門市場へ。折からの雨で、あちこちに綱が渡され、布が張られる。傘がよく売れている。表はいかにも土産物屋だが、古くからあるらしい路地がそこここに空いている。ヨーロッパの路地なら気圧されるところだが、逆に誘われるように入る。地元の人向けらしき店が点々と並んでいて、こちらのほうがずっと目になじむ。
通りかかった一軒の表にチゲが並んでいるのがいかにもうまそうで、中を覗くと客がいっぱいだったので、ここで晩飯を食うことに決める。
指さされるまま奥に入ると転げ落ちそうな狭い階段があって、二階は蚕棚のごとく天井の低く、そこも満席で、さらに三階にのぼると先客が一組いて、もうひとつテーブルがひとつ空いていた。何を頼んでいいかわからないので隣の人が食べている真っ赤なやつを指さして、もうひとつ、表で見た黄色い鍋を指すつもりで下を指して指を一本出すと「ケーランチム?」という答えが返ってきた。チムはわからないがケーランは鶏卵だろう。
そしてやってきた真っ赤な鍋をつつくと、意外なことに白身の魚だ。長くて細いがなんだろう(あとで佐藤さんに聞いたら「タチウオ」だったらしい)。これが辛いわりにさっぱりしていてやたらと旨い。そしてこの魚の下にはいちめんに大根が敷き詰めてあり、これがまた魚のダシを吸って、あら煮における大根のごとくいい味になっている。ここはアタリだった。
いっぽう黄色い鍋のほうは、じつはまるごと卵焼きだった。こちらは塩でごくあっさりと味付けがしてある。赤い鍋と交互に食うと絶妙なバランス。なるほど流行るはずだ。
とはいえ、風邪気味でいまひとつ調子が上がらず、食いきるころにはへとへとに。すると、やはり食い終わってリラックスしている隣の客が「オレンジ○○○?」と分けてくれた。つい当たり前のように「カムサハムニダ」と受け取ったが、考えてみると、こういうところで持ってきた果物を分けてもらうというのは日本ではあまりない。
かといってそれがどうも「韓国ならでは」な感じがしない。先方はぼくたちが日本語をしゃべっていたのを聞いているはずなのだが、当たり前のように韓国語でオレンジを差しだし、こちらも「オレンジ」のところは分かったのですいと受け取ってしまった。先方もこちらも床にぺたんと座っている間にオレンジが置かれて、なんだか地続きならぬ床続きな感じになった。さっきから先方とこちらだけで一部屋にいたので、いまはまるで一組で食っていたかのように空気がなじんで感じられるが、はじめからそうだったわけではなく、オレンジが置かれたせいで、その時点から遡った以前まで空気がなじんでいたように感じるのだろう。
ライブまでちょっと間があるので、同僚の印南さんがデザインにかかわったというバーに行ってみる。アメリカ大使館の横でタクシーを降りるとものものしい警戒で、歩道にたてかけられている楯の間をくぐるように歩いてしばらく行くと、O'cornerというビルに洒脱なカフェがあって、その地下がBAROというバーになっている。赤を基調にしたしゃれたデザイン。イタリアン・ワインやモルトがやけに充実していると思ったら「インナミ・コレクション」なんだそうだ。韓国は酒税が高いので酒類は東京と同じくらいの値段。気持ちのいい空間ですっかりごちそうになってしまった。彦根の屋台バー「No Quiet」の辻本氏も以前印南さんとここに来たらしく、彼がカウンターに入って大活躍だったらしい。こんなに彦根在住の人間が来るバーはソウルでは珍しいかもしれない。
三一路チャンゴ劇場でI.S.O.(一楽儀光・Sachiko.M・大友良英)のライブ。
まずはHDのノイズをぴごぴご鳴らすチェ ジュニョン+ホン チョルギのユニット。HDを持ち上げて試すように音を鳴らすのが楽しい。
そして佐藤さんの演奏。途中、おとつい佐藤さんちでカセットに録音した「ふなずしの唄」がほぼまるまる流れて驚いた。佐藤さんの演奏はあたかも韓国料理のテーブルのごとく多彩かつサービス精神がある。
I.S.O.の演奏はことばで表わしにくい。なくなってありがたみがわかる空気をなくした感じ、ととりあえず書いておくが、これではなんのことかわからないかもしれない。音が鳴るときよりも、音が止んだときに何かある演奏。
あとで大友さんに「あの、がっがっぐーんって音がよかった」と言ったら、オートリバースのターンテーブルでアームが外側に戻ろうとするときの音だったらしい。
近くの店で打ち上げ。サムギョプサルという豚肉の三枚肉を食す。つけだれではなくゴマ油に塩がでてきた。日本ではレバ刺しを食うときにごま油と塩の組み合わせをつけるが、豚を焼いてつけるとは思わなかった。キムチを焼いて一緒に食うとうまい。ウニさんいわく、「韓国はどんどんこうやって食べるからおいしいね。日本で女の人はおすまししてどんどん食べないことがあるけどあれはおいしくない」んだそうだ。おいしさにはそもそも食べる勢いというものが伴っている必要があるらしい。それはこの三日間でなんだかわかった。
大勢で食ってるときにカプサイシンで体が一気にほてってくる体験というのは、たとえものを食べていないときでも体にわきおこってきうる感覚だろう。これまで焼肉パワーとかキムチ感覚とかいうことばはただの冗談だと思っていたが、どうもこの感覚は本物ではないか。あのワールドカップの狂乱はやはり焼肉ととうがらしを大勢でがーっといく体験と重なっているのではないかという気がした。
さすがに体は限界。夜半近くに宿に引き上げる。
就寝前、テレビショッピングを見ていたら、墓の宣伝が始まった。どうやらメインの墓石をはじめ、花立てや水鉢など、組み立て簡単、基本的でお得な墓石セットの紹介らしい。1980000ウォン、つまりざっと200000円。少なくとも日本の標準からすれば激安ではあるが、それにしてもテレビショッピングでこんなものまで売るとは。
山を切り開いたあとらしき、茶色い下草の生えた殺風景な場所へ、その墓石セットを組み立てて拝んでいるところが何度も写るのだが、あまりに回りに何もないので、なんだか奇妙な感じがする。これはロケゆえの風景なのだろうか、それとも韓国の墓所とは、かように殺風景なものなのだろうか。
どうも昨日から咳き込むと思っていたが、起きると頭が重い。二日酔いかと思ったが、どうやら風邪らしい。昨日のトーストを朝飯に食う。風邪でも旨い。
11時に佐藤さん宅へ。さっそく昼食にビジネス街麻浦地区にあるサムゲタンの店へ。なんか食ってばかりだな。高麗人参酒をきゅっとあおりながら噂に聞く「うるし」入りの黒いサムゲタンというのを食う。日本で食うサムゲタンと違って、スープはごく薄味(とは言っても風味は深い)で、塩を入れて味をととのえていく。鳥肉にも好みで塩をつけて食べる。これは風邪に効きそう。そして旨い。一人一鍋も食えるかと最初は思ったが、みるみる鳥の骨が積まれていく。
佐藤さん、一楽さんといったん別れていったん宿へ。
それにしても、こちらに来て驚いたのは地下鉄だ。外国の地下鉄というのはスリが多かったり、暗かったり、暑かったりと、多少なりとも油断ならない気分にさせられるものだが、ソウルの地下鉄ではそういう緊張が皆無といっていい。日本のように、寝ている人もときどきいる(電車で寝る風習は日本だけかと思ったら韓国にもあるらしい)。利用客の人々の適度にだらだらした感じに感染してこちらもリラックスする。地下鉄でこんなになごんでいいのかと思えるくらい、ノー・ストレスだ。日本と違うところといえば、目や足の悪い人がカセットテープでテーマ曲を鳴らしながらやってくるところぐらいだろうか。
さて絵はがきに興味を持つものとしてはぜひ郵政博物館に行きたかったのだが、なんと博物館のあるはずの中央郵便局は改装中で、再オープンは2007年とのこと。念のため少し離れた仮局まで行ってみたがけっきょく博物館はやっていないことが分かった。
あきらめて仁寺洞に移動し絵はがきを物色。あちこち見たが、古絵はがきを専門に扱う店というのは見あたらなかった。一軒、戦前の絵はがきを扱っている店があり、戦前のソウルの写真絵はがきが置いてあったのであれこれ見たが、なんだか70近いと見える主人の前で日本統治時代の絵はがきを物色することじたいがためらわれて、あまり気を入れて見ることができなかった。
結局、無難に切手カタログを買う。1890年代の郵便印や切手が載っていて参考になる。出がけに「アンニョンヒケセヨ」と声をかけたら主人は「ありがとう」と日本語で言った。
伝統喫茶でナツメ茶を飲む。旨い。起きてからずっと旨くて健康によいものを飲み食いしているようだが、あいかわらず頭が重い。たぶん日本だったらぶっ倒れて蒲団をかぶっているところだ。昨日来のカプサイシンと高麗人参効果によってふらふら体を持ち上げて歩いているに過ぎない。
みやげもの屋でなんだかヒマだったので、つい「コンピューターはんこ」を試してみる。せっかくだから覚えたてのハングルで自分の名前を書いて彫ってもらうことにした。???てなぐあいである(いまハングルを試しに打ってみて気がついたが、パソコンのキーボードでは、左手が子音、右手が母音を担当しているのだな、機能的だ)。
係の女性はすぐに端末からハングルを入力、すると、おまかせメニューにいくつかデザインが現われて、フォントや線の太さなどを簡単に指定できる。コンピューターの指令を受けた彫刻機は、まず針を付きだして印鑑の丸い断面を縦に横に二回ずつなでる。どうやらこれで縦径横径とその位置を割り出しているらしい。頭のいいやつだ。こういう機械は数年前から導入されてソウルのあちこちにあるのだという。
じきに、今度は刃が登場しチュインチュインとナツメの木を彫っていく。画面では掘り終わった場所が黄色で示される。ものの三分で文字のまわりは黄色くなり、ハンコのできあがり。なかなかかっこいい。しかしよく考えてみると、このハンコ、日本で使っても役に立ちそうにない。
さすがにくたびれた。ゆうこさんは汗蒸幕(ハンジュンマク)に行き、ぼくは宿でひと寝入りする。やたら汗をかく。
夜八時、大友さんとさっちゃんが明日のライブを前に到着。さっそく新村から弘大方面に歩いたところにある線路脇の焼肉屋に。昨日の焼肉屋も旨かったが、ここはまた、もの凄い活気だ。百個はあろうかというテーブルにびっしり人がいて、みんな焼肉を食っている。
各テーブルには炭火コンロがあり、その上にすのこ状になった網を二つ直角に重ねると目の細かい格子になる。この上に、熱すべきものすべてが置かれる。ご飯の鍋もテンジャンチゲもニンニクを持った金皿も、そしてもちろん肉も。白い軍手をしたおばちゃんがやってきて、これらすべてが乗った熱い網を片手でぐいと持ち上げ、新しい網の上へと順々に移動させていく。作業が終わるとまた次のテーブルで同じことをやる。鉄鍋が二つも載った網を片手で持ってよくひっくり返さないものだと思うが、頼もしい二の腕を見ているうちに、これはひっくり返らないものなのだと納得する。
肉をつまみあげては口に運ぶ。ステンレスの箸が重たい。腱鞘炎になりそうなほど食った。
みんなで伝統酒場に行き、マッコルリを飲みつつなごむ。なごむとは言っても口当たりのよいマッコルリを飲むほどに酩酊は激しくなり、ふらふらになり宿に戻る。
近くのコンビニで買った高麗人参味の仁丹らしきものを口に含み、せっかくのマッコルリ酩酊を人参で醒ましつつ、宿の入り口に並んでいたビデオテープ(全部貸し出し無料)からとってきたエロビデオを一本見てみる。ほんの1分ほど前振りがあったと思ったらさっそく性交場面となる。なんとも単刀直入だ。胸の薄い女が単刀直入であえいでいるのを見ると、ついこないだまでラス・メイヤーばかり見ていたこともあって、どうにも切なくなってしまい、途中で寝てしまう。
午前10時半に家を出発、彦根から車で小牧まで。途中、事故渋滞でひやひやしたが、結局一時間半で空港についた。チェックイン・カウンタも出国手続きもさほど人がおらず、手続きはいたってスムーズ。機内で韓国語の本を読みながらにわかハングルの勉強。ハングル文字はシステマティックで、1時間ほど読み込むと、とりあえずたどたどしくではあるがおおざっぱに読めるようにはなった。もっとも激音とか濃音とかはよくわからないのでとりあえず区別せずに考えることにする。
3時半には仁川空港着。あまりに早くて外国に来たような気がしないが、まわりはみんなハングル文字である。
表には佐藤さんと一楽さんが待っていてくれた。
当初はただのノン・スケジュール観光で来るつもりだったソウルだが、ゆうこさんは直前にソウル在住のロックミュージシャン、佐藤行衛さんに連絡。すると、ちょうど佐藤さんがオーガナイズするI.S.O.のソウルライブが近々あることがわかり、まさにぼくたちと同じタイミングでI.S.O.の一人である一楽儀光さんが仁川空港につくということがわかり、それなら一緒に飯でも食べよう、ということになった。
飯でも、というと軽く聞こえるかもしれないが、じつは佐藤さんは「コリアン・スタイル」(光文社知恵の森文庫)という本で食の項を一人で手がけている、知る人ぞ知る韓国食の通である。なんて間がいいのだろう。
新村のホテルにバスで移動。ふつう外国に来ると、まず注意をひかれるのは風景なのだが、目の前を過ぎるハングル文字の看板が、ことごとく何かを訴えかけてくるような感じがして、ついそちらに目がいってしまう。もっとも10秒くらいじっと見つめてようやく一文字か二文字読める程度なので、読み切らないうちに看板は過ぎ去ってしまう。やっと読めても「ティジタル」とか「クリニク」とか「サムソン」だったりして、しかもよく見ればハングルで読まずとも横にアルファベットで書いてあったりするのだが、初学者にとっては、答え合わせができたような気がしてちょっとうれしい。
ホテルで一服してから、佐藤さん、ウニさんのお宅へお邪魔する。一楽さんは何度もここに来ているらしく、すっかりくつろいでいる。さっそく韓国ビールのHiteをぐびぐび。ペコペコのボトルに入っており、のどごしはごく薄いが、味の濃いものと合わせるとけっこういける。マレーシアで飲むアンカービールを思い出した。旅先のビールは旨さ五割り増し。
ウニさんの知り合いの女性に「シルレします、おいくつですか」と日本語で尋ねられて、ちょっと親近感がわく。というのも、行きがけの飛行機の中でぼくが最初にノートに書きつけた文のひとつが「失礼(シルレ)ハムニダ」だったからだ。漢語にハムニダをくっつけるだけのハムニダ文は覚えやすい。そこで「失礼ハムニダ」「付託ハムニダ」「感謝ハムニダ」などと、簡単なフレーズの中からハムニダ文を列挙して覚えようとしたわけなのだが、逆に韓国語から見ると、漢語に「します」のついた、いわば「します文」は覚えやすいのかもしれない。
佐藤さんの案内で、近所のテジカルビの店へ。
テジカルビもなにも予備知識がないので、すべて佐藤さんまかせなのだが、とにかく旨い。そして量が多い。テーブル一面にサンチュやらキムチやらサムジャンがところ狭しと並ぶ。そして、ちょっとでもこびりつくと店の人がすぐに網を換えに来る。肉も次々に足され、ハサミでジョキジョキになる。わんこそばならぬわんこ肉。わんこ肉、では「かわいいわんこ肉」のようだが、これは狗肉ではなく豚肉。豚肉だがこれまで食べたあらゆる豚肉より焼肉である。
佐藤さんによれば、目の前にあるいろいろ小皿からいろいろとってサンチュに乗せて、それを包んであーんと食べるそうだ。確かにこれをやると、じつに味わいが増す。これまでキムチはご飯の付け合わせだと思っていたが、豚肉・ニンニクと合わせて食べると、いわゆる豚キムチ以上にキムチのうまみがよくわかる。
小皿のひとつにかなりどぎつい緑色をしたのがあるので何かと思ったら、これは粉わさびに浸したうす切りの大根漬けで、わさびというにはジャンクな味だが、豚肉と合わせて食べると意外なさわやかさだ。
一楽さんと佐藤さんがずんずん食べるので、テーブルの上も向かいもいかにも旨そうな景色になる。うちの猫が人が食事をするときに限ってにゃあにゃあエサを求めてうるさいが、あの気持ちが少しわかる。ふだん焼肉屋ではさほど食べないのだが、釣られてもうええっちゅうくらい食べた。
腹ごなしに弘大近くへ。佐藤さんはデザイン事務所「Sputnik」(ここのキム・サンマンさんは「JSA」のポスターを担当している)にISOのポスターを取りに行き、それを近くのライブハウスに置きにいく。つまり佐藤さんは営業をしつつあちこち回っているのだが、それがわれわれにはソウル案内になっているという段取りのよさ。
そのあと、さらにてくてく歩いて佐藤さんお気に入りの酒場へ。アナログがずらりとカウンタ内に並んだ酒場では、70-80年代の韓国「ロック」がかかりまくり、自然と古い歌謡曲の話になる。驚いたのは、わたしがなにげなく言った「まりちゃんず」という固有名詞に佐藤さんと一楽さんがえらく反応したことで、佐藤さんは「ブスにはブスの生き方がある」を熱唱しはじめるし、一楽さんは初めて買ったレコードがまりちゃんずであったという。
日本でなら、ここでお開きになるところであるが、さらにこのあと、新村まで戻り、「この上プリン体入りまくりの食い物を食いますか」というわけで「ウシのひざがしら」のスープ(トガニタン)というのを食う。テジカルビがまだ腹にたまっていたが、歯ごたえが楽しく、軟骨好きのぼくはけっこう食べてしまった。
ゆうこさんとぼくはさすがにここでリタイア。佐藤さんと一楽さんはさらなる食の彷徨へと向かった。
明日の朝飯用に、宿の近くの屋台にトースト屋があったのでそれを焼いてもらう。
鉄板にトーストを十枚ほど並べ、裏表をあぶる。手に持ったフライパン返しで熱を含んだトーストをぽんぽんと叩くのだが、これが蒲団を叩くように景気のいい音がする。
よく焼けたらトーストを一カ所に積み上げて、空いた鉄板で今度はとき卵で小さなお好み焼きをいくつも作る。これはトーストの数の半分。かたわらでランチョンミートをあぶるがこれまたトーストの数の半分。卵焼きができたところで「これふる?」(と、たぶん言ってるのだろう)とザラメのようなものをかざして尋ねるので、うんうんとうなずくと、卵焼きの上にばらばらと振られていく。さらにその上にスライスチーズが乗り、ランチョンミートが乗り、さきほどのトーストの山からカードを引くようにフライパン返しで一枚また一枚とさらっては卵焼きとランチョンミートをはさむ。ぽんぽんさらさらと耳に楽しい食べ物だ。食べるのは明日。